愛してやまないこの想いを

さとう涼

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第9章 それでも好きでたまらない

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 放火の犯人が捕まったと警察から電話連絡があった。犯人は未成年の大学生で、動機は日常生活の憂《う》さ晴らしだったそうだ。
 そんな理由で!? と怒りがこみあげたものの、自分のなかで消化するしかなかった。
 だけどほっとした。ずっと気がかりだったことがやっと解決して、これでようやくひとつめの大きな問題が片づいた。
 これが昨日のこと。世良さんと別れ話をした日の翌日のことだった。
 恋人とはいえない関係だった。
 でもわたしたちの間には、しっかりと事実として残っている。キスをした。それも大人のキスを。
 思い出すのはやわらかな唇の感触。のぼせあがって、自分が自分でなくなるような危うい感覚のなかを浮遊していた。
 キス以上のことを続けていたら、どうなっていたのだろう。その先を知ってしまったわたしは、果たして彼を手放せただろうか。

「自分の仕事は大丈夫なのか?」
「はい、急ぎのものはありません」
「それじゃ、頼む」
 春山社長は今日の十三時半から現場で定例打ち合わせがある。現場にかかわっているすべての業者の代表が集まる大事な打ち合わせだ。いくつもの工事が同時進行なので、様々な業種の人間が集まる。
 その打ち合わせで、星型イルミネーションのサンプル品を使って、施工方法の確認が行われる予定なのだが、今日が納期のサンプル品がまだうちの事務所に届いていない。販売店であるサンセットクリエイトへの納入はお昼頃になりそうということだった。
「受付の女の子に預けてあるそうだから」
 本来はサンセットクリエイトの間宮さんが現場に配達してくれるはずだったのだが、都合がつかなくなった。春山社長も午前中から現場に入らなくてはならない。そこでわたしがサンセットクリエイトでサンプル品を受け取り、そのまま現場へ届けることになった。
 ほかのみんなはとんでもなく忙しい。わたししか余裕のある人間がいなかったので、自ら申し出た。
「現場の駐車場に着いたら電話をよこせ。車まで取りにいくから」
「わかりました」
「迷子になるなよ」
「現場付近の道は何度か通ったことがあるので、大丈夫かと思います」
 ナビがついている。それに普段から銀行や役所、設計事務所など、車であちこち走りまわっているので道はわりと把握している。
 余裕を持ってお昼前に事務所を出発した。十二時過ぎにサンセットクリエイトに着き、サンプル品を受け取ると、春山社長の待つ現場へと向かった。
「やっぱり目立つなあ」
 現場に近づくと小高い場所に建てられたプラネタリウムのドームが見えてワクワクしてきた。建物がライトアップされると、ドームがほのかに浮かびあがって、遠くからもおもしろく映るはずだ。
 かわいい宇宙船。どちらかというとファンタジーな世界かな。
「駐車場に着きました」
『どの辺にいる?』
「出入口の近くにいます。えっと……東側です。車から降りて待ってます」
 さっそく春山社長に電話をすると、『今行く』という返事。だけど現場が広すぎて春山社長がどの方向から現れるのかわからない。わたしは辺りをキョロキョロと見渡した。
 そのとき一台の車がゆっくりと近づいてきて、わたしの前で停車した。
 運転席のパワーウインドウが開く。
「亜矢ちゃん?」
 運転席にいたのは世良さんだった。
 世良さんはこの現場の関係者なのだから、ここにいるのは不思議なことではない。それはわかっていたはずだった。
 けれどまさか本当に会ってしまうとは思ってもみなくて、声が出なかった。
 世良さんはすぐ近くのスペースに車を停めると、颯爽とこちらに歩いてくる。背が高くてスタイルもよくて、こうして見るとやっぱり王子様みたいだなと思った。三日前までひとつ屋根の下で暮らしていたのに、とてもなつかしい気持ちになった。
