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第十六話 勝者が導く終焉(前編)
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漆塗りの壁にいくつもの砲弾が撃ち込まれ乱暴に玉間の扉が開け放たれた。荒々しい喚声と共に甲冑を血の色に染めた兵士らが雪崩れ込むように侵入してくる。
彼らの目的は玉座に鎮座する一人の若き王だ。
怯え部屋の隅へ逃げる侍女たちには目もくれず我先にと玉座へ走り出す。だが、少女のような王は眉ひとつ動かさずに彼らの行動を見詰めていた。
艶やかな黒髪を肩あたりまで伸ばし、白い肌と白い衣装に映える大きな青い瞳が、先頭を務める兵士が彼女の元へ辿り着くのを見届けると悠然と立ち上がり自ら王冠を外して玉座を去った。
あまりに威厳と誇りに満ちたその態度に、兵士たちは声を荒げるのをやめ一同に静止して王の動きに着目した。
彼女は深い沈黙に飲み込まれた空気を震わせるような、静かでそれでいて凛とした声を発し
「砦を守る兵たちは―――全滅したのだな?」
と問うた。
手前にいた兵士がおずおずと頷くと王は無言で項垂れた。
壇上に佇む彼女の足元に透明な雫が光を受けて煌めきながら落ちていく。
「国が滅びた今、ツクヨミ王である私は……もう、泣いていいのだな…」
膝を折って泣き崩れるツクヨミ王の周囲を、新たに入ってきた大勢の敵軍たちが囲い勝利の喜びを歌った。
目覚めてしばらくしても耳元で万歳三唱がこだましていた。
まだ温かい寝床の中で寝返りを打ち、アタカは窓から注ぐ眩しい光を見詰めそっと嘆息を漏らした。
(母さんの…影響かな……)
夢で見た少女はきっと西国最後の王チトノアキフトだろう。エディックがよく枕物語に聞かせてくれた下りであった。詳しいデーターや資料を読み聞かせてもらううちに、いつしかこうやって鮮明な映像を伴って夢にまで出てくるようになった。気高い王が戦いの犠牲となった兵たちの為に涙を流した感動的な場面だと、エディックは涙目になりながら説いた。
(西国が滅びた後、すぐにオボマ国も殲滅されるんだっけ…)
ぼんやりとしていた意識が次第に覚醒し始める。布団の中で手足を伸ばすと隣で眠っているイチタの体に指が当たった。
しばらく待ったが目覚める気配はまったくない。穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
天井に向って掌を広げてみた。脈が鼓動を打つように一定のリズムをつけて、アタカの手は輪郭を失い透けて見える。
「戦い…もうすぐ、終わるんだな」
覚悟を決めた言葉を吐き、アタカはベッドから起き上がると服を着替えた。
それから一度寝ついたらなかなか起きないイチタが自発的に起きるまで待とうかと悩んだが、必ずこの家に帰ってくる意志があったので枕元に置き手紙を残することにした。
まだ日が昇ったばかりの村には雪が残っていて、空の色を反射し空気を青白く染めていた。早起きをした時でなければ眺められない絶景に舌鼓みを打ちながら丘を駆け下りていく。
冷たい風が寝起きの火照った体から熱を程よく奪い心地よい。
見慣れた村の風景を走りながら目に焼きつけ、アタカは都へ向かって足を急がせた。
道中の思い出を懐かしみながらきた所為か、都に辿り着いた頃にはもう人々が路上を忙しなく行き来していた。それぞれの職場へ向かう大人たちが多く、アタカも彼らの波に飲まれそうになりながら必死に前へ進もうとしていたら突然近くで甲高い悲鳴が上がった。
「だ、誰か! 私の財布がぁ!」
ドンッと肩がぶつかり流れに反して逃げだす小柄な少年がいた。
咄嗟に彼が財布を盗んだのだと理解し追いかけようとしたアタカよりも先に、道の先にいた男が少年を捕まえ首根っこを持ち上げた。
「カマスッ!」
傷痕だらけの顔を見上げた途端思わず男の名を叫んだ。
「シルパ…お前の知り合いか?」
こちらに背を向ける少年を目の高さまで持ち上げ問いかけるカマスに、内心では
(あんたしか知り合いいねーし)
とぼやくも、財布を持ち主の女性に渡し少年を地面に落した途端。驚きのあまり言葉を失った。
「…クロエ……」
尻餅をついた臀部をさすっていたクロエもアタカに気づくと大きく見開けてから、気まずそうに視線を逸らした。
「知り合いか?」
再び問うカマスに頷き返しクロエの元へ駆け寄った。
「お前、どうしてこんなことを…!」
クロエは項垂れたまま唇を噛み締めた。
「下等平民の罪は死を以て贖うことになるが…」
冷徹な言葉にカマスを睨みつけた。それからクロエを庇うように両手を広げると
「こいつはそんなことするような奴じゃない! 俺の友だちなんだ」
黙り込む彼に代わって必死に弁護をした。
盗まれた財布を大切そうに持つ女性に向って、クロエの頭を無理やり抑えつけ一緒に謝った。
「ごめんなさい! だけど、こいつは悪い奴じゃないんだ! クロエも謝れっ」
しばらくしてからしゃくり声を上げながら
「ひっく…ご…ごえんなさいぃ…」
と呟いた。
二人の真摯な態度に心を許したのか女性は肩を竦めると
「今回のことはなかったことにしましょう」
と言ってくれた。
「ありがとうございます!」
喜び、深々と頭を下げるアタカたちに微笑みを残し去っていく。
女性の姿が完全に消えてから、アタカはクロエの頭から手を離し彼を連れて道の脇まで移動した。成り行き上カマスもついてきたが傍観を決め込んでいるらしく、特に口出しする様子もない。
「どうしてあんなことしたんだよ。死罪になりたいのか?」
泣きじゃくるクロエの顔を手で拭ってやりながら問いかける。気の所為か以前に会った時よりも頬の骨が出て、体も全体的に痩せてしまった気がした。
「お…お父さんも、お母さんが…強盗に殺され、て、このまま一人で暮らせなかったら孤児院に入れられるって……うっ……ううぅ…ヒックエェ…ウエェェェェン!」
「な、なんで…どうしてそんな……!」
驚愕するアタカの背後で腕組みをしたカマスが
「戦争に巻き込まれ故郷を失った者たちが賊と化して各国に侵入している。四国とオボマ国の大規模な戦いだからな」
と達観した調子で説いた。
「!」
未来を知る彼らには例え目の前で誰かが死んでいっても、それは既に決められた運命だからと言って納得できるのだろうか。両親を失い路頭に迷うクロエがこれからどんな道を辿るか、それは火を見るよりも明らかなのに助けようともしない。
(俺も同じなのか?)
戦いの結末もどれだけ多くの犠牲が出るかも、既に知識として持っているのにそれを活用しようともしなかった。
(…だって、クラが死ぬなんて……絶対に、きっと嘘だから)
戦没者名簿のことを頭から追い出そうとクロエの肩を抱き締めた。
「どうするつもりだ」
「…放っとける訳ないだろ」
唸るように答えると怯えるクロエにできるだけ優しい表情を浮かべた。
「うまくいくかわかんないけど…クロエもマキヒの家にこいよ。俺も元々拾われたくちだし」
カマスがなにか言いたげに口を開いたが黙殺した。
ひゃっくりをしながら涙を手の甲で拭うとクロエは真っ赤になった目を見開けた。その瞳にようやく希望の光らしきものが宿る。ずっと一人で暮らしていたのだろう。ただでさえ垢に塗れた体は更に薄汚れ、正直を言うと臭っていたがそれでも彼が耐えてきた孤独を思うと―――無意識にシルパであった頃を重ねて救いの手を差し伸べたくなってしまう。
小さな頭を胸に寄せて力いっぱい抱き締めた。背中に回されたか細い腕が妙に悲しかった。
「俺…決めたんだ」
息を吸い込み視界の外にあるカマスに向って言葉を発した。
「戻れなくていい。一分でも一秒でもいいからこの時代にいて、俺の大切な人たちを助けたい」
「正気か? お前の体には抗体ができているんだ。その為にも今、全力で」
彼の言葉を遮り怒鳴った。
「俺が一番大切だって思うのはこの時代なんだ! 命を懸けてもいいぐらい、俺、この時代が好きなんだ…」
胸の中で小刻みに震えるクロエを始めとする、これまで出会ってきた多くの人を守りたかった。故郷を守る為に戦場へ赴いていってしまったグリフのように。
結末を知る以上、なんとしでもそれを望む形に変えたい。クラミチが死んでしまう未来だって、なにかをきっかけに連鎖反応となって違う道を導き助けられるかもしれない。可能性は決して百パーセントではない。残り一パーセントに命を賭ける覚悟だった。
と、ふいに足裏から地面を踏み締める感触がなくなる。体が浮き上がると突然視界が一転しアタカは、クロエを胸に抱いたままカマスの肩に担がれた。
「ち、ちょっと! なんの真似だよ!」
急に高くなった視界に好奇の視線を投げかける人々の姿が映った。
「ぐぐ…苦しいよ」
アタカとカマスの肩に挟まれクロエが悲鳴を上げる。
「道端で話していても埒が明かない。教皇と一族を召集して話し合う」
「離せって! 俺も元々城にいくつもりだったんだから逃げないっ」
足をばたつかせると埃が目に入ったのか、一端アタカだけを地面に戻し目をこすりながらクロエを肩に乗せた。
(人質ってことかよ……)
カマスの肩で無邪気にはしゃぐクロエを見上げ卑屈な思いに駆られる。だがそんな彼の内心など構う素振りさえ見せず、カマスは城へ向かって歩き出した。
一日の始まりの日課として大聖堂の掃除をしていたナムは、無線ピアス型携帯機の連絡を受けて急遽城へ戻った。城の入口でカヒコと合流したが、彼はナムを見るなり腹を抱えて笑いだした。
「な、なに感じ悪いわね。あんたー」
どこに笑う要素があるのだと憤慨しながらぼやく。
「感じ悪いもなにも、それはないって!」
と言って左手を指差され、初めて片手に箒を持っていたことに気づいた。
「うっわぁ、だっさ! あ、慌ててきたからよっ」
箒を放して言い繕うもカヒコの馬鹿笑いは収まらなかった。
「もぅ、あんたもしつこいわね! ちょっとは黙りなさいよ」
「だってギャグじゃあるまいし…! 箒を持って駆けつけるって何年前のアニメだよ…クックククク」
「しっつっこい!」
広い廊下に侍女たちの目があることも構わず、回し蹴りをカヒコの鳩尾に食らわせると怒り上がっていた肩を戻して深呼吸をした。
悶絶するカヒコを抱き上げ
「やっと静かになった…」
とぼやく。
足元に新たな人影が加わったので顔を上げて確認してみると、ことの一部始終を眺めていたのか痩せ細った目の大きい少年が立ち竦んでいた。
お世辞にも綺麗とは言い難い装いに城仕えの者とは到底思えない。しばらく身元についてあれこれ想像を巡らせていたが、膝下を震わせ涙目になり始めたので慌てて笑顔を貼りつける。
「お姉さんは怖くないわよ~」
猫撫で声を出しながら後退りする。何故か彼女がつくり笑いを浮かべた途端に少年の表情は険しくなり、さっきよりも目を赤らめて今すぐにでも泣き出しそうになった。
「だ、大丈夫だ…だわよ~」
研究所通いの彼女は子ども嫌いではないものの、感情の赴くままに行動をするこの小さな生物をどちらかと言えば苦手としていた。そういった本心を敏感に感じ取るのだろうか。どんどん顔を歪めていく少年を前にお手上げ状態になる。
「な、泣かないでねぇ~」
情けなく裏返った声が虚しく響く。
ちょうどその時、両者の間にあった扉が開き中からユサが出てきた。
「!」
少年の注意が彼女に引きつけられたのを好機と見なし、一目散に集合場所であるフサノリの部屋へ向かって駆け出した。
廊下から妙な声が聞こえてきたので気になって扉を開けたユサは―――視界の端でなにかがものすごいスピードで走っていったような気がしたが―――痩せた茶色い薄汚れた少年と目が合った瞬間に、何故か咄嗟にアタカの顔を思い出した。
「……誰?」
一見して似ている要素はなにもない。垢と埃に塗れて顔まで真っ黒だったが、その中で輝く黒曜石のような瞳に宿る光にはアタカを連想させた。
「お、あ……」
突然声をかけられ驚いたのか口をぱくぱくさせて言葉を紡ぐ。
「くろ…クロエ…」
「それ……名前?」
単に顔が黒いからつけられた渾名かと思ったが、クロエと名乗る少年は唇を一文字に結んで首をぶんぶんと縦に振った。
「……なに…してるの?」
「わ、わかんない! く、クロはここで待ってろって言われて迷ったんだ。広いから…」
「あぁ…」
最後の広いから、と言う下りに大いに共感し頷いた。彼女も城に連れられてきてからと言うものの一日に何回も城内を彷徨い、ミツリに見つけられるまで自分の部屋にも帰れない日が続いた。
クロエを連れてきた人物もきっと今頃彼を探しているだろうと思い、これから授業があることも忘れてユサは
「私が探してあげる」
と言い出した。
「え、でも…いいの?」
「いい。暇だから」
ミツリが彼女の為に調整した過密スケジュールの授業も忘れ断言する。
「ありがとう!」
彼女が差し出す手に指を絡めクロエは嬉しげに飛び跳ねた。
「クロ、お城の中回るの初めてなんだ!」
「…初めて?」
喜びに輝く綺麗な瞳を見詰め反芻する。
美の代名詞としても名高いイディアム城には素晴らしい芸術品が数多く収納されている。また壁画や柱の彫刻にしても、どれも一見するに値する一級品ばかりだ。本来なら彼のような一般人にそれらを拝観する機会など決して訪れなかったはずだろう。それを思うとこの機会を見逃してはならないような気がした。
「案内…する?」
「うん!」
早速人探しと言う本来の目的から脱線していることにも気付かず、ユサは可愛い弟のようなクロエに微笑みかけ廊下を歩きだした。
亡きカミヨからそっくりそのまま受け継がれた仕事部屋では、机の上だけでは足らず床にまで積み上げられた書類の山に埋もれながらウリが必死に目を通していた。
彼の手伝いをしていたフサノリも必要なものとそうでないものを選り分けながら
「しばらくは従属国の王たちとのやりとりが続きますが、書面のやりとりが終わると次は謁見を申し出にきます。戦が終われば勝利の暁に報奨を求めに使者を出すでしょう」
と助言をした。
「戦が終わるまで新政策を打ち出すのは見送りにします」
書面に目を通すふりをしてそっとフサノリを盗み見た。
「西国が滅び、オボマが滅びても戦いは終わらない気がします。表面上は鎮静化しても西国を失ったことから三国のバランスはより脆くなるでしょう。違いますか? ―――フサノリ教皇」
抱えていた不要な書類をひとまとめに紐で括り、処分対象として部屋の隅に移動するとフサノリは肩を叩きながら苦笑を洩らした。
「さすがは慧眼と名高いウリ様だ。あなたの御名は後の世にも語り継がれます」
「称讃こそ今は不要です。教皇の予言によるならば、この戦いはいつ終わりますか?」
「ご所望ならばお答え致しましょう」
服を叩いて埃を落とすと威厳に満ちた表情を向けてきた。ウリは黄金色の瞳が怪しく光る瞬間を見逃さなかった。
「昨日、西国の王チトノアキフトはオボマ国第五部隊によって討たれました。従いこれによって両国間で引き起こされたトキイシの戦いは一端終戦。三国とオボマ国によるケフの戦いは―――」
紡ぎかけていた言葉を放置し、フサノリはルビーの首飾りを手に取った。気の所為か首飾りから、虫の羽根が空気を震わせるような小さな音が聞こえている。
(もしかして…あれも、未来から持ってきたものでは…)
勘繰るウリを横目に一心にルビーを食い入るように見詰めるフサノリ。その間表情に変化は見られなかったが、ふいに下唇を噛むと深々と頭を下げて謝罪した。
「大変申し訳ございませんが、少々席を外させて頂いてよろしいでしょうか」
「…構いませんが、なにか急用でも?」
低頭していた面を上げ苦笑いを浮かべると「カヒコが気絶したまま目覚めませぬ故、わたくしが様子を看舞って参ります」
(やはりあの首輪はなんらかの通信機器の役割を果たしているんだ。それも…ヤヌギ族専用の)
彼の答えで確信を得たウリは鷹揚に頷くと
「必要なら王の主治医を使って下さい」
と添えた。
「寛容なお心遣い感謝痛み入ります」
粛々と述べ踵を返す。扉を開けてその隙間に身を移動させたが上体だけ捻り視界にウリを捉えると
「イザナム王。目下の者に敬語は不要ですよ―――」
と、冷ややかな眼差しと共に告げて去っていった。
後に残されたウリは居心地の悪さを噛み締めながら、両脇に積み上がる書類に目を通し始めた。
移動している間にピアスで連絡を取り合っていたのか、アタカがカマスに連れられ以前にもきたことのある教皇の部屋へ辿り着くと既にヤヌギ族全員が集合していた。
箒を片手に持っているナムとさっきから、足元がふらついているカヒコが気になったが輪の中心に据えられたことでなんとなく威圧感に身が竦みそうになった。
「は、話は聞いてるんだろっ」
吐き捨てるように言い放つとフサノリが頷いた。
「お前の答えはこの時代にとどまることなのだな?」
「だけどそんなことできないでしょ! あんたは…いつ他の時代にトラベリングするかもわからない不安定な状態で…! それよりも私たちと一緒に未来へ帰った方が絶対にいいって」
「しょーだ……しょーだぁ……」
呂律の回らない口でカヒコも同調する。
「決めたんだ!」
アタカも噛みつくように反論した。
「俺にはあの時代で大切に思っているものなんてない! あんたたちみたいに、命を懸けて守りたいってものを…この時代に見つけたんだよ」
それでも四人から向けられる眼差しには冷ややかな軽蔑が混じっていた。心が痛むのを堪え、胸に手を当てて深呼吸をして今度はできるだけ気持ちを抑えて想いを綴った。
「俺…確かにユサが好きだ。だけどユサだけじゃない。イチタもウリも、マキヒやクラミチ、クロエにだって…! みんなに幸せになってもらいたい。好きだからっ! だから大切な奴らの為に生きたいんだ。初めて、俺……初めて誰かの為に生きたいって思ったんだ!」
真っ直ぐに視線の先にフサノリを捉え腹の底から言葉を発した。
「いつまでこの時代にいれるかわからなくていい。とんでもない時代に飛ばされるか、それとも消滅するかわかんないんだろ? それでもいい。俺は、最後まで、この時代で生き抜く」
ずっと考え抜いた上での答えだった。日に日に体が透ける度合いが濃くなってきても、自分が滞在することで未来が変わるのかわからなくても、見ず知らずの人々が暮らす世界に戻るよりも自分が最も幸せでいれたこの世界を守りたい。
「お願い…します……」
目頭が熱を帯びて視界が一気に涙で曇った。瞬きと共に頬を熱い水が伝いこぼれる。
ナムが目を真っ赤にしてアタカを見ていた。彼女だけではない。カヒコも、ハザン、カマス、そしてフサノリまでもが当惑しながらも、彼を見詰めていた。
「お願いします!」
頭を下げて嘆願した。
「俺はどうなってもいいから、せめてユサが無事に生き抜くまで見届けたら死んだっていい! 大好きな奴が幸せになって…笑ってるところを見たら諦めるから! それまで、俺をこの時代に残して下さいっ」
もうアタカにはユサを幸せにしてやることもできない。それならせめて、ウリと共に誰よりも満ち足りて笑ってくれたその顔を見たら、すべてを諦めることができると思った。
彼女に生きていて欲しい。本来の定められた寿命以上に生きながらえることができたら、もうなにも悔いはない。
「それで…お前は幸せになれるのか?」
静寂を破ってフサノリが問うた。
「!」
反射的に顔を上げると、アタカは即座に応じた。
「俺の幸せは、ユサの幸せだ!」
その言葉に決して嘘偽りはない。心から願う彼女の幸せが叶うのならきっと、いつ死んでしまっても悲しむこともないだろう。
「あっ……あんたって…馬鹿よぉぉ!」
ずっと耐えていたのだろう。ついに我慢しきれなくなった様子でナムは大声で泣き出した。
「他の男と結ばれるのに好きになって…しかも、その子の為に命、懸けるなんて…! ナチュラルにかっこつけるなってぇ…うっうーうー…う……」
泣きじゃくるナムを宥めながら、ようやく正気を取り戻したカヒコがハザンに向って話しかけた。
「トラベリングの条件さえわかれば、ちょっとぐらい滞在期間延ばせるんじゃないの? その…俺たちと目的が同じなら……ユサが生き延びたのを見届けてシーウェスも納得したら、そのぉ…」
「そうよ! それまでにシーウェスを納得させりゃあいいんじゃない! なんなら酔わせて連れて帰ったっていい訳だし」
喜々と叫ぶナムにカマスが嘆息交じりに突っ込んだ。
「説得するつもりなら、そこまで手の内をばらすべきではないな」
「ハッハハハハハハハハハ…てんぱっちゃってるんだね~ナムったら」
「馬鹿だなぁ、俺より馬鹿じゃん!」
急に場の空気が和む。さっきまで決死の覚悟で嘆願していたアタカとしては、その変化についていけずに頬が微妙に強張ってしまった。
だがトラベリングの条件がわかれば滞在期間を延ばせると聞き、思わず胸が高鳴る。死刑執行が猶予されたように目を輝かせた。
「最大限の譲歩として、我々が目的を遂行するまで滞在することを認めよう」
長く沈黙を守っていたフサノリが腕組みをして発言する。
表立ってはヤヌギ族の族長として、プロジェクトの責任者として判断を下したようにも見える。だがアタカには、彼の言葉の奥に秘められた本音を感じ取った。
(俺の……幸せは、この時代にある。だからあんたは…あんたも、母さんの骨を埋める為にもここの残るなら、俺だって…!)
