この私がか!?

日和崎よしな

文字の大きさ
上 下
2 / 36
第一章 この私がそこに至るまでの経緯

第2話

しおりを挟む
 さあて、おまえたち。
 いま、この私がどのような状況にあるか説明しよう。

 この私はいま、ガス灯のようなか弱くも確かな光に薄く照らされた部屋で、公転できそうなほど広いベッドに横になっている。
 さっきまでこの私の隣に寝ていて、この私の腕に抱かれていた女が、浴室から出てくるのをじっと待っている。

 それにしても、無造作に落ちている女の服を改めて見ると、乱雑にハサミを入れた布切れにしか見えなかった。
 しかし女がその一枚をまとえば、その深みとつやのある血のような赤が見事にプライベートゾーンを漏らさず覆い隠すのだ。
 この一枚はブラジャーとショーツが服と一体となっており、本当にその一着が女のまとうただ一枚の衣類であった。
 この服はオーダーメイドとみるが、どれほど0が並ぶのだろうか。
 あの女に貢いだ男は死ぬ予定があったに相違ない。

 服はかようであったが、当の女自身のほうはといえば……。

 端麗たんれいではあるとも。
 野原に舞えば、花たちが彼女を囲って歌い出すくらいの可憐さを備えてさえいる。
 波打つロングヘアーは艶のあるウッディブラウンで、肌の色は花カマキリのごとく白い。
 つゆを吸った瑞々みずみずしい茎を連想させるしなやかな四肢の先には、花弁と重なるしとやかな爪がある。
 大きな瞳は陽光をビー玉に透かしたようにきらめき、鼻梁びりょうたくみわざとも思えるほどよく通っている。
 口は……どうだったろう。

 この私はあの女の口が好かぬ。
 動きすぎるのだ。
 動かなければきっと、それも美しい。

 多少めすぎたかもしれぬが、世辞せじを嫌うこの私がそのげんをのたまうに抵抗を感じぬ程度には、そして彼女の欲望をこの私が受け入れる程度には、彼女はそこそこの魅力を持ち合わせていたといえる。

 しかし誤解なきよう。
 この私がただ容姿にかれて人に恋がれることなどあろうはずがない。
 この私には確信があった。
 かの女もまた、川底の丸い石ころのようにありふれた凡夫ぼんぷ――平々凡々へいへいぼんぼんとした生活をのうのうと送っている人間、もしくは必要に迫られなければ頭を使わない人間――の一人にすぎないということを、この私は確信していた。

 この私は、あの女を抱いた。

 しかしこの私は、その事実をおまえたちに自慢したいのではない。
 苦虫にがむしつぶした気分とはこのことか。
 清澄せいちょうなる小川の遥か上流、湧水ゆうすい地点にて、下水管しか流れることを許されないはずの汚水が多量に混入したかのように、この私はどえらい失望に汚染されていた。

 女とはそういうものだと聞くが、人というのは親しくもない相手にこうも感情をあらわにできるものなのか。
 あの女はこの私にマキビシのように尖った言葉を投げ散らしながら何度も叩いてきた。
 この私はあの女を気遣きづかってやっているというのに、あの女は自分のことしか考えていなかった。
 あの女は「そうじゃない」「こうでもない」「そんなこともできないの?」「へばってんじゃないわよ」「まさか、もう終りなの?」などと未知のスラングをビールサーバーさながらにドバドバと吐き出してきた。

 自尊心をひどく傷つけられ、もういっそ女の長い髪を引き千切ってやりたくもなったこの私だが、女が「もういい」と言うまではどうにか我慢して付き合ってやった。
 女がシャワーを浴びに立ったのは、その「もういい」を告げた直後であった。
 その言葉は公務官の警笛けいてきとしての性質でも持つのか、彼女はその言葉を鋭く解き放った瞬間にサッと身を立ててベッドを降り、この私に待機を命じてスタスタとシャワールームへ隠れてしまった。

 ほうけてはならぬ、と自身を無言のうちに叱咤しったしつつ、姿勢に紳士らしさを取り戻して待つこといくばくか。
 おそらくは二十、いや、三十は静止していただろう。
 シャワーを浴びて出てきた女が、さもいままでずっと会話していたかのごとく、唐突とうとつに言葉をつなげてきた。

「あんた、あたしと釣り合ってないのよ。あんたにはあたしと親しくする価値はない。あんた、童貞だったんじゃない? あんたにとってあたしは特別な女になったかもしれないけれど、あたしにとってあんたは肩に付いた糸屑いとくずよ」

