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第2章
毒
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部屋に差し込む日差しが、寝不足のリズの目にはいつもよりも強いものに感じてしまい、リズは自分の失態に忸怩たる思いがした。
――今日はまだイーサン殿下たちの見送りがあると分かっていたのに。
昨夜の兄との語らいですっかり寝不足となってしまった彼女は、朝食の記憶はなく、気が付けばイーサン殿下たちを見送るための支度が始まっていた。
晩餐の失敗はもう起こってしまったことであるけれど、せめて残された見送りはリズに許された範囲の限界まで、友好を示したいと考えていたし、示さなければいけないとも思っていたのに、この寝不足である。
リズは内心で溜息を付いた。
「いかがでございますか。エリザベス嬢」
侍女たちの華やいだ声に、考えに沈んでいたリズはふっと意識を引き戻された。
姿見を通して、侍女たちの期待に満ちた目の輝きを知り、リズは可能な限り自然な動きで今まで全く意識に入れていなかった自分の姿に目を向ける。
昼に近い時間であり、昨晩の夜会服とは異なり肌の露出は抑えられたデザインとなっているものの、王太子であるエドワードの隣に立つ立場として、ドレスの印象が控えめで終わることはなかった。
全体は淡い紫のそのドレスは淡い色合いで派手さを避け、けれども、首元、袖口、裾にかけて、鮮やかな紫になるように染められたことで、地味になることも避けていた。
白金の髪に宝石の飾りはないが、鮮やかな紫の共布でいくつも結わえられている。
装いの要となっているその鮮やかな紫は何を意識して染められたかは、それを知りたくはないリズの目にも明らかだった。
「殿下は、直々に指示を出していたそうですよ。色にかなりのこだわりを見せられたそうで、何度も色の見本を作らせたと聞いています」
侍女の一人が華やいだ声で、目を逸らしたい事実をリズに突き付けてくる。
せめて殿下がこだわりを見せた色が、殿下のサファイアの瞳に近い色なら、これほど恥ずかしい思いをしなくてもよかったのに、と殿下への恨み言を思い浮かべた時、柔らかいノックが響いた。
現れたヒューは、リズと同じ時間、昔話につきあったというのに、疲れというものに無縁であるかの如く、いつものように穏やかな、どこか清らかさもある気配を纏っていた。
常日頃、殿下を目にして、男性の華やかな美を見慣れているはずの侍女たちが、おしゃべりをぴたりと止め、呆然と守護天使に魅入っていた。
その様子に気づいているのか、いないのか、ヒューは特に彼女たちに視線を向けることもなく、いつもの穏やかな笑顔をリズに向け、一瞬、目を瞠った。
「そのドレスは…」
小さく洩らされた呟きに、リズは頬を染めた。
「殿下が私の瞳に合うようにと、仕立てて下さったものらしいの」
兄と侍従長が選んだドレスでは感じなかった恥ずかしさを覚えて、少し回りくどい言い方をリズはしてしまったが、聞き手は全くその点は気にしていなかったようだ。
ヒューはしばらくリズの言葉もリズ自身も通り越し、どこか遠くを見つめているようだったが、ふっと息を吐くと、ふわりと微笑んだ。
「素敵なドレスだね。殿下の見立て通りリズの瞳とよく合っている。…綺麗だよ」
端的な賛辞に、侍女たちは一斉に声を上げた。その声が小さなものに抑えられていたことに、城仕えの水準の高さを感じて、リズは密かに感心する。
ヒューは苦笑して彼女たちの反応をいなすと、次代の守護師としての顔に切り替わった。