フサノリを見据えたまま顎を引く。そして技術開発を担当するハザンにも視線を向けると
「トラベリングの条件は、『流浪の民』だ。あの歌…オルゴールを聴きながら時計を回したんだ。だからなんらかの影響があるんだと思う」
「!」
真っ先にフサノリの表情に驚きがあらわれた。
「うっそ! あの歌が条件だったの?」
「まさに驚アゴの事実だ!」
素っ頓狂な声を出すナムとカヒコ。すかさずナムが「驚愕!」と訂正を入れたが驚く彼の耳には入らなかったようだ。
「これで希望が見えてきたよ~」
嬉しそうに頬を緩ませるハザンに近づきアタカは左腕をめくって突き出した。
「俺…この前、ユサと一緒に森に逃げた時に虫に刺されたんだ。意外かもしれないけど、虫に刺されるのもこれが…多分初めてで、母さんが抗体に影響が出るって言ってたの思い出して」
「…刺されたって?」
突然口調を変え、ハザンはアタカの腕を掴んだ。
「教皇! ただちに採血をして可能な限り検査にかけることを許可して下さい」
初めて目の当たりにする仕事口調の彼に怯える。だが事態は彼が想像していたよりも緊迫しているのだと改めて自覚した。
「許可する。直ちに取りかかれ」
フサノリが頷くなりハザンは懐から注射器を取り出すと、躊躇いも見せずアタカの腕に突き刺し血を抜き取った。
あまりに突然だったので痛いと思った次の瞬間には針が抜かれ、簡単な止血が施されていた。それからのハザンの行動は瞬きをするほどの素早さだった。呆然と立ち尽くすアタカをナムの方へ押しやると、フサノリに向って目礼をしてすぐさま部屋を飛び出していった。
まるで嵐が去ったようだと思うアタカの背中を支えながら、ナムがぼんやりと
「…超仕事モードに入ったら誰にも止められないわ」
とぼやいた。
「え?」
振り向きナムを見上げようとしたいがカヒコに突き飛ばされてしまった。
「お、お前…! いつまでもナムに抱きついてんなよ! な、ナムはパンダじゃないんだぞ!」
「…コアラみたいに木に抱きつくなって言いたかったのか、それともパンダみたいに可愛いって言いたかったのかは別にして」
嘆息を吐き態度を改めフサノリと向き合うと
「指示を仰ぎます。シーウェスの目的が私たちと合致した今、彼にも協力を求めるべきなのか、それともこれまでのように別行動を続けるべきなのか教えて下さい」
考えるように口を閉ざしたが、瞬きをする瞬間にアタカを捉えそして―――彼にしかわからないような眼差しで微笑んだように見えた。
「装置が完成するまではシルパの身の保障はできない。任務を共にして突然、排除されては敵わないな…」失笑するように口元を歪める。「期限を確保できるまではこれまでと等しく別行動を行う。カマス。確か一つピアスが余っていたな」
「あ、あぁ…辿りつけなかった仲間の遺品だが」
と言ってポケットから赤色の無線ピアス型携帯機を取り出した。
「これをつけてもらう。ナム、カヒコ。お前たちで耳に穴を開けて使い方を説明してやりなさい」
ピアスをナムに渡すと
「わたしは再びイザナム王の元へ戻る。カマスは引き続き戦況を把握しわたしに伝えるように」
とそれぞれに指示を与えた。
イザナム王と聞いてウリのことを想っていたアタカの胸中を読み取ったのか、卑屈な笑みを浮かべると
「新たな王は賢明が故に以前より敵を多くつくる」
とぼやいて部屋を出ていった。
彼の後を追ってカマスも退室する。
友だちを馬鹿にされたような気がして腹が立ったが、突然耳朶を摘ままれたので飛び跳ねた。
「ぎゃっ!」
「なぁに驚いてんの」
呆れ口調で呟くと水差しの水でなにかを洗っているカヒコに
「氷はいらないわ。直でやっちゃおう」
「え、な…なにやるつもりだよ」
嫌な予感が汗と共にべっとりと浮かぶ。
不敵な笑みをたたえるナムは、カヒコが持ってきた裁縫針を片手に身の毛も総立つ言葉を発した。
「ピアスってのは耳に穴を開けないと使えんのよ。シルパちゃん♪」
喉の奥が引きつって変な声が漏れた。逃げようとしたがすかさずカヒコがアタカを拘束したので身動きもとれない。
「ち、ちょっと待てよ! まさかそのまま…麻酔もなしにやる気か?」
「大丈夫。ちょちょいってやっちゃうから。普通なら氷で冷やすんだけど、あんたの場合は薄いから血も出ないわ」
完全に他人ごととして見なした口調には優しさも労わりも含まれていない。
「さぁ…やっちゃおうか」
怪しく光る針を持つナムが鬼のように見えた。
「―――以上が無線ピアス型携帯機の構造で、伝えたいことがあれば頭で強く念じながらピアスを押せば届くってこと。どう? 簡単でしょ」
痛む左耳を押さえながらアタカは苦々しげに頷いた。
(痛くないって言ってた癖に…ちくしょぉ……)
だがそんなことを言えばまた恐ろしい目に遭うのは見えている。針を突き刺す瞬間、暴れに暴れまくったアタカを黙らせる手段として男の急所を迷いもなく蹴り上げた時の彼女の形相を思い出し、ぐっと怒りを堪えた。
「フフフ…いい子だったからこれをあげるわ」
と言って手渡されたのは袋に入れられた白っぽい粉だった。触ってみると少しざらざらして肌に突き刺さるような感触がある。
「ポーラスアルファって知ってる? 廃ガラスにカルシウムとかを混ぜたやつでたいぶ古い方法だけど、効果は抜群な土壌用保水材。ほら、一時期は砂漠の緑化対策によく使われてたのよ。水を吸うと粉末が個体に変化して地中に水が浸透しにくくなるの」
「ふぅん…で、これがなんの役に立つの?」
「時期を見てポーラスアルファの生産打ち出すつもり。私たちの算出した結論によるとこれは大きな収入にはならないけど、ユサちゃんのイハヤの森創造に大いに役立つことになってるの」
「……ユサの?」
彼女の名前を聞いた途端胸が熱くなるのがわかった。
「この時代にある資源で応用できるようにしなくちゃいけないんだけど、とりあえずそれは見本ってことね」
「もらって…いいんだな?」
「いいわよ。それより私たちも次の仕事に取りかからなくちゃいけないんだった」
「あ、そっか。昨日だったよな。西国が滅びたのって」
「え……?」
何気なくこぼしたカヒコの言葉にアタカは全身が痺れるような衝撃を受けた。すかさず自分よりも二回りも長身であるカヒコに詰めかかり言及した。
「じゃ、じゃあもうすぐケフの戦いも終わって、ユサがウリと結婚するのも」
「そ、そうだよ。もう一月ってしないうちに…ナムゥ、ちょっと助けてって!」
「口は災いの元ってことだ。さぁお仕事、仕事~」
軽やかなステップで扉まで移動すると、戸に手をかけてアタカに忠告をした。
「あんたがね、どんだけこの時代に入れ込んでいても私たちは未来人なんだから。もし、あんたが気持ちに負けてまた、ユサちゃんを連れ去るようなことをしたら……私たちは全力を尽くして二人を引き離す。例え、仲間でもね」
その言葉は鉛のような重みを伴ってアタカの心に響いた。力を抜いてカヒコを離すと、やや項垂れたまま足元を睨み呻いた。
「わかって…る…」
未来からやってきたフサノリとの間に生まれ、いるはずのない時代で生きている。これが既に歴史に組み込まれていたことなのかそうでないのかわからないが、それでも、ユサがウリと結ばれることだけは間違いないのだと言い聞かせた。
まだ熱を帯びてほんのりと腫れている左耳朶に触れてみる。ナムもカヒコも命を懸けて未来を変えようとやってきた。その所為でたくさんの犠牲者が出たとも言っていた。けれどフサノリがあの世界にやってきて彼の助言の元に装置がつくられたのだとしたら―――本当に未来は変えられるのだろうか。
この計画が無事に遂行され例え数年先までの歴史が変わったとしても、今と違う未来が生まれてしまえばフサノリはあの時代にくることもなかったかもしれない。フサノリがいなければ誕生しなかった装置なのに、装置とフサノリ、そしてよき方へ変わった未来は同列に存在する訳がないのではないか。
なにかが大きく矛盾している気がする。
けれど謎のウィルスが発生し、未来からやってきた彼からこの先自分たちが辿る道を教えられたら、そんな疑問を抱く余裕さえなくなってしまうかもしれない。
(所詮は…目先の利益優先だもんな……)
ナムたちも消え静まり返った室内でつい感慨に耽ってしまった。
「……イチタにやろうかな」
もらったポーラスアルファの袋を腰に提げ独り言を呟く。さすがにもう起きてアタカが帰ってくるのを待っている頃だろう。
窓から注ぐ明るい日差しを一瞥しアタカは扉を開けた。
「あーアタカだ!」
背後から呼びかけられたクロエの声につられ振り返る。
ドンッと腰の辺りに温かな衝撃を受けクロエが抱きついたのだとわかったが、アタカの意識は目の前に佇むユサに釘付けになっていた。
しばらくクロエを連れて城内を案内していたが、途中で綺麗好きの侍女に見咎められクロエを風呂へ入れるよう説教された。依然としてユサ以外の人に警戒心と恐怖を見せる彼は、ユサと離れることに必死に抵抗をしていたが痺れを切らした侍女がお菓子をダシに使うと案外素直に沐浴場へ向かってくれた。
彼が沐浴を受けている間ユサは一人で城内を回って時間を潰した。時々ミツリの捜索から隠れたり、見つかって必死に走って逃げるなど久しぶりに体を動かして遊んだ。
廊下を走り抜けてから壁に張りつき肩で呼吸をし追手がこないかを確かめる。ここまで激しい運動ではないがまだウリもユサもそれぞれの家にいた頃は、アタカたちと遊んでいたと思い少し懐かしさと悲しみが過った。
「許しません!」
心臓が飛び跳ねた。聞き覚えのある声なのに、こんな風に声を荒げて怒鳴っているところは初めてだ。怯えながら声の聞こえた方へ近づきそっと扉を開けた。
「今、税金を引き上げるなんて、ただでさえ戦争で国民の負担が大きくなっているのに反感を買うだけです」
「しかしこのままでは予算が足りません。来年度予算を繰り越ししても、まだ足りないのです」
大きな背中に隠れて見えなかったが手前に立つ男たちの体が揺れて、その隙間から机に構えるウリの姿を捉えた。
「カミヨ様がお治め下さった頃は二度も税金を引き上げましたが、それでも国民の反発は少なかった。それは王の信用が篤いと言うものではありませんかな?」
「即位されて間もないあなたが、民の支持を失うことを恐れているのはわかりますが、まず国家のことを先決にお考え下さい。あなたの為に我々はこうして申し出ているのです」
立派な言葉で飾られているようにも聞こえるが、裏を返せば年若き王を心の中で侮蔑し自分たちの都合で動かそうとしているのだろう。
「確かにぼくのような経験も浅い王の発言に、なにかと不安も多いかと思います。ただ…予算を最も有効に切り詰め、できる限りの努力を民に示した後ではなければ民衆は納得しないでしょう」
「ほぅ…つまり王が倹約に務めるとでも仰るのですか?」
「最終的にはそうなるでしょうね。けれど、こちらをご覧下さい」
なにか書類のようなものを渡したようだ。小馬鹿にした様子だった二人の大臣も書面に目を通した途端に硬直した。
「記載してある裏金をすべて整理すれば多少なりとも財源は確保できるはずです。それと孤児院の維持費をごまかしていらっしゃる方がいます。その方の責任の所在をはっきりさせ長年蓄えられた維持費を返還して頂きます。また戦前に輸入を始めた東国の鉄を不正に受け取っている方がいるようですから、真偽を確かめましょう」
ウリの発言にそれ以上逆らえないと判断したのだろうか。大臣たちは項垂れたまま唸るように同調した。
(………ウリ…元気がない…)
戴冠式以来顔を合わせていないウリのこんな場面を目撃し、ユサは何故か申し訳なくなってしまった。彼は早くも王としての職務をまっとうしているのに、その妃になるはずの自分はこうして自由気ままに遊んでいる。
そっと音を立てないように扉を閉めるとユサはクロエを迎えに沐浴場へ向かった。
「ユサ! 綺麗になったよ!」
新しい服に着替えたクロエは一見して同一人物かどうかわからないぐらいに綺麗になっていた。埃と泥で汚れ灰色に見えた髪の毛は艶やかな茶色に変わり、黒かった肌は生来の肌の色を取り戻していた。
嬉しそうに飛び跳ねながら駆け寄るクロエを抱き止め、ユサは意識的にウリのことを頭から締めだした。自分で決めた猶予がある間は、心を掻き乱されたくない。必ずアタカに絵を渡した暁には気持ちを入れ替えてウリと共に国家の為に尽くすから、と言い訳がましく繰り返す。
(後ろめたいって思うから……誰かに優しくなるのかもしれない)
手をつないでくるクロエを愛しいと思いながらも、自己嫌悪を紛らわす為に錯覚しているだけではないかと自問自答してしまう。
(私は……アタカが…好きなのに…)
会えない日々が続けば続くほど、不安が増幅していく。いつもこうして彼のことを想っているのは自分だけで、本当はアタカは既に彼女のことなど忘れているかもしれない。今も心はつながっていると思うのは単なる独り善がりの発想か。
寂しさが肥大すると身近にいる人の優しさがやけに身に沁みて感じられる。ウリの優しさは以前から熟知しているつもりでいたが、それでも、首飾りにして隠し持つ鍵に触れるたびに彼の無償の優しさに心が打たれた。
「こっち見てみようよ~」
クロエに手を引かれて廊下を進む間もアタカとウリのことを交互に考えていた。
本当にいつかアタカに会えるのだろうか。あんな約束もアタカは忘れているかもしれないと言うのに。
発想がどんどんマイナス方面へ向かっていく。それでも止まらない。目頭が熱くなり奥底からなにかが込み上げてきそうになる。
悲しくて、辛くて、まるで自分一人だけが感情の坩堝に取り残されてしまったような感覚に陥り、そこで再び自己嫌悪を覚える。悪循環だとわかっていても止まらない。せめてもう一度アタカに会えたら…
(会いたいのに…きてくれない……)
と、その時クロエの手が離れた。
「あーアタカだ!」
喜びに満ちた声を上げると駆け出した。
クロエが飛びついた人物の顔を捉え頭で理解するよりも早く、体が自然と動いていた。
「!」
会いたかった。ずっと同じことばかり飽きずに考えていた。彼のことを考えて終わる日々が何日も続き、王妃としての自覚を求める侍女たちとの間に溝を感じてきた。けれどこの瞬間を迎えた今、再会するまでに味わった様々な苦しみも凌駕するだけの喜びが全身を貫いた。
「アタカ…!」
ユサはアタカの首に抱きついた。お腹のあたりで二人に挟まれたクロエが「むぎゅう」と悲鳴を上げたような気がしたが構っていられない。最早彼女の頭の中はアタカとの再会を喜ぶ想いで満たされてしまった。
「アタカ……アタカ…会いたかった…」
小刻みに肩を震わせてユサは何度も繰り返した。
「俺も…」
と言いかけて手持無沙汰ない手をどこにやればいいか悩み言葉が途切れる。その間に自力で脱出したクロエが物珍しそうにアタカとユサの抱擁を眺めていた。
純粋な好奇心から向けられる視線に恥じらいを感じ口ぱくで
(クロエ、ちょっとだけあっちいってて…!)と頼んだ。
(えぇ! アタカの傍にいるよ)
(いいからっ。お願いだって!)
