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第6章 結婚前提同居のはじまり
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世良さんの家にお世話になって三日目の日曜日。最終日の今日は午前中から夏を思わせるようなまぶしい日射しが降りそそいでいた。
よく晴れた空の青さを見て気合が入ったわたしは、朝から布団を干してシーツと枕カバーを洗濯機に投入。それから窓を全開にして部屋中に掃除機をかける。お風呂とトイレの掃除を終える頃には十二時近くになっていた。
「お昼ごはんは、お蕎麦にしようかと思うんですけど。冷たいのとあったかいのと、どちらがいいですか?」
自宅用のノートパソコンで仕事をしている世良さんに話しかける。昨日、会社から資料を持ち帰ってきたらしく、ダイニングテーブルの上にはそれらが無造作に置いてあった。
「今日は暑いから冷たいのにしようか」
「わかりました。今から作りますね」
まずは鍋にお湯を沸かし、それから冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫には、昨日買った食材がたくさん入っている。わたしは蒸し鶏のサラダのお皿を取り出した。お蕎麦だけでは足りないような気がしたので、今朝のうちに作っておいたものだ。鶏肉は電子レンジで蒸して、ニンジンときゅうりを添え、ごま塩ドレッシングをかけてある。
めんつゆを作っているうちに、お蕎麦がゆであがった。氷水で締めて、それぞれのお皿に盛りつける。世良さんの分を大盛りにして薬味のネギとワサビも添えた。
「よし、完成」
と、ひとり言を言ったら、「できたの?」という声が返ってきてびっくり。
「はい。今、お持ちしますね」
「じゃあ、テーブルの上を片づけるよ」
ノートパソコンの電源を落とし、散乱していた資料を集めると、トントンと角をそろえて封筒にしまう。その分厚い封筒と一緒にパソコンをリビングのテーブルに置きにいっている間に、わたしはダイニングテーブにお蕎麦を並べた。
「おいしそうだね」
ダイニングに戻ってきた世良さんは席につくと、「いただきます」と手を合わせた。昨日の夜も思った。「いただきます」「ごちそうさま」という言葉は、なんて素敵な響きなのだろうと。ひとりでは味わえない喜びがわたしの頬をゆるめた。
「どうかした? ニコニコしちゃって」
「人にごはんを作るって楽しいことなんですね」
「相変わらず、かわいいこと言うね」
「そんなことないですよ」
ズルズルッと遠慮なくお蕎麦をすする音がする。おいしそうに食べてくれる姿を見ながら、わたしは実家のことを思い出していた。
「うちの母もそうなのかなって。あんな母ですけど、あれでもかなり家庭的なんですよ」
「実際にお会いして、お母さんは家でも楽しそうに家事をしているイメージだよ。明るい家庭が想像できた」
「そうですか?」
「それは亜矢ちゃんを見ていてもわかることだけどね。亜矢ちゃんはお母さんによく似ているよ。いつもハツラツとした顔で受付の席に座っていたし、さっきもキッチンで楽しそうだった」
そんなふうに見えたのならうれしい。普通にしていたつもりだったけれど、世良さんの目にはそんなふうに映っていたんだ。
「僕も楽しかったよ。亜矢ちゃんが僕の奥さんみたいだなって思いながら、ひとりでニヤニヤしてた」
キラリと瞳を瞬かせ、極めつけはニッコリスマイル。王子様にニヤニヤされる自分を客観的に想像して、こっちのニヤニヤが止まらなくなりそう。
そんな、ゆるーいランチタイムを過ごしたあとはふたりで食器のあと片づけ。家事をやり慣れている世良さんは手際よく、次々に食器を洗っていった。
わたしはすすぎ担当。そのあと世良さんが食器をフキンで拭いてくれて、わたしがそれを食器棚にしまった。
「なにか飲まれますか?」
「緑茶がいいな。あったかいの」
世良さんはそう言ってキッチンを出ると、ダイニングテーブルの椅子に腰かけた。そこからじっとわたしを見ている。この間の仕返しのつもりだ。わたしがカレーを作っている世良さんをジロジロと見ていたから。
「真似っ子ですね」
「でも、やめないよ」
世良さんがいたずらに目を細める。
わたしがマグカップに緑茶を淹れてテーブルに置くと、世良さんが楽しげに言った。
「こうしていると、やっぱり僕たちって新婚みたいだね。そう思わない?」
椅子に腰かけ、マグカップを見つめながら考えてみるけれど、すっきりと答えが出てこない。不安がないからなのだろうか。逆にこのままでもいいかなと思ってしまう。
けれど、こんな贅沢なことで悩んでいたらバチがあたってしまいそうで怖い。
「あともう一歩かな」
「ごめんなさい」
「本当に悪いと思ってる?」
「……え?」
「もしそう思ってくれているなら、僕の提案を聞き入れてくれないかな?」
突然、世良さんがまじめな顔つきになった。ふんわりとした雰囲気がシャープになって、その変わりようにドギマギとわたしの心臓は落ち着かなくなる。
「な、なんでしょう?」
たどたどしく、声も上ずりそうになった。
「自分勝手なのはわかっているし、こんなときにこんなことを言うのも卑怯だと思ってる。でもこのチャンスを逃したら一生後悔すると思うから言うよ」
ひたむきな姿にわたしも心を開く。世良さんがなにを言おうとしているのかわからないけれど、聞いてしまったら従ってしまいそうだ。
しかし、それは想像を超える提案だった。
「しばらくの間、この部屋で一緒に暮らさないか? 僕のことを知るには手っ取り早いと思うんだ」
「えぇっ! 一緒に? そんなこと、急に言われても……」
「もちろん、亜矢ちゃんが嫌がるようなことは絶対にしない。無理やり迫らないと誓うよ」
「でも……」
「大久保さんのマンションからだと通勤が大変だろう?」
「それはそうですけど……」
三日間だから比較的気楽に生活できたのに。これからも続くとなると、急にドキドキしてくる。
だって世良さんはやっぱり男の人で、今みたいに真剣モードで話しかけられると、変に意識してしまう。
「だめかな?」
「世良さんのお気持ちはありがたいと思っています。でもそれだと……」
「なに?」
「身体に悪いです。わたしがベッドを占領しちゃうことになるので」
「理由はそれだけ?」
「いいえ、あの……」
本音を言えなくて黙り込む。素直になれない自分が嫌になる。世良さんはいつもストレートに気持ちをぶつけてくれるのに。
「ベッドの問題だけならOKということになるよ」
「え?」
「布団を買おう。それをリビングに敷いて僕がそこに寝れば問題ないよね」
「でも……」
「さっきから『でも』ばかりだね。どうして避けようとするの? そんなに僕が嫌?」
強い意志をみなぎらせた瞳で世良さんがわたしを見る。その姿は強くてたくましい男の人。まごまごしているわたしに強引に迫ってきて、気づけばわたしは逃げ場を失っていた。
だけど嫌じゃない。そんなふうに思うわけない。あふれてくる感情が恋や愛なのかはまだわからないけれど、たしかにわたしは自らの意思でここにいる。
「布団はいつ買いにいくんですか?」
きっと、こんな状況を望んでいたのだ。一緒に暮らせば、わたしが知りたいわたしの本音が見えてくるはず。それを確認しないと結婚という領域に踏み込めない。
「さっそく今日にでも行こう」
「わかりました」
「亜矢ちゃんのご両親にも了解をもらわないといけないな」
「電話しておきます」
「僕がしてもいい? でも同居を延長します、なんて言ったら、さすがに怒られるかな?」
ほんわかと気負いなく言う。そんな世良さんがわたしにはとても頼もしく思えた。
実直さのなかにユーモアを織り交ぜてくる、その気遣いがあなたの強さだと知りました。やさしさは強さだということをまざまざと感じ、笑いかけてくれる世良さんを前に、わたしはやっぱり泣きそうです。
こんなふうに愛してくれる人はいなかった。わたしはこの一年、世良さんのなにを見ていたのだろう。どうして気づけなかったのだろう。
いや、もしかすると気づいていたのに、自分でそれを認めたくないと思っていたのかもしれない。
恋をするのが怖かった。だから好意を持ってくれることに気づいてしまったら、わたしはその恋から逃げ出してしまっていたような気がする。そうなりたくなかったから、本能的に認めなかったのだろう。
それから五日経過し、今日は金曜日。世良さんのお部屋で同居をはじめてから一週間たっていた。
新しく買いそろえたシングルの布団は、今日もリビングの隅に畳まれて置かれている。両親と萌さん、そして春山社長公認の同居生活は順調だ。
今日は久しぶりに萌さんが事務所を訪れていた。
黒のパンツスーツに、濃すぎないメイク。胸もとまであるふんわりとした黒髪が揺れていた。今日も萌さんはきれいだ。
「はい、これ」
萌さんから小さな紙袋を差し出された。カウンター越しに受け取ると、かなり軽い。
「なに?」
「火事見舞いみたいなもんよ。上海では、亜矢のことが気になってお土産どころじゃなかったんだもん」
「ごめんなさい。でもありがとう」
「無難に白にしておいたからね」
「白?」
ハテナと首を傾げる。すると萌さんが、「スケスケのね」と耳もとでささやくので、急いで紙袋を開けてみた。
なかには真っ白でふんわりとしたキャミソールのようなものが入っていた。細い肩紐には小さなピンクのリボンがひとつずつ。デコルテと裾にもピンク色のレースが縁取られていた。
うわぁ、あり得ない!
