恋い焦がれて

さとう涼

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7.消せない想い

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「……んんっ」

 遠くにある意識は夢か現実か。
 おしゃれで優雅な雰囲気、芸術的なすばらしい料理。夢のような時間と空間だった。ワインもおいしかったなあと、レインボーブリッジの夜景を脳裏に浮かべながら、自分がいまどちら側にいるのだろうとうつろに考えていた。
 バチッと目が冴えたのは、真っ先に映ったのがまったく見覚えのない天井だったからで、途端に背筋が凍る思いがして飛び起きた。

「わたし、いったい……?」
「レストランで酔っぱらって、しまいに寝ちゃったんだよ」
「……そうでした。保科さんにワインをすすめられるがまま飲んで……って、なんで渋谷店長がいるんですか!?」

 この部屋にはダブルベッドがふたつ並んでいる。窓の近くにひとりがけ用のソファがあって、渋谷店長はそこに座っていた。

「俺がおまえをここまで運んでやったんだ。ありがたく思え」

 渋谷店長が? やばい、ぜんぜん思い出せない! その部分の記憶がまったくない!

「……そ、それはどうもありがとうございます。……それでなんですが、ここどこですか? いま何時なんですか?」

 取り乱してしまうと余計に収集がつかなくなりそうなので、自分を落ち着かせるため、あえてゆっくりとした口調で尋ねる。

「ここはホテルの部屋。時間は十一時五十三分」

 嘘!? お昼!?

「もうそんな時間なんですか!? わたし、何時間寝てたんだろう?」
「三時間ぐらいだよ」

 ……ん? たった三時間なの?
 窓にはカーテンが引かれていて、外の様子はわからない。だけど部屋は照明がついているといっても薄暗いので、もしかしてまだ夜なのかも。つまり深夜の十一時ということだ。
 ふう、よかった……。
「具合は?」
「わりと平気です」
「ぶっ倒れたくせに起きたらケロッとされると、酒が強いのか弱いのかわかんないな」
「調子に乗りすぎました。すごく楽しくなっちゃって、ついガブガブと」
「まったく。ワインを水みたいに飲みやがって」

 だんだんと思い出してきた。
 ワインをもう一本持ってこようとした保科さんを渋谷店長が引きとめ、直後わたしは一気に酔いがまわり、テーブルに突っ伏してしまった。そこで渋谷店長はわたしを起こし、なんとかグラスの水を飲ませ、席を立たせ歩かせたのだが、エレベーターホールまで来たところで足がもつれて派手に転んでしまった。
 そしてそのあと……? だめだ、そこで記憶が途切れている。たぶんそのあと渋谷店長がこの部屋まで運んでくれたんだ。
 でもどうやって? ……えっ? まさか……。
 改めて状況を理解して、血の気がサァーッと引いていった。

「ごっ、ご迷惑をおかけしてすみません。……わたし、重かったですよね?」

 おずおずと尋ねる。
 正直、レストランを出たあとのことはあまり知りたくない。だけどお酒を飲んで記憶をなくすことは生まれて初めてで、自分が変なことをしてやしないか心配なのだ。

「ああ。重いし、暴れるしで大変だったよ。『おろしてー!』って、エレベーターのなかで絶叫された。ほかにも客がのってたから、俺は輝をお姫様抱っこしたまま平謝りしたよ」
「う、嘘……」

 暴れる、絶叫……。なんか想像以上に凄まじいんですけど。

「恥ずかしくてこの部屋から出るのが怖いです」
「もう二度と会わない連中だろうから気にすんな」
「気にしますよ。ああ、どうしよう。わたし、めちゃくちゃ酒癖悪いじゃないですか」
「いろいろあったからストレスがたまってたんじゃないか。それもあって悪酔いしたんだろう。飲みすぎる前に俺が止めるべきだったんだ」

 あれ? なにか変だ。やけにやさしい。てっきり、ばかにされたり、あきれられたりするかと思っていた。

「今日はこのまま、ここで休め。俺は隣の部屋で寝るから」

 わたしのために部屋をとってくれたんだ。しかも二部屋も。

「宿泊代はわたしが払います」
「いらないよ」
「でも余計な出費をさせてしまいました」
「安心しろ。部屋は保科さんがとってくれたんだ。つまり保科さんのおごりだ。たくさん飲ませてしまったお詫びだそうだ。それにいい機会じゃないか? この部屋、わりとグレードの高い部屋だし、せっかくだから泊まらせてもらおう。俺もこれから運転するのやだし」
「わかりました。そういうことなら」

