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第一章 この私がそこに至るまでの経緯
第2話
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さあて、おまえたち。
いま、この私がどのような状況にあるか説明しよう。
この私はいま、ガス灯のようなか弱くも確かな光に薄く照らされた部屋で、公転できそうなほど広いベッドに横になっている。
さっきまでこの私の隣に寝ていて、この私の腕に抱かれていた女が、浴室から出てくるのをじっと待っている。
それにしても、無造作に落ちている女の服を改めて見ると、乱雑にハサミを入れた布切れにしか見えなかった。
しかし女がその一枚をまとえば、その深みと艶のある血のような赤が見事にプライベートゾーンを漏らさず覆い隠すのだ。
この一枚はブラジャーとショーツが服と一体となっており、本当にその一着が女のまとうただ一枚の衣類であった。
この服はオーダーメイドとみるが、どれほど0が並ぶのだろうか。
あの女に貢いだ男は死ぬ予定があったに相違ない。
服はかようであったが、当の女自身のほうはといえば……。
端麗ではあるとも。
野原に舞えば、花たちが彼女を囲って歌い出すくらいの可憐さを備えてさえいる。
波打つロングヘアーは艶のあるウッディブラウンで、肌の色は花カマキリのごとく白い。
露を吸った瑞々しい茎を連想させるしなやかな四肢の先には、花弁と重なる淑やかな爪がある。
大きな瞳は陽光をビー玉に透かしたように煌めき、鼻梁は匠の業とも思えるほどよく通っている。
口は……どうだったろう。
この私はあの女の口が好かぬ。
動きすぎるのだ。
動かなければきっと、それも美しい。
多少褒めすぎたかもしれぬが、世辞を嫌うこの私がその言をのたまうに抵抗を感じぬ程度には、そして彼女の欲望をこの私が受け入れる程度には、彼女はそこそこの魅力を持ち合わせていたといえる。
しかし誤解なきよう。
この私がただ容姿に惹かれて人に恋焦がれることなどあろうはずがない。
この私には確信があった。
かの女もまた、川底の丸い石ころのようにありふれた凡夫――平々凡々とした生活をのうのうと送っている人間、もしくは必要に迫られなければ頭を使わない人間――の一人にすぎないということを、この私は確信していた。
この私は、あの女を抱いた。
しかしこの私は、その事実をおまえたちに自慢したいのではない。
苦虫を噛み潰した気分とはこのことか。
清澄なる小川の遥か上流、湧水地点にて、下水管しか流れることを許されないはずの汚水が多量に混入したかのように、この私はどえらい失望に汚染されていた。
女とはそういうものだと聞くが、人というのは親しくもない相手にこうも感情をあらわにできるものなのか。
あの女はこの私にマキビシのように尖った言葉を投げ散らしながら何度も叩いてきた。
この私はあの女を気遣ってやっているというのに、あの女は自分のことしか考えていなかった。
あの女は「そうじゃない」「こうでもない」「そんなこともできないの?」「へばってんじゃないわよ」「まさか、もう終りなの?」などと未知のスラングをビールサーバーさながらにドバドバと吐き出してきた。
自尊心をひどく傷つけられ、もういっそ女の長い髪を引き千切ってやりたくもなったこの私だが、女が「もういい」と言うまではどうにか我慢して付き合ってやった。
女がシャワーを浴びに立ったのは、その「もういい」を告げた直後であった。
その言葉は公務官の警笛としての性質でも持つのか、彼女はその言葉を鋭く解き放った瞬間にサッと身を立ててベッドを降り、この私に待機を命じてスタスタとシャワールームへ隠れてしまった。
呆けてはならぬ、と自身を無言のうちに叱咤しつつ、姿勢に紳士らしさを取り戻して待つこと幾ばくか。
おそらくは二十、いや、三十は静止していただろう。
シャワーを浴びて出てきた女が、さもいままでずっと会話していたかのごとく、唐突に言葉をつなげてきた。
「あんた、あたしと釣り合ってないのよ。あんたにはあたしと親しくする価値はない。あんた、童貞だったんじゃない? あんたにとってあたしは特別な女になったかもしれないけれど、あたしにとってあんたは肩に付いた糸屑よ」
この女は豚だ。