「どうしてここに?」
「春山社長に届けものがあって」
「急ぎのもの?」
「はい、今日の定例打ち合わせで必要なものなんです」
「預かろうか? 僕もその打ち合わせに出るから」
「でも春山社長がもうすぐ取りにくるので」
 世良さんはいつも通り、普通にわたしに話しかけてくる。一方、わたしはやっとの思いで返していた。
「亜矢ちゃん」
 うつむいたわたしに沈んだ声が落ちてきた。
「そんなに僕が嫌い?」
「そんなこと……」
 なんとなく一歩あとずさりしてしまった。
「なら、逃げないで」
 世良さんがわたしの避けた分だけ距離を縮めてきた。
 かつてわたしたちはもっと深くて近い仲だったのに、今はこの距離感が苦しい。当然のことながら思い出にはほど遠くて、こんなところで泣きそうになっている。
「せめて前みたいに戻れないかな? プロポーズする前に」
「そうですね。プロポーズはなかったことにしたほうがいいですよね」
「そういう意味で言ったんじゃないよ」
「そう聞こえました」
「そうじゃない。亜矢ちゃんだってやりにくいだろう? 今日みたいに顔を合わせる機会だってあるんだから」
 世良さんが珍しくイライラしている。前にも電話でこんなことがあった。わたしが萌さんのマンションに家出した夜もそうだった。
 温厚な世良さんを怒らせてしまうなんて、わたしはどれだけひどい人間なのだろう。
 わたしはいつもそうだ。心の抑制が効かなくなると相手に思いのまま感情をぶつけてしまう。過去のわたしもそうだった。大好きだったから、そうやって傷つけた。そのせいでわたしは元彼に愛想を尽かされたのだ。 
 だから今ならわかる。
 わたしは自分で思っていた以上に世良さんを好きになっていたんだ。今なら引き返せると思っていたのに、とんだ誤算。わたしの恋心は引き返せないところまで大きくなっていた。
「ごめんなさい」
 夏の太陽がじりじりと照りつける昼下がり。ここは駐車場といっても舗装されておらず、まぶしさと砂埃でコンタクトの目を開けているのがつらい。思わず閉じてしまった目からこぼれてしまった涙を世良さんに見られたくなくて、わたしはその場を駆け出してしまった。
「待って、どこに行くの?」
 だけど数歩であっけなく捕まってしまう。
「離してください!」
「逃げないで。頼むから、避けないで」
 世良さんがわたしの手首を握っている。脈拍がわかってしまうくらいに強い力だった。
「ここを離れてどうするの? なにしにここに来たのか忘れたわけじゃないよね?」
 だって、ここにいられない。気づいてしまったんだもの。
 わたしは、あの女性のために身を引いてしまうという過ちを犯してしまった。最後まであがくべきだったのかもしれない。プライドなんて捨てるべきだったんだ。
「世良さんこそ、もうすぐ打ち合わせの時間ですよ。早く行かないと」
「まだ大丈夫」
「だめですよ。時間に遅れたら大変です」
「泣いている亜矢ちゃんを置いていけない。どうして泣いているのか教えて? ちゃんと償うから」
「違うんです、世良さんは悪くなくて……」
 広がる青い空の下で、いくつも落ちる涙の雨。わたしの手首をつかむ世良さんの手に自分の手を重ねて、首を横に振って否定した。
 違うんです、原因はわたし自身にあるんです。手放してから気づいても遅いのに。
「泣かないで……って言っても、そうさせているのは僕なんだよね。でも安心して。僕なりにちゃんとけじめはつけたつもりだから」
「世良さん……?」
「それを伝えたかったんだ」
 どこか吹っきれたような顔で言われ、わたしの心には津波のように後悔が押し寄せる。一心にそそがれていた愛情が一気に奪われて、わたしは途方に暮れていた。
「世良さん……あの……」
「亜矢!」
 そのときのタイミングの悪さといったらとんでもなくて、これほどまでに彼を恨んだことはない。駐車場に響く大声に、わたしと世良さんは何事かと思い、声のほうを向いた。