 このホテルはビジネスホテルとは違う。広々としていて、リゾートの雰囲気を醸し出している。ベッドを降りてカーテンを開けると、レインボーブリッジが見えた。日常を忘れさせてくれるような解放感に思わずため息がもれた。

「この景色を見ていると帰りたくなくなりますね」
「やっぱりまだ怖いか?」

 渋谷店長がわたしの隣に立ち、ガラス窓に映るわたしの目を見つめた。

「お店に来ていたストーカーのことなら気にしてません。しばらく気をつけるようにしますけど、向こうもそのうち飽きてどっかに行っちゃいますよ」

 誰かに監視されている気がしていたのは神経質になっているからだ。大学で感じていた視線は智樹のものだったし、きっと大丈夫。なにごともなく過ぎていくはず。

「相変わらず、かわいげがないな」
「すみませんね。生まれつきなもので」
「そうじゃないだろう。そんなふうに無理してどうすんだよ? 甘え方を知らないわけじゃないんだから、ひとりで心細いときはそう言えよ」
「そんなわけには……」

 やだな、妙な雰囲気になってきた。渋谷店長の真剣さは怖いくらいだった。

「俺が守ってやるよ」
「えっ?」
「輝はもっと俺を頼れ。俺だったら喜んで“先生”の代わりになるよ」

 誰かの代わりに……か。少し前のわたしも同じようなことを言っていた。逆の立場になって、佐野先生の気持ちをますます理解できる。相手にこんなセリフを言わせてしまうことは身を切るほどにつらいことなんだ。

「わたしはいまも佐野先生のことが好きなんです」
「それでもかまわないと言ってるんだよ。安心しろ。輝はそのうち俺のことを好きになるから」

 そんなふうに言われるなんて思ってもみなかった。渋谷店長は強い人。だけどそれに甘えてはいけない。頼ることは許されない。
 だけどわたしが「でも」と言いかけたそのとき、背後からふわりと抱きしめられた。

「つべこべ言わずに、俺のところに来い」

 耳たぶをかすめた唇に心が大きく揺れる。
 この胸に飛び込んだら、幸せにしてくれるに違いない。この人はわたしとは違う。いつまでも二番目というポジションに甘んじるような人じゃない。
 けれど、どうしてもわたしは自分の気持ちを優先してしまう。こんなときでも佐野先生が忘れられない。

「無理……なんです、どうしても。だから、ごめんなさい」

 できることなら追い出したいよ、佐野先生を。なのにどうしても恋い焦がれてしまう。こんなにも求めてくれる人がいるのに。だからこそ、わたしの心にはいまも佐野先生が住み着いていると改めて実感してしまう。

「やっぱりおまえはかわいげがないな。この俺を振るとは生意気にもほどがある」
「……すみません」
「謝るな。俺がかわいそうみたいだろうが」

 渋谷店長は不機嫌そうに言いながら、わたしから距離を置く。わたしはどうしていいのかわからなくて、下を向くしかなかった。

「輝の答えは最初からわかってたよ。それでも一縷《いちる》の望みを賭けてみたかったんだよ。ごめんな。俺のわがままにつき合わせて、こんなとこまで連れてきちまって」
「……いいえ」

 人の想いはこんなにも重たい。こんなわたしを好きになってくれたありがたさは感じても、うれしさはなかった。

「輝」

 渋谷店長の声は思いのほかやさしかった。顔をあげると、頭をくしゃりと撫でられた。

「そんな申し訳なさそうな顔するなって。俺なら平気だよ。だから輝もいつも通りにバイトに来いよな」

 切なさが津波のように押し寄せてくる。苦しくて、呼吸もままならない。それでもわたしはこのやさしさに応えないといけない。

「はい、もちろんです。個人的なことで、お店にも渋谷店長にもたくさん迷惑かけちゃいましたから、その分も挽回しないといけないですからね」

 目を見てしっかりと答える。

「そうそう、その調子。輝にはやっぱりそんなふうに笑っていてほしいよ」

 無理やり作った笑顔。でもちゃんと届いているかな。好きになってくれてありがとうという気持ちはきちんと返したいと思った。
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