豚とは豊満を意味するメタファー――容姿に関する隠喩表現――ではなく、価値を表すイラストレーション――低価値という例示――である。
豚であり、牛であり、鳥であり、すなわち食用の家畜同然の価値しかない、ということだ。
いや、食料になる分、家畜のほうが価値は上かもしれない。
その無価値の女が、いま、この私にとんでもない侮辱の言葉を投げつけたではないか。
そもそもこの私がこんな豚女と寝た経緯はといえば、この女が酔っ払い、発情したために、仕方なくこの私が付き合ってあげたというものだ。
この私には本来、種を存続したいという欲求はなく、ゆえに性に関する一時欲求を満たす気概は毛頭なかった。
高潔なるこの私がこの女を受け入れてやったのは、この私が慈悲深く柔和な性質を持ち、同時に小さな好奇心をも持ち合わせていたからにすぎない。
だからこの女は運がよかったのだ。
気まぐれにシロツメクサを一つ摘み取ってみたら、それが四枚葉だったくらいの幸運を有していたのだ。
ああ、おまえたち。
おまえたちの中には、この女がそもそも何者なのか、この私に対していかなる位置にある女なのか、その点が気になっている者も少なくなかろう。
説明しようとも。
この女は行きずりの女――完全なる他人――ではない。
この私が以前の職場で何度か顔を合わせたことがある人間、いわゆる元同僚である。
同僚といっても同期ではなかったし、部署も異なっていた。
すれ違い様に挨拶をしたことが、二度か三度かあった程度の、ほぼ他人である。
経緯についても所望か? ならば語ろう。
この私が都内の居酒屋にて一人で酒盛りをしていたときのことだ。
偶然にもかの女が男を連れて入ってきて、偶然にもこの私のいる席の近くに陣取った。
しばらくした頃合でその女と男の壮絶な喧嘩が始まり、別れた後に女のほうが店に残った。
彼女は一人で酔いつぶれ、その結果、この私が彼女に絡まれ、そしてこの私が彼女を介抱する羽目になったというわけだ。
その最中、彼女があまりにも執拗に駄々を捏ねるものだから、慈悲深きこの私は、あくまで仕方なく、先にも述べたように彼女の要求に付き合ってやることにしたのである。
すでに酔い醒ましに入っていたこの私は、自分の中からアルコールが抜けていることを確信、あるいは自己暗示して、車を運転し、導かれるままに女が所有するという別荘へ場所を移した。
そこは避暑地然とした別荘のひしめく山で、女の別荘は最奥にあり、道は別荘の前までで途切れていた。
進める限界の所で車を停めて降りると、生ぬるい風で頬を舐め上げるという歓迎の挨拶――天然の嫌がらせ――が待っていた。
眼前ではログハウスが闇夜をまとい、この私を威圧していた。
別荘の鍵はありきたりな隠し場所にあった。
そこに常備してあるようだ。
この私は女に招き入れられて、丸太妖怪の口の中へと足を踏み入れた。
夜の山奥というものがいかに怖ろしいか。
特にこの時期は繁った葉がさまざまなものを覆い隠し、風を食べて虫の羽音のようにうるさく騒ぎたてる。
しかし別荘の内装は、女の趣味なのか、あるいは用途を限定しているのか、いかにもこれからおこなわれる儀式のためにあつらえられたような軽薄な様式であった。
この女、何人の男を食い散らかしたのか。
この私も凡夫と同等のむさぼりに遭うのか。自尊心にヒビが入りそうだ。
だがいまさらではないか。
この私は一度与えると決めた慈悲を取り下げるような迂愚な人間ではない。
長くなったが、経緯説明のための回想はここで終わるとしよう。
ガウンを羽織った女がスタスタと歩く。
そんなに急いでどこへ行くのかと思ったら、女は部屋の隅に置いていたブランドものの手提げ鞄を取りに向かっただけだった。
鞄からピンクのスモールポーチを取り出し、再びスタスタと歩く。
この私の前を通りすぎ、今度はガラス板のはめ込まれた木製小卓の前で止まった。
「ああ、もう、気分悪い。最悪よ。言っておくけど、酒のせいじゃないからね。あんたのせいで気分が悪いんだからね。あーあ、責任とってほしいくらいだわ、慰謝料で」
仏の顔も三度と言うが、この私は仏ではないし、仮に仏だったとしても、この長すぎる一度に怒りを抑えられるはずがない。
「おまえ……黙れ……」
そしてこの女、この私が怒ることの意味が分からないのである。
女がこの私に背を向けてフローリングの上で膝を折り、ポーチの中をガチャガチャ言わせて化粧を直しはじめた。いま化粧を直すということは、いまからこの私に家まで送り届けさせるつもりか? ここまで来るのに一時間強かかったというのに。
