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結婚式編

結婚式編1

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 朝日と長年の習慣で、公爵家の使用人たちが目を覚まし始めた頃、もう一度、旅支度を整えたアマリーは一人ひっそりと裏口から姿を見せた。
 ともすれば、目に込み上げる熱いものに押し流されそうになる自分を叱咤しながら、足を踏み出したとき、聞きなれた穏やかな声がかけられた。

「アマリー様。馬車の用意ができております」

 驚きに弾かれたように振り返れば、いつものように美しい姿勢で佇むジェイムスが控えていた。彼の背後には確かに馬車も見え、御者のケヴィンが手を振っている。
 朝早いこの時間に、ジェイムスの一部の隙も無い身だしなみは、明らかにアマリーの旅立ちを知り、用意していたことをうかがわせる。
 どうして自分が出ていくことをジェイムスは気が付いたのかと、呆然と立ち尽くすアマリーから、彼は荷物をさりげなく引き受け、美しく無駄のない動きで馬車に詰め込み、彼女を馬車に案内する。
 驚きから抜け出せず、導かれるままに腰を下ろしたアマリーは、ジェイムスが扉を閉める前にアマリーに向けいつもの挨拶をしたときに、はっと現実に引き戻された。

「いってらっしゃいませ」

 穏やかな声に相応しい、穏やかな慈愛に満ちた笑顔を浮かべるジェイムスをみて、アマリーの胸に万感の思いが押し寄せた。

「ジェイムスさん…!お世話になりました」

 このような言葉では、そして、どんな言葉であろうとも言い尽くせない思いは、ジェイムスに伝わったのだろうか。
 彼は笑みを深めると、ゆったりと扉を閉め、見惚れるような美しいお辞儀をした。
 それを合図に馬車は進みだした。
 アマリーは馬車の窓から、遠ざかるジェイムスを、そして10年以上自分を包み込んでくれた屋敷を、滲む視界に焼き付けながら、心の中で、この世の何より大切な愛しい人への別れを告げていた。


◇◇
 屋敷が完全に見えなくなると、アマリーはもう自分を抑えることを諦めた。
 涙は後から後から零れ続ける。屋敷から遠ざかれば遠ざかるほど、リチャードの記憶が鮮やかに蘇った。
 
 朝、アマリーが起床を促しに訪れると、ゆっくりと金の睫毛を上げ、濃い青の瞳に彼女を映し、ふわりと零す笑顔。
 アマリーが仕事を上手くこなせず落ち込んだとき、困ったように僅かに眉を寄せ、「僕の執事は仕事に打ち込みすぎる」と呟く彼の声。
 ヴァイオリンで曲を弾き終えた時、瞳を輝かせ、誰よりも熱心に送ってくれた拍手。
 そして――、昨夜、自分を力強く抱きしめ、熱い口づけを落とし、何度も名を呼んでくれた彼の甘く熱い声――。

――リチャード様…!
 
 アマリーは押し寄せる記憶から自分を護るように、ヴァイオリンケースを抱きしめた。
 
 引き裂かれるような胸の痛みに、身も世もなく涙を流し続けていたアマリーは、馬車が停まったことに気が付き、慌ててハンカチで目元を拭った。
 泣き腫れた目をごまかすことはできないが、朝早い時間に付き合ってくれたケヴィンにせめて笑顔で感謝を告げたかった。
 笑顔でケヴィンに挨拶した後は、オスカーの下でヴァイオリンを指が動かなくなるまで弾き続けるのだと、心に唱え、アマリーは息を吸い込み、笑顔を作った。
 すぐに扉が開けられ、車内に幾分温かくなった朝の空気が入り込む。
 用意された階段を降り、作り上げた笑顔をケヴィンに向けようとしたアマリーは、目を見開いた。

――え…?

 馬車の前に、オスカーはいなかった。そして、そこはオスカーの住む借家でもなかった。
 重厚な石造りの屋敷、その屋敷を護るように枝を伸ばす欅の大木には、幸か不幸か見覚えがあった。
 場所を理解したアマリーは、行き先を間違えられたとしても、ここにだけは間違えて欲しくなかったと心中で嘆く暇もなかった。
 屋敷の前には、一分の乱れもなく整えられたお仕着せを着こなした老若男女30人ほどが、整列していたのだ。
 列の中央には、お仕着せでなく、一際上質な艶のある正絹のヴェストとトラウザーズに身を包み、歳を感じさせない背筋の伸びた姿勢でこちらを見つめる老齢の男性がいた。
 屋敷の主、モートン伯爵ハーベイだ。
 彼の姿を認めた瞬間、泣き疲れ、加えて予想外の事態に鈍くなっていたアマリーの意識は、鮮明になった。すっと背筋を伸ばし、威儀を正す。たとえ、昨日辞めたばかりとは言え、ここではアマリーはフォンド公爵家を代表しているのだ。
 
