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第8章 プロポーズはお断りします
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翌日の土曜日。
トーストと目玉焼きの朝食を食べながら、わたしは友達に会うために外出すると世良さんに嘘をついた。
「友達って女の子?」
「男の人です」
「えっ……」
世良さんの顔が一瞬、強ばった。
「嘘です、冗談ですよ。短大のときの友達が東京に遊びにきているんです。もちろん女の子です」
「……そ、そうなんだ。で、どこに行くの?」
「銀座あたりでショッピングをしたいねって。あとショコラトリーにも行ってみたいそうなんです」
そうくると思って前もって考えていたスケジュールを告げるわたしはぬかりない。
「ふーん、ショコラトリーかあ」
「世良さんはチョコレートが苦手なんですよね」
「話したことあったっけ?」
「有名ですよ。だからバレンタインデーには、世良さんにはチョコは厳禁だって、当時みんなが言ってました」
きっと、どこかで世良さんに対する怒りを示したいと思っていたのかもしれない。世良さんが嫌いなチョコレートのお店を選ぶわたしはかなり意地が悪い。
でもこれくらいいいよね。だってわたしはそれ以上の裏切りをされたんだから。
「わかった、気をつけて行ってきなよ」
「遅くなるかもしれないので」
「久しぶりなんだもんね。ゆっくり楽しんでおいで」
朝食後、玄関に立つわたしを、世良さんが「行ってらっしゃい」と見送る。
「行ってきます」
わたしはそれだけ言ってドアノブに手をかけた。
「あっ、亜矢ちゃん!」
急にあせったような声がして、足を止めて振り向くと、気まずそうな世良さんと目が合った。
「なんですか?」
「いや、なんでもない。行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
二度目の「行ってきます」のあいさつをしながら、世良さんのさみしそうな顔が胸に突き刺さる。
なんでそんな顔をするの?
玄関のドアを閉めても、電車に乗っても、その顔がずっと頭から離れなかった。
昼間、マックでお腹を満たしたあとはスタバとドトールをはしごして、なんとか夕方まで時間をつぶした。そのあとはネットカフェに行って、コンビニで買ったサンドイッチをひとりさみしく食べた。
なんでこんなことやっているんだろう。
狭い空間でデザートのソフトクリームを食べ終えたわたしは、ふいに思いついてパソコンの検索画面を開いた。検索ワードは賃貸物件絡みのもの。有名な会社の情報サイトがすぐにヒットし、マウスでクリックする。なんとなく部屋をさがしてみようかなと思った。
それから夜の十一時頃に帰宅すると、すぐにシャワーを浴び、ダイニングでパソコンをいじっている世良さんに「おやすみなさい」と言って通り過ぎようとしたのだが。
「亜矢ちゃん!」
案の定、呼び止められた。
「少し話したいんだけど」
そのときバサリと音が聞こえた。世良さんが席を立った拍子に、テーブルの端にあったA4サイズの書類がわたしの足もとに落ちてきたのだ。
それは電気工事会社が作成した見積書で、件名は『北街角の家改修電気設備工事』とあった。
遊び心のある名前だな。一般住宅かな。
個人のお客様のなかには工事名に氏名を入れないでほしいと希望する方もいらっしゃるらしい。そういう場合に、名前や場所が特定されないような名称がつけられるのだ。
世良さんも住宅設計のような小さい物件を担当することがあるのか。
わたしは見積書を拾い上げた。
「ありがとう」
世良さんが向かいの席の椅子を引いてくれた。
「座って」
世良さんは見積書を受け取るとそれをテーブルに伏せて置いた。
「お茶を淹れるね。レモンティーなんてどう?」
今日はずっとコーヒーを飲んでいたので、だいぶ胃がもたれている。レモンティーと聞いて、「はい」とうなずいた。
だけど今日はキッチンに入る世良さんを見ることができない。いつもだったら彼の姿を目で追ってしまうのに。それくらい、一緒にいるのが苦しかった。
「はい、どうぞ。今日はアイスにしてみたんだ」
テーブルには氷がたくさん浮いた紅茶のグラスがふたつ。それぞれにレモンの輪切りが浮いていた。涼しげな見た目で、とてもさわやか。
世良さんが、「さてと」と腰を下ろす。長い脚をさっと組んで腕組をする。わたしにはそれが臨戦態勢みたいに思えて、世良さんの機嫌の悪さを感じ取った。
そりゃそうだ。わたしは朝から無愛想極まりない態度を貫いているのだから。
「僕のお姫様は、いったいなにが気に入らなくて駄々をこねているのかな?」
その声はあくまでも穏やか。たぶん、相当我慢をさせているのだと思う。
「気のせいですよ」
「そうかな? 朝は素っ気ないし、やっと帰ってきたと思ったら、僕の顔を見ることなく通り過ぎてしまう。一緒に住んでいるのにこんなのってある?」
「ごめんなさい、ちょっと疲れていて。今度から気をつけます」
もっともなことを言われて目を合わせられない。
「亜矢ちゃん、僕は謝ってほしいんじゃないよ。僕がなにかしたんだよね? だったら教えてほしい」
グラスを見つめるわたしに静かに声が下りてくる。
そんなやさしい声で言わないで。わたしは今、世良さんを信じられなくて、顔も見たくないんです。
「もしかして朝帰りのことかな?」
「いいえ、そのことは別に……」
「夕べはお店で酔いつぶれちゃったんだよ。それで気づいたら、とんでもない時間で──」
「いいんです!」
わたしは世良さんの言葉をさえぎった。
ほかの女性とひと晩過ごしておいて、今さらなにを言っても無駄だ。見苦しい嘘なんて聞きたくない。
「世良さんがどこでなにをしようと自由です。それにわたしは、それをとがめる立場でもないですし、言うつもりもありません」