「気に入った? ルームウェア」
「ルームウェアといえるほど健全じゃないでしょう、これ。どう見てもベビードールなんだけど」
「商品名はキャミソールセットアップ・ルームウェアなのよ」
たしかにショートパンツもついている。キャミソールとおそろいのピンクのレースが裾の部分を彩っていてかわいい。スケスケだけど。
世良さんの前でこれを着ろということなのだろうか。絶対に着ないけど。
「これを届けにわざわざ来たの?」
「そうよ。それに顔を見るまで心配だったのよ。でも元気そうでなによりね」
心配してくれるのはありがたいが、余計なお世話も含まれるから困る。
「たくさんご心配をおかけしました。春山社長にもすごくお世話になったの。あっ、春山社長なら、お昼前には戻ってくるよ」
「いいのよ、あの人には用はないもの」
「でもせっかくだから、もう少しだけ待って、ふたりでお昼に行けばいいのに」
もうすぐお昼休みなので、言ってみる。
「変な気のまわし方しないでくれる? それにわたしはこれから別の用事があるのよ」
「なーんだ、つまんないの」
「つまらなくないでしょう。おかしな子ね」
萌さんがプイッとそっぽを向く。
自分は余計なお世話をするくせに、自分がされると露骨な態度で嫌がるんだから。
「そろそろ行かないと」
萌さんが肩にかけていたクランベリー色のバッグを持ち直した。
「もう行っちゃうの?」
さっき来たばかりなのに。また随分と慌ただしい人だ。
「これでも忙しいのよ」
そう言うと、萌さんは「またね」と手を振り、ヒールを鳴らして事務所を出ていく。
相変わらず、格好いいなあ。
男性と同じ仕事をこなし、おそらく収入もそこらの男性より稼いでいる。ひとりで生きていく力があるのに、女性らしくて色気もあって、四十歳なのに、いまだに見知らぬ若い男性から声をかけられるらしい。
見習わないと。今のわたしは誰かに助けてもらってばかりだ。
その日の夜、いつもより早めに帰宅した世良さんにたずねた。
「明日はお休み……のわけないですよね?」
明日は土曜日だけれど、休日出勤の可能性のほうが大きい。するとネクタイを片手でゆるめながら世良さんが聞き返してくる。
「どこか行きたいところでもあるの?」
「そうじゃないんです。もしお仕事ならお弁当を作ろうかと思っているんですけど」
土曜日でも工事現場は動いているだろうけれど、会社に出勤している人は少ない。世良さんがお昼に会社にいるとも限らないが、どちらにしても車移動だから、コンビニの駐車場とかに車をとめて食べることはできるかなと思った。
「作ってくれるの?」
「迷惑でなければ」
「ないない! 毎日、お昼ごはんはなにを食べようかと考えるのって結構面倒なんだよ。お弁当があるとうれしいよ」
聞けば、土曜日だけでなく日曜日も仕事なのだそうだ。ちょうど締め切りが重なっていて、今時期はハードスケジュールだが、来週にはひと段落つくとのこと。
「なら、これから毎日作りましょうか?」
「大丈夫なの?」
「いい機会なので、自分の分も一緒に作ろうかと思います」
同居生活の間、わたしもほんの少しだが生活費を入れるようにした。最初はなかなか受け取ってもらえなくて、説得を繰り返してようやくといった感じだけれど。
それでもお世話になるには不十分の金額なので、不足分は家事をして貢献することにした。
世良さんは夕飯の前にシャワーを浴びにバスルームへ。わたしはその間、食事をあたため直す。
ここ数日で味わった模擬結婚生活は、なんの問題もなく、毎日が過ぎていく。悪くない。むしろ楽しい。
他人と暮らすほどよい緊張感は嫌ではないし、部屋で待っていれば毎日帰ってきてくれるという日常は初めて味わう安心感だ。「会いたい」と声に出さなくてもいいんだもん。
「いただきます」
シャワーあがりの世良さんが手を合わせる。まだ髪が濡れているから、なんとなく色っぽい。
「久しぶりですね」
ふたりで食べる夕飯。世良さんの帰りが遅いときも、なるべく待って一緒に食べるようにしている。けれど、昨日とおとといは帰宅が深夜になると連絡があって一緒に食べられなかったので、今日は三日ぶりの団らんだった。
「火災保険なんですけど、来週中には振り込まれるみたいです」
初めての経験でどうなることかと思ったが、これでやっと片がつく。部屋の荷物は使えないものは処分して、残りは引っ越し業者さんに頼んで安いレンタルボックスに運んでもらった。
「スムーズに手続きできたなら、よかったね」
「はい。それからアパートも解約しました。月途中なんですけど、どちらにしても住めないので家賃は日割りになったんです。差額は後日振り込んでくれるそうです」
「ついでに敷金も全額戻ってくるよ」
「なんでですか?」
「保険で部屋を修繕するから敷金は使わなくてすむんだよ。もし戻ってこなかったら管理会社に確認するといいよ」
「へえ、なるほど」
詳しいなあ。敷金のことなんてすっかり忘れていた。
世良さんはとても博識な人。ブルーモーメントの話もそうだし、政治や経済なんかにも詳しい。テレビドラマやバラエティはあまり見ないのに、夜のニュース番組だけは熱心に見ている。
「あっ、経済新聞、配達されていましたよ」
「でも会社で読んじゃった」
世良さんはいつも経済新聞を持って出勤し、仕事前に会社でそれを読むのが日課になっている。それなのに、今朝は経済新聞の配達が遅れた。
「受付のロビーで読まれたんですか?」
高嶋建設では、新聞は全国紙、経済紙、建設業の業界紙を契約していて、一階のロビーで自由に読めるようになっている。社内のフロアにも置いてあるが、世良さんはロビーのほうが落ち着いて読めるからと、業界紙もあわせてよくロビーで目を通していた。
「今日は業界紙もまとめ読みしていたら、受付の子にコーヒーを出されちゃったよ。あれ、プレッシャーだね。早く出ていけって言われているみたい」
「そんなことないですよ。あれだって経費がかかっているんですから。誰かに読んでもらえるとうれしいんです」
「そういうものなんだ」
「はい、そういうものでした」
以前の会社での数少ないわたしと世良さんの接点。親しい間柄ではなかったけれど、ささやかな思い出は残っていた。
「じゃあ、今日の分の経済新聞はそのまま処分しちゃっていいですか? 月曜日は古紙回収の日なんです」
「僕がやっておくよ。かなり溜めていたから捨てにいくのも大変だろう」
「はい、お願いします」
世良さんは、「うん」とうなずいて食事を続けた。
生活感のある会話ですら充実感を覚える。恋愛と結婚は別という人もいるけれど、わたしはこの生活感がたまらなく好きだ。
