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第2章

殿下とのお茶2

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 もう、もう、穴を掘って自分を埋めてしまいたい…。

 今日のお妃教育に何とか終わりを迎えたリズは、殿下の執務室へと向かいつつ、先ほどの羞恥から抜け出そうともがいている。
 けれども、成果は芳しくない。原因の一因ともなった殿下とこれからお茶をするため、切り替えが難しいことに加えて、隣を歩くヒューがくすくすと笑い続けているのだ。

「ヒュー。人が悪いと思うわ」

 リズが呟くと、ヒューは一段と声を立てて笑いを深めた。先導するポールがリズの持参した香を入れた籠を持ちながら、淡々と歩いてくれることが僅かな救いだ。
 3人が歩みを進めると、廊下を歩いていた役人や侍女たちは、さっと端により頭を下げている。リズは会釈をしながら、気分が落ち込むのを感じた。
 公爵令嬢として、これまでも登城した際はこのように礼を取られていた。しかし、婚約発表後は、皆の畏まり方が格段に強いものになったと感じるのだ。婚約破棄を目論んでいる身でありながら重々しい礼を受けることは、つらく思えてしまう。

ああ、あの侍女の人は、まだ距離があるのに、もう礼を取っているわ

 早々と端により、頭を下げた年若い侍女を視界にとらえた時――、

 リズは心臓をつかまれたような苦しさを覚え、意識が途絶えた。



 目の前に淡い緑の光が広がり、リズは体が温まるのを感じた。
 温かさに励まされるように、そっと瞼を上げると、ヒューの穏やかな瞳が安堵を浮かべて出迎えてくれた。
 ヒューの隣には、眉を寄せエメラルドの瞳に不安を浮かべている兄が身を乗り出している。
 リズは自分が長椅子に寝かせられていることに気が付いた。上体を起こし視線を彷徨わせ、二人の背後に立ち尽くす、蒼白な顔色の殿下を認めた。リズの視線を受け止め微かに目元を緩めたものの、顔色が戻ることはなかった。
 自分の鼓動がトクリと跳ねるのをリズは感じた。

「私、どうしたのでしょうか」

 殿下の顔に少しでも明かりが灯ることを期待して声をかけたけれど、逆に、殿下のサファイアの瞳は凍り付いてしまった。
 返事は目の前のヒューからもたらされた。
「ここに向かう途中で、意識を失ったんだよ」
 
 リズは腑に落ちず、目を瞬かせた。意識がなくなったことが、つい先ほど感じた胸の苦しみの為だとしたら、今、何の不調も感じていないのは、どういうことなのだろう。
 ヒューは微かに眉を寄せ、表情を曇らせた。

「リズ。意識を失ったのは、体調の為ではないんだ」

 体調が悪くないのなら、一体、なぜ意識を無くしてしまったのかとますます疑問に思えてしまう。

「アンソニーから教えてもらったのだけど、2週間ほど前の舞踏会でも急に体が重くなったそうだね」
 そういえば、ダンスを3曲終えた後、自分の体を支えるのも辛いほど、突然、体が重くなり、殿下と兄にごまかしてもらったのだ。
 小さく頷いたリズを見つめた後、ヒューは目を伏せ、そっと呟いた。

「リズ。今まで伝えたことはなかったけれど、僕も、アンソニーも人の思考を読める力があるんだ」

 リズは目を見開き、兄を見た。兄は眉を僅かに下げ、リズに謝る表情を見せたものの、否定することはなく、小さく頷いた。ずっと側にいてくれた兄の大きな隠し事に、深く傷ついても不思議はないのに、リズは驚くほど冷静な自分に気が付いた。
 ヒューと兄の様子に、どこかしら、もっと悪いものを予感したのだ。ヒューは目を伏せたまま、話し続ける。

「舞踏会の時、アンソニーはヴィクター殿下がリズを脅そうとした悪意を読んだそうだ」
 銀の髪が頷きと同時にさらりと垂れた。リズはぼんやりと美しい銀の髪を見つめながら、会話がどこへ向かうのか見当が付かず、緊張し始める。

「リズ」
 ヒューは長い睫毛越しに、リズを見つめた。

「今日、廊下で早々と礼を取っていた侍女は、殿下を想っていたようだ。彼女から君への激しい憎悪を読んだ」
 
 リズは息を呑んだ。震えが体を走り抜ける。その瞬間、兄に抱き込まれていた。

「リズ。僕の天使。僕が付いている」
 
 兄がしっかりと抱きしめ、何度もリズの名を囁き、髪に口づけてくれたけれど、リズは体が竦み上がるのを抑えることができなかった。
 リズを脅そうとしたヴィクター殿下の時には、意識は保てていた。意識を失うほどの憎悪とは、どのようなものなのか考えるだけで恐ろしい。
 ヒューの淡い緑の魔力が立ち上り、リズに温かなものが再び流れ込むのを感じる。それでも、動悸は収まらなかった。