恋人期間といってもお試し期間のような感じだし、いまだにキス以上のことはしていない。しかもそのキスはわたしがやきもちを焼いたあの夜の一度だけ。
世良さんらしいといえばそうだし、しばらくはそれでいいと自分でも思っていた。なのに
朝帰りされて、わたしのプライドが傷ついてしまった。
「でもそのことを怒ってるんでしょう?」
「怒ってませんから!」
「亜矢ちゃん……」
「世良さんはわたしに気を使わずに、どうか自由にお酒を飲みにいってください。わたしのために、そういうおつき合いを断る必要もないですし、何時に帰ってきてもかまいません」
わたしは一方的に言いきると席を立った。レモンティーに口をつけることをせずに寝室に飛び込んで、急いでドアを閉めた。
世良さんの悲しげな顔が浮かぶ。それは今朝見た顔とも違う。笑みのない世良さんの顔を見慣れていないから強く印象に残った。
翌日は朝から洗濯に励んだ。家事が終わったら、引っ越し先をさがしにいこうと思っていた。物件の目星は昨日のうちにつけていた。
「おはよう」
「おはようございます」
洗面所に入ってきた世良さんと顔を合わせ、わたしは洗濯機のスイッチを入れた。
「今日さ──」
「わたし、お洗濯とお掃除が終わったら、午後からちょっと外出したいんです」
世良さんがなにか言いかけているのを知りながら、わざと言葉をかぶせた。
「どこに行くの?」
「買い物です」
「僕も一緒に行くよ」
「下着とかそういうのを買いたいんです。なので、さすがに一緒には……」
下着と言ってしまえば、いくら世良さんでもついていくとは言えまい。
「そうだね、そういうことなら遠慮するしかないね。亜矢ちゃん、あのさ……」
「ごめんなさい、時間がないので」
わたしは避けるように洗面所をあとにした。
なるべく一緒にいたくなかった。一緒にいたら目の前で泣いてしまいそうになる。世良さんがわたしにやさしくすればするほど、それは偽りなのかなと考えてしまい、絶望的な気持ちになりそうだった。
それから部屋中に掃除機をかけて、洗濯物を干し、お昼ごはんを作る。今日は冷凍ごはんの処分も兼ねてレタスチャーハンにした。ごま油をきかせたチンゲン菜とワカメのスープも作った。
「チャーハンもだけど、このスープもおいしいよ」
世良さんがスプーンで上品にスープをすくう。チンゲン菜とワカメはみじん切りだから見た目は毒々しいくらいの緑色をしたスープだけれど、味はなかなかおいしくできたと思う。
栄養もあるし、野菜不足の世良さんにはもってこいの簡単スープだなと思った。
「よかったです」
「男のひとり暮らしだとスープまで作らないもんな」
「冷蔵庫の残り物で作っただけですよ。チンゲン菜が何日も放置されていたので、すっきりしました」
「そういうところは、やっぱり女の子だね」
「鶏がらスープの元で簡単にできますから。世良さんにも作れますよ」
さっきまでの刺々し雰囲気が嘘のよう。会話は驚くほど普通に流れていた。
けれどお互いの顔色をうかがいながらの食事はとても疲れた。世良さんも同じように感じているに違いない。レモン水の入ったグラスを手に取ると、それをごくごくと飲んでいた。
氷とレモンの輪切りを浮かべたレモン水は世良さんが作ってくれたもの。それひとつで食卓が華やかになる。
世良さんは黙ってグラスをテーブルに置くと、黙々と食事を続けた。
午後になり賃貸物件の仲介会社を訪ねると、さっそく物件の詳細が印刷された資料をもらえた。わたしが提示した物件が三件。それ以外にネットにまだ掲載されていないという新着物件が一件ある。
「この四件は即入居できますか?」
内見のため車を走らせている担当の男性にたずねる。
「ええ、書類の手続きさえ完了すれば」
「よかったあ」
「ただ審査期間がありまして、早ければ一日程度ですむのですが、二日から三日かかると思ったほうがよろしいかと思います」
そっか、審査があるのか。なんだかんだで一週間はかかりそうだな。書類を書いたり、提出しにいったり。契約したあとに、電気や水道の手続きもしないといけないし。
それから予定通りに物件の内見をして、なんとか二件に絞ったが、ほかの物件も見たほうがいいのかなと思ってしまい、結局決めることはできなかった。
気持ちがはやっていても計画通りにいかないものだなあ。帰りの電車のなかでそんなことを思いながらため息をつく。だからといって、このままズルズルと居候を続けることもできないのだが。
日が落ちて窓の外が暗くなりはじめていた。それを眺めていたら憂鬱さが増していく。そんななか、わたしはふと思い立って電車を降りたのだった。
電車を降りたあと、二度乗り換えて向かった先は萌さんが住むマンションだった。どうしても世良さんのアパートに帰りたくなかったわたしの足は自然とここに向かっていた。
「いい加減にしなさいよ」
「え?」
「『え』じゃないわよ。さっきからため息ばっかりで、辛気くさいったらありゃしない」
「ため息ぐらい、いいじゃない」
「よくないわよ。運気が逃げるからやめてちょうだい。どうしてもって言うんなら、ベランダでやりなさいよ」
わたしにこんなきつい言い方をするのは萌さん以外いない。気が強いところは昔からだけれど、今日はさらにひどかった。
「冷たいなあ。かわいい姪に元気がないんだから少しは労わってよ」
「いやよ、面倒くさい」
「萌さん、こわーい」
だけど、これでも男性が言い寄ってくるのだから世のなかって、わからない。
「……黙っていれば美人で通るのに」
「なにか言った?」
うわぁ、春山社長に似て、萌さんも地獄耳だ。
「いいえ、なにも」
「嘘ばっかり。今、わたしの悪口を言ったわよね?」
「言ってません」
「ほんと調子いいんだから。ぜーんぶ聞こえていたわよ。なにせ、地獄耳なんで」
ひー! こっちは本物の地獄耳だ。わたしの心の声まで拾っちゃうなんて!
