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序の段 納屋御寮人の遭難 大館の湯殿(二)
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さて、あやめが招かれたのは、大舘の居館の奥まった離れにある、独立した板屋根の建物である。
(なるほど、これはまがいもなく湯殿じゃ。)
と、あやめは内心で感心してやる。
風呂場に入れる湯を沸かす黒い窯に、すでに薪は赤々と燃えていた。
あやめが泉州堺に住んでいたころ、ときに父や兄の相伴にあずかって「風呂の馳走」で訪れたことのある、京や大和の寺や貴紳の館にあるそれと変わりがない。
前入り口の濡れ縁の戸を引かれ、前室に足をふみいれても、そう感じた。
土間の前室がクの字に曲がり、奥に蒸風呂の温室と水風呂、それに浴湯をたたえた湯船の小風呂があるらしい。よく知られるとおり、この時代の風呂といえば湯船につかるのではなく、蒸風呂がまだ主であった。
(いま、蠣崎のお家、蝦夷代官家はお盛んよの。)
あやめは皮肉に思った。次期当主の「ご名代様」は、秋田にある主家・安東家の命に応じ、忙しく出羽と松前を行き来してはいる。だが、近年の威勢のよさは、かれが戦功によって安東家中での重みを増していたためではない。
松前の湊からあがる莫大な額の運上銭(通行税)が、そのもとだろう。だとすれば、有力な商家を松前に構えるあやめも、手助けをしてやっているわけだ。
片腹痛いことだ、と思った。
(お身内を死地に追いやっても、ささやかな贅沢は忘れぬ、か。)
温室へのトビラのある前室であやめは袴をとり、風呂の作法通り浴衣に着替えようとした。
だが、用意がないようだ。尋ねると、控えていた侍女は、
「まず素肌にお湯をお召しくださいませ。このあたりでは、浴衣はお蒸し風呂に入るときにおつけになられます。」
北国ではそうでございまする、と、どこか(あやめが後に思い出せば)おどおどした調子でいった。
「なるほど、北国では……。」
あやめはうなずき、なぜか顔を少し赤らめた。ひとの前といっても相手は侍女だけだから、下着の腰巻もつけぬ裸になるのがさほど恥かしいわけではない。
北国ではこうする―という男の言葉を、耳にした時の記憶が蘇えったのだ。
そう囁くと、男の手が、すでに小袖を脱ぎ、着物の胸元を割られていた、あやめの残る着衣をすべて剥いでいった。上方でも、寝るときに素裸になる習慣は残っていたが、あやめたちのような都市上層民の身分ともなれば、掛け布団がわりに上から羽織る寝着の他に、もう寝衣を身に着けるのが当たり前だ。
だが、北国では、とくに男女が同衾するとき、一糸もまとわぬのだという。
(まことだろうか、この寒い土地で?)
肌と肌を直接あわせる温かみを、この娘はまだ堪能するには至っていなかった。
異土の習いに抗って躰の布をおさえようとする手を、男の想像もつかないほど強い力が抑えた。
やがて、かすかな抵抗もあやめはやめた。
裸に剥いだ胸乳に貪りついた男―十四郎が、そのくせ、上の着物も自分では脱いでいない。
「脱いで。ああ、あなた様もお脱ぎになって。」
あやめは、これが自分かと驚くほど甘えた色の滲む声で、せがんだ。
十四郎は頷くと、細いが鋭くしまった武家らしい肉体をあらわにし、脱いだばかりの薄物で躰を隠して待っている あやめを無言で見つめる。
(なんてお綺麗な目なのだろう。)
見惚れるようになったあやめは、ふと気づくと、慌てて目を閉じて横を向いた。ゆっくりと頭を近づけた十四郎は、あやめの唇に唇を落として吸い、裸の肩を強く抱いた。
たがいに生まれたままの姿で、ぴったりと肌を合わせたものだ。
(躰が、変わってしまった。へんになってしまった。こうして真裸になると、思い出して、十四郎さまのお胸に抱かれたくなる。)
誰にもいえないことを考えながら、なにも身につけぬ姿になった。町育ちの若い女らしく細く華奢だが、じつは柔らかそうな裸体が、薄闇の中にほの白く浮かびあがる。
案内に引かれて、温室の引き戸から湯気の中に入る。釜にたぎる湯の匂いと、新しい木の香りがした。
温室の湯船は大きい。さきほどみた外の焚き場に設置された大釜から、樋で湯が流し込まれ、湯気をあげていた。湯気はまだ足りぬようだが、この周りに座るのだろうな、と考えていると、