「来週の土曜の夜は外で食べようか?」
世良さんがお箸を置いた。身を乗り出すように顔を近づけてくるので、リラックスムードが一気に吹き飛んだ。
キラッキラッという表現がぴったりな瞳がじっと見ている。それに反応するかのように、わたしの身体のなかで熱情がどこからともなく押し寄せてきて、頬がほんのりとあたたかくなった。
「予定でもあった?」
「いいえ、ないです」
「来週いっぱいは天気がいいみたいだから」
「……あ、はい! 楽しみです」
「見えるといいね」
こぼれる笑顔にわたしはうなずく。
通じ合う思い出の先に見えるオレンジと青の融合。潮の香りがここまで届きそうなほど、あの日の景色を覚えている。
「来週も見えるといいですね、ブルーモーメント」
ミラーレースのカーテンが夜風でふわりと揺れた。今はもう六月。風が心地よく感じる。
もうすぐ本格的な夏だ。プロポーズされたのは一ヶ月も前のことになる。確実に時は刻んでいる。わたしの気持ちも変化していた。
結婚を意識せずにいられない。同居してみて、よかったかもしれない。世良さんを知れば知るほど結婚に前向きになっていくわたしがいた。
食事のあとは、いつものようにふたりで食器のあと片づけをする。食事前にシャワーを浴びた世良さんからはシャンプーの香りがして、必要以上に息を吸い込んでしまった。
普通、逆だよね。男の人が女の人のシャンプーの匂いを意識するのに。
「あとは僕がやっておくから、亜矢ちゃんはお風呂をどうぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、お願いします」
「うん、ごゆっくり」
最近は遠慮せず、世良さんの厚意を素直に受けられるようになった。そのほうが世良さんの手をわずらわせることがなく、スムーズに物事が進む。
わたしは着替えを取りに寝室に入った。そのとき、萌さんからもらったスケスケのルームウェアの入った紙袋が足もとにあたり、慌てて拾い上げた。
危ない危ない。もらったことをすっかり忘れていた。もう一度なかを確認してみる。すべすべの生地を引っ張り出し、改めてピンクのレースがかわいいなとは思ったけれど……。
これでは丸見えだ。やっぱり男の人はこういうのが好きなのかな。
「世良さんも……?」
いや、ないない! 世良さんに限って、そんなことあるわけない!
変な想像をして、ひとりで照れまくる。
「やめよう」
くだらないことを考えるのは。世良さんの顔が見られなくなる。それよりも、これは絶対に見つからないようにしなきゃ。わたしはスケスケのルームウェアを紙袋に入れたままスーツケースにしまった。
その後、お風呂からあがり、寝室に戻ろうとバスルームのドアを開けたとき、リビングから話声が聞こえてきて反射的に足を止めた。寝室に行くにはリビングを通らないといけない。来客中だったらどうしようと思っていたら、話声は世良さんだけのものだった。
電話かな。ほっとしてリビングのドアに手をかけた。しかし、聞こえてくる声がいつもよりもほんの少しだけ荒っぽいような気がする。仕事のときとは違うしゃべり方だ。相手は誰だろう。
けれど盗み聞きしてはいけない。わたしは静かにリビングのドアを開けた。
「はいはい、お見合いの話だろう。母さんの気持ちはわかってるよ」
突然、飛び込んできた衝撃的なセリフに息をのんだ。
お見合い? 世良さんにそんな話が持ちあがっているの?
「そんなわけないだろう。僕だって将来のことはちゃんと考えているよ。──わかったよ。その話はもう少し待っていてよ。いい方向になるように考えているから」
いい方向……。それはつまりお見合いを前向きに考えるということなの? わたしにプロポーズしておいてお見合いをするつもりなのかな。
世良さんがわたしを裏切るだなんて思えないけれど、たしかに「お見合い」と言っていた。もしかすると最終的にわたしがプロポーズを断ったら、お母さんが勧める縁談に応じる約束なのかもしれない。
だけどわたしの胸は痛かった。プロポーズを快諾できない申し訳なさと、世良さんがほかの女性との結婚を選んでしまうかもしれないという不安が、ズキズキとわたしの身体を痛めつける。
「あっ、そろそろ電話をきるよ。その話はまた今度。──うん、それじゃあ」
ドアを開けたまま、廊下で立ち尽くしているわたしの姿を見つけた世良さんが慌てて電話をきった。
「ごめんね。母さんからなんだ」
「いいえ。わたしのほうこそ電話のじゃまをしてすみません」
湯あがりの身体がかすかに震えていた。急に世良さんが遠くの人のように思えた。
こうしてひとつ屋根の下で暮らしているのに、わたしはいまだに返事をはぐらかしている。そんなわたしにはなにも言う資格はないけれど、どうしても気になってしまう。
世良さん、そのお見合いは前向きになる予定なんですか?
「おやすみなさい」
「亜矢ちゃん?」
顔を見ないように寝室に向かうわたしを、世良さんが呼び止める。
「どうかしたの?」
「別にどうもしません」
「待って」
やめて、追いかけてこないで。
今のわたしは自分でもなにをしたいのかよくわからない。世良さんのお見合いの話を聞いて動揺している自分が格好悪くて、とてもじゃないけど顔を合わせられない。
わたしは寝室のドアを勢いよくバタンと閉めた。
「亜矢ちゃん、ドアを開けて」
「なんでもないんです。おやすみなさい」
明かりを点けていない寝室を照らすのは窓の外から差し込む淡い月の光。ドアを背に世良さんの気配を感じていた。だけど世良さんはどうせ寝室には入ってこないと思う。強引にドアをこじ開けるような人ではないから。
「聞こえていたんだよね? お見合いの話のこと」
暗さに目が慣れた頃、静かに問いかけられた。やっぱり本当なんだ。わたしの勘違いかもしれないと期待していたのに。
「ごめん。でもお見合いはしないよ。ちゃんと断ったから」
「謝らなくてもいいですよ。本当だったら、プロポーズを断ったわたしに遠慮することなんてないんです」
だけどそれはたぶん本音ではない。
わたしはすごく恐れている。世良さんもいつかほかの女の人を選ぶ日がくるんじゃないかって。だってわたしは元彼に必要とされなくなった女。結婚したいと思えない女なんだもん。
「頼むからドアを開けて。亜矢ちゃんの顔を見て話したいんだよ」
ドア越しに聞こえてくる声は低いトーン。いつものほんわかと包み込むような甘い雰囲気はない。世良さんを困らせているんだ。
わたしったらなにをやっているんだろう。こんなことして、わたしは世良さんにどうしてほしいの?