「それより、世良くんにちゃんと連絡をしておきなさいよ。家出なんて亜矢らしくない」
「家出なんだから連絡しなくていいんじゃない?」
「ヘリクツ言わないの。とにかく今すぐよ、わかった?」
たしかに連絡しないと世良さんは心配するだろう。だけど、どうしても連絡する気になれない。世良さんからの着信はたくさんあるのに。
「温厚な世良くんと喧嘩するなんて、よっぽどのことなんだろうけど。時間がたつと謝りにくくなるだけなんだからね。それにしてもおいしいわね、これ」
萌さんはリビングの床に座り、ビール缶を片手にわたしが作った豚肉入り野菜焼きそばを食べている。泊まらせてもらう代わりに夕飯を作ると言ったら、焼きそばがいいと言うので作ったのだ。
そんなものでいいなんて普段はどんな食生活なんだろう。実際、食材どころか油も調味料もろくになかったので、スーパーに買いにいったほどだった。
「別に喧嘩をしたわけじゃないの。その前に、どうしてわたしが悪いことになってるの?」
「だって、そうとしか考えられないもの」
「でも違うもん」
「あのね、世良くんみたいな男性はそう簡単には見つからないのよ。誰かにとられる前に謝っちゃいなさい」
「だから、わたしが謝る理由なんてないの」
萌さんたら一方的に決めつけちゃって。世良さんはね、ほかの女性とふたりきりで食事をして朝帰りしたんだよ。その女性がお見合い相手なのかもしれない。もしそうなら、このまま結婚ということだってあり得るんだから。
すごく素敵な女性なの。萌さんもきれいだけど、萌さんに負けず劣らずの美人さんだった。わたしが敵うわけないんだよ。どうあがいたって捨てられるのはわたしなんだから。
「そんなこと言ってると、わたしが奪っちゃうわよ。いいの?」
「どうぞどうぞ、お好きなように。年の差も四歳だけだし。年上女房っていうのも萌さんのキャラに合ってるね」
萌さんの美貌なら、あの女性に勝てるかもしれない。いいなあ、わたしが萌さんみたいにきれいだったら、もっと自信が持てたのに。こんなふうに逃げ出すこともなかったかもしれない。
「亜矢、いい加減にしなさいよ!」
「わたしはまじめに言ってるの。萌さんこそ、わたしがここにいてじゃまだから、そんなこと言うの?」
「そんなわけないでしょう!」
萌さんは厳しい形相でビール缶をテーブルに乱暴に置いた。おかげで飲み口からビールがこぼれてしまった。
「ちょっと、萌さん!」
わたしは慌ててキッチンにフキンを取りにいった。
萌さんはお酒を飲むといつもよりも感情豊かになる。クールビューティーの萌さんの素顔を知っている人は、おそらくそれほど多くない。わたしと春山社長。昔はほかにもいたと思うけれど、今はそんなものかな。
「亜矢?」
「なに?」
「さっきのことなんだけど……」
「ん?」
テーブルを拭いていると、萌さんの声が穏やかになっていく。わたしは手を止めて、その場に正座をすると、萌さんの話の続きを静かに待った。
「ここにいたければ、いつまでいてもいいのよ。それこそ亜矢をここからお嫁に出してもいいくらいなんだから」
「やだ、大げさだよ」
「わたしは本気よ。わたしの目の届くところに置いておけば、なにかあってもすぐに気づけるし、亜矢の両親も安心だと思うの」
「萌さん……。でもわたしだって、もう二十七歳だよ。ちゃんとひとりで解決できるよ。少なくともこれからは」
つらいことがあったからといって会社を休むつもりもないし、明日の出社のことだってちゃんと考えている。着替えをしに世良さんのアパートに寄っていては遅刻してしまうから、明日の分の着替えはここに来る前にちゃんと買っておいた。
「でも、さっきはいろいろごめんなさい。突っかかる言い方しちゃって、完全に八つ当たりだった」
萌さんとは十三歳しか離れていないから、叔母というより姉という存在。わたしが社会人になるとさらに年の差の感覚が縮まって、対等な立場で語り合えるようになった。
当時は自分の離婚問題でそれどころではなかったはずなのに、会社を辞めて半ば引きこもり状態のわたしを再び外の世界に連れ出してくれたのは萌さんだった。春山社長が手がけたものをわたしに見せるために、時間を作ってはわたしをいろいろな場所に連れていってくれたのだ。
地方の小さな城下町や町屋の街並み、仏閣など。それらはひっそりとして、趣のある静かな光。華やかなクリスマスイルミネーションとは正反対のもの。
わたしを導いてくれた光にはそんな光もあった。人々の生活にそっと入り込んでいる灯を春山社長は好んでいるようだった。
「亜矢は大切な姪なの。赤ちゃんの頃から知っていて、かわいくて仕方がないの。なにを言われても、その想いは変わらないわ」
「ちょっとやめてよ。面と向かって言われると恥ずかしいんだけど」
それでも萌さんは続けた。
「今度こそ幸せになりなさいよ。これ以上、泣かせたくないの」
「ありがとう。でも世良さんとはもう……」
「なにがあったの? 深刻な問題なら相談に乗るわよ」
「ううん、相談は必要ないの。わたしが身を引けば、それでいいだけのことだから」
わたしは萌さんに今までの経緯を説明した。萌さんは納得していないようだったけれど、世良さんに謝りなさいとは言わなかった。
その代わり、ちゃんと連絡はしなさいと言った。萌さんと話しているうちに、だいぶ落ち着いたわたしはようやく世良さんと向き合って話そうと思えた。わたしはスマホを手に取った。
すると、ずっと待っていたのだろう。ワンコールで世良さんの声が聞こえてきた。
『迎えにいくよ、今どこにいるの?』
事情をたずねることなく、いきなりのセリフ。あせったような声はわたしをどれだけ心配していたのかを物語っていた。だけどわたしは冷静に答えた。
「萌さんのマンションです。しばらく、ここに住まわせてもらうことになりました」
引っ越し先もさがしていることを告げると、世良さんは絶句していたけれど、わたしはかまわず続けた。
「明日の夕方、荷物を取りにいきます。世良さんは何時頃に帰ってきますか?」
