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7.消せない想い
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十月になると気温も落ち着き、過ごしやすい。
佐野先生にフラれ、十日以上過ぎていた。いまも鮮明に残るあの夜の花火は色とりどりで、ラムネ瓶のようなエメラルドグリーンの海の底をあてもなく泳ぎ続けている。
あれから毎日をやり過ごしていた。気づくとボーッとしていることが多く、精神がゆらゆらとどこかを浮遊しているみたいだった。それは由紀乃や真美ちゃんに何度も現実に引き戻してもらうほどだった。
木曜日の午後。大学の授業を終えたわたしは自宅に帰ろうとひとりで駅に向かっていた。しかし違和感を覚え、足を止めた。わたしは息を呑み、覚悟を決めると、ゆっくりとうしろを振り向いた。
「あ、バレた?」
「さっきから足音がうるさいんだけど」
違和感はこれか。どういうつもりなのか、十メートルうしろに智樹が立っていた。
「そんな怖い顔しないでよ」
「尾行するなら、もっと距離をあけないと気づかれるよ」
「尾行してたわけじゃないって。偶然だよ、偶然。行き先が同じなんだから、道で一緒になることだってあるだろう?」
「じゃあ、先に行って」
「なんで?」
智樹が不思議そうな顔になる。
「智樹はわたしより歩くのが速いんだし。どうぞ、わたしを抜かしていって」
「相変わらず冷たいなあ。せっかくなんだから一緒に帰ろうよ。帰る方向も同じなんだからさ」
猫なで声を使ったって、わたしは騙されないんだから。
「イヤッ!」
「だからその顔、怖いんだって」
「うるさい!」
わたしは捨て台詞を吐くと、智樹を無視し続け、駅まで歩く。
やがて智樹はあきらめたらしく、ホームでもわたしから一定の距離を置き、言葉をかわすことはなかった。
なんでこんなどうでもいいと思っている元彼に好かれているんだろう。どうせ執着するなら、つき合っているときにしてほしかった。
悪い人ではないと思う。だから好きになって一年もの間ずっと一緒にいた。だけどあの頃の気持ちはなくなってしまった。よみがえることもない。もう智樹に恋することはできないんだよ。
翌々日の土曜日。今日は午後五時からバイト。更衣室で制服に着替え、いつものようにホールで接客を開始する。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
だけどお客をテーブルに案内しようとしたら、男性はわたしの質問に答えることなく、じっと見つめてきた。
歳は二十代前半ぐらい。きつい体臭に脂ぎった顔をニッとゆがませて、小首を傾げるように覗き込んできた。
「こんばんは。今日はいつも通りだね。安心したよ。最近、元気がないみたいだったから」
ちょっと、この人なんなの?
思わず一歩引いて警戒する。
あっ……。どこかで見たことがあると思ったら。この人、前に店の裏口で話しかけてきた人だ。
気の弱そうな雰囲気なのに、小さなパーツのキツネ目は毒々しく輝き、襲いかかってきそうな眼差しはまるで凶器。正面から直視され、確信した。
この人だ。ずっとわたしを見張っていた人間は──。
「……お、お席にご案内します」
なんとか接客を続ける。
「なにか言ってよ。僕、輝ちゃんをずっと心配していたんだよ」
わたしの身体を触ろうとしてきたので、その手を押し返した。
「……やめてください。人を呼びますよ」
「反抗するなんていけない子だな。でもそんなところもかわいいよ。それに今日は久しぶりに輝ちゃんの制服姿を見ることができたから大目にみてあげる。その制服、輝ちゃんが世界で一番似合ってる」
薄気味悪く笑うその男の顔を見て、心臓が破裂しそうなほど激しく動いている。
怖い、動けない!
だけど自分ではどうする事もできない。
誰か助けて!
