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第五章 染紅灘蔵
第27話
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厄介なことになった。
なぜか俺の部屋に五人もの人間がいる。
姉と俺と梓ちゃんとトシと、それと朱里である。
梓ちゃんと朱里の関係はいまだに最悪で、それなのにその二人が同じ部屋にいる。姉によって強いられた呉越同舟である。
姉を師匠と慕う梓ちゃん、姉の恐ろしさをその身をもって経験している朱里、双方とも姉の意向に逆らうことはできない。
姉に呼ばれたために、帰宅後すぐにうちに来たようで、彼らは皆が制服姿だった。おかげで俺も着替える暇がなく、姉も含めて全員制服である。
「吉村さん、君は隼人君を狙っているそうじゃないか。でもね、隼人君は渡さないからね」
トシが唐突に朱里に因縁をつける。
そういえばトシと朱里の関係も悪いままだった。
「はぁ? あたしがこいつのことを好きみたいな言い方すんじゃねぇよ」
「谷良内君、違うわよ。吉村さんが狙っているのは隼人君の貞操、ただそれだけよ」
朱里も梓ちゃんも目が若干だが吊り上っている。その前傾姿勢は臨戦態勢というやつだ。臨戦態勢に挟まれたトシは、オセロのごとく臨戦態勢へと移行した。
「なんだって⁉ 仮に吉村さんが隼人君の貞操を奪ったとしても、隼人君の心は僕が渡さないからね」
「駄目! 隼人君の貞操は私が絶対に守るの!」
カオス、カオス、カオス!
もうおまえら俺の名前を口にするな!
そもそも、なぜトシが懲りもせず姉に呼ばれるままうちに来ているかというと、それはなんと、姉がトシの小説を褒めたからである。
あの日、姉はトシの小説を読んだ。
姉は小説が存外面白かったらしく、トシを気に入ってしまった。
トシはトシで、自分の小説を賛美してくれる姉を慕うようになった。卑劣な罠にかけられたことがチャラになるくらい、小説を褒められたことは嬉しかったらしい。
あの小説のジャンルは官能小説であり、それはタイトルからも一目瞭然だったが、それを承知してもなお門前で引き返さずに踏み込むあたり、姉の器量と視野の広さをさすがと言わざるを得ない。
姉は食わず嫌いをやらない性質だ。偏見や先入観に囚われず、そういったものから生じる硬質な確執にも巧みに切り込んでいく。
「さて、与太話はそこまでにしなさい。私が皆を集めたのは、ある実験を遂行するためよ」
姉の馬鹿げたオリエンテーションには、引け目や気後れの類が微塵も感じられなかった。ガラス玉をダイヤモンドだと言ってうそぶくようなその図太い肝は、いったいどこで拾ってきたのだろうか。
しかも姉が魔法でも使ったのか、三人の客は愚かしくも馬鹿な実験に乗り気でいるようだ。
「僕は治りかけて元気な隼人君よりも、いちばん苦しんでいるときの隼人君を看病したいよ」
「それは駄目。私は見逃してないのよ。谷良内君が隼人君の貞操を狙っているという可能性をね。巷ではボーイズラブなるものが流行っていることは知っているんだからね」
梓ちゃん、ボーイズラブを好むのは腐女子と呼ばれる女の子たちだよ。トシは男だから大丈夫……と思ったが、トシは乙女成分のありそうな奴だった。
いや、だとしたら逆に大丈夫なのか? いやいや、トシ、まさかおまえ、都合のいい両性類じゃあるまいな?
