上 下
1 / 12
本編

とても誠実な婚約破棄をされてしまいました

しおりを挟む
 気がつけば微睡んでいても不思議ではないほどの、心地よい日差しの中、フェリシアは口を付けていたカップをゆっくりと卓に置いた。
 それは公爵令嬢として恥じることのない所作だったけれど、恐ろしいほど静まり返った応接間には、小さく音が響いてしまった。
 それほどに、応接間には、いまだかつてない緊張をはらんだ静寂が広がっていたのだが、それも無理もないことと思えてしまう。
 
 なにしろ、8年も婚約していた王太子レイモンドに婚約破棄を言い渡されているのだ。
 
 このようなことになる予兆など全くなかったけれど、――少なくともフェリシアは全く感じていなかったけれど、幸か不幸か、フェリシアは婚約破棄をされること自体に衝撃を受けることはなかった。
 衝撃を味わう余裕がなかったのだ。
 
 なぜなら――、
 
 フェリシアはそっと卓に置かれた紙に目を遣り、溜息を飲み込んだ。
 婚約破棄の経験など、この瞬間までなかったけれど、これだけは断言できた。
 
 このような『誠実な』婚約破棄は、もう後にも先にも聞くことはないだろう。
 そう、『誠実な』婚約破棄なのだ。
 「誠実」という言葉と「婚約破棄」という言葉が組み合わさるなんて、想像したことがなかったけれど、組み合わさっている。しっかりと。

 巷で流行りの本や劇のように、レイモンドにしなだれかかるご令嬢などいない。
 もちろん身に覚えのない断罪とやらもない。
 本や劇でお決まりの、衆目の集まる夜会の場で申し渡されているのでもない。
 破棄の申し渡しは、侍従任せにするのではなく、王太子自らが公爵家に足を運んでのことだ。

 まぁ、ここまでは、常識というものを備えた人間なら当然のことと言ってもよいだろう。

 けれども――、

 フェリシアは、卓に置かれた、何度見直しても消えない上質な紙に、もう一度目を遣った。
 やはり紙はそこにあり、書かれた文字も残念ながら消えてはいない。
 紙に書かれているものは、破棄に対する賠償だ。
 その内容は僅か3項目だけだったが、一度目を通せば、どれだけ忘れたくとも忘れられない衝撃を受けるものだった。

『婚約破棄されたフェリシアが婚姻するまで、婚約破棄したレイモンドは婚約も婚姻もしない』

 誠実な謝罪の形――、といえる…けれど…、このような条件が婚約破棄につくことは一般的なのだろうか。フェリシアが生涯婚姻しなければ、レイモンドは婚姻できなくなってしまう。

――婚約破棄する意味が――、

 フェリシアは、この点についてそれ以上考えることは放棄した。
 婚約破棄の「常識」などは知らないし、この条件を読む限り、レイモンドに特に相手もいないのに婚約破棄されたことがうかがえてしまい、とめどなく複雑な思いが沸き上がってしまいそうだったからだ。
 
 賠償はまだ続く。

『王家が所有するトレス金山をフェリシアに譲渡する』

 まぁ、破棄という形をとるなら、何らかの経済的賠償は必要とは思う。
 けれど、言いたい。
 何もこのような莫大な賠償は必要ないのではないだろうか。
 賠償を金山とすることにも驚愕したが、このトレス金山は、王家の所有する鉱山の中で最も豊富な採掘量を誇っているのだ。
 王家所有に限定せずとも、このゲニアス国の特徴を挙げるとしたら、必ず挙げられる国の経済の要と言っていい鉱山だ。
 
――それを賠償に差し出すなんて、あり得ないでしょう。

 フェリシアは頭を抱える思いがした。
 どうやって王家の了承を得たのだろう。
 了承などしてほしくなかった、なぜ了承したのかと内心で恨んでみても、しっかりと賠償に盛り込まれてしまっている。
 なぜなのだろう。全く理解できない。
 そもそもフェリシアのウィアート家は、王家に勝るとも劣らぬ富を持っている。経済的な賠償は、率直に言えば、意味をなさないというのに――。