『どういうこと? どうして急にこんなことになるんだよ?』
「その話は明日──」
『今から迎えにいくから住所を教えて』
わたしの言葉をさえぎって世良さんが口調を強める。ついでに会話も噛み合わなくて困ってしまった。
『最寄り駅なら知ってるんだ。とりあえず駅前まで行くから』
「迎えにきてもらっても、わたしは帰りません」
『なら、直接会って話だけでもさせて』
「今日はもう遅いので。世良さんだって明日は仕事なんですから」
なだめるように言う。わたしが電話を一切無視して、その間に家で散々待ちぼうけを食らわされていたのだから、さすがの世良さんも苛立ちを抑えられないのだろう。待つ身とはそういうものだということはわたしも経験してきたことだからよくわかる。
だけど今日会ったところで言い合いになるに決まっている。明日になれば世良さんも落ち着いて話せると思うので、そのことを告げようとスマホを違うほうの手で持ち変えて息を整えると、それをさっと奪われた。
「萌さん!」
まかせなさい、という目でわたしを見る。それからわたしに背中を向けて、電話の向こうの世良さんと話しはじめた。わたしはその様子をハラハラしながら見守った。
だけど萌さんは数分もたたないうちに電話をきり、スマホをわたしに返してきた。
「どうだった?」
「大丈夫よ、明日まで待つと言ってくれたわ」
そばで萌さんの声を聞いていたから、だいたいのことは把握できたけれど、あまりにも短い会話に疑心暗鬼。
「それだけ?」
「わたしと一緒だと確認できたから納得できたのよ。それをたしかめられないまま放っておけない性格でしょう、世良くんって」
「それはそうだけど」
「それだけ心配していたってことよ。それに亜矢の両親に対しての責任もあるでしょう?」
「……うん」
責任。それを聞いてなるほどと思った。彼本来のやさしさもあるけれど、わたしを預かった責任を感じているからこそ、そこまで必死なのだ。
結局、世良さんのなかではわたしは新入社員のままなのかもしれない。短大を卒業したばかりの二十歳の頼りない受付嬢。つき合っていた彼氏に振られ、最終的に会社を辞めてしまうような無鉄砲で未熟な人間に映っているんだ。
途端にあの女性が頭のなかをちらつく。あの艶めいた魅力はきっと充実した生き方をしているからだ。仕事もプライベートも順調で、おまけに美人ときたら、人生がおもしろくて仕方ないに違いない。
弧を描いた赤い唇が彼女の色気を際立たせていた。わたしにはない魅力を彼女は持っている。世良さんとお似合いすぎて、わたしの出る幕なんてないような気がした。
世良さんにはあんな女性のほうが似合うと思う。わたしよりも。
「プロポーズはお断りします」
翌日、わたしは世良さんにはっきりと言った。いつも楽しく食事をし、お茶を飲んでいたダイニングは殺伐とした雰囲気となっていた。
ピリピリとした居心地の悪い空気のなか、世良さんが目を見開いた。
「なんでそうなるの!?」
世良さんが不服そうに声を荒らげるが、わたしは彼の視線から目をそらさずに言った。
「ですから、これが最終の答えです」
ちゃんと伝えなきゃ。世良さんの幸せのために、覚悟を決めてここに来たのだから。
「それから、夕べは連絡をしないですみませんでした。心配をかけてしまったことは反省しています。おとといの夜も生意気な態度をとってしまって」
「そんなことはどうでもいいよ。それより、どうしてこんなことになっているのか、僕にはさっぱりわからないんだ」
「おととい、わたしが言ったことは本音なんです。世良さんは自由なんです。どこでなにをしようとも、わたしにはなにも言う権利はありませんから」
「それがわからないと言っているんだ。たったそれだけを言って全部終わりにするつもり? それってひどくない?」
世良さんがテーブルの上で拳を固く握るのが見えた。
「世良さんにはもっとふさわしい女性がいますよ」
「ふさわしい女性?」
世良さんが眉根を寄せて、いっそう不機嫌な顔になる。
でも世良さんだってあの女性とふたりきりで楽しそうにしていたじゃない。朝帰りするくらい、身体も心も相性がよかったんでしょう。
わたしだって世良さんには幸せになってほしいと願っているんです。だから世良さんの口から聞く前にわたしから別れを告げさせてほしい。じゃないと、また同じことの繰り返しになってしまう。もう二度と人を好きになることができなくなりそうで怖いんです。
「わたしはいい年をして、いつも誰かに頼ってばかりでした。こんなわたしが誰かを支えるなんて無理だと思うんです。なにもないんです、今のわたしは。だから結婚できないんです」
言い終わると、わたしはスーツケースとボストンバッグを持って玄関に向かう。ここに初めて来たのは三週間と少し前。そのときはスーツケースひとつだったのに。たったそれだけの期間でバッグひとつ分の荷物が増えていた。
世良さんに買ってもらったネイビーのワンピースを着てデートする夢は叶わなかった。クリスマスイルミネーションを見に行きたいなと、ひとりで妄想していたことも無駄に終わった。
だけど人との出会いなんてこんなもの。それなりの数の出会いがあっても、別れもそれに近い数だけある。残るのはほんの一握り。
今度こそと夢見てしまったわたしがばかだった。やっぱりわたしじゃだめなんだ。元彼が別の女性を選んだ事実がその証拠。元彼は幸せをつかんだ。新しい人と出会い、恋をした。それがすべてなんだろうなと思う。
「亜矢ちゃん!」
玄関まで追いかけてきた世良さんは混乱のせいか息を乱していた。一生懸命になにかを伝えようとしてわたしを必死に見つめている。
「亜矢ちゃん……」
苦しそうな顔をしていた。だけどせめて最後は笑顔でお別れしたい。わたしはかわいそうな女じゃない。自分で選んだ道なのだから。
「ごめん」
そんな顔で頭を下げられると惨めになる。
「どうして謝るんですか?」
わたしを裏切ってしまったから? ほかの人と結婚しようとしているから?