必死に懇意すると頬を膨らませながらも廊下の向こうへ移動してくれた。
「よかった…俺、まだ約束忘れてないからさ……もう一度ユサに会いたかったんだ」
「絵……持ってない…」
泣き腫らした顔を晒すと
「今度、ショウキに頼んで持ってきてもらうから、また会いにきて」
と頼んだ。
「うん。わかった」
素直に頷き、それからフフッと笑みを漏らした。
「お前って泣いてても無表情なんだな」
「表情ある。アタカにはわからないだけ」
「あるって言うか…なんか憮然としてんだよな。怒ってんのかってたまに思うような感じだし」
「怒ってない。私、怒らない」
「怒るほど真剣に考えたことってあるのかぁ?」
茶化しながら聞いてみるとユサは表情を変えずに唇を尖らせた。
「ある。アタカのこと、毎日真剣に考えてる」
「!」
恐らく額面通りの事実だろう。さらりと述べられた想いについ顔が赤くなってしまった。
「赤い。アタカの顔」
「し、知ってる!」
咄嗟に顔を逸らしたものの言い当てられ無性に恥ずかしくなった。ユサは何故怒られたのかわからないと言った風に口を開けていたが、ふいに廊下の向こうから彼女の名前を呼びながら近づいてくる気配に気づき表情を変えた。
「会いたくない奴?」
「うん。うるさいから」
「きて」
ユサの手を取り再びフサノリの部屋へ入る。
扉を閉めてしばらく息を殺していると先ほどの侍女がユサの名前を連呼しながら過ぎ去っていった。
「……」
改めて二人きりになった部屋で共犯者の笑みを浮かべる。
「久しぶりだな…」
つないだままの手を眺め言葉を紡ぐ。視界には映らないけどユサも頷いたような気がした。
「元気だったか? その…ウリが即位したりとかで、結構大変だっただろ」
「私、アマテル王の娘になった」
「え? もしかして養女に?」
「うん」
「そっか…そうだよな……。人気取りにはそっちの方が都合がいいよな。なんたって、シグノの娘なんだし」
「私。付加価値でしかない」
傷ついたのかあまり表情を変えずに呟く。
「そ、そんなことないって! 忘れたのかよ。お前はいつかおっきな森をつくって、それが後々の時代にまで受け継がれていくんだぞ? シグノよりもすっごい偉業だって!」
「そう? ならいい」
にこりとも笑わないのでいまいちユサの考えていることがわからなかったが、アタカはほっと胸を撫で下ろした。そして今一度自分の気持ちを確かめ、ユサに決意を打ち明ける覚悟をした。
「俺…ユサが幸せだと思える瞬間を迎えるまでずっとこの時代にいる」
「………え?」
疑問符を浮かべるユサの手を強く握り締めアタカは更に言葉を発した。
「お前が、ウリと幸せになるまで…って言うか、お前が最高に幸せだって笑うまでお前を守る」
「……傍に、いてくれるの…?」
できることならその願いを叶えたい。けれどアタカは首を横に振り否定した。
「傍にいれないけど、ユサを守る。絶対に、約束する」
「…私が…幸せになるのは…アタカがいる時だ」
唇を噛み締めて呻くユサを愛しく眺めたが、それ以上に自分自身にも言い聞かせるように優しく諭した。
「ウリを信じろよ。あいつは、すっごくユサのことを想ってくれていて、俺以上にユサを幸せにしてくれる。それと同じぐらいあいつを幸せにしてやれるのは、ユサだけなんだ」
「だけど…!」
彼女にしては珍しくキッと鋭い眼差しをぶつけてきた。
「私、やっぱり…アタカが好き。アタカが傍にいてくれなきゃ、幸せになれない!」
一つにつながった指を通して彼女の想いが伝わってくる。痛いほど想っている。測りきれない。離れたくない。できることなら再び―――すべてを捨てて一緒になれたら…
けれどナムの言葉が思い浮かんだ。
彼らが逃げることで多くの人を傷つける。彼らを信じ、帰りを待ってくれている人たちを裏切って、そこで本当に幸せになれるのか。
代償を払ってまで得る幸せではない。
本来なら、二人が出会うこともなかったはずなのだから。
(頭ではちゃんとわかってるんだぞ……)
言い訳だろうか。けれど、言い訳だけで自分を正当化したくはない。だから約束をしたのだと自らを戒め、やり切れない思いが拳の震えとなってあらわれた。
「約束しただろ…」
「だけど」
反論しようとするユサを力いっぱい抱き締め言葉を塞いだ。
「俺たち、絶対に幸せになるんだろ? ユサが幸せになってくれなきゃ、俺は幸せになれない! 無理なんだよ! 一緒にいれないけど、だけど、お前が笑ってくれていたら…もうなにもいらないから……」
胸の中でもがいて顔を出すとユサも声を出した。
「私もアタカと幸せになりたいよ。どうして、傍にいたら駄目なの? 好きなのに? アタカが好きなのに……!」
体が熱くなる。好きだから離れたくない。傍にいたい。純粋で最も貪欲な願い。
「絵を渡したら我慢するって思ってた。だけど、我慢しても辛い。自分が…自分じゃなくなるみたいで、自分が大嫌いになる…」
泣きじゃくりながらユサは嘆願した。
「アタカが好き…嘘……じゃない…」
呻き声と共に吐き出される吐息が甘く切ない。胸に抱いたユサの体から発せられる匂いが鼻腔をくすぐり、必死に抑えつけていた理性が負けそうになった。
「どうして…?離れたくないのに……離れたくない…」
何度も、どうして、と繰り返すユサ。わかっているのに。同じことを一緒に考えた。苦しみながら必死に考えて出した答えがあるのに、もう一度答えを探して迷走する。
どんな賢者を引き合いに出したってこれ以上の答えはどこにもない。出会ってしまったこと自体が奇蹟だったのだ。誰が予想しただろうか。この時代にいるはずのない少年が、後の世にも名を残すイザナム王の妃となる少女と出会い恋に落ちてしまうなどと。
けれど奇しくもフサノリとエディックも、同じような何万分の一の軌跡から出会い、恋をした。結ばれるはずのない二人。生まれるはずのない子ども。
運命はいつも同じことを繰り返す。人間が、飽きずに同じ遊びを繰り返すように―――
「……ずっと、いてよ…」
握り締めた手をそっと胸に当てて呟く。黒目がちの瞳がアタカを求めて不安げに揺れていた。
指を通して彼女の鼓動が伝わってくる。温かい肌は血が通い、全身で懸命に生きているかけがえのない存在。理性や正論で自らを戒め拘束したところで想いは止められない。大切で、命懸けで守りたい。運命に導かれた訳でも誰から祝福される訳でもない。わかっている。悲しいぐらいわかっている。
「……ユサ…」
彼女の名前を呼ぶ。何度も何度もユサの名前を呼びながら、愛しい彼女を抱き寄せて嗚咽を漏らした。
「ごめんな。俺、ユサのことしか考えられないけど、だけど、ユサにはもっとたくさんの世界を見て、生きていって欲しいんだ」
「やめて…最後みたいなこと、言わないで……」
必死に胸にしがみつき嘆願した。
けれど彼女の頭を撫ぜてそっと体を離した。
「幸せになれ。ずっとずっと、何十年も先まで笑って生きろ。たくさん長生きして、俺たちの未来に……お前が幸せに生きていたって伝えてくれよ」
緩んだ涙腺がまた刺激されて熱い水が溢れ出る。
「俺、文使いしてるけど、自分に宛てた手紙ってまだもらったことないんだ。だからユサが生きて、俺に……手紙を送ってくれないか?」
「手紙…?」
アタカの手を握り締めながらユサが繰り返す。
「私が、手紙を送るの?」
「内容はなんでもいいから」
絡みついて離れようとしない彼女の指を一本ずつ取り除きながら、優しく語りかける。直接目を交わさないことで暴走していた感情を落ち着かせようとした。
「毎日、元気で御飯がおいしいとか…木に花が咲いたとか……なんでもいい。ユサが、幸せに生きているってわかったら、俺、すごい嬉しいから」
逃がさないよう必死に捕まえていた指が、皮肉なことにも彼の手によって離されていく。
最後の小指がアタカから離れると、五本あった指はたちまち行き場を失い両脇に垂れて戻ってきた。
ついさっきまでアタカは抱き締めてくれていたのに、その温もりはどこかへ消えてしまった。同時にお互いの体を駆け巡っていた一つの想いも情熱と共に昇華しきってしまったような虚無感。
もう一度触れあえば、気持を確かめられるかもしれない。けれど、アタカはユサから離れ微笑んだ。
「俺、本当にユサのことが、好きだから」
彼女も同じぐらいアタカのことが好きだ。その気持ちに一片の嘘偽りもない。だからそれを認めて欲しくて、温もりを確かめたくて手を伸ばした。
「………大好き、だから、触らない」
宙を掴んだ指先がビクッと震える。
その先にあるアタカが近いのに、とても遠く見えた。
「ユサが…大好きだ。だけど、同じぐらい、ウリもユサのことが好きだと思う」
「嫌だ……」
聞きたくない、とかぶりを振って否定する。
「私が好きなのはアタカだけだ! 好きだから!」
誰かの想いなんて考えたくない。自分の気持ちだけに素直に、誠実に生きていたいと思うのに、何故か足は根が生えたように動けなくなっていた。
触らない、と言ったアタカの目は真剣だった。なにを言っても彼の決意は揺るがないとわかっている。どんなに泣き喚こうと、運命を変えることは不可能だから―――
「……好き…なのに…どうして…?」
答えが擦り切れるほど考えてきた悩み。答えは既に出ているからこそ、納得できない想いが堂々巡りを繰り返す。
好きだから。好きだから。好きだから。ただ、それだけのことなのに、たったその二言の想いもままならない。
「うっ…うぅぅ……うーうぅぅ…」
耐え切れず膝から崩れ落ち泣きじゃくった。もうどうすることもできないなら、気持ちが晴れるまでこうして泣くしかないではないか。悔しくても、誰も悪くなくても、ぶつけどころのない感情を昇華させなければ前へは進めない。
それでも進まなければいけない。未来の、彼がいる世界へ手紙を届ける為にも。
「…絵をもらうまで俺、離れないから。絶対に、ユサの手で……渡せよ」
床に顔を突っ伏せて泣くユサに、そう言葉を投げかけると静かに部屋を出ていく気配が伝わった。
扉が閉まる瞬間まで―――彼の温かな眼差しを感じながらも、溢れる涙に身を委ね大声を上げて泣き続けた。
従属国へ送る手紙を書きあげ最後に署名をしようとして、ふいに背筋になにかが走り指が震えた。
「あっ…」
筆から墨がこぼれ空白に滲じむ。隣で様子を見守っていたフサノリが苦笑を浮かべていた。
「少し疲れが溜まっているのでしょう」
優しく声をかけて労わってくるもウリは初歩的なミスに顔を赤らめた。
「いえ、平気です」
完成させた手紙を破り捨てて新しい紙を取り出す。深呼吸をしてから再び書面に向き合うも、何故かさっきと違い集中できずにいた。
(なんだか…落ち着かない……)
嫌な予感と言う訳ではない。妙に胸が早鐘を打ち平静を保てなかった。気の所為かもしれないが、どこかでユサが泣いているような気がして不安なった。
紙の上で迷う筆先に見かねて横からフサノリが声をかけてきた。
「時間を無駄にできないと考えていらっしゃるのでしたら、逆に落ち着く為の時間を設けなければ同じ失敗を繰り返すだけですよ」
どうやら完全に彼が疲労しきっているのだと思い込んでいるようだ。適当な理由が思い当たらない以上、ウリも嘆息しその理由に乗ることにした。
筆を置き両腕を伸ばすと、硬くなっていた筋肉に程よい刺激が走った。
「わたしの故郷で飲むものですが…」
と言って湯気を立てた茶色い飲み物が差し出された。
「…これは?」
匂いを嗅いでから問いかける。
同じものを飲みながらフサノリは相好を崩し
「ココアと言います。カカオの実からつくったもので、これを飲むと大抵が笑顔になりますよ」
「ふふ…その通りみたいだね」
つられてココアを一口含む。初めて味わう甘みとわずかな苦みが舌中に広がり、無意識のうちに強張っていた肩の緊張が解けたように感じた。
「不思議な味だけど美味しい」
「光栄です」
そう言って笑ったフサノリは、今までで一番素直に笑ったように見えた。
クロエを背中に抱え走り続けたアタカは丘を駆け家に辿り着くと必死に戸を叩いた。いつの間にか太陽は山並の向こうに完全に沈み、空には光の残滓が温かな橙色となって世界を包んでいる。
けれどアタカの心は穏やさを失っていた。
「は~い、はい。だぁれぇ?」
おどけた調子でイチタが戸を開ける。青い大きな瞳が驚いた様子でアタカと、その背中にいるクロエを捉えたが―――アタカは彼に寝ぼけ眼をこするクロエを預けると暖炉の前に座って繕いものをするマキヒにも声をかけずに一目散に部屋へ駆け込んだ。
「ちょっとぉアタカぁ!」
クロエを抱えてイチタが声を張り上げたけど、その声を戸で遮りそのままベッドへ倒れ込んだ。
まだ体が紅潮している。頭まで血が昇りなにを考えればいいのかわからない。あれから何時間も経ったと言うのに緊張している。走ってきたからだけではない。動悸が早くて呼吸さえも苦しかった。
しばらくして誰かがノックをしゆっくりと戸が開けられた。
「…アタカ…?」
声に反応し顔を上げる。部屋の中は薄暗い闇に飲み込まれ、入ってきたイチタの表情もよくわからなかった。
「だいたいの理由はクロエから聞いたよ。母さんは賛成してくれたし、今日から一緒に暮らそうってことになったけどぉ…」語尾を伸ばしてから思案するように黙り込んだ。
しばらく静けさが続いた後に再び開口した。
「明かり、つけていい?」
それは不思議と優しさと慈愛を伴って響いた。何気ない日常動作から生まれた言葉に、彼のさりげない気遣いを感じ胸の苦しみが少しだけ和らいだ。
「………俺…」
彼の返事を待たずにつけられた小さな蝋燭によってアタカの泣き腫らした顔が明らかになる。イチタはベッドの脇に明かりを置くと寄り添うように腰をかけた。
「アタカは…ユサのことがすごく好きなんだよね」
「うん…」
あれだけ帰り道に泣いてきたのに涙は再び溢れてくる。
「俺……あいつが、大好きなのに、ウリを裏切りたくなくって、でも、また…泣かせた」
「そっかぁ…」
感慨深げに呟いてから表情を変え「で、やっちゃったの?」と問いただしてきた。
「そ、そんな訳ないだろっ!」
これには思わずアタカも涙を止めて激高した。
「そんなことしたって、ウリも…ユサも……みんな、傷つけるだけじゃんか…」
「そう? ならいいんじゃない? まぁ、ウリもユサもまだ婚約すらしてない状態だし」
「だけど俺は……!」
それでも自分が許せなくてかぶりを振る。彼女に好意を抱くことすら、それは友人に対する裏切りに等しいのだから。
「幸せなら、いいんだよ」
「………幸せ…?」
長い時間をかけてその意味を咀嚼し、繰り返し問いかけるアタカにイチタは優しく頷いた。
「彼女にだって恋愛ぐらいするよ。それはあくまでユサ本人の問題なんだから。王族とか運命とか…関与できないものだと思う。いくらウリと結ばれる運命だとしても、ユサが今好きなのは、アタカなんでっしょ」
トンッと人差指でアタカの胸を衝きイチタは笑った。
「人間ってずっと変わっていくもんだよ。今はアタカが好きでも、女の子って移り気だからいずれウリに気持が変わっていくかもしれない。けど、それは間違ったことでも悪いことでもなんでもないんだって」
「………!」
胸が熱くなった。なにか言葉を告げたいのに、うまく言葉にならない。しばらく短い呻き声を洩らしながら涙を流した後に、アタカはイチタの肩に抱きついた。
「俺…! 俺、この時代にきて、イチタに会えて……本当によかった! イチタがいてくれて本当に、本当によかった!」
「今更そんなこと感謝されても遅いって。第一、ぼくは今のところ専属契約結んでるんだよ」
「え? 専属って…」
驚き彼の顔を凝視するとイチタも「へへへ…」と舌先を出して笑った。
「まだ先になるけどね、ショウキと婚約したんだ」
「えぇ! い、いつ、いついつそんなことになったんだよ!」
「ん~ちょっと前からそんな話出てたけど…なんて言うの? ほら、ぼくってばまた背が伸びてこれまでにない大人らしい色気まで加わってきたから、夜道とか身の危険を感じるようになってさぁ。それでそろそろ身を固めようかなぁってね」
「……イチタが…結婚…」
驚愕する事実に茫然とするアタカ。
「それより、この腰に提げてる袋ってなに? お土産?」
「あ…あぁ……それ、土壌用保水材って言って」
ナムから聞いた説明をそのまま伝えるとイチタは目を輝かせた。
「つまり、これは砂漠化して緑のない土地に持っていけば、ぼろ儲けできるってことなんだ!」
「あ、うん…まぁそうなるのかな。うまくいけ」
「もちろん。これ、ぼくへのお土産だよね?」
有無を言わせない迫力に肯定以外の言葉は言えなかった。
熱を帯びた体のままやや意識が朦朧としたまま部屋へ戻ったユサは、ずっと待ち伏せをしていたミツリについに捕まりこっぴどく叱られてしまった。けれど火照った彼女の顔といつも以上に少ない反応にさすがのミツリも不安に思ったのか、お小言は途中で気遣う言葉へと変わりベッドへ横たわるよう勧められた。
正直を言うと立っているのも辛い状態だったのでユサは素直にその申し出に甘えた。
「医師を呼びましょうか?」
額に冷やした布を当てながらミツリが問うと、ユサは完全に閉ざしかけていた瞼を少しだけ開けて「いらない…」とだけ答えた。
その後もミツリは必死に看病を続けてくれたようだったが、ユサの意識はいつの間にか途切れたのでよく覚えていなかった。
短い夢をいくつも連続して見た気がする。どれも実際の思い出に基づいた空想で、姿は見えないけど周囲で彼らの笑い声が響いていた。
(アタカ…イチタ……ウリ…ショウキ……)
どの夢でも四人の名前を呼びながら姿を探していたけど、笑い声が聞こえてくるだけで姿はどこにもない。様々な場面に転移しながらユサはずっと彼らを探していた。
(どこにいるの? 見えない…聞こえるけど……)
ショウキと出会った孤児院。三人と親しくなった大聖堂の前。植林をしていた荒原やタマ婆の家で啜ったお粥。どれも身に覚えのある風景ばかりだ。けれど、そこには誰もいなかった。
『……』
耳元で誰かが囁いた。けれど声はない。そんな気配が伝わっただけ。
ユサは縋る思いでその人物の名前を口にした。
見えないけど、その存在は常に感じる。もしかしたらユサの目に映らないだけで本当に彼女の傍にいてくれているかのような安堵感。傍らにいると思うだけで、心は一気に満たされて例えようのない充足に包まれる。
「………」
薄ら目を開けると誰かが優しく頭を撫ぜてくれているような気がした。
(アタカ…?)
