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9.心の奥で触れ合って
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その日の夜遅く、冴島さんのマンションにおじゃまさせてもらった。
結局、冴島さんの仕事が忙しく、わたしも残業で、会えたのは午後九時半をまわった頃だった。
外で食事をして、こうして冴島さんの部屋に来たのはいいけれど、ふたりきりになった途端、妙に意識してしまい、目が泳いでしまう。
「疲れた?」
ソファが軽く揺れ、ローテーブルにあたたかい紅茶が置かれた。
思いのほか近い距離に冴島さんの顔があって困ってしまう。
「いいえ。そう見えますか?」
「なんか元気ないみたいだから」
退屈そうに見えたのだろうか。わたしは明るく振る舞う。
「大丈夫です! ぜんぜん元気です!」
「無理することないよ。今日はいろいろあったからね。でもどうしても会いたかったんだ」
「わたしもです」
素直になるのはけっこう大変だ。慣れなくて、まともに顔を見ることができない。ごまかすように、出された紅茶を飲んだ。
「咲都」
「はい?」
「僕も緊張してる。でもこれが人を好きになるってことなのかなと思うんだ。あとは自然の流れにまかせて、緊張がいつの間にかなくなって、ただ一緒にいるだけで満たされる関係になっていくんだと思う」
冴島さんがゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
深い想いのこもった言葉は胸の奥をじんわりとあたたかくしてくれる。やっぱりわたしはこの人のことが好きだ。
この先の未来もずっと一緒に……。そうだったらいいなと思った。
肩を抱かれ、わたしも冴島さんに寄りかかるようにして肩にちょこんと頭をのせた。
冴島さんは他愛もない話をしてくれた。朝ごはんは食べない派だけれど、牛乳が好きで毎朝必ず飲んでいるとか、仕事から帰ったら観葉植物に話しかけながら霧吹きで葉っぱに水をかけてあげているとか。
「パキラやポトスは葉っぱにほこりがたまりやすいので、霧吹きで水をかけるとき、ときどきでいいのでやさしくほこりを取り除いてあげてください」
「わかった、今度からそうするよ」
こうして話していると不思議と緊張がほぐれていった。きっとこうやって少しずつふたりの関係が変化していくのだろう。そんな気がした。
のんびりと過ごすこの時間は心地いい。仕事の疲れなんて吹き飛んでしまうし、活力がわいてきて明日もがんばろうと思える。
「咲都、時間は大丈夫?」
「時間?」
「あと十五分で十二時になるよ」
「もうそんな時間!?」
慌てて身体を離す。
時間が過ぎるのをあっという間に感じる。いつも一日が二十四時間じゃ足りないと思いながら過ごしているけれど、それ以上の速さだ。
明日の早朝は切り花の仕入れに行かなくてはならない。残念ながらタイムリミットだ。
「泊まってく?」
真剣な顔に息を呑む。
もちろん泊まりたい。でも仕事を優先しなきゃならないときもある。
「ごめんなさい。明日は仕入れの日で朝早くて……」
「そっか。じゃあ土曜の夜は? あとその日、できれば咲都のお母さんにご挨拶したいんだけど」
「挨拶ですか?」
「おつき合いさせていただいてますって。そういうの、ちゃんとしたいんだ」
びっくりするくらいの誠実さに胸が熱くなる。冴島さんはわたしのことをそこまで真剣に考えてくれているんだ。
「わかりました、母に話をしておきます。それと……お泊りも大丈夫です」
冴島さんは、「よかった」ともう一度肩を抱いて、愛おしそうにわたしの頭に頬をすり寄せた。
こんなふうにされたら、ますます帰りたくなくなってしまう。
「引き留めちゃだめだよな。送るよ」
名残惜しそうに身体を離す。けれど、それはわたしも同じだった。
それから駐車場へ向かったのだが、冴島さんは駐車場までわたしの手を離さないでいてくれた。
ふたりで車に乗ると、運転席の冴島さんが急に黙り込んで、じっとわたしの目を見つめた。なんとなくキスされるのかと思った。
わたしたちはまだキスをしたことがない。これまで一度も。
わたしは了承の意味でドキドキしながらその目を見つめ返す。けれど冴島さんはプイッと正面を向いてしまい、「今日はやめとくよ」と言ってエンジンをかけた。
わたしは拍子抜けしたような、でも安心したような、複雑な気持ちだった。
わたしも自信がない。一度ここでキスをしてしまったら、きっとそれだけではすまないと思う。
アパートの前に着いたときも、お互いに未練たっぷりで、さすがに顔を見合わせて笑ってしまった。
「参ったね。もっと時間がほしいよね、お互いに」
「そうですね」
おやすみのキスの代わりに手を握られる。受ける印象とは違って、大きくていかにも男の人の手という感じの冴島さんの手は、わたしの心を安定させてくれる。
車を降りると、「またね」と軽く言って、冴島さんは車を走らせた。