「とんでもない。僕はピュアなんだよ。僕が狙っているのは貞操なんかじゃなく、心だよ」
「姐御、風邪のひきはじめって看病する必要あるっスか? やるなら風邪をひかせるところをやりたいっす。裸にひん剥くっスよねぇ?」
「ちょっと吉村さん! あなた、最低ね。隼人君に風邪をひかせたいだなんて。それに隼人君の貞操は狙わせないわ!」
いや、梓さん、実験に賛同している時点で同類ですよ。
姉の発想の異常性に気づいて姉の暴走を止めてください。
「うるせー。テメーから風邪ひかしてやろか?」
どんな脅しだ。朱里、ヤンキーの発言にしてはぬるすぎるぞ。
「吉村さん、忘れてもらっては困るわ。私にはあなたに対する切り札があるということを」
梓ちゃんが携帯電話の画面を朱里に見せつける。まるで「この紋所が目に入らぬか!」と言わんばかりの尊大な態度をぶつけている。
その画像を目に入れた朱里は、口を開いて呻きを詰まらせ、声を出す代わりに浜辺に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた。
「拝見」
姉がサッと梓の携帯を取り上げて画面に視線を落とす。
朱里だけでなく梓までギョッと目を見開いた。「見せるぞ」という脅しなのに、見られてしまっている。
「おいとましやす」
朱里が即座に立ち上がろうとするが、立ち上がれない。姉の人差し指が朱里の額を押さえていた。
指一本で人を制する技。これの原理は俺も知っている。椅子に座った人間は額を指で押さえられると立ち上がれないのだ。必要な重心移動ができないためである。
朱里は椅子には座っていないが、額を背中よりも後ろまで押しやられていて立てない。
「これはお仕置きが必要ね」
「ひぃいいいい! あたし、何されるっスか⁉」
「私の知り合いに勧誘活動が活発な宗教に入っている人がいるのだけれど、そこの宗教にあなたの名前で入信届けを出しておくわね」
「ちょっと、勘弁してくださいよぉ」
「大丈夫。最初は集会への誘いとかで家に何度も押しかけてくるみたいだけれど、三ヶ月くらい無視しつづけたら何も言ってこなくなるらしいわ」
それ誰の体験談? 嫌な話を聞いてしまった。
まあ、吉村家に対する勧誘活動は長くは続かないだろう。吉村兄がひと睨みすれば誰でも震え上がる。
「師匠、そろそろ私の携帯電話を返していただけませんか?」
梓ちゃんはいまだに額に汗を浮かべている。
姉が梓ちゃんの顔をじっと見ている。
梓ちゃんは自分も咎められるのではないかと不安なのだ、きっと。もし咎められるとしたら、それは梓ちゃんがその画像を姉にも隠して持っていたという点に尽きる。
「はい」
姉は簡単に携帯電話を梓ちゃんに返した。
セーフ。どうやらお咎めはないらしい。
でも姉のことだから、あとで梓ちゃんにその画像を自分の携帯電話にも転送させるだろう。俺の股間を朱里が鷲掴みにしているあの画像を。
「ねえ、僕にも見せてくれない?」
「駄目!」
トシはあっけなく弾かれた。梓ちゃんはすぐに携帯電話を閉じた。
朱里はトシを睨み、姉は冷ややかな目で一瞥してそっぽを向いた。
イケメンが女の子に冷たくあしらわれると、ちょっと気分がよくなってしまう。
「ところで、この中にオクラホマを希望した人っている?」
ちょっと! いきなりそれをぶち込みますか、お姉様。
心の準備ができてないのですが。俺のタイミングで謝罪させてくださいよ。
「はい!」
梓ちゃんとトシが早押しクイズみたいに我先にと手を挙げた。まっすぐピンと伸ばし、相手より上を取ろうと背筋をグイグイ伸ばしていく。
「あんたもでしょ?」
「あい」
姉の一瞥に、朱里がうつむいて小さく頷いた。
「あなたたち、なぜオクラホマを希望したの?」
「それはもちろん、隼人君がオクラホマに行きたがっていたからです」
トシが即答した。
男に尽くすタイプの女みたいなことを、この男は臆面もなしに言ってのける。
姉が梓ちゃんに視線を移すと、梓ちゃんは黙って頷いた。トシと同じ、ということだろうか。
さらに姉の視線がスライドし、朱里の番。
朱里は肯定しなかったが、否定もしなかった。つまりイエス、トシと同じ動機ということになる。
彼女の性格からしてノーと言いたいところだろうが、姉にへたな嘘は通じないこと、見栄を張る代償が高いことを朱里は知っている。
「みんな、ごめん……。俺は行けそうにないんだ。予算が足りなくて……」
こんな情けない謝罪を複数人の前でするなんて、罪の意識が吹き飛ぶくらいに恥ずかしい。下げた頭をもう上げたくないくらいだ。