あの時、部屋でもずっと頭をこうして撫ぜてくれた。
再び彼が戻ってきたのかと思いユサは喜びを噛み締めながら目覚めた。
「よかった……! 気がついたよ」
明るく照らし出された部屋の中でウリが微笑んでいる。そのすぐ隣でミツリが顔をくしゃくしゃにして歓声を上げた。
「五日間も寝込んでいらっしゃったんですよ! 心配されてイザナム王までご看病にいらっしゃったんですから! もうっ!」
どういうことなのかいまいち事情が呑み込めず困惑するユサに、ウリは水差しから水を注いで喉を潤すように勧めた。
「……っ」
なにか喋ろうとしたが喉の奥まで水気が失い引きつるような痛みが走った。確かに長い時間飲み物もなにも口にしていなかったようだ。
「城中が心配したんだよ。ミツリ、他の方々にも目が覚めたと伝えてきて」
「はいっ!」
喜々として叫ぶと走り出し扉の外に集っていた人々にユサの無事を告げた。
扉の向こうから聞こえる喜びに、改めて自分がこの城の中で特別な立ち位置にいるのだと自覚しながら、ユサはようやく潤いを取り戻した喉で言葉を発した。
「…アタカに、絵を渡したい」
「絵…を?」
少し戸惑いを滲ませて聞き返す。
それでも優しさを失わないウリの顔から目を逸らしベッドの天蓋を見詰めて紡いだ。
「約束したから。白い塔を描いたやつで…あれ、渡したら、私もアタカも会わない」
断片的に蘇ったあの日の記憶の中で、アタカは泣いていた。何度も何度もユサの名前を呼びながら泣いていた。
(そうだ……私―――)
彼が流す涙を受け止めながら、同じぐらい彼の苦しみも悲しみも共に背負いたくて、ユサはアタカに必死に抱きついた。
触れ合う肌が温かければ温かいほど切なくなる。このひとときが、最初で最後だと知っていた。諦めきれない弱さが生み出す幻想。城を抜け出しても得られなかったものをお互いの温もりに求め、いっそ結ばれてしまいたかった。
けれどアタカは決別を言い渡した。
彼の胸に体を預けている間に灯った温もりで熱に浮かされてしまった。手足に充足する幸福の余韻も離れてしまえば儚い炎の如く消えてしまう。
涙を流し続けるアタカを見るうちに、自分の願いが彼を苦しめているのだとわかった。大好きで、狂おしいほど愛しいのに、彼女たちを祝福してくれる人はどこにもいない。
どんなに足掻いても、望まれない恋だから。
「……好き…」
喉が痞えて涙腺が一気に熱くなる。
両手で目を覆うと堰を切って涙が溢れ出てきた。
「私……アタカが好き…!」
言葉にしたところで遠い彼の元までは届かない。心も体もすべて捧げあのまま死んでしまえばよかった。叶わない想いならいっそのこと、真実だけを胸に宿し泡のように消えたい。
けれど、アタカは生き抜くことを望んだ―――
「約束……した…っ。あ、アタカの為にも…私、幸せになる…! 誰よりも幸せになって……森を、未来のアタカに贈るよ…!」
何故今更アタカの名前が出てきたのかわからなかったが、ウリは顔を覆って泣くユサを見詰めぼんやりとこれからの自分が辿る運命について考えた。
長く家臣の下で育てられてきたウリを快く思っていない輩は大勢いる。それに加えて真相の解明されていないカミヨの死。彼が暗殺されたと噂する者たちの中では、その首謀者がウリだと唱えていることも耳に入っていた。
戦いが無事に終着し予言通りにオボマ国を滅ぼすことができたとしても、残された三国間の関係は以前よりも脆く壊れやすくなってしまうだろう。しかしそんな状況でのアマテル王の娘となったユサとウリの婚約は、一方的に南国を刺激することにもつながりかねない。
(きっと……この戦いが終わったとしても数年後には南国との間に亀裂が走り、また戦うことになる)
玉座の上から指示を出すだけで駒のように人間が、兵士となって戦場の殺戮に投じて死んでいく。それを実際に目で確かめることもなく、必要なら更に兵を投じて命を散らせていくのだろう。
一言の命令で人を殺すこともできる。例えそれが無意味な戯言だったとしても。
(虚しさを…感じないのかな…)
王と言う肩書が見ず知らずの兵士たちを動かす。顔も知らない民衆を支配する。そして、王族であるが故に恋を、失う人がいる。
小さな掌を広げて考えてみた。
自分が、本当に望む未来について。
泣きじゃくるユサを侍女のミツリに任せウリは部屋を出た。まだ消化しなければいけない仕事が山のように溜まっていて、彼女が落ち着くまでの間も傍にいることが許されなかったのだ。
廊下を歩く間にもウリの元へ大臣たちが集まった。左右両脇を固め様々な書類を突き出し、王としての意見や署名。新しい法案に戦の進行状況。西国の焼け跡には誰もいなかったなど―――息を継ぐ暇もなく報告と意見を求めてくる。
みんなが一斉に喋るので言葉が混在しただの雑音にしか聞こえない。それでも提示された書類に目を通し、必要ならそこに署名をして不要なものは破り捨てて。少しでも隙を見せれば彼を蹴落とそうとする者もいる。見極めなければいけない。一時も気が抜けない。
忙しくて、目が回りそうだった。
「現時点での戦死者を名簿に直しました」
廊下の曲がり角でいきなり書類を渡された。何故かその瞬間、ウリの周囲を囲っていた大臣たちが同時に口をつぐんだので突然静寂が訪れた。
「国衛総隊隊長クラミチが、死にました」
名簿をめくろうとしたウリの手がぴたりと止まる。心臓を鷲掴みにされたような恐怖と共に、背筋に冷たい汗が噴き出す。
「遺体の回収はできていません」
胸から無理やり掴み取られた心臓が耳元で鳴り響いているような気がする。けれど鼓動に掻き消されることなく、その言葉は真っ直ぐにウリの耳へ届いた。
「……わかり、ました」
消え入りそうな声で呟き、ウリはかつての父―――モロトミの前から逃げ出すように歩き去った。
イチタがショウキを連れて家に訪れたのは、偶然にもケフの戦いが執着し凱旋帰国を果たした連合軍が都の門をくぐったその日だった。
思った通りにショウキは猫を被って、出された茶菓子にも口をつけずに大人しくしていたが、すっかり家にもマキヒにも馴染んだクロエが彼女の手元から菓子を盗み取ろうとすると目敏くその手を叩いた。
「いった!」
悲鳴を上げるクロエにお茶を淹れ直していたマキヒが当惑の色を浮かべる。
「どうしたの、一体」
「クロちゃんってば大丈夫?」
見えないことをいいことにとびっきり優しい声を出して労る。実際には舌を突き出してクロエと睨んでいたのだが、マキヒはすっかり騙されてしまったようだ。
「大人しくしてないと晩御飯抜きにするよ」
「うぅ……」
以前より少し肉がつき始めたクロエにはご飯を抜くことが一番のお仕置きになる。理不尽だとばかりに顔を歪めていたが、相手が一枚も二枚も上手だと察すると肩を落として諦めた。
「それで…結婚はいつ頃って考えているの?」
穏やかな表情を崩さずに若い二人に問いかける。
クラミチの訃報はジュアンを通して聞かされたけれど、マキヒは子どもたちの前で一度も涙を見せなかった。
「できれば今月中に。結婚をしたら、この国を出ていこうと思っているんだ」
「そぅ」
淹れ直したお茶を啜りながら相槌を打つ。
「ロードリゲス大陸に渡って商売を始めるつもり。向こうで砂漠が広がっているって聞いたからひと勝負賭けてみたいものがあるんだ」
テーブルの下でそっと手を握り合うイチタとショウキを見て、アタカもこれから二人が向う未来に希望を馳せ嬉しくなった。
「もう住むところも手配している。だから…母さんも、一緒にきて欲しい」
返事はない。
湯気の立つお茶を美味しそうに飲みながらマキヒは黙っていた。
「あ、あの、イチタなら絶対に成功しますよ! それに私もいるし、どうせならみんなで…クロちゃんも一緒に向こうに移って暮らしたいって私も思ってるんです!」
数日前に同じことをイチタから打ち明けられた。
一緒にハナナキ国で商売を興して欲しいと頼まれた。
けれどアタカは首を縦に振らなかった。まだ彼が滞在できるよう装置は直されていない。加えて血液検査の結果も、備品や装備が不十分と言うこともあってなかなか出されなかった。
つまり今も、無事に生きていることが奇蹟に等しいのだ。
(それに俺…ユサの幸せ、見届けてないしな……)
本当はまだ絵をもらっていないと言う理由もあった。けれどあれから一行にユサからの連絡がない。その気になれば侍女を通じて絵を取りにいくことだって可能だろう。
未だに彼女が行動に出ないと言うことは、そこには彼女なりの思いがあるのだと受け止めた。
だからアタカはずっとこの家にとどまり続けるつもりだった。彼女から絵を受け取り、そして幸せだと笑ってくれる瞬間まで、同じ時代で生きていたい。
「……あんたたちみたいな…子どもがいて…私は、本当に幸せだわ」
カップをテーブルに戻し、マキヒはようやく閉ざしていた口を開いた。
「本当を言うとね、ここに残るには思い出が多すぎるんだよ。逃げ出したい…けれど、私が忘れてしまったら、誰があの人のことを思い出してくれるんだろうって考えていたの」
『あの人』と言うのがクラミチを指しているのだとすぐにわかった。
マキヒはテーブルにつけられた古傷を懐かしむように指で確かめながら、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
「誰も知り合いのいないこの国に乳飲み子のあんたとユサ様を抱えてやってきて…到底三人で暮らして生きていけないって思った。本当なら、シグノ様に託されたユサ様を私が育てるべきだったんだけどねぇ……どうしても、あんたを手放せなかったんだよ」
盲いた青い瞳が見えないはずの息子を捉える。そしてその隣にいるショウキと交互に見やると、初めて涙ぐみながら笑いかけた。
「それがこうして…ユサ様の友だちのお嬢さんと結婚するなんて……本当に、あの世でシグノ様が巡り合わせてくれたんだろうね。ずっと…ずっと後悔していたんだけど、でも、あんたも、そしてユサ様も立派に育ってくれて、もう心に残ることはないんだよ」
「じゃあ……」
「これからの人生を、私は、クラミチを思い出して過ごしていきたいの」
目尻の涙を拭い静かに断言した。
「あの人が座った椅子が…あの人が使ったお皿やベッドがこの家にはある。私は一度も顔を見たことはなかったけどね、でも…こうして耳を澄ませると今でもクラミチの笑い声が聞こえてくるんだよ」
瞬きと共にぽろぽろと真珠の粒のような雫がこぼれ落ちる。それを拭いながら、不幸じゃないの、幸せだから涙が出るの。とマキヒは言った。
「恥ずかしいけどね、少女のように胸が高鳴るのよ。こうして風が戸を叩くたびにあの人のことを思い出して…私みたいな女を、本当に大切にしてくれた彼にね、またいつか出会える気がするんだ。だから私は、この家に残るよ。新しい門出に古い柵は必要ないだろ? あんたたちは、あんたたちの未来を進んでいけばいいんだから」
穏やかな、それでいてなにかを貫いたような気高さを感じさせる微笑みに、イチタもショウキも反論する術を失ったようだ。
黙り込む彼らに優しく諭すように
「さぁ、村長にも結婚の報告をしてきなさいな。ご祝儀もたんまりせびって、商売の足しにしなさいな」
と促した。
「遠く離れても、私たちは家族だからね」
それはアタカやクロエにも対して向けられた想いだった。
しばらく考え込むように黙っていたが、手をつないだまま立ち上がり「わかったよぉ」とぼやいて家を出ていくイチタとショウキの後ろ姿を見送った。アタカは、クロエを膝に置いてその頭を撫ぜるマキヒの横顔を見詰めた。
不思議と、その横顔は美しく神秘的に輝いて見えた。
「アタカ…あんたも、いつか自分の国に戻るんだろう?」
突然話題を振られたので意味もわからず聞き返した。
「え、え? なにが?」
「なにって…」
吹き出しながら応える。
「あんたが遠い国からきた住人だってことはイチタから聞いているよ。詳しくは教えてくれなかったけど、あんた…ヤヌギ族たちの仲間なんだってね。大したもんだよ」
「……ふわぁぁ」
大きな欠伸をして膝の上でクロエが眠たげに瞼をこする。
「あんたにも…ちゃんと故郷があるんだ」
「だけど、俺を待ってくれる人なんていない」
エディックは死にグリフもきっと二度と戻ってはこれない。唯一の父親であるフサノリも、仲間を元の時代に戻す為にこの時代にとどまることを選択した。
「それに俺、できるだけマキヒと一緒に暮らしたいんだ! イチタが出てっても俺とクロがいればなんとか食べていけると思う。あいつほどがめつくはないけど、お金だって貯めていつか大きな家を建てようぜ。里帰りしたあいつらが泊まれるぐらいのを!」
理想の家を思い描きアタカは身振り手振りを交えて説明した。
マキヒは膝の上で穏やかな寝息を立てるクロを撫ぜながら、静かに微笑んでいた。
「待っているよ。あんたが生まれてきた時に喜んでくれた人たちがたくさん、故郷では帰りを待っている。あんたはね……たくさんの人に望まれて、生まれてきたんだよ」
開け放しにしていた窓から温かな風が入り込む。風で揺れた窓際の洗濯物の方へ顔を向けそっと目を細める。
(……幸せ…なんだ…)
なにげない風景に溶け込んだマキヒの微笑みが、とても綺麗だった。大切な人が遠い戦場で死んでしまったと言うのに、それでも誰を憎むこともなく、一言も悲しみを洩らさないその強い精神が侵しがたいほど気高く美しい。
憎んでいないのだろうか? 恋人を死に追いやった敵兵を。同じ隊に属しながら無事に帰還し、みなに祝福されている仲間たちを。戦争を興した国を。
「…どうして……生きるの?」
気がつけば質問が口を衝いて出ていた。
シルパであった頃はなにもわからなかった。どうしてこんな世界の為にグリフは死んでいっったのだろうと、世界を憎んだ。どうして。好きなのに、一緒になれないんだろうと逃げてきたこの時代までも憎んだ。
憎しみに負けて、自分がとても可哀想に思えて…ユサを抱こうとした。彼女を手に入れたら幸せになるはずだったのに、涙が止まらなかった。残ったのは罪悪感と後悔ばかりが折り重なって、前よりも一層自分の首を絞めつけて苦しくなる。