今日は楽しかった。短い時間だったけれど、わたしの心はたくさんの愛で満たされていた。
結局、冴島さんの仕事が忙しく、わたしも残業で、会えたのは午後九時半をまわった頃だった。
外で食事をして、こうして冴島さんの部屋に来たのはいいけれど、ふたりきりになった途端、妙に意識してしまい、目が泳いでしまう。
「疲れた?」
ソファが軽く揺れ、ローテーブルにあたたかい紅茶が置かれた。
思いのほか近い距離に冴島さんの顔があって困ってしまう。
「いいえ。そう見えますか?」
「なんか元気ないみたいだから」
退屈そうに見えたのだろうか。わたしは明るく振る舞う。
「大丈夫です! ぜんぜん元気です!」
「無理することないよ。今日はいろいろあったからね。でもどうしても会いたかったんだ」
「わたしもです」
素直になるのはけっこう大変だ。慣れなくて、まともに顔を見ることができない。ごまかすように、出された紅茶を飲んだ。
「咲都」
「はい?」
「僕も緊張してる。でもこれが人を好きになるってことなのかなと思うんだ。あとは自然の流れにまかせて、緊張がいつの間にかなくなって、ただ一緒にいるだけで満たされる関係になっていくんだと思う」
冴島さんがゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
深い想いのこもった言葉は胸の奥をじんわりとあたたかくしてくれる。やっぱりわたしはこの人のことが好きだ。
この先の未来もずっと一緒に……。そうだったらいいなと思った。
肩を抱かれ、わたしも冴島さんに寄りかかるようにして肩にちょこんと頭をのせた。
冴島さんは他愛もない話をしてくれた。朝ごはんは食べない派だけれど、牛乳が好きで毎朝必ず飲んでいるとか、仕事から帰ったら観葉植物に話しかけながら霧吹きで葉っぱに水をかけてあげているとか。
「パキラやポトスは葉っぱにほこりがたまりやすいので、霧吹きで水をかけるとき、ときどきでいいのでやさしくほこりを取り除いてあげてください」
「わかった、今度からそうするよ」
こうして話していると不思議と緊張がほぐれていった。きっとこうやって少しずつふたりの関係が変化していくのだろう。そんな気がした。
のんびりと過ごすこの時間は心地いい。仕事の疲れなんて吹き飛んでしまうし、活力がわいてきて明日もがんばろうと思える。
「咲都、時間は大丈夫?」
「時間?」
「あと十五分で十二時になるよ」
「もうそんな時間!?」
慌てて身体を離す。
時間が過ぎるのをあっという間に感じる。いつも一日が二十四時間じゃ足りないと思いながら過ごしているけれど、それ以上の速さだ。
明日の早朝は切り花の仕入れに行かなくてはならない。残念ながらタイムリミットだ。
「泊まってく?」
真剣な顔に息を呑む。
もちろん泊まりたい。でも仕事を優先しなきゃならないときもある。
「ごめんなさい。明日は仕入れの日で朝早くて……」
「そっか。じゃあ土曜の夜は? あとその日、できれば咲都のお母さんにご挨拶したいんだけど」
「挨拶ですか?」
「おつき合いさせていただいてますって。そういうの、ちゃんとしたいんだ」
びっくりするくらいの誠実さに胸が熱くなる。冴島さんはわたしのことをそこまで真剣に考えてくれているんだ。
「わかりました、母に話をしておきます。それと……お泊りも大丈夫です」
冴島さんは、「よかった」ともう一度肩を抱いて、愛おしそうにわたしの頭に頬をすり寄せた。
こんなふうにされたら、ますます帰りたくなくなってしまう。
「引き留めちゃだめだよな。送るよ」
名残惜しそうに身体を離す。けれど、それはわたしも同じだった。
それから駐車場へ向かったのだが、冴島さんは駐車場までわたしの手を離さないでいてくれた。
ふたりで車に乗ると、運転席の冴島さんが急に黙り込んで、じっとわたしの目を見つめた。なんとなくキスされるのかと思った。
わたしたちはまだキスをしたことがない。これまで一度も。
わたしは了承の意味でドキドキしながらその目を見つめ返す。けれど冴島さんはプイッと正面を向いてしまい、「今日はやめとくよ」と言ってエンジンをかけた。
わたしは拍子抜けしたような、でも安心したような、複雑な気持ちだった。
わたしも自信がない。一度ここでキスをしてしまったら、きっとそれだけではすまないと思う。
アパートの前に着いたときも、お互いに未練たっぷりで、さすがに顔を見合わせて笑ってしまった。
「参ったね。もっと時間がほしいよね、お互いに」
「そうですね」
おやすみのキスの代わりに手を握られる。受ける印象とは違って、大きくていかにも男の人の手という感じの冴島さんの手は、わたしの心を安定させてくれる。
車を降りると、「またね」と軽く言って、冴島さんは車を走らせた。
今日は楽しかった。短い時間だったけれど、わたしの心はたくさんの愛で満たされていた。
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