 なぜ、ケヴィンがアマリーをここに連れてきたのか、全く状況を把握できていなかったが、そのようなことを気取られるわけにはいかなかった。執事として培った、臨機応変な対処を笑顔と共にこなす。

「モートン卿。そして皆様。おはようございます。このような時間に皆様にお出迎え頂きましたこと、深く感謝申し上げます」

 ――アマリー様。困ったときこそ、上辺を取り繕わず、真心のみで対応するのです。

 ジェイムスから教わった執事の対処法は功を奏したようだ。朝早い時分に待たされていた30人ほどの使用人は温かな笑顔を向けてくれた。

 しかし、正面のハーベイの厳めしい顔は変わらなかった。じっとアマリーを見つめた後、

「随分、ゆっくりとした馬車だな。もういつもの朝食の時間にギリギリではないか。急ぎなさい」

 憎まれ口を叩くと、さっとアマリーに背を向けて屋敷に向かって歩き出したのだった。
 
 その後ろ姿を見送りながら、アマリーは、内心、首を傾げた。
 ハーベイの言葉は到着が遅いという当てこすりだけで、アマリーの訪問も、非常識な時間に訪れたことにも、不満はぶつけられていない。それどころか遠回しに朝食の席にも招待されている。
 加えて、アマリーの疑問を深めたのは、ハーベイの発言の後、後ろに控える使用人たちが、一斉に落胆し、深い溜息を零したことだった。

 ますます謎が深まる状況に、助けを求めてさり気なくケヴィンを見遣ると、彼は無情にもすでに御者台に上り、「アマリー様、ごゆっくり」と笑顔でそれだけ告げると、馬車を走らせて去ってしまったのだった。

 取り残されたアマリーは、遠ざかるケヴィンを執事の矜持で何とか笑顔を浮かべて見送る自分を褒めたい気持ちだった。


◇◇
「まぁ、初めてしっかりお顔を拝見できましたけれど、やはりレイチェル様と似てらっしゃる…!目元などはそっくりですわ…!」

 朗らかな声がよく似合う、丸々として健康そうな初老の女性は、エマと名乗り、アマリー付きの侍女を務めるという。挨拶の後、アマリーの母、レイチェルの幼いころから勤めていると話し出し、部屋まで案内してくれた。
 この部屋は、客室ではなくレイチェルの部屋だったことも教えてくれた。

「これからはアマリー様のお部屋です。今はレイチェル様が使われた頃のままですが、いつも欠かさず手入れをしていましたのでご安心ください。もちろん、お好みでないところがあればお申し付けください。旦那様もそこは気になさっておられました」

 母の部屋だと聞いて、明るい色調で整えられた部屋を見回していたアマリーは、エマの言葉に目を見開いた。

「いいえ、お母様の思い出の残るお部屋をそのままに使わせてください。そもそも長くお世話になることはできない身ですから」

 どういう事情でアマリーがこちらに連れてこられたにせよ、勘当した娘の子どもが長くここにいることはできない。改装してもらうなどもっての外だろう。
 それに、きっとハーベイも母の思い出は残しておきたいはずだ、そう思っての言葉だったが、エマは少し眉を寄せて、寂しそうな顔を見せた。エマの表情の原因は分からないものの、朗らかな彼女の表情を曇らせてしまったことに気が咎め、アマリーは強いて朗らかな顔を作り、朝食の時間を尋ねた。
 エマの顔に瞬時に明るさが戻った。

「そうでした!まずは服を着替えていただけますか?」

 満面の笑みを浮かべて、アマリーを衣装部屋へ案内してくれる。もう一人、アマリー付きになると紹介された、アマリーより少し年上と思われるジュリアも、目を輝かせてアマリーを促した。
 二人のやや興奮した様子に、思わずアマリーは微笑を浮かべた。
 意外なことに、厳めしいハーベイの下で働く彼女たちは、主とは異なり、明るく陽気で、親しみやすい雰囲気を持っているようだ。
 二人につられて、少し浮き立つ気分で衣裳部屋に足を踏み入れたアマリーは、目を丸くした。

 部屋の壁は隙間もない程、多くのドレスがかけられていた。リチャードの衣裳部屋よりも密度は高い。

「まぁ、お母様はこんなにドレスをお持ちだったのですか…」

 勘当され、倹しい生活を送る母の姿しか知らないアマリーは、呆然と呟いていた。
 その途端、溢れんばかりの笑顔で一枚のドレスを取り出していたエマと、隣に控えていたジュリアの顔が固まった。
 二人の間で視線が飛び交う。

――どうしたのかしら?

