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10.身分違いの恋だとしても
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「酒ぐらい飲むよ。IT業界の動向はもちろん、それ以外の情報もくれるから、彼は」
「利用してたってことですか?」
「そんなふうに言われると、まるで俺が悪者みたいに聞こえるけど、冴島社長も俺を利用している。お互い様だって、お互いに思ってるから」
恒松社長は高笑いすると、わたしの顎をぐっと持ち上げる。
「やめてください!」
そこでようやく身体に力が入り、顎にあった手を振り払って立ち上がった。その反動でキャスターつきの椅子が後方の壁にぶつかって、鈍い音を立てた。
その瞬間──。
「咲都!」
声が聞こえたと同時にドアが開く。
「冴島さん!」
彼が大股で近づいてくる。かと思ったら、わたしを恒松社長から守るようにして抱き寄せ、脅えていたわたしを落ち着かせるように頭を撫でた。
「来るのが遅くなってごめん」
「いいえ、冴島さんのせいじゃありませんから」
彼は背広を着ておらず、ノーネクタイという比較的ラフなスタイル。
気温が高い日でも、誰かと会うときは必ずといっていいほど背広を着用している冴島さんにしては珍しい。つまり恒松社長とは、それだけ気心が知れた仲ということなのだろう。
だけど恒松社長にとっては、上辺だけの関係だったと思わざるを得ない。
「咲都、本当に大丈夫? 無理してない?」
「はい」
大きく頷く。
でも怖かった。まさか冴島さんの会社の会議室で、あんなことになるとは思いもしなかった。
小山田さんが冴島さんに知らせてくれたのだろう。彼女はいつも的確に冴島さんに情報を伝えてくれる。とても有能な秘書だ。
視線を感じて見ると、恒松社長が楽しげに口角を上げていた。
「恒松社長、いったいどういうおつもりですか? 彼女を怖がらせることをするなんて。場合によっては御社との取引も考え直させていただきますよ」
「まあまあ、そう怒らないで。俺はね、ただ春名さんがどこまで本気で冴島社長を好きなのかってことをたしかめようとしただけだよ」
「嘘ですよね? 単純に僕へのいやがらせですよね?」
いやがらせ?
そんな子どもじみたこと。大の大人がすることではない。
恒松社長ってそんな人だったの?
がっかりしていると、恒松社長がふき出した。
「おふたりがあまりにもうらやましくてね。いやあ、冴島社長の本気を初めて見ましたよ。そんな人だとは思わなかったなあ」
「別に否定はしませんよ。その通りなので」
相変わらず冴島さんはポーカーフェイスだ。
「冴島社長は正直でいいなあ。春名さん、知ってた? 俺、冴島社長に釘を刺されたんだよ。春名さんとは、ぜひとも良好なビジネス関係でお願いしますって」
良好なビジネス関係とは、言葉通りに受け取っていいと思うのだけれど。それがどうかしたのだろうか。
すると、いまいち理解できていないわたしを見て、恒松社長が教えてくれた。
「つまり、春名さんにちょっかいを出すなってことだよ」
「えっ?」
「食事に誘うぐらいはいいだろう? って言ったら、すごい睨まれちゃってさ。彼、案外心配性みたいだから気をつけたほうがいいかも」
「は、はあ……」
なにを気をつけるのかわからないけれど、とりあえず返事をしておく。
それにしてもそんなやり取りがあったとはつゆ知らず。想像しただけで顔がにやけてしまいそうになる。
冴島さんをちらりと見ると飄々《ひょうひょう》としていて、やっぱり彼には敵わないなと思った。
「恒松社長、彼女への助言はいらないですよ。彼女は僕を不安にさせるようなことはしませんので。心配なのはあなたがムキになって彼女を追いまわしやしないかということなんですよ」
「なんで俺?」
「自分に興味を持たない女性に免疫がなさそうなので。ショックを受けるのではないかと」
さすがに言いすぎだと思い、冴島さんを止めようと思ったが、逆にわたしが口を挟むのも失礼なのかもと思い直し、結局やきもきしながら聞いていた。
だけど恒松社長は気を悪くする様子はなく、「言うねえ」と朗らかに応戦した。
「冴島社長のそういうとこは好きなんだよね。ギャップっていうの? 表向きは物腰がやわらかくて礼儀正しい常識人なのに、実は毒も吐くし、傲慢な野心家で、ときに冷酷になるところだけは気に入っていたんだ」
「それはどうも」
「なのに、家族とか友達とかそういうのを妙に大事にしちゃって。その上、なんでも持ってるのにとうとう最愛の人まで手に入れちゃうもんだから、がっかりだよ」
「それのどこがいけないんですか? 僕はごくごく一般的な思考の人間です。世の中の人間はたいていそんな感じだと思いますが」
「それそれ! 誰もが持っているでしょう的な言い方。だけど、現実はそうじゃないんだよなあ」
「そんなふうに言っても、どうせたいして悔しくないんでしょう?」
「まあね。もうしばらく自由でいたい。結婚はぜんぜん興味がないんだよ」
ふたりの冷静な会話をハラハラしながら聞いていた。
これって喧嘩しているわけではないんだよね?