「ごめんなさい」
自分のしていることがみっともないことだと気がついて、静かにドアを開けた。
「ありがとう。でも部屋が暗いから顔がよく見えないや」
リビングの明かりをバックに浮かびあがる世良さんの顔は微笑んでいた。
「照明は点けないでください」
「どうして?」
「今のわたしはひどい顔をしているから」
やきもちなのかわがままなのか、自分でもよくわからない感情が芽生えていた。頭のなかの整理がつかなくて、世良さんの笑顔に応えられない。
「それって僕のことを意識してくれているから? そう、うぬぼれてもいいかな?」
「そうなのかも。でもそうでないのかも。よくわかりません」
「そう言ってくれるだけでも進歩だと思っちゃうよ。だけど電話の件は気にしなくていいから。お見合いはしない」
「でもお見合い相手の方は、強く希望されているのかもしれませんよ」
世良さんの写真を見たりプロフィールを知ったりして、むしろ乗り気なのかもしれない。その人に限らず、世良さんがお見合い相手だったら、たいていの人は興味を持つはず。
「言い方を変えるね。お見合い相手はいないんだよ」
「え?」
「母さんの嘘なんだ。うまくだましているつもりみたいだけど、バレバレなんだよね」
あっけらかんとした答えにまさかと思ったけれど、どうやら嘘ではないようで、世良さんはその理由を説明してくれた。相手の女性の情報も、どういう伝手《つて》で舞い込んできた話なのかも、世良さんがお母さんにたずねても適当にごまかされるばかりなのだそうだ。
「顔も名前も教えてもらえないんですか?」
「そうなんだ。きっと、お見合いの話を出せば、僕が結婚をあせると思っているんだよ」
「だからってそこまでしますか?」
「うちの母さんはそういう人だから。ひとり息子がいい年して独身なものだから気になるんだよ」
「世良さん、ひとりっ子なんですか?」
「うん、だから余計に心配されるのかも」
世良さんがはにかむ。
でも世良さんの年齢を考えたら、親としては当然心配にもなるだろう。息子に幸せな家庭を作ってほしいと願う気持ちはわかるし、早く孫の顔も見たいだろう。
「僕が結婚したいと思った女性は亜矢ちゃんだけだよ」
いまだに緊張が解けないわたしをリラックスさせようと、世良さんの手のひらがやんわりとわたしの頬を撫でる。冷えた身体が再びあたたかくなるようだった。
「たくさんの女性とおつき合いしてきたのに、ひとりも?」
「たくさんはいないよ。会社でそんなうわさが流れているみたいだけど、これでも一途なほうだと思うんだけどな。一年前から亜矢ちゃん一筋だし」
「すみません。世良さんはとても真摯にわたしに向き合ってくださっているのに」
一年も前から想われて、一ヶ月前にプロポーズされて、そういう状況で不安がるなんてどれだけ自分勝手なんだろう。
「気にしてくれたことはうれしいよ」
「わたし……世良さんもそうなのかなって。世良さんもわたしの前からいなくなっちゃうんじゃないかって怖かったんです。わたしの立場でこんなことを言うのも変なんですけど」
気がつくと、胸の奥でくすぶっていた気持ちを素直に口に出していた。それは悲しい記憶。わたしから女である自信を奪っていった惨めな出来事。
わたしではだめなんだと、自分のことが嫌いになって、部屋に閉じこもってばかりいた。
「人の心は難しいよね。裏切るつもりで人を好きになるわけじゃないのに、結果的にそうしちゃうときがある」
「心変わりはつきものだってことはわかってるんです。でも、元彼におめでとうと言えない自分が嫌でした。心が離れてしまっても、それでも相手の幸せを願える人間になりたかったです」
「一度は好きになった人だから、ありがとうって思えたらいいよね」
「はい。わたしも世良さんみたいに強くなりたいです」
こぼれた涙を世良さんの指先がすくう。
「泣き顔は二度目だね」
「……はい」
一度目は過去の恋愛を思い出して取り乱したときだった。それまで誰にも言えなかった気持ちを世良さんが静かに受け止めてくれた。
「でも今日の涙は悲しい涙じゃないよね?」
「はい」
「それなら喜んでいいのかな?」
「はい」
耳のうしろに手を添えられて見つめ合う。あたたかい手のひらのぬくもりを感じていると、世良さんの顔が近づいてくるのがわかった。
唇と唇の間の距離はほんのわずか。触れるか触れないかのきわどいライン。至近距離で交わる視線は薄闇でもしっかりと絡み合い、そそるような眼差しのなかにもうひとりの彼を見た。
「いいの? 拒まないとしちゃうよ」
だけどわたしの返事を待たずに、それは重ねられた。
わたしは目を閉じて受け入れる。やわらかい感触を堪能できるほど、ゆっくりとなぞる世良さんの唇は控えめについばんで、角度を変えて、でも離れることはない。
経験豊富な世良さんのことだから、もっと情熱的なキスかと思っていた。でもこんな穏やかなキスもいい。わたしをとても労わっていることが伝わってくる繊細なキスも、この胸をときめかせてくれた。
彼のキスに応えたくて、つま先に力を入れて背伸びをした。そんなわたしの不安定な身体を支えるように彼の手がそっと伸びてくる。背中に添えられ、わたしも世良さんの首に腕を絡ませた。
「もっと好きになってもいい?」
さっきまでつながっていた唇が言う。
「今も十分なくらいなのに」
我慢できないとばかりにもう一度口づけられる。
「待って」
「まだ怖い?」
怖いと感じるのは世良さんにではなく、世良さんにのめり込んでいく自分に対して。人を愛することは素敵なことなのに、それでも不安を覚える。
「世良さんが怖いんじゃないんです。わたしが未熟だからです。だからもう少しだけプロポーズの返事は待っていてくれますか?」
今すぐ結婚とはいかない。だけど、いずれそんな日が来たらいいなと思う。そのタイミングが早いのか、少し時間がかかるのかわからないけれど、今のわたしは世良さんとの未来しか想像できない。
あとはわたしがどう変われるか。世良さんを上手に愛せる人間になれるのか、それを見極めたい。
「しばらくは恋愛期間ということ?」
「だめですか?」
「いや、賛成だよ」
やきもちを含めた好きという激しい感情。世良さんが与えてくれる時間が穏やかすぎて、最初はそれが見えなかったけれど、今日のことで自分の本音が明らかになり、わたしのなかにもちゃんとあるのだと知った。
「恋愛期間、満喫しようね」
「はい、よろしくお願いします」
「そうとなれば、遠慮はしない。もっともっと愛するよ」
誓いを立てるように髪の束にキスを落とす。サラサラと手からこぼれ落ちる髪からシャンプーの淡い香りがして、それが世良さんの香りとリンクしてクラクラした。
だけどなぜか急に世良さんがそわそわと落ち着かなくなる。
「どうしたんですか?」
「いや、その、亜矢ちゃんのご両親に節度を守りますとか偉そうなこと言っちゃったのに、その約束をやぶっちゃったなと思って」
「わたしも同じですから。世良さんとキス……したいって思ったので。それにあの約束は最初の三日間だけのことで……」