 こちらから問いかけるべきか思案しながら、見るともなくエマの取り出したドレスに視線を遣り、アマリーはもう一度目を見開いた。
 鎖骨を美しく見せる浅く横長の襟ぐりは、繊細なレースで縁取られ、ドレスの形はスカートに膨らみがなく身体の線が強調される細身のデザイン。直線的な形のスカート部分は素材の違う2枚を組み合わされている。
 まさに今年の流行のドレスだった。

 はっと手前にかけてあるドレスを見れば、膝まで身体の線に沿う形で、裾にかけてはふわりと広がっていくデザインだ。
 一昨年から流行したもので、少し動きづらいという声から、今年の形へと変化したのだ。

――え…?

 アマリーは、本日2度目となる絶句に陥った。
 アマリーの驚いた様子に、ドレスの製作時期を知られたことを気づいた二人は、何とも言えない複雑な表情を見せた。しばらくして、諦めた二人は言いづらそうに口を開いた。

「アマリー様のお誕生日に毎年用意なさっていたのです…」
「旦那様はあの性格でいらっしゃるので、結局お渡しになれず、年々貯まって…」

 夢にも思わない事実に、アマリーは壁にかけられているドレスに視線を走らせた。
 確かに奥へ行くほどドレスは小さくなっていく。小さな、小さな、赤ちゃん向けではないかと思われるものが最奥に幾つもあった。色とりどりの、愛らしいその時々の流行のドレス。
 
 勘当した娘の死に目にも顔を見せなかったハーベイだ。孫への愛情というよりは、伯爵家の血を引く者がみすぼらしくないようにとの体面を重んじてのことだったかもしれない。
 けれども、長い年月をかけて積み重ねられたハーベイの思いが、この部屋に確かに満ちていた。

『可愛げのない服だ』
『いつ見ても代り映えのない服だ』
『流行というものを知らないのか』

 公爵家を訪れる度に、ハーベイが執事のお仕着せを着たアマリーに向けてまき散らした毒のある言葉が、不思議なほど懐かしく、温かく思い出された。
 あの刺々しい言葉の陰に、このようなハーベイの思いが隠されていたなんて、思いもしなかった。言葉の裏を考えようともしていなかった。

 毒を吐いた後、この部屋のドレスを思い出していたのだろうか。この部屋のドレスを思い出して毒づいていたのだろうか。
 どちらにしても、厳めしく偏屈なハーベイが、少しばかり温かく、少しばかり可愛らしく思えてしまう。

 アマリーは最奥の小さなドレスに目を向けた。
「もし、私が女の子を授かったら、このドレスを使わせていただこうかしら」

 リチャードを忘れられない自分にはあり得ない未来だが、夢見るぐらいは許されるだろう。アマリーが幸せな夢に目を細めると、エマとジュリアは勢いよく頷いた。

「ぜひ、そうして下さい!ようやくこのドレスたちが日の目を見ることに…!」
「きっと旦那様は、また、ひ孫の為にお作りになってしまわれるでしょうけれど、いくつあっても困りませんとも!」

 3人で笑み会った後、アマリーはエマが取り出していた今年の流行のドレスに着替えた。
 公爵家の仕立て屋に手を回して作らせたというドレスは、ぴったりと今の彼女のサイズで作られていた。
 長年親しんだ執事のお仕着せに近いヴェストとトラウザーズとの別れは、一瞬、アマリーの胸に痛みを走らせたけれど、彼女を思って作られた、淡い黄色の最新の上質なドレスは、彼女の心を浮き立たせてくれた。
 とはいえ、執事を目指してから、ドレスを身に着けるのはアマリーには初めてのことだ。どことなく恥ずかしさを覚えて、アマリーは自分の姿を鏡で見ることはできなかった。

――そのため、自分の首元と鎖骨を見て、エマとジュリアが頬を染めて鏡越しに生温かくも困ったように視線を交わし合っていることには、不覚にも気が付かなかったのだ。
 そして、それは最悪の形でアマリーに知らされることになる。


◇◇
「お待たせしてしまいました」

 食堂に着いたアマリーは、既に席についていたハーベイに謝罪した。
 扉近くに控えていたモートン家執事のフレッドにも目で詫びる。仕事でこの屋敷に訪れてハーベイの毒のある言葉で傷つく度に、そっと優しい笑顔と言葉をかけてくれた、笑い皺が刻まれている、この老練な執事は、今も、相手を釣込むような温かな笑顔を返してくれた。