「さて、昨日、僕の結界は解けてしまったからね。もう一度張りなおそう。今日は魔法石の結界だけでなく、守護の魔法も加えておきたい。魔力の暴発にも備えられるからね」
リズも居住まいを正して魔法石を差し出したとき、爽やかな声が響いた。
「私の魔力の暴発についてはともかく、私の女神の護りが増えることはすばらしい」
部屋にいた全員が殿下への礼を取ると、心地よい声で「構わない」と許しがあった。
自分が殿下に対してどのような顔を向けるのか不安のあったリズは、小さく息を吸い込んでから、顔を上げた。
サファイアの瞳はリズを映すと、純粋な喜びを見せて輝いた。
それだけでリズは自分の胸が照らされた心地がして、一つの事実を噛みしめた。
――私、どうしても、何があっても、この笑顔が好きなのね
金の華やかな美は、昨晩のことなど何の陰りも落としていないように見える。
そのことに安堵し微笑みを浮かべたリズに、蕩けるような笑顔が返された。
「昨日に引き続き、貴女に会えるなど、あらゆるものに感謝を捧げたい」
周りで小さく沸き上がった声を、リズは全力で意識から締め出した。
しかし、リズの試練はそれだけではなかった。殿下はサファイアの瞳に甘い艶を乗せて、言葉を紡ぎ続ける。
「昨晩、私が選んでいないドレスに悔しい思いをさせられたが、今日は私の贈ったドレスが妬ましい。私よりも貴女に近――」
「僕の天使の耳に怪しい言葉を吹き込まないでくれ」
いつの間にかやってきていた兄の地を這うような声で紡がれた言葉に、侍女たちは再び歓声を上げ、リズはとうとう頬を染め、ヒューはくすくすと笑いだした。
◇
一行が見送りの場所を目指して廊下を歩いていると、端に寄り礼を取る人々の中に宰相のロナルドの姿があった。
その姿を認めた途端、リズは思わず完璧な笑顔を貼り付けた。
昨晩の晩餐の失敗について、宰相は何を考えたのかと身構えてしまったのだ。先方が取り決めに反したとはいえ、ロナルドに「恋にとち狂った馬鹿な若造」と言われても仕方ない結果だった。
――殿下の即位の前に、辞任なさってしまうのかしら
リズの不安をよそに、殿下は淡々と声をかける。
「ここにいる予定ではなかっただろう」
「殿下がお選びになったドレスは功を奏したのか気になりましたので」
想定外のロナルドの言葉に完璧な笑顔が思わず崩れそうになるのを、リズは長年の努力の賜物で踏みとどまった。
しかし思わぬ伏兵がリズに追い打ちをかけた。
「私の女神の瞳を引き立て、崇めたくなるような美しさだろう?」
リズは自分の耳が熱を持ったことを知り、目を伏せ、せめて赤らんだ顔を見られないように許される限界まで俯いた。
片や、ロナルドは殿下の言葉に全く反応を示さず、リズに視線を向けた。
「昨晩はお疲れ様でございました」
「ありがとうございます。閣下こそお疲れ様でした。全くお役に立てませんでしたが、得難い経験をさせていただきました」
定型の挨拶に苦い真実が入り込み、リズの笑顔は僅かに崩れてしまった。
ロナルドはリズの微かに寄せられた眉にすっと視線を走らせた後、声を潜めた。
「昨晩のおかげで、あの二人がクロシア国に亡命することはなくなったのです。厄介な荷物を長期にわたって抱えなくて済むという十分な成果を得られました」
耳を疑う晩餐の評価に、リズの笑顔は固まった。仰ぎ見る好々爺ロナルドの顔に変化は見られない。リズの瞳をしっかりと捉えると、ロナルドは言った。
「胸を張って次の公務に臨んでください」
瞬間、ロナルドがここに控えていたのは、この言葉をリズに伝えるためだったと感じた。
リズの胸に驚きと共にほんの僅かに温かなものが広がったとき、心地よい声が投げかけられた。
「どんな結果になろうとも貴女が気に病む必要はない。必ず貴女を護る。気を楽にして臨んでほしい」