「なんとかセーフかな?」
「たぶん、余裕のセーフです」
「亜矢ちゃん、ありがとう」
猛烈に顔が熱い。
でもこれが好きということなんだよね。世良さんが愛おしくてたまらない。
また恋ができるなんて思わなかった。今、わたしは大好きな人に抱きしめられて、すごく幸せです。
よく晴れた空の青さを見て気合が入ったわたしは、朝から布団を干してシーツと枕カバーを洗濯機に投入。それから窓を全開にして部屋中に掃除機をかける。お風呂とトイレの掃除を終える頃には十二時近くになっていた。
「お昼ごはんは、お蕎麦にしようかと思うんですけど。冷たいのとあったかいのと、どちらがいいですか?」
自宅用のノートパソコンで仕事をしている世良さんに話しかける。昨日、会社から資料を持ち帰ってきたらしく、ダイニングテーブルの上にはそれらが無造作に置いてあった。
「今日は暑いから冷たいのにしようか」
「わかりました。今から作りますね」
まずは鍋にお湯を沸かし、それから冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫には、昨日買った食材がたくさん入っている。わたしは蒸し鶏のサラダのお皿を取り出した。お蕎麦だけでは足りないような気がしたので、今朝のうちに作っておいたものだ。鶏肉は電子レンジで蒸して、ニンジンときゅうりを添え、ごま塩ドレッシングをかけてある。
めんつゆを作っているうちに、お蕎麦がゆであがった。氷水で締めて、それぞれのお皿に盛りつける。世良さんの分を大盛りにして薬味のネギとワサビも添えた。
「よし、完成」
と、ひとり言を言ったら、「できたの?」という声が返ってきてびっくり。
「はい。今、お持ちしますね」
「じゃあ、テーブルの上を片づけるよ」
ノートパソコンの電源を落とし、散乱していた資料を集めると、トントンと角をそろえて封筒にしまう。その分厚い封筒と一緒にパソコンをリビングのテーブルに置きにいっている間に、わたしはダイニングテーブにお蕎麦を並べた。
「おいしそうだね」
ダイニングに戻ってきた世良さんは席につくと、「いただきます」と手を合わせた。昨日の夜も思った。「いただきます」「ごちそうさま」という言葉は、なんて素敵な響きなのだろうと。ひとりでは味わえない喜びがわたしの頬をゆるめた。
「どうかした? ニコニコしちゃって」
「人にごはんを作るって楽しいことなんですね」
「相変わらず、かわいいこと言うね」
「そんなことないですよ」
ズルズルッと遠慮なくお蕎麦をすする音がする。おいしそうに食べてくれる姿を見ながら、わたしは実家のことを思い出していた。
「うちの母もそうなのかなって。あんな母ですけど、あれでもかなり家庭的なんですよ」
「実際にお会いして、お母さんは家でも楽しそうに家事をしているイメージだよ。明るい家庭が想像できた」
「そうですか?」
「それは亜矢ちゃんを見ていてもわかることだけどね。亜矢ちゃんはお母さんによく似ているよ。いつもハツラツとした顔で受付の席に座っていたし、さっきもキッチンで楽しそうだった」
そんなふうに見えたのならうれしい。普通にしていたつもりだったけれど、世良さんの目にはそんなふうに映っていたんだ。
「僕も楽しかったよ。亜矢ちゃんが僕の奥さんみたいだなって思いながら、ひとりでニヤニヤしてた」
キラリと瞳を瞬かせ、極めつけはニッコリスマイル。王子様にニヤニヤされる自分を客観的に想像して、こっちのニヤニヤが止まらなくなりそう。
そんな、ゆるーいランチタイムを過ごしたあとはふたりで食器のあと片づけ。家事をやり慣れている世良さんは手際よく、次々に食器を洗っていった。
わたしはすすぎ担当。そのあと世良さんが食器をフキンで拭いてくれて、わたしがそれを食器棚にしまった。
「なにか飲まれますか?」
「緑茶がいいな。あったかいの」
世良さんはそう言ってキッチンを出ると、ダイニングテーブルの椅子に腰かけた。そこからじっとわたしを見ている。この間の仕返しのつもりだ。わたしがカレーを作っている世良さんをジロジロと見ていたから。
「真似っ子ですね」
「でも、やめないよ」
世良さんがいたずらに目を細める。
わたしがマグカップに緑茶を淹れてテーブルに置くと、世良さんが楽しげに言った。
「こうしていると、やっぱり僕たちって新婚みたいだね。そう思わない?」
椅子に腰かけ、マグカップを見つめながら考えてみるけれど、すっきりと答えが出てこない。不安がないからなのだろうか。逆にこのままでもいいかなと思ってしまう。
けれど、こんな贅沢なことで悩んでいたらバチがあたってしまいそうで怖い。
「あともう一歩かな」
「ごめんなさい」
「本当に悪いと思ってる?」
「……え?」
「もしそう思ってくれているなら、僕の提案を聞き入れてくれないかな?」
突然、世良さんがまじめな顔つきになった。ふんわりとした雰囲気がシャープになって、その変わりようにドギマギとわたしの心臓は落ち着かなくなる。
「な、なんでしょう?」
たどたどしく、声も上ずりそうになった。
「自分勝手なのはわかっているし、こんなときにこんなことを言うのも卑怯だと思ってる。でもこのチャンスを逃したら一生後悔すると思うから言うよ」
ひたむきな姿にわたしも心を開く。世良さんがなにを言おうとしているのかわからないけれど、聞いてしまったら従ってしまいそうだ。
しかし、それは想像を超える提案だった。
「しばらくの間、この部屋で一緒に暮らさないか? 僕のことを知るには手っ取り早いと思うんだ」
「えぇっ! 一緒に? そんなこと、急に言われても……」
「もちろん、亜矢ちゃんが嫌がるようなことは絶対にしない。無理やり迫らないと誓うよ」
「でも……」
「大久保さんのマンションからだと通勤が大変だろう?」
「それはそうですけど……」
三日間だから比較的気楽に生活できたのに。これからも続くとなると、急にドキドキしてくる。
だって世良さんはやっぱり男の人で、今みたいに真剣モードで話しかけられると、変に意識してしまう。
「だめかな?」
「世良さんのお気持ちはありがたいと思っています。でもそれだと……」
「なに?」
「身体に悪いです。わたしがベッドを占領しちゃうことになるので」
「理由はそれだけ?」
「いいえ、あの……」
本音を言えなくて黙り込む。素直になれない自分が嫌になる。世良さんはいつもストレートに気持ちをぶつけてくれるのに。
「ベッドの問題だけならOKということになるよ」
「え?」
「布団を買おう。それをリビングに敷いて僕がそこに寝れば問題ないよね」
「でも……」
「さっきから『でも』ばかりだね。どうして避けようとするの? そんなに僕が嫌?」
強い意志をみなぎらせた瞳で世良さんがわたしを見る。その姿は強くてたくましい男の人。まごまごしているわたしに強引に迫ってきて、気づけばわたしは逃げ場を失っていた。
