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第三章 この私が……
最終話
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訊きたいことを訊いて確認を終えた佐藤優子は、この私を残し取調室を出ようとした。
「理は帰ってこないし、刑事さんと交代しますね」
この私を焦燥が襲う。
このまま退席されると、この私はこやつを殺せなくなるではないか。
いますぐに背後から飛びかかるか? 彼女は強いらしいが、不意を突けば男の力で捻じ伏せられないはずがない。
そうして彼女を殺せたとして、この私はどうなるだろうか?
拘束されるだろうか?
船橋を殺す機会を永遠に失ってしまうだろうか?
いや、そもそも二人ともを殺すなんて現実的ではない。殺せるとしてもどちらか一人だ。
どちらを殺すのがいいか。おまえたち、おまえたちはどちらがいいと思うかね?
一人を殺せば、夫婦なのだからもう一人に絶望を味わわせられるだろう。どちらか殺せればいい。
どちらを殺したほうが、船橋夫妻にとって、船橋探偵事務所にとって、ダメージが大きくなるか。
それは船橋理だろう。彼は社長だし、探偵力もあるし、女のほうが感情の変動が大きくパートナーを失う絶望も深くなる。そうに決まっている。
だが、いまは佐藤優子を殺せる絶好のチャンスだ。
どうする? いま動くか?
佐藤優子はいま、扉に向かっていてこの私に背を向けている。
この私は椅子の音を殺してそっと腰を上げた。
そのとき、扉をノックする音がした。コンコンコンと三回、素早く鳴った。
当然ながら佐藤優子が音源ではない。
「はい」
佐藤優子は返事をすると同時に扉を開けた。
この私はひとまず腰を降ろした。
「やあやあやあ、どうもどうも」
暢気なかけ声とともに取調室に入ってきたのは、この私の宿敵、船橋理であった。
いま、二人がそろった。
二人ともを殺せるチャンスだ。
問題は二対一でこの私が不利ということだ。
しかし、部屋に入ってきたのは船橋だけではなかった。見知らぬ男がキョロキョロしながら船橋の後にくっついてきた。
ささやかに穴の開いたジーパンの上にくたびれたシャツをだらしなく垂らし、そのみすぼらしさをボサボサの髪と垂れ目が引き立てている。
凡夫の中の凡夫だ。
いや、凡夫の中でも下の下だろう。
金の腕時計が似合わない。
誰なのだ、こやつは。
「あんたがここに来たってことは、カノンは捕まえたの?」
「ああ、もちろんさ」
船橋はそれを誇る様子もなく、佐藤優子の肩越しにこの私を覗き見た。この私は不快感をあらわにするが、奴はそれを意に介すことなく、気安く声をかけてきた。
「日暮さん、朗報です」
「ほう、何だね?」
船橋はさすがに疲れている様子だったが、朗報を開示する喜びのためか、表情は穏やかだった。
「あなたが目を切った刑事の容態ですが、失明は免れました。切れたのは目蓋だけで、眼球は傷ついていなかったそうです」
船橋理はそう前置きすると、この私の顔をうかがった。
対するこの私は、船橋理が朗報とやらを謹告するのを待ったが、彼には言葉をつなぐ気配がなかった。
「まさか、朗報とはその報告のことかね? それは貴様にとっての朗報であろう?」
「あなたにとっては違うのですか?」
「違う。断じて。責任を感じていた貴様には朗報になるのかもしれぬが、この私はそれを聞いても失意しかない」
「そうですか。残念です」
そう言った船橋理の顔は、それほど残念そうには見えなかった。
この私の返答を多少なりとも予測していたのかもしれぬ。
そんなことより、船橋の肩越しに見える新参者の男はいっこうに落ち着く気配がない。この私が睨むと、垂れ目をいっそう垂れさせて怯んだ。
「船橋理。そんなことより、そやつは誰だ?」
船橋がそやつのことを、この私が殺した女の彼氏だと紹介した。
この私は平静を装いつつも、心内では凝固していたハラワタが融解を通り越して、一瞬にして沸騰、昇華、爆発した。
この私はこんな凡夫野郎のお古を掴まされたというのか。
そんな中古のくたびれ女にひどい侮辱の言葉を浴びせられたというのか。
殺す。殺してやる。絶対に殺さなければならない。
許さない。決して許されることではないぞ!
この私の静かなる激昂に気づかず、船橋はさらに、その帆立治弥という男にこの私のことを馬氷鷹子の殺害犯だと紹介した。
それを受け、帆立治弥はあろうことか、この私に向かって舌打ちしてガンを飛ばしてきた。
なんということだ。
非礼、無礼、不遜、不敬!
なんたる愚挙!
ただ殺すだけでは済まさぬ。
絶対に許さぬ。
「日暮さん。帆立さんはね、あなたに謝罪を求めているのですよ。本来はこんな場を設けるなんて絶対にしないことなのですが、彼がどうしてもと言うものですからね」
さては船橋、こやつに懇意にすることで、その父親の政治家に近づこうという腹か。
警察もこやつの父親が大物だから要望に答えざるをえなかったか?
この私を舐めきっている。
この私の危険性よりも、こやつの父親の権力のほうが大きいということなのだろう?
「よく分かった。帆立とやら、そこに座りたまえよ」
この私の言い方に腹を立てているのか、あるいは女を殺された憎しみか、帆立治弥はひどく険しい顔をしてこの私の正面に腰を落とした。
この私がその不遜なる咎者をどう処断してやろうかと眺めていると、そやつは突然ビクッと体を震わせ、慌ててこの私から視線を逸らした。
どうしたというのだ。
この私はべつに睨み返してなどいないというのに。
「日暮さん、彼を殺す気ですか?」
「なんだって?」
「品定めすべく細められた眼と、嬉しそうに綻ぶ頬。睨まれて見せる顔ではありませんね。普通は睨み返したり視線を逸らしたり、あるいは驚き戸惑うところでしょう。あなたは己の内に生じた殺意を当然のように肯定し、旅行先を選ぶ感覚でどういう殺し方がいいかを思案している。そんな表情をしていました。犯罪に対する素人でさえ、直感的に恐怖して身を引いてしまうほどの醜悪な表情ですよ」
もはや船橋理の戯言などどうでもよい。問題は目の前の三人をどうやって殺すかだ。
さすがのこの私でも、一対三ではどうにも分が悪い。
ああ、どうするか。おまえたちならどうするね?
