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4.交錯する恋のベクトル
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四日後の土曜日。わたしはバイトに来ていた。
昨日とおとといもバイトだった。渋谷店長に会った翌日の水曜日の夜に電話がきて、平日のシフトは火・水・木の週三回、午前十時から午後三時までと決まった。それに加えて金・土の夜もある。だいぶ忙しくなったけれど、それくらいがちょうどいい。家にいてもやることがないし、出かけるにもお金がいる。どうせ夏休みの間だけなので余裕でこなせるだろう。
だけど、解決できない大問題があった。
もう店には来てくれないかと思っていたのに、どういうつもりなのか、佐野先生がふらっとファミレスにやって来たのだ。いつものカウンター席に座り、普段通りに料理を注文し完食すると、今日は珍しく追加でアイスカフェラテを頼んできた。
佐野先生とカザネさんが鉢合わせしたらどうしよう。わたしの頭のなかはそのことでいっぱい。ナリたちは毎週店に来るわけでないし、カザネさんも毎回一緒というわけでもない。でも不安はつきまとう。とりあえず、わたしにいまできることは、できるだけ早急に佐野先生に帰ってもらうことだ。
「でもどうやって追い出そう?」
「誰を追い出すって?」
アイスカフェラテを運ぼうとトレンチに載せたところだった。渋谷店長は毎回のように気配を消して、どこからともなく現れるので非常に困る。
「いいえ、なんでもないです。こっちのことですのでお気になさらず」
「ならよかった。お客様を追い出すとか、あり得ないからな」
「ええ、ですよね」
わたしはこれ以上怪しまれないよう、なるべく平然と答えるとホールに向かった。
ただいまの時刻は午後十一時十分。幸いナリたちはまだ来ていない。やっぱり今日は来ないのかもしれない。
「お待たせしました。アイスカフェラテです」
「ありがとう」
グラスをテーブルに置くと、佐野先生が律儀にお礼を言いながらグラスを手に取って口をつけた。おいしそうに飲んでくれて、なんだかほっとした。
「大丈夫か?」
「えっ?」
「あっ、いや。もとはといえば俺のせいなんだけど。心配してくれたんだよな?」
この間のことか。
「ええ、まあ。でも泣いちゃってすみませんでした。あのときのわたし、情緒不安定で……」
「なにはともあれ、元気そうで安心した。……なんて人のいいフリをしてるけど。俺のために泣いてくれる子がいるんだって思ったら、うれしかった。こんなふうに思うのはやっぱり不謹慎かな」
わたしは胸がいっぱいになって言葉にならない。
不謹慎なんかじゃないよ。なにをどうすればいいのかわからなくて歯がゆかった。だから佐野先生の役に立てたのなら、むしろ光栄だよ。佐野先生には元気でいてもらいたい。悲しい思いをしてほしくない。
少しすると、アイスカフェラテを飲み終えた佐野先生が伝票を持って席を立った。レジにはちょうど由紀乃がいて二組のお客が並んでいた。佐野先生は最後尾に並ぶと、わたしに向かってにっこりと笑いかけてくれた。
そうだ、今度から土曜日に入っているシフトを別の日や時間帯に変えてもらおう。佐野先生にもそのことを伝えれば、この時間に佐野先生が食事に来ることはなくなるかもしれない。メジャーデビューを控えているナリたちも、そのうちこのファミレスに顔を出すこともなくなるだろうし、ますますカザネさんと鉢合わせする確率は低くなるはずだ。
だけど世の中、そうそううまくはいかないもので……。
「嘘……」
店のドアが開くと、店内が一気に活気づいた。いつものようにナリたちがやって来たのだ。
なんてタイミングが悪いんだろう。さらに間が悪いことに、ナリの隣にカザネさんもいた。
彼らは店内にいる人たちの注目を浴びながら、わたしのことを見つけると、「ここ、いい?」といつもの席を指さした。わたしは「どうぞ」という意味で頷くので精いっぱい。だって佐野先生の視線がナリたちに向けられていたから。
とうとう佐野先生が知ることとなってしまった。ナリとカザネさんは今日も仲睦まじい。まるで恋人同士だ。
わたしはただぼう然と佐野先生を見ていることしかできなかった。
そんなわたしに声をかけて正気を取り戻させてくれたのは渋谷店長だった。