殿下を振り返れば、澄んだサファイアの瞳は強い意志を見せていた。
頼もしい態度を惜しみなく向けてくれる殿下に、リズは小さく頷きながら、けれども微かに胸の痛みを覚えていた。
――殿下、私も貴方の笑顔を護りたいのです。
悪意を恐れて彼の隣に立つ覚悟を持てない自分が、口にすることは許されない願いが、沸き上がる。
強い願いに打たれたように立ち尽くしたリズの頭に、ふわりと温かな手が乗せられた。
「僕だって、僕の妹を護って見せる。リズの笑顔も護って見せる」
背後からぽつりと漏らされた兄らしい言葉に、リズは、胸の痛みと許されない願いを微笑みの下に押し隠した。
――焦ることはないわ。今は、見送りに集中しなくては。
目先の課題に意識を戻したリズは、殿下のエスコートに身を任せて再び歩き始めた。
◇
見送りの場所には、昨日も使われた紋章のない馬車が既に到着し、訓練の行き届いた馬は静かに出発の時を待っている。
馬車よりも離れた位置で、レクタム国の騎士たちがそれぞれの馬の隣に立ち、主の挨拶を見守っていた。
それらをさっと目に収めたリズは、騎士たちの間に立つ、帯剣していない従者と思われる男性にふと目を留めた。
帯剣していないレクタムの人間は彼だけだからだろうか、なぜだか彼を視界から外しても、リズは意識から彼を締め出すことができなかった。
それでも当然のことながら粛々と挨拶は進んでいた。
「お会いできてうれしかった。いつか私も殿下をお招きしたい」
イーサン殿下の朗らかさは、今日も健在だった。その笑顔に不自然なものは全く感じられず、リズは彼の胆力に深く感じ入った。
イーサン殿下の隣に立つジェス殿下は、魔力を押し隠して物静かな表情と態度を貫き、こちらも昨晩の出来事へのわだかまりは感じさせない。
対するエドワードは、イーサン殿下の招待を「機会があれば」と礼儀に適った回答を示し、特に好意も敵意もうかがわせることはなかった。
「道中、恙なく行かれることを祈っている」
旅立つ相手に贈る決まりきった挨拶をエドワードが口にしたとき、一瞬、従者が頭を抱えたのがリズの目に入った。
「暗示?」
ヒューが呟く。
刹那、リズは心臓が切り刻まれたような激痛が走り、息が止まる。
――これは…悪意…?
リズの考えを裏付けるように胸元の魔法石から白金の光が放たれたその時――、
「リズ!」
兄が叫んだ。
リズに見えたものは、こちらに一直線に飛んでくる、従者の放った煌めく刃物だった。
信じられない光景にリズは目を見開き、ただ全てを見ていた。
リズの魔法石から淡い緑の光が放たれ、結界が張られる。
彼女を抱き込もうとしたエドワードの胸元からも白い閃光が走り、結界が張られ、二つの結界はぶつかり音を立てた。
リズの結界が衝撃で揺らぐと、彼は息を呑み、――リズを見つめて微笑んだ。
それは哀しくなるほど美しい笑みだった。
リズがそう思った瞬間、エドワードの結界は消滅し――、
リズの結界に弾かれた刃物が殿下の腕に刺さった。
一歩も動けず、呆然と立ち尽くしたリズは、刃物に液体が塗られていることに気が付いた。
その途端、リズの結界は解け、エドワードの腕に飛びつき、自分の髪を結っていた布で彼の腕を縛る。ヒューも駆け寄り、布を力強く縛りなおし、毒が回ることを遅らせようとした。
しかし当のエドワードが目を向けた先は、刃物ではなかった。
「アンソニー!」
兄はイーサン殿下たちを見据える。二人は苦痛を覚えたのか頭を抑えた。そして、二人に続き、控えていた騎士たちもよろめいた。
「二人は無関係だ!他の騎士たちも!」
兄が叫ぶと、エドワードはイーサン殿下に向き直った。
