恋い焦がれて

さとう涼

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2.やさしいひと

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 佐野先生との時間は台風のように過ぎたような気がする。わたしの心のなかは短時間でかき乱され、あとに残ったのは抜け殻のようなわたし。いったい、あれはなんだったのだろう。過ぎてしまうと、そう思ってしまうくらいあっけなく感じた。
 それと同時にほっとした。よかった、思っていたより平気だ。たぶん時間が過ぎれば、もとのわたしに戻れる。ひとりでも平気な自分に。

 それなのに五日後の金曜日の深夜、佐野先生がバイト先のファミレスにやって来た。

「嘘!? なんで!?」
「輝がここでバイトしているって言ってたから。ちょうど腹も減ってたし」
「……そ、そうですか」

 そんな話もしていたな。でもまさか来てくれるとは思わなかった。
 佐野先生はマンションでひとり暮らし。現在勤務している小学校の近くで、このファミレスからも徒歩圏内のところに住んでいるらしいが、ファミレスにはほとんど行かないと言っていた。たいていコンビニや弁当屋で買ってすませ、気分によって蕎麦屋やラーメン屋に行くぐらいだそうだ。

「席に案内しないのかよ?」
「あ、すみません」

 わたしがボーッと突っ立っていたので、佐野先生が不思議そうに首をかしげている。
 いけない、すっかり忘れていた。いまは仕事中だ。
 カウンター席がいいと言うので、そこに案内すると、佐野先生はさっそくテーブルにあるメニューを手に取る。すかさず、「ヒレカツ定食」と返ってきたので、思わず笑うと、ギロリと睨まれた。

「最初に開いたページで決めちゃうんですね」
「どれでもうまいだろう。だからなんだっていいんだよ。俺、料理をあんまりしないから、出されたものはありがたく頂く主義なんだ」
「なるほど。彼女の手料理を食べるのと同じことと考えるとしっくりきます」
「別にそういう意味で言ったんじゃないけど。間違ってはいないな」

 ということは、普段は彼女の手料理を食べているんだろうな。でも今日はひとり。週末なのに一緒に過ごさないのか。

「サラダのドレッシングはフレンチ、ゴマ、和風の三種類がありますが、どれにしますか?」
「和風がいいな」
「かしこまりました」

 オーダーをとり終えると、佐野先生はジーンズのポケットからタバコを取り出した。

「すみません、カウンター席は禁煙なんです。タバコを吸うんでしたら喫煙席にしますか?」
「いや、いいよ。吸えない場所なら吸わずにすむから。実は禁煙したいんだよね。学校じゃ吸えないし、普段も保護者の目があるから」

 佐野先生が笑いながらタバコをしまう。
 でもその笑顔には違和感があった。疲れているのだろうか。どことなく元気がなくて、笑顔も少し引きつっていた。

 お冷を出しにいくと、佐野先生はなにをするわけでもなく、静かに座っていた。スマホを見て時間をつぶしている客が多いのだけれど、佐野先生はそんな様子もなかった。
 なんだか、おかしい。
 そういえばエンゲージリングはもう買ったのだろうか。プロポーズは? 返事は?
 次々に疑問が浮かんでくるが、仕事中なので尋ねることもできない。でもこれでいい。佐野先生のテリトリーにこれ以上踏み込んではいけないような気がする。とにかく仕事に集中しようと努力した。

 だけど、できあがった料理を運ぼうとしたところに由紀乃がやって来て、興味津々に話しかけてくる。

「カウンター席の人、格好よくない?」

 一番やめてほしい話題だった。

「相変わらず、めざといね」
「だってあの人、目立つんだもん。イケメンが深夜のファミレスでおひとり様だなんて、もったいない」
「もったいなくないよ。あの人、彼女いるから」
「嘘!? でもなんで知ってるの? 知り合いかなんか?」
「うん、小学校のときの担任の先生。ごめん、料理を運ばないとならないからこの話はこれでおしまい」

 はじまったよ。由紀乃はいつもこんな調子で客の品定めをする。その理由はわたしにずっと彼氏がいないからで、目ぼしい人を見つけると、すぐにわたしにすすめてくるのだ。
 芸術系の専門学校に通う由紀乃は楽天的な世話好きで、以前はナリを押してきたけれど、カザネさんがナリの彼女らしいということがわかると、すぐに別のおとなしそうな大学生風の男性をすすめてきた。
 由紀乃の男性を選ぶ基準はいまいちわからないけれど、ナリは格好いい。実はちょっとだけいいなあと思っていたのだが、仲がよさそうなふたりを見ていたら、嫌でもあきらめがつく。そう、簡単にあきらめられたのだ。

 でも佐野先生の場合、モヤモヤしてしまう。このモヤモヤがなんなのか、もういい加減認めなきゃいけない。だってこの五日間、佐野先生のことが頭から離れなかった。想えば想うほど深みにはまり、さらに想いが強くなっていった。
 彼女がいなかったらいいのにと考えてしまう。こんなことを考えてしまう自分が嫌でたまらない。



 ささやくような声で、「輝」と呼ばれたのは、その日のバイト終わりの深夜のことだった。
 佐野先生はわたしを驚かせないように言ってくれたようなのだけれど、自転車置き場にいたわたしは予想もしなかったことに、「ヒャッ!」と変な声が出てしまった。

「驚かせて悪い。バイトが十二時までだって前に聞いてたもんだから、ちょっと気になってな。こんな夜中にひとりで帰るのは危ないだろう」
「平気ですよ。自転車で五分もかからない距離なので」

 自宅は大通りのすぐ近くにある。深夜ともなると人通りはさすがにないけれど、車の往来はあるので、比較的安全だと自分では思っている。

「親御さんもよく許したな」
「反対はされましたけど、家の近くでなおかつ働きやすそうなバイト先って、ここぐらいしかなかったんで。でも、なにかあったらシフトは変えてもらおうとは思ってますけど」
「なにかあってからじゃ遅いんだよ。来週からシフトを変えてもらえ」
「でも今月のシフトはもう決まっちゃってますし。てか、そんなことを言うためだけに待ってたなんて。佐野先生は面倒見がよすぎです」

 普通ここまでするものなのだろうか。油断すると勘違いしそうになる。

「『そんなこと』じゃないよ。大事なことだろう。だけど仕事中に言うのもどうかと思って、終わるまで待ってたんだよ」

 佐野先生に元気がないことをこっちが心配していたくらいなのに。自分のことより人の心配をするのは、教師としてというよりもとからの性格なんだろう。

「とりあえず、今日は送る」
「わたし、自転車なんですけど」
「今日は歩け」
「ええー、車じゃないんですか? 面倒くさい」

 なんて、本当はうれしくてたまらない。損得なしに、他人にこんなふうに心配されるのはたぶん初めてだ。
 帰り道。自転車を押し、歩きながら思った。家がもっと遠かったらいいのにと。だめなことなのはわかっているけれど、どうしてもこの気持ちを封印することができない。
 わたしは佐野先生が好きだ。小学生のときの「好き」とは違う。わたしだけを見てほしい。大勢のなかのひとりの女の子としてではなく、佐野先生にとって唯一の女の子になりたい。
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