 そのような反論に備えるかのように、賠償は止めの一撃を用意していた。
 フェリシアはゆっくりと視線を動かした。

『レイモンドの有する王位継承権第1位を譲渡する』

 初めてこれを目にしたとき、礼儀作法も忘れて目を見開いてしまった。
 一体どれだけの根回しをしたら、この条件を盛り込むことができたのだろう。
 もう、想像するだけで眩暈が起きそうだ。

 実際に眩暈が起こりそうで、フェリシアは瞳を閉じたものの、穏やかな心地には程遠く、脳裏には、現実逃避気味な、けれども見逃すことのできない事実が浮かんでいた。
 金山といい、継承権といい、これだけ大掛かりなレイモンドの動きを、ウィアート家が把握できなかったのは、国の軍事を任される立場としては、大きな失態だ。諜報部門の刷新が必要かもしれない。

 それとも、私にだけ知らされていなかったのかしら――。

 ちらりと隣に座る父を見れば、苦虫をかんで砕いてすりつぶしたように、眉間の皺がこのまま固まりそうな勢いであるものの、軍で見せる殺気を孕んではいない。
 
 父は把握していたのか、はたまた驚きを隠しているのか、どちらなのかは分からなかったけれど、いずれにせよ、この件はフェリシアの決断に任されたということは分かった。
 
 決断を任されたとは言っても…。

 フェリシアは、目の前に座るレイモンドを見つめた。
 このような時でも、見る者の時間を止めると評される彼の美貌は健在だ。
 白皙の顔を、知を感じさせる鮮やかな青の瞳が彩り、整った容姿を引きたてる。応接間に射しこむ日差しを受けて彼の金の髪は輝き、一層の凄みを加えていた。
 端麗さは顔だけではない。8頭身の均整の取れた体格は、無駄のない筋肉を持ち、全身で美を体現していた。
 ただ座るだけで、そこに別の空間が生まれたかのように見えてしまう。完璧な美だ。
 
 けれど、残念ながら、今日のレイモンドの美は、フェリシアの時を止めてはくれなかった。
 8年で見慣れているということもあるけれど、何より、フェリシアにはその美が物足りなく思えたのだ。
 いつも自分に向けてくれていた、ふわりと自分の胸を温めてくれた笑顔が、影も形も見当たらない。
 表情が抜け落ちた彼の顔は、生きていることを疑ってしまうような冷たさがあった。
 この距離でレイモンドとゆっくり顔を合わせるのは最後になると思うと、彼の笑顔が懐かしくて仕方なかった。
 しばらく彼の顔を眺めてしまったものの、彼の顔に笑顔も表情も戻ることはなかった。
 そもそも視線すら合うことはなかった。

――まぁ、婚約破棄する相手に、笑顔を期待してもいけないのでしょうね。

 苦笑を零し、そして、フェリシアは決断した。
 ここまで根回しされた時点でもう結論は出されていたのだ。
 
「承知いたしました」

 静まり返った部屋に、その声が響いた瞬間、類を見ない誠実な婚約破棄が成立し、レイモンドとフェリシアの8年にわたる婚約は終わりを告げたのだった。
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

元カノが復縁したそうにこちらを見ているので、彼の幸せのために身を引こうとしたら意外と溺愛されていました

おりの まるる
恋愛
カーネリアは、大好きな魔法師団の副師団長であるリオンへ告白すること2回、元カノが忘れられないと振られること2回、玉砕覚悟で3回目の告白をした。 3回目の告白の返事は「友達としてなら付き合ってもいい」と言われ3年の月日を過ごした。 もう付き合うとかできないかもと諦めかけた時、ついに付き合うことがてきるように。 喜んだのもつかの間、初めてのデートで、彼を以前捨てた恋人アイオラが再びリオンの前に訪れて……。 大好きな彼の幸せを願って、身を引こうとするのだが。