「あ、いや、怒らせるつもりじゃなかったんだ。ただ……」
「わたし、怒ってませんから」
「そうじゃなくて。朝帰りしたこと以外にも理由があるんだろうけど……」
それは世良さんが一番よくわかっていることでしょう。だったら、わざわざ言わないで。
「もうやめてください。話し合いは終わったんです」
「だけど──」
「お世話になりました。短い間でしたけど、一緒にいた時間は楽しかったです」
わたしは一礼して世良さんを振りきった。重いスーツケースとボストンバッグを抱えてアパートを出ていく。
これでよかったんだよね。世良さんにとっても。そして、わたしにとっても。
ひと気のないアスファルトの上でゴロゴロとスーツケースの音がむなしく鳴り響いた。
風が湿気を多く含んでいて、頬をつたっていった涙のあとが一向に乾いてくれない。
でもきっとこれは今日だけのこと。明日からわたしはまた普通の毎日を送るようになる。そうだよ、前の生活に戻るだけのことなんだ。
夜空を眺めながら『銀河鉄道の夜』に似たイルミネーションのデザイン画を重ね合わせた。プロポーズされたことはいい思い出、そうなれますようにと星に願いながら、わたしは萌さんのマンションを目指した。
トーストと目玉焼きの朝食を食べながら、わたしは友達に会うために外出すると世良さんに嘘をついた。
「友達って女の子?」
「男の人です」
「えっ……」
世良さんの顔が一瞬、強ばった。
「嘘です、冗談ですよ。短大のときの友達が東京に遊びにきているんです。もちろん女の子です」
「……そ、そうなんだ。で、どこに行くの?」
「銀座あたりでショッピングをしたいねって。あとショコラトリーにも行ってみたいそうなんです」
そうくると思って前もって考えていたスケジュールを告げるわたしはぬかりない。
「ふーん、ショコラトリーかあ」
「世良さんはチョコレートが苦手なんですよね」
「話したことあったっけ?」
「有名ですよ。だからバレンタインデーには、世良さんにはチョコは厳禁だって、当時みんなが言ってました」
きっと、どこかで世良さんに対する怒りを示したいと思っていたのかもしれない。世良さんが嫌いなチョコレートのお店を選ぶわたしはかなり意地が悪い。
でもこれくらいいいよね。だってわたしはそれ以上の裏切りをされたんだから。
「わかった、気をつけて行ってきなよ」
「遅くなるかもしれないので」
「久しぶりなんだもんね。ゆっくり楽しんでおいで」
朝食後、玄関に立つわたしを、世良さんが「行ってらっしゃい」と見送る。
「行ってきます」
わたしはそれだけ言ってドアノブに手をかけた。
「あっ、亜矢ちゃん!」
急にあせったような声がして、足を止めて振り向くと、気まずそうな世良さんと目が合った。
「なんですか?」
「いや、なんでもない。行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
二度目の「行ってきます」のあいさつをしながら、世良さんのさみしそうな顔が胸に突き刺さる。
なんでそんな顔をするの?
玄関のドアを閉めても、電車に乗っても、その顔がずっと頭から離れなかった。
昼間、マックでお腹を満たしたあとはスタバとドトールをはしごして、なんとか夕方まで時間をつぶした。そのあとはネットカフェに行って、コンビニで買ったサンドイッチをひとりさみしく食べた。
なんでこんなことやっているんだろう。
狭い空間でデザートのソフトクリームを食べ終えたわたしは、ふいに思いついてパソコンの検索画面を開いた。検索ワードは賃貸物件絡みのもの。有名な会社の情報サイトがすぐにヒットし、マウスでクリックする。なんとなく部屋をさがしてみようかなと思った。
それから夜の十一時頃に帰宅すると、すぐにシャワーを浴び、ダイニングでパソコンをいじっている世良さんに「おやすみなさい」と言って通り過ぎようとしたのだが。
「亜矢ちゃん!」
案の定、呼び止められた。
「少し話したいんだけど」
そのときバサリと音が聞こえた。世良さんが席を立った拍子に、テーブルの端にあったA4サイズの書類がわたしの足もとに落ちてきたのだ。
それは電気工事会社が作成した見積書で、件名は『北街角の家改修電気設備工事』とあった。
遊び心のある名前だな。一般住宅かな。
個人のお客様のなかには工事名に氏名を入れないでほしいと希望する方もいらっしゃるらしい。そういう場合に、名前や場所が特定されないような名称がつけられるのだ。
世良さんも住宅設計のような小さい物件を担当することがあるのか。
わたしは見積書を拾い上げた。
「ありがとう」
世良さんが向かいの席の椅子を引いてくれた。
「座って」
世良さんは見積書を受け取るとそれをテーブルに伏せて置いた。
「お茶を淹れるね。レモンティーなんてどう?」
今日はずっとコーヒーを飲んでいたので、だいぶ胃がもたれている。レモンティーと聞いて、「はい」とうなずいた。
だけど今日はキッチンに入る世良さんを見ることができない。いつもだったら彼の姿を目で追ってしまうのに。それくらい、一緒にいるのが苦しかった。
「はい、どうぞ。今日はアイスにしてみたんだ」
テーブルには氷がたくさん浮いた紅茶のグラスがふたつ。それぞれにレモンの輪切りが浮いていた。涼しげな見た目で、とてもさわやか。
世良さんが、「さてと」と腰を下ろす。長い脚をさっと組んで腕組をする。わたしにはそれが臨戦態勢みたいに思えて、世良さんの機嫌の悪さを感じ取った。
そりゃそうだ。わたしは朝から無愛想極まりない態度を貫いているのだから。
「僕のお姫様は、いったいなにが気に入らなくて駄々をこねているのかな?」
その声はあくまでも穏やか。たぶん、相当我慢をさせているのだと思う。
「気のせいですよ」
「そうかな? 朝は素っ気ないし、やっと帰ってきたと思ったら、僕の顔を見ることなく通り過ぎてしまう。一緒に住んでいるのにこんなのってある?」
「ごめんなさい、ちょっと疲れていて。今度から気をつけます」
もっともなことを言われて目を合わせられない。
「亜矢ちゃん、僕は謝ってほしいんじゃないよ。僕がなにかしたんだよね? だったら教えてほしい」
グラスを見つめるわたしに静かに声が下りてくる。
そんなやさしい声で言わないで。わたしは今、世良さんを信じられなくて、顔も見たくないんです。
