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10.身分違いの恋だとしても

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 それからエレベーターホールまで来て、恒松社長を見送った。なりゆきで、わたしは冴島さんの後方に立っている。

「急に来て悪かったな」

 冴島さんに話しかける恒松社長はすっかり社長モードだった。さっきまでのドロドロとしたやり取りがなかったことになっている。

「いいえ。本来ならこちらから伺わなくてはいけないところをわざわざお越しくださり、ありがとうございました」

 冴島さんも何事もなかったかのような態度だった。
 ふたりの関係はよくわからないが、仕事に影響が出ていないようなので、たぶん問題ないのだろう。

「ライブ配信、好評だったから、また機会があれば頼むよ」
「ええ、ぜひ。こちらこそよろしくお願いします」

 恒松社長がエレベーターのボタンを押した。すぐに扉が開く。

「春名さんもまたね。そうだ! 生け込みの件、近いうちに詳細をメールするから、提案書を送ってくれるかな?」
「承知しました」

 わたしたちが見送るなか、恒松社長はエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターの扉が閉まらないよう、ボタンを押していた小山田さんが恒松社長におじぎをした。

「小山田さんはふたりのこと知ってた?」

 扉が閉まる直前、くだけた口調で恒松社長が言う。けれど小山田さんは上品な笑みを浮かべ、受け流していた。

「なんだ、知ってたんだ。参ったな」

 扉が閉まると、冴島さんが小山田さんにあっけらかんと言う。

「隠すおつもりもなかったようでしたが。春名さんが初めて来社された日も下心丸出しだったこと、覚えていらっしゃらないんですか?」
「ああ、そんな会話があったね。でもあのとき以外はいつも通りに振る舞っていたつもりだったんだけど」
「会食以外で女性と昼食をとられるのも社長らしくないというか、わたしが秘書についてからは初めてでしたので大変驚きました」
「それだけ?」
「社長が日曜日のスケジュールを別の日に振り替えてほしいとおっしゃるのも珍しいなと思いました。しかも月に二度も。とくに先々週の予定は三ヶ月も前から入れていたものでしたのに」
「スケジュールを入れた時期まで覚えてるの? さすが小山田さん」

 先々週……。その日はベイエリアまでドライブをした。あの日のデートは、日曜日が定休日のわたしのためにわざわざスケジュール調整をしてくれていたの?
 もう一方の日曜日は、マンションに観葉植物を届けた日だ。あの日もそうなの?
 そうだよね。冴島さんはわたしよりも断然忙しいだろうし、大きな責任も背負っている。それなのにわたしは、日曜日に会えたのを普通のことのように思っていた。
 そんなこと、深く考えなくてもわかるはずだったのに。負担になっていなかっただろうか。

「申し訳ありません、春名さん。スケジュールの話は失言でした。責めるつもりはまったくなくて……」

 小山田さんはわたしを傷つけてしまったと思っている。
 小山田さんのせいではないのに……。

「責められているなんて思ってませんから。なので気になさらないでください」
「お気遣いありがとうございます。でも、むしろ進んで休暇を取るようになられてよかったと思っているんです」
「えっ……」
「社長は放っておくと仕事に没頭してしまうので、こちらで適度にお休みを入れるようにしていたのですが、勝手にそこに予定を入れてしまうほどでしたので」
「そういうことだから。咲都は気にしないでよ」

 また考えていることが顔に出ていたのだろう。小山田さんに続き、冴島さんもフォローしてくれた。

「それでは春名さん、さっそく作業をお願いしますね」

 小山田さんがきりりと促し、わたしは気を引きしめた。

「咲都、僕の部屋から頼むよ」

 冴島さんのあたたかい笑顔に、わたしは「はい」と頷いた。

 わたしは人に恵まれている。だからこんなにも充実した気持ちで仕事ができる。
 花屋は大変だと嘆いていた自分が恥ずかしい。花屋を継いでよかった。今は心からそう思っている。



 社長室で作業をはじめようと準備をしていると、冴島さんがダークブラウンの木目調のロッカーを開け、ネクタイを締めはじめた。
 どうやら外出するみたいだ。顔つきがまるで違う。
 いつものやさしげなものではなく、気合の入った精悍《せいかん》な表情。ちょっと近寄りがたいような気迫も感じた。
 これが仕事をしているときの冴島さんだ。

 そのときドアがノックされた。

「社長、そろそろお時間です」

 開いたドアから小山田さんが声をかけると、冴島さんは「わかった」と背広を羽織った。
 その一連の動作が格好いい。
 だけど、ふいに目が合って、見とれていたのがバレてしまった。

「すみません、つい……」
「なにが?」

 あれ? もしかして気づかれていなかったの?

「な、な、なんでもないです! お、お気になさらずに……」

 慌てて否定したけれど、これではあまりにも挙動不審だ。
 冴島さんは釈然としていない様子。とっさに状況を把握したらしい小山田さんがこらえきれないとばかりに笑い出した。
 やだ、こんな状況……。なんとなく立つ瀬がない。

「社長、正面玄関に車を待たせてありますので、準備が整いましたらお願いします」

 小山田さんはそう言うと、さっさとドアを閉めてしまった。

「なんだよ、あれ? 咲都、どこかおかしいとこある?」

 冴島さんは自分が笑われたと思っているみたいで、わたしのほうに向き直り、身なりを気にし出す。

「あっ、ちょっとそのままで……」

 わたしは手が汚れていないのを確認すると、少し曲がっていたネクタイを直した。

「ありがと」
「いいえ、どういたしまして」
「なんかいいね、こういうの。実は憧れてたんだ」

 甘い声と一緒に冴島さんからふわりといい香りがしてきて幸せな気分になった。

「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」

 社長室で冴島さんを見送るなんて変な感じだ。
 軽快に出かけていく姿からは、しがらみや理不尽な圧力なんてものは感じない。上手に隠して、彼は今日もさわやかな笑みを浮かべていた。
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