「春山社長、お疲れさまです」
「世良くんだったのか。悪い、てっきり亜矢がナンパされているのかと……。あっ、もしかして俺、じゃましたか?」
「いいえ、そんなことないですよ」
 お互いに急いで手を離したけれど、春山社長に見られたかもしれない。その前にわたしの泣き顔を見て、軽い修羅場だったことは察しているだろう。
 だけど今日だけは見すごしてほしい。こんな悲惨な結末のなかでブラックな突っ込みをされても、気の利いたセリフを返せない。
「僕は先に現場事務所に行ってます」
 世良さんも居たたまれなくなったらしく、春山社長に声をかけて去っていく。わたしはそのうしろ姿を目に焼きつけるように見送った。
 過ぎてしまった日々は戻らない。世良さんのなかでけじめがついているということは、本当に手遅れなのだ。
「亜矢、ハッチを開けろ」
「あ、はい」
 意外にも春山社長の声は普通だった。同居を解消したことを報告していたので、春山社長なりに気を使ってくれているのかもしれない。
「思ったよりでかいな」
 サンプル品が入った箱はかなりの大きさ。商品への衝撃を和らげるために厚めのしっかりとした作りの段ボールだった。
「台車を借りてきましょうか?」
「いや、これくらい平気だ」
 わたしはやっとの思いで車に積んだのだけれど、春山社長は軽々と持ち上げていた。
「帰りの運転は大丈夫か?」
 箱を抱えながら、春山社長は顔だけわたしのほうを向いた。
 思ってもみなかった言葉に驚いたが、わたしは冷静に答えた。
「はい、大丈夫です」
「こんなことになるんなら、事務所にいるやつに無理にでも頼むんだったな」
「ほんとに大丈夫ですから。車の運転なら慣れています。いつも仕事で運転しているのは春山社長だって知っているじゃないですか」
「たとえベテランでも車の運転中に油断すると命の危険があるんだよ。仕事に私情をはさむなとまでは言わないけど、そのことだけは注意してほしい」
 からかうどころか、なんだろう、この展開は。春山社長に思いきり心配されている。
 今のわたしはそんなに悲惨に見えるのだろうか。
「わかっています。それに昔のわたしとは違いますから安心してください」
 落ち込むたびに事故っていたら、命がいくつあっても足りないよ。
「亜矢がそこまで言うなんてな。とりあえず耐性だけは強くなったな」
「おかげさまで」
「なんだよ、俺のおかげなのか?」
「たぶん、そうだと思います。少なくとも自分の仕事にはちゃんと責任を持ちます。春山社長をがっかりさせることはしたくないので」
「立派に成長したなあ。まさか、そんなに伸びしろがあったとはな」
 大げさに言いながらも、その目はやさしい。
「春山デザインに転職したおかげです。なかった伸びしろをここまで伸ばしていただきました」
 いい上司のもとで仕事を学ぶことができれば、部下は案外、本来持っている実力以上に成長するものだと思う。春山デザインに勤めて一年十ヶ月ほど。わたしは目の前でそういう人を何人も見てきた。
 つい最近も、過去に春山デザインから独立した人が照明関係の国際的な賞をもらった。その記事をスクラップして大切に保管している春山社長を盗み見ながら、人の上に立つ人間の本当の実力を見たような気がした。
 そんな人だから萌さんはわたしを春山社長に託したのだと思う。そして萌さん自身も、今の自分があるのは春山社長のおかげだと感じているからこそ、ライティングデザイナーとして独立せずに、建築設計の道に進んだのかもしれない。
 ライバルになってしまっては恩を仇で返すとでも思ったのだろう。実際の春山社長は、かつての同志の活躍を愛情いっぱいに微笑ましく、そして誇らしげに見守っているというのに。
「それより早く行かないと。打ち合わせ、はじまっちゃいますよ」
「あっ、やべぇ! 遅刻したら、あの禿げ所長にまた怒鳴られるよ」
 またって……。いったい現場でなにをやらかしているのだろう。ただでさえ建設業界では肩身の狭い業種なのに。