「輝」
周囲に配慮して抑えめのトーン。だけどとても身が引きしまる声だった。
「すみません」
わたしは急いでナリたちのテーブルにお冷を出しにいく。
「今日は最後のライブだったんだよ」
シグレさんはそう言うと、よほど喉が渇いていたらしく、お冷を一気にグラスの半分ほどを飲んだ。
最後のライブと聞いて、本来なら感慨深くなるところ。だけど、いまのわたしはこの最悪なタイミングを恨みさえしている。あと数分だけ時間がずれていたらどんなによかっただろう。
「輝ちゃん?」
「あっ、すみません!」
いけない。シグレさんはなにも悪くないのに、いまのわたしはたぶん怖い顔をしていたと思う。反省すると同時に瞬時に笑顔を作って、仕事に集中した。
「メジャーデビューはおめでたいことですが、いざ最後のライブとなるとさみしいですね」
「そうなんだよ。なんかしんみりしちゃってさ。だから気分をあげるために、今日はメニューを変えるよ。まずは生ビールを七人分。料理は……」
シグレさんがメンバーに料理のリクエストを聞くと、メンバーからは「適当でいいよ」とか「まかせるよ」という返事。シグレさんはパラパラとメニューをめくると、テキパキと注文していった。
「ピザとシーザーサラダ。それから枝豆とから揚げと春巻き。全部三人前ずつね。あとで追加するかもだけど、とりあえずそれで」
わたしはハンディに注文されたものを打ち込んだあと復唱する。だけど生ビールが七人分なのに、実際の人数はふたり足りない。メンバー四人とカザネさんの計五名しかいないのだ。
七人分で合っているのかな? 念のため確認してみる。
「サイジさんはいらっしゃらないんですか?」
「すぐ来るはず。サイジのほかにもうひとりいるんだけど、その子と一緒に来るんだ」
シグレさんが意味深に笑った。
一方、わたしはナリとカザネさんに激しい嫌悪感を覚えていた。カザネさんは佐野先生の存在に気づいていない。幸せそうな顔であたり前のようにナリの隣にいるけれど、わたしは祝福なんてできない。
レジのほうを見ると、会計を終えた佐野先生がわたしを見ていた。なにか言いたげな目をしていたのでそばに行くと、佐野先生は目を細めた。
嘘? なんでそんなやさしい顔をするの?
「今日はありがとな。ごちそうさま」
「……い、いいえ。こちらこそ……いつもありがとうございます」
わたしがこんなに混乱しているのに、いつもと変わらない佐野先生が不思議でたまらない。おかしいな。あんなに凝視していたのだからカザネさんに気づかないはずはないのに。
「それにしても向こうのテーブルはずいぶんと賑やかだな」
「は?」
やっぱりおかしい。どうしてそんなに普通なの? まさかがんばって強がっているの? それとも実はひどい近眼で見えていないの? わたしの頭のなかはハテナマークのオンパレード。
でもここまで無反応ということは、もしかするとわたしの勘違いなのかもしれない。カザネさんは佐野先生の彼女ではないのかも。それなら納得がいく。
「どうした?」
「いいえ、なんでもないです。あちらのお客様は常連さんなんです」
「楽器を持っているからバンドマンかな。そういえばこの近くにライブハウスがあるんだよな」
「……はい」
カザネさんのことは勘違いだったようだけど、嫌なことを思い出させてしまった。佐野先生のテンションが明らかにさがっている。
「それじゃあ、もう行くよ」
「はい、お気をつけて」
佐野先生が出入口に向かっていく。大きな背中になのに頼りなさげで、思わず手を伸ばしそうになった。
そのとき、佐野先生の足がなぜか止まった。
「実紅《みく》!」
「奏大……」
実紅さんと呼ばれた女性は佐野先生の下の名前を呼び捨てにしていた。
ふんわりミディアムボブの実紅さんはおしとやかで控えめな印象。小柄で身体の線も細くて、守ってあげたくなるような女性だった。
言葉なく見つめ合うふたり。わたしの心臓は激しい鼓動を打ちつける。わたしにはふたりはただならぬ関係に思えた。
実紅さんのそばにはベースを担いだサイジさんがいた。サイジさんの表情は強張っている。だけど佐野先生を見据える瞳の奥には強い意志があらわれていた。
「あっ……」
このとき、とんでもない思い違いをしていたと気づいた。ナリはボーカル。佐野先生が見かけたバンドマンは楽器を担いでいたのに、なんでナリと決めつけてしまったのだろう。きっとサイジさんだったんだ。そして実紅さんこそ佐野先生の彼女なんだ。
