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第2章

守護天使と守護石

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「くしゅん」

 青白い月の光が静かに差し込むマーレイ公爵家のリズの部屋に、小さなくしゃみの音が響いた。

「お兄様。やはりこのガウンは、お兄様が羽織りましょう」
「いいや。リズが絶対に羽織っていておくれ」

 エメラルドの瞳は向かいに腰かけるヒューを捕らえて、一切譲る気はないと強い意志を見せている。
 リズとヒューは計らずも同時に溜息を付いた。
 
 そもそもは、王城で新たな自分の体質を教えられたリズが、疲れた心身を休めるべく、寝支度を終え寝台に向かっていたその時に、兄とヒューが部屋を訪ねてきたのだ。
 このような時間に兄が彼女の部屋を訪ねることは、リズの苦手な雷が鳴り響く夜以外はないことで、加えて、ヒューが訪ねたことなどもちろんない。
 驚くリズを置き去りにして、部屋に足を踏み入れた途端、兄は薄っすら頬を染めたヒューに強い眼差しを向け、即座に自分のガウンを脱ぎ、リズのガウンの上から羽織らせ――、今のくしゃみに至る。
 ちなみに、リズは二人分のガウンでやや暑苦しさまで感じていたので、そういった意味でも兄に羽織って欲しかったのであるが、兄の眼差しにあきらめの境地へと達した。

 二人の要件を早めに済ませて送り出そうと方針を決めた彼女は、早速切り出した。
「それで、どうなさったのです?」
 
 同じ方針を持っていたらしいヒューも、即座に本題を切り出す。
「こちらをリズに渡そうと思ったんだ」

 彼が取り出して見せたものは、白い香木で作られた小さな箱だった。香木の心地よい香りを楽しむリズに微笑みながら、ヒューは蓋を開けた。

「まぁ、なんて…」
 リズは箱の中を見て、感嘆のあまり言葉を失ってしまった。
 敷き詰められた青い布の中央に、淡い緑色の優しい輝きを放つ魔法石が収められていた。
 見た目の美しさだけでなく、その魔法石は、魔法も魔力にも疎いリズですら感じ取ることができるほどの、強い魔力でできている。

 稀有な魔法石に圧倒され、見惚れていたリズに、穏やかな声がかけられた。
「これは治癒の力に特化した魔法石だ。とても強い治癒の力があるので――、心の治癒までできる」
――心の治癒?
 リズは息を呑んだ。
 心の治癒までできる魔力の強さは、ウィンデリアの白金の魔法使いしか聞いたことがない。
 一体、なぜ、そのような貴重な魔法石がここにあるのかとヒューを見つめると、深い知を湛えた瞳はリズの驚きを受け止め、けれども、そっと人差し指を唇に当てた。
 彼の意図を読み取り、リズは神妙に頷き、疑問は忘れることにした。
 貴重で強力な魔法石について、あれこれと推測することは危険で――、無粋かもしれない。

 リズの譲歩を読み取ったヒューは、一段と穏やかな眼差しを向けて、リズに一つの事実を優しく気づかせた。
「悪意を向けられても、この治癒の力が助けになるはずだ」
 
 確かに心にまで治癒が及ぶなら、悪意を察知し衝撃を受けたリズを癒してくれるのだろう。
 リズは自分の命の未来に希望を覚え、瞳を輝かせたが、対して、ヒューの瞳には輝きはなかった。
 
「治癒は傷ついた後になってしまうけれど」
 
 苦し気に眉を顰めてしまったヒューに、リズは急いで声をかける。
「十分よ。そんな顔をしないで。ありがとう、ヒュー。本当に、本当にありがたいことだと思っているわ」

 昼間には死の可能性すら覚悟していたのだ。感謝してもしきれない程のありがたさを、リズは何とかヒューに伝えたかった。
 もどかしさを抱えたリズに思わぬ援護射撃が現れた。兄は、先ほどまでヒューを睨み据えていたエメラルドの瞳を輝かせ、身を乗り出した。
 
「そうだとも。頼もしい限りだ。それに、僕とヒューの思念を読み取る力を使えば、事前の備えもかなりできるはずだ」

 月の光を浴びて煌めく銀の髪をさらりと垂らした兄は、見惚れてしまうほどの柔らかな笑顔を浮かべている。ここにいる女性がリズ一人なことが惜しいほどの、美しく艶のある笑顔だ。リズは思わず微笑みを返しながら、――長年の経験から身構えていた。