「どうせいつかは死ぬならさ…苦しまずに、いっそのこと楽になりたいって思う。努力だけじゃ叶わないことの方が大きすぎて、だって…もし俺が、戦争なんて起きないで欲しいって努力したって結局無理なんだ」
人の命が地球よりも重たいなんて嘘だ。それが本当なら、こんな無意味な祭りは何百年も前にとっくに廃止されている。
一人の人間にできることは限られている。権力のない子どもならなお更だった。所詮ヤヌギ族が開発した装置がなければ無事にこの時代にとどまることもできない。決定権はすべて大人たちに握られ、彼らには最終的にそれに従う他に道は残されていないのだ。
「本当に…アタカの言う通りだと思うよ」
意外な言葉に耳を疑う。きっと反論され、それらしいことを説かれるのだと高を括っていた。
「一生のうちに叶えられることなんて限られている。夢はたくさんあっても…色々な問題がそれを否定して時々死にたくなるぐらい、自分の無力さを呪って悲しくなったりもした。私も―――挫折して、どうして生きているんだろうって考えていた頃があったよ」
焦点の合わない瞳が宙を横切ってアタカのいるあたりを捉える。
「けれど…シグノ様に出会って変わった。なぁに…今思えばなんてこともない、ただの雑談だったんだけどね。けれどあの方は私に『間違いない』って言って下さったのよ」
シグノが意図してかそれとも偶然、彼女の心を射止める言葉を発したのかはわからないけど、そのたった一言がマキヒに道を指し示した。
「きっかけが…人だったり、私みたいに言葉だったり……それぞれよね。けれどね、私はこの先もずっと、今まで悩んできたことをきっと後悔しないよ。後悔してきたことを後悔しなければ……それって、最高に楽しい悩みのない人生だったっていつか笑える気がするんだ」
「でも…それだけじゃ、どうして生きているかの答えになんねーよ」
恥じらいを隠したくてわざと口を尖らせ反論する。本当はマキヒの言葉に深く共感していたのだが。
「そんなのっわかる訳がないじゃないか。むしろ…生きていることに意味はないと思うよ」
「ど、どうしてだよ!」
またもや耳を疑う返答に当惑して問い返した。
「あんたも私も…単に、死にたくないから生きているだけなんじゃないの? 生まれいつか、死ぬ。それだけは私たちにもわかる決まりごとで、そこにただ意味を持たせたいが為に色々と小難しく考えてしまうんじゃないのかしらね?」
涎を垂らすクロエを愛しげに抱きかかえながら静かに呟いた。
「私は…死にたくない。生きている自分が好きで、生きて、あんたちを見ていたいから死ねないんだよ」
窓から注ぐ光がマキヒとクロエの横顔を聖母子像のように照らし出す。
穏やかな風。温かな光。優しい母親のような人。そのすべての要因が醸し出す充足する想いが、きっと幸せだと言うのだろうと思った。
アタカは両手を広げてぎゅっと力強く握り締めた。
「俺も……いつか後悔したことを後悔しないで済むかな」
彼の独り言にマキヒは
「努力次第よ」
と答えた。
兵士たちの凱旋を祝う国民たちの声がウリの部屋にまで聞き届いた。三国の中でも先陣を任された北国の兵士たちだが、ヤヌギ族が開発した兵器は大いに役に立ったらしく当初の予想よりも多くの兵たちが無事に帰還した。
けれどこの薄暗い部屋では、外の喜びとは一切切り離された雰囲気に押し潰されていた。
最後までクラミチと共に戦地に赴き剣を振るったと言う若い兵士がウリの前で敬礼を保ったまま、歯を食い縛って涙を流し当時の状況を詳しく報告した。
「じ、自分も総隊長も機械には疎く、ヤヌギ族の新兵器の使用は別班に任せて行動しておりました! R-P34の威力は…素晴らしく確実に敵兵に光弾のようなものが的中し、標的は一瞬にして粉末になり消えていきました。しかし先に斥候に出ていた分隊との合流地点で敵兵の襲激に遭い―――総隊長は自ら囮になって我々を…うっ」
机の上で組んでいた指を組み換え嘆息を漏らす。
「わかりました。では以上を報告書にまとめ提出して下さい」
事務的にそう言うと兵士は再び敬礼をして部屋を退室していった。
それと入れ替わりに扉がノックされ、フサノリが入ってきた。その手には丸めた羊皮紙握られている。
「先にお耳に入れておきたいことがございます」
すぐに予言について、だとわかった。
「現在南国の軍下によって拘束されているオボマ国王ナラヴァスⅡ世が、本日夕刻までの間に亡くなります」
「…自害に見せかけた暗殺? 確か南国のオクヒマ王に唆されて始まった戦いだったね。余計なことを吐かれる前に手をかけた可能性の方が高い」
一瞬驚いた様子で黙ったが、すぐに口元に笑みを浮かべると
「仰る通りでございます」
と微笑んだ。
「それから…カミヨ様の供養塔として候補に挙げられていました土地の整備がつきました。以前は森だった場所ですが森林伐採により荒れ地になっていたところですが、何者かが植林を行っていたらしく草木が点在しています。そこの鉱夫たちの宿舎を潰して王を供養する巨大な白い塔を建てることで老議院と大后妃殿下の了解が得られました」
「植林を…?」
と呟いてから、きっとそこがユサたちと共に植林をしたあの場所に違いないと確信した。
「わかりました。では早速着工するように指示を出して。前王の遺言に添えるよう、このイディアム城に劣らぬ美しい塔を建てるようにと」
「畏まりました」
深々と頭を下げるフサノリ。
そのまま出ていくかと思ったが、意外にもまだ動かずに立っていた。
「他にもなにか報告が?」
「いえ…ただ、忠告をしようと思いまして」
「忠告……?」
「大臣たちのあらぬ噂は国民の間でも囁かれております。元より西国を見捨てたこの戦に多くの国民が反対し、それを押し切る形でカミヨ様は兵を出しました。我らが新兵器を使い多くの兵が無事に生き延びたとしても、戦死者数は類を見ないものです。それだけ戦が大規模であったことは否めませんが、戦前に赴き最も活躍をしたはずが三国同盟によって手に入る報奨は三分の一。不満は残るでしょう。戦を起こした当事者であるカミヨ様も亡くなり―――暗殺とも言われておりますが、民の心は揺れ動いております。わたくしが占う未来によると、その動揺は後に大きな災いを招きます」
未来からきた彼の言う言葉は恐らく真実だろう。
「フサノリ教皇の忠告は心にとどめておく。けれどぼくがモロトミ外交官の下で暮らしてきたことも、カミヨ様の死がはっきり解明できていないこともすべて事実。育ちを恥じる必要もないけれど、民が求めているのは過去ではなく、これから起こる未来について。宣誓の通り、国家と国民の為に心血を注いで尽くすつもりだ」
長い溜息を洩らし手元に置かれた国書に目をやる。予てより約束していた東国との友好条約の証文だ。これに彼の署名と判を捺しピジルク、フサノリ、元老院が署名を連ねれば条約は結ばれる。そしてユサとの婚約も発表されることになっている。
期日はもう迫っている。しかしユサに心を決めてもらうまで待つつもりでいた。彼女が絵を、アタカに渡すその日まで―――
「あなたは本当に無欲なのですね…」
口に手を当て失笑しながらフサノリは紡いだ。
「我々と言う無敵の武器を手に入れながらどうしてその力を使おうとしないのです? わたしにお任せ頂けたらすべてをよき方向へと運んでいるものを…」
「それは…とても魅力的なお話だけど、でもあなたの力に頼ってばかりではいつか自分の力を過信してしまう。けれど、頼りにしています。正直……あなたたちヤヌギ族は、目的が別にあるのだとしても、本当にぼくを支えてくれようとしている気がするから」
本当に自分は無力なのだとウリは日に日に実感していた。力があるのは王と言う肩書だけ。それさえ手に入れてしまえば、この国は誰でも自由に操ることができる。彼自身の力ではない。
だからこそ自分を見失ってはいけないと叱咤した。玉座に座り国を眺めていると錯覚しても、本当は自分も同じただの人間であるのだと言い聞かせてきた。
納得いかないのか立ち去る気配のないフサノリから目を逸らし、ウリは再び書類に没頭した。
彼らの目的は玉座に鎮座する一人の若き王だ。
怯え部屋の隅へ逃げる侍女たちには目もくれず我先にと玉座へ走り出す。だが、少女のような王は眉ひとつ動かさずに彼らの行動を見詰めていた。
艶やかな黒髪を肩あたりまで伸ばし、白い肌と白い衣装に映える大きな青い瞳が、先頭を務める兵士が彼女の元へ辿り着くのを見届けると悠然と立ち上がり自ら王冠を外して玉座を去った。
あまりに威厳と誇りに満ちたその態度に、兵士たちは声を荒げるのをやめ一同に静止して王の動きに着目した。
彼女は深い沈黙に飲み込まれた空気を震わせるような、静かでそれでいて凛とした声を発し
「砦を守る兵たちは―――全滅したのだな?」
と問うた。
手前にいた兵士がおずおずと頷くと王は無言で項垂れた。
壇上に佇む彼女の足元に透明な雫が光を受けて煌めきながら落ちていく。
「国が滅びた今、ツクヨミ王である私は……もう、泣いていいのだな…」
膝を折って泣き崩れるツクヨミ王の周囲を、新たに入ってきた大勢の敵軍たちが囲い勝利の喜びを歌った。
目覚めてしばらくしても耳元で万歳三唱がこだましていた。
まだ温かい寝床の中で寝返りを打ち、アタカは窓から注ぐ眩しい光を見詰めそっと嘆息を漏らした。
(母さんの…影響かな……)
夢で見た少女はきっと西国最後の王チトノアキフトだろう。エディックがよく枕物語に聞かせてくれた下りであった。詳しいデーターや資料を読み聞かせてもらううちに、いつしかこうやって鮮明な映像を伴って夢にまで出てくるようになった。気高い王が戦いの犠牲となった兵たちの為に涙を流した感動的な場面だと、エディックは涙目になりながら説いた。
(西国が滅びた後、すぐにオボマ国も殲滅されるんだっけ…)
ぼんやりとしていた意識が次第に覚醒し始める。布団の中で手足を伸ばすと隣で眠っているイチタの体に指が当たった。
しばらく待ったが目覚める気配はまったくない。穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
天井に向って掌を広げてみた。脈が鼓動を打つように一定のリズムをつけて、アタカの手は輪郭を失い透けて見える。
「戦い…もうすぐ、終わるんだな」
覚悟を決めた言葉を吐き、アタカはベッドから起き上がると服を着替えた。
それから一度寝ついたらなかなか起きないイチタが自発的に起きるまで待とうかと悩んだが、必ずこの家に帰ってくる意志があったので枕元に置き手紙を残することにした。
まだ日が昇ったばかりの村には雪が残っていて、空の色を反射し空気を青白く染めていた。早起きをした時でなければ眺められない絶景に舌鼓みを打ちながら丘を駆け下りていく。
冷たい風が寝起きの火照った体から熱を程よく奪い心地よい。
見慣れた村の風景を走りながら目に焼きつけ、アタカは都へ向かって足を急がせた。
道中の思い出を懐かしみながらきた所為か、都に辿り着いた頃にはもう人々が路上を忙しなく行き来していた。それぞれの職場へ向かう大人たちが多く、アタカも彼らの波に飲まれそうになりながら必死に前へ進もうとしていたら突然近くで甲高い悲鳴が上がった。
「だ、誰か! 私の財布がぁ!」
ドンッと肩がぶつかり流れに反して逃げだす小柄な少年がいた。
咄嗟に彼が財布を盗んだのだと理解し追いかけようとしたアタカよりも先に、道の先にいた男が少年を捕まえ首根っこを持ち上げた。
「カマスッ!」
傷痕だらけの顔を見上げた途端思わず男の名を叫んだ。
「シルパ…お前の知り合いか?」
こちらに背を向ける少年を目の高さまで持ち上げ問いかけるカマスに、内心では
(あんたしか知り合いいねーし)
とぼやくも、財布を持ち主の女性に渡し少年を地面に落した途端。驚きのあまり言葉を失った。
「…クロエ……」
尻餅をついた臀部をさすっていたクロエもアタカに気づくと大きく見開けてから、気まずそうに視線を逸らした。
「知り合いか?」
再び問うカマスに頷き返しクロエの元へ駆け寄った。
「お前、どうしてこんなことを…!」
クロエは項垂れたまま唇を噛み締めた。
「下等平民の罪は死を以て贖うことになるが…」
冷徹な言葉にカマスを睨みつけた。それからクロエを庇うように両手を広げると
「こいつはそんなことするような奴じゃない! 俺の友だちなんだ」
黙り込む彼に代わって必死に弁護をした。
盗まれた財布を大切そうに持つ女性に向って、クロエの頭を無理やり抑えつけ一緒に謝った。
「ごめんなさい! だけど、こいつは悪い奴じゃないんだ! クロエも謝れっ」
しばらくしてからしゃくり声を上げながら
「ひっく…ご…ごえんなさいぃ…」
と呟いた。
二人の真摯な態度に心を許したのか女性は肩を竦めると
「今回のことはなかったことにしましょう」
と言ってくれた。
「ありがとうございます!」
喜び、深々と頭を下げるアタカたちに微笑みを残し去っていく。
女性の姿が完全に消えてから、アタカはクロエの頭から手を離し彼を連れて道の脇まで移動した。成り行き上カマスもついてきたが傍観を決め込んでいるらしく、特に口出しする様子もない。
「どうしてあんなことしたんだよ。死罪になりたいのか?」
泣きじゃくるクロエの顔を手で拭ってやりながら問いかける。気の所為か以前に会った時よりも頬の骨が出て、体も全体的に痩せてしまった気がした。
「お…お父さんも、お母さんが…強盗に殺され、て、このまま一人で暮らせなかったら孤児院に入れられるって……うっ……ううぅ…ヒックエェ…ウエェェェェン!」
「な、なんで…どうしてそんな……!」
驚愕するアタカの背後で腕組みをしたカマスが
「戦争に巻き込まれ故郷を失った者たちが賊と化して各国に侵入している。四国とオボマ国の大規模な戦いだからな」
と達観した調子で説いた。
「!」
未来を知る彼らには例え目の前で誰かが死んでいっても、それは既に決められた運命だからと言って納得できるのだろうか。両親を失い路頭に迷うクロエがこれからどんな道を辿るか、それは火を見るよりも明らかなのに助けようともしない。
(俺も同じなのか?)