「お客様、大変失礼しました。わたくしがご案内いたします」
「渋谷店長……」
「輝はもういい。早くさがりなさい」
スタッフの失敗をフォローするような口ぶりで渋谷店長が目配せする。
「すみません」
でもわかっていた。こうやってわたしを助けてくれていることを。安心して涙が出そうになった。
その後、事務所のドアの前で渋谷店長を待っていた。少しして聞こえてきた足音と気配でその方向に目を向けた。
「あの男が帰ったら教えるから、それまでなかで待機してろ」
渋谷店長はドアを開けると、わたしの背中を押した。
「前にお店の裏で待ち伏せしていた男の人なんです。きっとその日以外にもつきまとっていたんだと思います。いつも刺すような視線を感じていましたから」
「完全にストーカーだな。接客が俺に変わったのが気に食わなかったらしくて舌打ちされたよ」
「でもなんでわたしなんでしょう?」
「もの好きがいたもんだな」
「それ、どういう意味ですか!?」
「冗談だよ。でもこういうことは別に珍しいことじゃない。とくにうちの店の制服はマニアの間では高値で取引されているみたいだからな」
由紀乃が言っていた件だ。そういえば、さっきあの男に制服がどうこう言われたのを思い出した。
「だからって、制服を着ている人間はわたし以外にもいますよ。それにほかの店舗だってあるのに……」
「おそらく、たまたま気に入られて目をつけられたんだろう」
「何度も来店していたらしいんです」
「ああ。週末によく見かけてた」
「本当ですか? ぜんぜん気づきませんでした」
思い出そうとしても思い出せない。自分の記憶力のなさにがっかりする。お客の顔はなるべく覚えるようにしているけれど、渋谷店長のようには無理だ。
「そう落ち込むなって。ひとりならともかく、あの男はいつも複数で来店していたから、覚えてなくて当然だよ」
「これからどうしたらいいんでしょう?」
今日みたいにタイミングよく誰かが助けてくれるとは限らない。
「しばらくバイトは休め。念のため警察に届けておいたほうがいいと思うけど、どうする?」
「バイトは休ませてもらうにしても、警察に届けるのはもう少し様子をみてみます」
「だけど前からつきまとわれていたんだろう? とにかく、ご両親にはこのことを相談しろ」
「はい」
前回と同様、この日も渋谷店長が家まで送ってくれることになった。今回はさすがに「お願いします」と素直に頭をさげた。
佐野先生にフラれ、十日以上過ぎていた。いまも鮮明に残るあの夜の花火は色とりどりで、ラムネ瓶のようなエメラルドグリーンの海の底をあてもなく泳ぎ続けている。
あれから毎日をやり過ごしていた。気づくとボーッとしていることが多く、精神がゆらゆらとどこかを浮遊しているみたいだった。それは由紀乃や真美ちゃんに何度も現実に引き戻してもらうほどだった。
木曜日の午後。大学の授業を終えたわたしは自宅に帰ろうとひとりで駅に向かっていた。しかし違和感を覚え、足を止めた。わたしは息を呑み、覚悟を決めると、ゆっくりとうしろを振り向いた。
「あ、バレた?」
「さっきから足音がうるさいんだけど」
違和感はこれか。どういうつもりなのか、十メートルうしろに智樹が立っていた。
「そんな怖い顔しないでよ」
「尾行するなら、もっと距離をあけないと気づかれるよ」
「尾行してたわけじゃないって。偶然だよ、偶然。行き先が同じなんだから、道で一緒になることだってあるだろう?」
「じゃあ、先に行って」
「なんで?」
智樹が不思議そうな顔になる。
「智樹はわたしより歩くのが速いんだし。どうぞ、わたしを抜かしていって」
「相変わらず冷たいなあ。せっかくなんだから一緒に帰ろうよ。帰る方向も同じなんだからさ」
猫なで声を使ったって、わたしは騙されないんだから。
「イヤッ!」
「だからその顔、怖いんだって」
「うるさい!」
わたしは捨て台詞を吐くと、智樹を無視し続け、駅まで歩く。
やがて智樹はあきらめたらしく、ホームでもわたしから一定の距離を置き、言葉をかわすことはなかった。
なんでこんなどうでもいいと思っている元彼に好かれているんだろう。どうせ執着するなら、つき合っているときにしてほしかった。
悪い人ではないと思う。だから好きになって一年もの間ずっと一緒にいた。だけどあの頃の気持ちはなくなってしまった。よみがえることもない。もう智樹に恋することはできないんだよ。
翌々日の土曜日。今日は午後五時からバイト。更衣室で制服に着替え、いつものようにホールで接客を開始する。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
だけどお客をテーブルに案内しようとしたら、男性はわたしの質問に答えることなく、じっと見つめてきた。
歳は二十代前半ぐらい。きつい体臭に脂ぎった顔をニッとゆがませて、小首を傾げるように覗き込んできた。
「こんばんは。今日はいつも通りだね。安心したよ。最近、元気がないみたいだったから」
ちょっと、この人なんなの?
