上 下
70 / 302
第二章 帝国編

第69話 学研区域①

しおりを挟む
 学研区域、イーター研究所。

 銀縁眼鏡の小柄な少女は、白衣の女性に応接室へと案内された。

「待っていましたよ、ええ、待っていましたとも、セクレ・ターリさん。どうぞそちらへ」

 白髪の中年男が、自分の対面にあるソファーへお座り下さいと手で示す。
 少女は不気味に笑う男の顔を見つめながら大きな黒いソファーの前へ移動し、無言のまま腰を下ろす。

「ウィッヒ」

 瞬間、少女の体に強烈な悪寒が走る。それは落下の感覚。悪夢からめる直前に感じることの多い、予期せぬ落下の感覚。
 しかしいま、少女の感じたそれは錯覚ではなかった。
 少女の体が黒い椅子を通り抜けて落下している。ソファーはホログラムだったのだ。そこに椅子は存在しない。
 そして、床も存在しない。床には四角く切り取られたような穴が開いている。

 少女はとっさに両手を伸ばした。穴の両端へはギリギリ手が届いた。
 か弱き少女が手だけで踏みとどまれたのは奇跡に近い。しかし、重力に長くあらがいつづけることは難しいだろう。

「ウィッヒヒヒ。待っていましたよぉ。ゲス・エストの仲間をぶち殺せるこのときをねぇ! セクレ・ターリさん、いまどんなお気持ちですか? 私が憎いですか? それともゲス・エストが憎いですかぁ? それどころではありませんかねぇ。どうやって体勢を戻そうかと考えていたりするんですかねぇ!」

 白髪の男はカツカツとわざとらしく足音を立てて少女に近寄ってきた。
 少女が見上げた先には、ひどく冷たい視線で自分を見下ろす男の顔があった。口は笑っているが、それは作り物だ。赤熱した鉄が冷えて黒ずむように、怒りの先にある冷酷無慈悲な目がそこにあった。

「あなたが落ちるまで、私がただ見ているだけだと思いましたか? そんなわけないでしょう。私の時間は大変貴重なのですよ。私の一秒間は、帝国軍人の訓練に費やす一時間にも匹敵する価値があるのです。だから、あなたが落ちないなら私が落としますとも。あなた、もしかしてあなたを蹴落とそうと私が足を伸ばしたところを、その足を掴んでやろうと考えていますか? あなたは見た感じだと堅実タイプのようですが、しかし枠から手を離す以上、私の足を掴めなかったら確実に落ちますねぇ。さあ、いきますよ。心の準備はいいですかぁ? えいっ!」

 白髪の下にある顔がニタァッとゆがんだその瞬間、少女に強烈な重みが加わる。胸や腹だけではない。全身を上から押さえつけられる感覚。
 白衣の裾から見える足はさっきから動かされていない。見えない何かに押さえつけられている。
 いや、押さえつけられているだけではない。下からもひっぱられる感覚がある。

「ウィッヒヒヒ。こう見えて私も堅実でしてねぇ。私が落下するリスクを背負うはずがありませんよぉ。ビックリしてますか? 重力局所発生装置ですよぉ」

 少女の手が自身の体の重みに耐えきれず、ずるずると滑っていく。
 そして、ついに手が床の縁から離れた。
 吸気ダクトに吸い込まれた紙切れみたいに、少女の身体は勢いよく穴の中へと落ちていった。

「ごぼっ」

 少女が落ちた先は水の中だった。慌てて口を閉じる。
 周囲を透明な強化ガラスが円筒状に一周しており、出口は上にしかない。先ほど落ちた穴はすでにふさがっているが、幸いなことに上の方に空気がある。
 少女は冷静に上へと泳いで水から頭を出した。

 しかしこの水、普通の水ではない。どんな性質のものなのかは不明だが、紫色の水が普通の水のわけがない。
 ガラス越しに見える水槽の外の景色は、何かのラボのようだ。床も壁も無機質な金属性で、ところどころ腐食している。ときおりガンッと壁を叩くような音が響いてくる。