戦いの結末もどれだけ多くの犠牲が出るかも、既に知識として持っているのにそれを活用しようともしなかった。
(…だって、クラが死ぬなんて……絶対に、きっと嘘だから)
戦没者名簿のことを頭から追い出そうとクロエの肩を抱き締めた。
「どうするつもりだ」
「…放っとける訳ないだろ」
唸るように答えると怯えるクロエにできるだけ優しい表情を浮かべた。
「うまくいくかわかんないけど…クロエもマキヒの家にこいよ。俺も元々拾われたくちだし」
カマスがなにか言いたげに口を開いたが黙殺した。
ひゃっくりをしながら涙を手の甲で拭うとクロエは真っ赤になった目を見開けた。その瞳にようやく希望の光らしきものが宿る。ずっと一人で暮らしていたのだろう。ただでさえ垢に塗れた体は更に薄汚れ、正直を言うと臭っていたがそれでも彼が耐えてきた孤独を思うと―――無意識にシルパであった頃を重ねて救いの手を差し伸べたくなってしまう。
小さな頭を胸に寄せて力いっぱい抱き締めた。背中に回されたか細い腕が妙に悲しかった。
「俺…決めたんだ」
息を吸い込み視界の外にあるカマスに向って言葉を発した。
「戻れなくていい。一分でも一秒でもいいからこの時代にいて、俺の大切な人たちを助けたい」
「正気か? お前の体には抗体ができているんだ。その為にも今、全力で」
彼の言葉を遮り怒鳴った。
「俺が一番大切だって思うのはこの時代なんだ! 命を懸けてもいいぐらい、俺、この時代が好きなんだ…」
胸の中で小刻みに震えるクロエを始めとする、これまで出会ってきた多くの人を守りたかった。故郷を守る為に戦場へ赴いていってしまったグリフのように。
結末を知る以上、なんとしでもそれを望む形に変えたい。クラミチが死んでしまう未来だって、なにかをきっかけに連鎖反応となって違う道を導き助けられるかもしれない。可能性は決して百パーセントではない。残り一パーセントに命を賭ける覚悟だった。
と、ふいに足裏から地面を踏み締める感触がなくなる。体が浮き上がると突然視界が一転しアタカは、クロエを胸に抱いたままカマスの肩に担がれた。
「ち、ちょっと! なんの真似だよ!」
急に高くなった視界に好奇の視線を投げかける人々の姿が映った。
「ぐぐ…苦しいよ」
アタカとカマスの肩に挟まれクロエが悲鳴を上げる。
「道端で話していても埒が明かない。教皇と一族を召集して話し合う」
「離せって! 俺も元々城にいくつもりだったんだから逃げないっ」
足をばたつかせると埃が目に入ったのか、一端アタカだけを地面に戻し目をこすりながらクロエを肩に乗せた。
(人質ってことかよ……)
カマスの肩で無邪気にはしゃぐクロエを見上げ卑屈な思いに駆られる。だがそんな彼の内心など構う素振りさえ見せず、カマスは城へ向かって歩き出した。
一日の始まりの日課として大聖堂の掃除をしていたナムは、無線ピアス型携帯機の連絡を受けて急遽城へ戻った。城の入口でカヒコと合流したが、彼はナムを見るなり腹を抱えて笑いだした。
「な、なに感じ悪いわね。あんたー」
どこに笑う要素があるのだと憤慨しながらぼやく。
「感じ悪いもなにも、それはないって!」
と言って左手を指差され、初めて片手に箒を持っていたことに気づいた。
「うっわぁ、だっさ! あ、慌ててきたからよっ」
箒を放して言い繕うもカヒコの馬鹿笑いは収まらなかった。
「もぅ、あんたもしつこいわね! ちょっとは黙りなさいよ」
「だってギャグじゃあるまいし…! 箒を持って駆けつけるって何年前のアニメだよ…クックククク」
「しっつっこい!」
広い廊下に侍女たちの目があることも構わず、回し蹴りをカヒコの鳩尾に食らわせると怒り上がっていた肩を戻して深呼吸をした。
悶絶するカヒコを抱き上げ
「やっと静かになった…」
とぼやく。
足元に新たな人影が加わったので顔を上げて確認してみると、ことの一部始終を眺めていたのか痩せ細った目の大きい少年が立ち竦んでいた。
お世辞にも綺麗とは言い難い装いに城仕えの者とは到底思えない。しばらく身元についてあれこれ想像を巡らせていたが、膝下を震わせ涙目になり始めたので慌てて笑顔を貼りつける。
「お姉さんは怖くないわよ~」
猫撫で声を出しながら後退りする。何故か彼女がつくり笑いを浮かべた途端に少年の表情は険しくなり、さっきよりも目を赤らめて今すぐにでも泣き出しそうになった。
「だ、大丈夫だ…だわよ~」
研究所通いの彼女は子ども嫌いではないものの、感情の赴くままに行動をするこの小さな生物をどちらかと言えば苦手としていた。そういった本心を敏感に感じ取るのだろうか。どんどん顔を歪めていく少年を前にお手上げ状態になる。
「な、泣かないでねぇ~」
情けなく裏返った声が虚しく響く。
ちょうどその時、両者の間にあった扉が開き中からユサが出てきた。
「!」
少年の注意が彼女に引きつけられたのを好機と見なし、一目散に集合場所であるフサノリの部屋へ向かって駆け出した。
廊下から妙な声が聞こえてきたので気になって扉を開けたユサは―――視界の端でなにかがものすごいスピードで走っていったような気がしたが―――痩せた茶色い薄汚れた少年と目が合った瞬間に、何故か咄嗟にアタカの顔を思い出した。
「……誰?」
一見して似ている要素はなにもない。垢と埃に塗れて顔まで真っ黒だったが、その中で輝く黒曜石のような瞳に宿る光にはアタカを連想させた。
「お、あ……」
突然声をかけられ驚いたのか口をぱくぱくさせて言葉を紡ぐ。
「くろ…クロエ…」
「それ……名前?」
単に顔が黒いからつけられた渾名かと思ったが、クロエと名乗る少年は唇を一文字に結んで首をぶんぶんと縦に振った。
「……なに…してるの?」
「わ、わかんない! く、クロはここで待ってろって言われて迷ったんだ。広いから…」
「あぁ…」
最後の広いから、と言う下りに大いに共感し頷いた。彼女も城に連れられてきてからと言うものの一日に何回も城内を彷徨い、ミツリに見つけられるまで自分の部屋にも帰れない日が続いた。
クロエを連れてきた人物もきっと今頃彼を探しているだろうと思い、これから授業があることも忘れてユサは
「私が探してあげる」
と言い出した。
「え、でも…いいの?」
「いい。暇だから」
ミツリが彼女の為に調整した過密スケジュールの授業も忘れ断言する。
「ありがとう!」
彼女が差し出す手に指を絡めクロエは嬉しげに飛び跳ねた。
「クロ、お城の中回るの初めてなんだ!」
「…初めて?」
喜びに輝く綺麗な瞳を見詰め反芻する。
美の代名詞としても名高いイディアム城には素晴らしい芸術品が数多く収納されている。また壁画や柱の彫刻にしても、どれも一見するに値する一級品ばかりだ。本来なら彼のような一般人にそれらを拝観する機会など決して訪れなかったはずだろう。それを思うとこの機会を見逃してはならないような気がした。
「案内…する?」
「うん!」
早速人探しと言う本来の目的から脱線していることにも気付かず、ユサは可愛い弟のようなクロエに微笑みかけ廊下を歩きだした。
亡きカミヨからそっくりそのまま受け継がれた仕事部屋では、机の上だけでは足らず床にまで積み上げられた書類の山に埋もれながらウリが必死に目を通していた。
彼の手伝いをしていたフサノリも必要なものとそうでないものを選り分けながら
「しばらくは従属国の王たちとのやりとりが続きますが、書面のやりとりが終わると次は謁見を申し出にきます。戦が終われば勝利の暁に報奨を求めに使者を出すでしょう」
と助言をした。
「戦が終わるまで新政策を打ち出すのは見送りにします」
書面に目を通すふりをしてそっとフサノリを盗み見た。
「西国が滅び、オボマが滅びても戦いは終わらない気がします。表面上は鎮静化しても西国を失ったことから三国のバランスはより脆くなるでしょう。違いますか? ―――フサノリ教皇」
抱えていた不要な書類をひとまとめに紐で括り、処分対象として部屋の隅に移動するとフサノリは肩を叩きながら苦笑を洩らした。
「さすがは慧眼と名高いウリ様だ。あなたの御名は後の世にも語り継がれます」
「称讃こそ今は不要です。教皇の予言によるならば、この戦いはいつ終わりますか?」
「ご所望ならばお答え致しましょう」
服を叩いて埃を落とすと威厳に満ちた表情を向けてきた。ウリは黄金色の瞳が怪しく光る瞬間を見逃さなかった。
「昨日、西国の王チトノアキフトはオボマ国第五部隊によって討たれました。従いこれによって両国間で引き起こされたトキイシの戦いは一端終戦。三国とオボマ国によるケフの戦いは―――」
紡ぎかけていた言葉を放置し、フサノリはルビーの首飾りを手に取った。気の所為か首飾りから、虫の羽根が空気を震わせるような小さな音が聞こえている。
(もしかして…あれも、未来から持ってきたものでは…)
勘繰るウリを横目に一心にルビーを食い入るように見詰めるフサノリ。その間表情に変化は見られなかったが、ふいに下唇を噛むと深々と頭を下げて謝罪した。
「大変申し訳ございませんが、少々席を外させて頂いてよろしいでしょうか」
「…構いませんが、なにか急用でも?」
低頭していた面を上げ苦笑いを浮かべると「カヒコが気絶したまま目覚めませぬ故、わたくしが様子を看舞って参ります」
(やはりあの首輪はなんらかの通信機器の役割を果たしているんだ。それも…ヤヌギ族専用の)
彼の答えで確信を得たウリは鷹揚に頷くと
「必要なら王の主治医を使って下さい」
と添えた。
「寛容なお心遣い感謝痛み入ります」
粛々と述べ踵を返す。扉を開けてその隙間に身を移動させたが上体だけ捻り視界にウリを捉えると
「イザナム王。目下の者に敬語は不要ですよ―――」
と、冷ややかな眼差しと共に告げて去っていった。
後に残されたウリは居心地の悪さを噛み締めながら、両脇に積み上がる書類に目を通し始めた。
移動している間にピアスで連絡を取り合っていたのか、アタカがカマスに連れられ以前にもきたことのある教皇の部屋へ辿り着くと既にヤヌギ族全員が集合していた。
箒を片手に持っているナムとさっきから、足元がふらついているカヒコが気になったが輪の中心に据えられたことでなんとなく威圧感に身が竦みそうになった。
「は、話は聞いてるんだろっ」
吐き捨てるように言い放つとフサノリが頷いた。
「お前の答えはこの時代にとどまることなのだな?」
「だけどそんなことできないでしょ! あんたは…いつ他の時代にトラベリングするかもわからない不安定な状態で…! それよりも私たちと一緒に未来へ帰った方が絶対にいいって」
「しょーだ……しょーだぁ……」
呂律の回らない口でカヒコも同調する。
「決めたんだ!」
アタカも噛みつくように反論した。
「俺にはあの時代で大切に思っているものなんてない! あんたたちみたいに、命を懸けて守りたいってものを…この時代に見つけたんだよ」
それでも四人から向けられる眼差しには冷ややかな軽蔑が混じっていた。心が痛むのを堪え、胸に手を当てて深呼吸をして今度はできるだけ気持ちを抑えて想いを綴った。
「俺…確かにユサが好きだ。だけどユサだけじゃない。イチタもウリも、マキヒやクラミチ、クロエにだって…! みんなに幸せになってもらいたい。好きだからっ! だから大切な奴らの為に生きたいんだ。初めて、俺……初めて誰かの為に生きたいって思ったんだ!」
真っ直ぐに視線の先にフサノリを捉え腹の底から言葉を発した。
「いつまでこの時代にいれるかわからなくていい。とんでもない時代に飛ばされるか、それとも消滅するかわかんないんだろ? それでもいい。俺は、最後まで、この時代で生き抜く」
ずっと考え抜いた上での答えだった。日に日に体が透ける度合いが濃くなってきても、自分が滞在することで未来が変わるのかわからなくても、見ず知らずの人々が暮らす世界に戻るよりも自分が最も幸せでいれたこの世界を守りたい。
「お願い…します……」
目頭が熱を帯びて視界が一気に涙で曇った。瞬きと共に頬を熱い水が伝いこぼれる。
ナムが目を真っ赤にしてアタカを見ていた。彼女だけではない。カヒコも、ハザン、カマス、そしてフサノリまでもが当惑しながらも、彼を見詰めていた。
「お願いします!」
頭を下げて嘆願した。
「俺はどうなってもいいから、せめてユサが無事に生き抜くまで見届けたら死んだっていい! 大好きな奴が幸せになって…笑ってるところを見たら諦めるから! それまで、俺をこの時代に残して下さいっ」
もうアタカにはユサを幸せにしてやることもできない。それならせめて、ウリと共に誰よりも満ち足りて笑ってくれたその顔を見たら、すべてを諦めることができると思った。
彼女に生きていて欲しい。本来の定められた寿命以上に生きながらえることができたら、もうなにも悔いはない。
「それで…お前は幸せになれるのか?」
静寂を破ってフサノリが問うた。
「!」
反射的に顔を上げると、アタカは即座に応じた。
「俺の幸せは、ユサの幸せだ!」
その言葉に決して嘘偽りはない。心から願う彼女の幸せが叶うのならきっと、いつ死んでしまっても悲しむこともないだろう。
「あっ……あんたって…馬鹿よぉぉ!」
ずっと耐えていたのだろう。ついに我慢しきれなくなった様子でナムは大声で泣き出した。
「他の男と結ばれるのに好きになって…しかも、その子の為に命、懸けるなんて…! ナチュラルにかっこつけるなってぇ…うっうーうー…う……」
泣きじゃくるナムを宥めながら、ようやく正気を取り戻したカヒコがハザンに向って話しかけた。
「トラベリングの条件さえわかれば、ちょっとぐらい滞在期間延ばせるんじゃないの? その…俺たちと目的が同じなら……ユサが生き延びたのを見届けてシーウェスも納得したら、そのぉ…」
「そうよ! それまでにシーウェスを納得させりゃあいいんじゃない! なんなら酔わせて連れて帰ったっていい訳だし」
喜々と叫ぶナムにカマスが嘆息交じりに突っ込んだ。
「説得するつもりなら、そこまで手の内をばらすべきではないな」
「ハッハハハハハハハハハ…てんぱっちゃってるんだね~ナムったら」
「馬鹿だなぁ、俺より馬鹿じゃん!」
急に場の空気が和む。さっきまで決死の覚悟で嘆願していたアタカとしては、その変化についていけずに頬が微妙に強張ってしまった。
だがトラベリングの条件がわかれば滞在期間を延ばせると聞き、思わず胸が高鳴る。死刑執行が猶予されたように目を輝かせた。
「最大限の譲歩として、我々が目的を遂行するまで滞在することを認めよう」
長く沈黙を守っていたフサノリが腕組みをして発言する。
表立ってはヤヌギ族の族長として、プロジェクトの責任者として判断を下したようにも見える。だがアタカには、彼の言葉の奥に秘められた本音を感じ取った。
(俺の……幸せは、この時代にある。だからあんたは…あんたも、母さんの骨を埋める為にもここの残るなら、俺だって…!)