昨日とおとといもバイトだった。渋谷店長に会った翌日の水曜日の夜に電話がきて、平日のシフトは火・水・木の週三回、午前十時から午後三時までと決まった。それに加えて金・土の夜もある。だいぶ忙しくなったけれど、それくらいがちょうどいい。家にいてもやることがないし、出かけるにもお金がいる。どうせ夏休みの間だけなので余裕でこなせるだろう。
だけど、解決できない大問題があった。
もう店には来てくれないかと思っていたのに、どういうつもりなのか、佐野先生がふらっとファミレスにやって来たのだ。いつものカウンター席に座り、普段通りに料理を注文し完食すると、今日は珍しく追加でアイスカフェラテを頼んできた。
佐野先生とカザネさんが鉢合わせしたらどうしよう。わたしの頭のなかはそのことでいっぱい。ナリたちは毎週店に来るわけでないし、カザネさんも毎回一緒というわけでもない。でも不安はつきまとう。とりあえず、わたしにいまできることは、できるだけ早急に佐野先生に帰ってもらうことだ。
「でもどうやって追い出そう?」
「誰を追い出すって?」
アイスカフェラテを運ぼうとトレンチに載せたところだった。渋谷店長は毎回のように気配を消して、どこからともなく現れるので非常に困る。
「いいえ、なんでもないです。こっちのことですのでお気になさらず」
「ならよかった。お客様を追い出すとか、あり得ないからな」
「ええ、ですよね」
わたしはこれ以上怪しまれないよう、なるべく平然と答えるとホールに向かった。
ただいまの時刻は午後十一時十分。幸いナリたちはまだ来ていない。やっぱり今日は来ないのかもしれない。
「お待たせしました。アイスカフェラテです」
「ありがとう」
グラスをテーブルに置くと、佐野先生が律儀にお礼を言いながらグラスを手に取って口をつけた。おいしそうに飲んでくれて、なんだかほっとした。
「大丈夫か?」
「えっ?」
「あっ、いや。もとはといえば俺のせいなんだけど。心配してくれたんだよな?」
この間のことか。
「ええ、まあ。でも泣いちゃってすみませんでした。あのときのわたし、情緒不安定で……」
「なにはともあれ、元気そうで安心した。……なんて人のいいフリをしてるけど。俺のために泣いてくれる子がいるんだって思ったら、うれしかった。こんなふうに思うのはやっぱり不謹慎かな」
わたしは胸がいっぱいになって言葉にならない。
不謹慎なんかじゃないよ。なにをどうすればいいのかわからなくて歯がゆかった。だから佐野先生の役に立てたのなら、むしろ光栄だよ。佐野先生には元気でいてもらいたい。悲しい思いをしてほしくない。
少しすると、アイスカフェラテを飲み終えた佐野先生が伝票を持って席を立った。レジにはちょうど由紀乃がいて二組のお客が並んでいた。佐野先生は最後尾に並ぶと、わたしに向かってにっこりと笑いかけてくれた。
そうだ、今度から土曜日に入っているシフトを別の日や時間帯に変えてもらおう。佐野先生にもそのことを伝えれば、この時間に佐野先生が食事に来ることはなくなるかもしれない。メジャーデビューを控えているナリたちも、そのうちこのファミレスに顔を出すこともなくなるだろうし、ますますカザネさんと鉢合わせする確率は低くなるはずだ。
だけど世の中、そうそううまくはいかないもので……。
「嘘……」
店のドアが開くと、店内が一気に活気づいた。いつものようにナリたちがやって来たのだ。
なんてタイミングが悪いんだろう。さらに間が悪いことに、ナリの隣にカザネさんもいた。
彼らは店内にいる人たちの注目を浴びながら、わたしのことを見つけると、「ここ、いい?」といつもの席を指さした。わたしは「どうぞ」という意味で頷くので精いっぱい。だって佐野先生の視線がナリたちに向けられていたから。
とうとう佐野先生が知ることとなってしまった。ナリとカザネさんは今日も仲睦まじい。まるで恋人同士だ。
わたしはただぼう然と佐野先生を見ていることしかできなかった。
そんなわたしに声をかけて正気を取り戻させてくれたのは渋谷店長だった。
「輝」
周囲に配慮して抑えめのトーン。だけどとても身が引きしまる声だった。
「すみません」
わたしは急いでナリたちのテーブルにお冷を出しにいく。
「今日は最後のライブだったんだよ」
