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橘
秘密
しおりを挟む2.5話 秘密
俺が親におねだりをしたのは数えるほどしかない。
「お母さん。これ、ほしい」
勇気を振り絞り母の服の袖を引っ張り、見上げる。
母が言葉を発するより先に、表情で可否がわかった。
「こんなおもちゃいらないわよ。お受験が近いんだから勉強しなさい」
「はい……」
あの光輝くベルトが欲しかった。
あれがあれば俺もヒーローのようになれる。
そしたら勉強なんてしなくても、母は認めてくれるはず。
俺のわずかな希望は初めの一歩を歩むことすらも許されなかった。
教科書の字の羅列に飽き飽きして窓を見る。
水色の空を雲がゆっくりと移動していた。
外に行きたい。
窓際に行き、外の景色をただ漠然と見ていると、近くの公園で円を作るようにしてしゃがみこむ同級生たちが見えた。
俺は目を輝かせて窓ガラスに触れた。母の目を盗み、家を出る。
公園に着くと、一目散に彼らのもとに行き、肩を弾ませながら声をかける。
「なにやってるの?」
しゃがみこんで小さくなっている輪から一人が顔を上げてこちらを見る。
「橘か。『みんなのぼうけん』だよ。一緒にやりたいんだったらゲーム持って来いよ」
次々と顔が上がり、こちらを見る顔は面倒だと言わんばかりの表情をしていた。
「どうせ遊べないんだろう」と顔に書いてあった。
「こいつ一個もゲーム持ってないんだぜ」
「うわあ。まじか、ありえねえ」
俺は拳を握りしめ、崩れそうな顔を必死に保ちながら平気なふりをした。
「……聞いただけだよ。誰もやりたいなんて言ってない」
踵を返して公園を出ようとする俺に彼らの言葉が刺さる。
「……なんだよ。いやなやつ」
そんな日々が続くと当たり前だが、学校の他の同級生とも疎遠になる。
自然と俺も前より勉強に打ち込むようになった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
寒さが和らいでくる季節。
母親と共にパソコンの前に座り、合格発表がされるホームページを見ていた。
マウスを持って、何度も更新ボタンを押す母を、俺は漠然と見ていた。
「出たわ! 四六九七……四七三〇……四七七一! あった! 合格よ!」
俺はディスプレイに映し出されている自分の受験番号を「あれだけやったんだから当たり前だろ」と冷めた気持ちで見ていた。
「すごいわ! 遊ばずに勉強してきた結果よ! あそこの家のたけし君は……やっぱり落ちてるわ。あの子ずっと遊んでたもの。遊ばないためにも、ゲームはいらなかったのよ! ね?」
「そうだね」
喜ぶ母を見て間違ってはいなかったんだと安堵する。
いつからか、『俺の欲しいものはいつだって余計なもの。自分から求めても碌{ろく}な
ことにはならない』という考えになっていた。
家は裕福で昔から生活に必要なものは何不自由なく与えられてきた。
だから、何も求めなくなっていた。
与えられるもので十分生きていける。自分からは求めない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「すまないな」
「気にしなくていい、暇なときに来ているだけだ」
ぎっしりと棚に並べられたボトルを背に、友人に頼まれたグラスを拭く。
お酒に浸れるようにと考えられた店内は薄暗く、テーブルの上と客席に小さなライトが灯りをともしてあるだけだ。
俺がここを手伝うのは友人のためというのが前提にあるが、最近は違う理由も出てきていた。
「店を開きたいって前から言ってたじゃん? 最近いい場所が売りに出てて、どうしようかと思ってさ。資金はあるんだけど、もう少し修行してからの方がいいかなとか、でもあんないい土地なかなか空かないし……」
「買ったらいいと思うけどなあ」
男性と女性の二人組がカウンター席で話し込んでいた。
女性の方は店に来て一杯だけ飲んで帰るところを何度か見かけている。
友人と話す姿やそんなに強くないお酒でほろ酔いになっているところ、「初めてのバー、勇気を出して入ってみたんです!」と言って、入れた喜びをマスターと分かち合うところも素直な子だなと思って、好ましく見ていた。
彼女に恋人がいたと知って、気分が沈む。
俺はいつからか好意を抱いていたんだろう。
だが、特にどうしようとも思っていなかった。
ただ、たまにここで会えればいい。
「でもさ、店が上手くいくかもわかんないし、ここは十年間修行を積んだ後に自分へのご褒美をかねて購入した方が上手くいきそうな気がするんだよなあ」
「うーん。理由なんて大層なものはいらないんじゃない」
「でもやっぱり不安だよ。長い間修行した方が売れやすいって聞くし……」
「はっきりしないなあ。したいことはさっさとすればいいし、欲しいものは手に入れればいいよ! 」
「うっ……なんかごめん」
「……こっちこそ、ごめん。勇太、必死にやらない言い訳を探してる気がして……。ちょっとお手洗い行ってくるね」
彼女は落ち着いたグリーンのバッグを手に席を立ち、パウダールームへ向かっていった。
「……はぁ」
「素敵なパートナーですね」
「だろ? といいたいとこだけど違うんだ、元カノ。だいーぶ前に振られてるからお友達」
「そうでしたか。失礼しました」
自然とグラスを拭く手から力が抜ける。
思わず顔が綻ぶのを男に見られないように下を向いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
オフィスで書類に目を通していると、西日が部屋に入ってきて、眩しくなった。
日差しを遮ろうと椅子を引き、立ち上がる。
ブラインドを下ろすついでに、息抜きにビルの下を眺める。
ベンチには美しい髪の女性が座っていた。
肩には見覚えのあるモスグリーンの鞄。
彼女だった。
誰かと待ち合わせをしているのだろうか。
……すぐに下りて行って、話をしてみたい。
あの綺麗な目に俺を映してほしい。
あの日以来、抑えられていた欲望が内に沸き起こるようになってしまった。
だが、突然話しかけたら不審がられる可能性が高い。
店ではこちらの顔は見えていないだろうし……。
気持ち悪がられるぐらいならいっそ……。
『したいことはさっさとすればいい。欲しいものは手に入れればいい』
『必死にやらない言い訳を探してる気がして……』
彼女の言葉が頭をよぎり、自然と片方の口角が上がる。
彼女が言ったんだ。
一度だけ、彼女の言葉に従ってみよう。
ダメならそれでいい。俺はすぐにオフィスを出て、足早に階段を下りる。
彼女のいる明るい所へ。
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