――この笑顔を浮かべたお兄様に、長く話をさせてはいけないわ

 果たして、経験に裏打ちされた予測は正しく、兄は蕩けるような眼差しと声をリズに向けた。
「僕の天使は、公爵家で僕が護ることができる。だから、ずっと一生――」
 
 リズは何とか話の流れを変えようと口を開いたとき、再び思わぬ援護射撃を受けた。
 この場には兄との付き合いの長いヒューもいたのだ。
 穏やかな声が、すっと兄の熱弁を遮った。
 
「リズ。魔法石を早速着けよう」
 ヒューはゆったりと立ち上がり、釣られてリズも立ち上がる。
 ヒューは魔法石についた繊細な鎖の留め金を外し、長い指は器用に魔法石のネックレスをリズに着けてくれた。
 喉元に収まった魔法石から淡い緑の魔力が立ち上った後、白金の魔力が一瞬眩しいまでに立ち上り、リズは温かな心地に包まれた。
 心地よい驚きに目を瞬かせたリズに、ふわりと微笑んだヒューが彼女に答えをくれた。

「この魔法石が、リズを自分の主であることを認めたんだよ」

 主を定めるほどの貴重な魔法石を身に着けることに、リズは自分にその資格はあるのだろうかと落ち着かない思いに駆られる。
 思わず、ヒューに問いかけようと視線を向けて、リズは目を見開いた。
 ヒューの青にも見える不思議な緑の瞳は、彼には珍しく不敵な光を浮かべていたのだ。

「ヒュー!」
 
 兄の焦りと怒りの混じった声が耳に入ったときには、リズは淡い緑の光に包まれていた。



 淡い緑の光が収まり、瞳が慣れたリズは周りを見回して、自分たちのいる場所が分かると意外な感慨を覚えた。そこは、先ほどまでいたリズの部屋ではなかった。それは魔法に疎いリズにもヒューの魔力に包まれた時点で分かっていた。けれども、転移した先は、いつも見慣れた公爵家の庭の一番の大木の隣だったのだ。
 ヒューの魔力で、夜の闇の中に大木の周りだけが薄っすらと淡い緑の光に包まれ、浮かび上がっていた。
 幻想的な光景に、驚きから抜け出せない彼女を見て、ヒューはクスリと笑いを零した。

「ふふ。さすがにここから先は、アンソニーの吹雪を感じない場所で話したかったんだ」
 
 兄の吹雪なるものを、リズは体感したことはないけれども、何となく察しがついて申し訳なさと恥ずかしさに、一瞬、頬に血が上った。
 ヒューはそのようなリズを見ないふりをしてくれたのか、懐かしさが先に立ったのか、大木をじっと見上げて、一言囁いた。

「それに、僕にとってこの場所が一番ふさわしい場所だと思ったんだよ」
 
 一体何に相応しいのだろうとリズは首を傾げる。ヒューはようやく彼女に向き直った。
 
「リズ。昔、僕がこの場所で泣いたことを覚えている?」

 リズは即座に強く頷いた。忘れることなどできない、それほど鮮烈な記憶だった。

 ――この国の魔素は少なくなっている。今に無くなってしまうのかもしれない――

 あの日、ヒューは、聞いているこちらの心まで引き裂かれるような悲鳴を上げていた。
 あの悲鳴を思い出して蘇った鋭い胸の痛みに、リズはとっさに目を瞑り、痛みをやり過ごそうとした。
 空気に溶けこむような穏やかな声が耳に響いた。
 
「あの時、君は僕に光をくれた」

 思いもよらぬ言葉に目を開けたリズは、ヒューの凪いだ海の瞳に囚われた。

「魔素がなくなる未来に、僕は恐怖で押しつぶされそうになった。それでも、その絶望の中で、君の声が届いた。君の声が僕を闇から掬い上げてくれた」

 ヒューは、身に纏う穏やかな気配はそのままに、ふわりと魔力を立ち上らせた。
「君は僕の光なんだ」
 
 魔力を込めた真摯な彼の思いに、リズは、そこまでの思いを受けることは何もできなかったと狼狽え、言葉を挟もうとしたが、ヒュー自身が話題を変えてくれた。
 
「リズ。魔法使いの『誓いの印』のことは知っている?」

 新たな話題に戸惑いながら、リズは小さく頷いた。
 その印については、ご令嬢たちの間では強い憧れを持って、熱く語られている。
 魔力の強い魔法使いは、愛を誓うとき、相手に口づけて誓いの言葉を贈る。
 誓いが心からのものであれば、相手に印が浮かび、一生の間、その印を通して相手に魔力を送り続けることになる。
 真摯な、真実な、一生の誓いの証の話に、リズもうっとりと溜息を洩らしたものだ。
 リズの陶酔は、ヒューの囁きによって遮られた。
 