 このまま兄の腕の中に閉じこもってしまいたい思いに駆られたリズの瞳を、知を湛えた凪いだ瞳が捉える。ヒューの口から穏やかに紡がれた言葉は、唐突なものだった。
「君には魔力があるのは、知っているよね」

 強張る顔を軋ませ、リズは言葉を絞り出した。
「ヒューが教えてくれたわ。私は魔力を使うことはできないことも」

 ヒューは小さく微笑んだ。
「そうだね。だけど、『勘』よりも強い感覚で、君は自分への強い悪意を感じ取れるようだ」

 信じられない、信じたくない、確かにそう思っているのに、リズはすとんと腑に落ちた思いだった。膨大な魔力を持ち、学園で魔法について学んだヒューの見立てなら、間違いはないのだろう。
 兄が思考を読めるというなら、魔力の使えない自分でも、悪意だけとはいえ、それを察知できることも、兄妹といったところなのかもしれない。
 
 なんて面倒な「体質」なのかしら。
 この体質では、悪意を持たれるだけで死ぬことになりかねないわ。
 
 前世は毒で死ぬことになったけれど、今生は毒など要らなさそうだと、重い事実から逃げるように冷静に結論を出したリズは、溜息を零してしまうのを抑えることができなかった。
 前世がなくとも、「穏やかな人生」は、生きていくために必要な条件になってしまった。
 
――生まれや容姿に囚われず、殿下に向き合う

 ほんの2週間前の決意が、――もっとも殿下に嵌められて薄らいでしまった感はあるけれど――、リズにとっては命を懸けた、山より険しい道のりになってしまった。
 殿下を慕っている女性のことを除いても、王太子妃となれば、公爵令嬢としての付き合いよりもはるかに大人数と関わらなければならない。人数が増えれば、付き合いの範囲が広がれば、当然、悪意を持たれる可能性は高まっていく。
 
 それでも、私はあのときの決意を守れるのかしら…
 殿下のことを知りたいという気持ちを、今の私は持っているのかしら…

 先日殿下とお茶をしたときは確かに答えられた問いに、即座に答えられないもどかしさを覚え、思わず、兄の肩越しから殿下に視線を向けていた。
 そして、リズは目を瞠った。
 殿下は目を閉じ、リズたちから離れた場所で立ち尽くしている。
 血の気のない顔はぴくりとも動かず、まるで美しい彫像のような硬さを感じさせた。

 その異様な姿もさることながら、これほど近くにいて自分を見つめない殿下は、幼いころの初めての出会いのとき以来だ。
 リズは再び自分の激しい動悸を感じた。
 動揺に囚われ抜け出せないリズの頭越しに、兄とヒューが長閑な声で会話を続ける。
 
「しかし、よりにもよって、城にまだエドワードに想いを寄せる女性がいたとはね。
今までエドワードが少しでもその気配を感じると、徹底的に皇太后陛下の離宮送りにしていたから、若い侍女は既婚者しかいなくなったし、そんな猛者はもういないと思っていたよ。実際、ここ何年も浮ついた思念は感じていなかったのに」

「あの侍女は入ってから日が浅いようだったよ。それなのにこの重要な区画に足を運べるのは、そもそもおかしい。離宮で鍛えてもらった方が彼女の為だろう」

 凍り付き、美しさを際立たせている殿下から目が離せないまま、兄たちの長閑な声にそぐわない不穏な内容をリズは聞くともなく聞いていると、ヒューはいきなり美しく立ち上がった。

「リズ。今日のところは、たくさんの人の中を歩くことは難しいと思う。僕が思念も魔力も弾く結界を張――」

 言いさして、まるで急に鋭い痛みを感じたように、ヒューは、突然、目を閉じた。

「ヒュー?」
 思わずリズが声をかけると、ヒューは弾かれたように目を開け、茶目っ気たっぷりに言い足した。
「アンソニーの吹雪を感じたくなくて、幼いころから鍛えぬいた結界だよ。質は保証する」
 
 リズを抱えたまま立ち上がった兄は憮然と「結界ではなく、僕の天使から遠ざかればいいだけだろうに」と言いながら、ヒューにリズを渡す。
 くすくすと笑ってヒューはリズを左手で抱え込み、右手をかざして淡い緑の光を放ち、結界を張った。
 
 その途端、周りの空気が変わったことをリズは感じた。
 ヒューが纏っている静謐な空気をより強く感じ、それは心地よく、リズは自分の体が解れていくのを覚えた。
 笑顔でヒューに感謝を伝えると、ヒューも嬉しそうな笑顔を返してくれた。その笑顔は懐かしい愛らしさを少し残したもので、リズは自分の笑みが一層深まるのを感じた。

 そのまま部屋を退出するため、兄とヒューに囲まれるようにして歩き出し、リズは初めて、用意されていた茶器とお菓子に気が付いた。
 出番のなかったその茶器が物悲しく思え、リズはもう一度、殿下に視線を向けた。いつもならリズの視線を必ず受け止めてくれるサファイアの瞳は、凍り付いたままだった。
 