 対して、ハーベイの厳めしい顔は変わらない。
 僅かに目を細めて、ほんの少しの間アマリーのドレス姿に目を留めたかと思うと、すっと目を伏せた。

「女性の支度というのは、いつも無駄に時間がかかることを忘れるほど耄碌はしていない。早く席につきなさい」
 
 何ともわかりにくいけれど、どうやら待たせたことは気にしなくてよいようだ。
 今まで棘のある言葉としか見ていなかった言葉の裏が見え、アマリーは微笑した。
 フレッドが引いてくれた椅子に腰を落ち着け、正面のハーベイに視線を合わせると、アマリーは心からの笑顔で、大切な思いを言葉に紡いだ。

「ドレスを頂きました。ありがとうございます」

 ハーベイの目が微かに見開かれた。今までのアマリーなら見落としてしまうほど、微かではあったが、確かに見開かれた。
 食堂に沈黙が落ちた。息を止めたかのように僅かに目を見開いたままのハーベイに、アマリーが言葉を継ごうかと思い始めた頃、ハーベイは目を伏せ、そして、再び目を見開いた。カッと音が聞こえるのではないこと思えるほど、誰が見ても、はっきりと見開いた。

――え…?

 その豹変ぶりにアマリーは言葉を失った。
 呆然とハーベイを見つめ、彼が奥歯を噛みしめ、額には青筋が浮かび上がる様をつぶさに見てしまう。
 激昂、という言葉が、ぼんやりとアマリーの頭に浮かんだ。
 普通に考えれば、アマリーに対して激昂していると考えるのが自然だが、幸か不幸か、大きな違和感があった。
 ハーベイの視線が合わないのだ。彼の視線は、アマリーの喉元辺りで固定されている。刺すような視線で喉元を睨んでいる。

 私の喉元は、そんなにおかしいのかしら。

 いつも執事のお仕着せではシャツを着て、喉元は襟で隠れている。自分の喉元がおかしいことなど知る機会がなかった。
 いえ、たとえおかしくとも、人はここまで他人の喉元に激昂するものだろうか。

 全くハーベイの激情が理解できずにいるうちに、ハーベイは喉元を睨み据えたまま、ゆらりと立ち上がり、拳と共にナプキンを食卓に叩きつけた。
 乱暴な仕草と大きな音に、アマリーがびくりと身体を竦ませると、ハッとハーベイの視線がアマリーの瞳に移った。一瞬、激情が消え、苦しそうな表情が垣間見えたが、即座に視線は外され、足音高く食堂から立ち去ってしまった。

 取り残されたアマリーは、自分が冷えていくのを感じた。
 衣裳部屋でハーベイのことを少し近く感じることができたのに、やはり彼は遠い存在だった。淡い黄色のドレスが、急に重く冷たく感じられて、そっと目を閉じた時、

「朝食を始めてもよろしいでしょうか」

 柔らかな声がふわりと投げかけられた。
 弾かれたように目を開ければ、フレッドが穏やかな笑顔を浮かべている。
 屋敷の主が席から離れてしまったのに、老練なフレッドは微塵も動揺を見せていなかった。むしろ、柔和な顔にはどこか悪戯めいた輝きすらある。
 戸惑うアマリーの心の内はお見通しだったのだろう。
 配膳の準備の手を止めて、フレッドはアマリーに視線を合わせた。

「旦那様はアマリーお嬢様にお怒りになられたのではありませんよ」

 一度冷えてしまった心には、その温かな言葉は届かなかった。

――私には怒っていなくとも、私の喉元には怒っていたわ。

 内心で独り言ちながら、アマリーはフレッドの心遣いを無駄にしないよう、強いて笑んで頷いた。
 けれども、長きにわたって、愛想など欠片もない偏屈な主人の態度を、柔らかな物腰で補ってきた老練な執事に、その笑みが通用するはずはなかった。

 フレッドは茶目っ気を隠さず、アマリーに囁いた。
 
「アマリーお嬢様。今度から、想いの証はドレスで隠れる場所に着けてほしいと、愛しい方にお願いなさいませ」

 優しい、けれど、はっきりと笑みを含んだ声で教えられた事実が、じわじわとアマリーの中に沁み込むと、アマリーの顔は真紅に染め上がった。

――リチャード様…!!!

 アマリーは、羞恥と恨みを叩きつけて、『愛しい人』の名を心の中で叫んでいた。
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