「あ、そうなんだぁ。べつに謝ることないよ。隼人君は何も悪くないもの」
顔を上げて声の方向を見ると、そこには柔らかい笑顔があった。
梓ちゃんの優しさに感涙しそうになる。
加えて梓ちゃんは「隼人君が行かないなら私がオクラホマに行く必要はないから一緒に残る」とまで言った。
「ありがとう、梓ちゃん」
「そうだよ。僕はむしろ旅行で多人数の班に割り当てられて行動するより、旅行期間中の休みに地元で隼人君との思い出を作れるほうがいいから」
「ああ、ありがとな、トシ」
「あれ、僕のときだけ軽くない?」
それはおまえが勝手に俺をおまえのスケジュールに組み込んだからだ。
それを指摘したいところだが、いまは俺が謝罪している状況であり、いちばん下から皆を見上げる立場にある。
「それは気のせいだ。男同士だと、これくらいフランクなのが普通だろ?」
「うむむ、そっか」
トシは納得した。
トシにも自分が男であるというプライドはあるらしい。トシは心が乙女という性同一性の同性愛者ではなく、男でありながら男が好きという単純な同性愛者のようだ。
同性愛者の時点で単純ではないかもしれないが。
「よかったぁ。危うく知らない国に行かされるところだったわぁ」
突如として降ってきたおバカ発言は朱里である。全員が一瞬で朱里に注目した。
代表して俺が指摘する。
「いや、オクラホマはアメリカだから。アメリカ知らないわけないよね」
「それに、隼人が行くとしてもあなたが無理に行く必要はないのよ」
「うぐっ、ぐぬぬ……」
ブフッ、とトシと梓ちゃんが吹き出す。
朱里がキッと睨むと、トシも梓ちゃんもそっぽを向いて知らん顔をした。二人ともいまにも口笛を吹き出しそうな図太い態度である。
二人ともがその態度を取ったので、さすがの朱里も諦めたようで、あぐらの上に肘を立てて頬杖をつき、深い息を吐き出した。
「でも海外旅行なんてそうそう行く機会もないし、みんな本当は行きたいんじゃない?」
ちょっと、お姉ちゃん?
俺の墓穴を掘り返そうとしてません?
穴をほじくり返して、埋めたばかりの罪をひっぱりだそうとしてませんか?
しかし姉の表情を見ると、べつに悪だくみをしているふうではなかった。
姉の問いに梓ちゃんが神妙な面持ちで答え、それを姉が真面目な表情で聞く。
「修学旅行なんて、どこに行くかより誰と行くかのほうが断然大事だと思います。思い出って誰かと作るものでしょう? そりゃあ有名な観光名所や好きな景色を眺めるのも楽しいでしょうけれど、そういうのって一度見たら満足してしまいます。後から何度も思い出すような思い出は、友達と遊んだりはしゃいだりした楽しい経験のほうだと思うんです」
「梓、あなた、なかなか生意気言うじゃないの」
「ごめんなさい」
梓ちゃんの視線は狼狽の川を泳いだが、姉は微笑んでいた。
俺はいつも姉の笑顔を恐れているが、この笑顔は不思議と怖くない。慈しみのこもった優しい微笑。
それはめったに見ることができなくなった、姉の最も美しい表情だった。
「いいえ、あなたは正しいわ。思い出の価値観は人それぞれだけれど、あなたのような考え方の人は少なくないだろうし、その考えを持つあなたがその信念に従って取った選択は、少なくともあなたにとっては正しい選択よ」
梓ちゃんの顔に喜びが咲いた。
えくぼを作ったその上では、大きな瞳が輝きを増す。
「さすがはお姉様、私の師匠です」
姉はニコッと笑った。
仁愛者のようなその微笑は、姉がいつも笑面夜叉であることを失念させてしまう。
「でも、特別な状況で作る思い出は特別になるものよ」
特別な状況とは海外旅行のことだろう。
そりゃあ旅行に行ければそれに越したことはない。しかし行けないものは行けない。仕方のないことだ。
俺が希望したオクラホマだが、そのオクラホマに行くかどうかは梓ちゃんたちしだいだ。
俺は梓ちゃんたちに海外旅行を楽しんできてほしい。海外なんてそうそう行く機会もないものだ。きっと見聞も広められるし、俺がいなくたって梓ちゃんもトシも友達はたくさんいる。
いや、ちょっと待て。
姉はなぜ梓ちゃんの所懐を引き出し、それを認めた上で再び特別な状況を勧奨するような発言をしたんだ?
あ、姉の顔が、いつもの笑面夜叉に戻っている……。
「そういうわけで、風邪看病の実験計画はできるだけみんなが楽しめるよう深謀遠慮で練り上げておくから、連絡を待っていなさい」
「はい! 期待しています!」
期待すんな! 絶対に楽しめねーよ!
