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本編
とても誠実な婚約破棄をされてしまいました
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気がつけば微睡んでいても不思議ではないほどの、心地よい日差しの中、フェリシアは口を付けていたカップをゆっくりと卓に置いた。
それは公爵令嬢として恥じることのない所作だったけれど、恐ろしいほど静まり返った応接間には、小さく音が響いてしまった。
それほどに、応接間には、いまだかつてない緊張をはらんだ静寂が広がっていたのだが、それも無理もないことと思えてしまう。
なにしろ、8年も婚約していた王太子レイモンドに婚約破棄を言い渡されているのだ。
このようなことになる予兆など全くなかったけれど、――少なくともフェリシアは全く感じていなかったけれど、幸か不幸か、フェリシアは婚約破棄をされること自体に衝撃を受けることはなかった。
衝撃を味わう余裕がなかったのだ。
なぜなら――、
フェリシアはそっと卓に置かれた紙に目を遣り、溜息を飲み込んだ。
婚約破棄の経験など、この瞬間までなかったけれど、これだけは断言できた。
このような『誠実な』婚約破棄は、もう後にも先にも聞くことはないだろう。
そう、『誠実な』婚約破棄なのだ。
「誠実」という言葉と「婚約破棄」という言葉が組み合わさるなんて、想像したことがなかったけれど、組み合わさっている。しっかりと。
巷で流行りの本や劇のように、レイモンドにしなだれかかるご令嬢などいない。
もちろん身に覚えのない断罪とやらもない。
本や劇でお決まりの、衆目の集まる夜会の場で申し渡されているのでもない。
破棄の申し渡しは、侍従任せにするのではなく、王太子自らが公爵家に足を運んでのことだ。
まぁ、ここまでは、常識というものを備えた人間なら当然のことと言ってもよいだろう。
けれども――、
フェリシアは、卓に置かれた、何度見直しても消えない上質な紙に、もう一度目を遣った。
やはり紙はそこにあり、書かれた文字も残念ながら消えてはいない。
紙に書かれているものは、破棄に対する賠償だ。
その内容は僅か3項目だけだったが、一度目を通せば、どれだけ忘れたくとも忘れられない衝撃を受けるものだった。
『婚約破棄されたフェリシアが婚姻するまで、婚約破棄したレイモンドは婚約も婚姻もしない』
誠実な謝罪の形――、といえる…けれど…、このような条件が婚約破棄につくことは一般的なのだろうか。フェリシアが生涯婚姻しなければ、レイモンドは婚姻できなくなってしまう。
――婚約破棄する意味が――、
フェリシアは、この点についてそれ以上考えることは放棄した。
婚約破棄の「常識」などは知らないし、この条件を読む限り、レイモンドに特に相手もいないのに婚約破棄されたことがうかがえてしまい、とめどなく複雑な思いが沸き上がってしまいそうだったからだ。
賠償はまだ続く。
『王家が所有するトレス金山をフェリシアに譲渡する』
まぁ、破棄という形をとるなら、何らかの経済的賠償は必要とは思う。
けれど、言いたい。
何もこのような莫大な賠償は必要ないのではないだろうか。
賠償を金山とすることにも驚愕したが、このトレス金山は、王家の所有する鉱山の中で最も豊富な採掘量を誇っているのだ。
王家所有に限定せずとも、このゲニアス国の特徴を挙げるとしたら、必ず挙げられる国の経済の要と言っていい鉱山だ。
――それを賠償に差し出すなんて、あり得ないでしょう。
フェリシアは頭を抱える思いがした。
どうやって王家の了承を得たのだろう。
了承などしてほしくなかった、なぜ了承したのかと内心で恨んでみても、しっかりと賠償に盛り込まれてしまっている。
なぜなのだろう。全く理解できない。
そもそもフェリシアのウィアート家は、王家に勝るとも劣らぬ富を持っている。経済的な賠償は、率直に言えば、意味をなさないというのに――。
そのような反論に備えるかのように、賠償は止めの一撃を用意していた。
フェリシアはゆっくりと視線を動かした。
『レイモンドの有する王位継承権第1位を譲渡する』
初めてこれを目にしたとき、礼儀作法も忘れて目を見開いてしまった。
一体どれだけの根回しをしたら、この条件を盛り込むことができたのだろう。
もう、想像するだけで眩暈が起きそうだ。
