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一の段 あやめも知らぬ 蝦夷島へ(一)
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これが、天正十年七月のことであった。
話はさかのぼらねばならない。織田信長がまだ生きている頃である。
あやめと蝦夷島との最初の縁ができたといえるのは、まだ子どものころ、堺の今井家に育っていた日のことである。信長の伝記でいえば、上洛を果たし、堺を手に入れた勃興期のころといえるだろう。
堺にも、蝦夷は昔からいる。
湊に蝦夷の船が入ることはなかったが、蝦夷商人の何人かが時々やってきた。
かれらの刺青を入れた異相や飛びぬけてあでやかな衣服に、群衆にまじって遠巻きに彼らを「見物」した幼いあやめは、恐ろしいと感じている。
だが、やがて南蛮人に親しむようになると、北の涯から来るというかれらが、それほどのバケモノにも見えなくなった。
あやめが数えて十を過ぎたころ、織田様が敦賀を御たいらげになったとかで、お店もエゾ地相手の商いをはじめられるのです、とその頃近くにいたコハルが教えてくれた。朝倉様のものだった三国湊が、織田様のものになりましたから、と。
三国は、当時最大級の貿易港であった。いまでいう日本海の東西の流通の結節点であり、琵琶湖を通じて都や伊勢湾、尾張、東海にもつながる。
三国湊に着く蝦夷船から、琵琶湖を経由し、京を経て堺まで足を延ばす蝦夷の商人が、また、ぼつぼつと増えはじめた。
算盤や算用帳を店の奥で手の空いた手代などに習っていると(「また遊んでおるな」と長兄の宗薫などにはからかわれ、姉たちには「お前は手代の何某の御嫁にでもなるのかえ」「まさか、そうしていれば、いつかお店の一つも貰えるつもりかえ」などと蔑まれたが)、この異人たちが店を訪れるのに出くわしたことも多い。
まだ小さな子どもの姿を残していたあやめが、大店の片隅にいてなにやら仔細ありげに算盤をはじいているのが珍しかったのか、蝦夷の一行のうちの年嵩らしい男が何かいい、ついてきたこちらの風体の商人が丁稚になにかいい、さらに丁稚がこちらにやってきたこともある。
「末の御寮人さま。蝦夷が是非お話したい、とのことですわ。」
この小さい娘はきっと怖がって泣くだろう、という意地悪が少年の顔に出ていたので、あやめは意固地になり、たしかにあった恐怖感を瞬時にねじ伏せた。
「会おう。こちらに来よ、と伝えい。」
蝦夷の言葉はひとつもわからなかったが、くつろいでうれし気な表情は、自分に親切にしてくれる者たちすべてと同じだとわかった。南蛮僧が謹厳な異相を崩して珍しい菓子などくれるときの表情で、すでに少女はそれを悟っている。
「あなた様くらいの娘が故郷にいる、と申しております。」
(まあ、そのようなことであろう。)
あやめはこうした聡い少女らしい、やや可愛げのないことを思ったが、
「それはお寂しいことでござりましょうね……と、お伝えください。」
蝦夷の男は頷き、少女は一つ知識を得たと思った。
(蝦夷とて、こうしたときには、こうした顔で頷くのだ。)
「可愛らしい娘様に差し上げるお土産を何も持ってこなかった、残念でござる、と申しております。」
「そのお気持ちをありがたく頂戴仕ります。遠いところからはるばる、お勤めご苦労でした。」
大店の女主人めかした大人びた言葉を通詞はどう訳したものか、おそらくそのまま伝えてくれたのだろう、顔中を刺青に染めた蝦夷は一層笑み崩れた。
「私はもう堺に参ることはないでしょうが、御寮人さまが蝦夷地にお越しになりましたら、またきっとお目にかかれるときもございましょう。」
と、最後に挨拶の言葉をこちらに伝えたのは通詞の男のはずだが、あやめの記憶のなかでは、あの蝦夷の男の太く響く声だけが残っている。