ああ、言っておくが、おまえたち凡夫どもの意見などアテにはしていないのだよ。どうせこの私より優れた考えが浮かぶ者などおるまい。
この私は自尊心を削ってでも必ず三人ともに制裁を加える手立てを即座に考え実行に移した。
「船橋、佐藤、貴様らは少し下がっていろ。貴様らに上格者たるこの私の謝罪の言葉を聞く権利はないし、聞かせるつもりもない。この私がこの男に謝罪することを願うなら、我々から距離を取りたまえ」
帆立治弥の背後に立つ二人の探偵は、ポーカーフェイスの中に訝しむ瞳をたたえていたが、帆立治弥が望み、それを受けて二人は互いに頷き合って後退した。
さすがに部屋からは出なかったが、部屋の奥端の壁際で並んだ。
この私は帆立治弥に顔を近づけるように促し、この私は声が拡散しないよう口に手を添えた。
そして、目の前の耳に呪詛の言葉を流し入れる。
「心して聞け。真実を話す。驚くだろうが平静を装え。おまえは騙されている。おまえもこの私も、ともに奴の策謀にはめられているのだ。おまえの女を殺したのはこの私ではない。船橋理だ」
瞬間的に極限まで見開かれた眼がこの私を直視した。
それから背後に振り向きかけたものの、どうにか思い留まった。
彼なりに平静を装っているつもりだろうが、驚愕の度合いが制御を超えていたのだろう。
彼のその様子を見た船橋たちの反応をうかがいたかったが、そこはこの私もグッと堪えた。
「本当なのか? でも、そんなこと――」
帆立治弥の憚らない疑問をひと睨みして殺し、再び耳をよこすよう合図した。
「真実を知ったことを真犯人に悟られるな。この私は決して奴を許さない。貴様も許すな。世のために、何よりも自分のために、奴を許すな。奴は人を殺しておいて被害者遺族を騙すような最低最悪の人間だが、警察を取り込んでいて法的裁きは望めない。だから直接手を下すしかない。この私が貴様に協力する。だから貴様もこの私に協力しろ。いいな?」
「でも、僕は何をすれば……」
殺しきれていない声に被せて、この私は帆立治弥に簡単な指示を出した。
「敵は二人だ。この私を妨害する者を妨害しろ。この私が船橋に飛びかかったら開始だ。手段は任せる」
「分かった」
帆立治弥。こやつが馬鹿で助かった。なんたる僥倖。
しかし、そのとき――。
――コンコン。
扉をノックする音。敵が増えるであろう絶望の音色。
帆立治弥が瞳に焦りの色を満たしてこの私を一瞥するが、この私は「我慢しろ」と眼で訴えた。
船橋理と佐藤優子、この二人のツワモノを殺すには虚を衝かなければ駄目だ。
ガチャリとドアノブか捻られる。
誰かが返事をする前に何者かが部屋へ入ってくる。
ピシッとオールバックに決めた吊り目の男だった。スーツの上からでも彼の肉体が鍛えられていることが分かる。
この私が見たことのない人間。おそらく刑事だろう。左手に白い手袋をしているが、証拠品の確認でもしていたのだろうか。
なんにせよ、せっかく二対二に持ち込めたというのに、敵が一人増えてしまった。
否、一人ではない。男の後ろにもう一人男がいる。
どう見ても刑事ではない。ヨレヨレの白シャツに鼠色のチノパン姿は囚人服を想起させる。まるで囚人服がないので代用品で済ませたかのような格好だ。
その男は刑事の肩越しに船橋理を睨んでいた。
乱れた頭髪の下に潜むその視線には殺意がこもっていたが、恨みや憎しみによるものではなく、むしろ使命感に近いもののように感じられた。
対する船橋理は、刑事の肩から覗く目を見てひどく驚愕していた。奴がこれほどまでに平常心から外れた姿を見せるのは初めてのことだ。
つまり刑事の後ろの男は決してここにいてはならない存在。
間違いない。カノンだ。刑事の後ろの男はカノンなのだ。
以前この私が直接会ったときのカノンは黒ずくめで顔が分かりにくかったが、なんとなく雰囲気は似ている。いまの格好も武装を解除させられているのだ。
刑事の肩越しに宿敵を睨んでいたカノンは、その目をこの私の方へと向けた。そして視線を落とす。
それはこの私に下を見ろと言っているようだった。
だからこの私は視線をカノンの顔から少しずつ下げていった。腰の辺りにカノンの両手があった。手錠がかけられ、前方に拘束されている。
――否、ちょっと待て! 手錠がちゃんとかかっていない!
どういうことだ? 刑事の目を盗んで開錠したのか?
背後から刑事を襲えたはずだし、逃亡もできたはずだが、この私という味方を加えるために、刑事に従ってこの密室へとやってきたというのか?
もしや、カノンも手段を選ばず船橋理を殺したいということか?
その後、自分がどうなろうとも船橋理を殺したいということなのか?
カノンからすれば、この私と組めば船橋理と佐藤優子と刑事の三人を敵にしても勝てる見込みがあるということか?
――否! そうじゃなかった!
「荒木さん、なぜカノンを連れてきたんですか!」
そう言った船橋の表情が、荒木と呼ばれた刑事の左手を見た瞬間に失望の色を見せた。
しかしすぐに目つきが変わった。
これはあのときの目だ。バスの中でこの私を捕らえんと迫ってくるときの鋭い目だ。
船橋理が手の甲で佐藤優子の肩をポンと叩いた。
「分かってる」
佐藤優子は小声でそうつぶやいた。
カノンを連れてきた荒木刑事はカノンとグルなのだ。
カノンの手錠はこの部屋に入る直前に荒木刑事によって開錠されたもの。
この刑事が左手に手袋をつけているのは、おそらく、小指が義指だからだ。この刑事はカノンに殺人を依頼して小指を支払ったから、それを隠しているに相違ない。
敵は二人。味方は四人。
形勢大逆転。
あとは帆立を懐柔していることをカノンたちにも知らせなければならない。
「帆立治弥、さっき言ったことを覚えているな?」
この私は帆立治弥にそう囁いた。それからカノンに頷いてみせた。
いまのでこの場にいる全員がこの私が帆立を取り込んだことを悟っただろう。
一触即発。
六人の人間がカミソリのように鋭いカードのトランプタワーを一枚ずつ支えているような状況だ。
誰が最初に手を離すのか、どのタイミングで離すのか、タワーがどういう崩れ方をして誰の手を切り裂くのか。
残念ながらこの私には読みきれない。
船橋理とカノン、それから佐藤優子と荒木とかいう刑事も、四者四様に互いの挙動を警戒し読み合っている。
この私はカノンが動いたら動くと決めた。
標的は船橋理、ただし臨機応変に佐藤優子をも狙う。
帆立はこの私の邪魔をする者を邪魔するだけだ。
「おやおや、船橋探偵ともあろうお人が、なぜ彼を連れてきたかお分かりでないのですか?」
荒木刑事は白々しい表情で船橋理へとにじり寄っていく。
カノンも荒木刑事の背中で開錠された手錠を隠したまま前進する。
「さあ、さっぱり分かりませんね。ところで日暮さん。あなた、カノンに会うのは何度目です?」
突然の問いかけに、この私は戸惑った。
緊張感が増す。
船橋理、この私に話を振って何を企んでいる?
この状況を覆せる算段があるとでもいうのか?
面白い。乗ってやろうではないか。
「一度目だが、それが何だね?」
船橋理は視線を荒木刑事から離さない。
しかしその表情はこの私の言葉に反応して少し歪められた。
「日暮さん、あなたはカノンに会うのがこれで二度目だと思っているでしょうね。でも、実は違うんですよ。あなた、彼とはもう何百回も会っているんですよ!」
「なんだと⁉」
そんな馬鹿な話があるか。
船橋理はこの私を戸惑わせようとしているだけだ。
こやつの話はいつも突飛すぎる。
「船橋さん、何の話をしているのです? いまはそんなこと、どうでもいいではないですか」
荒木刑事が船橋の話を流そうとしている。彼は何か知っているのか?
「日暮さん、あなた、学生時代には友達がいなかったそうですね。たった一人の親友を除いては。鬼山銀弥。その名前だけは覚えているでしょう? その人、いまこの部屋にもいるんですよ」
カノンが、鬼山銀弥?
それが事実だとしたら衝撃的だが、しかし顔が違う。たしかに声が似ているとは感じたが、顔がぜんぜん違うのだ。
だが、彼はプロの殺し屋だ。顔の整形に躊躇はないということか?
「そうだとして、それがどうしたというのだ?」
船橋理の顔は、ひきつったままニヤッとさらに形を崩した。
「あなたは親友から小指を奪われようとしているんですよ。それって本当に親友なんですかねぇ。親友だと思っていたのはあなただけだったようですよ」
大丈夫だ。この程度の煽りでこの私が動揺などするものか。
しかしカノンはこの私が憤るとでも思ったか、慌てて弁明をした。
「おい、惑わされるな。これはビジネスだ。誰であろうと支払い方法に例外はない」
「荒木さんには二度目の支払いを免除するのに?」
無駄だ。そんな挑発でこの私が怒りの矛先を変えるとでも思っているのか?
いや、違う。
奴のそもそもの狙いがカノンなのだ。
カノンにこの私が揺らいでいるかもしれないという不安を抱かせるのが目的だ。
そしてカノンが動揺すれば、荒木刑事も動揺する。
「おい」
荒木刑事が少し後ろを振り返ってカノンに呼びかけた。
だが、その瞬間に船橋理が動いた。
奴の渾身の一撃が荒木刑事の顎に入った。
荒木刑事はデスクに両腕をデロンと投げ出すように倒れた。意識は失っていないが、まともに立つことすらできないだろう。
「やりやがったな!」
この私から見て、カノンに動揺はなかった。彼が本当に鬼山銀弥ならば、この私の性質を熟知しているはずだ。この私がこの程度の煽りで本来の目的を見失うはずがない。
だが、荒木刑事は背後にいるカノンの様子を見ることができない。この私がたぶらかされてカノンが動揺しているのではないかと、荒木刑事が不安になったのだ。
船橋理の狙いは最初からそれだったのだろうか。それはさすがに信じがたいことだが、こうして出し抜かれたのは事実だ。
戦力が一人減ったが、まだ三対二だ。
だが、帆立治弥はなぜ傍観している? 突然荒木刑事が倒れてきたために、驚きんのあまり思考が飛んだか?
否、そうじゃない。彼はこの私を妨害する者を妨害するという話だった。この私が動かなければ、この馬鹿正直な愚か者が味方としての役割を果たさない。
この私が動くしかない!
