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8.儚い時間
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この手首の痛みは、わたしの心の痛みのはけ口になっているのかな。身体は無傷のくせに、そこだけがじんじんと痺れが続いている。
あのあと通りかかった人に頼んで救急車を呼んでもらい、病院で警察から事情を聞かれた。そこへ両親も駆けつけた。ストーキングされていることを両親に黙っていたので、そこはこってりしぼられたけど、そんなことはどうでもよかった。それよりも佐野先生だ。
佐野先生は入院となった。右肩を刺され軽傷とは聞いているけれど、傷は深かったそうだ。麻痺が残るかもしれない。佐野先生を見舞った父から聞かされた。
ビルの前に落ちていたわたしのバッグを拾った佐野先生が嫌な予感がして入ってきたら、あの有様だったそうだ。佐野先生はバッグをとっさに放り投げたのか、それは部屋の出入口付近に落ちていたそうで、警察官がバッグを届けてくれた。
ストーカー男は救急車よりもひと足早く到着した警察官にあの場所で逮捕された。だけど誰の心も救われない結末のような気がする。佐野先生は大怪我を負っているというのに、ストーカー男は反省の言葉もないそうだ。
わたしはあまりにも申し訳なくて、泣くことしかできない。深く沈んだわたしには、佐野先生に面会する気力はなかった。
「佐野先生の様子はどうだった?」
事件の翌日の昼頃。見舞いから帰ってきた母に真っ先に尋ねた。
「元気そうだったわ。逆に先生が輝を心配していたわよ」
「……そう」
「あんなことがあってつらいでしょうけど。お見舞いには行かないの?」
心配か……。母が言っていた言葉が胸に引っかかった。お見舞いに行きたい気持ちはあるけれど、なんて謝っていいのかわからない。いや、そもそも佐野先生は謝罪なんて求めていないのはわかっている。そうじゃなくて、佐野先生の人生に悪い影響を与えてしまっている自分のことが許せなかった。
でもそれって自分のことしか考えていないということになるのかな。それじゃだめだ。自分のことより、まずは佐野先生を安心させてあげなきゃ。
その日の夕方、わたしは病院に行った。「コンコン」とノックをしたら、なかから「はい」と返事がした。ゆっくりとドアを開けると佐野先生は食事中だった。
「……こ、こんにちは。じゃなかった、こんばんは……かな」
「輝……」
「来るのが遅くなって、すみません」
ベッドのそばに寄ると左手を差し出された。意味がわからなかったけれど、その手を握った。
すると、ぐっと引き寄せられた。握られた手のひらからすべてが伝わってくるような気がした。「来てくれてありがとう」と言ってもらえたような気がして、なにかが解放されたみたいに、涙がこぼれた。
やさしすぎるよ。なのにわたしは心配ばかりかけている。怪我をさせてしまった責任を感じ、ひとりで怖がって、会うのをためらっていたわたしはなんて情けないんだろう。
「ごめんなさいっ……。本当に、ごめん……なさい……」
顔をくしゃくしゃにして大号泣。右手で涙を拭いながら、ひたすら泣いた。
「大丈夫。こんな怪我、どうってことないから」
だけど肩から腕は三角巾で固定され、点滴にもつながれていて痛々しい。それを見ていると胸がしめつけられる。
「痛みますか?」
「動かさなければ平気だよ。すぐに治るよ」
「でも麻痺が残ると聞きました」
「それはちょっとおおげさだな。傷が少し深かったから、最初は少し不自由があるかもっていう意味だよ」
「本当? じゃあ、ちゃんと治るんですか?」
「あたり前だろう。医者も、リハビリすればじきによくなるって言っていたよ」
「よかった……。本当によかった……」
お父さんたらあんな言い方をするからてっきり……。もちろん、そんなことになったら一生かけて償う覚悟はしていたけれど。
「聞いたよ、前からストーカーにつきまとわれてたって。なんで言わないんだよ?」
「……ごめんなさい」
「踏切であきらめて帰らないでよかったよ。俺の心配性もたまには役に立ったな」
佐野先生は、暗い夜道のなか、わたしをひとりで帰すのが心配で、あんなにしつこく追いかけてくれたそうだ。
「佐野先生がいなかったら、わたし、どうなってたか……」
「そんなことは考えなくていいんだよ。輝は無事だったんだから」
「はい……」
ずっと手を離さずに、佐野先生は低い声でわたしの心の奥の、さらにもっと奥をさぐろうとしている。嘘をついても無駄だよと言っているかのように手に力をこめてくる。
その手はあたたかくて頼りがいもある。すべてを包み込む大人の余裕と懐の深さを感じた。
「大丈夫か?」
「わたしの心配はしないでください」
「するよ、心配。あんな目に遭ったら精神的に参らないわけないよ」
「たしかに怖かったけど、佐野先生が怪我をしたことのほうがずっとずっと怖かったんです」
再びこぼれた涙を拭うと、佐野先生は「おいで」とベッドの端にわたしを座らせ、自由がきく左手でわたしの背中を引き寄せた。
わたしは右腕で身体を支えながら佐野先生の胸に顔を埋め、左腕を佐野先生の腰にまわした。
呼吸のたびに揺れる上半身に生命を感じる。無事でよかった。この状況に心から感謝した。
