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エピローグ
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ストーカー事件のことがあり、渋谷店長には申し訳なかったけど先週ファミレスのバイトを辞めた。やっぱりいまはまだ怖い。渋谷店長は「そのほうがいい」と快く了承してくれた。
智樹につきまとわれることもなくなった。教室で顔を合わせればちょっとした世間話をするくらい。真美ちゃんによれば、学生課の杉浦さんとヨリが戻ったらしい。
なんだそれ。要するにさみしかったから、わたしにちょっかいをかけていたのか。と思ったけれど、別に腹が立つことはなかった。逆にすでに新しい一歩を踏み出している智樹がうらやましかった。
わたしはいまも佐野先生を忘れられずにいる。
吹きつける十月の冷たい海風が何度も髪を巻きげた。
「失敗……」
今日は髪をまとめるゴムもクリップも忘れてきてしまった。
秋の海辺はとても静か。たまに親子連れやカップルを何組か見かける程度。
ここに来るのは何度目だろう。花火大会の日に佐野先生と一緒に腰をおろした砂浜は、すっかり定位置になってしまった。
こじらせ女は本当に厄介だ。どうしてわたしじゃだめだったんだろう。わたしに足りないものはなんなのだろう。だけどいくら考えても、その答えは波がさらっていく。
ふいに電話が鳴った。佐野先生だ。
「もしもし」
『輝?』
「はい」
『やっと出てくれたな』
「ごめんなさい」
『いまどこにいる?』
「海です」
佐野先生は相変わらずお人好しだ。
「普通来るかな?」
「来るはずないと思った?」
「思いました。最初からここにいたなら、わざわざ『どこにいる?』なんて聞かないでください」
佐野先生はクスクスと笑った。
それからわたしの隣に腰をおろし、遠くを眺めた。
沖に一隻の漁船が見えていた。漁船は波間をゆっくりと航行している。
「肩の怪我は大丈夫ですか?」
「もうすっかり。不自由なく動かせるよ」
佐野先生は右肩を軽くまわしてみせた。
「よかった」
あのストーカー男は起訴され、来月から裁判がはじまる。示談も成立しておらず、おそらく執行猶予もつかないだろうと、弁護士さんが言っていた。
「退院の日のこと、実紅から全部聞いたよ」
「余計なお世話かなとも思ったんですが、ああでもしないと、佐野先生は自分の気持ちに気づかないと思って」
「輝のほうが大人だな。俺は輝に情けない姿しか見せてないような気がする」
「そんなことありません。ストーカー男に襲われたとき助けてくれました。佐野先生がいなかったら、刺されていたのはわたしだったかもしれません」
最近はほとんどなくなったけれど、事件直後はひとりでいると、佐野先生の肩にナイフが突き刺さった場面が浮かんできて、涙が止まらなくなることがたびたびあった。佐野先生がいなかったら、わたしは死んでいたかもしれないと恐怖心にさいなまれるときもあり、心も身体も疲弊していた。
だから佐野先生が無事で、もうそれだけで十分だった。佐野先生には幸せになってもらいたい。隣にいるのはわたしじゃなくていい。潔く身を引こうと思えたのは、そのことがあったからだと思う。
「俺、ちゃんと覚えてるから。美術館に行ったことも、ここで花火を見たことも、輝と過ごした時間を全部……。ずっと忘れない」
「……はい」
「たくさん泣かせちゃってごめんな」
この恋がいつ終わりを迎えるのか、わたしにはわからない。きっとこの先も佐野先生を思って泣くことがあるかもしれない。
だけどね、佐野先生。
この恋はとても苦しいものだったけど、わたしは佐野先生を好きになったことを後悔していないんだよ。好きになってよかったと心の底から思ってるの。だからもう謝らないでね。罪悪感も持たないでね。
「好きになってくれてありがとう」
もう声にならなくて、答えの代わりにうなずく。
沖の漁船は地平線の向こう側に消えていた。海風だけは相変わらず吹き渡っている。
髪をおろしておいてよかった。髪を押さえながら横顔を隠し、わたしは心のなかで叫んだ。
お願い、この涙を早くかわかして。
すると青い海にたくさんの雫が溶けていって、キラキラと輝きはじめた。それがあまりにも美しくて、わたしの心も浄化されていく。
「お幸せに、佐野先生」
「輝も絶対に幸せになれよ」
力強い言葉に胸が熱くなった。
ようやく踏み出せそうな気がする。未来への一歩。焦らず、わたしなりにゆっくりと進んでいこうと思う。
《完》
-----お知らせ-----
ここまで読んでくださってありがとうございました。
このお話には続きがあります。4年後のお話(短編)です。そちらもぜひ読んでやってください。タイトルは『ウインタータイム』です。
智樹につきまとわれることもなくなった。教室で顔を合わせればちょっとした世間話をするくらい。真美ちゃんによれば、学生課の杉浦さんとヨリが戻ったらしい。
