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6.身代わりでもいいから
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一年前に別れた同い年の元彼は二歳下の女子高生と浮気をしていた。「輝と違って素直に甘えてきてくれて、そこがかわいいと思っちゃったんだ」まるでわたしの欠点を指摘するように元彼は言った。元彼曰く、全般的に男はそういう女の子に惹かれるらしい。真偽のほどは不明だけど。元彼の言葉はいまも胸に突き刺さったままだ。
「おまえ、かわいくないなあ。素直に甘えとけよ」
「だから大丈夫ですって」
「大丈夫かそうでないかは俺が決める」
花火大会から十日以上経過していた。九月に入り、大学の夏休みもあと二週間ほど。そんななか大学の授業がはじまる九月中旬以降のシフトのことで渋谷店長から時間変更を提案された。週末、午後五時に入って午後九時にあがる。なるべく早い時間に帰宅できるよう考慮してくれたのだが。
「あれ以来、あの男の人は見かけていませんし、きっともう現れないですよ。前と同じ時間帯で大丈夫です」
「だから輝が決めるなよ。なにかあってからじゃ遅いんだ。ということで、これで決まり。意義は認めない」
強引すぎる。だけど渋谷店長には逆らえない。それにわたしを心配してくれているわけだから、ここは従っておいたほうがいいよね。
八月中、佐野先生は店に来ることはなかった。学校は夏休みといっても教師は休日というわけではないらしく、授業がないからこそ、いつにも増して忙しい日々だったらしい。
午後三時半。バイトを終え、自宅マンションに着いたところだった。
「ん?」
エントランスに入ろうとしたとき、ふと視線を感じた。目線だけを動かしたけれど、人がいることは確認できなかった。
気のせいかな。バイト先で渋谷店長とそんな話をしていたからなのかもしれない。店の裏口で見知らぬ男性に声をかけられた出来事はここ何日も思い出すことはなかったから。
それからというもの、あの視線をたびたび感じるようになった。大学の夏休みが終わり、週末だけのシフトになってもあの男性が現れることはなかったけれど、なんとなく不安がつきまとった。その不安は自宅マンション周辺やファミレス周辺、さらには大学にいても同じだった。
「おはよ、輝ちゃん!」
「真美《まみ》ちゃん、おはよう」
ここは大学の食堂で、ただいま昼休み中。わたしの向かい側に真美ちゃんが座った。
真美ちゃんは大学で初めてできた友達で、おっとりした笑顔の絶えないとてもいい子。今日は真美ちゃんのとっている授業は午後から。わたしは午前中から授業だったので、先に食堂に来ていた。
「輝ちゃん、なにかあった?」
「別になにもないけど。なんでそんなこと聞くの?」
「なんとなく元気がないから」
「あ、ああ……。夏バテかな。最近あんまり食欲ないんだよねえ」
「夏バテ……?」
怪しむような目だ。
「なにが言いたいの?」
「そのわりには食欲あるなあと思って」
今日は日替わりAランチ定食(ごはん大盛り)をすでに完食。いまも手には紙パックのいちごオレ。そうだった。わたしは昔から食欲不振とは縁遠い人生だった。悩みごとがあっても、なぜかごはんはしっかり食べられるのだ。
「まあそれはいいとして。そのうち輝ちゃんの耳に入ると思うから言うけど……。智樹《ともき》くんにまた新しい彼女ができたんだって。夏休みに入る少し前からつき合いはじめたらしいよ」
「えっ……?」
智樹とは、一年以上前に別れたわたしの元彼だ。同じ高校で同じクラス。高三のときからつき合いはじめ、その後一緒にこの大学に入学した。それから数ヶ月で破局を迎えたわけだけれど、同じ大学なので嫌でも視界に入ることがある。
「相手は誰?」
「学生課の事務員の杉浦《すぎうら》さんっていう人だよ」
「どんな人だっけ?」
「窓口でよく対応してるでしょう。インテリっぽいシルバーフレームの眼鏡をかけて、ちょっと冷たい感じの人」