思わず一歩引いて警戒する。
あっ……。どこかで見たことがあると思ったら。この人、前に店の裏口で話しかけてきた人だ。
気の弱そうな雰囲気なのに、小さなパーツのキツネ目は毒々しく輝き、襲いかかってきそうな眼差しはまるで凶器。正面から直視され、確信した。
この人だ。ずっとわたしを見張っていた人間は──。
「……お、お席にご案内します」
なんとか接客を続ける。
「なにか言ってよ。僕、輝ちゃんをずっと心配していたんだよ」
わたしの身体を触ろうとしてきたので、その手を押し返した。
「……やめてください。人を呼びますよ」
「反抗するなんていけない子だな。でもそんなところもかわいいよ。それに今日は久しぶりに輝ちゃんの制服姿を見ることができたから大目にみてあげる。その制服、輝ちゃんが世界で一番似合ってる」
薄気味悪く笑うその男の顔を見て、心臓が破裂しそうなほど激しく動いている。
怖い、動けない!
だけど自分ではどうする事もできない。
誰か助けて!
「お客様、大変失礼しました。わたくしがご案内いたします」
「渋谷店長……」
「輝はもういい。早くさがりなさい」
スタッフの失敗をフォローするような口ぶりで渋谷店長が目配せする。
「すみません」
でもわかっていた。こうやってわたしを助けてくれていることを。安心して涙が出そうになった。
その後、事務所のドアの前で渋谷店長を待っていた。少しして聞こえてきた足音と気配でその方向に目を向けた。
「あの男が帰ったら教えるから、それまでなかで待機してろ」
渋谷店長はドアを開けると、わたしの背中を押した。
「前にお店の裏で待ち伏せしていた男の人なんです。きっとその日以外にもつきまとっていたんだと思います。いつも刺すような視線を感じていましたから」
「完全にストーカーだな。接客が俺に変わったのが気に食わなかったらしくて舌打ちされたよ」
「でもなんでわたしなんでしょう?」
「もの好きがいたもんだな」
「それ、どういう意味ですか!?」
「冗談だよ。でもこういうことは別に珍しいことじゃない。とくにうちの店の制服はマニアの間では高値で取引されているみたいだからな」
由紀乃が言っていた件だ。そういえば、さっきあの男に制服がどうこう言われたのを思い出した。
「だからって、制服を着ている人間はわたし以外にもいますよ。それにほかの店舗だってあるのに……」
「おそらく、たまたま気に入られて目をつけられたんだろう」
「何度も来店していたらしいんです」
「ああ。週末によく見かけてた」
「本当ですか? ぜんぜん気づきませんでした」
思い出そうとしても思い出せない。自分の記憶力のなさにがっかりする。お客の顔はなるべく覚えるようにしているけれど、渋谷店長のようには無理だ。
「そう落ち込むなって。ひとりならともかく、あの男はいつも複数で来店していたから、覚えてなくて当然だよ」
「これからどうしたらいいんでしょう?」
今日みたいにタイミングよく誰かが助けてくれるとは限らない。
「しばらくバイトは休め。念のため警察に届けておいたほうがいいと思うけど、どうする?」
「バイトは休ませてもらうにしても、警察に届けるのはもう少し様子をみてみます」
「だけど前からつきまとわれていたんだろう? とにかく、ご両親にはこのことを相談しろ」
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