「なにを偉そうに。あたしを満足させられないなら、最初からそう言ってよね」
また……。また、放りやがった。これ以上ない侮辱の言葉。まだ続けるか、この女! この私は何なのだ? いったい何なのだ? 貴様の奴隷か? 高潔なるこの私が? 立場が逆だ。この私が、この私が貴様たち凡夫を見下す立場にあるのだぞ。
この女、凡夫の中でもとんだ不良品だ。腸のはみ出た人体模型くらいに珍妙で、そして価値がない。
「これが最後通告だ。凡夫は黙れ」
黙れと言われて黙らぬなら、もう力ずくで黙らせるしかない。それ、女が鳴くぞ。
「誰があんたなんかの命令を聞くもんですか。凡夫ってなによ。どういう意味? あたし、馬鹿だから分かんなーい。これみよがしに難しい言葉を使っちゃってさ、気取ってんの? あー気持ちわるい!」
この私は沸騰していた。脳髄が、神経が、眼球が、何もかもが沸騰していた。
あまりの怒りに意識が朦朧とし、視界は白く霞み、ピリピリと皮膚が焼けつく感覚に襲われていた。
ひとまず黙らせなければ。
この私はたまらず女の頭を叩いた。
その瞬間には、この豚女をぶちのめしてやったという快感が全身の毛を逆立てた。それは煌々と赤熱した鉄塊を冷水に浸けたときに響くジュッという鎮静音が、この私の腕を這い上がって脊髄から全身へと伝わった結果だった。
女がバタリと倒れる。
床に顔を強く打ちつけた。
後々 《女の顔》というフレーズを振りまわして責め立ててくるのだろうが、受身くらい自分で取れ、ざまぁみろ、と先にぼやいてやった。
さあて、女が噛みついてくるぞ。この私が論理的な受身で完璧にいなしてやる。
…………。
まだのようだ。静かだ。
女が起きない。
少し待つことにした。
…………。
それにしても、起きない。
起きないのか?
何なのだ、この女。
何なのだ、なぜ……寝ているのだ? なぜ、床に伏しているのだ? 無礼であるぞ、この私に背を向けて寝るなど!
……反応が、ない。
いったい、何なのだ、この女は。
この女は……どこまでも……この私の、人生を、貶めるつもりか……。
起、き、ろ、よぉおおおおおおおおおおおおおお!
「おーい……」
…………。
女は、死んでいた。
いま、この私がどのような状況にあるか説明しよう。
この私はいま、ガス灯のようなか弱くも確かな光に薄く照らされた部屋で、公転できそうなほど広いベッドに横になっている。
さっきまでこの私の隣に寝ていて、この私の腕に抱かれていた女が、浴室から出てくるのをじっと待っている。
それにしても、無造作に落ちている女の服を改めて見ると、乱雑にハサミを入れた布切れにしか見えなかった。
しかし女がその一枚をまとえば、その深みと艶のある血のような赤が見事にプライベートゾーンを漏らさず覆い隠すのだ。
この一枚はブラジャーとショーツが服と一体となっており、本当にその一着が女のまとうただ一枚の衣類であった。
この服はオーダーメイドとみるが、どれほど0が並ぶのだろうか。
あの女に貢いだ男は死ぬ予定があったに相違ない。
服はかようであったが、当の女自身のほうはといえば……。
端麗ではあるとも。
野原に舞えば、花たちが彼女を囲って歌い出すくらいの可憐さを備えてさえいる。
波打つロングヘアーは艶のあるウッディブラウンで、肌の色は花カマキリのごとく白い。
露を吸った瑞々しい茎を連想させるしなやかな四肢の先には、花弁と重なる淑やかな爪がある。
大きな瞳は陽光をビー玉に透かしたように煌めき、鼻梁は匠の業とも思えるほどよく通っている。
口は……どうだったろう。
この私はあの女の口が好かぬ。
動きすぎるのだ。
動かなければきっと、それも美しい。
多少褒めすぎたかもしれぬが、世辞を嫌うこの私がその言をのたまうに抵抗を感じぬ程度には、そして彼女の欲望をこの私が受け入れる程度には、彼女はそこそこの魅力を持ち合わせていたといえる。
しかし誤解なきよう。
この私がただ容姿に惹かれて人に恋焦がれることなどあろうはずがない。
この私には確信があった。
かの女もまた、川底の丸い石ころのようにありふれた凡夫――平々凡々とした生活をのうのうと送っている人間、もしくは必要に迫られなければ頭を使わない人間――の一人にすぎないということを、この私は確信していた。
この私は、あの女を抱いた。
