恋い焦がれて

さとう涼

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8.儚い時間

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 だけど、この状況を打ち破るようにノックの音が聞こえ、病室のドアが開いた。

「佐野さん、お食事終わりました?」

 えっ!?
 看護師さんだった。
 とっさに佐野先生から離れたけれど、抱きついているところをバッチリ見られてしまった。

「あら、ごめんなさい。じゃましちゃって」

 ベテランという感じの看護師さんは、慌ててベッドから降りたわたしに向かって慣れたように言う。

「……いいえ」

 けっこうずけずけと入ってくるんだなあ。そもそも病室でそんなことをしているのが悪いんだけど。

「すみません。まだ食べ終わってなくて」
「食欲がないわけでは……ないみたいですね」
「ええ、まあ。これ、すぐに食べ終わりますから」
「わかりました。では点滴だけかえますね」
「……すみません」

 食事中にわたしが来てしまったから、食べられなかったんだ。
 わたしも謝るとクスッと笑って看護師さんは黙々と点滴を替えていた。

「トレイは、わたしがさげにいきます」
「わかりました。それではお願いしますね。それから……傷口が開くといけないので、あまり無理させないでくださいね」
「……はい」

 また看護師さんに笑われた気がする。
 恥ずかしいし、気まずい。それなのになんで佐野先生は知らんぷりなの?
 看護師さんが病室を出ていったあと、佐野先生を睨みつけてやった。

「なに?」
「看護師さんに見られちゃったのに、どうして平気な顔していられるのかなと思って」
「なんだ、そんなことか。向こうはどうせ気にしちゃいないよ」
「でも笑われました」
「そりゃあ、そんなに顔を真っ赤にしていたら誰だって笑うよ」
「嘘!? そんなに!?」

 思わず顔を手で押さえた。わたしだけ恥ずかしがっているなんて、なんだか悔しい。そんなわたしを見て、今度は佐野先生が笑った。
 穏やかな笑顔。本当に元気そうなので安心できた。だけど入院は六日ぐらいになると言っていた。意外に長い。傷が深いせいで、しばらく右腕は動かせないらしい。

「それよりさ、その花は俺へのお見舞い?」

 佐野先生が椅子の上に置いておいた花をあごを動かして示した。花屋でアレンジメントしてもらった白とピンクベージュの二種類のガーベラ。そのまま飾れるように小さなフラワーポットに入れてもらった。

「そうです。お花屋さんの前を通ったらかわいいなと思って。この病室ってお花を飾ってもいいんですよね?」
「大丈夫だよ」
「よかった。ここに飾りますね」

 窓際にある備えつけの小さなテーブルの上に置かせてもらった。

「それ、ガーベラっていうんだっけ?」
「はい」
「ピンクもいいけど、白いガーベラもなかなかきれいだな」
「佐野先生もそう思います? わたしもです。一目ぼれしちゃいました」

 純粋でけがれを知らない真っ白な花はわたしの憧れの象徴みたいなもの。白なのに存在感があって凛としている。花の中心にある芯は黒色で、シンプルなコントラストがほかの花よりも群を抜いて輝いて見えた。
 何日ぐらいもつかな。そんなことをぼんやりと思っていた。


 それから次の日もその次の日もお見舞いに行った。点滴ははずされ、顔色もよく、体調もだいぶいいみたいだった。

「毎日来なくてもいいんだぞ。輝だって忙しいだろう?」
「ぜんぜん暇です」
「だからって……いいのか?」
「なにがですか?」
「前に輝の家の前で会ったファミレスの上司の人だよ」

 ああ、渋谷店長のことか。
 あの日、渋谷店長の胸を借りて泣いてしまったものだから、ただならぬ関係に見えたのかもしれない。でも気にしてくれていたんだ。ちょっとうれしい。

「あの人は店長なんです。バイトですごくお世話になっているんですけど、それだけです」
「そうは見えなかったけどな。少なくとも向こうは輝のことを……」

 佐野先生は申し訳なさそうに言う。渋谷店長の気持ちに気づいているようだった。

「わたしは店長に特別な感情を持ったことはありません。それより、今日はこれを買ってきました」

 わたしは持っていた袋を佐野先生の前に差し出した。
 佐野先生がどういう意味で渋谷店長の話題をしてきたのかわからない。でも誤解されるのは嫌だ。なので、わたしははっきりと否定し、さっさと話題を変えた。

