恋い焦がれて

さとう涼

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4.交錯する恋のベクトル

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 けれど、そうすんなりとはいかなかった。
 渋谷店長が更衣室のドアの前に無表情で立っていた。無言でわたしを見ている。それが逆に怖い。きっとまた怒られる。ううん、それどころじゃない。今度こそクビを言い渡されてしまうと思った。

「ちょっと来い」
「はい……」

 とうとう事務所に呼ばれてしまった。先に渋谷店長が入り、そのあとわたしも続く。ドアの閉まる音がやけに大きく聞こえた。
 なかへ進むと、恐るおそる渋谷店長の座るデスクの前に立つ。腕を組み、椅子の背もたれにふんぞり返っている姿は貫録ありすぎだ。

「なんでここに呼ばれたかわかるよな?」
「はい。ちゃんと責任は取ります」
「責任?」
「バイトを辞めます」
「急にバイト辞めますなんて、逆に無責任だろう?」
「でもお客様の前であんな醜態をさらしてしまいましたし。それに以前、渋谷店長にも、次になにかあったら『辞めてもらう』と言われました」

 渋谷店長は言い返すことをせず、難しい顔をする。
 事務所は厨房やホールの雑音が聞こえてくるほど静かだった。言いかえればそれくらい重たい空気が充満している。無言の渋谷店長はいつにも増して怖い。
 しかし十秒ほどの沈黙のあと、渋谷店長が素っ頓狂な声をあげた。

「あのなあ、あれは言葉の綾というか、輝に気合を入れさせるためにあんなふうに言ったんだよ」
「でも……」
「たかがあの程度のことで辞める必要があるか。というより辞めてもらっては困るんだ」

 ああ、なるほど。人手不足のことを言っているのか。つい最近、仕事のできるパートさんがふたりいっぺんに辞めてしまったばかり。新たに人が補充されたといってもなかなか厳しい現状だ。

「とりあえず今日は帰れ。どうせ残りの勤務時間はあと三十分だけだろう。車で送ってやる」
「そ、そんなっ! 大丈夫です。ひとりで帰れますから!」
「俺がよくないんだよ。そんな顔したおまえをひとりで帰せるか」
「え……?」
「ぐずぐず言ってないで早く着替えてこい。俺の休憩時間がなくなるだろう。先に車で待ってる」

 勢いづけて椅子から立ちあがる渋谷店長の迫力に身体がビクンとなるが、こんなときでもわたしを心配してくれる渋谷店長のやさしさは伝わってきた。
 更衣室で着替えをすませ、店の裏の駐車場まで歩きながら、大きな罪悪感と後悔にさいなまれていた。仕事中になにをやっているのだろう。あの場にいた人たちに不愉快な思いをさせ、迷惑をかけてしまった。いろいろ噂もされるんだろうな。それは自業自得なんだけど。
 憂鬱が増幅していく。次から次へと嫌なことが起こって、最悪な気分だった。


 車に乗り込むと、運転席の渋谷店長にため息をつかれた。
 やっかいな人間と思われているんだろうな。自分でもなんて情緒不安定だったんだろうと、気持ちが落ち着いたいまだからそう思える。

「今日は迷惑をかけてすみませんでした。あのとき自分のことしか考えられなくなってしまって……」
「もういいよ。しっかり反省しているみたいだし、俺が言うことはもうないよ」

 渋谷店長が「辞めてもらう」と言っていたのは、浮ついていたわたしへの忠告だった。でもわたしは甘えていた。アルバイトの身だからとか学生だからとか。心のどこかでその言葉を軽く考えていたような気がする。

 車が動き出すと、週末の大通りは少し車の流れが悪かった。ふいにクラクションの音がした。少し先の信号が赤になり、車が静かに止まる。そのタイミングで渋谷店長が語りはじめた。

「社会人も大変だけど、学生時代もいろいろあるよな。泣いたり喚《わめ》いたり。俺も経験がないわけじゃないから気持ちはよくわかるよ」

 もしやなぐさめようとしてくれているの? てっきり説教タイムかと思っていたので、気が抜けて口があんぐりとなる。

「なにがあったか知らないけど、たくさん悩んでたくさん葛藤するのは悪いことじゃない。そういうものは将来、自分の糧になるものだから、いい人生経験してると思って前向きに考えていけばいいと思う」
「……はい」
「まあひとしきり落ち込んで、あとは元気だせ」

 ストレートな励ましの言葉がじわじわと染みてくる。

「バイトのほうも、来週からまたよろしく頼むな。なにかあったら、俺がいくらでもフォローするから」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 渋谷店長はもともと面倒見がよかったけれど、思っていた以上に情が深くて、いまはとても心強い存在となっている。こんなふうに見守ってくれる人がいるのだと思ったら、明日からがんばれそうな気がする。渋谷店長の言葉は、どん底だったわたしに元気を与えてくれた。もう感謝しかない。この人の下で働けて、わたしは幸せだ。
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