「こちらにお越しくださいませ。」
低い天井に身をすくめながら、蒸気の立ち込めかけた蒸風呂の板の間を抜けて小風呂に連れてこられる。
小風呂の湯船は蒸風呂で汗をかいてからの、かけ湯のためであるはずだ。こちらの湯船は鉄製ではなく、白木でつくられた、かなり大きなものだ。
「先に浴をなさいますように。」
「先に、か。」
いわれるままにおとなしくカイゲ(湯を汲む、木製の容器)をとると、躰にややぬるい湯をかけた。夏だというのに、湯気がまだいきわたっていないせいか、少し肌寒い。
屋内とはいえ、昼間からひどくうす暗い。濃い灰色の雲が松前の湊町の空を覆っていた。風呂のあとには、作法通りなら酒食があるのだろうが、夜になれば帰途は、雨になるかもしれぬと思った。
「どうぞ、そのまま湯船にお入りくださいませ。」
と侍女がいったときには、頭にかぶるのと同じ湯に下半身をつけるなど、そんなことをしていいのかと驚いたが、二杯目の湯を浴びてもうすら寒く、実は少し助かった。これも北国の風なのだろうか。
行水の盥などよりずっと深く、座ると顎の先まで湯につかる。
どうも本来の風呂の作法ではないが、山中の温泉などでは、蒸し風呂の用意ができぬときには湯に直接につかると聞いたことがある。それと似たようなものか。
これはこれでずいぶん気持ちのよいものだ、とあやめは思った。他人の家屋敷の、これまで入ったこともない場所ながら、自然とくつろいだ気持ちになる。つい、ゆるゆると足を湯船に伸ばした。
そのとき、小風呂の片隅でそばに控えていた女が、温室の気配に顔をむけ、凍りついたようになって、平伏した。
あやめは息をのんだ。
この館の若主人、蠣崎家の事実上の当主といっていい男が、一糸まとわぬ姿で悠然と現れたからである。
蠣崎新三郎慶広そのひとだ。
(なるほど、これはまがいもなく湯殿じゃ。)
と、あやめは内心で感心してやる。
風呂場に入れる湯を沸かす黒い窯に、すでに薪は赤々と燃えていた。
あやめが泉州堺に住んでいたころ、ときに父や兄の相伴にあずかって「風呂の馳走」で訪れたことのある、京や大和の寺や貴紳の館にあるそれと変わりがない。
前入り口の濡れ縁の戸を引かれ、前室に足をふみいれても、そう感じた。
土間の前室がクの字に曲がり、奥に蒸風呂の温室と水風呂、それに浴湯をたたえた湯船の小風呂があるらしい。よく知られるとおり、この時代の風呂といえば湯船につかるのではなく、蒸風呂がまだ主であった。
(いま、蠣崎のお家、蝦夷代官家はお盛んよの。)
あやめは皮肉に思った。次期当主の「ご名代様」は、秋田にある主家・安東家の命に応じ、忙しく出羽と松前を行き来してはいる。だが、近年の威勢のよさは、かれが戦功によって安東家中での重みを増していたためではない。
松前の湊からあがる莫大な額の運上銭(通行税)が、そのもとだろう。だとすれば、有力な商家を松前に構えるあやめも、手助けをしてやっているわけだ。
片腹痛いことだ、と思った。
(お身内を死地に追いやっても、ささやかな贅沢は忘れぬ、か。)
温室へのトビラのある前室であやめは袴をとり、風呂の作法通り浴衣に着替えようとした。
だが、用意がないようだ。尋ねると、控えていた侍女は、
「まず素肌にお湯をお召しくださいませ。このあたりでは、浴衣はお蒸し風呂に入るときにおつけになられます。」
北国ではそうでございまする、と、どこか(あやめが後に思い出せば)おどおどした調子でいった。
「なるほど、北国では……。」
あやめはうなずき、なぜか顔を少し赤らめた。ひとの前といっても相手は侍女だけだから、下着の腰巻もつけぬ裸になるのがさほど恥かしいわけではない。
北国ではこうする―という男の言葉を、耳にした時の記憶が蘇えったのだ。
そう囁くと、男の手が、すでに小袖を脱ぎ、着物の胸元を割られていた、あやめの残る着衣をすべて剥いでいった。上方でも、寝るときに素裸になる習慣は残っていたが、あやめたちのような都市上層民の身分ともなれば、掛け布団がわりに上から羽織る寝着の他に、もう寝衣を身に着けるのが当たり前だ。
だが、北国では、とくに男女が同衾するとき、一糸もまとわぬのだという。
(まことだろうか、この寒い土地で?)
