えぞのあやめ

とりみ ししょう

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序の段 納屋御寮人の遭難 毒(三)

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 重なり合った男女は、ほぼ同時にすべての動きを止めた。
 やがて、がくり、と女の尻が落ち、足が男の腰からほどけた。空気を求めて口があわあわと開く。涙に濡れた目は開いても、まだどこもみていなかった。
 男が大きく息をついて、躰から離れたとき、女はまだ戻っていない。絶息寸前のようになり、ようやく荒い息をつけたが、まだときおり、苦し気に息を詰める。露わな胸を上下させながら、何もかも消し飛ばされて、手足を投げ出し、仰向きに横たわっている。
 絞りつくされた汗と、男女の入り混じった体液の匂いが湯気の中にあがった。
 女の息は静まらない。不規則に高低する呻きが漏れる。女陰から体液が流れ出るが、女はそれにも気づかず、湯殿の天井板にうつろな目をやっている。
(……こうなっては、すぐには元に戻るまいな。)
 男の回復は、ただ体力の問題だ。新三郎は少しよろめいたが、軽々と両腕に女を抱き、湯気のたちこめる場所から、水風呂の室に運んだ。
 横たえて、半身を立たせ、少し考えたが、なかば喪神状態のつづく女体に頭から水をかける。髪が顔に落ち、前にかしいだ。それだけで、無反応である。もう一度水をかけた。髪を顔から払ってやる。無表情だ。
 まだ無反応であるが、新三郎は気にせず自分も水をかぶった。汗が流れ落ちた。カイゲに新しく汲んだ水を飲むと、うまかった。
(水がうまいではないか。いつもと変わりがないのだ。)
(相手が誰であろうと、どんな風にしようと、変わりがない。こんなことは……。)
 空になったカイゲをぼんやり眺めていたが、ふと気づいてそこに水を汲んだ。
「あやめ?」
 飲むか、とばかりに声をかけたが、返事はない。ただ、意識を失ったわけではない。たしかに、バラバラに砕かれたあやめのカケラは、女の心の中で懸命につなぎ合わされようとしていた。
 ただ、いまは外界の全てがまだ遠いようだ。水に打たれたままの姿で、躰のどこも隠せず、茫然と女は座りつづけている。目も、まだあらぬ一点を見据えていた。
「あやめ、大事ないか?」
 返事は期待していない。新三郎も口に出した瞬間に、大事がないわけはあるまいよ、と自分の間の抜けた問いに苦笑いする。おれが起こしたのだ、この女にとっての、つらい大事を……。
 あやめは表情も動かず、まだ黙っている。
「また、来るがよい。」
 いった瞬間に、
(このまま大舘に留め置いてやりたい。)
 願望が膨れ上がったが、おさえた。さすがに、まだそれはできぬ。
 返事はまだない。男の言葉にも、怒りや当惑の反応すらみせない。
 よいわ、と新三郎は今日という日の仕上げにかかった。
「あやめ、……納屋の御寮人よ、薬じゃが、……あとは案じずともよい。」
 女はうつろな目をあげず、黙っている。
「あれはたしかに毒だが、媚薬でもなんでもない。」
 伏せた女の濡れた頭が、びくりと反応した。
「安堵せよ。それも、たいして効くほどには盛っておらん。痒み、腫れも、すぐに去るであろうよ。もう去ったか? どこも痛うはないか?」
「……」
「とすると、……おぬしは、自分から望んで、ああなったわけじゃ。ああいう風に、な。」
 乱れた髪の下で、女はか細く息を呑んだ。
「おぬしの方から、この儂を欲しがったのであったな。」
 女は背を丸めて、低く、長く呻いた。
 わけもなく床をひとつ叩き、苦悶の声をあげて、低く沈む姿勢で固まった。また、床を叩き、自分の拳を痛めつけた。
(これでこそ、納屋の御寮人だ。)
 新三郎は、なにかいい難い気持ちに襲われていた。誇りを傷つけられ打ちのめされたこんな姿すらも、なんとこの女は美しいのだろう、と思った。気高くすら見えた。
 その女と、自分はたった今、睦みあったという自足がある。
 一方的に襲い、強引に犯したのだが、快い奇妙な錯覚が男の中にあった。
 折れ曲がる女の白く細い背に、男はなお淫心が兆すのを感じた。自分でも内心で小さく驚いたが、あたりは暗くなりつつある。
 やがて、新三郎は無言で去った。


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