実際に眩暈が起こりそうで、フェリシアは瞳を閉じたものの、穏やかな心地には程遠く、脳裏には、現実逃避気味な、けれども見逃すことのできない事実が浮かんでいた。
金山といい、継承権といい、これだけ大掛かりなレイモンドの動きを、ウィアート家が把握できなかったのは、国の軍事を任される立場としては、大きな失態だ。諜報部門の刷新が必要かもしれない。
それとも、私にだけ知らされていなかったのかしら――。
ちらりと隣に座る父を見れば、苦虫をかんで砕いてすりつぶしたように、眉間の皺がこのまま固まりそうな勢いであるものの、軍で見せる殺気を孕んではいない。
父は把握していたのか、はたまた驚きを隠しているのか、どちらなのかは分からなかったけれど、いずれにせよ、この件はフェリシアの決断に任されたということは分かった。
決断を任されたとは言っても…。
フェリシアは、目の前に座るレイモンドを見つめた。
このような時でも、見る者の時間を止めると評される彼の美貌は健在だ。
白皙の顔を、知を感じさせる鮮やかな青の瞳が彩り、整った容姿を引きたてる。応接間に射しこむ日差しを受けて彼の金の髪は輝き、一層の凄みを加えていた。
端麗さは顔だけではない。8頭身の均整の取れた体格は、無駄のない筋肉を持ち、全身で美を体現していた。
ただ座るだけで、そこに別の空間が生まれたかのように見えてしまう。完璧な美だ。
けれど、残念ながら、今日のレイモンドの美は、フェリシアの時を止めてはくれなかった。
8年で見慣れているということもあるけれど、何より、フェリシアにはその美が物足りなく思えたのだ。
いつも自分に向けてくれていた、ふわりと自分の胸を温めてくれた笑顔が、影も形も見当たらない。
表情が抜け落ちた彼の顔は、生きていることを疑ってしまうような冷たさがあった。
この距離でレイモンドとゆっくり顔を合わせるのは最後になると思うと、彼の笑顔が懐かしくて仕方なかった。
しばらく彼の顔を眺めてしまったものの、彼の顔に笑顔も表情も戻ることはなかった。
そもそも視線すら合うことはなかった。
――まぁ、婚約破棄する相手に、笑顔を期待してもいけないのでしょうね。
苦笑を零し、そして、フェリシアは決断した。
ここまで根回しされた時点でもう結論は出されていたのだ。
「承知いたしました」
静まり返った部屋に、その声が響いた瞬間、類を見ない誠実な婚約破棄が成立し、レイモンドとフェリシアの8年にわたる婚約は終わりを告げたのだった。
それは公爵令嬢として恥じることのない所作だったけれど、恐ろしいほど静まり返った応接間には、小さく音が響いてしまった。
それほどに、応接間には、いまだかつてない緊張をはらんだ静寂が広がっていたのだが、それも無理もないことと思えてしまう。
なにしろ、8年も婚約していた王太子レイモンドに婚約破棄を言い渡されているのだ。
このようなことになる予兆など全くなかったけれど、――少なくともフェリシアは全く感じていなかったけれど、幸か不幸か、フェリシアは婚約破棄をされること自体に衝撃を受けることはなかった。
衝撃を味わう余裕がなかったのだ。
なぜなら――、
フェリシアはそっと卓に置かれた紙に目を遣り、溜息を飲み込んだ。
婚約破棄の経験など、この瞬間までなかったけれど、これだけは断言できた。
このような『誠実な』婚約破棄は、もう後にも先にも聞くことはないだろう。
そう、『誠実な』婚約破棄なのだ。
「誠実」という言葉と「婚約破棄」という言葉が組み合わさるなんて、想像したことがなかったけれど、組み合わさっている。しっかりと。
巷で流行りの本や劇のように、レイモンドにしなだれかかるご令嬢などいない。
もちろん身に覚えのない断罪とやらもない。
本や劇でお決まりの、衆目の集まる夜会の場で申し渡されているのでもない。
破棄の申し渡しは、侍従任せにするのではなく、王太子自らが公爵家に足を運んでのことだ。
まぁ、ここまでは、常識というものを備えた人間なら当然のことと言ってもよいだろう。
けれども――、
フェリシアは、卓に置かれた、何度見直しても消えない上質な紙に、もう一度目を遣った。
やはり紙はそこにあり、書かれた文字も残念ながら消えてはいない。
紙に書かれているものは、破棄に対する賠償だ。
その内容は僅か3項目だけだったが、一度目を通せば、どれだけ忘れたくとも忘れられない衝撃を受けるものだった。
『婚約破棄されたフェリシアが婚姻するまで、婚約破棄したレイモンドは婚約も婚姻もしない』