なぜか俺の部屋に五人もの人間がいる。
姉と俺と梓ちゃんとトシと、それと朱里である。
梓ちゃんと朱里の関係はいまだに最悪で、それなのにその二人が同じ部屋にいる。姉によって強いられた呉越同舟である。
姉を師匠と慕う梓ちゃん、姉の恐ろしさをその身をもって経験している朱里、双方とも姉の意向に逆らうことはできない。
姉に呼ばれたために、帰宅後すぐにうちに来たようで、彼らは皆が制服姿だった。おかげで俺も着替える暇がなく、姉も含めて全員制服である。
「吉村さん、君は隼人君を狙っているそうじゃないか。でもね、隼人君は渡さないからね」
トシが唐突に朱里に因縁をつける。
そういえばトシと朱里の関係も悪いままだった。
「はぁ? あたしがこいつのことを好きみたいな言い方すんじゃねぇよ」
「谷良内君、違うわよ。吉村さんが狙っているのは隼人君の貞操、ただそれだけよ」
朱里も梓ちゃんも目が若干だが吊り上っている。その前傾姿勢は臨戦態勢というやつだ。臨戦態勢に挟まれたトシは、オセロのごとく臨戦態勢へと移行した。
「なんだって⁉ 仮に吉村さんが隼人君の貞操を奪ったとしても、隼人君の心は僕が渡さないからね」
「駄目! 隼人君の貞操は私が絶対に守るの!」
カオス、カオス、カオス!
もうおまえら俺の名前を口にするな!
そもそも、なぜトシが懲りもせず姉に呼ばれるままうちに来ているかというと、それはなんと、姉がトシの小説を褒めたからである。
あの日、姉はトシの小説を読んだ。
姉は小説が存外面白かったらしく、トシを気に入ってしまった。
トシはトシで、自分の小説を賛美してくれる姉を慕うようになった。卑劣な罠にかけられたことがチャラになるくらい、小説を褒められたことは嬉しかったらしい。
あの小説のジャンルは官能小説であり、それはタイトルからも一目瞭然だったが、それを承知してもなお門前で引き返さずに踏み込むあたり、姉の器量と視野の広さをさすがと言わざるを得ない。
姉は食わず嫌いをやらない性質だ。偏見や先入観に囚われず、そういったものから生じる硬質な確執にも巧みに切り込んでいく。
「さて、与太話はそこまでにしなさい。私が皆を集めたのは、ある実験を遂行するためよ」
姉の馬鹿げたオリエンテーションには、引け目や気後れの類が微塵も感じられなかった。ガラス玉をダイヤモンドだと言ってうそぶくようなその図太い肝は、いったいどこで拾ってきたのだろうか。
しかも姉が魔法でも使ったのか、三人の客は愚かしくも馬鹿な実験に乗り気でいるようだ。
「僕は治りかけて元気な隼人君よりも、いちばん苦しんでいるときの隼人君を看病したいよ」
「それは駄目。私は見逃してないのよ。谷良内君が隼人君の貞操を狙っているという可能性をね。巷ではボーイズラブなるものが流行っていることは知っているんだからね」
梓ちゃん、ボーイズラブを好むのは腐女子と呼ばれる女の子たちだよ。トシは男だから大丈夫……と思ったが、トシは乙女成分のありそうな奴だった。
いや、だとしたら逆に大丈夫なのか? いやいや、トシ、まさかおまえ、都合のいい両性類じゃあるまいな?