丁稚の少年は、得体の知れぬ夷人に小さな末の御寮人さまを勝手に会わせおって、と叱られたらしいが、あやめは珍しく楽しかったから、その丁稚をあとで褒めてやったはずだ。
蝦夷に住む者との最初の邂逅は、忘れがたい記憶になった。
それからも、蝦夷が堺に来なかった年はないはずだ、そのたびにわざわざ会いもした。やや長じると、屋敷に招いて、父に学んでいるさいちゅうの茶を振る舞ったこともある。
「蝦夷船はたくさんございますが、その蝦夷の名もご存じない? 船の者か、商人かもおわかりでないのですか。」
あの、最初に会った蝦夷の男のことを尋ねてみたが、まず通詞を困らせてしまった。
初めてでもないようで、茶をうまそうに啜ったその時の蝦夷の商人二人づれも、困った顔になって、何事かを返答した。
「五年も六年も前のことでは、私ども蝦夷のうちでも見当がつきません……と、いうております。」
「左様でしょな。」
「蝦夷島は大変広く、私ども日本の者―『和人』などとも名乗りだしておりますが―の立ち混じっている松前などは、その南の端の端っこなのでございます。また、奥州にも、まだ蝦夷そのものの風体をしている蝦夷もたくさんおります。それらは今少し言葉を解するのですが。もっとも、奥州の訛りが入りますので、なかなか京近江や堺のお方は、おわかりになりますまい。昔のことになりますが、敦賀で」
この通詞はどうも多弁のようだ。あやめは話をそらしたくなって、
「そういえば、蝦夷というのは、エミシとよぶにせよ、字面からして良い意味ではありませぬな。あなた方の蝦夷地の民は、まことは、何とおっしゃるので。」
と、訊いてみた。
通詞との間でなにやら要領を得ないらしい長いやりとりの末、そのときの蝦夷の男が最後に数語喋ると、通詞がはじめて、得たり、という顔になって、教えてくれた。
「この者どもは、アイノと申しますな。」
「あいの。」あやめは繰り返した。「アイノ、か。」
「ひと、というくらいの意味でございましょうか。」
話はさかのぼらねばならない。織田信長がまだ生きている頃である。
あやめと蝦夷島との最初の縁ができたといえるのは、まだ子どものころ、堺の今井家に育っていた日のことである。信長の伝記でいえば、上洛を果たし、堺を手に入れた勃興期のころといえるだろう。
堺にも、蝦夷は昔からいる。
湊に蝦夷の船が入ることはなかったが、蝦夷商人の何人かが時々やってきた。
かれらの刺青を入れた異相や飛びぬけてあでやかな衣服に、群衆にまじって遠巻きに彼らを「見物」した幼いあやめは、恐ろしいと感じている。
だが、やがて南蛮人に親しむようになると、北の涯から来るというかれらが、それほどのバケモノにも見えなくなった。
あやめが数えて十を過ぎたころ、織田様が敦賀を御たいらげになったとかで、お店もエゾ地相手の商いをはじめられるのです、とその頃近くにいたコハルが教えてくれた。朝倉様のものだった三国湊が、織田様のものになりましたから、と。
三国は、当時最大級の貿易港であった。いまでいう日本海の東西の流通の結節点であり、琵琶湖を通じて都や伊勢湾、尾張、東海にもつながる。
三国湊に着く蝦夷船から、琵琶湖を経由し、京を経て堺まで足を延ばす蝦夷の商人が、また、ぼつぼつと増えはじめた。
算盤や算用帳を店の奥で手の空いた手代などに習っていると(「また遊んでおるな」と長兄の宗薫などにはからかわれ、姉たちには「お前は手代の何某の御嫁にでもなるのかえ」「まさか、そうしていれば、いつかお店の一つも貰えるつもりかえ」などと蔑まれたが)、この異人たちが店を訪れるのに出くわしたことも多い。
まだ小さな子どもの姿を残していたあやめが、大店の片隅にいてなにやら仔細ありげに算盤をはじいているのが珍しかったのか、蝦夷の一行のうちの年嵩らしい男が何かいい、ついてきたこちらの風体の商人が丁稚になにかいい、さらに丁稚がこちらにやってきたこともある。
