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第五章 王国編

第202話 泣きっ面に蜂

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「甘いねぇ、ゲス・エスト。あなたは甘い」

 振り向いた先にいたのは、青いドレスを着た女、第一王子の腰巾着になっている第二王女であった。
 しかし、いまの彼女は第二王女本人ではない。彼女はたしか魔導師でも魔術師でもない人間だったはずなのに、俺たちと同様に空を飛んでいた。
 彼女からは紅いオーラがにじみ出ており、瞳が真紅色に染まっている。つまり紅い狂気だ。

「他人が私の狂気に侵されることを心配しているなんて、ぬるすぎるんじゃない? 自分は平気だとでも思っているの?」

「おまえ、シャイルの中にいたはずじゃ……」

「狂気があれば思念くらい飛ばせるわ。あなたの所業がこの娘の狂気を呼び起こしたの。りないわねぇ、おバカさん。あっはははは!」

 こいつの高笑いは毎度背筋が凍る。踏み切りの警報のように不安をあおってくる。心臓が針で刺されているような感覚におちいる。

「何の用だ! 俺の準備が整うまで待つんじゃなかったのか!」

「準備を手伝いに来たのよ。あなたが半端なことをするから、お説教して導いてあげようと思ってね」

 紅い狂気からあふれ出る紅いオーラが止まらない。青いドレスが紅いオーラと重なって紫色に見える。

「俺がいつ半端なことをしたっていうんだ。力ずくだが、完全に諸島連合の戦争を終結させた」

「半端も半端じゃないの。あなたは罪人を処刑していないわ。大量の罪人を」

 彼女の「大量の」という言葉によって、彼女の言わんとするところに察しがついた。
 《たまご・にわとり戦争》においては、俺が「争いをやめよ」と命令し、それを法と位置づけ、破れば即死刑とまで宣言したにもかかわらず、多くの者が争いをやめなかった。つまり彼らは罪人であり死刑に処さなければならないのに、俺がそれをしていないというのだ。

「ねえ、王たる者が自分の言葉を嘘にするの? 法を作っておいて、安易になかったことにしていいの? あなたの法はその程度の価値しかないものなの? 法を定め、法を司る者が、法を犯してもいいの? あなたはそれほどに不完全な法を作っておいて、それを他人に押しつけるの? まさか、後付けで例外を作る? ねえ、どうなの? 私に教えてちょうだい。ねえ、ねえ、ねえ!」

 執拗しつような責めに俺はあらがえない。紅い狂気の言うことは正しい。俺が宣言した法を俺自身が反故ほごにすれば、俺の言葉に重みなどなくなる。
 だが、実行するには多すぎる。あまりにもたくさんの人間を殺さなければならない。

「ねえ、数の問題なの? 命の重みは同じじゃないの? 大きな数に怖気づいた? すでに共和国で虐殺してるのに? でも気にすることないわ。どんなに大量に殺しても、死ぬのはみんな一回だけよ」

「くっ!」

 俺の体から赤いオーラが滲み出てきた。
 これはマズイのではないか。俺は狂気に染まろうとしているのか。
 ここで間違った答えを出せば、俺は紅い狂気に飲まれてしまうかもしれない。

「彼らは扇動されたにすぎない。彼らは扇動されやすい性質を利用されただけだ。本来の彼らの意思じゃない。裁くべきは扇動者だ」

「でもあなた、心神喪失による無罪判決には反対派だったじゃない。それにこれはどちらかというと教唆きょうさに近い。日本では教唆されても実行犯は裁かれるわよ」

 こいつ! 俺の元の世界の知識を持っている!? いまのは心を読んだだけでできる話じゃない。
 しかし紅い狂気は俺の過去の記憶に関する真実を知っているはずなのに、それを持ち出すことになんの意味があるというのだ。

「真実がどうであっても過去を軽視したら駄目じゃないの。だって、あなたのゲスって性質はその記憶が根底にあるものでしょう? そして《ゲス》はあなたのアイデンティティーみたいなもので、それを軸に強くなってきたのに、それが壊れるってことは、あなたは途端に弱くなってしまうってことなのよ」