「なんてことをするのだ、船橋! 気でも振れたか!」
この私は荒木刑事を心配するフリをして、船橋のいる側からデスクを迂回する。
船橋の前を通りすぎる際に、奴の顎を狙って思いきり肘を打ち上げる。
「――ッ!」
かわされた。予見されていた。
だが、かすった。
少なからず動揺しているはずだ。
この私は即座に引いた肘を、今度は水平に繰り出した。トマホークと化したこの私の肘は、船橋の脇腹に突き刺さった。
いまなら船橋の怯みが大きいはず。次はちゃんと正面を向いて全力の拳をぶち込んでやる。
だが佐藤優子が黙って見ているはずがない。
この私は背中を瞬間的な強い力で押され、前につんのめった。
流木のように転がっている荒木刑事の足につまずき、この私は両手を床に着いた。
「えいやぁああああ!」
その咆哮は帆立のものだった。
佐藤優子も彼がこの私に惑わされていると気づいていたはずだが、彼の動きはじめるタイミングがあまりに唐突だったために遅れをとったようだ。
帆立治弥がラグビー選手のタックルのごとく両手を広げて佐藤優子の腹に突撃した。
「うっ……!」
船橋理がフリーになった。
佐藤優子は二、三秒で帆立治弥をいなして復帰してくるだろう。
この刹那のチャンスを逃してはならない。
しかし荒木刑事はデスクに、この私は床に両手を着いている状態だ。このままでは船橋を仕留めるチャンスを逃してしまう。
いま動けるのはカノンのみ。
そのカノンは船橋から最も遠い所にいる。間にこの私と荒木刑事がいてすぐに船橋に接近できない。
この私が見上げるカノンは、もどかしそうな視線を船橋からこの私に移した。
それはこの私と同じことを考えている目なのか分からない。
だが違っていたとしても、この私の動きを見て気づかないほど鈍いわけがない。
この私は即座に頭を下げた。四つん這いになったこの私の背中を踏んでいけということだ。
そうすれば、合わせて高さの優位も取れる。
「借りるぞ、日暮!」
カノンの体重を背中で受けとめたこの私は、彼の足が離れる瞬間まで体を硬くしていた。
自然と猫背になり、そのまま後方の光景に視線を馳せる。
カノンはこの私の背中から飛び出したその右脚を、そのまま船橋理へと突き出した。
プロの殺し屋の強烈な跳び膝蹴りが船橋理を襲う。
船橋は両腕を交差してガードしたが、そのまま後ろの壁に叩きつけられた。頭を打ちつけないように顎を引いていたが、その分、カノンの膝の衝撃がもろに伝わっただろう。
いま、船橋理の表情は痛みにより極限まで歪んでいる。
そして、船橋理が崩れる。重力に抗う力を失って、背中を壁に擦られながら床に尻を着いた。
あとはカノンがありったけの力で船橋を殴り殺すだけだ。
カノンが弓を引き絞るかのように拳を振り上げ、渾身の一撃を打ち下ろす。
「あぅっ!」
船橋理の頭部には、カノンの拳よりも先に佐藤優子が飛びついていた。
カノンの重い打撃は佐藤優子の背中を打ちのめしていた。
その光景は、この私の心をも打ちのめした。
この私のことをあれほどコケにしたあの女が、この私の宿敵をその身を挺してかばったのだ。
ほんの数秒の延命にしかならないだろうに、自分自身が大きな戦力のはずなのに、佐藤優子は船橋理を全力で、命がけでかばったのだ。
この私の腹に据えられた鍋に火が入った。一瞬で煮え湯となり、弾ける泡がどす黒い空気を吐き出す。
「先におまえからだ!」
カノンが再び拳を振り上げる。彼の強靭な拳は金槌にも等しい破壊力がある。それを打ち下ろせば終わりだ。
だが、カノンの肩に手を置いて、この私が止めた。
「俺にやらせろ」
カノンがこの私を一瞥した。
その瞬間は鋭さを残したまま怪訝そうな目をしていたが、刹那のうちに彼の表情は変貌した。
それは驚嘆か、恐怖か、大きく見開かれた瞳に半開きの口が、彼の溜めた力を消失させたことを知らしめた。
この私はそんなにも醜悪な表情をしているか?
そんなことはどうでもいい。
この私が船橋理と佐藤優子を直接ぶち殺せればそれでいい。
「ぐっ!」
この私を見ていたカノンの顔が再び変貌した。
痛覚に支配された顔だ。
下方を見ると、カノンの脛に船橋の踵が打ち込まれていた。
この私がもう一度カノンの顔を確認すると、彼の意識はすでに標的へと向かっていた。
痛みに顔を歪めながらも、何がなんでも標的を討つという強い意志を瞳に宿している。
「下がっていろ、カノン! この私がやると言っているのだ!」
この私はカノンの肩を引いて半ば強引に下がらせた。
船橋理の踵がこの私の脛を狙って飛んでくる。
予見していた。
いまの船橋にはそれしかできないのだから。
「ぐわああぁッ!」
船橋の悲鳴。この私は脛を狙われた脚を引き上げて、そのまま船橋の足を踏みつけた。
渾身の力でくるぶしを二度三度と踏みつけた。
そして佐藤優子の頭部にこの私が踵を突き入れる。
「うぐっ!」
手応えが違う。
船橋の手が佐藤の頭をかばっていた。右手が頭を守り、左手が首を守っていた。
「しぶとい! 往生際が悪い! クソのゴミの凡夫の分際でぇええええッ!」
この私は拳に力を込めた。
いまなら火事場の馬鹿力が出せる気がする。
どんなに硬い鎧だろうとぶち破れる気がする。
この一撃で、二人まとめて殺せる気がする。
「死ねぇええええええ!」
この私の神聖なる鉄槌が絶対の審判を下す。
「ぐぇえあああっ!」
その悲鳴はあまりにも素っ頓狂で下品なものだった。
それは痛みに慣れていない甘ったれの悲鳴。
船橋ではないし、佐藤でもない。
「何をしている、おまえぇええええ!」
この私の聖域に異物が飛び込んできたのだ。
帆立治弥。
船橋理を仇だと信じているはずなのに、なぜ彼らをかばったのだ。
帆立が佐藤に飛びかかったときに、彼女にほだされたというのか。
しかし彼女にそんな余裕はなかったはずだ。
この私の拳に背中を打ちのめされた帆立治弥が、佐藤優子の上でぐったりしたままこの私を見上げる。
「やめろ……。こんなにも美しい女性を殺そうとするなんてどうかしている。鷹子の仇討ちにこの女性を巻き込むな……。奇跡を破壊するな……」
さすがのこの私も、開いた口が塞がらなかった。女垂らしのゴミクズに邪魔をされるとは。
だが元々はコイツも始末する予定だったのだ。三人ともみんな殺してやる!
「まずはおまえからだ!」
この私は帆立治弥の頭髪を鷲掴みにし、拳を引き絞った。
一撃で仕留めてやる。
この怒りの感情がなければどんなに快感なことだろう。
いや、この怒りゆえの快感か。
上格者たるこの私は、凡夫の中でもとりわけクズな部類の奴を始末するのだ。
清掃は気持ちがいい!
正義の制裁は気持ちがいい!
格の違いが証明されるのは気持ちがいい!
気持ちいい。
気持ちがいい。
凡夫なる人間を殺すのは、清々しくて、気持ちがいい!
そして、この私は最大の力で拳を打ち込んだ。
「あぐぅっ!」
左手に激痛が走る。じんわりと痛みが増していく。痛い。痛い! かなり痛い!
この私の右拳が自分の左手首に入ってしまった。帆立治弥の頭部を狙ったはずなのに、その頭部を掴んでいる自分の左手首を打ってしまった。
「ふっ……」
船橋の小さな吐息が漏れ聞こえた。
それは安堵か、嘲笑か。
下を見ると、帆立治弥に船橋理と佐藤優子がすがりついていた。
二人の力で帆立治弥をひっぱり、この私の拳の軌道上から外したのだ。おかげで左手がひっぱられて、そこに拳が入ってしまったわけだ。
この私の視線が帆立治弥を引く船橋の手を辿り、その顔を確認する。
奴は笑っていた。
嘲笑ではない。不敵な笑み。奴の憎たらしさを倍増させる表情。
奴のその顔が語るのは、まだ諦めていないということと、まだ策があるということ、あるいは、いくらでも策を瞬時に捻り出せるという自信。
「この私としたことが、順番を間違えた! 貴様からだ!」
この私は帆立治弥の体を佐藤優子の側へと押し倒した。
満身創痍かつ無理な体勢の佐藤優子にはそれを支えることができない。
帆立治弥が佐藤優子を道連れにして床に倒れた。
さらに、帆立治弥にひっぱられて船橋理もうつ伏せ状態に倒れた。
これほどの好機があるだろうか。
この私が船橋理を殺す。彼に苦汁をなめさせられてきた数多の犯罪者たちも、この私を英雄として称賛するだろう。
この私は上格者として崇め奉られるべき人間だ。
「船橋理。待たせたな。いま、まさにこの瞬間、格の違いというものを見せつけてやるぞ!」
この私はデスクと壁に手を着いて体を支え、右脚を後方へ振りかぶった。
いまの船橋理の体調と体勢からはまともな防御もできない。一発入れれば内臓を破壊できる。
その後、なぶり殺す!