イーサン殿下は蒼白になり「私ではない」とわななきながら呟いていたが、エドワードはイーサン殿下の言葉を取り合わなかった。
「腹心の部下が洗脳されたことなど、どうでもいい。いい加減、覚悟を決めろ。私が毒で斃れれば貴殿と貴国がどうなるか分かっているだろう?」
――毒で斃れる
その言葉にリズの魔法石は白金の光を放った。
エドワードは光に目を向けることもなく、震え続けるイーサン殿下を見据えた。
「平和が欲しければ、今から2週間で事を為せ!」
イーサン殿下は目を見開いた。
2週間で第1王子派を倒せと、2週間で倒せなければ戦になると告げられたのだ。
緊張で支配された場に、長閑な、けれども皮肉を滲ませた声が入り込んだ。
「お土産を増やしてあげるよ。今、城門から早馬が駆けてきている。ウィンデリアとフィアスの同盟が成立したと使者の歓喜の思いがここまで響いているよ」
兄の言葉に、イーサン殿下の震えがピタリと止まった。黒い瞳には力が戻っていた。
エドワードの腕から刃物を抜き、血を吸い、吐き出したヒューが、静かに言葉を紡いだ。
「僕の力でクロシア国の国境まで転移させよう。時間を稼げるし、ジェス殿下の魔力は少しでも温存しておかなければいけないだろうから」
ヒューの申し出に、ジェス殿下は瞳に謝意を込めて小さく頷いた。
緑の光が一行を包み、一瞬後、その姿は掻き消えた。
エドワードは膝をついた。
「殿下!」
リズは殿下を抱きしめると、エドワードは無事な方の手をリズの頬に伸ばした。
羽で撫でるように、柔らかく優しくリズの頬を撫でると、エドワードは浅い息を吐きながら、ふわりと喜びに瞳を輝かせた。
「貴女が生きている。今度は、貴女を…」
最後まで言い終えることなく、エドワードの腕は落ち、その瞳は閉じられた。
「殿下――!」
リズの悲鳴と、眩しいほどの白金の光が、その場を切り裂いた。
――今日はまだイーサン殿下たちの見送りがあると分かっていたのに。
昨夜の兄との語らいですっかり寝不足となってしまった彼女は、朝食の記憶はなく、気が付けばイーサン殿下たちを見送るための支度が始まっていた。
晩餐の失敗はもう起こってしまったことであるけれど、せめて残された見送りはリズに許された範囲の限界まで、友好を示したいと考えていたし、示さなければいけないとも思っていたのに、この寝不足である。
リズは内心で溜息を付いた。
「いかがでございますか。エリザベス嬢」
侍女たちの華やいだ声に、考えに沈んでいたリズはふっと意識を引き戻された。
姿見を通して、侍女たちの期待に満ちた目の輝きを知り、リズは可能な限り自然な動きで今まで全く意識に入れていなかった自分の姿に目を向ける。
昼に近い時間であり、昨晩の夜会服とは異なり肌の露出は抑えられたデザインとなっているものの、王太子であるエドワードの隣に立つ立場として、ドレスの印象が控えめで終わることはなかった。
全体は淡い紫のそのドレスは淡い色合いで派手さを避け、けれども、首元、袖口、裾にかけて、鮮やかな紫になるように染められたことで、地味になることも避けていた。
白金の髪に宝石の飾りはないが、鮮やかな紫の共布でいくつも結わえられている。
装いの要となっているその鮮やかな紫は何を意識して染められたかは、それを知りたくはないリズの目にも明らかだった。
「殿下は、直々に指示を出していたそうですよ。色にかなりのこだわりを見せられたそうで、何度も色の見本を作らせたと聞いています」
侍女の一人が華やいだ声で、目を逸らしたい事実をリズに突き付けてくる。
せめて殿下がこだわりを見せた色が、殿下のサファイアの瞳に近い色なら、これほど恥ずかしい思いをしなくてもよかったのに、と殿下への恨み言を思い浮かべた時、柔らかいノックが響いた。