初対面の婚約者に『ブス』と言われた令嬢です。

甘寧
恋愛
「お前は抱けるブスだな」 「はぁぁぁぁ!!??」 親の決めた婚約者と初めての顔合わせで第一声で言われた言葉。 そうですかそうですか、私は抱けるブスなんですね…… って!!こんな奴が婚約者なんて冗談じゃない!! お父様!!こいつと結婚しろと言うならば私は家を出ます!! え?結納金貰っちゃった? それじゃあ、仕方ありません。あちらから婚約を破棄したいと言わせましょう。 ※4時間ほどで書き上げたものなので、頭空っぽにして読んでください。

貴方を捨てるのにこれ以上の理由が必要ですか?

蓮実 アラタ
恋愛
「リズが俺の子を身ごもった」 ある日、夫であるレンヴォルトにそう告げられたリディス。 リズは彼女の一番の親友で、その親友と夫が関係を持っていたことも十分ショックだったが、レンヴォルトはさらに衝撃的な言葉を放つ。 「できれば子どもを産ませて、引き取りたい」 結婚して五年、二人の間に子どもは生まれておらず、伯爵家当主であるレンヴォルトにはいずれ後継者が必要だった。 愛していた相手から裏切り同然の仕打ちを受けたリディスはこの瞬間からレンヴォルトとの離縁を決意。 これからは自分の幸せのために生きると決意した。 そんなリディスの元に隣国からの使者が訪れる。 「迎えに来たよ、リディス」 交わされた幼い日の約束を果たしに来たという幼馴染のユルドは隣国で騎士になっていた。 裏切られ傷ついたリディスが幼馴染の騎士に溺愛されていくまでのお話。 ※完結まで書いた短編集消化のための投稿。 小説家になろう様にも掲載しています。アルファポリス先行。

追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する

3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
 婚約者である王太子からの突然の断罪!  それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。  しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。  味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。 「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」  エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。  そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。 「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」  義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。

朝起きたら同じ部屋にいた婚約者が見知らぬ女と抱き合いながら寝ていました。……これは一体どういうことですか!?

四季
恋愛
朝起きたら同じ部屋にいた婚約者が見知らぬ女と抱き合いながら寝ていました。

腹に彼の子が宿っている? そうですか、ではお幸せに。

四季
恋愛
「わたくしの腹には彼の子が宿っていますの! 貴女はさっさと消えてくださる?」 突然やって来た金髪ロングヘアの女性は私にそんなことを告げた。

バイバイ、旦那様。【本編完結済】

ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
妻シャノンが屋敷を出て行ったお話。 この作品はフィクションです。 作者独自の世界観です。ご了承ください。 7/31 お話の至らぬところを少し訂正させていただきました。 申し訳ありません。大筋に変更はありません。 8/1 追加話を公開させていただきます。 リクエストしてくださった皆様、ありがとうございます。 調子に乗って書いてしまいました。 この後もちょこちょこ追加話を公開予定です。 甘いです(個人比)。嫌いな方はお避け下さい。 ※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。

婚約者の側室に嫌がらせされたので逃げてみました。

アトラス
恋愛
公爵令嬢のリリア・カーテノイドは婚約者である王太子殿下が側室を持ったことを知らされる。側室となったガーネット子爵令嬢は殿下の寵愛を盾にリリアに度重なる嫌がらせをしていた。 いやになったリリアは王城からの逃亡を決意する。 だがその途端に、王太子殿下の態度が豹変して・・・ 「いつわたしが婚約破棄すると言った?」 私に飽きたんじゃなかったんですか!? …………………………… たくさんの方々に読んで頂き、大変嬉しく思っています。お気に入り、しおりありがとうございます。とても励みになっています。今後ともどうぞよろしくお願いします!

処理中です...