 この女は豚だ。
 豚とは豊満を意味するメタファー――容姿に関する隠喩いんゆ表現――ではなく、価値を表すイラストレーション――低価値という例示――である。
 豚であり、牛であり、鳥であり、すなわち食用の家畜同然の価値しかない、ということだ。
 いや、食料になる分、家畜のほうが価値は上かもしれない。
 その無価値の女が、いま、この私にとんでもない侮辱の言葉を投げつけたではないか。

 そもそもこの私がこんな豚女と寝た経緯はといえば、この女が酔っ払い、発情したために、仕方なくこの私が付き合ってあげたというものだ。
 この私には本来、しゅを存続したいという欲求はなく、ゆえに性に関する一時欲求を満たす気概きがい毛頭もうとうなかった。
 高潔こうけつなるこの私がこの女を受け入れてやったのは、この私が慈悲深く柔和にゅうわな性質を持ち、同時に小さな好奇心をも持ち合わせていたからにすぎない。
 だからこの女は運がよかったのだ。
 気まぐれにシロツメクサを一つみ取ってみたら、それが四枚葉だったくらいの幸運を有していたのだ。

 ああ、おまえたち。
 おまえたちの中には、この女がそもそも何者なのか、この私に対していかなる位置にある女なのか、その点が気になっている者も少なくなかろう。

 説明しようとも。

 この女は行きずりの女――完全なる他人――ではない。
 この私が以前の職場で何度か顔を合わせたことがある人間、いわゆる元同僚である。
 同僚といっても同期ではなかったし、部署も異なっていた。
 すれ違いざまに挨拶をしたことが、二度か三度かあった程度の、ほぼ他人である。

 経緯についても所望しょもうか? ならば語ろう。

 この私が都内の居酒屋にて一人で酒盛りをしていたときのことだ。
 偶然にもかの女が男を連れて入ってきて、偶然にもこの私のいる席の近くに陣取った。
 しばらくした頃合でその女と男の壮絶な喧嘩が始まり、別れた後に女のほうが店に残った。
 彼女は一人で酔いつぶれ、その結果、この私が彼女に絡まれ、そしてこの私が彼女を介抱する羽目になったというわけだ。
 その最中、彼女があまりにも執拗しつように駄々をねるものだから、慈悲深きこの私は、あくまで仕方なく、先にも述べたように彼女の要求に付き合ってやることにしたのである。
 すでに酔いましに入っていたこの私は、自分の中からアルコールが抜けていることを確信、あるいは自己暗示して、車を運転し、導かれるままに女が所有するという別荘へ場所を移した。

 そこは避暑地然ひしょちぜんとした別荘のひしめく山で、女の別荘は最奥さいおうにあり、道は別荘の前までで途切れていた。
 進める限界の所で車を停めて降りると、生ぬるい風で頬を舐め上げるという歓迎の挨拶――天然の嫌がらせ――が待っていた。
 眼前ではログハウスが闇夜をまとい、この私を威圧していた。
 別荘の鍵はありきたりな隠し場所にあった。
 そこに常備してあるようだ。
 この私は女に招き入れられて、丸太妖怪の口の中へと足を踏み入れた。

 夜の山奥というものがいかに怖ろしいか。
 特にこの時期はしげった葉がさまざまなものを覆い隠し、風を食べて虫の羽音のようにうるさく騒ぎたてる。
 しかし別荘の内装は、女の趣味なのか、あるいは用途を限定しているのか、いかにもこれからおこなわれる儀式のためにあつらえられたような軽薄な様式であった。
 この女、何人の男を食い散らかしたのか。
 この私も凡夫と同等のむさぼりにうのか。自尊心にヒビが入りそうだ。
 だがいまさらではないか。
 この私は一度与えると決めた慈悲を取り下げるような迂愚うぐな人間ではない。

 長くなったが、経緯説明のための回想はここで終わるとしよう。

 ガウンを羽織はおった女がスタスタと歩く。
 そんなに急いでどこへ行くのかと思ったら、女は部屋のすみに置いていたブランドものの手提てさげかばんを取りに向かっただけだった。
 鞄からピンクのスモールポーチを取り出し、再びスタスタと歩く。
 この私の前を通りすぎ、今度はガラス板のはめ込まれた木製小卓の前で止まった。

「ああ、もう、気分悪い。最悪よ。言っておくけど、酒のせいじゃないからね。あんたのせいで気分が悪いんだからね。あーあ、責任とってほしいくらいだわ、慰謝料で」

 仏の顔も三度と言うが、この私は仏ではないし、仮に仏だったとしても、この長すぎる一度に怒りを抑えられるはずがない。

「おまえ……黙れ……」

 そしてこの女、この私が怒ることの意味が分からないのである。
 女がこの私に背を向けてフローリングの上で膝を折り、ポーチの中をガチャガチャ言わせて化粧を直しはじめた。いま化粧を直すということは、いまからこの私に家まで送り届けさせるつもりか? ここまで来るのに一時間強かかったというのに。

