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第五章 染紅灘蔵
第28話
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月末。
土曜日の朝。
暑さにうなされて目覚めるくらい夏が深まっていた。
首元や背中にびっしょりと汗をかき、ピタゴラスイッチの一部に組み込まれたかのように風呂場へ向かう俺の行動はアルゴリズムで決定されていた。
ミーンミンミンという蝉の声が聞こえるたびに、夏休みまであと何日、まだ何日あると数えさせられる。
それにしてもミンミン蝉とは愚直な命名をしたものだ。たしかに蝉の鳴き声というのは種ごとに独特だけれども、ほかにミンミンと鳴く蝉がいる可能性を考えなかったのだろうか。
……暑い。
洗面所のマットが濡れていた。鏡が曇っている。
ここの湿度はおそらく100%だ。
どうやら姉が先にシャワーを浴びたらしい。
浴室の扉を開ければ熱気が雪崩のように押し寄せてくるだろう。すりガラスごしでも、浴室の窓を開けて換気が試みられているのが見て取れる。
湯の残熱でシャワーを浴びた直後から汗をかきそうだ。
キーワードはアイス。合言葉は扇風機。
ヘイYo! アイスオレを愛す俺、扇風機で巻き起こすは旋風!
あ、ヤバイ。暑さで頭がイカレたか、俺。
さっさとシャワー浴びてアイス食って扇風機でアアアアしよう。
俺がシャワーを浴びてアイス片手に部屋へ戻ると、そこはまるでクーラーが効いたように涼しかった。
俺の部屋にクーラーなんてない。
床に置いてあったはずの扇風機が俺の机の上に移動しており、低く頭を押し下げられた扇風機の前方直下には、タオルに座る金属製ボウルがあった。その中には大量の氷水が入っている。
ベッドには、うつ伏せになって本を読んでいる姉がいた。
白いシャツと青い短パン。その頼りない布切れから、白い腕と白い太腿が無防備に露出している。
「おかえり」
「ただいま……」
どっちかというと「お邪魔しています」「いらっしゃい」のほうが正しいと思うが……。
いつものことなので、やっぱり「おかえり」「ただいま」のほうが自然といえなくもない。
姉は自分のテリトリーにいるだけなので、用件を訊くのは野暮、ナンセンスというものだ。
むしろ御法度でさえある。それで機嫌を損ねられたらたまらない。過去に何度か経験済みである。
ロールプレイングゲームでいうところの、話しかけると襲いくる、眠りを妨げられた隠しボスのようなものだ。姉の読書を邪魔してはならない。
しかし今回の姉は用事があって俺の部屋に来ているらしく、本を支えていた手の片方を本から離し、小卓を指差した。
背の低い木製円卓の上に封筒がポツンと置かれていた。
俺はその茶封筒を拾い上げ、中身を確認して思わず息を呑む。
「お姉ちゃん、これ……」
「特別に貸してあげる。出世払いで返してくれればいいわ」
封筒にはお金が入っていた。11万円入っていた。
「でも、これ、どうしたの?」
「私の貯蓄よ。ちゃんと返してよ」
「うん、ありがとう……」
何か裏があるんじゃないか、とつい勘繰ってしまう。
しかし、姉はすぐに意識を本へ戻し、ご機嫌な様子で膝から立てた足を揺らめかせている。
何かを企んでいる様子はない。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「べつに二回言わなくてもいいわよ」
姉の優しさが俺に向けられたのは何年ぶりだろう。
俺は封筒をテーブルに置き、すぐに部屋を出た。
姉にはさんざんに辱められてきたが、それでも感涙を見られるのは恥ずかしいと思ったのだった。
土曜日の朝。
暑さにうなされて目覚めるくらい夏が深まっていた。
首元や背中にびっしょりと汗をかき、ピタゴラスイッチの一部に組み込まれたかのように風呂場へ向かう俺の行動はアルゴリズムで決定されていた。
ミーンミンミンという蝉の声が聞こえるたびに、夏休みまであと何日、まだ何日あると数えさせられる。
それにしてもミンミン蝉とは愚直な命名をしたものだ。たしかに蝉の鳴き声というのは種ごとに独特だけれども、ほかにミンミンと鳴く蝉がいる可能性を考えなかったのだろうか。
……暑い。
洗面所のマットが濡れていた。鏡が曇っている。
ここの湿度はおそらく100%だ。
どうやら姉が先にシャワーを浴びたらしい。
浴室の扉を開ければ熱気が雪崩のように押し寄せてくるだろう。すりガラスごしでも、浴室の窓を開けて換気が試みられているのが見て取れる。
湯の残熱でシャワーを浴びた直後から汗をかきそうだ。
キーワードはアイス。合言葉は扇風機。
ヘイYo! アイスオレを愛す俺、扇風機で巻き起こすは旋風!
あ、ヤバイ。暑さで頭がイカレたか、俺。
さっさとシャワー浴びてアイス食って扇風機でアアアアしよう。
俺がシャワーを浴びてアイス片手に部屋へ戻ると、そこはまるでクーラーが効いたように涼しかった。
俺の部屋にクーラーなんてない。
床に置いてあったはずの扇風機が俺の机の上に移動しており、低く頭を押し下げられた扇風機の前方直下には、タオルに座る金属製ボウルがあった。その中には大量の氷水が入っている。
ベッドには、うつ伏せになって本を読んでいる姉がいた。
白いシャツと青い短パン。その頼りない布切れから、白い腕と白い太腿が無防備に露出している。
「おかえり」
「ただいま……」
どっちかというと「お邪魔しています」「いらっしゃい」のほうが正しいと思うが……。
いつものことなので、やっぱり「おかえり」「ただいま」のほうが自然といえなくもない。
姉は自分のテリトリーにいるだけなので、用件を訊くのは野暮、ナンセンスというものだ。
むしろ御法度でさえある。それで機嫌を損ねられたらたまらない。過去に何度か経験済みである。
ロールプレイングゲームでいうところの、話しかけると襲いくる、眠りを妨げられた隠しボスのようなものだ。姉の読書を邪魔してはならない。
しかし今回の姉は用事があって俺の部屋に来ているらしく、本を支えていた手の片方を本から離し、小卓を指差した。
背の低い木製円卓の上に封筒がポツンと置かれていた。
俺はその茶封筒を拾い上げ、中身を確認して思わず息を呑む。
「お姉ちゃん、これ……」
「特別に貸してあげる。出世払いで返してくれればいいわ」
封筒にはお金が入っていた。11万円入っていた。
「でも、これ、どうしたの?」
「私の貯蓄よ。ちゃんと返してよ」
「うん、ありがとう……」
何か裏があるんじゃないか、とつい勘繰ってしまう。
しかし、姉はすぐに意識を本へ戻し、ご機嫌な様子で膝から立てた足を揺らめかせている。
何かを企んでいる様子はない。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「べつに二回言わなくてもいいわよ」
姉の優しさが俺に向けられたのは何年ぶりだろう。
俺は封筒をテーブルに置き、すぐに部屋を出た。
姉にはさんざんに辱められてきたが、それでも感涙を見られるのは恥ずかしいと思ったのだった。
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