だけど嫌じゃない。そんなふうに思うわけない。あふれてくる感情が恋や愛なのかはまだわからないけれど、たしかにわたしは自らの意思でここにいる。
「布団はいつ買いにいくんですか?」
きっと、こんな状況を望んでいたのだ。一緒に暮らせば、わたしが知りたいわたしの本音が見えてくるはず。それを確認しないと結婚という領域に踏み込めない。
「さっそく今日にでも行こう」
「わかりました」
「亜矢ちゃんのご両親にも了解をもらわないといけないな」
「電話しておきます」
「僕がしてもいい? でも同居を延長します、なんて言ったら、さすがに怒られるかな?」
ほんわかと気負いなく言う。そんな世良さんがわたしにはとても頼もしく思えた。
実直さのなかにユーモアを織り交ぜてくる、その気遣いがあなたの強さだと知りました。やさしさは強さだということをまざまざと感じ、笑いかけてくれる世良さんを前に、わたしはやっぱり泣きそうです。
こんなふうに愛してくれる人はいなかった。わたしはこの一年、世良さんのなにを見ていたのだろう。どうして気づけなかったのだろう。
いや、もしかすると気づいていたのに、自分でそれを認めたくないと思っていたのかもしれない。
恋をするのが怖かった。だから好意を持ってくれることに気づいてしまったら、わたしはその恋から逃げ出してしまっていたような気がする。そうなりたくなかったから、本能的に認めなかったのだろう。
それから五日経過し、今日は金曜日。世良さんのお部屋で同居をはじめてから一週間たっていた。
新しく買いそろえたシングルの布団は、今日もリビングの隅に畳まれて置かれている。両親と萌さん、そして春山社長公認の同居生活は順調だ。
今日は久しぶりに萌さんが事務所を訪れていた。
黒のパンツスーツに、濃すぎないメイク。胸もとまであるふんわりとした黒髪が揺れていた。今日も萌さんはきれいだ。
「はい、これ」
萌さんから小さな紙袋を差し出された。カウンター越しに受け取ると、かなり軽い。
「なに?」
「火事見舞いみたいなもんよ。上海では、亜矢のことが気になってお土産どころじゃなかったんだもん」
「ごめんなさい。でもありがとう」
「無難に白にしておいたからね」
「白?」
ハテナと首を傾げる。すると萌さんが、「スケスケのね」と耳もとでささやくので、急いで紙袋を開けてみた。
なかには真っ白でふんわりとしたキャミソールのようなものが入っていた。細い肩紐には小さなピンクのリボンがひとつずつ。デコルテと裾にもピンク色のレースが縁取られていた。
うわぁ、あり得ない!
「気に入った? ルームウェア」
「ルームウェアといえるほど健全じゃないでしょう、これ。どう見てもベビードールなんだけど」
「商品名はキャミソールセットアップ・ルームウェアなのよ」
たしかにショートパンツもついている。キャミソールとおそろいのピンクのレースが裾の部分を彩っていてかわいい。スケスケだけど。
世良さんの前でこれを着ろということなのだろうか。絶対に着ないけど。
「これを届けにわざわざ来たの?」
「そうよ。それに顔を見るまで心配だったのよ。でも元気そうでなによりね」
心配してくれるのはありがたいが、余計なお世話も含まれるから困る。
「たくさんご心配をおかけしました。春山社長にもすごくお世話になったの。あっ、春山社長なら、お昼前には戻ってくるよ」
「いいのよ、あの人には用はないもの」
「でもせっかくだから、もう少しだけ待って、ふたりでお昼に行けばいいのに」
もうすぐお昼休みなので、言ってみる。
「変な気のまわし方しないでくれる? それにわたしはこれから別の用事があるのよ」
「なーんだ、つまんないの」
「つまらなくないでしょう。おかしな子ね」
萌さんがプイッとそっぽを向く。
自分は余計なお世話をするくせに、自分がされると露骨な態度で嫌がるんだから。
「そろそろ行かないと」
萌さんが肩にかけていたクランベリー色のバッグを持ち直した。
「もう行っちゃうの?」
さっき来たばかりなのに。また随分と慌ただしい人だ。
「これでも忙しいのよ」
そう言うと、萌さんは「またね」と手を振り、ヒールを鳴らして事務所を出ていく。
相変わらず、格好いいなあ。
男性と同じ仕事をこなし、おそらく収入もそこらの男性より稼いでいる。ひとりで生きていく力があるのに、女性らしくて色気もあって、四十歳なのに、いまだに見知らぬ若い男性から声をかけられるらしい。
見習わないと。今のわたしは誰かに助けてもらってばかりだ。
その日の夜、いつもより早めに帰宅した世良さんにたずねた。
「明日はお休み……のわけないですよね?」
明日は土曜日だけれど、休日出勤の可能性のほうが大きい。するとネクタイを片手でゆるめながら世良さんが聞き返してくる。
「どこか行きたいところでもあるの?」
「そうじゃないんです。もしお仕事ならお弁当を作ろうかと思っているんですけど」
土曜日でも工事現場は動いているだろうけれど、会社に出勤している人は少ない。世良さんがお昼に会社にいるとも限らないが、どちらにしても車移動だから、コンビニの駐車場とかに車をとめて食べることはできるかなと思った。
「作ってくれるの?」
「迷惑でなければ」
「ないない! 毎日、お昼ごはんはなにを食べようかと考えるのって結構面倒なんだよ。お弁当があるとうれしいよ」
聞けば、土曜日だけでなく日曜日も仕事なのだそうだ。ちょうど締め切りが重なっていて、今時期はハードスケジュールだが、来週にはひと段落つくとのこと。
「なら、これから毎日作りましょうか?」
「大丈夫なの?」
「いい機会なので、自分の分も一緒に作ろうかと思います」
同居生活の間、わたしもほんの少しだが生活費を入れるようにした。最初はなかなか受け取ってもらえなくて、説得を繰り返してようやくといった感じだけれど。
それでもお世話になるには不十分の金額なので、不足分は家事をして貢献することにした。
世良さんは夕飯の前にシャワーを浴びにバスルームへ。わたしはその間、食事をあたため直す。
ここ数日で味わった模擬結婚生活は、なんの問題もなく、毎日が過ぎていく。悪くない。むしろ楽しい。
他人と暮らすほどよい緊張感は嫌ではないし、部屋で待っていれば毎日帰ってきてくれるという日常は初めて味わう安心感だ。「会いたい」と声に出さなくてもいいんだもん。
「いただきます」
シャワーあがりの世良さんが手を合わせる。まだ髪が濡れているから、なんとなく色っぽい。
「久しぶりですね」
ふたりで食べる夕飯。世良さんの帰りが遅いときも、なるべく待って一緒に食べるようにしている。けれど、昨日とおとといは帰宅が深夜になると連絡があって一緒に食べられなかったので、今日は三日ぶりの団らんだった。
「火災保険なんですけど、来週中には振り込まれるみたいです」
初めての経験でどうなることかと思ったが、これでやっと片がつく。部屋の荷物は使えないものは処分して、残りは引っ越し業者さんに頼んで安いレンタルボックスに運んでもらった。
「スムーズに手続きできたなら、よかったね」