 でも敵を作りやすい性格でも、のらりくらりとかわす才能は人一倍ある。本当にうらやましい性格だ。従業員を抱える責任やビッグプロジェクトの重圧、さらにバツイチという過去を抱えても楽観的に生きていられるんだもん。

 世良さんと現場で遭遇してから八日が過ぎた。
 すぐに決断しなかったせいで、目星をつけていた賃貸物件が契約済になってしまい、いまだに萌さんのマンションに居候させてもらっている。今も引っ越し先をさがしてはいるが、通勤が大変でも萌さんのマンションにいるほうが楽で居心地がいいのだ。
 でもそろそろ本格的にさがさないといけないなあ。萌さんに甘えているわけにいかない。
「ちょっと小耳にはさんだんだけどさ」
 お昼休みに給湯室の掃除をしていると、春山社長がマグカップを下げにきたついでに小声で意味深に話しかけてくる。
「なんですか? どうせくだらないことなんでしょうけど」
 小耳って……。そう聞くだけでうさんくさいんですけど。
「世良くんがさ……」
 だけど彼の名前を出してくるので、急にそわそわと落ち着かなくなった。
「世良さんがどうかしたんですか?」
「シンガポール支社に異動になるらしいんだ」
「シンガポール?」
「高嶋建設もいよいよ本格的に海外進出するらしいぞ。シンガポールのリゾートホテルの建設に合わせて、向こうに支社をつくるんだってさ」
 昨日、春山社長が現場に行ったときに高嶋建設の社員から聞いたそうだ。
「シンガポール支社に異動……」
 あっ……。それで世良さんがあんなことを言ったのかもしれない。けじめ。その言葉の意味は、シンガポール支社への異動ということも含まれていたんだ。
 世良さんが日本を離れる。そんな日が来るなんて夢にも思わなかった。
「世良くんだったら向こうでも活躍できるはずだし、実績を残せば本社に戻ったときにそれなりのポストが待っているということだな」
「そうでしょうね」
「いいのか?」
「いいも悪いも、会社の人事ですから」
「俺はそういう意味で言ったんじゃないよ。わかってるくせに、はぐらかすな」
 きつい目で見据えられる。
 だけど、じゃあどうすればいいの?
 さみしいと口に出せば、世良さんの異動の話がきれいさっぱり消えてなくなるわけじゃない。だいたい、世良さんにはすでに別の女性がそばにいるんだよ。それなのに、わたしとの結婚をもう一度考えてくださいなんて言えるわけない。
「亜矢。今、自分の胸のなかで思ったことが答えだ」
「え?」
「手遅れになるぞ。シンガポールに行ったら、しばらく会えなくなるんだ」
 そんなことは言われなくともわかっている。だけど今さらどうしようもない。わたしにはなんの権利もないのだから。
「どれくらいの期間、向こうでの勤務になるんですか?」
「どうだろうな。一年と言われて行ってみたら五年帰れないこともあるからなあ」
「五年も……」
「世良くんはたしか三十六だっただろう。独身のまま海外赴任っていうのはきついなあ。ただ、向こうには日本人も多く住んでるから出会いがないってわけでもないだろうな。現地の人と結婚っていうのもあり得るだろうし」
 わたしはあの赤い口紅の女性を思い浮かべていた。にっこりと笑みを浮かべ、わたしの妄想のなかの彼女は勝ち誇ったように言った。
 ──世良さんと結婚するのはこのわたし、新婚生活はシンガポールで満喫するわ。

 その日の夜。
 定時上がりのわたしよりも早く帰宅していた萌さんに誘われて、マンションから歩いてすぐのところにある小さな居酒屋に来ていた。
 厨房のまわりを半円に囲むカウンター席のみのこのお店は庶民的な和風居酒屋。お料理は目の前の厨房で手作りされていて、それを眺めながらお酒を頂ける。
 カウンターの端の席で、萌さんは珍しく日本酒を頼み、それならとわたしも同じものを飲んでいた。これが思ったよりも口に合い、お酒も食事もすすんだ。
「聞いたわよ、世良くんのシンガポール支社の話」
「もう知ってるの?」
 わたしだって今日のお昼に聞いたばかりなのに。