現れたヒューは、リズと同じ時間、昔話につきあったというのに、疲れというものに無縁であるかの如く、いつものように穏やかな、どこか清らかさもある気配を纏っていた。
常日頃、殿下を目にして、男性の華やかな美を見慣れているはずの侍女たちが、おしゃべりをぴたりと止め、呆然と守護天使に魅入っていた。
その様子に気づいているのか、いないのか、ヒューは特に彼女たちに視線を向けることもなく、いつもの穏やかな笑顔をリズに向け、一瞬、目を瞠った。
「そのドレスは…」
小さく洩らされた呟きに、リズは頬を染めた。
「殿下が私の瞳に合うようにと、仕立てて下さったものらしいの」
兄と侍従長が選んだドレスでは感じなかった恥ずかしさを覚えて、少し回りくどい言い方をリズはしてしまったが、聞き手は全くその点は気にしていなかったようだ。
ヒューはしばらくリズの言葉もリズ自身も通り越し、どこか遠くを見つめているようだったが、ふっと息を吐くと、ふわりと微笑んだ。
「素敵なドレスだね。殿下の見立て通りリズの瞳とよく合っている。…綺麗だよ」
端的な賛辞に、侍女たちは一斉に声を上げた。その声が小さなものに抑えられていたことに、城仕えの水準の高さを感じて、リズは密かに感心する。
ヒューは苦笑して彼女たちの反応をいなすと、次代の守護師としての顔に切り替わった。
「さて、昨日、僕の結界は解けてしまったからね。もう一度張りなおそう。今日は魔法石の結界だけでなく、守護の魔法も加えておきたい。魔力の暴発にも備えられるからね」
リズも居住まいを正して魔法石を差し出したとき、爽やかな声が響いた。
「私の魔力の暴発についてはともかく、私の女神の護りが増えることはすばらしい」
部屋にいた全員が殿下への礼を取ると、心地よい声で「構わない」と許しがあった。
自分が殿下に対してどのような顔を向けるのか不安のあったリズは、小さく息を吸い込んでから、顔を上げた。
サファイアの瞳はリズを映すと、純粋な喜びを見せて輝いた。
それだけでリズは自分の胸が照らされた心地がして、一つの事実を噛みしめた。
――私、どうしても、何があっても、この笑顔が好きなのね
金の華やかな美は、昨晩のことなど何の陰りも落としていないように見える。
そのことに安堵し微笑みを浮かべたリズに、蕩けるような笑顔が返された。
「昨日に引き続き、貴女に会えるなど、あらゆるものに感謝を捧げたい」
周りで小さく沸き上がった声を、リズは全力で意識から締め出した。
しかし、リズの試練はそれだけではなかった。殿下はサファイアの瞳に甘い艶を乗せて、言葉を紡ぎ続ける。
「昨晩、私が選んでいないドレスに悔しい思いをさせられたが、今日は私の贈ったドレスが妬ましい。私よりも貴女に近――」
「僕の天使の耳に怪しい言葉を吹き込まないでくれ」
いつの間にかやってきていた兄の地を這うような声で紡がれた言葉に、侍女たちは再び歓声を上げ、リズはとうとう頬を染め、ヒューはくすくすと笑いだした。
◇
一行が見送りの場所を目指して廊下を歩いていると、端に寄り礼を取る人々の中に宰相のロナルドの姿があった。
その姿を認めた途端、リズは思わず完璧な笑顔を貼り付けた。
昨晩の晩餐の失敗について、宰相は何を考えたのかと身構えてしまったのだ。先方が取り決めに反したとはいえ、ロナルドに「恋にとち狂った馬鹿な若造」と言われても仕方ない結果だった。
――殿下の即位の前に、辞任なさってしまうのかしら
リズの不安をよそに、殿下は淡々と声をかける。
「ここにいる予定ではなかっただろう」
「殿下がお選びになったドレスは功を奏したのか気になりましたので」