恒松社長のセリフから、実はふたりは敵同士なのかもと思ったのだけれど、そういうわけでもないのかな。わたしには理解しがたい。友達という感じではないから、強いていえばライバルみたいなものなのだろうか。
少し離れた所に立っている小山田さんは慣れているのか、涼しげな顔で、すっと背筋を伸ばしていた。
「いずれ、そういう人と出会えば考え方が一八〇度変わりますよ」
冴島さんがわたしに視線を移してくるものだから、心臓の鼓動が跳ね上がる。
そういうことを表情ひとつ変えずにさらりと言えるのがすごい。
「冴島社長は変わったよな。てっきりこちら側の人間なのかと思ってたんだけど、どうやら見込み違いだったみたいだな」
「残念でしたね」
「ほんとだよ。一緒に遊んだら刺激を味わえると期待してたのに、楽しみがなくなっちゃったよ」
喧嘩のように見えたけれど、だんだんとふたりが楽しそうに見えてきた。
ずっと聞いていて思ったのだが、恒松社長は冴島さんのことをよく理解しているのかもしれない。このふたり、実はものすごく気が合うんだ。
わたしが見たことのない冴島さんの傲慢な野心家の一面。でもそういう一面があるのは当然。大勢の社員のトップに立つとはそういうことなのだと思う。
「利用してたってことですか?」
「そんなふうに言われると、まるで俺が悪者みたいに聞こえるけど、冴島社長も俺を利用している。お互い様だって、お互いに思ってるから」
恒松社長は高笑いすると、わたしの顎をぐっと持ち上げる。
「やめてください!」
そこでようやく身体に力が入り、顎にあった手を振り払って立ち上がった。その反動でキャスターつきの椅子が後方の壁にぶつかって、鈍い音を立てた。
その瞬間──。
「咲都!」
声が聞こえたと同時にドアが開く。
「冴島さん!」
彼が大股で近づいてくる。かと思ったら、わたしを恒松社長から守るようにして抱き寄せ、脅えていたわたしを落ち着かせるように頭を撫でた。
「来るのが遅くなってごめん」
「いいえ、冴島さんのせいじゃありませんから」
彼は背広を着ておらず、ノーネクタイという比較的ラフなスタイル。
気温が高い日でも、誰かと会うときは必ずといっていいほど背広を着用している冴島さんにしては珍しい。つまり恒松社長とは、それだけ気心が知れた仲ということなのだろう。
だけど恒松社長にとっては、上辺だけの関係だったと思わざるを得ない。
「咲都、本当に大丈夫? 無理してない?」
「はい」
大きく頷く。
でも怖かった。まさか冴島さんの会社の会議室で、あんなことになるとは思いもしなかった。
小山田さんが冴島さんに知らせてくれたのだろう。彼女はいつも的確に冴島さんに情報を伝えてくれる。とても有能な秘書だ。
視線を感じて見ると、恒松社長が楽しげに口角を上げていた。
「恒松社長、いったいどういうおつもりですか? 彼女を怖がらせることをするなんて。場合によっては御社との取引も考え直させていただきますよ」
「まあまあ、そう怒らないで。俺はね、ただ春名さんがどこまで本気で冴島社長を好きなのかってことをたしかめようとしただけだよ」
「嘘ですよね? 単純に僕へのいやがらせですよね?」
いやがらせ?
