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2.栄光と挫折の孤独なスイマー

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「千沙希」
 ふいにお姉ちゃんの声がした。
「休憩?」
「うん、十五分だけ。それより顔が赤いけど大丈夫?」
 あれ? 自覚はなかったけど、そうなのか。
「平気だよ。調子はいいから」
「千沙希は疲れやストレスがたまるとすぐに熱を出すんだから。遊びすぎないようにね」
「別にそれほど遊んでるつもりはないんだけどな」
「わたしの高校時代より遥かに遊んでるじゃない。でも、お父さんもお母さんも千沙希には甘いからなあ」
「そうかな?」
「七時の門限破ってもたいして怒られないじゃん。不公平だよ。わたしには厳しいのにさ」
「お姉ちゃんは朝帰りとかするからだよ。次元が違うのに一緒にしないで」
「そんなのは年に何回かでしょう。だいたい大学生の門限が夜の十一時って早すぎるよ。今度抗議して十二時まで延ばしてもらおう」
 お姉ちゃんは、普段から言いたいことを遠慮なく言う人だ。
 さっきナギにきつくあたっていたように、わたしにもチクリと釘を刺すことを忘れない。
 両親にだってそう。それまで夜の十時だった門限を十一時にしてもらったのはつい最近のことなのに、さらに延長直訴の予定らしい。
 でも根はやさしくて世話好き。小さい頃からわたしが発熱や風邪で寝込んでいると、食欲のないわたしのために桃やミカンの缶詰を買ってきてくれて食べさせてくれた。
 水泳の練習で疲れているはずなのに、夜中におでこの冷却材を取り替えてくれることもあった。
 だからお姉ちゃんのことは大好きだし、昔から姉妹の仲はとてもよかった。
「千沙希、この後は帰るんでしょう?」
「うん、そうだけど」
「バイト、今日は六時までだから」
「一緒に帰れるの?」
「隼人《はやと》が迎えに来てくれるの。家まで送ってもらう」
「なるほど。その後デートか」
 隼人さんはお姉ちゃんの彼氏。お姉ちゃんと同い年で、同じ大学の隼人さんは、最近自分の車を持ったそうだ。
「大学生なのに車を持っているなんてすごい」と言ったら、「親から譲り受けた中古の軽だよ」と、お姉ちゃんが言った。
 ずっと水泳一筋で色気のなかったお姉ちゃんが、大学生になってぐっと女らしくなった。水泳をやめたお姉ちゃんは新しい世界でキラキラと輝いている。
 恋の力って偉大だ。
 一方、ナギは競泳の世界で苦しんでいる。それでもナギは自分の居場所はそこしかないからと、今もこの世界でもがいていた。
「それじゃ六時にフロントで」
「うん、わかった」
 お姉ちゃんがいなくなると、再びナギに視線を移した。
 ナギはひたすら泳いでいる。
 きっと、みんなは知らない。誰もが、ナギは泳ぐことをやめてしまったと思っているだろう。
 わたしもそう思っていた。ここで偶然、ナギに会うまでは。
 そしてその偶然がなかったら、たぶんナギに興味を持つこともなかっただろうし、心の奥に触れてしまうこともなかったはずだ。
「はい、どうぞ」
 ゴーグルをずらし、休憩のためにプールから上がったナギに、さっき自販機で買ったスポーツドリンクを手渡す。「ありがと」と受け取ったナギは、プールサイドの床にあぐらをかいてゴクゴクとすごい勢いで飲んだ。
「ねえ、千沙希?」
 ナギがプールを眺めながら言う。わたしはその横で立ったまま、ナギを見下ろした。
「なに?」
「タイムを計ってほしい」
 そんなことを頼まれるのは初めてだった。
 ナギは基本的にひとりで泳ぐ。自分で練習メニューを作っていて、それは素人目にも本格的な内容に思えた。
 でもそれだけでは十分じゃない。指導者やサポートする人間が必要。
「いいけど。どうせなら──」
「無理ならいいよ」