なんだそれ。要するにさみしかったから、わたしにちょっかいをかけていたのか。と思ったけれど、別に腹が立つことはなかった。逆にすでに新しい一歩を踏み出している智樹がうらやましかった。
わたしはいまも佐野先生を忘れられずにいる。
吹きつける十月の冷たい海風が何度も髪を巻きげた。
「失敗……」
今日は髪をまとめるゴムもクリップも忘れてきてしまった。
秋の海辺はとても静か。たまに親子連れやカップルを何組か見かける程度。
ここに来るのは何度目だろう。花火大会の日に佐野先生と一緒に腰をおろした砂浜は、すっかり定位置になってしまった。
こじらせ女は本当に厄介だ。どうしてわたしじゃだめだったんだろう。わたしに足りないものはなんなのだろう。だけどいくら考えても、その答えは波がさらっていく。
ふいに電話が鳴った。佐野先生だ。
「もしもし」
『輝?』
「はい」
『やっと出てくれたな』
「ごめんなさい」
『いまどこにいる?』
「海です」
佐野先生は相変わらずお人好しだ。
「普通来るかな?」
「来るはずないと思った?」
「思いました。最初からここにいたなら、わざわざ『どこにいる?』なんて聞かないでください」
佐野先生はクスクスと笑った。
それからわたしの隣に腰をおろし、遠くを眺めた。
沖に一隻の漁船が見えていた。漁船は波間をゆっくりと航行している。
「肩の怪我は大丈夫ですか?」
「もうすっかり。不自由なく動かせるよ」
佐野先生は右肩を軽くまわしてみせた。
「よかった」
あのストーカー男は起訴され、来月から裁判がはじまる。示談も成立しておらず、おそらく執行猶予もつかないだろうと、弁護士さんが言っていた。
「退院の日のこと、実紅から全部聞いたよ」
「余計なお世話かなとも思ったんですが、ああでもしないと、佐野先生は自分の気持ちに気づかないと思って」
「輝のほうが大人だな。俺は輝に情けない姿しか見せてないような気がする」
「そんなことありません。ストーカー男に襲われたとき助けてくれました。佐野先生がいなかったら、刺されていたのはわたしだったかもしれません」
最近はほとんどなくなったけれど、事件直後はひとりでいると、佐野先生の肩にナイフが突き刺さった場面が浮かんできて、涙が止まらなくなることがたびたびあった。佐野先生がいなかったら、わたしは死んでいたかもしれないと恐怖心にさいなまれるときもあり、心も身体も疲弊していた。
だから佐野先生が無事で、もうそれだけで十分だった。佐野先生には幸せになってもらいたい。隣にいるのはわたしじゃなくていい。潔く身を引こうと思えたのは、そのことがあったからだと思う。
「俺、ちゃんと覚えてるから。美術館に行ったことも、ここで花火を見たことも、輝と過ごした時間を全部……。ずっと忘れない」
「……はい」
「たくさん泣かせちゃってごめんな」
この恋がいつ終わりを迎えるのか、わたしにはわからない。きっとこの先も佐野先生を思って泣くことがあるかもしれない。
だけどね、佐野先生。
この恋はとても苦しいものだったけど、わたしは佐野先生を好きになったことを後悔していないんだよ。好きになってよかったと心の底から思ってるの。だからもう謝らないでね。罪悪感も持たないでね。
「好きになってくれてありがとう」
もう声にならなくて、答えの代わりにうなずく。
沖の漁船は地平線の向こう側に消えていた。海風だけは相変わらず吹き渡っている。
髪をおろしておいてよかった。髪を押さえながら横顔を隠し、わたしは心のなかで叫んだ。
お願い、この涙を早くかわかして。
すると青い海にたくさんの雫が溶けていって、キラキラと輝きはじめた。それがあまりにも美しくて、わたしの心も浄化されていく。
「お幸せに、佐野先生」
「輝も絶対に幸せになれよ」
力強い言葉に胸が熱くなった。
ようやく踏み出せそうな気がする。未来への一歩。焦らず、わたしなりにゆっくりと進んでいこうと思う。
《完》
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ここまで読んでくださってありがとうございました。
このお話には続きがあります。4年後のお話(短編)です。そちらもぜひ読んでやってください。タイトルは『ウインタータイム』です。
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ああっ、またまた気になるところで…。
久しぶりの佐野先生登場に、ハラハラと読みすすめていたら…。
こ、更新は明日していただけるのでしょうか⁉︎
輝ちゃんが無事だといいのですが…。
★johndoさん
更新は明日もする予定です!
この先、佐野先生がいっぱい出てきますので。
そして、今後色々とあります…。
感想ありがとうございました☆
さとう涼
ああっ!
いいところで終わってしまった…。
この後どうなるのか、気になって気になって仕方ありません!
私は、佐野先生推しなので、渋谷店長には遠慮してほしいです。
輝ちゃんは、店長の方が幸せになれるんだろうけど…。
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