そんな子どもじみたこと。大の大人がすることではない。
恒松社長ってそんな人だったの?
がっかりしていると、恒松社長がふき出した。
「おふたりがあまりにもうらやましくてね。いやあ、冴島社長の本気を初めて見ましたよ。そんな人だとは思わなかったなあ」
「別に否定はしませんよ。その通りなので」
相変わらず冴島さんはポーカーフェイスだ。
「冴島社長は正直でいいなあ。春名さん、知ってた? 俺、冴島社長に釘を刺されたんだよ。春名さんとは、ぜひとも良好なビジネス関係でお願いしますって」
良好なビジネス関係とは、言葉通りに受け取っていいと思うのだけれど。それがどうかしたのだろうか。
すると、いまいち理解できていないわたしを見て、恒松社長が教えてくれた。
「つまり、春名さんにちょっかいを出すなってことだよ」
「えっ?」
「食事に誘うぐらいはいいだろう? って言ったら、すごい睨まれちゃってさ。彼、案外心配性みたいだから気をつけたほうがいいかも」
「は、はあ……」
なにを気をつけるのかわからないけれど、とりあえず返事をしておく。
それにしてもそんなやり取りがあったとはつゆ知らず。想像しただけで顔がにやけてしまいそうになる。
冴島さんをちらりと見ると飄々《ひょうひょう》としていて、やっぱり彼には敵わないなと思った。
「恒松社長、彼女への助言はいらないですよ。彼女は僕を不安にさせるようなことはしませんので。心配なのはあなたがムキになって彼女を追いまわしやしないかということなんですよ」
「なんで俺?」
「自分に興味を持たない女性に免疫がなさそうなので。ショックを受けるのではないかと」
さすがに言いすぎだと思い、冴島さんを止めようと思ったが、逆にわたしが口を挟むのも失礼なのかもと思い直し、結局やきもきしながら聞いていた。
だけど恒松社長は気を悪くする様子はなく、「言うねえ」と朗らかに応戦した。
「冴島社長のそういうとこは好きなんだよね。ギャップっていうの? 表向きは物腰がやわらかくて礼儀正しい常識人なのに、実は毒も吐くし、傲慢な野心家で、ときに冷酷になるところだけは気に入っていたんだ」
「それはどうも」
「なのに、家族とか友達とかそういうのを妙に大事にしちゃって。その上、なんでも持ってるのにとうとう最愛の人まで手に入れちゃうもんだから、がっかりだよ」
「それのどこがいけないんですか? 僕はごくごく一般的な思考の人間です。世の中の人間はたいていそんな感じだと思いますが」
「それそれ! 誰もが持っているでしょう的な言い方。だけど、現実はそうじゃないんだよなあ」
「そんなふうに言っても、どうせたいして悔しくないんでしょう?」
「まあね。もうしばらく自由でいたい。結婚はぜんぜん興味がないんだよ」
ふたりの冷静な会話をハラハラしながら聞いていた。
これって喧嘩しているわけではないんだよね?
恒松社長のセリフから、実はふたりは敵同士なのかもと思ったのだけれど、そういうわけでもないのかな。わたしには理解しがたい。友達という感じではないから、強いていえばライバルみたいなものなのだろうか。
少し離れた所に立っている小山田さんは慣れているのか、涼しげな顔で、すっと背筋を伸ばしていた。
「いずれ、そういう人と出会えば考え方が一八〇度変わりますよ」
冴島さんがわたしに視線を移してくるものだから、心臓の鼓動が跳ね上がる。
そういうことを表情ひとつ変えずにさらりと言えるのがすごい。
「冴島社長は変わったよな。てっきりこちら側の人間なのかと思ってたんだけど、どうやら見込み違いだったみたいだな」
「残念でしたね」
「ほんとだよ。一緒に遊んだら刺激を味わえると期待してたのに、楽しみがなくなっちゃったよ」
喧嘩のように見えたけれど、だんだんとふたりが楽しそうに見えてきた。
ずっと聞いていて思ったのだが、恒松社長は冴島さんのことをよく理解しているのかもしれない。このふたり、実はものすごく気が合うんだ。
わたしが見たことのない冴島さんの傲慢な野心家の一面。でもそういう一面があるのは当然。大勢の社員のトップに立つとはそういうことなのだと思う。
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