「はい。それからアパートも解約しました。月途中なんですけど、どちらにしても住めないので家賃は日割りになったんです。差額は後日振り込んでくれるそうです」
「ついでに敷金も全額戻ってくるよ」
「なんでですか?」
「保険で部屋を修繕するから敷金は使わなくてすむんだよ。もし戻ってこなかったら管理会社に確認するといいよ」
「へえ、なるほど」
詳しいなあ。敷金のことなんてすっかり忘れていた。
世良さんはとても博識な人。ブルーモーメントの話もそうだし、政治や経済なんかにも詳しい。テレビドラマやバラエティはあまり見ないのに、夜のニュース番組だけは熱心に見ている。
「あっ、経済新聞、配達されていましたよ」
「でも会社で読んじゃった」
世良さんはいつも経済新聞を持って出勤し、仕事前に会社でそれを読むのが日課になっている。それなのに、今朝は経済新聞の配達が遅れた。
「受付のロビーで読まれたんですか?」
高嶋建設では、新聞は全国紙、経済紙、建設業の業界紙を契約していて、一階のロビーで自由に読めるようになっている。社内のフロアにも置いてあるが、世良さんはロビーのほうが落ち着いて読めるからと、業界紙もあわせてよくロビーで目を通していた。
「今日は業界紙もまとめ読みしていたら、受付の子にコーヒーを出されちゃったよ。あれ、プレッシャーだね。早く出ていけって言われているみたい」
「そんなことないですよ。あれだって経費がかかっているんですから。誰かに読んでもらえるとうれしいんです」
「そういうものなんだ」
「はい、そういうものでした」
以前の会社での数少ないわたしと世良さんの接点。親しい間柄ではなかったけれど、ささやかな思い出は残っていた。
「じゃあ、今日の分の経済新聞はそのまま処分しちゃっていいですか? 月曜日は古紙回収の日なんです」
「僕がやっておくよ。かなり溜めていたから捨てにいくのも大変だろう」
「はい、お願いします」
世良さんは、「うん」とうなずいて食事を続けた。
生活感のある会話ですら充実感を覚える。恋愛と結婚は別という人もいるけれど、わたしはこの生活感がたまらなく好きだ。
「来週の土曜の夜は外で食べようか?」
世良さんがお箸を置いた。身を乗り出すように顔を近づけてくるので、リラックスムードが一気に吹き飛んだ。
キラッキラッという表現がぴったりな瞳がじっと見ている。それに反応するかのように、わたしの身体のなかで熱情がどこからともなく押し寄せてきて、頬がほんのりとあたたかくなった。
「予定でもあった?」
「いいえ、ないです」
「来週いっぱいは天気がいいみたいだから」
「……あ、はい! 楽しみです」
「見えるといいね」
こぼれる笑顔にわたしはうなずく。
通じ合う思い出の先に見えるオレンジと青の融合。潮の香りがここまで届きそうなほど、あの日の景色を覚えている。
「来週も見えるといいですね、ブルーモーメント」
ミラーレースのカーテンが夜風でふわりと揺れた。今はもう六月。風が心地よく感じる。
もうすぐ本格的な夏だ。プロポーズされたのは一ヶ月も前のことになる。確実に時は刻んでいる。わたしの気持ちも変化していた。
結婚を意識せずにいられない。同居してみて、よかったかもしれない。世良さんを知れば知るほど結婚に前向きになっていくわたしがいた。
食事のあとは、いつものようにふたりで食器のあと片づけをする。食事前にシャワーを浴びた世良さんからはシャンプーの香りがして、必要以上に息を吸い込んでしまった。
普通、逆だよね。男の人が女の人のシャンプーの匂いを意識するのに。
「あとは僕がやっておくから、亜矢ちゃんはお風呂をどうぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、お願いします」
「うん、ごゆっくり」
最近は遠慮せず、世良さんの厚意を素直に受けられるようになった。そのほうが世良さんの手をわずらわせることがなく、スムーズに物事が進む。
わたしは着替えを取りに寝室に入った。そのとき、萌さんからもらったスケスケのルームウェアの入った紙袋が足もとにあたり、慌てて拾い上げた。
危ない危ない。もらったことをすっかり忘れていた。もう一度なかを確認してみる。すべすべの生地を引っ張り出し、改めてピンクのレースがかわいいなとは思ったけれど……。
これでは丸見えだ。やっぱり男の人はこういうのが好きなのかな。
「世良さんも……?」
いや、ないない! 世良さんに限って、そんなことあるわけない!
変な想像をして、ひとりで照れまくる。
「やめよう」
くだらないことを考えるのは。世良さんの顔が見られなくなる。それよりも、これは絶対に見つからないようにしなきゃ。わたしはスケスケのルームウェアを紙袋に入れたままスーツケースにしまった。
その後、お風呂からあがり、寝室に戻ろうとバスルームのドアを開けたとき、リビングから話声が聞こえてきて反射的に足を止めた。寝室に行くにはリビングを通らないといけない。来客中だったらどうしようと思っていたら、話声は世良さんだけのものだった。
電話かな。ほっとしてリビングのドアに手をかけた。しかし、聞こえてくる声がいつもよりもほんの少しだけ荒っぽいような気がする。仕事のときとは違うしゃべり方だ。相手は誰だろう。
けれど盗み聞きしてはいけない。わたしは静かにリビングのドアを開けた。
「はいはい、お見合いの話だろう。母さんの気持ちはわかってるよ」
突然、飛び込んできた衝撃的なセリフに息をのんだ。
お見合い? 世良さんにそんな話が持ちあがっているの?
「そんなわけないだろう。僕だって将来のことはちゃんと考えているよ。──わかったよ。その話はもう少し待っていてよ。いい方向になるように考えているから」
いい方向……。それはつまりお見合いを前向きに考えるということなの? わたしにプロポーズしておいてお見合いをするつもりなのかな。
世良さんがわたしを裏切るだなんて思えないけれど、たしかに「お見合い」と言っていた。もしかすると最終的にわたしがプロポーズを断ったら、お母さんが勧める縁談に応じる約束なのかもしれない。
だけどわたしの胸は痛かった。プロポーズを快諾できない申し訳なさと、世良さんがほかの女性との結婚を選んでしまうかもしれないという不安が、ズキズキとわたしの身体を痛めつける。
「あっ、そろそろ電話をきるよ。その話はまた今度。──うん、それじゃあ」
ドアを開けたまま、廊下で立ち尽くしているわたしの姿を見つけた世良さんが慌てて電話をきった。
「ごめんね。母さんからなんだ」
「いいえ。わたしのほうこそ電話のじゃまをしてすみません」
湯あがりの身体がかすかに震えていた。急に世良さんが遠くの人のように思えた。
こうしてひとつ屋根の下で暮らしているのに、わたしはいまだに返事をはぐらかしている。そんなわたしにはなにも言う資格はないけれど、どうしても気になってしまう。
世良さん、そのお見合いは前向きになる予定なんですか?