「なにを偉そうに。あたしを満足させられないなら、最初からそう言ってよね」

 また……。また、ほうりやがった。これ以上ない侮辱の言葉。まだ続けるか、この女! この私は何なのだ? いったい何なのだ? 貴様の奴隷か? 高潔なるこの私が? 立場が逆だ。この私が、この私が貴様たち凡夫を見下す立場にあるのだぞ。
 この女、凡夫の中でもとんだ不良品だ。腸のはみ出た人体模型くらいに珍妙ちんみょうで、そして価値がない。

「これが最後通告だ。凡夫は黙れ」

 黙れと言われて黙らぬなら、もう力ずくで黙らせるしかない。それ、女が鳴くぞ。

「誰があんたなんかの命令を聞くもんですか。凡夫ってなによ。どういう意味? あたし、馬鹿だから分かんなーい。これみよがしに難しい言葉を使っちゃってさ、気取ってんの? あー気持ちわるい!」

 この私は沸騰ふっとうしていた。脳髄のうずいが、神経が、眼球が、何もかもが沸騰していた。
 あまりの怒りに意識が朦朧もうろうとし、視界は白くかすみ、ピリピリと皮膚が焼けつく感覚に襲われていた。

 ひとまず黙らせなければ。

 この私はたまらず女の頭を叩いた。
 その瞬間には、この豚女をぶちのめしてやったという快感が全身の毛を逆立てた。それは煌々こうこうと赤熱した鉄塊てっかいを冷水にけたときに響くジュッという鎮静音ちんせいおんが、この私の腕をい上がって脊髄せきずいから全身へと伝わった結果だった。

 女がバタリと倒れる。
 床に顔を強く打ちつけた。
 後々 《女の顔》というフレーズを振りまわして責め立ててくるのだろうが、受身くらい自分で取れ、ざまぁみろ、と先にぼやいてやった。

 さあて、女が噛みついてくるぞ。この私が論理的な受身で完璧にいなしてやる。

 …………。

 まだのようだ。静かだ。

 女が起きない。

 少し待つことにした。

 …………。

 それにしても、起きない。

 起きないのか?

 何なのだ、この女。

 何なのだ、なぜ……寝ているのだ? なぜ、床に伏しているのだ? 無礼であるぞ、この私に背を向けて寝るなど!

 ……反応が、ない。

 いったい、何なのだ、この女は。

 この女は……どこまでも……この私の、人生を、おとしめるつもりか……。

 起、き、ろ、よぉおおおおおおおおおおおおおお!

「おーい……」

 …………。

 女は、死んでいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

全5章 読者への挑戦付き、謎解き推理小説 「密室の謎と奇妙な時計」

葉羽
ミステリー
神藤葉羽(しんどう はね)は、ある日、推理小説を読みふけっているところへ幼馴染の望月彩由美(もちづき あゆみ)からのメッセージを受け取る。彩由美は、学校の友人から奇妙な事件の噂を聞きつけたらしく、葉羽に相談を持ちかける。 学校の裏手にある古い洋館で起こった謎の死亡事件——被害者は密室の中で発見され、すべての窓と扉は内側から施錠されていた。現場の証拠や死亡時刻は明確だが、決定的なアリバイを持つ人物が疑われている。葉羽は彩由美と共に事件に首を突っ込むが、そこには不可解な「時計」の存在が絡んでいた。

春の残骸

葛原そしお
ミステリー
 赤星杏奈。彼女と出会ったのは、私──西塚小夜子──が中学生の時だった。彼女は学年一の秀才、優等生で、誰よりも美しかった。最後に彼女を見たのは十年前、高校一年生の時。それ以来、彼女と会うことはなく、彼女のことを思い出すこともなくなっていった。  しかし偶然地元に帰省した際、彼女の近況を知ることとなる。精神を病み、実家に引きこもっているとのこと。そこで私は見る影もなくなった現在の彼女と再会し、悲惨な状況に身を置く彼女を引き取ることに決める。  共同生活を始めて一ヶ月、落ち着いてきたころ、私は奇妙な夢を見た。それは過去の、中学二年の始業式の夢で、当時の彼女が現れた。私は思わず彼女に告白してしまった。それはただの夢だと思っていたが、本来知らないはずの彼女のアドレスや、身に覚えのない記憶が私の中にあった。  あの夢は私が忘れていた記憶なのか。あるいは夢の中の行動が過去を変え、現実を改変するのか。そしてなぜこんな夢を見るのか、現象が起きたのか。そしてこの現象に、私の死が関わっているらしい。  私はその謎を解くことに興味はない。ただ彼女を、杏奈を救うために、この現象を利用することに決めた。

