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2.敏腕社長の華麗な駆け引き
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冴島社長に連れていってもらった店は意外にも庶民的な店。うちの店から徒歩五分もかからないそこは、わたしもよく知る馴染みの定食屋だった。
店主の武藤《むとう》さんは来年還暦を迎える年代。明るくて気さくなおじさんで、子どもの頃から可愛がってもらっている。
だけどその気さくさがたまにアダになるときもある。
定食屋に入るなり、厨房にいた武藤さんに「ようやく彼氏ができたのかい!?」と輝いた目で言われ、わたしは小さく「いいえ」と答えるので精いっぱい。彼氏に間違われた冴島社長にも申し訳ない気持ちになって、いたたまれなかった。
そんなわたしを冴島社長はわざとプレッシャーを与えるみたいに真顔で見ていた。
この人はこの状況をきっとおもしろがっている。テーブルについた今も目の奥が笑っていた。
「なにがおかしいんですか?」
「おかしくないよ。で、どれくらい彼氏がいないの?」
「……三年以上いません」
素直に答えているわたしもわたしだけれど、このことは塔子さんも榎本くんも知っているし、ごまかしてもしょうがない。
「フローリストとして一人前になるために必死でしたから」
「へえ、仕事一筋ってことか。ほんと、まじめなんだな」
「花屋をしていた父が病気になってからはそれどころじゃありませんでしたので。わたしは会社勤めしながら花屋を手伝って、父が亡くなってからは会社を辞めて、花屋を継ぐために専門学校に通っていました」
自分で選んだ道だけれど、つらかった。花屋の仕事の大変さは知っていたのに、まさかこのわたしが店の経営に携わるなんて思ってもみなかった。
「ごめん、茶化すみたいな言い方して。お父さん、お亡くなりになっていたんだね」
目の奥の輝きが一瞬にして曇り、愉快そうに上がっていた口角も一気に下がる。
人の感情の変化に間近に触れ、我に返った。
今まで誰かにこんな話をしたことなんてなかった。もしかしてわたしは、自分がどれだけ苦労してきたかを誰かに聞いてもらいたかったのだろうか。
「わたしのほうこそ、ごめんなさい。なんだかムキになってしまって……」
「大変だったんだね。きっと言葉では表せないくらいに」
「……はい」
「それでもフローリストを目指したのは、お父さんを尊敬していたからなのかな?」
「えっ?」
「だからお店を継ごうと思ったんだよね?」
まさかそんなふうに返されるとは思わず、ぼう然として冴島社長を見つめる。するとその表情がふっとゆるまって、わたしの心がゆるやかに静まっていった。
「尊敬……。そうかもしれません。父は愚痴を言わず、弱音も吐かずにひたすら花を愛してきた人でした」
「いいお店だよね。春名さんはお父さんの意志をしっかりと受け継いでいるように見えるよ」
「さあ、それはどうでしょうか。ちゃんとやれているか、自信ないです」
「無機質な雑居ビルの多い通りだから、春名さんのお店の前を通るたびに、なんだかほっとするんだ。それって、いいお店ってことだと思うよ」
「うちの店の前をよく通るんですか?」
「よくってほどではないんだけど。ここに食事をしに来るときに、お店の前を通るから」
そういうことか。うちの店は冴島WESTビルからだと通り道になる。
「うちの店を知っていたから、花を買いにいらしてくださったんですね」
「まあ、そういうことになるのかな。駅前にも花屋はあるけど、あの店って洗練されすぎてなんだか入りにくいんだよね」
「そんなふうに感じる方もいらっしゃるんですね」
駅前の花屋はうちと違って敷地面積が広い。その上、道路側が全面ガラス張りになっていて壮観だ。
「好みの問題なのかな。春名さんのお店はパリの街角にあるような、親しみやすい雰囲気があるから好きだよ」
「よくわかりましたね。父が若い頃にヨーロッパ旅行をしたとき、パリでたまたま見つけた花屋の雰囲気に魅了されたらしくて」
「それでか。僕も好きなんだ。マルシェとかオープンテラスとか、なんか自由で気楽な感じがいいよね。日本のお店のほうがきれいで清潔なのに、なんでか惹かれる」
冴島社長は楽しげに語った。ふたりで頼んだ日替わり定食が運ばれてからも、それは続いた。
セレブ生活にどっぷりつかっているのかと思いきや、小中高は一般の人も通う普通の学校の出身だというし、大学時代にはファミリーレストランやコンビニでアルバイトもしていたという。子どものころに海外に行った際も、両親はファーストクラスで、冴島社長は弟さんと一緒にエコノミークラスに座らされたとか。
「ひとりのときは牛丼屋にも行くよ。たまに無性に食べたくなるんだよな」
そう思わない? と尋ねられたけれど、思ったことがないので首を傾げた。
「わたし、牛丼屋さんに行ったことがないので」
「嘘!? なんで!?」
これでもかというくらい目を見開いて、前のめりになる。
「とくに理由はないんですけど、たまたま行く機会がなかっただけで」
だけど冴島社長は納得いかないらしく、しきりに疑いの目を向けていた。
とてもおもしろい人だ。知り合って間もないし、一緒にいる時間もわずかなのに、そんなわたしに臆することなくいろいろな表情を見せてくれる。こうして世間話をしていると、あまりにも気さくで、普通のサラリーマンと一緒にいるような錯覚に陥りそうになる。
でもワイシャツの袖からちらちら見える腕時計は高級感が漂っている。榎本くんが言っていた通りだ。