「――ッ!?」

 少女は体の異変に気づいた。
 水に浸かっている部分がチクチクしだしたのだ。
 やはりただの水ではない。

「ウィッヒヒヒヒッ!」

 聞き覚えのある高笑いが近づいてくる。
 金属の扉が開くと、そこには先ほどの白髪の男がいた。
 カンカンカンと金属床の音を響かせて、ゆっくりと近づいてくる。

「ウィッヒ、ウィッヒヒヒヒ! いい顔をしていますねぇ。無感情そうな人の恐怖する顔、大好物です。四番目くらいに好きなんですよぉ。ちなみに、上位三つも聞きます? 三番目は幸福そうな人の絶望した顔、二番目は温厚な人の激昂する顔、一番は自信家の悔しそうな顔です。蛇足ですが、五番目は人気者が恥を晒して赤面した顔です。ウィッヒヒヒ」

 少女は陰険に笑う中年男を無視して周囲を探った。
 ガラスは叩いても割れない。上に昇ろうにも滑って上れないし、昇ったところで蓋が閉まっている。

 そうこうしているうちに、だんだんと全身の痛みが増してきた。

「無駄ですよぉ。そうなってしまったら、もう逃れられるわけないじゃないですかぁ。それより気になりません? その液体の正体ですよ。気になりませんかぁ? それはねぇ、イーター合成液なんですよぉ。人間を生きたまま液状に溶かすんです。ま、生存の定義が意識の残存ならば、ですがね。溶けた体は二度と戻せませんから、そういう意味では死んでしまうんですがね。ウィッヒ!」

 少女が両手で液面を叩く。
 バシャバシャと飛沫が上がる。
 両脚をバタバタさせて液中に溶け込んだ気泡がブクブクと泡立つ。

「おやおやおや! どうやら痛みに耐えられなくなってきましたかぁ? 少しでも液体との接触を減らそうともがいているんですね? でも無駄です。衝撃を与えると、液体が撹拌されて溶解能力は高まるだけですよ。私としては、じっくりじわじわ人体が溶けていく様を観察しているのが好きなのですが、こうしてもがき苦しむ姿を眺めるのも嫌いではありませんよ。ウィッヒヒヒ!」

 液体の動きがだんだん静かになっていく。

 少女の体は溶け、頭部だけになった。

 そして少女の顔も、マッドサイエンティストを見つめたまま溶けてなくなった。

「ウィッヒヒヒ! さて、えさやりの時間だ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後

澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。 ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。 ※短いお話です。 ※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。

貴族に生まれたのに誘拐され1歳で死にかけた

佐藤醤油
ファンタジー
 貴族に生まれ、のんびりと赤ちゃん生活を満喫していたのに、気がついたら世界が変わっていた。  僕は、盗賊に誘拐され魔力を吸われながら生きる日々を過ごす。  魔力枯渇に陥ると死ぬ確率が高いにも関わらず年に1回は魔力枯渇になり死にかけている。  言葉が通じる様になって気がついたが、僕は他の人が持っていないステータスを見る力を持ち、さらに異世界と思われる世界の知識を覗ける力を持っている。  この力を使って、いつか脱出し母親の元へと戻ることを夢見て過ごす。  小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。 ------------------------------------------------------------------  お知らせ   「転生者はめぐりあう」 始めました。 ------------------------------------------------------------------ 注意  作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。  感想は受け付けていません。  誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。

帝国の第一皇女に転生しましたが3日で誘拐されました

山田うちう
ファンタジー
帝国の皇女に転生するも、生後3日で誘拐されてしまう。 犯人を追ってくれた騎士により命は助かるが、隣国で一人置き去りに。 たまたま通りかかった、隣国の伯爵に拾われ、伯爵家の一人娘ルセルとして育つ。 何不自由なく育ったルセルだが、5歳の時に受けた教会の洗礼式で真名を与えられ、背中に大きな太陽のアザが浮かび上がる。。。

大工スキルを授かった貧乏貴族の養子の四男だけど、どうやら大工スキルは伝説の全能スキルだったようです

飼猫タマ
ファンタジー
田舎貴族の四男のヨナン・グラスホッパーは、貧乏貴族の養子。義理の兄弟達は、全員戦闘系のレアスキル持ちなのに、ヨナンだけ貴族では有り得ない生産スキルの大工スキル。まあ、養子だから仕方が無いんだけど。 だがしかし、タダの生産スキルだと思ってた大工スキルは、じつは超絶物凄いスキルだったのだ。その物凄スキルで、生産しまくって超絶金持ちに。そして、婚約者も出来て幸せ絶頂の時に嵌められて、人生ドン底に。だが、ヨナンは、有り得ない逆転の一手を持っていたのだ。しかも、その有り得ない一手を、本人が全く覚えてなかったのはお約束。 勿論、ヨナンを嵌めた奴らは、全員、ザマー百裂拳で100倍返し! そんなお話です。