しかしこの私は、その事実をおまえたちに自慢したいのではない。
苦虫を噛み潰した気分とはこのことか。
清澄なる小川の遥か上流、湧水地点にて、下水管しか流れることを許されないはずの汚水が多量に混入したかのように、この私はどえらい失望に汚染されていた。
女とはそういうものだと聞くが、人というのは親しくもない相手にこうも感情をあらわにできるものなのか。
あの女はこの私にマキビシのように尖った言葉を投げ散らしながら何度も叩いてきた。
この私はあの女を気遣ってやっているというのに、あの女は自分のことしか考えていなかった。
あの女は「そうじゃない」「こうでもない」「そんなこともできないの?」「へばってんじゃないわよ」「まさか、もう終りなの?」などと未知のスラングをビールサーバーさながらにドバドバと吐き出してきた。
自尊心をひどく傷つけられ、もういっそ女の長い髪を引き千切ってやりたくもなったこの私だが、女が「もういい」と言うまではどうにか我慢して付き合ってやった。
女がシャワーを浴びに立ったのは、その「もういい」を告げた直後であった。
その言葉は公務官の警笛としての性質でも持つのか、彼女はその言葉を鋭く解き放った瞬間にサッと身を立ててベッドを降り、この私に待機を命じてスタスタとシャワールームへ隠れてしまった。
呆けてはならぬ、と自身を無言のうちに叱咤しつつ、姿勢に紳士らしさを取り戻して待つこと幾ばくか。
おそらくは二十、いや、三十は静止していただろう。
シャワーを浴びて出てきた女が、さもいままでずっと会話していたかのごとく、唐突に言葉をつなげてきた。
「あんた、あたしと釣り合ってないのよ。あんたにはあたしと親しくする価値はない。あんた、童貞だったんじゃない? あんたにとってあたしは特別な女になったかもしれないけれど、あたしにとってあんたは肩に付いた糸屑よ」
この女は豚だ。
豚とは豊満を意味するメタファー――容姿に関する隠喩表現――ではなく、価値を表すイラストレーション――低価値という例示――である。
豚であり、牛であり、鳥であり、すなわち食用の家畜同然の価値しかない、ということだ。
いや、食料になる分、家畜のほうが価値は上かもしれない。
その無価値の女が、いま、この私にとんでもない侮辱の言葉を投げつけたではないか。
そもそもこの私がこんな豚女と寝た経緯はといえば、この女が酔っ払い、発情したために、仕方なくこの私が付き合ってあげたというものだ。
この私には本来、種を存続したいという欲求はなく、ゆえに性に関する一時欲求を満たす気概は毛頭なかった。
高潔なるこの私がこの女を受け入れてやったのは、この私が慈悲深く柔和な性質を持ち、同時に小さな好奇心をも持ち合わせていたからにすぎない。
だからこの女は運がよかったのだ。
気まぐれにシロツメクサを一つ摘み取ってみたら、それが四枚葉だったくらいの幸運を有していたのだ。
ああ、おまえたち。
おまえたちの中には、この女がそもそも何者なのか、この私に対していかなる位置にある女なのか、その点が気になっている者も少なくなかろう。
説明しようとも。
この女は行きずりの女――完全なる他人――ではない。
この私が以前の職場で何度か顔を合わせたことがある人間、いわゆる元同僚である。
同僚といっても同期ではなかったし、部署も異なっていた。
すれ違い様に挨拶をしたことが、二度か三度かあった程度の、ほぼ他人である。
経緯についても所望か? ならば語ろう。
この私が都内の居酒屋にて一人で酒盛りをしていたときのことだ。
偶然にもかの女が男を連れて入ってきて、偶然にもこの私のいる席の近くに陣取った。
しばらくした頃合でその女と男の壮絶な喧嘩が始まり、別れた後に女のほうが店に残った。
彼女は一人で酔いつぶれ、その結果、この私が彼女に絡まれ、そしてこの私が彼女を介抱する羽目になったというわけだ。
その最中、彼女があまりにも執拗に駄々を捏ねるものだから、慈悲深きこの私は、あくまで仕方なく、先にも述べたように彼女の要求に付き合ってやることにしたのである。
すでに酔い醒ましに入っていたこの私は、自分の中からアルコールが抜けていることを確信、あるいは自己暗示して、車を運転し、導かれるままに女が所有するという別荘へ場所を移した。
そこは避暑地然とした別荘のひしめく山で、女の別荘は最奥にあり、道は別荘の前までで途切れていた。