「無理だなんて言ってないでしょう。わたしが手伝えることはなんだってするよ。でも、いつまでもひとりで練習するわけにはいかないと思ったから」
「またその話か。水泳部に戻れって?」
「そのほうがいいと思う。学校のほうが監督やコーチだっているし、プールもここより大きいし、なにより大会に出場するには水泳部に戻らないと」
「そんなの、わかってるって」
「だったらそうしようよ」
 ナギに視線を合わせるように、わたしも床にひざをついた。
 この話をするのはこれで二度目だ。前回はまともに話を聞いてもらえず、プールの中に逃げ込まれ、たいして話せなかった。
「千沙希だけは、僕の気持ちをわかってくれてると思ってたんだけどな」
 それはかすれた声だった。すべてを拒絶するような孤独さをまとっている。
「ナギ……」
 こちらを見ようともしない。ひどく傷ついた顔で伏し目がちに前を見据えているだけ。
 わかってるよ。わかってるから、ずっとなにも言わずにいたんだよ。
 だけど六月に県大会がある。あと二ヶ月しかない。
 もうこれ以上待てない。黙って見守っていたら手遅れになってしまうかもしれないんだもん。
「わ、わからなくて悪かったですね。てか、わかんないよ、ぜんぜん。いったいいつまでひねくれているの? 悔しかったら表舞台で見かえしなよ。こんなところでこそこそしてたってしょうがないじゃん」
 心を鬼にして一気にまくし立てた。
 こんなふうにあおるのが正しいのかわからない。やさしく励ますべきだったのかもしれない。
 でもナギはここで終わる人じゃないと信じている。ひとりで何ヶ月も闘ってきたんだ。ナギなりの考えや目標があるはず。
 沈黙が続いていた。
 無理もない。今まで従順だったわたしが反抗したのだから。
 しかし、ずっと無反応だったナギが肩を震わせた。
「ちょっとなに?」
 最初、泣いているのかと思った。でも違った。
「なにがおかしいの?」
 ナギは声をあげて笑っていた。こらえきれないとばかりに、お腹まで抱えている。
「わたし、変なこと言った?」
「いや、随分とマジになってるから」
「はぁ!?」
「さっきのは冗談に決まってるだろう。かまってちゃんじゃあるまいし」
「演技だったの?」
「あたり前だろう。僕はそんなにやわじゃない。ていうか、言われなくてもそのつもりだったよ」
「そのつもりって?」
「戻るよ、水泳部」
「……ほ、本当?」
「かなり敷居は高くなったけど、このままってわけにもいかないもんな」
「だったら、なんでこの間は話をはぐらかしたの?」
「それは……。実はまだタイミングを掴めないんだ。でもそろそろタイムリミットだよな、さすがに」
 ナギは照れくさそうに言うと、ゆっくりとこちらを向く。けれど思ったより距離が近くて驚いたのか、少しだけ目を見開いて、そして朗らかに笑った。
 笑えるということは、なにか手ごたえを掴んでいるということだろうか。それとも受ける痛みを覚悟してのこと?
「わかった。ナギのタイミングを待つよ」
「ありがとう。水泳部には必ず戻るから。だから、これからも僕のこと、ちゃんと見ていてほしい」
 それはまっすぐで純粋で、胸を鷲掴みされるような衝撃だった。
 もちろんそこには、愛とか恋とか、そういう色っぽいものはないことはわかっている。けれど、たとえば“好き”という言葉よりもずっと重いような気がして、見つめてくるその目を逸らせなかった。
「どこまでやれるか自分でもわかんないけど、千沙希が見張ってくれたら今度は逃げ出さずにすみそうな気がするんだ」
 まったく人の気も知らないで。そんなふうに信頼しきったセリフを言われたら、うれしくて離れたくなくなる。もうとっくに中毒だけど、このままの関係でもいいかなって思ってしまう。
 だからこの時間が永遠になることを心から願ってしまう。たとえ、この思いが報われなくとも。
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