「日暮さん、どうやら待たせすぎたようですね」
こんな状況でも船橋は不敵に笑った。
バカバカしい。奴には何もできない。
へたに腕で防御しようとしても骨を折るだけだ。
だがそのとき、バタンと勢いよく扉が開け放たれ、無数の足音がなだれ込んでくる。
刑事たちが我々の暴動を止めにきたのだ。
刑事たちの突入は遅かったようにも思えるが、ここまでの攻防があっという間の出来事だったのだ。タイミングとしては順当。想定はしていた。
船橋は刑事たちの気配を察知して笑ったのか?
だったら間抜けだ。奴らがこの私を取り押さえる前に始末をつけてやる!
二発あれば十分だ。一発目は船橋理の横っ腹への蹴り込み、二発目は顔面への踵による踏みつけ。
「凡夫ッ!」
この私の足が船橋理の胴に直撃する。
ただ、船橋はとっさに体の向きをかえて正面から受けた。つまり、横っ腹ではなく腹だ。
防弾チョッキは着ていない。腹に力を込めただけ。ただただ横よりも正面のほうが少し防御力が高くなるというだけのこと。
「取り押さえろぉおおおっ!」
二発目は無理だった。いずれにしろ一発目を軽減されては二発目も防御されかねない。二発では足りない。
「クソッ、この私は貴様に及ばなかったというのか!」
この私の肩を、手を、頭を、脚を、ピラニアの群れみたいに強靭な手が掴んでいく。
デスクに押し倒され、体重をかけられ、腕を捻られる。
いかにこの私が上格者であろうとも、一人の力ではどうにもならない。
船橋理は立ち上がった。
腹を押さえているが、立ち上がれるだけの余力が残っているのだ。
「今回もギリギリでした。私が未熟だから犯罪者たちに野望や希望を抱かせてしまう。私が師のように抑止力すら有する名探偵になれたなら、犯罪者にならずに済んだ人もいたのでしょう」
「この私を凡夫どもと一緒にするな! この私はたとえ名探偵の織田公平が探偵界に健在していたとしても殺人者になっていた。とっさに殴り殺してしまったのだからな!」
この私にのしかかる体重は、この私を窒息死させようとしているのかと思えるほど重かった。二人か三人がかりでこの私を押さえ込んでいるようだ。
船橋理が息遣いを荒くしているこの私を哀しげな目で見据えている。
「日暮さん、カッとなって理性を見失ってしまう人が、本当に上格者といえるんですか?」
「高みに立って吐ける暴言は、さぞかし気持ちがよかろうな!」
「そういうつもりは……いえ、たしかに不要な発言でしたね。ただ、日暮さん、いまさら無意味なことかもしれませんが、一つだけ助言をさせてください」
「この私に助言だと? 思い上がりも甚だしい! つけあがるなよ、凡夫が!」
船橋理はふふっと笑った。
何が愉しいのか。
この私の演じる道化っぷりがあまりにも滑稽で吹き出したか?
なんたる侮辱!
屈辱だ!
「まあ、戯言としてでもいいので聞いてください。日暮さん、あなたはもう少しだけ他者を認めてもいいんじゃないですか? さっき、あなたは凡夫どもと一緒にするなと仰いましたが、私が戦ってきたみなさんは本当に狡猾で腕っ節もあって強敵ばかりでした。彼らは決して人として認められるような人間たちではありませんが、私は敵としては認めているというか、一目置かされる人ばかりでした。カノンもそうですし、日暮さん、あなたのこともそうです」
この私には、奴に返す言葉が見つからなかった。
何か奴が失意、落胆するような気の利いた一言を言ってやりたい。
そう考えを巡らせていると、荒々しく品のない咳払いが、この私と船橋の間に投げ込まれた。
「そろそろよろしいですかな」
船橋が返事をするのも待たず、この私はガッチリと腕を背後に固められて部屋から連れ出された。
荒木刑事とカノンはとっくに消えていた。先に連れ出されたのだ。
この私と入れ替わりで入った刑事たちが帆立治弥と佐藤優子の容態を確認している。
船橋理は最後に声をかけられていた。その当人は、遠ざかるこの私のことをいつまでもジッと見据えていた。
船橋理は勝ち誇った顔をしていないが、しかし奴が今晩ぐっすり安眠するのだろうと思うと腹が立つ。
この私は奴に、最後の一撃として言葉の爪跡を残す。
「おい、船橋理! この私は決して諦めないぞ。何がなんでも自由を得て、かならず貴様を屠りにいくからな! 覚悟しておけ!」
これで奴の安眠くらいは妨害できただろうか。
しかし、船橋理の眉目秀麗な顔が怜悧さを廃し、ニッと笑った。
楽しそうに笑っている。
「日暮匡さん、お待ちしていますよ!」
……完敗だ。
だが、不思議と悪い気はしなかった。
いつかかならず殺しにいってやろう。
船橋理を殺すのは、この私だ。
―おわり―
「理は帰ってこないし、刑事さんと交代しますね」
この私を焦燥が襲う。
このまま退席されると、この私はこやつを殺せなくなるではないか。
いますぐに背後から飛びかかるか? 彼女は強いらしいが、不意を突けば男の力で捻じ伏せられないはずがない。
そうして彼女を殺せたとして、この私はどうなるだろうか?
拘束されるだろうか?
船橋を殺す機会を永遠に失ってしまうだろうか?
いや、そもそも二人ともを殺すなんて現実的ではない。殺せるとしてもどちらか一人だ。
どちらを殺すのがいいか。おまえたち、おまえたちはどちらがいいと思うかね?
一人を殺せば、夫婦なのだからもう一人に絶望を味わわせられるだろう。どちらか殺せればいい。
どちらを殺したほうが、船橋夫妻にとって、船橋探偵事務所にとって、ダメージが大きくなるか。
それは船橋理だろう。彼は社長だし、探偵力もあるし、女のほうが感情の変動が大きくパートナーを失う絶望も深くなる。そうに決まっている。
だが、いまは佐藤優子を殺せる絶好のチャンスだ。
どうする? いま動くか?
佐藤優子はいま、扉に向かっていてこの私に背を向けている。
この私は椅子の音を殺してそっと腰を上げた。
そのとき、扉をノックする音がした。コンコンコンと三回、素早く鳴った。
当然ながら佐藤優子が音源ではない。
「はい」
佐藤優子は返事をすると同時に扉を開けた。
この私はひとまず腰を降ろした。
「やあやあやあ、どうもどうも」
暢気なかけ声とともに取調室に入ってきたのは、この私の宿敵、船橋理であった。
いま、二人がそろった。
二人ともを殺せるチャンスだ。
問題は二対一でこの私が不利ということだ。
しかし、部屋に入ってきたのは船橋だけではなかった。見知らぬ男がキョロキョロしながら船橋の後にくっついてきた。
ささやかに穴の開いたジーパンの上にくたびれたシャツをだらしなく垂らし、そのみすぼらしさをボサボサの髪と垂れ目が引き立てている。
凡夫の中の凡夫だ。
いや、凡夫の中でも下の下だろう。
金の腕時計が似合わない。
誰なのだ、こやつは。
「あんたがここに来たってことは、カノンは捕まえたの?」
「ああ、もちろんさ」
船橋はそれを誇る様子もなく、佐藤優子の肩越しにこの私を覗き見た。この私は不快感をあらわにするが、奴はそれを意に介すことなく、気安く声をかけてきた。
「日暮さん、朗報です」
「ほう、何だね?」
船橋はさすがに疲れている様子だったが、朗報を開示する喜びのためか、表情は穏やかだった。
「あなたが目を切った刑事の容態ですが、失明は免れました。切れたのは目蓋だけで、眼球は傷ついていなかったそうです」
船橋理はそう前置きすると、この私の顔をうかがった。
対するこの私は、船橋理が朗報とやらを謹告するのを待ったが、彼には言葉をつなぐ気配がなかった。
「まさか、朗報とはその報告のことかね? それは貴様にとっての朗報であろう?」
「あなたにとっては違うのですか?」
「違う。断じて。責任を感じていた貴様には朗報になるのかもしれぬが、この私はそれを聞いても失意しかない」
「そうですか。残念です」
そう言った船橋理の顔は、それほど残念そうには見えなかった。
この私の返答を多少なりとも予測していたのかもしれぬ。
そんなことより、船橋の肩越しに見える新参者の男はいっこうに落ち着く気配がない。この私が睨むと、垂れ目をいっそう垂れさせて怯んだ。
「船橋理。そんなことより、そやつは誰だ?」
船橋がそやつのことを、この私が殺した女の彼氏だと紹介した。
この私は平静を装いつつも、心内では凝固していたハラワタが融解を通り越して、一瞬にして沸騰、昇華、爆発した。
この私はこんな凡夫野郎のお古を掴まされたというのか。
そんな中古のくたびれ女にひどい侮辱の言葉を浴びせられたというのか。
殺す。殺してやる。絶対に殺さなければならない。
許さない。決して許されることではないぞ!