「僕は君に印を贈りたい」

 さらりと空気に溶け込んだその言葉に、リズは一瞬理解が追いつかなかった。
 ヒューは、長い指を優しくリズの頬に当てた。触れられたところから、優しく魔力が流れ込む。

「僕の魔力がリズに流れていれば、僕が傍にいなくてもリズの周りに結界を張ることができる。リズが傷つくことはない」

 ようやく明確にヒューの言葉を理解したリズは、そっと苦笑した。
 幼馴染を護るために、一生を使うなんて――

「ヒュー。気持ちは嬉しいわ。でも、印はヒューの大切な人に――」

「僕に、君以上に大切なものはない」

 鋭く、熱く、リズの言葉は否定された。
 大きな手がリズの頬を包み込み、彼女が視線を逸らすことを許さなかった。
 凪いだ海の瞳は、はっきりと強い意志を宿し、リズの瞳を捕らえていた。

「僕はリズの隣にいるために、この国に戻ってきたんだ」

 彼の言葉に、リズは、帰国したばかりのヒューにこの庭で投げかけた疑問を、思い出した。

―――魔素も魔法使いも多いウィンデリアの方が、ヒューには過ごしやすかったのでしょう?どうして離れることにしたの?

 あの時、ヒューは目元を緩ませて、リズに答えを返したのだ。
――僕の一番大切なものが、ウィンデリアにはなかったから

「大切なもの…」
 
 思わずあの時と同じように呟いたリズの声を拾い上げ、ヒューは穏やかに、そして紛れもない熱を込めて囁き返した。

「僕にとって、魔素よりも、何よりも、大切なものは、君なんだよ」
 
 リズは息を呑んだ。
 彼から立ち上る淡い緑の魔力が、彼の言葉の真実を表していた。
 彼の想いの強さに立ちすくむリズに、ヒューは思いを紡ぎ続ける。

「僕は君を護る力を得るためにこの国を出て、そしてこの国に戻った。魔素が尽きるまで、僕の魔力がなくなるまで、僕は、君を、僕の光を護って見せる」
 
 彼から立ち上る淡い緑の魔力は、夜の闇を払うような輝きを見せた。
 リズは、ヒューにかける言葉を見つけられず、喘いだ。
 凪いだ海の瞳はリズの全てを包み込み、ふわりと柔らかく微笑んだ。その微笑みは、哀しくなるほどの美しさだった。

「リズ。今すぐ返事をもらえるとは思っていない。けれども、僕という選択肢を考えてほしい」

 こつりと小さく音を立てて、ヒューは、リズの額に彼の額を合わせた。彼を近くに感じて、リズの鼓動は、呼吸が乱れそうなほどに跳ねていた。落ち着きを取り戻そうと、固く瞳を閉じた時、熱い吐息と共に言葉が降ってきた。

「僕を選んでほしい」

――!
 呼吸も鼓動も止まったリズの脳裏に、一瞬、執務室で一人凍り付いたように立ち尽くしていた殿下の姿が過った。
 胸に走った痛みに、リズが喘ぐように呼吸を取り戻すと、気遣うように、大げさなまでに朗らかな声がかけられた。

「さて、さすがにそろそろ屋敷に戻らないと、アンソニーが僕を氷漬けにするかもしれない」

 頭を持ち上げ、悪戯めいた光を浮かべたヒューに、何とか笑顔を返したリズが、彼の差し出してくれた手に自分の手を乗せると、淡い緑の魔力がリズの視界を覆った。



 転移で部屋に戻ったヒューとリズは、月の光そのもののような、恐ろしいほどに整った笑顔を浮かべた銀の美貌に出迎えられた。ヒューと共に、滾々と兄の小言と泣き言を浴び続けたリズは、できることなら自分も兄の吹雪なるものを感じたいと心の片隅に思っていた。
 どうしたらよいのか、それどころか自分が何を考えているのか、それすらも全く分からないこの気持ちを、凍り付かせて欲しかった。
 
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