 ヤバイ。こいつの知識の土台は神の世界の知識だ。しかも俺の心を読めるときた。圧倒的に情報量で負けていて、論争で勝てない。
 しかも、ほかの奴に論争で勝てないのであれば単にプライドが傷つくだけの話だが、こいつに論争で負けると狂気に飲み込まれかねない。だからかなりヤバイ。

 いや、どんな答えを出したとしても、精神的に負けなければ問題ないはず。
 時には信念を曲げることも必要だろう。解釈しだいで自分自身を納得させれば……。
 そうだ、俺は独裁者なのだ。俺が定めた法律だろうが、俺の言葉で上書きされる。気分しだいで虐殺することだってできる。

「いいの? 本当にいいの? なぜ独裁者になったのか思い出しなさいよ。世界を守るためでしょう? あなた、人々のルールを滅茶苦茶にして、真逆のことをしているわよね? あなたは自分のあやまちを許せるの?」

 駄目だ。紅い狂気の言うとおりだ。俺は自分の肩書きに固執し、とらわれてしまっている。これでは本末転倒だ。
 結果が過程を作るのではない。過程が結果を作るのだ。俺が自分のことをゲスな人間と自称しているからといって、必ずゲスな行為をしなければならないわけじゃない。俺が俺として振舞った結果、ゲスだと評されるのだ。
 自分らしいとは何か。自分らしくあるべきなのか。
 全部違う。自分の行動が自分らしさというものを形成するのだ。

「で、どうするの? 彼らを殺すの? 責任を持って殺す? そうやって重い罪悪感を背負う? お友達に顔向けできなくなってでも殺す? それとも殺さない? 王として発した言葉を嘘にしてでも殺さない? 渋々だとしても、せっかくみんなあなたを世界王として認めていたのに、王の威厳いげんを地の底に落としてしまうことになるわね。それでも殺さない? ねえ、ねえ、ねえ! どうするの!?」

 狂気を相手に論理で負けるなんてことは決してあってはならない。
 俺の体からはますます紅いオーラが滲み出ている。本格的にヤバイ。
 こいつが相手では力ずくで黙らせることもできない。このままだと呑まれる。

「エア、俺を攻撃しろ! 気絶するくらい強めに!」

 俺が戦闘不能になって意識を失えば、俺が狂気に呑まれることもなくなるはずだ。

「え、わ、分かった」

 おそらくエアは俺の真意を分かってはいないが、この状況が危険なものであることは理解しているし、俺に考えがあっての指示だと信じてくれている。
 エアは巨大な氷のハンマーを創り出し、さらにバチバチと表面に電気を帯電させた。氷は電気抵抗が強い分、電気の威力を調整しやすいのだろう。
 エアはそのハンマーを俺の背中へと打ち込んだ。俺は空気の鎧を解除してそれをまともに受けた。意外にも紅い狂気は邪魔してこない。

「うぅ……」

 俺は気絶しなかった。エアが加減しすぎたのだ。もしかしたら俺も無意識のうちに空気の層を作って防御していたかもしれない。
 だが、結果オーライだった。想定とは違ったが、俺の頭が少しクリアになった気がする。
 もう紅いオーラも俺の体からは出ていない。

「ありがとう、エア。もう大丈夫だ」

「あら、私もあなたの計算を過信しすぎたみたいね。ちゃんと未来を確認しておくべきだったかしら」

 紅い狂気には未来を知る能力があるが、俺の心が読めるから未来を確認する必要すらなかった、ということだ。
 しかし決して俺が優勢になったわけではない。彼女の圧倒的優位は変わらない。最悪の事態だけは避けられそう、というだけだ。
 それでも、紅い狂気の濃厚な干渉に遭って最悪の事態を避けられたら上等だ。

「俺はこれ以上、おまえの言葉に耳を傾けない。おまえのそれは説教のたぐいではなく、純粋に俺への精神攻撃だ。聞くに値しない。いや、聞かないことこそが防御になる」

「でも形はどうあれ、あなたは自分の信念や論理に穴があることを自覚してしまったわよね。あなたはそのままにできるの?」

「穴を埋めるのはいまじゃなくていい。彼らの処遇は保留だ。まずはおまえを排除する!」

 まだ勝てないことは分かっている。しかし向こうもまだ俺を潰す気はないはずだ。「手伝いに来た」なんて言うくらいだからな。

「ふふふふ。あははははは! いいわよ、付き合ってあげる!」
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