「おやすみなさい」
「亜矢ちゃん?」
顔を見ないように寝室に向かうわたしを、世良さんが呼び止める。
「どうかしたの?」
「別にどうもしません」
「待って」
やめて、追いかけてこないで。
今のわたしは自分でもなにをしたいのかよくわからない。世良さんのお見合いの話を聞いて動揺している自分が格好悪くて、とてもじゃないけど顔を合わせられない。
わたしは寝室のドアを勢いよくバタンと閉めた。
「亜矢ちゃん、ドアを開けて」
「なんでもないんです。おやすみなさい」
明かりを点けていない寝室を照らすのは窓の外から差し込む淡い月の光。ドアを背に世良さんの気配を感じていた。だけど世良さんはどうせ寝室には入ってこないと思う。強引にドアをこじ開けるような人ではないから。
「聞こえていたんだよね? お見合いの話のこと」
暗さに目が慣れた頃、静かに問いかけられた。やっぱり本当なんだ。わたしの勘違いかもしれないと期待していたのに。
「ごめん。でもお見合いはしないよ。ちゃんと断ったから」
「謝らなくてもいいですよ。本当だったら、プロポーズを断ったわたしに遠慮することなんてないんです」
だけどそれはたぶん本音ではない。
わたしはすごく恐れている。世良さんもいつかほかの女の人を選ぶ日がくるんじゃないかって。だってわたしは元彼に必要とされなくなった女。結婚したいと思えない女なんだもん。
「頼むからドアを開けて。亜矢ちゃんの顔を見て話したいんだよ」
ドア越しに聞こえてくる声は低いトーン。いつものほんわかと包み込むような甘い雰囲気はない。世良さんを困らせているんだ。
わたしったらなにをやっているんだろう。こんなことして、わたしは世良さんにどうしてほしいの?
「ごめんなさい」
自分のしていることがみっともないことだと気がついて、静かにドアを開けた。
「ありがとう。でも部屋が暗いから顔がよく見えないや」
リビングの明かりをバックに浮かびあがる世良さんの顔は微笑んでいた。
「照明は点けないでください」
「どうして?」
「今のわたしはひどい顔をしているから」
やきもちなのかわがままなのか、自分でもよくわからない感情が芽生えていた。頭のなかの整理がつかなくて、世良さんの笑顔に応えられない。
「それって僕のことを意識してくれているから? そう、うぬぼれてもいいかな?」
「そうなのかも。でもそうでないのかも。よくわかりません」
「そう言ってくれるだけでも進歩だと思っちゃうよ。だけど電話の件は気にしなくていいから。お見合いはしない」
「でもお見合い相手の方は、強く希望されているのかもしれませんよ」
世良さんの写真を見たりプロフィールを知ったりして、むしろ乗り気なのかもしれない。その人に限らず、世良さんがお見合い相手だったら、たいていの人は興味を持つはず。
「言い方を変えるね。お見合い相手はいないんだよ」
「え?」
「母さんの嘘なんだ。うまくだましているつもりみたいだけど、バレバレなんだよね」
あっけらかんとした答えにまさかと思ったけれど、どうやら嘘ではないようで、世良さんはその理由を説明してくれた。相手の女性の情報も、どういう伝手《つて》で舞い込んできた話なのかも、世良さんがお母さんにたずねても適当にごまかされるばかりなのだそうだ。
「顔も名前も教えてもらえないんですか?」
「そうなんだ。きっと、お見合いの話を出せば、僕が結婚をあせると思っているんだよ」
「だからってそこまでしますか?」
「うちの母さんはそういう人だから。ひとり息子がいい年して独身なものだから気になるんだよ」
「世良さん、ひとりっ子なんですか?」
「うん、だから余計に心配されるのかも」
世良さんがはにかむ。
でも世良さんの年齢を考えたら、親としては当然心配にもなるだろう。息子に幸せな家庭を作ってほしいと願う気持ちはわかるし、早く孫の顔も見たいだろう。
「僕が結婚したいと思った女性は亜矢ちゃんだけだよ」
いまだに緊張が解けないわたしをリラックスさせようと、世良さんの手のひらがやんわりとわたしの頬を撫でる。冷えた身体が再びあたたかくなるようだった。
「たくさんの女性とおつき合いしてきたのに、ひとりも?」
「たくさんはいないよ。会社でそんなうわさが流れているみたいだけど、これでも一途なほうだと思うんだけどな。一年前から亜矢ちゃん一筋だし」
「すみません。世良さんはとても真摯にわたしに向き合ってくださっているのに」
一年も前から想われて、一ヶ月前にプロポーズされて、そういう状況で不安がるなんてどれだけ自分勝手なんだろう。
「気にしてくれたことはうれしいよ」
「わたし……世良さんもそうなのかなって。世良さんもわたしの前からいなくなっちゃうんじゃないかって怖かったんです。わたしの立場でこんなことを言うのも変なんですけど」
気がつくと、胸の奥でくすぶっていた気持ちを素直に口に出していた。それは悲しい記憶。わたしから女である自信を奪っていった惨めな出来事。
わたしではだめなんだと、自分のことが嫌いになって、部屋に閉じこもってばかりいた。
「人の心は難しいよね。裏切るつもりで人を好きになるわけじゃないのに、結果的にそうしちゃうときがある」
「心変わりはつきものだってことはわかってるんです。でも、元彼におめでとうと言えない自分が嫌でした。心が離れてしまっても、それでも相手の幸せを願える人間になりたかったです」
「一度は好きになった人だから、ありがとうって思えたらいいよね」
「はい。わたしも世良さんみたいに強くなりたいです」
こぼれた涙を世良さんの指先がすくう。
「泣き顔は二度目だね」
「……はい」
一度目は過去の恋愛を思い出して取り乱したときだった。それまで誰にも言えなかった気持ちを世良さんが静かに受け止めてくれた。
「でも今日の涙は悲しい涙じゃないよね?」
「はい」
「それなら喜んでいいのかな?」
「はい」
耳のうしろに手を添えられて見つめ合う。あたたかい手のひらのぬくもりを感じていると、世良さんの顔が近づいてくるのがわかった。
唇と唇の間の距離はほんのわずか。触れるか触れないかのきわどいライン。至近距離で交わる視線は薄闇でもしっかりと絡み合い、そそるような眼差しのなかにもうひとりの彼を見た。
「いいの? 拒まないとしちゃうよ」
だけどわたしの返事を待たずに、それは重ねられた。
わたしは目を閉じて受け入れる。やわらかい感触を堪能できるほど、ゆっくりとなぞる世良さんの唇は控えめについばんで、角度を変えて、でも離れることはない。
経験豊富な世良さんのことだから、もっと情熱的なキスかと思っていた。でもこんな穏やかなキスもいい。わたしをとても労わっていることが伝わってくる繊細なキスも、この胸をときめかせてくれた。
彼のキスに応えたくて、つま先に力を入れて背伸びをした。そんなわたしの不安定な身体を支えるように彼の手がそっと伸びてくる。背中に添えられ、わたしも世良さんの首に腕を絡ませた。
「もっと好きになってもいい?」
さっきまでつながっていた唇が言う。
「今も十分なくらいなのに」
我慢できないとばかりにもう一度口づけられる。
「待って」
「まだ怖い?」
怖いと感じるのは世良さんにではなく、世良さんにのめり込んでいく自分に対して。人を愛することは素敵なことなのに、それでも不安を覚える。
「世良さんが怖いんじゃないんです。わたしが未熟だからです。だからもう少しだけプロポーズの返事は待っていてくれますか?」
今すぐ結婚とはいかない。だけど、いずれそんな日が来たらいいなと思う。そのタイミングが早いのか、少し時間がかかるのかわからないけれど、今のわたしは世良さんとの未来しか想像できない。
あとはわたしがどう変われるか。世良さんを上手に愛せる人間になれるのか、それを見極めたい。
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「恋愛期間、満喫しようね」
「はい、よろしくお願いします」
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