仏眼探偵 ~樹海ホテル~

菱沼あゆ
ミステリー
  『推理できる助手、募集中。   仏眼探偵事務所』  あるとき芽生えた特殊な仏眼相により、手を握った相手が犯人かどうかわかるようになった晴比古。  だが、最近では推理は、助手、深鈴に丸投げしていた。  そんな晴比古の許に、樹海にあるホテルへの招待状が届く。 「これから起きる殺人事件を止めてみろ」という手紙とともに。  だが、死体はホテルに着く前に自分からやってくるし。  目撃者の女たちは、美貌の刑事、日下部志貴に会いたいばかりに、嘘をつきまくる。  果たして、晴比古は真実にたどり着けるのか――?

不忘探偵2 〜死神〜

あらんすみし
ミステリー
新宿の片隅で、ひっそりと生きる探偵。探偵は、記憶を一切忘れられない難病を患い、孤独に暮らしていた。しかし、そんな孤独な生活も悪くない。孤独が探偵の心の安寧だからだ。 しかし、そんな平穏な日々を打ち破る依頼が舞い込む。 ある若い男が事務所を訪れ、探偵にある依頼を持ちかける。 自分の周りでは、ここ数年の間で5人もの人間が不審な死を遂げている。ある者は自殺、ある者は事故、そしてある者は急な病死。そして、いずれも自分と親しかったりトラブルがあった人達。 どうか自分がそれらの死と無関係であることを証明して、容疑を晴らしてもらいたい。 それが男の依頼だった。 果たして男の周囲で立て続けに関係者が死ぬのは偶然なのか?それとも何かの事件なのか?

PARADOX

ミステリー
定期的に夢に出てくる、見知らぬ少女。現実となる彼女の死は、忘却の彼方に置き忘れた己の過去の過ちだった。 主人公、周防綾人は、似た境遇にある頼りない協力者と共に運命に立ち向かい、その不可解な事象を解き明かしてゆく。 ※多分ミステリーです。パズル的要素有り。上手く纏められるかどうか分かりませんが、とりあえず執筆開始してみます。画像はAIのべりすとにて生成した瑞希のイメージです。琴音と学生服が上手く統一することが出来ませんでした。

スターエル号殺人事件

抹茶
ミステリー
片田舎に探偵事務所を構える20歳の探偵、星見スイ。その友人の機械系研究者である揺と豪華客船に乗ってバカンスのためにメキシコのマンサニージョへと向かう。しかし、その途中で、船内に鳴り響く悲鳴とともに、乗客を恐怖が襲う。スイと揺は臨機応変に対応し、冷静に推理をするが、今まで扱った事件とは明らかに異質であった。乗客の混乱、犯人の思惑、第二の事件。スイと揺はこの難事件をどう解決するのか。

その人事には理由がある

凪子
ミステリー
門倉(かどくら)千春(ちはる)は、この春大学を卒業したばかりの社会人一年生。新卒で入社した会社はインテリアを専門に扱う商社で、研修を終えて配属されたのは人事課だった。 そこには社長の私生児、日野(ひの)多々良(たたら)が所属していた。 社長の息子という気楽な立場のせいか、仕事をさぼりがちな多々良のお守りにうんざりする千春。 そんなある日、人事課長の朝木静から特命が与えられる。 その任務とは、『先輩女性社員にセクハラを受けたという男性社員に関する事実調査』で……!? しっかり女子×お気楽男子の織りなす、人事系ミステリー!

大正謎解きティータイム──華族探偵は推理したくない

山岸マロニィ
ミステリー
 売れない歌人であり、陰陽師の末裔・土御門保憲の元には、家柄を頼って様々な相談事が舞い込む。  相談事を持ち込む主犯である雑誌記者・蘆屋いすゞとは、趣味の紅茶を通しての持ちつ持たれつの間柄。  ある時、いすゞが持ち込んだのは、浅草オペラの興行主からの依頼。  ――劇場に潜む『怪人』の正体を明かしてほしい。  渋々引き受けた保憲を待ち構えていたのは、プリマドンナを次々と襲う事故死の謎だった――。  不定期連載。  どうぞよろしくお願いいたします。 (2023.2.5 追記) 少しの間、連載をお休みさせて頂きます。 申し訳ございません。

処理中です...