「仕事のことで用事があったのよ。聖人に電話をしたら、亜矢の様子を気にかけてくれって」
「春山社長が?」
「もちろん世良くんの朝帰りとかお見合いの話は聖人には言ってないわ。でも、あなたたちの間になにかあったことは勘づいているみたいね。同居を解消したから無理もないけど」
「それもあるんだけど。実はこの間、世良さんともめてるところを見られちゃって」
「それでか」
 萌さんは、お通しの生のキャベツを手づかみで口に入れた。調理されていない、ちぎっただけのキャベツ。随分と手抜きだなと思いながら、わたしもドレッシングをかけずにつまむと、ほんのりと甘みがあっておいしい。
「聖人は黙っているべきか迷ったらしいけど、亜矢が後悔するといけないから、世良くんの異動のことを話したそうよ。あの人、意外にお節介なのよね」
「ほんと、見かけによらずな人だよね」
 わたしは日本酒のグラスを一気に空けた。メニューに目を落としてはみたけれど、次も同じものにしようと思い、もう一杯頼む。萌さんはハイボールがいいというので、一緒にそれも頼んだ。
「どうせほかの女と結婚するなら、海外に行ってくれたほうがわたしとしては助かるのよ。亜矢には世良くんをさっさとあきめてもらって、次の男を見つけてもらいたいから」
 それぞれのお酒が運ばれてきて、萌さんがグラスに口をつけたあと、まじめな口調で話す。
 わたしは日本酒を飲みながら、世良さんと最後に会ったときのことを思い出していた。
 世良さんは最後までやさしかった。ほかの女性の存在があったとしても、そんな人が二股をかけようとするのかな。もっとちゃんと話し合えばよかったのかな。
 でもシンガポール支社への異動はもう決まったこと。どちらにしても、お別れなんだ。
「次の男なんて、当分は無理だよ。もう人を好きになることもないかも」
「またそうやって自分を追い込むんだから。そういうセリフが言えるのは十代までよ。二十七にもなってそんなことを言ってたら笑われるわよ」
「だって本当のことだもん。これから先、世良さん以上に好きになる人が現れるとは思えない」
 おいしい日本酒のせいだろうか。いつも以上のペースで飲み続け、普段だったら絶対に言わないようなことまで言ってしまう。
 でもそれがわたしの本当の気持ち。そう思えるほど、わたしは世良さんのことが好きで好きでたまらないのだ。
「そこまで言うなら、会いにいきなさいよ」
「でも追い返されるかもしれない。だって世良さんはもう次に向かって進んでいるんだよ。わたしなんて簡単に忘れられちゃう」
「だとしても会いにいくべきだと思うけど。振られたっていいじゃない。今の状況となんら変わらないんだから」
「萌さんはいいよ。きれいだし、仕事だってできる。振られても傷は浅いじゃない。でもわたしは違う」
 春山社長が離婚後も恋人を作らずに独身を貫いているのだって、萌さんをまだ好きだからなんだよ。そんなふうに思ってもらえるくらい、萌さんは魅力的なんだよ。
 それに比べてわたしはあっという間に心変わりされてしまう女なの。
「萌さんとわたしは違うんだよ。萌さんを好きになる男性はいっぱいいるけど、わたしはそうじゃない。わたしが街を歩いていても男の人は誰も声をかけてくれないんだから」
「亜矢はいつから、そんなふうになっちゃったの? 自分のことをそんなふうに思う人を素敵だと思ってくれる男性はいないわよ」
「じゃあ、望みなんてないじゃない。もしかすると世良さんはわたしを好きになってくれたんじゃなくて、結婚相手がほしかっただけなのかも……」
「亜矢……」
 萌さんは泣き崩れたわたしの肩を抱いた。
 カウンターが二段になっているおかげで、顔を伏せると目線ほどの高さのカウンターが死角になって反対側の席の人にはわたしの顔が見えない。店内が薄暗いのも幸いだった。
「ばかね。そんなふうに思っていないくせに」
 やわらかい声がわたしを守るようにふんわりと包む。世良さんとは違うやさしい香りがして、年季の入った木製のカウンターにいくつもの涙が落ちていった。