 こちらを見てほしいとしばらく立ち止まったリズだったが、兄に促され、躊躇いながら部屋を出ると、廊下に控えていたポールが僅かに顔を綻ばせた。
 リズが倒れるところに居合わせ、心配をかけてしまったのだろう。
 謝意を込めた笑顔をポールに向けたリズは、ふと、ポールに持ってもらっている籠に目が行った。
 籠には香を入れた壺が二つ収められている。

 気が付けば、リズは心地よい結界から飛び出していた。
「リズ!」と背後からかかる呼びかけを聞きながら、ポールに手を差し出し、反射的にポールから籠を渡されるや否や、リズは踵を返して部屋にノックもせずに駆け込んだ。

 はっと顔をこちらに向けた殿下は、先ほど見た場所に立ち尽くしたままだった。
 凍り付いた瞳に僅かに驚きが走り、リズはそれだけでうれしさがこみ上げる。
 そのまま歩みを止めず、殿下の下へ近づいた。
 殿下は目を伏せ、僅かに顔を逸らして、リズを視界から遠ざけている。リズはサファイアの瞳が恋しかった。
 殿下から一歩の距離まで近寄っても、長い金の睫毛はサファイアを隠したままだ。
 リズは美麗な横顔を見つめ、サファイアの瞳が自分を見つめてくれることを期待しながら声をかけた。
 
「お約束の香です」
 
 殿下は目を伏せたまま僅かに口の端を上げた後、リズに整った笑顔を向け、籠を受け取った。
「ありがとう。――貴女の香は私の世界を包み込んでくれる」

 整いすぎる美しい笑顔に、リズはひりつくような哀しみが胸に走る。
 
――この笑顔ではないわ…。

 けれど、これ以上、この場に留まる理由をリズは見つけられなかった。
 暇を告げるため、口を開いた。
「殿下。今日は殿下が選んでくださったお茶を楽しめませんでしたが、次に誘って下さることを楽しみにしています」

 リズの言葉に、エメラルドの瞳の氷が解け、はっきりとした驚きと、僅かな喜色が浮かぶのを見つめ、リズはふわりと微笑を浮かべた。
 大好きな笑顔を見ることはできなかったけれど、エメラルドの瞳が自分を確かに見つめてくれていることが、たまらなく嬉しかった。
 リズは礼を取り、ドアへと一歩踏み出した。
 
 その瞬間、
 
 リズは抱き込まれていた。
 鍛えられた厚い胸板に、強く、痛いほどに抱きしめられる。服越しに伝わる殿下の熱がリズの頬に伝わり、鼓動が殿下にまで聞こえてしまいそうな強さを持つ。
 掠れた声が部屋に響いた。

「貴女を愛している。この世の何よりも」

 その小さな響きは、誓いのように真実の思いが乗せられていた。
 言葉と共にさらに強く抱きしめられ、リズは息をするのも苦しくなる。
 喘ぐリズの耳に、熱く、そして哀しみを帯びた声が入り込む。
「私の生は、貴女の幸せのためにあることは確かなことなのに。貴女を幸せにすること以外に意味はないのに」

 殿下はリズの肩に顔をうずめた。
「どうか、私を…」

 途切れた後に続く言葉は、リズには分からなかった。
 けれども、殿下の魂が悲鳴を上げていることは分かった。
 そして、その叫びにリズは自分の魂も引き裂かれるような思いがした。
 痛みに目を閉じたリズの脳裏にふっと言葉が浮かんだ。
  
「殿下」

 殿下は顔を埋めたままだった。リズは何とか手を動かして、殿下を抱きしめた。
 ピクリと殿下の身体が動く。
 リズは小さく息を吸い込み、そっと呼びかけた。

「エドワード」

 はっきりと殿下が息を呑んだのが伝わった。ゆっくりと殿下は顔を上げ、リズを抱きしめる腕が緩められた。
 リズを見つめる美しいエメラルドの瞳が大きく見開かれているのを見て、リズは笑みを零した。

「夢でないなら、もう一度呼んでほしい。魂に刻みたい」

 いつもの殿下を感じてリズの口元は一段と緩んでしまう。するりと伝えたかった言葉が紡がれた。

「エドワード。私、あなたの笑顔が好きです」

 一瞬の驚愕の後、怜悧な美貌が照り輝くような喜びに彩られ、リズは自分の胸が喜びに満たされるのを感じた。
 
―― 私の見たかった笑顔だわ

 目を輝かせたリズを見て、一段と蕩けるような笑顔を見せた殿下は、耳に心地よい声を響かせた。
「私の女神。今日は忘れられない日になった。私は命ある限り、今日を祝い続けるだろう」

 いつもの殿下に、リズはとうとう声をたてて笑いだしてしまっていた。

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