想定外のロナルドの言葉に完璧な笑顔が思わず崩れそうになるのを、リズは長年の努力の賜物で踏みとどまった。
しかし思わぬ伏兵がリズに追い打ちをかけた。
「私の女神の瞳を引き立て、崇めたくなるような美しさだろう?」
リズは自分の耳が熱を持ったことを知り、目を伏せ、せめて赤らんだ顔を見られないように許される限界まで俯いた。
片や、ロナルドは殿下の言葉に全く反応を示さず、リズに視線を向けた。
「昨晩はお疲れ様でございました」
「ありがとうございます。閣下こそお疲れ様でした。全くお役に立てませんでしたが、得難い経験をさせていただきました」
定型の挨拶に苦い真実が入り込み、リズの笑顔は僅かに崩れてしまった。
ロナルドはリズの微かに寄せられた眉にすっと視線を走らせた後、声を潜めた。
「昨晩のおかげで、あの二人がクロシア国に亡命することはなくなったのです。厄介な荷物を長期にわたって抱えなくて済むという十分な成果を得られました」
耳を疑う晩餐の評価に、リズの笑顔は固まった。仰ぎ見る好々爺ロナルドの顔に変化は見られない。リズの瞳をしっかりと捉えると、ロナルドは言った。
「胸を張って次の公務に臨んでください」
瞬間、ロナルドがここに控えていたのは、この言葉をリズに伝えるためだったと感じた。
リズの胸に驚きと共にほんの僅かに温かなものが広がったとき、心地よい声が投げかけられた。
「どんな結果になろうとも貴女が気に病む必要はない。必ず貴女を護る。気を楽にして臨んでほしい」
殿下を振り返れば、澄んだサファイアの瞳は強い意志を見せていた。
頼もしい態度を惜しみなく向けてくれる殿下に、リズは小さく頷きながら、けれども微かに胸の痛みを覚えていた。
――殿下、私も貴方の笑顔を護りたいのです。
悪意を恐れて彼の隣に立つ覚悟を持てない自分が、口にすることは許されない願いが、沸き上がる。
強い願いに打たれたように立ち尽くしたリズの頭に、ふわりと温かな手が乗せられた。
「僕だって、僕の妹を護って見せる。リズの笑顔も護って見せる」
背後からぽつりと漏らされた兄らしい言葉に、リズは、胸の痛みと許されない願いを微笑みの下に押し隠した。
――焦ることはないわ。今は、見送りに集中しなくては。
目先の課題に意識を戻したリズは、殿下のエスコートに身を任せて再び歩き始めた。
◇
見送りの場所には、昨日も使われた紋章のない馬車が既に到着し、訓練の行き届いた馬は静かに出発の時を待っている。
馬車よりも離れた位置で、レクタム国の騎士たちがそれぞれの馬の隣に立ち、主の挨拶を見守っていた。
それらをさっと目に収めたリズは、騎士たちの間に立つ、帯剣していない従者と思われる男性にふと目を留めた。
帯剣していないレクタムの人間は彼だけだからだろうか、なぜだか彼を視界から外しても、リズは意識から彼を締め出すことができなかった。
それでも当然のことながら粛々と挨拶は進んでいた。
「お会いできてうれしかった。いつか私も殿下をお招きしたい」
イーサン殿下の朗らかさは、今日も健在だった。その笑顔に不自然なものは全く感じられず、リズは彼の胆力に深く感じ入った。
イーサン殿下の隣に立つジェス殿下は、魔力を押し隠して物静かな表情と態度を貫き、こちらも昨晩の出来事へのわだかまりは感じさせない。
対するエドワードは、イーサン殿下の招待を「機会があれば」と礼儀に適った回答を示し、特に好意も敵意もうかがわせることはなかった。
「道中、恙なく行かれることを祈っている」
旅立つ相手に贈る決まりきった挨拶をエドワードが口にしたとき、一瞬、従者が頭を抱えたのがリズの目に入った。
「暗示?」
ヒューが呟く。
刹那、リズは心臓が切り刻まれたような激痛が走り、息が止まる。
――これは…悪意…?
