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3.もうひとりのヒーロー

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 それまではナギのことを「津久井くん」と呼んでいた。
 ナギもそう。わたしのことを「安瀬《あんぜ》」と呼び捨てにしていた。
 お互いを、下の名前で呼び合うようになったのは去年の十二月。初めてナギと結ばれた日だった。

 ***

 週明けの月曜日は憂鬱度が一段と増す。
 クラス替えをして二週間になろうとしているけれど、どうもこの席は落ち着かない。
 最前列。一学期は出席番号の席順となっていて、「あ行」である「安瀬」の宿命だ。
「それにしても、みんな朝からフェアリー、フェアリーって、ほんとうっとうしい」
 すずちゃんがやれやれといった感じで廊下に出てきた。わたしも教室の雰囲気に不快感を覚えて逃げ出してきたところだった。
 ふたりで教室側の壁に寄りかかると、窓の外を眺めた。
 すずちゃんは、ナギとの関係を打ち明けた唯一の人。少し毒舌だけど、いつも一緒にいてくれるやさしくて気の合う友達。
 一年のときも同じクラスだったすずちゃんと二年でも一緒のクラスになれたのは、本当にラッキーだった。
 わたしは昔から友達が少ない。人づき合いが得意ではなくて、クラスの中でも浮いていることが多かった。
 高校に入学した直後もそうだった。なかなか友達ができなくて、お昼休みもいつもひとりぼっち。
 そんなある日、声をかけてくれたのがすずちゃんで、おどおどしているわたしを和ませるように笑いかけてくれた。
 その明るさが、なんとなくお姉ちゃんに似ているなあと思いながら話しているうちに仲よくなり、それ以来一緒に行動するようになった。それまで自分のことをあまり話せなかったせいで、友達との距離を縮められなかったわたしに、初めてできたなんでも話せる友達だった。
「みんながフェアリーの話題をするのはしょうがないよ。先週、新曲が発売されたばかりだからね。今朝のテレビでも取り上げられていたから余計にそうなんじゃないの」
 わたしもその番組を見たひとり。
「てか、すずちゃんってフェアリーが嫌いなの?」
「フェアリーって子は別にいいんだよ。可愛いなって思うし。そういうことじゃなくて、みんなあることないこと、よく言うなと思って」
「ああ、そういうことか」
 すずちゃんの言い分はよくわかる。
 好きなアーティストの話をするのはいいんだけど、話がどんどんエスカレートしてきて変な想像をする人もいた。
 たとえば音楽プロデューサーとつき合っているとか、スポンサーの幹部クラスの人とデキているとか。
 華やかなデビュー、恵まれた楽曲、大がかりなメディアのバックアップ。とにかくお金をかけたプロデュースには特別な理由があるに違いないと。
 けれど、その噂話に根拠なんてものはまったくない。みんな勝手に知ったかぶりしているだけ。
「そういえばさっき男子が言ってたよ」
 すずちゃんがニヤニヤしながら言う。
「なにを?」
 なんだか嫌な笑いだな。そう思いながら尋ねる。
「千沙希がフェアリーに似てるって」
「はあ!?」
「眼鏡をとったところを偶然に見たやつがいたらしくて、それで気づいたみたい。でも言われてみるとそうかも。目が似てるかな。あと口もとも」
「冗談やめてよ」
「いいじゃん、話題の歌姫だよ。ミステリアスな美少女って評判じゃん」
 すずちゃんは完全にからかいモード。その顔は絶対にわたしのことを美少女だと思っていない。
「笑いすぎだって」
 わたしは小さくため息をついた。
「顔がはっきり映っていないのに。なんで似てるってなるのかな?」
「パーツとか雰囲気とかじゃない?」
「似てないから、ぜんぜん」
「千沙希こそ、嫌いなの?」
「嫌いっていうか、なんか苦手」
「苦手ってどういう意味? 曲もいいと思うけどな。まあ、男子が騒ぎすぎて、そこはウザいけど」
 すずちゃんは呑気に話すが、わたしはもうため息すら出ない。
 この状況はあと何日続くのだろう。心も体もズシリと重い。考えるだけでうんざりだ。
 窓の向こうには花の散った葉桜が揺れていて、曇り空に新緑が沈んでいく。わたしの心境を映し出したかのように、濁り、くすんでいた。
 灰色に塗りつぶされた景色が瞼の裏に貼りついて、しばらく離れてくれなかった。
「あんたが安瀬?」
 そろそろ教室に戻ろうかとすずちゃんと話していたら、いきなり名前を呼ばれた。
 しかも呼び捨て。この人、超有名人だから顔と名前は知っているけれど、友達じゃないし、しゃべったこともない。
 向こうはわたしのことをよく知らない様子。かろうじて名前だけは知っているみたいだけれど、わたしが安瀬という名前であることは、きっと廊下にいる誰かに聞いたんだろう。
「そうだけど、なにか用?」
「なんだ、意外に地味な女なんだな。てっきり……。あ、いやなんでもない」
「今のなに? 悪口? そんなことを言うために呼び止めたの?」
「まさか。話があるんだよ」
「話?」
「言っとくけど告るわけじゃねえからな」
「わかってるよ。最初から喧嘩腰だし。なんか嫌われてるっぽいね、わたし」
 彼は同学年の降矢嵐《ふるやあらし》くん。そして水泳部だ。降矢くんはうちの高校のスーパーヒーローで、高校競泳界の期待の新星。
 降矢くんは去年、インターハイに出場し、上位ではなかったものの見事入賞を果たした。それくらいここ一年の躍進ぶりには目を見張るものがあり、注目されている。県内ではもはや敵なしと言われるほどのトップクラスの選手だ。
 ナギが失速してしまった今、とくに校長先生が彼に大きな期待を寄せ、その活躍に大喜びだった。
 一時はナギのライバルと呼ぶ人もいた。けれどナギが競泳界から姿を消してから約十ヶ月。もはやライバル同士と思っている人はほとんどいない。
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