フサノリを見据えたまま顎を引く。そして技術開発を担当するハザンにも視線を向けると
「トラベリングの条件は、『流浪の民』だ。あの歌…オルゴールを聴きながら時計を回したんだ。だからなんらかの影響があるんだと思う」
「!」
真っ先にフサノリの表情に驚きがあらわれた。
「うっそ! あの歌が条件だったの?」
「まさに驚アゴの事実だ!」
素っ頓狂な声を出すナムとカヒコ。すかさずナムが「驚愕!」と訂正を入れたが驚く彼の耳には入らなかったようだ。
「これで希望が見えてきたよ~」
嬉しそうに頬を緩ませるハザンに近づきアタカは左腕をめくって突き出した。
「俺…この前、ユサと一緒に森に逃げた時に虫に刺されたんだ。意外かもしれないけど、虫に刺されるのもこれが…多分初めてで、母さんが抗体に影響が出るって言ってたの思い出して」
「…刺されたって?」
突然口調を変え、ハザンはアタカの腕を掴んだ。
「教皇! ただちに採血をして可能な限り検査にかけることを許可して下さい」
初めて目の当たりにする仕事口調の彼に怯える。だが事態は彼が想像していたよりも緊迫しているのだと改めて自覚した。
「許可する。直ちに取りかかれ」
フサノリが頷くなりハザンは懐から注射器を取り出すと、躊躇いも見せずアタカの腕に突き刺し血を抜き取った。
あまりに突然だったので痛いと思った次の瞬間には針が抜かれ、簡単な止血が施されていた。それからのハザンの行動は瞬きをするほどの素早さだった。呆然と立ち尽くすアタカをナムの方へ押しやると、フサノリに向って目礼をしてすぐさま部屋を飛び出していった。
まるで嵐が去ったようだと思うアタカの背中を支えながら、ナムがぼんやりと
「…超仕事モードに入ったら誰にも止められないわ」
とぼやいた。
「え?」
振り向きナムを見上げようとしたいがカヒコに突き飛ばされてしまった。
「お、お前…! いつまでもナムに抱きついてんなよ! な、ナムはパンダじゃないんだぞ!」
「…コアラみたいに木に抱きつくなって言いたかったのか、それともパンダみたいに可愛いって言いたかったのかは別にして」
嘆息を吐き態度を改めフサノリと向き合うと
「指示を仰ぎます。シーウェスの目的が私たちと合致した今、彼にも協力を求めるべきなのか、それともこれまでのように別行動を続けるべきなのか教えて下さい」
考えるように口を閉ざしたが、瞬きをする瞬間にアタカを捉えそして―――彼にしかわからないような眼差しで微笑んだように見えた。
「装置が完成するまではシルパの身の保障はできない。任務を共にして突然、排除されては敵わないな…」失笑するように口元を歪める。「期限を確保できるまではこれまでと等しく別行動を行う。カマス。確か一つピアスが余っていたな」
「あ、あぁ…辿りつけなかった仲間の遺品だが」
と言ってポケットから赤色の無線ピアス型携帯機を取り出した。
「これをつけてもらう。ナム、カヒコ。お前たちで耳に穴を開けて使い方を説明してやりなさい」
ピアスをナムに渡すと
「わたしは再びイザナム王の元へ戻る。カマスは引き続き戦況を把握しわたしに伝えるように」
とそれぞれに指示を与えた。
イザナム王と聞いてウリのことを想っていたアタカの胸中を読み取ったのか、卑屈な笑みを浮かべると
「新たな王は賢明が故に以前より敵を多くつくる」
とぼやいて部屋を出ていった。
彼の後を追ってカマスも退室する。
友だちを馬鹿にされたような気がして腹が立ったが、突然耳朶を摘ままれたので飛び跳ねた。
「ぎゃっ!」
「なぁに驚いてんの」
呆れ口調で呟くと水差しの水でなにかを洗っているカヒコに
「氷はいらないわ。直でやっちゃおう」
「え、な…なにやるつもりだよ」
嫌な予感が汗と共にべっとりと浮かぶ。
不敵な笑みをたたえるナムは、カヒコが持ってきた裁縫針を片手に身の毛も総立つ言葉を発した。
「ピアスってのは耳に穴を開けないと使えんのよ。シルパちゃん♪」
喉の奥が引きつって変な声が漏れた。逃げようとしたがすかさずカヒコがアタカを拘束したので身動きもとれない。
「ち、ちょっと待てよ! まさかそのまま…麻酔もなしにやる気か?」
「大丈夫。ちょちょいってやっちゃうから。普通なら氷で冷やすんだけど、あんたの場合は薄いから血も出ないわ」
完全に他人ごととして見なした口調には優しさも労わりも含まれていない。
「さぁ…やっちゃおうか」
怪しく光る針を持つナムが鬼のように見えた。
「―――以上が無線ピアス型携帯機の構造で、伝えたいことがあれば頭で強く念じながらピアスを押せば届くってこと。どう? 簡単でしょ」
痛む左耳を押さえながらアタカは苦々しげに頷いた。
(痛くないって言ってた癖に…ちくしょぉ……)
だがそんなことを言えばまた恐ろしい目に遭うのは見えている。針を突き刺す瞬間、暴れに暴れまくったアタカを黙らせる手段として男の急所を迷いもなく蹴り上げた時の彼女の形相を思い出し、ぐっと怒りを堪えた。
「フフフ…いい子だったからこれをあげるわ」
と言って手渡されたのは袋に入れられた白っぽい粉だった。触ってみると少しざらざらして肌に突き刺さるような感触がある。
「ポーラスアルファって知ってる? 廃ガラスにカルシウムとかを混ぜたやつでたいぶ古い方法だけど、効果は抜群な土壌用保水材。ほら、一時期は砂漠の緑化対策によく使われてたのよ。水を吸うと粉末が個体に変化して地中に水が浸透しにくくなるの」
「ふぅん…で、これがなんの役に立つの?」
「時期を見てポーラスアルファの生産打ち出すつもり。私たちの算出した結論によるとこれは大きな収入にはならないけど、ユサちゃんのイハヤの森創造に大いに役立つことになってるの」
「……ユサの?」
彼女の名前を聞いた途端胸が熱くなるのがわかった。
「この時代にある資源で応用できるようにしなくちゃいけないんだけど、とりあえずそれは見本ってことね」
「もらって…いいんだな?」
「いいわよ。それより私たちも次の仕事に取りかからなくちゃいけないんだった」
「あ、そっか。昨日だったよな。西国が滅びたのって」
「え……?」
何気なくこぼしたカヒコの言葉にアタカは全身が痺れるような衝撃を受けた。すかさず自分よりも二回りも長身であるカヒコに詰めかかり言及した。
「じゃ、じゃあもうすぐケフの戦いも終わって、ユサがウリと結婚するのも」
「そ、そうだよ。もう一月ってしないうちに…ナムゥ、ちょっと助けてって!」
「口は災いの元ってことだ。さぁお仕事、仕事~」
軽やかなステップで扉まで移動すると、戸に手をかけてアタカに忠告をした。
「あんたがね、どんだけこの時代に入れ込んでいても私たちは未来人なんだから。もし、あんたが気持ちに負けてまた、ユサちゃんを連れ去るようなことをしたら……私たちは全力を尽くして二人を引き離す。例え、仲間でもね」
その言葉は鉛のような重みを伴ってアタカの心に響いた。力を抜いてカヒコを離すと、やや項垂れたまま足元を睨み呻いた。
「わかって…る…」
未来からやってきたフサノリとの間に生まれ、いるはずのない時代で生きている。これが既に歴史に組み込まれていたことなのかそうでないのかわからないが、それでも、ユサがウリと結ばれることだけは間違いないのだと言い聞かせた。
まだ熱を帯びてほんのりと腫れている左耳朶に触れてみる。ナムもカヒコも命を懸けて未来を変えようとやってきた。その所為でたくさんの犠牲者が出たとも言っていた。けれどフサノリがあの世界にやってきて彼の助言の元に装置がつくられたのだとしたら―――本当に未来は変えられるのだろうか。
この計画が無事に遂行され例え数年先までの歴史が変わったとしても、今と違う未来が生まれてしまえばフサノリはあの時代にくることもなかったかもしれない。フサノリがいなければ誕生しなかった装置なのに、装置とフサノリ、そしてよき方へ変わった未来は同列に存在する訳がないのではないか。
なにかが大きく矛盾している気がする。
けれど謎のウィルスが発生し、未来からやってきた彼からこの先自分たちが辿る道を教えられたら、そんな疑問を抱く余裕さえなくなってしまうかもしれない。
(所詮は…目先の利益優先だもんな……)
ナムたちも消え静まり返った室内でつい感慨に耽ってしまった。
「……イチタにやろうかな」
もらったポーラスアルファの袋を腰に提げ独り言を呟く。さすがにもう起きてアタカが帰ってくるのを待っている頃だろう。
窓から注ぐ明るい日差しを一瞥しアタカは扉を開けた。
「あーアタカだ!」
背後から呼びかけられたクロエの声につられ振り返る。
ドンッと腰の辺りに温かな衝撃を受けクロエが抱きついたのだとわかったが、アタカの意識は目の前に佇むユサに釘付けになっていた。
しばらくクロエを連れて城内を案内していたが、途中で綺麗好きの侍女に見咎められクロエを風呂へ入れるよう説教された。依然としてユサ以外の人に警戒心と恐怖を見せる彼は、ユサと離れることに必死に抵抗をしていたが痺れを切らした侍女がお菓子をダシに使うと案外素直に沐浴場へ向かってくれた。
彼が沐浴を受けている間ユサは一人で城内を回って時間を潰した。時々ミツリの捜索から隠れたり、見つかって必死に走って逃げるなど久しぶりに体を動かして遊んだ。
廊下を走り抜けてから壁に張りつき肩で呼吸をし追手がこないかを確かめる。ここまで激しい運動ではないがまだウリもユサもそれぞれの家にいた頃は、アタカたちと遊んでいたと思い少し懐かしさと悲しみが過った。
「許しません!」
心臓が飛び跳ねた。聞き覚えのある声なのに、こんな風に声を荒げて怒鳴っているところは初めてだ。怯えながら声の聞こえた方へ近づきそっと扉を開けた。
「今、税金を引き上げるなんて、ただでさえ戦争で国民の負担が大きくなっているのに反感を買うだけです」
「しかしこのままでは予算が足りません。来年度予算を繰り越ししても、まだ足りないのです」
大きな背中に隠れて見えなかったが手前に立つ男たちの体が揺れて、その隙間から机に構えるウリの姿を捉えた。
「カミヨ様がお治め下さった頃は二度も税金を引き上げましたが、それでも国民の反発は少なかった。それは王の信用が篤いと言うものではありませんかな?」
「即位されて間もないあなたが、民の支持を失うことを恐れているのはわかりますが、まず国家のことを先決にお考え下さい。あなたの為に我々はこうして申し出ているのです」
立派な言葉で飾られているようにも聞こえるが、裏を返せば年若き王を心の中で侮蔑し自分たちの都合で動かそうとしているのだろう。
「確かにぼくのような経験も浅い王の発言に、なにかと不安も多いかと思います。ただ…予算を最も有効に切り詰め、できる限りの努力を民に示した後ではなければ民衆は納得しないでしょう」
「ほぅ…つまり王が倹約に務めるとでも仰るのですか?」
「最終的にはそうなるでしょうね。けれど、こちらをご覧下さい」
なにか書類のようなものを渡したようだ。小馬鹿にした様子だった二人の大臣も書面に目を通した途端に硬直した。
「記載してある裏金をすべて整理すれば多少なりとも財源は確保できるはずです。それと孤児院の維持費をごまかしていらっしゃる方がいます。その方の責任の所在をはっきりさせ長年蓄えられた維持費を返還して頂きます。また戦前に輸入を始めた東国の鉄を不正に受け取っている方がいるようですから、真偽を確かめましょう」
ウリの発言にそれ以上逆らえないと判断したのだろうか。大臣たちは項垂れたまま唸るように同調した。
(………ウリ…元気がない…)
戴冠式以来顔を合わせていないウリのこんな場面を目撃し、ユサは何故か申し訳なくなってしまった。彼は早くも王としての職務をまっとうしているのに、その妃になるはずの自分はこうして自由気ままに遊んでいる。
そっと音を立てないように扉を閉めるとユサはクロエを迎えに沐浴場へ向かった。
「ユサ! 綺麗になったよ!」
新しい服に着替えたクロエは一見して同一人物かどうかわからないぐらいに綺麗になっていた。埃と泥で汚れ灰色に見えた髪の毛は艶やかな茶色に変わり、黒かった肌は生来の肌の色を取り戻していた。
嬉しそうに飛び跳ねながら駆け寄るクロエを抱き止め、ユサは意識的にウリのことを頭から締めだした。自分で決めた猶予がある間は、心を掻き乱されたくない。必ずアタカに絵を渡した暁には気持ちを入れ替えてウリと共に国家の為に尽くすから、と言い訳がましく繰り返す。
(後ろめたいって思うから……誰かに優しくなるのかもしれない)
手をつないでくるクロエを愛しいと思いながらも、自己嫌悪を紛らわす為に錯覚しているだけではないかと自問自答してしまう。
(私は……アタカが…好きなのに…)
会えない日々が続けば続くほど、不安が増幅していく。いつもこうして彼のことを想っているのは自分だけで、本当はアタカは既に彼女のことなど忘れているかもしれない。今も心はつながっていると思うのは単なる独り善がりの発想か。
寂しさが肥大すると身近にいる人の優しさがやけに身に沁みて感じられる。ウリの優しさは以前から熟知しているつもりでいたが、それでも、首飾りにして隠し持つ鍵に触れるたびに彼の無償の優しさに心が打たれた。
「こっち見てみようよ~」
クロエに手を引かれて廊下を進む間もアタカとウリのことを交互に考えていた。
本当にいつかアタカに会えるのだろうか。あんな約束もアタカは忘れているかもしれないと言うのに。
発想がどんどんマイナス方面へ向かっていく。それでも止まらない。目頭が熱くなり奥底からなにかが込み上げてきそうになる。
悲しくて、辛くて、まるで自分一人だけが感情の坩堝に取り残されてしまったような感覚に陥り、そこで再び自己嫌悪を覚える。悪循環だとわかっていても止まらない。せめてもう一度アタカに会えたら…
(会いたいのに…きてくれない……)
と、その時クロエの手が離れた。
「あーアタカだ!」
喜びに満ちた声を上げると駆け出した。
クロエが飛びついた人物の顔を捉え頭で理解するよりも早く、体が自然と動いていた。
「!」
会いたかった。ずっと同じことばかり飽きずに考えていた。彼のことを考えて終わる日々が何日も続き、王妃としての自覚を求める侍女たちとの間に溝を感じてきた。けれどこの瞬間を迎えた今、再会するまでに味わった様々な苦しみも凌駕するだけの喜びが全身を貫いた。
「アタカ…!」
ユサはアタカの首に抱きついた。お腹のあたりで二人に挟まれたクロエが「むぎゅう」と悲鳴を上げたような気がしたが構っていられない。最早彼女の頭の中はアタカとの再会を喜ぶ想いで満たされてしまった。
「アタカ……アタカ…会いたかった…」
小刻みに肩を震わせてユサは何度も繰り返した。
「俺も…」
と言いかけて手持無沙汰ない手をどこにやればいいか悩み言葉が途切れる。その間に自力で脱出したクロエが物珍しそうにアタカとユサの抱擁を眺めていた。
純粋な好奇心から向けられる視線に恥じらいを感じ口ぱくで
(クロエ、ちょっとだけあっちいってて…!)と頼んだ。
(えぇ! アタカの傍にいるよ)
(いいからっ。お願いだって!)