シグレさんはそう言うと、よほど喉が渇いていたらしく、お冷を一気にグラスの半分ほどを飲んだ。
最後のライブと聞いて、本来なら感慨深くなるところ。だけど、いまのわたしはこの最悪なタイミングを恨みさえしている。あと数分だけ時間がずれていたらどんなによかっただろう。
「輝ちゃん?」
「あっ、すみません!」
いけない。シグレさんはなにも悪くないのに、いまのわたしはたぶん怖い顔をしていたと思う。反省すると同時に瞬時に笑顔を作って、仕事に集中した。
「メジャーデビューはおめでたいことですが、いざ最後のライブとなるとさみしいですね」
「そうなんだよ。なんかしんみりしちゃってさ。だから気分をあげるために、今日はメニューを変えるよ。まずは生ビールを七人分。料理は……」
シグレさんがメンバーに料理のリクエストを聞くと、メンバーからは「適当でいいよ」とか「まかせるよ」という返事。シグレさんはパラパラとメニューをめくると、テキパキと注文していった。
「ピザとシーザーサラダ。それから枝豆とから揚げと春巻き。全部三人前ずつね。あとで追加するかもだけど、とりあえずそれで」
わたしはハンディに注文されたものを打ち込んだあと復唱する。だけど生ビールが七人分なのに、実際の人数はふたり足りない。メンバー四人とカザネさんの計五名しかいないのだ。
七人分で合っているのかな? 念のため確認してみる。
「サイジさんはいらっしゃらないんですか?」
「すぐ来るはず。サイジのほかにもうひとりいるんだけど、その子と一緒に来るんだ」
シグレさんが意味深に笑った。
一方、わたしはナリとカザネさんに激しい嫌悪感を覚えていた。カザネさんは佐野先生の存在に気づいていない。幸せそうな顔であたり前のようにナリの隣にいるけれど、わたしは祝福なんてできない。
レジのほうを見ると、会計を終えた佐野先生がわたしを見ていた。なにか言いたげな目をしていたのでそばに行くと、佐野先生は目を細めた。
嘘? なんでそんなやさしい顔をするの?
「今日はありがとな。ごちそうさま」
「……い、いいえ。こちらこそ……いつもありがとうございます」
わたしがこんなに混乱しているのに、いつもと変わらない佐野先生が不思議でたまらない。おかしいな。あんなに凝視していたのだからカザネさんに気づかないはずはないのに。
「それにしても向こうのテーブルはずいぶんと賑やかだな」
「は?」
やっぱりおかしい。どうしてそんなに普通なの? まさかがんばって強がっているの? それとも実はひどい近眼で見えていないの? わたしの頭のなかはハテナマークのオンパレード。
でもここまで無反応ということは、もしかするとわたしの勘違いなのかもしれない。カザネさんは佐野先生の彼女ではないのかも。それなら納得がいく。
「どうした?」
「いいえ、なんでもないです。あちらのお客様は常連さんなんです」
「楽器を持っているからバンドマンかな。そういえばこの近くにライブハウスがあるんだよな」
「……はい」
カザネさんのことは勘違いだったようだけど、嫌なことを思い出させてしまった。佐野先生のテンションが明らかにさがっている。
「それじゃあ、もう行くよ」
「はい、お気をつけて」
佐野先生が出入口に向かっていく。大きな背中になのに頼りなさげで、思わず手を伸ばしそうになった。
そのとき、佐野先生の足がなぜか止まった。
「実紅《みく》!」
「奏大……」
実紅さんと呼ばれた女性は佐野先生の下の名前を呼び捨てにしていた。
ふんわりミディアムボブの実紅さんはおしとやかで控えめな印象。小柄で身体の線も細くて、守ってあげたくなるような女性だった。
言葉なく見つめ合うふたり。わたしの心臓は激しい鼓動を打ちつける。わたしにはふたりはただならぬ関係に思えた。
実紅さんのそばにはベースを担いだサイジさんがいた。サイジさんの表情は強張っている。だけど佐野先生を見据える瞳の奥には強い意志があらわれていた。
「あっ……」
このとき、とんでもない思い違いをしていたと気づいた。ナリはボーカル。佐野先生が見かけたバンドマンは楽器を担いでいたのに、なんでナリと決めつけてしまったのだろう。きっとサイジさんだったんだ。そして実紅さんこそ佐野先生の彼女なんだ。
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