もう離れたくない、このままずっとそばにいたい。ふたりきりの静かな病室でそんなあり得ないことを思った。
思うだけ。いまだけだから……。
あのあと通りかかった人に頼んで救急車を呼んでもらい、病院で警察から事情を聞かれた。そこへ両親も駆けつけた。ストーキングされていることを両親に黙っていたので、そこはこってりしぼられたけど、そんなことはどうでもよかった。それよりも佐野先生だ。
佐野先生は入院となった。右肩を刺され軽傷とは聞いているけれど、傷は深かったそうだ。麻痺が残るかもしれない。佐野先生を見舞った父から聞かされた。
ビルの前に落ちていたわたしのバッグを拾った佐野先生が嫌な予感がして入ってきたら、あの有様だったそうだ。佐野先生はバッグをとっさに放り投げたのか、それは部屋の出入口付近に落ちていたそうで、警察官がバッグを届けてくれた。
ストーカー男は救急車よりもひと足早く到着した警察官にあの場所で逮捕された。だけど誰の心も救われない結末のような気がする。佐野先生は大怪我を負っているというのに、ストーカー男は反省の言葉もないそうだ。
わたしはあまりにも申し訳なくて、泣くことしかできない。深く沈んだわたしには、佐野先生に面会する気力はなかった。
「佐野先生の様子はどうだった?」
事件の翌日の昼頃。見舞いから帰ってきた母に真っ先に尋ねた。
「元気そうだったわ。逆に先生が輝を心配していたわよ」
「……そう」
「あんなことがあってつらいでしょうけど。お見舞いには行かないの?」
心配か……。母が言っていた言葉が胸に引っかかった。お見舞いに行きたい気持ちはあるけれど、なんて謝っていいのかわからない。いや、そもそも佐野先生は謝罪なんて求めていないのはわかっている。そうじゃなくて、佐野先生の人生に悪い影響を与えてしまっている自分のことが許せなかった。
でもそれって自分のことしか考えていないということになるのかな。それじゃだめだ。自分のことより、まずは佐野先生を安心させてあげなきゃ。
その日の夕方、わたしは病院に行った。「コンコン」とノックをしたら、なかから「はい」と返事がした。ゆっくりとドアを開けると佐野先生は食事中だった。
「……こ、こんにちは。じゃなかった、こんばんは……かな」
「輝……」
「来るのが遅くなって、すみません」
ベッドのそばに寄ると左手を差し出された。意味がわからなかったけれど、その手を握った。
すると、ぐっと引き寄せられた。握られた手のひらからすべてが伝わってくるような気がした。「来てくれてありがとう」と言ってもらえたような気がして、なにかが解放されたみたいに、涙がこぼれた。
やさしすぎるよ。なのにわたしは心配ばかりかけている。怪我をさせてしまった責任を感じ、ひとりで怖がって、会うのをためらっていたわたしはなんて情けないんだろう。
「ごめんなさいっ……。本当に、ごめん……なさい……」
顔をくしゃくしゃにして大号泣。右手で涙を拭いながら、ひたすら泣いた。
「大丈夫。こんな怪我、どうってことないから」
だけど肩から腕は三角巾で固定され、点滴にもつながれていて痛々しい。それを見ていると胸がしめつけられる。
「痛みますか?」
「動かさなければ平気だよ。すぐに治るよ」
「でも麻痺が残ると聞きました」
「それはちょっとおおげさだな。傷が少し深かったから、最初は少し不自由があるかもっていう意味だよ」
「本当? じゃあ、ちゃんと治るんですか?」
「あたり前だろう。医者も、リハビリすればじきによくなるって言っていたよ」
「よかった……。本当によかった……」
お父さんたらあんな言い方をするからてっきり……。もちろん、そんなことになったら一生かけて償う覚悟はしていたけれど。
「聞いたよ、前からストーカーにつきまとわれてたって。なんで言わないんだよ?」
「……ごめんなさい」
「踏切であきらめて帰らないでよかったよ。俺の心配性もたまには役に立ったな」
佐野先生は、暗い夜道のなか、わたしをひとりで帰すのが心配で、あんなにしつこく追いかけてくれたそうだ。
「佐野先生がいなかったら、わたし、どうなってたか……」
「そんなことは考えなくていいんだよ。輝は無事だったんだから」
「はい……」
ずっと手を離さずに、佐野先生は低い声でわたしの心の奥の、さらにもっと奥をさぐろうとしている。嘘をついても無駄だよと言っているかのように手に力をこめてくる。
その手はあたたかくて頼りがいもある。すべてを包み込む大人の余裕と懐の深さを感じた。
「大丈夫か?」
「わたしの心配はしないでください」
「するよ、心配。あんな目に遭ったら精神的に参らないわけないよ」
「たしかに怖かったけど、佐野先生が怪我をしたことのほうがずっとずっと怖かったんです」
再びこぼれた涙を拭うと、佐野先生は「おいで」とベッドの端にわたしを座らせ、自由がきく左手でわたしの背中を引き寄せた。
わたしは右腕で身体を支えながら佐野先生の胸に顔を埋め、左腕を佐野先生の腰にまわした。
呼吸のたびに揺れる上半身に生命を感じる。無事でよかった。この状況に心から感謝した。
もう離れたくない、このままずっとそばにいたい。ふたりきりの静かな病室でそんなあり得ないことを思った。
思うだけ。いまだけだから……。
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