進める限界の所で車を停めて降りると、生ぬるい風で頬を舐め上げるという歓迎の挨拶――天然の嫌がらせ――が待っていた。
眼前ではログハウスが闇夜をまとい、この私を威圧していた。
別荘の鍵はありきたりな隠し場所にあった。
そこに常備してあるようだ。
この私は女に招き入れられて、丸太妖怪の口の中へと足を踏み入れた。
夜の山奥というものがいかに怖ろしいか。
特にこの時期は繁った葉がさまざまなものを覆い隠し、風を食べて虫の羽音のようにうるさく騒ぎたてる。
しかし別荘の内装は、女の趣味なのか、あるいは用途を限定しているのか、いかにもこれからおこなわれる儀式のためにあつらえられたような軽薄な様式であった。
この女、何人の男を食い散らかしたのか。
この私も凡夫と同等のむさぼりに遭うのか。自尊心にヒビが入りそうだ。
だがいまさらではないか。
この私は一度与えると決めた慈悲を取り下げるような迂愚な人間ではない。
長くなったが、経緯説明のための回想はここで終わるとしよう。
ガウンを羽織った女がスタスタと歩く。
そんなに急いでどこへ行くのかと思ったら、女は部屋の隅に置いていたブランドものの手提げ鞄を取りに向かっただけだった。
鞄からピンクのスモールポーチを取り出し、再びスタスタと歩く。
この私の前を通りすぎ、今度はガラス板のはめ込まれた木製小卓の前で止まった。
「ああ、もう、気分悪い。最悪よ。言っておくけど、酒のせいじゃないからね。あんたのせいで気分が悪いんだからね。あーあ、責任とってほしいくらいだわ、慰謝料で」
仏の顔も三度と言うが、この私は仏ではないし、仮に仏だったとしても、この長すぎる一度に怒りを抑えられるはずがない。
「おまえ……黙れ……」
そしてこの女、この私が怒ることの意味が分からないのである。
女がこの私に背を向けてフローリングの上で膝を折り、ポーチの中をガチャガチャ言わせて化粧を直しはじめた。いま化粧を直すということは、いまからこの私に家まで送り届けさせるつもりか? ここまで来るのに一時間強かかったというのに。
「なにを偉そうに。あたしを満足させられないなら、最初からそう言ってよね」
また……。また、放りやがった。これ以上ない侮辱の言葉。まだ続けるか、この女! この私は何なのだ? いったい何なのだ? 貴様の奴隷か? 高潔なるこの私が? 立場が逆だ。この私が、この私が貴様たち凡夫を見下す立場にあるのだぞ。
この女、凡夫の中でもとんだ不良品だ。腸のはみ出た人体模型くらいに珍妙で、そして価値がない。
「これが最後通告だ。凡夫は黙れ」
黙れと言われて黙らぬなら、もう力ずくで黙らせるしかない。それ、女が鳴くぞ。
「誰があんたなんかの命令を聞くもんですか。凡夫ってなによ。どういう意味? あたし、馬鹿だから分かんなーい。これみよがしに難しい言葉を使っちゃってさ、気取ってんの? あー気持ちわるい!」
この私は沸騰していた。脳髄が、神経が、眼球が、何もかもが沸騰していた。
あまりの怒りに意識が朦朧とし、視界は白く霞み、ピリピリと皮膚が焼けつく感覚に襲われていた。
ひとまず黙らせなければ。
この私はたまらず女の頭を叩いた。
その瞬間には、この豚女をぶちのめしてやったという快感が全身の毛を逆立てた。それは煌々と赤熱した鉄塊を冷水に浸けたときに響くジュッという鎮静音が、この私の腕を這い上がって脊髄から全身へと伝わった結果だった。
女がバタリと倒れる。
床に顔を強く打ちつけた。
後々 《女の顔》というフレーズを振りまわして責め立ててくるのだろうが、受身くらい自分で取れ、ざまぁみろ、と先にぼやいてやった。
さあて、女が噛みついてくるぞ。この私が論理的な受身で完璧にいなしてやる。
…………。
まだのようだ。静かだ。
女が起きない。
少し待つことにした。
…………。
それにしても、起きない。
起きないのか?
何なのだ、この女。
何なのだ、なぜ……寝ているのだ? なぜ、床に伏しているのだ? 無礼であるぞ、この私に背を向けて寝るなど!
……反応が、ない。
いったい、何なのだ、この女は。
この女は……どこまでも……この私の、人生を、貶めるつもりか……。
起、き、ろ、よぉおおおおおおおおおおおおおお!
「おーい……」
…………。
女は、死んでいた。
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