「末の御寮人さま。蝦夷が是非お話したい、とのことですわ。」
この小さい娘はきっと怖がって泣くだろう、という意地悪が少年の顔に出ていたので、あやめは意固地になり、たしかにあった恐怖感を瞬時にねじ伏せた。
「会おう。こちらに来よ、と伝えい。」
蝦夷の言葉はひとつもわからなかったが、くつろいでうれし気な表情は、自分に親切にしてくれる者たちすべてと同じだとわかった。南蛮僧が謹厳な異相を崩して珍しい菓子などくれるときの表情で、すでに少女はそれを悟っている。
「あなた様くらいの娘が故郷にいる、と申しております。」
(まあ、そのようなことであろう。)
あやめはこうした聡い少女らしい、やや可愛げのないことを思ったが、
「それはお寂しいことでござりましょうね……と、お伝えください。」
蝦夷の男は頷き、少女は一つ知識を得たと思った。
(蝦夷とて、こうしたときには、こうした顔で頷くのだ。)
「可愛らしい娘様に差し上げるお土産を何も持ってこなかった、残念でござる、と申しております。」
「そのお気持ちをありがたく頂戴仕ります。遠いところからはるばる、お勤めご苦労でした。」
大店の女主人めかした大人びた言葉を通詞はどう訳したものか、おそらくそのまま伝えてくれたのだろう、顔中を刺青に染めた蝦夷は一層笑み崩れた。
「私はもう堺に参ることはないでしょうが、御寮人さまが蝦夷地にお越しになりましたら、またきっとお目にかかれるときもございましょう。」
と、最後に挨拶の言葉をこちらに伝えたのは通詞の男のはずだが、あやめの記憶のなかでは、あの蝦夷の男の太く響く声だけが残っている。
丁稚の少年は、得体の知れぬ夷人に小さな末の御寮人さまを勝手に会わせおって、と叱られたらしいが、あやめは珍しく楽しかったから、その丁稚をあとで褒めてやったはずだ。
蝦夷に住む者との最初の邂逅は、忘れがたい記憶になった。
それからも、蝦夷が堺に来なかった年はないはずだ、そのたびにわざわざ会いもした。やや長じると、屋敷に招いて、父に学んでいるさいちゅうの茶を振る舞ったこともある。
「蝦夷船はたくさんございますが、その蝦夷の名もご存じない? 船の者か、商人かもおわかりでないのですか。」
あの、最初に会った蝦夷の男のことを尋ねてみたが、まず通詞を困らせてしまった。
初めてでもないようで、茶をうまそうに啜ったその時の蝦夷の商人二人づれも、困った顔になって、何事かを返答した。
「五年も六年も前のことでは、私ども蝦夷のうちでも見当がつきません……と、いうております。」
「左様でしょな。」
「蝦夷島は大変広く、私ども日本の者―『和人』などとも名乗りだしておりますが―の立ち混じっている松前などは、その南の端の端っこなのでございます。また、奥州にも、まだ蝦夷そのものの風体をしている蝦夷もたくさんおります。それらは今少し言葉を解するのですが。もっとも、奥州の訛りが入りますので、なかなか京近江や堺のお方は、おわかりになりますまい。昔のことになりますが、敦賀で」
この通詞はどうも多弁のようだ。あやめは話をそらしたくなって、
「そういえば、蝦夷というのは、エミシとよぶにせよ、字面からして良い意味ではありませぬな。あなた方の蝦夷地の民は、まことは、何とおっしゃるので。」
と、訊いてみた。
通詞との間でなにやら要領を得ないらしい長いやりとりの末、そのときの蝦夷の男が最後に数語喋ると、通詞がはじめて、得たり、という顔になって、教えてくれた。
「この者どもは、アイノと申しますな。」
「あいの。」あやめは繰り返した。「アイノ、か。」
「ひと、というくらいの意味でございましょうか。」
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