肌と肌を直接あわせる温かみを、この娘はまだ堪能するには至っていなかった。
異土の習いに抗って躰の布をおさえようとする手を、男の想像もつかないほど強い力が抑えた。
やがて、かすかな抵抗もあやめはやめた。
裸に剥いだ胸乳に貪りついた男―十四郎が、そのくせ、上の着物も自分では脱いでいない。
「脱いで。ああ、あなた様もお脱ぎになって。」
あやめは、これが自分かと驚くほど甘えた色の滲む声で、せがんだ。
十四郎は頷くと、細いが鋭くしまった武家らしい肉体をあらわにし、脱いだばかりの薄物で躰を隠して待っている あやめを無言で見つめる。
(なんてお綺麗な目なのだろう。)
見惚れるようになったあやめは、ふと気づくと、慌てて目を閉じて横を向いた。ゆっくりと頭を近づけた十四郎は、あやめの唇に唇を落として吸い、裸の肩を強く抱いた。
たがいに生まれたままの姿で、ぴったりと肌を合わせたものだ。
(躰が、変わってしまった。へんになってしまった。こうして真裸になると、思い出して、十四郎さまのお胸に抱かれたくなる。)
誰にもいえないことを考えながら、なにも身につけぬ姿になった。町育ちの若い女らしく細く華奢だが、じつは柔らかそうな裸体が、薄闇の中にほの白く浮かびあがる。
案内に引かれて、温室の引き戸から湯気の中に入る。釜にたぎる湯の匂いと、新しい木の香りがした。
温室の湯船は大きい。さきほどみた外の焚き場に設置された大釜から、樋で湯が流し込まれ、湯気をあげていた。湯気はまだ足りぬようだが、この周りに座るのだろうな、と考えていると、
「こちらにお越しくださいませ。」
低い天井に身をすくめながら、蒸気の立ち込めかけた蒸風呂の板の間を抜けて小風呂に連れてこられる。
小風呂の湯船は蒸風呂で汗をかいてからの、かけ湯のためであるはずだ。こちらの湯船は鉄製ではなく、白木でつくられた、かなり大きなものだ。
「先に浴をなさいますように。」
「先に、か。」
いわれるままにおとなしくカイゲ(湯を汲む、木製の容器)をとると、躰にややぬるい湯をかけた。夏だというのに、湯気がまだいきわたっていないせいか、少し肌寒い。
屋内とはいえ、昼間からひどくうす暗い。濃い灰色の雲が松前の湊町の空を覆っていた。風呂のあとには、作法通りなら酒食があるのだろうが、夜になれば帰途は、雨になるかもしれぬと思った。
「どうぞ、そのまま湯船にお入りくださいませ。」
と侍女がいったときには、頭にかぶるのと同じ湯に下半身をつけるなど、そんなことをしていいのかと驚いたが、二杯目の湯を浴びてもうすら寒く、実は少し助かった。これも北国の風なのだろうか。
行水の盥などよりずっと深く、座ると顎の先まで湯につかる。
どうも本来の風呂の作法ではないが、山中の温泉などでは、蒸し風呂の用意ができぬときには湯に直接につかると聞いたことがある。それと似たようなものか。
これはこれでずいぶん気持ちのよいものだ、とあやめは思った。他人の家屋敷の、これまで入ったこともない場所ながら、自然とくつろいだ気持ちになる。つい、ゆるゆると足を湯船に伸ばした。
そのとき、小風呂の片隅でそばに控えていた女が、温室の気配に顔をむけ、凍りついたようになって、平伏した。
あやめは息をのんだ。
この館の若主人、蠣崎家の事実上の当主といっていい男が、一糸まとわぬ姿で悠然と現れたからである。
蠣崎新三郎慶広そのひとだ。
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