この私の静かなる激昂に気づかず、船橋はさらに、その帆立治弥という男にこの私のことを馬氷鷹子の殺害犯だと紹介した。
それを受け、帆立治弥はあろうことか、この私に向かって舌打ちしてガンを飛ばしてきた。
なんということだ。
非礼、無礼、不遜、不敬!
なんたる愚挙!
ただ殺すだけでは済まさぬ。
絶対に許さぬ。
「日暮さん。帆立さんはね、あなたに謝罪を求めているのですよ。本来はこんな場を設けるなんて絶対にしないことなのですが、彼がどうしてもと言うものですからね」
さては船橋、こやつに懇意にすることで、その父親の政治家に近づこうという腹か。
警察もこやつの父親が大物だから要望に答えざるをえなかったか?
この私を舐めきっている。
この私の危険性よりも、こやつの父親の権力のほうが大きいということなのだろう?
「よく分かった。帆立とやら、そこに座りたまえよ」
この私の言い方に腹を立てているのか、あるいは女を殺された憎しみか、帆立治弥はひどく険しい顔をしてこの私の正面に腰を落とした。
この私がその不遜なる咎者をどう処断してやろうかと眺めていると、そやつは突然ビクッと体を震わせ、慌ててこの私から視線を逸らした。
どうしたというのだ。
この私はべつに睨み返してなどいないというのに。
「日暮さん、彼を殺す気ですか?」
「なんだって?」
「品定めすべく細められた眼と、嬉しそうに綻ぶ頬。睨まれて見せる顔ではありませんね。普通は睨み返したり視線を逸らしたり、あるいは驚き戸惑うところでしょう。あなたは己の内に生じた殺意を当然のように肯定し、旅行先を選ぶ感覚でどういう殺し方がいいかを思案している。そんな表情をしていました。犯罪に対する素人でさえ、直感的に恐怖して身を引いてしまうほどの醜悪な表情ですよ」
もはや船橋理の戯言などどうでもよい。問題は目の前の三人をどうやって殺すかだ。
さすがのこの私でも、一対三ではどうにも分が悪い。
ああ、どうするか。おまえたちならどうするね?
ああ、言っておくが、おまえたち凡夫どもの意見などアテにはしていないのだよ。どうせこの私より優れた考えが浮かぶ者などおるまい。
この私は自尊心を削ってでも必ず三人ともに制裁を加える手立てを即座に考え実行に移した。
「船橋、佐藤、貴様らは少し下がっていろ。貴様らに上格者たるこの私の謝罪の言葉を聞く権利はないし、聞かせるつもりもない。この私がこの男に謝罪することを願うなら、我々から距離を取りたまえ」
帆立治弥の背後に立つ二人の探偵は、ポーカーフェイスの中に訝しむ瞳をたたえていたが、帆立治弥が望み、それを受けて二人は互いに頷き合って後退した。
さすがに部屋からは出なかったが、部屋の奥端の壁際で並んだ。
この私は帆立治弥に顔を近づけるように促し、この私は声が拡散しないよう口に手を添えた。
そして、目の前の耳に呪詛の言葉を流し入れる。
「心して聞け。真実を話す。驚くだろうが平静を装え。おまえは騙されている。おまえもこの私も、ともに奴の策謀にはめられているのだ。おまえの女を殺したのはこの私ではない。船橋理だ」
瞬間的に極限まで見開かれた眼がこの私を直視した。
それから背後に振り向きかけたものの、どうにか思い留まった。
彼なりに平静を装っているつもりだろうが、驚愕の度合いが制御を超えていたのだろう。
彼のその様子を見た船橋たちの反応をうかがいたかったが、そこはこの私もグッと堪えた。
「本当なのか? でも、そんなこと――」
帆立治弥の憚らない疑問をひと睨みして殺し、再び耳をよこすよう合図した。
「真実を知ったことを真犯人に悟られるな。この私は決して奴を許さない。貴様も許すな。世のために、何よりも自分のために、奴を許すな。奴は人を殺しておいて被害者遺族を騙すような最低最悪の人間だが、警察を取り込んでいて法的裁きは望めない。だから直接手を下すしかない。この私が貴様に協力する。だから貴様もこの私に協力しろ。いいな?」
「でも、僕は何をすれば……」
殺しきれていない声に被せて、この私は帆立治弥に簡単な指示を出した。
「敵は二人だ。この私を妨害する者を妨害しろ。この私が船橋に飛びかかったら開始だ。手段は任せる」
「分かった」
帆立治弥。こやつが馬鹿で助かった。なんたる僥倖。
しかし、そのとき――。
――コンコン。
扉をノックする音。敵が増えるであろう絶望の音色。
帆立治弥が瞳に焦りの色を満たしてこの私を一瞥するが、この私は「我慢しろ」と眼で訴えた。
船橋理と佐藤優子、この二人のツワモノを殺すには虚を衝かなければ駄目だ。
ガチャリとドアノブか捻られる。
誰かが返事をする前に何者かが部屋へ入ってくる。
ピシッとオールバックに決めた吊り目の男だった。スーツの上からでも彼の肉体が鍛えられていることが分かる。
この私が見たことのない人間。おそらく刑事だろう。左手に白い手袋をしているが、証拠品の確認でもしていたのだろうか。
なんにせよ、せっかく二対二に持ち込めたというのに、敵が一人増えてしまった。
否、一人ではない。男の後ろにもう一人男がいる。
どう見ても刑事ではない。ヨレヨレの白シャツに鼠色のチノパン姿は囚人服を想起させる。まるで囚人服がないので代用品で済ませたかのような格好だ。
その男は刑事の肩越しに船橋理を睨んでいた。
乱れた頭髪の下に潜むその視線には殺意がこもっていたが、恨みや憎しみによるものではなく、むしろ使命感に近いもののように感じられた。
対する船橋理は、刑事の肩から覗く目を見てひどく驚愕していた。奴がこれほどまでに平常心から外れた姿を見せるのは初めてのことだ。
つまり刑事の後ろの男は決してここにいてはならない存在。
間違いない。カノンだ。刑事の後ろの男はカノンなのだ。
以前この私が直接会ったときのカノンは黒ずくめで顔が分かりにくかったが、なんとなく雰囲気は似ている。いまの格好も武装を解除させられているのだ。
刑事の肩越しに宿敵を睨んでいたカノンは、その目をこの私の方へと向けた。そして視線を落とす。
それはこの私に下を見ろと言っているようだった。
だからこの私は視線をカノンの顔から少しずつ下げていった。腰の辺りにカノンの両手があった。手錠がかけられ、前方に拘束されている。
――否、ちょっと待て! 手錠がちゃんとかかっていない!
どういうことだ? 刑事の目を盗んで開錠したのか?
背後から刑事を襲えたはずだし、逃亡もできたはずだが、この私という味方を加えるために、刑事に従ってこの密室へとやってきたというのか?
もしや、カノンも手段を選ばず船橋理を殺したいということか?
その後、自分がどうなろうとも船橋理を殺したいということなのか?
カノンからすれば、この私と組めば船橋理と佐藤優子と刑事の三人を敵にしても勝てる見込みがあるということか?
――否! そうじゃなかった!