誠実な謝罪の形――、といえる…けれど…、このような条件が婚約破棄につくことは一般的なのだろうか。フェリシアが生涯婚姻しなければ、レイモンドは婚姻できなくなってしまう。
――婚約破棄する意味が――、
フェリシアは、この点についてそれ以上考えることは放棄した。
婚約破棄の「常識」などは知らないし、この条件を読む限り、レイモンドに特に相手もいないのに婚約破棄されたことがうかがえてしまい、とめどなく複雑な思いが沸き上がってしまいそうだったからだ。
賠償はまだ続く。
『王家が所有するトレス金山をフェリシアに譲渡する』
まぁ、破棄という形をとるなら、何らかの経済的賠償は必要とは思う。
けれど、言いたい。
何もこのような莫大な賠償は必要ないのではないだろうか。
賠償を金山とすることにも驚愕したが、このトレス金山は、王家の所有する鉱山の中で最も豊富な採掘量を誇っているのだ。
王家所有に限定せずとも、このゲニアス国の特徴を挙げるとしたら、必ず挙げられる国の経済の要と言っていい鉱山だ。
――それを賠償に差し出すなんて、あり得ないでしょう。
フェリシアは頭を抱える思いがした。
どうやって王家の了承を得たのだろう。
了承などしてほしくなかった、なぜ了承したのかと内心で恨んでみても、しっかりと賠償に盛り込まれてしまっている。
なぜなのだろう。全く理解できない。
そもそもフェリシアのウィアート家は、王家に勝るとも劣らぬ富を持っている。経済的な賠償は、率直に言えば、意味をなさないというのに――。
そのような反論に備えるかのように、賠償は止めの一撃を用意していた。
フェリシアはゆっくりと視線を動かした。
『レイモンドの有する王位継承権第1位を譲渡する』
初めてこれを目にしたとき、礼儀作法も忘れて目を見開いてしまった。
一体どれだけの根回しをしたら、この条件を盛り込むことができたのだろう。
もう、想像するだけで眩暈が起きそうだ。
実際に眩暈が起こりそうで、フェリシアは瞳を閉じたものの、穏やかな心地には程遠く、脳裏には、現実逃避気味な、けれども見逃すことのできない事実が浮かんでいた。
金山といい、継承権といい、これだけ大掛かりなレイモンドの動きを、ウィアート家が把握できなかったのは、国の軍事を任される立場としては、大きな失態だ。諜報部門の刷新が必要かもしれない。
それとも、私にだけ知らされていなかったのかしら――。
ちらりと隣に座る父を見れば、苦虫をかんで砕いてすりつぶしたように、眉間の皺がこのまま固まりそうな勢いであるものの、軍で見せる殺気を孕んではいない。
父は把握していたのか、はたまた驚きを隠しているのか、どちらなのかは分からなかったけれど、いずれにせよ、この件はフェリシアの決断に任されたということは分かった。
決断を任されたとは言っても…。
フェリシアは、目の前に座るレイモンドを見つめた。
このような時でも、見る者の時間を止めると評される彼の美貌は健在だ。
白皙の顔を、知を感じさせる鮮やかな青の瞳が彩り、整った容姿を引きたてる。応接間に射しこむ日差しを受けて彼の金の髪は輝き、一層の凄みを加えていた。
端麗さは顔だけではない。8頭身の均整の取れた体格は、無駄のない筋肉を持ち、全身で美を体現していた。
ただ座るだけで、そこに別の空間が生まれたかのように見えてしまう。完璧な美だ。
けれど、残念ながら、今日のレイモンドの美は、フェリシアの時を止めてはくれなかった。
8年で見慣れているということもあるけれど、何より、フェリシアにはその美が物足りなく思えたのだ。
いつも自分に向けてくれていた、ふわりと自分の胸を温めてくれた笑顔が、影も形も見当たらない。
表情が抜け落ちた彼の顔は、生きていることを疑ってしまうような冷たさがあった。
この距離でレイモンドとゆっくり顔を合わせるのは最後になると思うと、彼の笑顔が懐かしくて仕方なかった。
しばらく彼の顔を眺めてしまったものの、彼の顔に笑顔も表情も戻ることはなかった。
そもそも視線すら合うことはなかった。
――まぁ、婚約破棄する相手に、笑顔を期待してもいけないのでしょうね。
苦笑を零し、そして、フェリシアは決断した。
ここまで根回しされた時点でもう結論は出されていたのだ。
「承知いたしました」
静まり返った部屋に、その声が響いた瞬間、類を見ない誠実な婚約破棄が成立し、レイモンドとフェリシアの8年にわたる婚約は終わりを告げたのだった。
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