そういえば、そんな人もいたような。わたしの記憶が正しければ、彼女はかなり年上だったと思うんだけど。まあでも前の前の彼女はアラフィフだったのであり得る話ではある。ストライクゾーンがやたら広いというのは別れてから知ったことだ。
「長続きしないよね、智樹くんって」
「あの人、昔からそうだもん。わたしとつき合う前だってサイクルの短い彼女が何人もいたから」
女の子は単なるアイテム、そういう考えの持ち主だから。一方的にフラれて思い知った。
智樹とつき合いはじめた頃のわたしは「自分は特別だ」と根拠のない自信があって、ずっと一緒にいられると信じていた。恋は盲目。きっとあの頃のわたしは人気者の智樹とつき合えて有頂天になっていたんだと思う。実際、一年くらいつき合っていて、高校時代は意外に長続きしているわたしをうらやましがる女の子も多かった。
でも智樹は飽きたらすぐに別の新しいものに手を出す性格。かわいい女の子を見つけて、わたしをあっさりと捨てた。当時は散々泣いたなあ。
だけど智樹のいまの彼女のことなんてどうでもいいことだ。もちろん未練もない。だいたい彼女の存在だって、わたしの知る限り五人目。いまさらなことなのだ。
「杉浦さん、あんなのとつき合って後悔しなきゃいいけど。わたしは別れてよかったと思ってる。……もっとも、わたしにかわいげがなかったからフラれたんだけど」
「そんなことないよ! 輝ちゃんはかわいいよ。初めて会ったときにそう思ったもん!」
真美ちゃんは本気モードで訴える。
やっぱり真美ちゃんはかわいい。
「ありがと。真美ちゃんはいい子だね。わたしをかわいいと言ってくれるのは真美ちゃんだけだよ」
食堂はだいぶ人が少なくなった。そろそろ午後の授業がはじまる。真美ちゃんも授業のために食堂を出ていった。
わたしは次の授業が休講なので、ここで時間をつぶす予定。一度食器をさげに行き、同じ席に戻ると、バッグから文庫本を出した。
ジャンルはミステリー。前に渋谷店長に借りたミステリーの本は返却ずみだが、思いのほかおもしろかったので、同じ作家の別の作品を何冊か自分で買って少しずつ読んでいるところ。
だけど午後の授業がはじまり、食堂が一気に静かになった途端、また絡みつく視線を感じた。いちごオレのストローに口をつけながら様子をうかがう。ふと背中にぞわぞわと寒気を覚えた。
「おまえ、かわいくないなあ。素直に甘えとけよ」
「だから大丈夫ですって」
「大丈夫かそうでないかは俺が決める」
花火大会から十日以上経過していた。九月に入り、大学の夏休みもあと二週間ほど。そんななか大学の授業がはじまる九月中旬以降のシフトのことで渋谷店長から時間変更を提案された。週末、午後五時に入って午後九時にあがる。なるべく早い時間に帰宅できるよう考慮してくれたのだが。
「あれ以来、あの男の人は見かけていませんし、きっともう現れないですよ。前と同じ時間帯で大丈夫です」
「だから輝が決めるなよ。なにかあってからじゃ遅いんだ。ということで、これで決まり。意義は認めない」
強引すぎる。だけど渋谷店長には逆らえない。それにわたしを心配してくれているわけだから、ここは従っておいたほうがいいよね。
八月中、佐野先生は店に来ることはなかった。学校は夏休みといっても教師は休日というわけではないらしく、授業がないからこそ、いつにも増して忙しい日々だったらしい。
午後三時半。バイトを終え、自宅マンションに着いたところだった。
「ん?」
エントランスに入ろうとしたとき、ふと視線を感じた。目線だけを動かしたけれど、人がいることは確認できなかった。
気のせいかな。バイト先で渋谷店長とそんな話をしていたからなのかもしれない。店の裏口で見知らぬ男性に声をかけられた出来事はここ何日も思い出すことはなかったから。
それからというもの、あの視線をたびたび感じるようになった。大学の夏休みが終わり、週末だけのシフトになってもあの男性が現れることはなかったけれど、なんとなく不安がつきまとった。その不安は自宅マンション周辺やファミレス周辺、さらには大学にいても同じだった。
「おはよ、輝ちゃん!」