「荒木さん、なぜカノンを連れてきたんですか!」
そう言った船橋の表情が、荒木と呼ばれた刑事の左手を見た瞬間に失望の色を見せた。
しかしすぐに目つきが変わった。
これはあのときの目だ。バスの中でこの私を捕らえんと迫ってくるときの鋭い目だ。
船橋理が手の甲で佐藤優子の肩をポンと叩いた。
「分かってる」
佐藤優子は小声でそうつぶやいた。
カノンを連れてきた荒木刑事はカノンとグルなのだ。
カノンの手錠はこの部屋に入る直前に荒木刑事によって開錠されたもの。
この刑事が左手に手袋をつけているのは、おそらく、小指が義指だからだ。この刑事はカノンに殺人を依頼して小指を支払ったから、それを隠しているに相違ない。
敵は二人。味方は四人。
形勢大逆転。
あとは帆立を懐柔していることをカノンたちにも知らせなければならない。
「帆立治弥、さっき言ったことを覚えているな?」
この私は帆立治弥にそう囁いた。それからカノンに頷いてみせた。
いまのでこの場にいる全員がこの私が帆立を取り込んだことを悟っただろう。
一触即発。
六人の人間がカミソリのように鋭いカードのトランプタワーを一枚ずつ支えているような状況だ。
誰が最初に手を離すのか、どのタイミングで離すのか、タワーがどういう崩れ方をして誰の手を切り裂くのか。
残念ながらこの私には読みきれない。
船橋理とカノン、それから佐藤優子と荒木とかいう刑事も、四者四様に互いの挙動を警戒し読み合っている。
この私はカノンが動いたら動くと決めた。
標的は船橋理、ただし臨機応変に佐藤優子をも狙う。
帆立はこの私の邪魔をする者を邪魔するだけだ。
「おやおや、船橋探偵ともあろうお人が、なぜ彼を連れてきたかお分かりでないのですか?」
荒木刑事は白々しい表情で船橋理へとにじり寄っていく。
カノンも荒木刑事の背中で開錠された手錠を隠したまま前進する。
「さあ、さっぱり分かりませんね。ところで日暮さん。あなた、カノンに会うのは何度目です?」
突然の問いかけに、この私は戸惑った。
緊張感が増す。
船橋理、この私に話を振って何を企んでいる?
この状況を覆せる算段があるとでもいうのか?
面白い。乗ってやろうではないか。
「一度目だが、それが何だね?」
船橋理は視線を荒木刑事から離さない。
しかしその表情はこの私の言葉に反応して少し歪められた。
「日暮さん、あなたはカノンに会うのがこれで二度目だと思っているでしょうね。でも、実は違うんですよ。あなた、彼とはもう何百回も会っているんですよ!」
「なんだと⁉」
そんな馬鹿な話があるか。
船橋理はこの私を戸惑わせようとしているだけだ。
こやつの話はいつも突飛すぎる。
「船橋さん、何の話をしているのです? いまはそんなこと、どうでもいいではないですか」
荒木刑事が船橋の話を流そうとしている。彼は何か知っているのか?
「日暮さん、あなた、学生時代には友達がいなかったそうですね。たった一人の親友を除いては。鬼山銀弥。その名前だけは覚えているでしょう? その人、いまこの部屋にもいるんですよ」
カノンが、鬼山銀弥?
それが事実だとしたら衝撃的だが、しかし顔が違う。たしかに声が似ているとは感じたが、顔がぜんぜん違うのだ。
だが、彼はプロの殺し屋だ。顔の整形に躊躇はないということか?
「そうだとして、それがどうしたというのだ?」
船橋理の顔は、ひきつったままニヤッとさらに形を崩した。
「あなたは親友から小指を奪われようとしているんですよ。それって本当に親友なんですかねぇ。親友だと思っていたのはあなただけだったようですよ」
大丈夫だ。この程度の煽りでこの私が動揺などするものか。
しかしカノンはこの私が憤るとでも思ったか、慌てて弁明をした。
「おい、惑わされるな。これはビジネスだ。誰であろうと支払い方法に例外はない」
「荒木さんには二度目の支払いを免除するのに?」
無駄だ。そんな挑発でこの私が怒りの矛先を変えるとでも思っているのか?
いや、違う。
奴のそもそもの狙いがカノンなのだ。
カノンにこの私が揺らいでいるかもしれないという不安を抱かせるのが目的だ。
そしてカノンが動揺すれば、荒木刑事も動揺する。
「おい」
荒木刑事が少し後ろを振り返ってカノンに呼びかけた。
だが、その瞬間に船橋理が動いた。
奴の渾身の一撃が荒木刑事の顎に入った。
荒木刑事はデスクに両腕をデロンと投げ出すように倒れた。意識は失っていないが、まともに立つことすらできないだろう。
「やりやがったな!」
この私から見て、カノンに動揺はなかった。彼が本当に鬼山銀弥ならば、この私の性質を熟知しているはずだ。この私がこの程度の煽りで本来の目的を見失うはずがない。
だが、荒木刑事は背後にいるカノンの様子を見ることができない。この私がたぶらかされてカノンが動揺しているのではないかと、荒木刑事が不安になったのだ。
船橋理の狙いは最初からそれだったのだろうか。それはさすがに信じがたいことだが、こうして出し抜かれたのは事実だ。
戦力が一人減ったが、まだ三対二だ。
だが、帆立治弥はなぜ傍観している? 突然荒木刑事が倒れてきたために、驚きんのあまり思考が飛んだか?
否、そうじゃない。彼はこの私を妨害する者を妨害するという話だった。この私が動かなければ、この馬鹿正直な愚か者が味方としての役割を果たさない。
この私が動くしかない!
「なんてことをするのだ、船橋! 気でも振れたか!」
この私は荒木刑事を心配するフリをして、船橋のいる側からデスクを迂回する。
船橋の前を通りすぎる際に、奴の顎を狙って思いきり肘を打ち上げる。
「――ッ!」
かわされた。予見されていた。
だが、かすった。
少なからず動揺しているはずだ。
この私は即座に引いた肘を、今度は水平に繰り出した。トマホークと化したこの私の肘は、船橋の脇腹に突き刺さった。
いまなら船橋の怯みが大きいはず。次はちゃんと正面を向いて全力の拳をぶち込んでやる。
だが佐藤優子が黙って見ているはずがない。
この私は背中を瞬間的な強い力で押され、前につんのめった。
流木のように転がっている荒木刑事の足につまずき、この私は両手を床に着いた。
「えいやぁああああ!」
その咆哮は帆立のものだった。
佐藤優子も彼がこの私に惑わされていると気づいていたはずだが、彼の動きはじめるタイミングがあまりに唐突だったために遅れをとったようだ。
帆立治弥がラグビー選手のタックルのごとく両手を広げて佐藤優子の腹に突撃した。
「うっ……!」
船橋理がフリーになった。
佐藤優子は二、三秒で帆立治弥をいなして復帰してくるだろう。
この刹那のチャンスを逃してはならない。
しかし荒木刑事はデスクに、この私は床に両手を着いている状態だ。このままでは船橋を仕留めるチャンスを逃してしまう。
いま動けるのはカノンのみ。
そのカノンは船橋から最も遠い所にいる。間にこの私と荒木刑事がいてすぐに船橋に接近できない。
この私が見上げるカノンは、もどかしそうな視線を船橋からこの私に移した。
それはこの私と同じことを考えている目なのか分からない。
だが違っていたとしても、この私の動きを見て気づかないほど鈍いわけがない。
この私は即座に頭を下げた。四つん這いになったこの私の背中を踏んでいけということだ。
そうすれば、合わせて高さの優位も取れる。
「借りるぞ、日暮!」
カノンの体重を背中で受けとめたこの私は、彼の足が離れる瞬間まで体を硬くしていた。
自然と猫背になり、そのまま後方の光景に視線を馳せる。
カノンはこの私の背中から飛び出したその右脚を、そのまま船橋理へと突き出した。
プロの殺し屋の強烈な跳び膝蹴りが船橋理を襲う。
船橋は両腕を交差してガードしたが、そのまま後ろの壁に叩きつけられた。頭を打ちつけないように顎を引いていたが、その分、カノンの膝の衝撃がもろに伝わっただろう。
いま、船橋理の表情は痛みにより極限まで歪んでいる。
そして、船橋理が崩れる。重力に抗う力を失って、背中を壁に擦られながら床に尻を着いた。
あとはカノンがありったけの力で船橋を殴り殺すだけだ。
カノンが弓を引き絞るかのように拳を振り上げ、渾身の一撃を打ち下ろす。
「あぅっ!」
船橋理の頭部には、カノンの拳よりも先に佐藤優子が飛びついていた。
カノンの重い打撃は佐藤優子の背中を打ちのめしていた。
その光景は、この私の心をも打ちのめした。
この私のことをあれほどコケにしたあの女が、この私の宿敵をその身を挺してかばったのだ。
ほんの数秒の延命にしかならないだろうに、自分自身が大きな戦力のはずなのに、佐藤優子は船橋理を全力で、命がけでかばったのだ。
この私の腹に据えられた鍋に火が入った。一瞬で煮え湯となり、弾ける泡がどす黒い空気を吐き出す。
「先におまえからだ!」
カノンが再び拳を振り上げる。彼の強靭な拳は金槌にも等しい破壊力がある。それを打ち下ろせば終わりだ。
だが、カノンの肩に手を置いて、この私が止めた。
「俺にやらせろ」
カノンがこの私を一瞥した。
その瞬間は鋭さを残したまま怪訝そうな目をしていたが、刹那のうちに彼の表情は変貌した。
それは驚嘆か、恐怖か、大きく見開かれた瞳に半開きの口が、彼の溜めた力を消失させたことを知らしめた。
この私はそんなにも醜悪な表情をしているか?