リズの考えを裏付けるように胸元の魔法石から白金の光が放たれたその時――、
「リズ!」
兄が叫んだ。
リズに見えたものは、こちらに一直線に飛んでくる、従者の放った煌めく刃物だった。
信じられない光景にリズは目を見開き、ただ全てを見ていた。
リズの魔法石から淡い緑の光が放たれ、結界が張られる。
彼女を抱き込もうとしたエドワードの胸元からも白い閃光が走り、結界が張られ、二つの結界はぶつかり音を立てた。
リズの結界が衝撃で揺らぐと、彼は息を呑み、――リズを見つめて微笑んだ。
それは哀しくなるほど美しい笑みだった。
リズがそう思った瞬間、エドワードの結界は消滅し――、
リズの結界に弾かれた刃物が殿下の腕に刺さった。
一歩も動けず、呆然と立ち尽くしたリズは、刃物に液体が塗られていることに気が付いた。
その途端、リズの結界は解け、エドワードの腕に飛びつき、自分の髪を結っていた布で彼の腕を縛る。ヒューも駆け寄り、布を力強く縛りなおし、毒が回ることを遅らせようとした。
しかし当のエドワードが目を向けた先は、刃物ではなかった。
「アンソニー!」
兄はイーサン殿下たちを見据える。二人は苦痛を覚えたのか頭を抑えた。そして、二人に続き、控えていた騎士たちもよろめいた。
「二人は無関係だ!他の騎士たちも!」
兄が叫ぶと、エドワードはイーサン殿下に向き直った。
イーサン殿下は蒼白になり「私ではない」とわななきながら呟いていたが、エドワードはイーサン殿下の言葉を取り合わなかった。
「腹心の部下が洗脳されたことなど、どうでもいい。いい加減、覚悟を決めろ。私が毒で斃れれば貴殿と貴国がどうなるか分かっているだろう?」
――毒で斃れる
その言葉にリズの魔法石は白金の光を放った。
エドワードは光に目を向けることもなく、震え続けるイーサン殿下を見据えた。
「平和が欲しければ、今から2週間で事を為せ!」
イーサン殿下は目を見開いた。
2週間で第1王子派を倒せと、2週間で倒せなければ戦になると告げられたのだ。
緊張で支配された場に、長閑な、けれども皮肉を滲ませた声が入り込んだ。
「お土産を増やしてあげるよ。今、城門から早馬が駆けてきている。ウィンデリアとフィアスの同盟が成立したと使者の歓喜の思いがここまで響いているよ」
兄の言葉に、イーサン殿下の震えがピタリと止まった。黒い瞳には力が戻っていた。
エドワードの腕から刃物を抜き、血を吸い、吐き出したヒューが、静かに言葉を紡いだ。
「僕の力でクロシア国の国境まで転移させよう。時間を稼げるし、ジェス殿下の魔力は少しでも温存しておかなければいけないだろうから」
ヒューの申し出に、ジェス殿下は瞳に謝意を込めて小さく頷いた。
緑の光が一行を包み、一瞬後、その姿は掻き消えた。
エドワードは膝をついた。
「殿下!」
リズは殿下を抱きしめると、エドワードは無事な方の手をリズの頬に伸ばした。
羽で撫でるように、柔らかく優しくリズの頬を撫でると、エドワードは浅い息を吐きながら、ふわりと喜びに瞳を輝かせた。
「貴女が生きている。今度は、貴女を…」
最後まで言い終えることなく、エドワードの腕は落ち、その瞳は閉じられた。
「殿下――!」
リズの悲鳴と、眩しいほどの白金の光が、その場を切り裂いた。
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