「真美《まみ》ちゃん、おはよう」
ここは大学の食堂で、ただいま昼休み中。わたしの向かい側に真美ちゃんが座った。
真美ちゃんは大学で初めてできた友達で、おっとりした笑顔の絶えないとてもいい子。今日は真美ちゃんのとっている授業は午後から。わたしは午前中から授業だったので、先に食堂に来ていた。
「輝ちゃん、なにかあった?」
「別になにもないけど。なんでそんなこと聞くの?」
「なんとなく元気がないから」
「あ、ああ……。夏バテかな。最近あんまり食欲ないんだよねえ」
「夏バテ……?」
怪しむような目だ。
「なにが言いたいの?」
「そのわりには食欲あるなあと思って」
今日は日替わりAランチ定食(ごはん大盛り)をすでに完食。いまも手には紙パックのいちごオレ。そうだった。わたしは昔から食欲不振とは縁遠い人生だった。悩みごとがあっても、なぜかごはんはしっかり食べられるのだ。
「まあそれはいいとして。そのうち輝ちゃんの耳に入ると思うから言うけど……。智樹《ともき》くんにまた新しい彼女ができたんだって。夏休みに入る少し前からつき合いはじめたらしいよ」
「えっ……?」
智樹とは、一年以上前に別れたわたしの元彼だ。同じ高校で同じクラス。高三のときからつき合いはじめ、その後一緒にこの大学に入学した。それから数ヶ月で破局を迎えたわけだけれど、同じ大学なので嫌でも視界に入ることがある。
「相手は誰?」
「学生課の事務員の杉浦《すぎうら》さんっていう人だよ」
「どんな人だっけ?」
「窓口でよく対応してるでしょう。インテリっぽいシルバーフレームの眼鏡をかけて、ちょっと冷たい感じの人」
そういえば、そんな人もいたような。わたしの記憶が正しければ、彼女はかなり年上だったと思うんだけど。まあでも前の前の彼女はアラフィフだったのであり得る話ではある。ストライクゾーンがやたら広いというのは別れてから知ったことだ。
「長続きしないよね、智樹くんって」
「あの人、昔からそうだもん。わたしとつき合う前だってサイクルの短い彼女が何人もいたから」
女の子は単なるアイテム、そういう考えの持ち主だから。一方的にフラれて思い知った。
智樹とつき合いはじめた頃のわたしは「自分は特別だ」と根拠のない自信があって、ずっと一緒にいられると信じていた。恋は盲目。きっとあの頃のわたしは人気者の智樹とつき合えて有頂天になっていたんだと思う。実際、一年くらいつき合っていて、高校時代は意外に長続きしているわたしをうらやましがる女の子も多かった。
でも智樹は飽きたらすぐに別の新しいものに手を出す性格。かわいい女の子を見つけて、わたしをあっさりと捨てた。当時は散々泣いたなあ。
だけど智樹のいまの彼女のことなんてどうでもいいことだ。もちろん未練もない。だいたい彼女の存在だって、わたしの知る限り五人目。いまさらなことなのだ。
「杉浦さん、あんなのとつき合って後悔しなきゃいいけど。わたしは別れてよかったと思ってる。……もっとも、わたしにかわいげがなかったからフラれたんだけど」
「そんなことないよ! 輝ちゃんはかわいいよ。初めて会ったときにそう思ったもん!」
真美ちゃんは本気モードで訴える。
やっぱり真美ちゃんはかわいい。
「ありがと。真美ちゃんはいい子だね。わたしをかわいいと言ってくれるのは真美ちゃんだけだよ」
食堂はだいぶ人が少なくなった。そろそろ午後の授業がはじまる。真美ちゃんも授業のために食堂を出ていった。
わたしは次の授業が休講なので、ここで時間をつぶす予定。一度食器をさげに行き、同じ席に戻ると、バッグから文庫本を出した。
ジャンルはミステリー。前に渋谷店長に借りたミステリーの本は返却ずみだが、思いのほかおもしろかったので、同じ作家の別の作品を何冊か自分で買って少しずつ読んでいるところ。
だけど午後の授業がはじまり、食堂が一気に静かになった途端、また絡みつく視線を感じた。いちごオレのストローに口をつけながら様子をうかがう。ふと背中にぞわぞわと寒気を覚えた。
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