そんなことはどうでもいい。
この私が船橋理と佐藤優子を直接ぶち殺せればそれでいい。
「ぐっ!」
この私を見ていたカノンの顔が再び変貌した。
痛覚に支配された顔だ。
下方を見ると、カノンの脛に船橋の踵が打ち込まれていた。
この私がもう一度カノンの顔を確認すると、彼の意識はすでに標的へと向かっていた。
痛みに顔を歪めながらも、何がなんでも標的を討つという強い意志を瞳に宿している。
「下がっていろ、カノン! この私がやると言っているのだ!」
この私はカノンの肩を引いて半ば強引に下がらせた。
船橋理の踵がこの私の脛を狙って飛んでくる。
予見していた。
いまの船橋にはそれしかできないのだから。
「ぐわああぁッ!」
船橋の悲鳴。この私は脛を狙われた脚を引き上げて、そのまま船橋の足を踏みつけた。
渾身の力でくるぶしを二度三度と踏みつけた。
そして佐藤優子の頭部にこの私が踵を突き入れる。
「うぐっ!」
手応えが違う。
船橋の手が佐藤の頭をかばっていた。右手が頭を守り、左手が首を守っていた。
「しぶとい! 往生際が悪い! クソのゴミの凡夫の分際でぇええええッ!」
この私は拳に力を込めた。
いまなら火事場の馬鹿力が出せる気がする。
どんなに硬い鎧だろうとぶち破れる気がする。
この一撃で、二人まとめて殺せる気がする。
「死ねぇええええええ!」
この私の神聖なる鉄槌が絶対の審判を下す。
「ぐぇえあああっ!」
その悲鳴はあまりにも素っ頓狂で下品なものだった。
それは痛みに慣れていない甘ったれの悲鳴。
船橋ではないし、佐藤でもない。
「何をしている、おまえぇええええ!」
この私の聖域に異物が飛び込んできたのだ。
帆立治弥。
船橋理を仇だと信じているはずなのに、なぜ彼らをかばったのだ。
帆立が佐藤に飛びかかったときに、彼女にほだされたというのか。
しかし彼女にそんな余裕はなかったはずだ。
この私の拳に背中を打ちのめされた帆立治弥が、佐藤優子の上でぐったりしたままこの私を見上げる。
「やめろ……。こんなにも美しい女性を殺そうとするなんてどうかしている。鷹子の仇討ちにこの女性を巻き込むな……。奇跡を破壊するな……」
さすがのこの私も、開いた口が塞がらなかった。女垂らしのゴミクズに邪魔をされるとは。
だが元々はコイツも始末する予定だったのだ。三人ともみんな殺してやる!
「まずはおまえからだ!」
この私は帆立治弥の頭髪を鷲掴みにし、拳を引き絞った。
一撃で仕留めてやる。
この怒りの感情がなければどんなに快感なことだろう。
いや、この怒りゆえの快感か。
上格者たるこの私は、凡夫の中でもとりわけクズな部類の奴を始末するのだ。
清掃は気持ちがいい!
正義の制裁は気持ちがいい!
格の違いが証明されるのは気持ちがいい!
気持ちいい。
気持ちがいい。
凡夫なる人間を殺すのは、清々しくて、気持ちがいい!
そして、この私は最大の力で拳を打ち込んだ。
「あぐぅっ!」
左手に激痛が走る。じんわりと痛みが増していく。痛い。痛い! かなり痛い!
この私の右拳が自分の左手首に入ってしまった。帆立治弥の頭部を狙ったはずなのに、その頭部を掴んでいる自分の左手首を打ってしまった。
「ふっ……」
船橋の小さな吐息が漏れ聞こえた。
それは安堵か、嘲笑か。
下を見ると、帆立治弥に船橋理と佐藤優子がすがりついていた。
二人の力で帆立治弥をひっぱり、この私の拳の軌道上から外したのだ。おかげで左手がひっぱられて、そこに拳が入ってしまったわけだ。
この私の視線が帆立治弥を引く船橋の手を辿り、その顔を確認する。
奴は笑っていた。
嘲笑ではない。不敵な笑み。奴の憎たらしさを倍増させる表情。
奴のその顔が語るのは、まだ諦めていないということと、まだ策があるということ、あるいは、いくらでも策を瞬時に捻り出せるという自信。
「この私としたことが、順番を間違えた! 貴様からだ!」
この私は帆立治弥の体を佐藤優子の側へと押し倒した。
満身創痍かつ無理な体勢の佐藤優子にはそれを支えることができない。
帆立治弥が佐藤優子を道連れにして床に倒れた。
さらに、帆立治弥にひっぱられて船橋理もうつ伏せ状態に倒れた。
これほどの好機があるだろうか。
この私が船橋理を殺す。彼に苦汁をなめさせられてきた数多の犯罪者たちも、この私を英雄として称賛するだろう。
この私は上格者として崇め奉られるべき人間だ。
「船橋理。待たせたな。いま、まさにこの瞬間、格の違いというものを見せつけてやるぞ!」
この私はデスクと壁に手を着いて体を支え、右脚を後方へ振りかぶった。
いまの船橋理の体調と体勢からはまともな防御もできない。一発入れれば内臓を破壊できる。
その後、なぶり殺す!
「日暮さん、どうやら待たせすぎたようですね」
こんな状況でも船橋は不敵に笑った。
バカバカしい。奴には何もできない。
へたに腕で防御しようとしても骨を折るだけだ。
だがそのとき、バタンと勢いよく扉が開け放たれ、無数の足音がなだれ込んでくる。
刑事たちが我々の暴動を止めにきたのだ。
刑事たちの突入は遅かったようにも思えるが、ここまでの攻防があっという間の出来事だったのだ。タイミングとしては順当。想定はしていた。
船橋は刑事たちの気配を察知して笑ったのか?
だったら間抜けだ。奴らがこの私を取り押さえる前に始末をつけてやる!
二発あれば十分だ。一発目は船橋理の横っ腹への蹴り込み、二発目は顔面への踵による踏みつけ。
「凡夫ッ!」
この私の足が船橋理の胴に直撃する。
ただ、船橋はとっさに体の向きをかえて正面から受けた。つまり、横っ腹ではなく腹だ。
防弾チョッキは着ていない。腹に力を込めただけ。ただただ横よりも正面のほうが少し防御力が高くなるというだけのこと。
「取り押さえろぉおおおっ!」
二発目は無理だった。いずれにしろ一発目を軽減されては二発目も防御されかねない。二発では足りない。
「クソッ、この私は貴様に及ばなかったというのか!」
この私の肩を、手を、頭を、脚を、ピラニアの群れみたいに強靭な手が掴んでいく。
デスクに押し倒され、体重をかけられ、腕を捻られる。
いかにこの私が上格者であろうとも、一人の力ではどうにもならない。
船橋理は立ち上がった。
腹を押さえているが、立ち上がれるだけの余力が残っているのだ。
「今回もギリギリでした。私が未熟だから犯罪者たちに野望や希望を抱かせてしまう。私が師のように抑止力すら有する名探偵になれたなら、犯罪者にならずに済んだ人もいたのでしょう」
「この私を凡夫どもと一緒にするな! この私はたとえ名探偵の織田公平が探偵界に健在していたとしても殺人者になっていた。とっさに殴り殺してしまったのだからな!」
この私にのしかかる体重は、この私を窒息死させようとしているのかと思えるほど重かった。二人か三人がかりでこの私を押さえ込んでいるようだ。
船橋理が息遣いを荒くしているこの私を哀しげな目で見据えている。
「日暮さん、カッとなって理性を見失ってしまう人が、本当に上格者といえるんですか?」
「高みに立って吐ける暴言は、さぞかし気持ちがよかろうな!」
「そういうつもりは……いえ、たしかに不要な発言でしたね。ただ、日暮さん、いまさら無意味なことかもしれませんが、一つだけ助言をさせてください」
「この私に助言だと? 思い上がりも甚だしい! つけあがるなよ、凡夫が!」
船橋理はふふっと笑った。
何が愉しいのか。
この私の演じる道化っぷりがあまりにも滑稽で吹き出したか?