「いい香りだな」

 袋のなかを見て、佐野先生が微笑んでくれた。いまの言葉で安心してくれたのかなと思ったけれど、そんなふうに考えるなんて、おかしいよね。

「昨日は梨で、今日は葡萄か。秋って感じだな」
「これはね、ピオーネっていう品種なんです」

 一粒ずつ葡萄の皮をむく。
 ピオーネは見た目が巨峰に似た大粒の葡萄。皮をむくと果汁がじゅわっとこぼれた。

「はい、どうぞ」

 わたしが葡萄を差し出すと、佐野先生はわたしの指先に唇を近づけ、口に入れた。
 まずい、めちゃくちゃドキドキする。葡萄を選んだのは間違いだったかな。

「そのままでいいよ。葡萄の皮を全部むくのは大変だろう?」
「いいえ。今日はひと房分、全部むくつもりです」

 お見舞いといってもとくにすることもないし、なによりなにもしていないと会話を持たせるのが大変だった。
 以前はそんなことはなかったのに。意識しちゃって、変なの。

「明日はなに食べたいですか? キウイにパイナップル。それとも定番のりんごですか?」
「そんなに気を使わなくていいよ」
「別に気なんて使ってませんよ」

 佐野先生はどこまで見抜いているんだろうか。わたしが自分の気持ちを必死に抑え、普通を装っていること。まだ好きだから、この時間が苦しい。
 わたしは羽毛のようなふんわりとした眼差しから逃れたくて、手もとのピオーネに視線を戻した。甘く濃厚な香りに意識を集中させ、再び「どうぞ」と熟した果実を差し出した。

「困ったな」

 眉根を寄せて小さく溜め息をもらすけれど、わたしはその手を引っ込めない。
 あきらめた佐野先生はピオーネに口を近づけて、パクッと食べると……。

「え?」

 わたしの手首を握ってきた。
 あたたかい手に包まれ、わたしはゴクリと唾を飲み込む。それから目の前の佐野先生を見あげた。
 その時間が長かったのか、それとも一瞬だったのか、よくわからない。事態を飲み込めて、手を引っ込めようとしても離してくれない。
 どうしようと困惑していたら、佐野先生はわたしの中指の第二関節のあたりにそっと口づけをした。

「言っとくけど誘惑しているのは輝のほうだからな」
「……わ、わたしはなにもしてません」
「輝にその気がなくても俺にとってはそうなんだ」

 仕かけたつもりはまったくない。むしろ最初に仕かけたのは佐野先生のほうだ。お見舞いに来た初日だってそう。
 いいのかな。自分の欲求のまま。その胸に飛び込んだら受け止めてくれるの?

「もっと近くにおいで」

 そのささやきに導かれるように。手を引かれ、パンプスを脱ぎ捨て、わたしは佐野先生の膝の上に乗った。果汁でべとべとになっている手のやり場に困り、仕方なく佐野先生の首に腕を軽く巻きつける。
 思ったよりも顔が近い。

「こんなの恥ずかしいよ」
「こうでもしないと、輝は延々と葡萄の皮むきしてそうだったから」

 独占したくなるほどの艶めいた表情に佐野先生本人はきっと気づいていない。その仕草や雰囲気がわたしを大胆にさせているというのに。

「だけど信じられないです。本当にわたしでいいんですか?」

 返事の代わりに力の込められた左腕によってさっきよりも密着度が増す。息遣いが感じられるほどに縮まった距離は、ドキドキを通り越して心臓が押し潰されるみたいに痛い。

「輝」

 名前を呼ばれ、見つめ合う。お互いに顔を近づけて、唇と唇が重なり合いそうな状態。黒い瞳を熱っぽく潤ませながら、佐野先生がわずかに顔の角度を変えた。
 だけど……。
 そのタイミングで、「コンコン」とドアがノックされる音がした。
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