「もしかして朝帰りのことかな?」
「いいえ、そのことは別に……」
「夕べはお店で酔いつぶれちゃったんだよ。それで気づいたら、とんでもない時間で──」
「いいんです!」
わたしは世良さんの言葉をさえぎった。
ほかの女性とひと晩過ごしておいて、今さらなにを言っても無駄だ。見苦しい嘘なんて聞きたくない。
「世良さんがどこでなにをしようと自由です。それにわたしは、それをとがめる立場でもないですし、言うつもりもありません」
恋人期間といってもお試し期間のような感じだし、いまだにキス以上のことはしていない。しかもそのキスはわたしがやきもちを焼いたあの夜の一度だけ。
世良さんらしいといえばそうだし、しばらくはそれでいいと自分でも思っていた。なのに
朝帰りされて、わたしのプライドが傷ついてしまった。
「でもそのことを怒ってるんでしょう?」
「怒ってませんから!」
「亜矢ちゃん……」
「世良さんはわたしに気を使わずに、どうか自由にお酒を飲みにいってください。わたしのために、そういうおつき合いを断る必要もないですし、何時に帰ってきてもかまいません」
わたしは一方的に言いきると席を立った。レモンティーに口をつけることをせずに寝室に飛び込んで、急いでドアを閉めた。
世良さんの悲しげな顔が浮かぶ。それは今朝見た顔とも違う。笑みのない世良さんの顔を見慣れていないから強く印象に残った。
翌日は朝から洗濯に励んだ。家事が終わったら、引っ越し先をさがしにいこうと思っていた。物件の目星は昨日のうちにつけていた。
「おはよう」
「おはようございます」
洗面所に入ってきた世良さんと顔を合わせ、わたしは洗濯機のスイッチを入れた。
「今日さ──」
「わたし、お洗濯とお掃除が終わったら、午後からちょっと外出したいんです」
世良さんがなにか言いかけているのを知りながら、わざと言葉をかぶせた。
「どこに行くの?」
「買い物です」
「僕も一緒に行くよ」
「下着とかそういうのを買いたいんです。なので、さすがに一緒には……」
下着と言ってしまえば、いくら世良さんでもついていくとは言えまい。
「そうだね、そういうことなら遠慮するしかないね。亜矢ちゃん、あのさ……」
「ごめんなさい、時間がないので」
わたしは避けるように洗面所をあとにした。
なるべく一緒にいたくなかった。一緒にいたら目の前で泣いてしまいそうになる。世良さんがわたしにやさしくすればするほど、それは偽りなのかなと考えてしまい、絶望的な気持ちになりそうだった。
それから部屋中に掃除機をかけて、洗濯物を干し、お昼ごはんを作る。今日は冷凍ごはんの処分も兼ねてレタスチャーハンにした。ごま油をきかせたチンゲン菜とワカメのスープも作った。
「チャーハンもだけど、このスープもおいしいよ」
世良さんがスプーンで上品にスープをすくう。チンゲン菜とワカメはみじん切りだから見た目は毒々しいくらいの緑色をしたスープだけれど、味はなかなかおいしくできたと思う。
栄養もあるし、野菜不足の世良さんにはもってこいの簡単スープだなと思った。
「よかったです」
「男のひとり暮らしだとスープまで作らないもんな」
「冷蔵庫の残り物で作っただけですよ。チンゲン菜が何日も放置されていたので、すっきりしました」
「そういうところは、やっぱり女の子だね」
「鶏がらスープの元で簡単にできますから。世良さんにも作れますよ」
さっきまでの刺々し雰囲気が嘘のよう。会話は驚くほど普通に流れていた。
けれどお互いの顔色をうかがいながらの食事はとても疲れた。世良さんも同じように感じているに違いない。レモン水の入ったグラスを手に取ると、それをごくごくと飲んでいた。
氷とレモンの輪切りを浮かべたレモン水は世良さんが作ってくれたもの。それひとつで食卓が華やかになる。
世良さんは黙ってグラスをテーブルに置くと、黙々と食事を続けた。
午後になり賃貸物件の仲介会社を訪ねると、さっそく物件の詳細が印刷された資料をもらえた。わたしが提示した物件が三件。それ以外にネットにまだ掲載されていないという新着物件が一件ある。
「この四件は即入居できますか?」
内見のため車を走らせている担当の男性にたずねる。
「ええ、書類の手続きさえ完了すれば」
「よかったあ」
「ただ審査期間がありまして、早ければ一日程度ですむのですが、二日から三日かかると思ったほうがよろしいかと思います」
そっか、審査があるのか。なんだかんだで一週間はかかりそうだな。書類を書いたり、提出しにいったり。契約したあとに、電気や水道の手続きもしないといけないし。
それから予定通りに物件の内見をして、なんとか二件に絞ったが、ほかの物件も見たほうがいいのかなと思ってしまい、結局決めることはできなかった。
気持ちがはやっていても計画通りにいかないものだなあ。帰りの電車のなかでそんなことを思いながらため息をつく。だからといって、このままズルズルと居候を続けることもできないのだが。
日が落ちて窓の外が暗くなりはじめていた。それを眺めていたら憂鬱さが増していく。そんななか、わたしはふと思い立って電車を降りたのだった。
電車を降りたあと、二度乗り換えて向かった先は萌さんが住むマンションだった。どうしても世良さんのアパートに帰りたくなかったわたしの足は自然とここに向かっていた。
「いい加減にしなさいよ」
「え?」
「『え』じゃないわよ。さっきからため息ばっかりで、辛気くさいったらありゃしない」
「ため息ぐらい、いいじゃない」
「よくないわよ。運気が逃げるからやめてちょうだい。どうしてもって言うんなら、ベランダでやりなさいよ」
わたしにこんなきつい言い方をするのは萌さん以外いない。気が強いところは昔からだけれど、今日はさらにひどかった。
「冷たいなあ。かわいい姪に元気がないんだから少しは労わってよ」
「いやよ、面倒くさい」
「萌さん、こわーい」
だけど、これでも男性が言い寄ってくるのだから世のなかって、わからない。
「……黙っていれば美人で通るのに」
「なにか言った?」
うわぁ、春山社長に似て、萌さんも地獄耳だ。
「いいえ、なにも」
「嘘ばっかり。今、わたしの悪口を言ったわよね?」
「言ってません」
「ほんと調子いいんだから。ぜーんぶ聞こえていたわよ。なにせ、地獄耳なんで」
ひー! こっちは本物の地獄耳だ。わたしの心の声まで拾っちゃうなんて!