一歩引いて見ると、放たれるオーラも庶民とはどこか違う。余裕や貫録、そして気品もあって、わたしたちの間には見えない壁があるような気がしてならなかった。
店主の武藤《むとう》さんは来年還暦を迎える年代。明るくて気さくなおじさんで、子どもの頃から可愛がってもらっている。
だけどその気さくさがたまにアダになるときもある。
定食屋に入るなり、厨房にいた武藤さんに「ようやく彼氏ができたのかい!?」と輝いた目で言われ、わたしは小さく「いいえ」と答えるので精いっぱい。彼氏に間違われた冴島社長にも申し訳ない気持ちになって、いたたまれなかった。
そんなわたしを冴島社長はわざとプレッシャーを与えるみたいに真顔で見ていた。
この人はこの状況をきっとおもしろがっている。テーブルについた今も目の奥が笑っていた。
「なにがおかしいんですか?」
「おかしくないよ。で、どれくらい彼氏がいないの?」
「……三年以上いません」
素直に答えているわたしもわたしだけれど、このことは塔子さんも榎本くんも知っているし、ごまかしてもしょうがない。
「フローリストとして一人前になるために必死でしたから」
「へえ、仕事一筋ってことか。ほんと、まじめなんだな」
「花屋をしていた父が病気になってからはそれどころじゃありませんでしたので。わたしは会社勤めしながら花屋を手伝って、父が亡くなってからは会社を辞めて、花屋を継ぐために専門学校に通っていました」
自分で選んだ道だけれど、つらかった。花屋の仕事の大変さは知っていたのに、まさかこのわたしが店の経営に携わるなんて思ってもみなかった。
「ごめん、茶化すみたいな言い方して。お父さん、お亡くなりになっていたんだね」
目の奥の輝きが一瞬にして曇り、愉快そうに上がっていた口角も一気に下がる。
人の感情の変化に間近に触れ、我に返った。
今まで誰かにこんな話をしたことなんてなかった。もしかしてわたしは、自分がどれだけ苦労してきたかを誰かに聞いてもらいたかったのだろうか。
「わたしのほうこそ、ごめんなさい。なんだかムキになってしまって……」
「大変だったんだね。きっと言葉では表せないくらいに」
「……はい」
「それでもフローリストを目指したのは、お父さんを尊敬していたからなのかな?」
「えっ?」
「だからお店を継ごうと思ったんだよね?」
まさかそんなふうに返されるとは思わず、ぼう然として冴島社長を見つめる。するとその表情がふっとゆるまって、わたしの心がゆるやかに静まっていった。
「尊敬……。そうかもしれません。父は愚痴を言わず、弱音も吐かずにひたすら花を愛してきた人でした」
「いいお店だよね。春名さんはお父さんの意志をしっかりと受け継いでいるように見えるよ」
「さあ、それはどうでしょうか。ちゃんとやれているか、自信ないです」
「無機質な雑居ビルの多い通りだから、春名さんのお店の前を通るたびに、なんだかほっとするんだ。それって、いいお店ってことだと思うよ」
「うちの店の前をよく通るんですか?」
「よくってほどではないんだけど。ここに食事をしに来るときに、お店の前を通るから」
そういうことか。うちの店は冴島WESTビルからだと通り道になる。
「うちの店を知っていたから、花を買いにいらしてくださったんですね」
「まあ、そういうことになるのかな。駅前にも花屋はあるけど、あの店って洗練されすぎてなんだか入りにくいんだよね」
「そんなふうに感じる方もいらっしゃるんですね」
駅前の花屋はうちと違って敷地面積が広い。その上、道路側が全面ガラス張りになっていて壮観だ。
「好みの問題なのかな。春名さんのお店はパリの街角にあるような、親しみやすい雰囲気があるから好きだよ」
「よくわかりましたね。父が若い頃にヨーロッパ旅行をしたとき、パリでたまたま見つけた花屋の雰囲気に魅了されたらしくて」
「それでか。僕も好きなんだ。マルシェとかオープンテラスとか、なんか自由で気楽な感じがいいよね。日本のお店のほうがきれいで清潔なのに、なんでか惹かれる」
冴島社長は楽しげに語った。ふたりで頼んだ日替わり定食が運ばれてからも、それは続いた。
セレブ生活にどっぷりつかっているのかと思いきや、小中高は一般の人も通う普通の学校の出身だというし、大学時代にはファミリーレストランやコンビニでアルバイトもしていたという。子どものころに海外に行った際も、両親はファーストクラスで、冴島社長は弟さんと一緒にエコノミークラスに座らされたとか。
「ひとりのときは牛丼屋にも行くよ。たまに無性に食べたくなるんだよな」
そう思わない? と尋ねられたけれど、思ったことがないので首を傾げた。
「わたし、牛丼屋さんに行ったことがないので」
「嘘!? なんで!?」
これでもかというくらい目を見開いて、前のめりになる。
「とくに理由はないんですけど、たまたま行く機会がなかっただけで」
だけど冴島社長は納得いかないらしく、しきりに疑いの目を向けていた。
とてもおもしろい人だ。知り合って間もないし、一緒にいる時間もわずかなのに、そんなわたしに臆することなくいろいろな表情を見せてくれる。こうして世間話をしていると、あまりにも気さくで、普通のサラリーマンと一緒にいるような錯覚に陥りそうになる。
でもワイシャツの袖からちらちら見える腕時計は高級感が漂っている。榎本くんが言っていた通りだ。
一歩引いて見ると、放たれるオーラも庶民とはどこか違う。余裕や貫録、そして気品もあって、わたしたちの間には見えない壁があるような気がしてならなかった。
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