モナリザの君

michael

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..その人物は

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 それは六月の、梅雨に入る前のとある日、早朝のことだった。
  僅かばかりの乗客を乗せて、路面バスが走っていた。閑静な住宅街をぐるりと回り、都心部へと向かうバスだ。なので、利用者はもっぱら通勤か通学する人たちばかり。まだ都心部は遠いので、停留所に停まっても、乗る人はいても降りる人はいない。
  都心部で一つ、その前に一つ。合計二つの学校の前を通るため、時間が時間なら通学する学生たちですし詰めになるところだが、早朝という時間帯では朝練に参加する学生か、朝が早いサラリーマンが幾人かいるだけだった。これがこのバスの日常であり、今日もまた、いつもと変わらず規則正しくバスは運行していた。
  ある停留所でバスが停まり、を乗せるまでは……。
  乗客の中で最初にに気付いたのは、都心部にある学校に通うブレザーを着た少女だった。
  少女は部活の先輩から「テニス部たる者は電車であろうとバスであろうと常に立って、足腰を鍛えなければいけない! 座るべからず!」との言いつけを律儀に守り、ガラガラに空いている座席を無視して後方のドア付近に立っていたのだ。
 必然的に、先ほどの停留所で乗ってきたとすれ違うことになった。は一番後ろの座席に座った。
  
(……信じられない)

  少女は心の中で呟いた。
  とすれ違ったことが。自分が夢か幻を見たのかと思ったのだ。
  チラリと振り返ってを確認する。だが、は夢や幻ではなく、ちゃんと存在していた。

( ……やっぱりいる)

  思い直して、前を向く。すると、途端に自信を持てなくなる。やはり自分が夢か幻を見たのではないかとの疑念が膨らんでくる。なぜなら、決してからだ。
 
( ……信じられない)

 少女はまたしてもチラリと振り返る。
 目に映る光景は先ほどと変わらない。は行儀よく座っていた。

(……信じられない)

 自分の頬をつねってみるが、痛いだけで夢から覚めるわけでもない。これはまぎれもなく現実だと認識した。
 もう一度、チラリと振り向く。

「……信じられない」

 少女の近くから声がして彼女の肩がビクッと動いた。自分の心が見抜かれた気がしたのだ。
 
「……信じられない」
  
  もう一度聞こえた。その声は、少女の近くに座っていたサラリーマンの男のものだった。

(違う……私の心が見抜かれたんじゃない)

  そこでやっと少女は気付いた。自分だけでなく、バスに乗っている乗客すべてがをチラチラと盗み見ていることに。に気付いていないのは、バスの運転手ぐらいだった。

( ……自分だけじゃなかった。みんな私と同じことを感じている)

  ホッとするとともに、無理もないと思った。
  は超有名人なのだ。日本人なら、いや日本人でなくても知っているだろう。世界的にこれほど知られている人物もいない。それ故に、ここにがいることが信じられなかったのだ。
  再度、少女はチラリと振り向く。
  やはり、はいた。自分の記憶と寸分たがわぬ微笑みを浮かべ座っていた。記憶と違うのは、が黒を基調としたセーラー服を着ていることだ。
  少女は、考える。

(あのセーラー服は、近くの名門女子高の制服だ。確かに、このバスはその名門女子高の前にも停まる。今は早朝だからいないけど、もっと後の時間になったらセーラー服姿と、うちの高校のブレザー姿の生徒でこのバスは埋めつくされるんだ。普通に考えたらそこの生徒なんだけど……が女子高生だって? やっぱり、とても信じられない……)

  少女は、悩む。
  やがて、バスの自動音声が次の停留所、くだんの名門女子高の名前を告げた。
  
『次は、抹茶まっちゃの水女学園前。お降りの方は近くの降車ボタンをお押し下さい』

 の腕が優雅に上がり、降車ボタンを押した。
  
『次、停まります』

    ざわっ、とバスの中の空気が震えた。
    やはり、は女子高生、しかも日本で有数の名門女子高の生徒のようだ。
  
(しかし、そんなことがあるのだろうか?)

    いま、乗客たちの思いは一つになった。
    そんな乗客たちとを乗せて、バスは走る。

『抹茶の水女学園前。車が完全に停車してから席をお立ち下さい』

 着いてしまった。
  バスが停まり、ドアが開く。
  が立ち上がり、バスの前へ歩いて行く。
  少女とすれ違う。

(……お、大きい)

 少女は心の中で唸り声をあげた。
  が存在することにも驚いていたが、身長の高さにも驚いていた。
  の身長は百八十をいくらか超えていた。
  まったく想像していなかったことだった。
  は常に座っていて、背景に背の高さを測るものも存在していない。 の身長は、見る者の頭の中にしか存在していなかったのだ。
 少女はそのことに初めて気付いた。
 が運賃箱に小銭を入れる。
 この停留所で降りるということは抹茶の水女学園の生徒に違いないと、運転手がをろくに確認せずに、抹茶の水女学園特有の挨拶をかける。

「ごきげんよ……」

 台詞が不自然に止まった。
 運転手も見てしまったのだ。
  を。
 しかし、は運転手の反応を気にすることなく、軽く会釈をしてバスを降りて行った。
  いつの間にか乗客全員がバスの前に集まっていた。乗客全員と運転手が見守る中、は抹茶の水女学園へ歩いて行く。
 校門付近で、登校してきていた抹茶の水女学園の生徒がに挨拶をした。

の君、ごきげんよう」

 開きっぱなしのドアの外からそんな言葉が聞こえてきた。
 乗客全員と運転手がそろって自分の耳をほじくった。

( ……今、なんて言った?)

 また、別の生徒がに挨拶をした。

「ごきげんよう、の君」 

 聞き間違いじゃない。確かに聞こえた。
  の君、と。
 乗客たちと運転手が目を見合わせる。
  全員の心の声が漏れだす。

(幻とか見間違いじゃなかった!  やはり、紛れもなくだったんだ!  髪型も目や鼻の形も、そしてあの特徴的な口元だって、絵画の中の姿と寸分たがわず同じだったからな!  だが……なんでセーラー服なのだ? 正直、似合っていない。それに、なんといっても。本当に抹茶の水女学園の生徒なのか?)
  
 、いや、の君の姿が抹茶の水女学園の校門に吸い込まれていった。

(事実は小説より奇なり……ってことなのか?)

 まるで狐につままれた気分で、乗客たちと運転手はずっとモナリザ ・の君が消えた校門を眺めていた。
 次に運行してきたバスにクラクションを鳴らされるまで。
    そして、少女は朝練に遅刻した。




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