「とんでもない。僕はピュアなんだよ。僕が狙っているのは貞操なんかじゃなく、心だよ」
「姐御、風邪のひきはじめって看病する必要あるっスか? やるなら風邪をひかせるところをやりたいっす。裸にひん剥くっスよねぇ?」
「ちょっと吉村さん! あなた、最低ね。隼人君に風邪をひかせたいだなんて。それに隼人君の貞操は狙わせないわ!」
いや、梓さん、実験に賛同している時点で同類ですよ。
姉の発想の異常性に気づいて姉の暴走を止めてください。
「うるせー。テメーから風邪ひかしてやろか?」
どんな脅しだ。朱里、ヤンキーの発言にしてはぬるすぎるぞ。
「吉村さん、忘れてもらっては困るわ。私にはあなたに対する切り札があるということを」
梓ちゃんが携帯電話の画面を朱里に見せつける。まるで「この紋所が目に入らぬか!」と言わんばかりの尊大な態度をぶつけている。
その画像を目に入れた朱里は、口を開いて呻きを詰まらせ、声を出す代わりに浜辺に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた。
「拝見」
姉がサッと梓の携帯を取り上げて画面に視線を落とす。
朱里だけでなく梓までギョッと目を見開いた。「見せるぞ」という脅しなのに、見られてしまっている。
「おいとましやす」
朱里が即座に立ち上がろうとするが、立ち上がれない。姉の人差し指が朱里の額を押さえていた。
指一本で人を制する技。これの原理は俺も知っている。椅子に座った人間は額を指で押さえられると立ち上がれないのだ。必要な重心移動ができないためである。
朱里は椅子には座っていないが、額を背中よりも後ろまで押しやられていて立てない。
「これはお仕置きが必要ね」
「ひぃいいいい! あたし、何されるっスか⁉」
「私の知り合いに勧誘活動が活発な宗教に入っている人がいるのだけれど、そこの宗教にあなたの名前で入信届けを出しておくわね」
「ちょっと、勘弁してくださいよぉ」
「大丈夫。最初は集会への誘いとかで家に何度も押しかけてくるみたいだけれど、三ヶ月くらい無視しつづけたら何も言ってこなくなるらしいわ」
それ誰の体験談? 嫌な話を聞いてしまった。
まあ、吉村家に対する勧誘活動は長くは続かないだろう。吉村兄がひと睨みすれば誰でも震え上がる。
「師匠、そろそろ私の携帯電話を返していただけませんか?」
梓ちゃんはいまだに額に汗を浮かべている。
姉が梓ちゃんの顔をじっと見ている。
梓ちゃんは自分も咎められるのではないかと不安なのだ、きっと。もし咎められるとしたら、それは梓ちゃんがその画像を姉にも隠して持っていたという点に尽きる。
「はい」
姉は簡単に携帯電話を梓ちゃんに返した。
セーフ。どうやらお咎めはないらしい。
でも姉のことだから、あとで梓ちゃんにその画像を自分の携帯電話にも転送させるだろう。俺の股間を朱里が鷲掴みにしているあの画像を。
「ねえ、僕にも見せてくれない?」
「駄目!」
トシはあっけなく弾かれた。梓ちゃんはすぐに携帯電話を閉じた。
朱里はトシを睨み、姉は冷ややかな目で一瞥してそっぽを向いた。
イケメンが女の子に冷たくあしらわれると、ちょっと気分がよくなってしまう。
「ところで、この中にオクラホマを希望した人っている?」
ちょっと! いきなりそれをぶち込みますか、お姉様。
心の準備ができてないのですが。俺のタイミングで謝罪させてくださいよ。
「はい!」
梓ちゃんとトシが早押しクイズみたいに我先にと手を挙げた。まっすぐピンと伸ばし、相手より上を取ろうと背筋をグイグイ伸ばしていく。
「あんたもでしょ?」
「あい」
姉の一瞥に、朱里がうつむいて小さく頷いた。
「あなたたち、なぜオクラホマを希望したの?」
「それはもちろん、隼人君がオクラホマに行きたがっていたからです」
トシが即答した。
男に尽くすタイプの女みたいなことを、この男は臆面もなしに言ってのける。
姉が梓ちゃんに視線を移すと、梓ちゃんは黙って頷いた。トシと同じ、ということだろうか。
さらに姉の視線がスライドし、朱里の番。
朱里は肯定しなかったが、否定もしなかった。つまりイエス、トシと同じ動機ということになる。
彼女の性格からしてノーと言いたいところだろうが、姉にへたな嘘は通じないこと、見栄を張る代償が高いことを朱里は知っている。
「みんな、ごめん……。俺は行けそうにないんだ。予算が足りなくて……」
こんな情けない謝罪を複数人の前でするなんて、罪の意識が吹き飛ぶくらいに恥ずかしい。下げた頭をもう上げたくないくらいだ。
「あ、そうなんだぁ。べつに謝ることないよ。隼人君は何も悪くないもの」
顔を上げて声の方向を見ると、そこには柔らかい笑顔があった。