【本編完結】さようなら、そしてどうかお幸せに ~彼女の選んだ決断

Hinaki
ファンタジー
16歳の侯爵令嬢エルネスティーネには結婚目前に控えた婚約者がいる。 23歳の公爵家当主ジークヴァルト。 年上の婚約者には気付けば幼いエルネスティーネよりも年齢も近く、彼女よりも女性らしい色香を纏った女友達が常にジークヴァルトの傍にいた。 ただの女友達だと彼は言う。 だが偶然エルネスティーネは知ってしまった。 彼らが友人ではなく想い合う関係である事を……。 また政略目的で結ばれたエルネスティーネを疎ましく思っていると、ジークヴァルトは恋人へ告げていた。 エルネスティーネとジークヴァルトの婚姻は王命。 覆す事は出来ない。 溝が深まりつつも結婚二日前に侯爵邸へ呼び出されたエルネスティーネ。 そこで彼女は彼の私室……寝室より聞こえてくるのは悍ましい獣にも似た二人の声。 二人がいた場所は二日後には夫婦となるであろうエルネスティーネとジークヴァルトの為の寝室。 これ見よがしに少し開け放たれた扉より垣間見える寝台で絡み合う二人の姿と勝ち誇る彼女の艶笑。 エルネスティーネは限界だった。 一晩悩んだ結果彼女の選んだ道は翌日愛するジークヴァルトへ晴れやかな笑顔で挨拶すると共にバルコニーより身を投げる事。 初めて愛した男を憎らしく思う以上に彼を心から愛していた。 だから愛する男の前で死を選ぶ。 永遠に私を忘れないで、でも愛する貴方には幸せになって欲しい。 矛盾した想いを抱え彼女は今――――。 長い間スランプ状態でしたが自分の中の性と生、人間と神、ずっと前からもやもやしていたものが一応の答えを導き出し、この物語を始める事にしました。 センシティブな所へ触れるかもしれません。 これはあくまで私の考え、思想なのでそこの所はどうかご容赦して下さいませ。

巻添え召喚されたので、引きこもりスローライフを希望します!

あきづきみなと
ファンタジー
階段から女の子が降ってきた!? 資料を抱えて歩いていた紗江は、階段から飛び下りてきた転校生に巻き込まれて転倒する。気がついたらその彼女と二人、全く知らない場所にいた。 そしてその場にいた人達は、聖女を召喚したのだという。 どちらが『聖女』なのか、と問われる前に転校生の少女が声をあげる。 「私、ガンバる!」 だったら私は帰してもらえない?ダメ? 聖女の扱いを他所に、巻き込まれた紗江が『食』を元に自分の居場所を見つける話。 スローライフまでは到達しなかったよ……。 緩いざまああり。 注意 いわゆる『キラキラネーム』への苦言というか、マイナス感情の描写があります。気にされる方には申し訳ありませんが、作中人物の説明には必要と考えました。

転生貴族のスローライフ

マツユキ
ファンタジー
現代の日本で、病気により若くして死んでしまった主人公。気づいたら異世界で貴族の三男として転生していた しかし、生まれた家は力主義を掲げる辺境伯家。自分の力を上手く使えない主人公は、追放されてしまう事に。しかも、追放先は誰も足を踏み入れようとはしない場所だった これは、転生者である主人公が最凶の地で、国よりも最強の街を起こす物語である *基本は1日空けて更新したいと思っています。連日更新をする場合もありますので、よろしくお願いします

だから聖女はいなくなった

澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
「聖女ラティアーナよ。君との婚約を破棄することをここに宣言する」 レオンクル王国の王太子であるキンバリーが婚約破棄を告げた相手は聖女ラティアーナである。 彼女はその婚約破棄を黙って受け入れた。さらに彼女は、新たにキンバリーと婚約したアイニスに聖女の証である首飾りを手渡すと姿を消した。 だが、ラティアーナがいなくなってから彼女のありがたみに気づいたキンバリーだが、すでにその姿はどこにもない。 キンバリーの弟であるサディアスが、兄のためにもラティアーナを探し始める。だが、彼女を探していくうちに、なぜ彼女がキンバリーとの婚約破棄を受け入れ、聖女という地位を退いたのかの理由を知る――。 ※7万字程度の中編です。

処理中です...