「好きなだけ泣きなさい。いろいろなことに気づけてよかったじゃない。やっぱりもう一度がんばってみたら?」
「……だから、無理なの。世良さんはほかの女の人と朝帰りしたんだよ」
「それなんだけど、わたしはどうしても信じられないの。お見合いの件はわからないけど、朝帰りしたときって本当にその女性と一緒だったのかな?」
「え……?」
 顔を上げたわたしの涙のあとを、萌さんがハンカチで丁寧に拭いてくれた。
「世良くんにはっきり聞いてみたら? 本当の答えはそこにあるんだよ」
 本当の答え……。
 たしかにわたしは一番知りたいことを世良さんに聞いていない。ダイニングレストランで見た光景と朝帰りしたことだけを取り上げて、勝手に妄想している。萌さんに言われて初めて気がついた。わたしはなんて短絡的な考えで世良さんに別れを告げてしまったのだろう。
「わたしって救いようのない、本物のばかだ」
 頭を抱えて、うなだれた。あまりにも浅はかで、自己嫌悪の嵐だった。
「どうしよう、萌さん……」
 萌さんに抱きつくようにしてすがると、「重い」とその腕を軽く振り解かれた。
「なんで、ここで急に冷たくなるの? ちゃんと受け止めてよ」
「わたしがなぐさめなくても、もう大丈夫でしょう。よかったよかった。とりあえず、飲も」
 まったく、切り替えが早すぎる。わたしよりも今はすっかりハイボールに夢中だ。
「萌さん。わたし、今から世良さんのアパートに行ってくる」
「え、今から?」
 おいしそうにハイボールを飲んでいる萌さんを見ていたら、ここでうじうじ考えていちゃいけないと思えてきた。わたしも気持ちを切り替えて、この勢いに乗らないと。
 時刻はまだ夜の八時過ぎ。世良さんは残業だろうか。そのときは電話を入れて、どこかで時間をつぶそう。そう決意したわたしは、萌さんを残し、駅に向かった。

 アパートに着いたわたしは、世良さんの部屋の明かりが点いているのを確認し、エントランスの出入口でインターホンを鳴らした。
 不在を覚悟していたけれど、今日は帰宅しているみたいでよかった。
 インターホン越しに世良さんの声がして緊張しながら名前を言う。すると自動ドアを解除してもらえたのだが、「エントランスで待っていて」と言われてしまった。
 なにしに来たのかと言われるかもしれない。迷惑そうな顔をされるかもしれない。それでもがんばって気持ちを伝えようと決めてきた。だけどこれは最悪なパターンのような気がしてならない。部屋にすらあげたくないということなのだから。
 世良さんの言った「けじめ」というものは、ここまではっきりと境界線を引くことなのだろうか。
 さっそく立っていることもつらい。覚悟を決めてきたのに、会う前から気力が失われていくようだった。
 けれどエントランスに現れた世良さんがわたしを見つけたとき、なぜか照れくさそうに小さく笑みを浮かべていた。
「突然来てごめんなさい。今日は帰りが早かったんですね」
「今日は予定があったんだ」
「予定……あったんですね」
 最悪なタイミングだ。世良さんの都合まで考えていなかった。部屋にあげてくれないのも、それが理由なのかもしれない。
「ごめんなさい、やっぱり日を改めます」
「いや、大丈夫だよ。わざわざ来てくれてありがとう」
 見上げると、その微笑みに胸が熱くなっていく。甘い眼差しも以前と変わっていない。
「あの、場所を移動してもいいですか? 駅前の喫茶店とか」
 部屋にあげられないのだから仕方がない。ここのエントランスはマンションとは違って非常に狭く、落ち着いて話のできる場所ではなかった。
「そうしたいんだけど……。ごめんね、今お客さんが来てるから、あまり時間を取れないんだ」
「なら、近所を歩きながらでもいいですか?」
 それともやっぱり帰ったほうがいいのかな。それとも遠まわしに帰れと言われているのかも。お客様がいらしているのだから仕方ないのだけれど。
 でもそれって……?