「それより、世良くんにちゃんと連絡をしておきなさいよ。家出なんて亜矢らしくない」
「家出なんだから連絡しなくていいんじゃない?」
「ヘリクツ言わないの。とにかく今すぐよ、わかった?」
たしかに連絡しないと世良さんは心配するだろう。だけど、どうしても連絡する気になれない。世良さんからの着信はたくさんあるのに。
「温厚な世良くんと喧嘩するなんて、よっぽどのことなんだろうけど。時間がたつと謝りにくくなるだけなんだからね。それにしてもおいしいわね、これ」
萌さんはリビングの床に座り、ビール缶を片手にわたしが作った豚肉入り野菜焼きそばを食べている。泊まらせてもらう代わりに夕飯を作ると言ったら、焼きそばがいいと言うので作ったのだ。
そんなものでいいなんて普段はどんな食生活なんだろう。実際、食材どころか油も調味料もろくになかったので、スーパーに買いにいったほどだった。
「別に喧嘩をしたわけじゃないの。その前に、どうしてわたしが悪いことになってるの?」
「だって、そうとしか考えられないもの」
「でも違うもん」
「あのね、世良くんみたいな男性はそう簡単には見つからないのよ。誰かにとられる前に謝っちゃいなさい」
「だから、わたしが謝る理由なんてないの」
萌さんたら一方的に決めつけちゃって。世良さんはね、ほかの女性とふたりきりで食事をして朝帰りしたんだよ。その女性がお見合い相手なのかもしれない。もしそうなら、このまま結婚ということだってあり得るんだから。
すごく素敵な女性なの。萌さんもきれいだけど、萌さんに負けず劣らずの美人さんだった。わたしが敵うわけないんだよ。どうあがいたって捨てられるのはわたしなんだから。
「そんなこと言ってると、わたしが奪っちゃうわよ。いいの?」
「どうぞどうぞ、お好きなように。年の差も四歳だけだし。年上女房っていうのも萌さんのキャラに合ってるね」
萌さんの美貌なら、あの女性に勝てるかもしれない。いいなあ、わたしが萌さんみたいにきれいだったら、もっと自信が持てたのに。こんなふうに逃げ出すこともなかったかもしれない。
「亜矢、いい加減にしなさいよ!」
「わたしはまじめに言ってるの。萌さんこそ、わたしがここにいてじゃまだから、そんなこと言うの?」
「そんなわけないでしょう!」
萌さんは厳しい形相でビール缶をテーブルに乱暴に置いた。おかげで飲み口からビールがこぼれてしまった。
「ちょっと、萌さん!」
わたしは慌ててキッチンにフキンを取りにいった。
萌さんはお酒を飲むといつもよりも感情豊かになる。クールビューティーの萌さんの素顔を知っている人は、おそらくそれほど多くない。わたしと春山社長。昔はほかにもいたと思うけれど、今はそんなものかな。
「亜矢?」
「なに?」
「さっきのことなんだけど……」
「ん?」
テーブルを拭いていると、萌さんの声が穏やかになっていく。わたしは手を止めて、その場に正座をすると、萌さんの話の続きを静かに待った。
「ここにいたければ、いつまでいてもいいのよ。それこそ亜矢をここからお嫁に出してもいいくらいなんだから」
「やだ、大げさだよ」
「わたしは本気よ。わたしの目の届くところに置いておけば、なにかあってもすぐに気づけるし、亜矢の両親も安心だと思うの」
「萌さん……。でもわたしだって、もう二十七歳だよ。ちゃんとひとりで解決できるよ。少なくともこれからは」
つらいことがあったからといって会社を休むつもりもないし、明日の出社のことだってちゃんと考えている。着替えをしに世良さんのアパートに寄っていては遅刻してしまうから、明日の分の着替えはここに来る前にちゃんと買っておいた。
「でも、さっきはいろいろごめんなさい。突っかかる言い方しちゃって、完全に八つ当たりだった」
萌さんとは十三歳しか離れていないから、叔母というより姉という存在。わたしが社会人になるとさらに年の差の感覚が縮まって、対等な立場で語り合えるようになった。
当時は自分の離婚問題でそれどころではなかったはずなのに、会社を辞めて半ば引きこもり状態のわたしを再び外の世界に連れ出してくれたのは萌さんだった。春山社長が手がけたものをわたしに見せるために、時間を作ってはわたしをいろいろな場所に連れていってくれたのだ。
地方の小さな城下町や町屋の街並み、仏閣など。それらはひっそりとして、趣のある静かな光。華やかなクリスマスイルミネーションとは正反対のもの。
わたしを導いてくれた光にはそんな光もあった。人々の生活にそっと入り込んでいる灯を春山社長は好んでいるようだった。
「亜矢は大切な姪なの。赤ちゃんの頃から知っていて、かわいくて仕方がないの。なにを言われても、その想いは変わらないわ」
「ちょっとやめてよ。面と向かって言われると恥ずかしいんだけど」
それでも萌さんは続けた。
「今度こそ幸せになりなさいよ。これ以上、泣かせたくないの」
「ありがとう。でも世良さんとはもう……」
「なにがあったの? 深刻な問題なら相談に乗るわよ」
「ううん、相談は必要ないの。わたしが身を引けば、それでいいだけのことだから」
わたしは萌さんに今までの経緯を説明した。萌さんは納得していないようだったけれど、世良さんに謝りなさいとは言わなかった。
その代わり、ちゃんと連絡はしなさいと言った。萌さんと話しているうちに、だいぶ落ち着いたわたしはようやく世良さんと向き合って話そうと思えた。わたしはスマホを手に取った。
すると、ずっと待っていたのだろう。ワンコールで世良さんの声が聞こえてきた。
『迎えにいくよ、今どこにいるの?』
事情をたずねることなく、いきなりのセリフ。あせったような声はわたしをどれだけ心配していたのかを物語っていた。だけどわたしは冷静に答えた。
「萌さんのマンションです。しばらく、ここに住まわせてもらうことになりました」
引っ越し先もさがしていることを告げると、世良さんは絶句していたけれど、わたしはかまわず続けた。
「明日の夕方、荷物を取りにいきます。世良さんは何時頃に帰ってきますか?」
『どういうこと? どうして急にこんなことになるんだよ?』
「その話は明日──」
『今から迎えにいくから住所を教えて』
わたしの言葉をさえぎって世良さんが口調を強める。ついでに会話も噛み合わなくて困ってしまった。
『最寄り駅なら知ってるんだ。とりあえず駅前まで行くから』
「迎えにきてもらっても、わたしは帰りません」
『なら、直接会って話だけでもさせて』
「今日はもう遅いので。世良さんだって明日は仕事なんですから」
なだめるように言う。わたしが電話を一切無視して、その間に家で散々待ちぼうけを食らわされていたのだから、さすがの世良さんも苛立ちを抑えられないのだろう。待つ身とはそういうものだということはわたしも経験してきたことだからよくわかる。