なんたる侮辱!
屈辱だ!
「まあ、戯言としてでもいいので聞いてください。日暮さん、あなたはもう少しだけ他者を認めてもいいんじゃないですか? さっき、あなたは凡夫どもと一緒にするなと仰いましたが、私が戦ってきたみなさんは本当に狡猾で腕っ節もあって強敵ばかりでした。彼らは決して人として認められるような人間たちではありませんが、私は敵としては認めているというか、一目置かされる人ばかりでした。カノンもそうですし、日暮さん、あなたのこともそうです」
この私には、奴に返す言葉が見つからなかった。
何か奴が失意、落胆するような気の利いた一言を言ってやりたい。
そう考えを巡らせていると、荒々しく品のない咳払いが、この私と船橋の間に投げ込まれた。
「そろそろよろしいですかな」
船橋が返事をするのも待たず、この私はガッチリと腕を背後に固められて部屋から連れ出された。
荒木刑事とカノンはとっくに消えていた。先に連れ出されたのだ。
この私と入れ替わりで入った刑事たちが帆立治弥と佐藤優子の容態を確認している。
船橋理は最後に声をかけられていた。その当人は、遠ざかるこの私のことをいつまでもジッと見据えていた。
船橋理は勝ち誇った顔をしていないが、しかし奴が今晩ぐっすり安眠するのだろうと思うと腹が立つ。
この私は奴に、最後の一撃として言葉の爪跡を残す。
「おい、船橋理! この私は決して諦めないぞ。何がなんでも自由を得て、かならず貴様を屠りにいくからな! 覚悟しておけ!」
これで奴の安眠くらいは妨害できただろうか。
しかし、船橋理の眉目秀麗な顔が怜悧さを廃し、ニッと笑った。
楽しそうに笑っている。
「日暮匡さん、お待ちしていますよ!」
……完敗だ。
だが、不思議と悪い気はしなかった。
いつかかならず殺しにいってやろう。
船橋理を殺すのは、この私だ。
―おわり―
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葉羽
ミステリー
神藤葉羽(しんどう はね)は、ある日、推理小説を読みふけっているところへ幼馴染の望月彩由美(もちづき あゆみ)からのメッセージを受け取る。彩由美は、学校の友人から奇妙な事件の噂を聞きつけたらしく、葉羽に相談を持ちかける。
学校の裏手にある古い洋館で起こった謎の死亡事件——被害者は密室の中で発見され、すべての窓と扉は内側から施錠されていた。現場の証拠や死亡時刻は明確だが、決定的なアリバイを持つ人物が疑われている。葉羽は彩由美と共に事件に首を突っ込むが、そこには不可解な「時計」の存在が絡んでいた。
春の残骸
葛原そしお
ミステリー
赤星杏奈。彼女と出会ったのは、私──西塚小夜子──が中学生の時だった。彼女は学年一の秀才、優等生で、誰よりも美しかった。最後に彼女を見たのは十年前、高校一年生の時。それ以来、彼女と会うことはなく、彼女のことを思い出すこともなくなっていった。
しかし偶然地元に帰省した際、彼女の近況を知ることとなる。精神を病み、実家に引きこもっているとのこと。そこで私は見る影もなくなった現在の彼女と再会し、悲惨な状況に身を置く彼女を引き取ることに決める。
共同生活を始めて一ヶ月、落ち着いてきたころ、私は奇妙な夢を見た。それは過去の、中学二年の始業式の夢で、当時の彼女が現れた。私は思わず彼女に告白してしまった。それはただの夢だと思っていたが、本来知らないはずの彼女のアドレスや、身に覚えのない記憶が私の中にあった。
あの夢は私が忘れていた記憶なのか。あるいは夢の中の行動が過去を変え、現実を改変するのか。そしてなぜこんな夢を見るのか、現象が起きたのか。そしてこの現象に、私の死が関わっているらしい。
私はその謎を解くことに興味はない。ただ彼女を、杏奈を救うために、この現象を利用することに決めた。
仏眼探偵 ~樹海ホテル~
菱沼あゆ
ミステリー
『推理できる助手、募集中。
仏眼探偵事務所』
あるとき芽生えた特殊な仏眼相により、手を握った相手が犯人かどうかわかるようになった晴比古。
だが、最近では推理は、助手、深鈴に丸投げしていた。
そんな晴比古の許に、樹海にあるホテルへの招待状が届く。
「これから起きる殺人事件を止めてみろ」という手紙とともに。
だが、死体はホテルに着く前に自分からやってくるし。
目撃者の女たちは、美貌の刑事、日下部志貴に会いたいばかりに、嘘をつきまくる。
果たして、晴比古は真実にたどり着けるのか――?
不忘探偵2 〜死神〜
あらんすみし
ミステリー
新宿の片隅で、ひっそりと生きる探偵。探偵は、記憶を一切忘れられない難病を患い、孤独に暮らしていた。しかし、そんな孤独な生活も悪くない。孤独が探偵の心の安寧だからだ。
しかし、そんな平穏な日々を打ち破る依頼が舞い込む。
ある若い男が事務所を訪れ、探偵にある依頼を持ちかける。
自分の周りでは、ここ数年の間で5人もの人間が不審な死を遂げている。ある者は自殺、ある者は事故、そしてある者は急な病死。そして、いずれも自分と親しかったりトラブルがあった人達。
どうか自分がそれらの死と無関係であることを証明して、容疑を晴らしてもらいたい。
それが男の依頼だった。
果たして男の周囲で立て続けに関係者が死ぬのは偶然なのか?それとも何かの事件なのか?
PARADOX
柊
ミステリー
定期的に夢に出てくる、見知らぬ少女。現実となる彼女の死は、忘却の彼方に置き忘れた己の過去の過ちだった。
主人公、周防綾人は、似た境遇にある頼りない協力者と共に運命に立ち向かい、その不可解な事象を解き明かしてゆく。
※多分ミステリーです。パズル的要素有り。上手く纏められるかどうか分かりませんが、とりあえず執筆開始してみます。画像はAIのべりすとにて生成した瑞希のイメージです。琴音と学生服が上手く統一することが出来ませんでした。
スターエル号殺人事件
抹茶
ミステリー
片田舎に探偵事務所を構える20歳の探偵、星見スイ。その友人の機械系研究者である揺と豪華客船に乗ってバカンスのためにメキシコのマンサニージョへと向かう。しかし、その途中で、船内に鳴り響く悲鳴とともに、乗客を恐怖が襲う。スイと揺は臨機応変に対応し、冷静に推理をするが、今まで扱った事件とは明らかに異質であった。乗客の混乱、犯人の思惑、第二の事件。スイと揺はこの難事件をどう解決するのか。
その人事には理由がある
凪子
ミステリー
門倉(かどくら)千春(ちはる)は、この春大学を卒業したばかりの社会人一年生。新卒で入社した会社はインテリアを専門に扱う商社で、研修を終えて配属されたのは人事課だった。
そこには社長の私生児、日野(ひの)多々良(たたら)が所属していた。
社長の息子という気楽な立場のせいか、仕事をさぼりがちな多々良のお守りにうんざりする千春。
そんなある日、人事課長の朝木静から特命が与えられる。
その任務とは、『先輩女性社員にセクハラを受けたという男性社員に関する事実調査』で……!?
しっかり女子×お気楽男子の織りなす、人事系ミステリー!
大正謎解きティータイム──華族探偵は推理したくない
山岸マロニィ
ミステリー
売れない歌人であり、陰陽師の末裔・土御門保憲の元には、家柄を頼って様々な相談事が舞い込む。
相談事を持ち込む主犯である雑誌記者・蘆屋いすゞとは、趣味の紅茶を通しての持ちつ持たれつの間柄。
ある時、いすゞが持ち込んだのは、浅草オペラの興行主からの依頼。
――劇場に潜む『怪人』の正体を明かしてほしい。
渋々引き受けた保憲を待ち構えていたのは、プリマドンナを次々と襲う事故死の謎だった――。
不定期連載。
どうぞよろしくお願いいたします。
(2023.2.5 追記)
少しの間、連載をお休みさせて頂きます。
申し訳ございません。
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