 そのとき自動ドアが開いた。
「こんなところで、どうしたんですか?」
 スーパーの袋を持った女性が世良さんに話しかけてきた。
 アパートの入居者だろうか? と考えていたら、ふと思い出した。
 赤い口紅の女性だ!
 カジュアルな出で立ちはこの間と違ってオフモードの雰囲気。彼女はこのアパートのICカードを持っていた。
「お客様ですか? なら、あがっていただいてかまいませんよ」
 落ち着き払った態度に嫉妬渦巻くこの胸が鼓動を速めていく。二週間もたたずに奪われてしまったポジション。世良さんの部屋の合鍵を持ち、自由に出入りできるほど、彼女は世良さんと親しい間柄なのだ。
 やはり結婚の話が進んでいるのだろうか。今すぐ結婚式というのは無理だろうけれど入籍ならばできる。とても理解はできないが、世間では一ヶ月足らずでスピード婚する人もいるくらいだ。
「いや、いいんだ」
 世良さんが彼女に笑いかける。わたしはどうしようもない疎外感を覚えて、無性に腹立たしかった。
 ピンと伸びた背筋、細くて長いすらりとした脚。サラサラとした髪に吹き出物ひとつないきめ細やかな肌。ナチュラルメイクの今日の彼女の唇はヌーディーなリップグロスだけれど、わたしとは比べものにならないほど色っぽい。
 なにもかも負けている。世良さんにとって、今は彼女が特別な人なんだと感じた。
「亜矢ちゃん、歩きながら話そうか?」
「いいえ、いいんです。お忙しそうなので、ここで結構です」
 気持ちを伝えようと思っていたのに、現実を見せつけられて気力を失くしてしまった。あの女性が合鍵を持って部屋に出入りしているのに、そんなこと言えない。わたしはそこまで強くない。
 世良さんだって、今さらわたしなんかにすがられても困るだけだ。そうだよ、困らせてどうする?
「でも話があるんじゃなかったの?」
「話というか……謝りたくて……」
 せめて最後にそれだけは言わないと。大人の女らしく、格好よく去りたい。
 でも言いながら一方からの視線が気になってしょうがない。それに気がついた世良さんが彼女に目配せすると、なにも言わず、彼女は部屋へ戻っていった。
 その無言のやり取りに再び傷ついたけれど、いろいろなことが重なって感情が麻痺しているせいで、案外冷静でいられた。
「この間は現場であんな態度をとってしまって、すみませんでした」
「そのことなら気にしてないよ」
 世良さんの声は相変わらず穏やかに響いてくる。
 でも、その声でどれだけやさしい言葉をかけられても、今のわたしには苦痛なだけ。
「世良さん、どうかお元気で」
「え?」
「お幸せに」
「亜矢ちゃん?」
 精いっぱい姿勢を正す。自分に負けないように。崩れていく自分はもう見たくない。これからはひとりで前を向いて歩いていかなくてはならないんだから。
 わたしは自分にそう言い聞かせて、世良さんをまっすぐに見つめた。
 今日で最後。彼に背中を向けた瞬間から、わたしたちは友達以下の関係に戻るのだ。もう甘えられない。頼ってはいけない。逃げないで、わたしはこのまま自分の道を進むだけ。
「さよなら」
 自分で言ったその言葉に打ちのめされそうになった。だけどなんとかこらえ、最後にがんばって笑顔を作った。
 駆け出したときに彼の手がわたしの指先に触れたけれど、それを振りきって外へ出た。
 初夏だというのに、外はひんやりとしていて、霧雨が降っていた。
 それでも肌はこんなにも熱い。忘れられない想いが身体のなかにこもって、きっとしばらくは眠れない夜が続くだろう。そんな覚悟をした七月の夜は永遠のようにも思えた。
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