だけど今日会ったところで言い合いになるに決まっている。明日になれば世良さんも落ち着いて話せると思うので、そのことを告げようとスマホを違うほうの手で持ち変えて息を整えると、それをさっと奪われた。
「萌さん!」
まかせなさい、という目でわたしを見る。それからわたしに背中を向けて、電話の向こうの世良さんと話しはじめた。わたしはその様子をハラハラしながら見守った。
だけど萌さんは数分もたたないうちに電話をきり、スマホをわたしに返してきた。
「どうだった?」
「大丈夫よ、明日まで待つと言ってくれたわ」
そばで萌さんの声を聞いていたから、だいたいのことは把握できたけれど、あまりにも短い会話に疑心暗鬼。
「それだけ?」
「わたしと一緒だと確認できたから納得できたのよ。それをたしかめられないまま放っておけない性格でしょう、世良くんって」
「それはそうだけど」
「それだけ心配していたってことよ。それに亜矢の両親に対しての責任もあるでしょう?」
「……うん」
責任。それを聞いてなるほどと思った。彼本来のやさしさもあるけれど、わたしを預かった責任を感じているからこそ、そこまで必死なのだ。
結局、世良さんのなかではわたしは新入社員のままなのかもしれない。短大を卒業したばかりの二十歳の頼りない受付嬢。つき合っていた彼氏に振られ、最終的に会社を辞めてしまうような無鉄砲で未熟な人間に映っているんだ。
途端にあの女性が頭のなかをちらつく。あの艶めいた魅力はきっと充実した生き方をしているからだ。仕事もプライベートも順調で、おまけに美人ときたら、人生がおもしろくて仕方ないに違いない。
弧を描いた赤い唇が彼女の色気を際立たせていた。わたしにはない魅力を彼女は持っている。世良さんとお似合いすぎて、わたしの出る幕なんてないような気がした。
世良さんにはあんな女性のほうが似合うと思う。わたしよりも。
「プロポーズはお断りします」
翌日、わたしは世良さんにはっきりと言った。いつも楽しく食事をし、お茶を飲んでいたダイニングは殺伐とした雰囲気となっていた。
ピリピリとした居心地の悪い空気のなか、世良さんが目を見開いた。
「なんでそうなるの!?」
世良さんが不服そうに声を荒らげるが、わたしは彼の視線から目をそらさずに言った。
「ですから、これが最終の答えです」
ちゃんと伝えなきゃ。世良さんの幸せのために、覚悟を決めてここに来たのだから。
「それから、夕べは連絡をしないですみませんでした。心配をかけてしまったことは反省しています。おとといの夜も生意気な態度をとってしまって」
「そんなことはどうでもいいよ。それより、どうしてこんなことになっているのか、僕にはさっぱりわからないんだ」
「おととい、わたしが言ったことは本音なんです。世良さんは自由なんです。どこでなにをしようとも、わたしにはなにも言う権利はありませんから」
「それがわからないと言っているんだ。たったそれだけを言って全部終わりにするつもり? それってひどくない?」
世良さんがテーブルの上で拳を固く握るのが見えた。
「世良さんにはもっとふさわしい女性がいますよ」
「ふさわしい女性?」
世良さんが眉根を寄せて、いっそう不機嫌な顔になる。
でも世良さんだってあの女性とふたりきりで楽しそうにしていたじゃない。朝帰りするくらい、身体も心も相性がよかったんでしょう。
わたしだって世良さんには幸せになってほしいと願っているんです。だから世良さんの口から聞く前にわたしから別れを告げさせてほしい。じゃないと、また同じことの繰り返しになってしまう。もう二度と人を好きになることができなくなりそうで怖いんです。
「わたしはいい年をして、いつも誰かに頼ってばかりでした。こんなわたしが誰かを支えるなんて無理だと思うんです。なにもないんです、今のわたしは。だから結婚できないんです」
言い終わると、わたしはスーツケースとボストンバッグを持って玄関に向かう。ここに初めて来たのは三週間と少し前。そのときはスーツケースひとつだったのに。たったそれだけの期間でバッグひとつ分の荷物が増えていた。
世良さんに買ってもらったネイビーのワンピースを着てデートする夢は叶わなかった。クリスマスイルミネーションを見に行きたいなと、ひとりで妄想していたことも無駄に終わった。
だけど人との出会いなんてこんなもの。それなりの数の出会いがあっても、別れもそれに近い数だけある。残るのはほんの一握り。
今度こそと夢見てしまったわたしがばかだった。やっぱりわたしじゃだめなんだ。元彼が別の女性を選んだ事実がその証拠。元彼は幸せをつかんだ。新しい人と出会い、恋をした。それがすべてなんだろうなと思う。
「亜矢ちゃん!」
玄関まで追いかけてきた世良さんは混乱のせいか息を乱していた。一生懸命になにかを伝えようとしてわたしを必死に見つめている。
「亜矢ちゃん……」
苦しそうな顔をしていた。だけどせめて最後は笑顔でお別れしたい。わたしはかわいそうな女じゃない。自分で選んだ道なのだから。
「ごめん」
そんな顔で頭を下げられると惨めになる。
「どうして謝るんですか?」
わたしを裏切ってしまったから? ほかの人と結婚しようとしているから?
「あ、いや、怒らせるつもりじゃなかったんだ。ただ……」
「わたし、怒ってませんから」
「そうじゃなくて。朝帰りしたこと以外にも理由があるんだろうけど……」
それは世良さんが一番よくわかっていることでしょう。だったら、わざわざ言わないで。
「もうやめてください。話し合いは終わったんです」
「だけど──」
「お世話になりました。短い間でしたけど、一緒にいた時間は楽しかったです」
わたしは一礼して世良さんを振りきった。重いスーツケースとボストンバッグを抱えてアパートを出ていく。
これでよかったんだよね。世良さんにとっても。そして、わたしにとっても。
ひと気のないアスファルトの上でゴロゴロとスーツケースの音がむなしく鳴り響いた。
風が湿気を多く含んでいて、頬をつたっていった涙のあとが一向に乾いてくれない。
でもきっとこれは今日だけのこと。明日からわたしはまた普通の毎日を送るようになる。そうだよ、前の生活に戻るだけのことなんだ。
夜空を眺めながら『銀河鉄道の夜』に似たイルミネーションのデザイン画を重ね合わせた。プロポーズされたことはいい思い出、そうなれますようにと星に願いながら、わたしは萌さんのマンションを目指した。
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