梓ちゃんの優しさに感涙しそうになる。
加えて梓ちゃんは「隼人君が行かないなら私がオクラホマに行く必要はないから一緒に残る」とまで言った。
「ありがとう、梓ちゃん」
「そうだよ。僕はむしろ旅行で多人数の班に割り当てられて行動するより、旅行期間中の休みに地元で隼人君との思い出を作れるほうがいいから」
「ああ、ありがとな、トシ」
「あれ、僕のときだけ軽くない?」
それはおまえが勝手に俺をおまえのスケジュールに組み込んだからだ。
それを指摘したいところだが、いまは俺が謝罪している状況であり、いちばん下から皆を見上げる立場にある。
「それは気のせいだ。男同士だと、これくらいフランクなのが普通だろ?」
「うむむ、そっか」
トシは納得した。
トシにも自分が男であるというプライドはあるらしい。トシは心が乙女という性同一性の同性愛者ではなく、男でありながら男が好きという単純な同性愛者のようだ。
同性愛者の時点で単純ではないかもしれないが。
「よかったぁ。危うく知らない国に行かされるところだったわぁ」
突如として降ってきたおバカ発言は朱里である。全員が一瞬で朱里に注目した。
代表して俺が指摘する。
「いや、オクラホマはアメリカだから。アメリカ知らないわけないよね」
「それに、隼人が行くとしてもあなたが無理に行く必要はないのよ」
「うぐっ、ぐぬぬ……」
ブフッ、とトシと梓ちゃんが吹き出す。
朱里がキッと睨むと、トシも梓ちゃんもそっぽを向いて知らん顔をした。二人ともいまにも口笛を吹き出しそうな図太い態度である。
二人ともがその態度を取ったので、さすがの朱里も諦めたようで、あぐらの上に肘を立てて頬杖をつき、深い息を吐き出した。
「でも海外旅行なんてそうそう行く機会もないし、みんな本当は行きたいんじゃない?」
ちょっと、お姉ちゃん?
俺の墓穴を掘り返そうとしてません?
穴をほじくり返して、埋めたばかりの罪をひっぱりだそうとしてませんか?
しかし姉の表情を見ると、べつに悪だくみをしているふうではなかった。
姉の問いに梓ちゃんが神妙な面持ちで答え、それを姉が真面目な表情で聞く。
「修学旅行なんて、どこに行くかより誰と行くかのほうが断然大事だと思います。思い出って誰かと作るものでしょう? そりゃあ有名な観光名所や好きな景色を眺めるのも楽しいでしょうけれど、そういうのって一度見たら満足してしまいます。後から何度も思い出すような思い出は、友達と遊んだりはしゃいだりした楽しい経験のほうだと思うんです」
「梓、あなた、なかなか生意気言うじゃないの」
「ごめんなさい」
梓ちゃんの視線は狼狽の川を泳いだが、姉は微笑んでいた。
俺はいつも姉の笑顔を恐れているが、この笑顔は不思議と怖くない。慈しみのこもった優しい微笑。
それはめったに見ることができなくなった、姉の最も美しい表情だった。
「いいえ、あなたは正しいわ。思い出の価値観は人それぞれだけれど、あなたのような考え方の人は少なくないだろうし、その考えを持つあなたがその信念に従って取った選択は、少なくともあなたにとっては正しい選択よ」
梓ちゃんの顔に喜びが咲いた。
えくぼを作ったその上では、大きな瞳が輝きを増す。
「さすがはお姉様、私の師匠です」
姉はニコッと笑った。
仁愛者のようなその微笑は、姉がいつも笑面夜叉であることを失念させてしまう。
「でも、特別な状況で作る思い出は特別になるものよ」
特別な状況とは海外旅行のことだろう。
そりゃあ旅行に行ければそれに越したことはない。しかし行けないものは行けない。仕方のないことだ。
俺が希望したオクラホマだが、そのオクラホマに行くかどうかは梓ちゃんたちしだいだ。
俺は梓ちゃんたちに海外旅行を楽しんできてほしい。海外なんてそうそう行く機会もないものだ。きっと見聞も広められるし、俺がいなくたって梓ちゃんもトシも友達はたくさんいる。
いや、ちょっと待て。
姉はなぜ梓ちゃんの所懐を引き出し、それを認めた上で再び特別な状況を勧奨するような発言をしたんだ?
あ、姉の顔が、いつもの笑面夜叉に戻っている……。
「そういうわけで、風邪看病の実験計画はできるだけみんなが楽しめるよう深謀遠慮で練り上げておくから、連絡を待っていなさい」
「はい! 期待しています!」
期待すんな! 絶対に楽しめねーよ!
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長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
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