必死に懇意すると頬を膨らませながらも廊下の向こうへ移動してくれた。
「よかった…俺、まだ約束忘れてないからさ……もう一度ユサに会いたかったんだ」
「絵……持ってない…」
泣き腫らした顔を晒すと
「今度、ショウキに頼んで持ってきてもらうから、また会いにきて」
と頼んだ。
「うん。わかった」
素直に頷き、それからフフッと笑みを漏らした。
「お前って泣いてても無表情なんだな」
「表情ある。アタカにはわからないだけ」
「あるって言うか…なんか憮然としてんだよな。怒ってんのかってたまに思うような感じだし」
「怒ってない。私、怒らない」
「怒るほど真剣に考えたことってあるのかぁ?」
茶化しながら聞いてみるとユサは表情を変えずに唇を尖らせた。
「ある。アタカのこと、毎日真剣に考えてる」
「!」
恐らく額面通りの事実だろう。さらりと述べられた想いについ顔が赤くなってしまった。
「赤い。アタカの顔」
「し、知ってる!」
咄嗟に顔を逸らしたものの言い当てられ無性に恥ずかしくなった。ユサは何故怒られたのかわからないと言った風に口を開けていたが、ふいに廊下の向こうから彼女の名前を呼びながら近づいてくる気配に気づき表情を変えた。
「会いたくない奴?」
「うん。うるさいから」
「きて」
ユサの手を取り再びフサノリの部屋へ入る。
扉を閉めてしばらく息を殺していると先ほどの侍女がユサの名前を連呼しながら過ぎ去っていった。
「……」
改めて二人きりになった部屋で共犯者の笑みを浮かべる。
「久しぶりだな…」
つないだままの手を眺め言葉を紡ぐ。視界には映らないけどユサも頷いたような気がした。
「元気だったか? その…ウリが即位したりとかで、結構大変だっただろ」
「私、アマテル王の娘になった」
「え? もしかして養女に?」
「うん」
「そっか…そうだよな……。人気取りにはそっちの方が都合がいいよな。なんたって、シグノの娘なんだし」
「私。付加価値でしかない」
傷ついたのかあまり表情を変えずに呟く。
「そ、そんなことないって! 忘れたのかよ。お前はいつかおっきな森をつくって、それが後々の時代にまで受け継がれていくんだぞ? シグノよりもすっごい偉業だって!」
「そう? ならいい」
にこりとも笑わないのでいまいちユサの考えていることがわからなかったが、アタカはほっと胸を撫で下ろした。そして今一度自分の気持ちを確かめ、ユサに決意を打ち明ける覚悟をした。
「俺…ユサが幸せだと思える瞬間を迎えるまでずっとこの時代にいる」
「………え?」
疑問符を浮かべるユサの手を強く握り締めアタカは更に言葉を発した。
「お前が、ウリと幸せになるまで…って言うか、お前が最高に幸せだって笑うまでお前を守る」
「……傍に、いてくれるの…?」
できることならその願いを叶えたい。けれどアタカは首を横に振り否定した。
「傍にいれないけど、ユサを守る。絶対に、約束する」
「…私が…幸せになるのは…アタカがいる時だ」
唇を噛み締めて呻くユサを愛しく眺めたが、それ以上に自分自身にも言い聞かせるように優しく諭した。
「ウリを信じろよ。あいつは、すっごくユサのことを想ってくれていて、俺以上にユサを幸せにしてくれる。それと同じぐらいあいつを幸せにしてやれるのは、ユサだけなんだ」
「だけど…!」
彼女にしては珍しくキッと鋭い眼差しをぶつけてきた。
「私、やっぱり…アタカが好き。アタカが傍にいてくれなきゃ、幸せになれない!」
一つにつながった指を通して彼女の想いが伝わってくる。痛いほど想っている。測りきれない。離れたくない。できることなら再び―――すべてを捨てて一緒になれたら…
けれどナムの言葉が思い浮かんだ。
彼らが逃げることで多くの人を傷つける。彼らを信じ、帰りを待ってくれている人たちを裏切って、そこで本当に幸せになれるのか。
代償を払ってまで得る幸せではない。
本来なら、二人が出会うこともなかったはずなのだから。
(頭ではちゃんとわかってるんだぞ……)
言い訳だろうか。けれど、言い訳だけで自分を正当化したくはない。だから約束をしたのだと自らを戒め、やり切れない思いが拳の震えとなってあらわれた。
「約束しただろ…」
「だけど」
反論しようとするユサを力いっぱい抱き締め言葉を塞いだ。
「俺たち、絶対に幸せになるんだろ? ユサが幸せになってくれなきゃ、俺は幸せになれない! 無理なんだよ! 一緒にいれないけど、だけど、お前が笑ってくれていたら…もうなにもいらないから……」
胸の中でもがいて顔を出すとユサも声を出した。
「私もアタカと幸せになりたいよ。どうして、傍にいたら駄目なの? 好きなのに? アタカが好きなのに……!」
体が熱くなる。好きだから離れたくない。傍にいたい。純粋で最も貪欲な願い。
「絵を渡したら我慢するって思ってた。だけど、我慢しても辛い。自分が…自分じゃなくなるみたいで、自分が大嫌いになる…」
泣きじゃくりながらユサは嘆願した。
「アタカが好き…嘘……じゃない…」
呻き声と共に吐き出される吐息が甘く切ない。胸に抱いたユサの体から発せられる匂いが鼻腔をくすぐり、必死に抑えつけていた理性が負けそうになった。
「どうして…?離れたくないのに……離れたくない…」
何度も、どうして、と繰り返すユサ。わかっているのに。同じことを一緒に考えた。苦しみながら必死に考えて出した答えがあるのに、もう一度答えを探して迷走する。
どんな賢者を引き合いに出したってこれ以上の答えはどこにもない。出会ってしまったこと自体が奇蹟だったのだ。誰が予想しただろうか。この時代にいるはずのない少年が、後の世にも名を残すイザナム王の妃となる少女と出会い恋に落ちてしまうなどと。
けれど奇しくもフサノリとエディックも、同じような何万分の一の軌跡から出会い、恋をした。結ばれるはずのない二人。生まれるはずのない子ども。
運命はいつも同じことを繰り返す。人間が、飽きずに同じ遊びを繰り返すように―――
「……ずっと、いてよ…」
握り締めた手をそっと胸に当てて呟く。黒目がちの瞳がアタカを求めて不安げに揺れていた。
指を通して彼女の鼓動が伝わってくる。温かい肌は血が通い、全身で懸命に生きているかけがえのない存在。理性や正論で自らを戒め拘束したところで想いは止められない。大切で、命懸けで守りたい。運命に導かれた訳でも誰から祝福される訳でもない。わかっている。悲しいぐらいわかっている。
「……ユサ…」
彼女の名前を呼ぶ。何度も何度もユサの名前を呼びながら、愛しい彼女を抱き寄せて嗚咽を漏らした。
「ごめんな。俺、ユサのことしか考えられないけど、だけど、ユサにはもっとたくさんの世界を見て、生きていって欲しいんだ」
「やめて…最後みたいなこと、言わないで……」
必死に胸にしがみつき嘆願した。
けれど彼女の頭を撫ぜてそっと体を離した。
「幸せになれ。ずっとずっと、何十年も先まで笑って生きろ。たくさん長生きして、俺たちの未来に……お前が幸せに生きていたって伝えてくれよ」
緩んだ涙腺がまた刺激されて熱い水が溢れ出る。
「俺、文使いしてるけど、自分に宛てた手紙ってまだもらったことないんだ。だからユサが生きて、俺に……手紙を送ってくれないか?」
「手紙…?」
アタカの手を握り締めながらユサが繰り返す。
「私が、手紙を送るの?」
「内容はなんでもいいから」
絡みついて離れようとしない彼女の指を一本ずつ取り除きながら、優しく語りかける。直接目を交わさないことで暴走していた感情を落ち着かせようとした。
「毎日、元気で御飯がおいしいとか…木に花が咲いたとか……なんでもいい。ユサが、幸せに生きているってわかったら、俺、すごい嬉しいから」
逃がさないよう必死に捕まえていた指が、皮肉なことにも彼の手によって離されていく。
最後の小指がアタカから離れると、五本あった指はたちまち行き場を失い両脇に垂れて戻ってきた。
ついさっきまでアタカは抱き締めてくれていたのに、その温もりはどこかへ消えてしまった。同時にお互いの体を駆け巡っていた一つの想いも情熱と共に昇華しきってしまったような虚無感。
もう一度触れあえば、気持を確かめられるかもしれない。けれど、アタカはユサから離れ微笑んだ。
「俺、本当にユサのことが、好きだから」
彼女も同じぐらいアタカのことが好きだ。その気持ちに一片の嘘偽りもない。だからそれを認めて欲しくて、温もりを確かめたくて手を伸ばした。
「………大好き、だから、触らない」
宙を掴んだ指先がビクッと震える。
その先にあるアタカが近いのに、とても遠く見えた。
「ユサが…大好きだ。だけど、同じぐらい、ウリもユサのことが好きだと思う」
「嫌だ……」
聞きたくない、とかぶりを振って否定する。
「私が好きなのはアタカだけだ! 好きだから!」
誰かの想いなんて考えたくない。自分の気持ちだけに素直に、誠実に生きていたいと思うのに、何故か足は根が生えたように動けなくなっていた。
触らない、と言ったアタカの目は真剣だった。なにを言っても彼の決意は揺るがないとわかっている。どんなに泣き喚こうと、運命を変えることは不可能だから―――
「……好き…なのに…どうして…?」
答えが擦り切れるほど考えてきた悩み。答えは既に出ているからこそ、納得できない想いが堂々巡りを繰り返す。
好きだから。好きだから。好きだから。ただ、それだけのことなのに、たったその二言の想いもままならない。
「うっ…うぅぅ……うーうぅぅ…」
耐え切れず膝から崩れ落ち泣きじゃくった。もうどうすることもできないなら、気持ちが晴れるまでこうして泣くしかないではないか。悔しくても、誰も悪くなくても、ぶつけどころのない感情を昇華させなければ前へは進めない。
それでも進まなければいけない。未来の、彼がいる世界へ手紙を届ける為にも。
「…絵をもらうまで俺、離れないから。絶対に、ユサの手で……渡せよ」
床に顔を突っ伏せて泣くユサに、そう言葉を投げかけると静かに部屋を出ていく気配が伝わった。
扉が閉まる瞬間まで―――彼の温かな眼差しを感じながらも、溢れる涙に身を委ね大声を上げて泣き続けた。
従属国へ送る手紙を書きあげ最後に署名をしようとして、ふいに背筋になにかが走り指が震えた。
「あっ…」
筆から墨がこぼれ空白に滲じむ。隣で様子を見守っていたフサノリが苦笑を浮かべていた。
「少し疲れが溜まっているのでしょう」
優しく声をかけて労わってくるもウリは初歩的なミスに顔を赤らめた。
「いえ、平気です」
完成させた手紙を破り捨てて新しい紙を取り出す。深呼吸をしてから再び書面に向き合うも、何故かさっきと違い集中できずにいた。
(なんだか…落ち着かない……)
嫌な予感と言う訳ではない。妙に胸が早鐘を打ち平静を保てなかった。気の所為かもしれないが、どこかでユサが泣いているような気がして不安なった。
紙の上で迷う筆先に見かねて横からフサノリが声をかけてきた。
「時間を無駄にできないと考えていらっしゃるのでしたら、逆に落ち着く為の時間を設けなければ同じ失敗を繰り返すだけですよ」
どうやら完全に彼が疲労しきっているのだと思い込んでいるようだ。適当な理由が思い当たらない以上、ウリも嘆息しその理由に乗ることにした。
筆を置き両腕を伸ばすと、硬くなっていた筋肉に程よい刺激が走った。
「わたしの故郷で飲むものですが…」
と言って湯気を立てた茶色い飲み物が差し出された。
「…これは?」
匂いを嗅いでから問いかける。
同じものを飲みながらフサノリは相好を崩し
「ココアと言います。カカオの実からつくったもので、これを飲むと大抵が笑顔になりますよ」
「ふふ…その通りみたいだね」
つられてココアを一口含む。初めて味わう甘みとわずかな苦みが舌中に広がり、無意識のうちに強張っていた肩の緊張が解けたように感じた。
「不思議な味だけど美味しい」
「光栄です」
そう言って笑ったフサノリは、今までで一番素直に笑ったように見えた。
クロエを背中に抱え走り続けたアタカは丘を駆け家に辿り着くと必死に戸を叩いた。いつの間にか太陽は山並の向こうに完全に沈み、空には光の残滓が温かな橙色となって世界を包んでいる。
けれどアタカの心は穏やさを失っていた。
「は~い、はい。だぁれぇ?」
おどけた調子でイチタが戸を開ける。青い大きな瞳が驚いた様子でアタカと、その背中にいるクロエを捉えたが―――アタカは彼に寝ぼけ眼をこするクロエを預けると暖炉の前に座って繕いものをするマキヒにも声をかけずに一目散に部屋へ駆け込んだ。
「ちょっとぉアタカぁ!」
クロエを抱えてイチタが声を張り上げたけど、その声を戸で遮りそのままベッドへ倒れ込んだ。
まだ体が紅潮している。頭まで血が昇りなにを考えればいいのかわからない。あれから何時間も経ったと言うのに緊張している。走ってきたからだけではない。動悸が早くて呼吸さえも苦しかった。
しばらくして誰かがノックをしゆっくりと戸が開けられた。
「…アタカ…?」
声に反応し顔を上げる。部屋の中は薄暗い闇に飲み込まれ、入ってきたイチタの表情もよくわからなかった。
「だいたいの理由はクロエから聞いたよ。母さんは賛成してくれたし、今日から一緒に暮らそうってことになったけどぉ…」語尾を伸ばしてから思案するように黙り込んだ。
しばらく静けさが続いた後に再び開口した。
「明かり、つけていい?」
それは不思議と優しさと慈愛を伴って響いた。何気ない日常動作から生まれた言葉に、彼のさりげない気遣いを感じ胸の苦しみが少しだけ和らいだ。
「………俺…」
彼の返事を待たずにつけられた小さな蝋燭によってアタカの泣き腫らした顔が明らかになる。イチタはベッドの脇に明かりを置くと寄り添うように腰をかけた。
「アタカは…ユサのことがすごく好きなんだよね」
「うん…」
あれだけ帰り道に泣いてきたのに涙は再び溢れてくる。
「俺……あいつが、大好きなのに、ウリを裏切りたくなくって、でも、また…泣かせた」
「そっかぁ…」
感慨深げに呟いてから表情を変え「で、やっちゃったの?」と問いただしてきた。
「そ、そんな訳ないだろっ!」
これには思わずアタカも涙を止めて激高した。
「そんなことしたって、ウリも…ユサも……みんな、傷つけるだけじゃんか…」
「そう? ならいいんじゃない? まぁ、ウリもユサもまだ婚約すらしてない状態だし」
「だけど俺は……!」
それでも自分が許せなくてかぶりを振る。彼女に好意を抱くことすら、それは友人に対する裏切りに等しいのだから。
「幸せなら、いいんだよ」
「………幸せ…?」
長い時間をかけてその意味を咀嚼し、繰り返し問いかけるアタカにイチタは優しく頷いた。
「彼女にだって恋愛ぐらいするよ。それはあくまでユサ本人の問題なんだから。王族とか運命とか…関与できないものだと思う。いくらウリと結ばれる運命だとしても、ユサが今好きなのは、アタカなんでっしょ」
トンッと人差指でアタカの胸を衝きイチタは笑った。
「人間ってずっと変わっていくもんだよ。今はアタカが好きでも、女の子って移り気だからいずれウリに気持が変わっていくかもしれない。けど、それは間違ったことでも悪いことでもなんでもないんだって」
「………!」
胸が熱くなった。なにか言葉を告げたいのに、うまく言葉にならない。しばらく短い呻き声を洩らしながら涙を流した後に、アタカはイチタの肩に抱きついた。
「俺…! 俺、この時代にきて、イチタに会えて……本当によかった! イチタがいてくれて本当に、本当によかった!」
「今更そんなこと感謝されても遅いって。第一、ぼくは今のところ専属契約結んでるんだよ」
「え? 専属って…」
驚き彼の顔を凝視するとイチタも「へへへ…」と舌先を出して笑った。
「まだ先になるけどね、ショウキと婚約したんだ」
「えぇ! い、いつ、いついつそんなことになったんだよ!」
「ん~ちょっと前からそんな話出てたけど…なんて言うの? ほら、ぼくってばまた背が伸びてこれまでにない大人らしい色気まで加わってきたから、夜道とか身の危険を感じるようになってさぁ。それでそろそろ身を固めようかなぁってね」
「……イチタが…結婚…」
驚愕する事実に茫然とするアタカ。
「それより、この腰に提げてる袋ってなに? お土産?」
「あ…あぁ……それ、土壌用保水材って言って」
ナムから聞いた説明をそのまま伝えるとイチタは目を輝かせた。
「つまり、これは砂漠化して緑のない土地に持っていけば、ぼろ儲けできるってことなんだ!」
「あ、うん…まぁそうなるのかな。うまくいけ」
「もちろん。これ、ぼくへのお土産だよね?」
有無を言わせない迫力に肯定以外の言葉は言えなかった。
熱を帯びた体のままやや意識が朦朧としたまま部屋へ戻ったユサは、ずっと待ち伏せをしていたミツリについに捕まりこっぴどく叱られてしまった。けれど火照った彼女の顔といつも以上に少ない反応にさすがのミツリも不安に思ったのか、お小言は途中で気遣う言葉へと変わりベッドへ横たわるよう勧められた。
正直を言うと立っているのも辛い状態だったのでユサは素直にその申し出に甘えた。
「医師を呼びましょうか?」
額に冷やした布を当てながらミツリが問うと、ユサは完全に閉ざしかけていた瞼を少しだけ開けて「いらない…」とだけ答えた。
その後もミツリは必死に看病を続けてくれたようだったが、ユサの意識はいつの間にか途切れたのでよく覚えていなかった。
短い夢をいくつも連続して見た気がする。どれも実際の思い出に基づいた空想で、姿は見えないけど周囲で彼らの笑い声が響いていた。
(アタカ…イチタ……ウリ…ショウキ……)
どの夢でも四人の名前を呼びながら姿を探していたけど、笑い声が聞こえてくるだけで姿はどこにもない。様々な場面に転移しながらユサはずっと彼らを探していた。
(どこにいるの? 見えない…聞こえるけど……)
ショウキと出会った孤児院。三人と親しくなった大聖堂の前。植林をしていた荒原やタマ婆の家で啜ったお粥。どれも身に覚えのある風景ばかりだ。けれど、そこには誰もいなかった。
『……』
耳元で誰かが囁いた。けれど声はない。そんな気配が伝わっただけ。
ユサは縋る思いでその人物の名前を口にした。
見えないけど、その存在は常に感じる。もしかしたらユサの目に映らないだけで本当に彼女の傍にいてくれているかのような安堵感。傍らにいると思うだけで、心は一気に満たされて例えようのない充足に包まれる。
「………」
薄ら目を開けると誰かが優しく頭を撫ぜてくれているような気がした。
(アタカ…?)
あの時、部屋でもずっと頭をこうして撫ぜてくれた。
再び彼が戻ってきたのかと思いユサは喜びを噛み締めながら目覚めた。
「よかった……! 気がついたよ」
明るく照らし出された部屋の中でウリが微笑んでいる。そのすぐ隣でミツリが顔をくしゃくしゃにして歓声を上げた。
「五日間も寝込んでいらっしゃったんですよ! 心配されてイザナム王までご看病にいらっしゃったんですから! もうっ!」
どういうことなのかいまいち事情が呑み込めず困惑するユサに、ウリは水差しから水を注いで喉を潤すように勧めた。
「……っ」
なにか喋ろうとしたが喉の奥まで水気が失い引きつるような痛みが走った。確かに長い時間飲み物もなにも口にしていなかったようだ。
「城中が心配したんだよ。ミツリ、他の方々にも目が覚めたと伝えてきて」
「はいっ!」
喜々として叫ぶと走り出し扉の外に集っていた人々にユサの無事を告げた。
扉の向こうから聞こえる喜びに、改めて自分がこの城の中で特別な立ち位置にいるのだと自覚しながら、ユサはようやく潤いを取り戻した喉で言葉を発した。
「…アタカに、絵を渡したい」
「絵…を?」
少し戸惑いを滲ませて聞き返す。
それでも優しさを失わないウリの顔から目を逸らしベッドの天蓋を見詰めて紡いだ。
「約束したから。白い塔を描いたやつで…あれ、渡したら、私もアタカも会わない」
断片的に蘇ったあの日の記憶の中で、アタカは泣いていた。何度も何度もユサの名前を呼びながら泣いていた。
(そうだ……私―――)
彼が流す涙を受け止めながら、同じぐらい彼の苦しみも悲しみも共に背負いたくて、ユサはアタカに必死に抱きついた。
触れ合う肌が温かければ温かいほど切なくなる。このひとときが、最初で最後だと知っていた。諦めきれない弱さが生み出す幻想。城を抜け出しても得られなかったものをお互いの温もりに求め、いっそ結ばれてしまいたかった。
けれどアタカは決別を言い渡した。
彼の胸に体を預けている間に灯った温もりで熱に浮かされてしまった。手足に充足する幸福の余韻も離れてしまえば儚い炎の如く消えてしまう。
涙を流し続けるアタカを見るうちに、自分の願いが彼を苦しめているのだとわかった。大好きで、狂おしいほど愛しいのに、彼女たちを祝福してくれる人はどこにもいない。
どんなに足掻いても、望まれない恋だから。
「……好き…」
喉が痞えて涙腺が一気に熱くなる。
両手で目を覆うと堰を切って涙が溢れ出てきた。
「私……アタカが好き…!」
言葉にしたところで遠い彼の元までは届かない。心も体もすべて捧げあのまま死んでしまえばよかった。叶わない想いならいっそのこと、真実だけを胸に宿し泡のように消えたい。
けれど、アタカは生き抜くことを望んだ―――
「約束……した…っ。あ、アタカの為にも…私、幸せになる…! 誰よりも幸せになって……森を、未来のアタカに贈るよ…!」
何故今更アタカの名前が出てきたのかわからなかったが、ウリは顔を覆って泣くユサを見詰めぼんやりとこれからの自分が辿る運命について考えた。
長く家臣の下で育てられてきたウリを快く思っていない輩は大勢いる。それに加えて真相の解明されていないカミヨの死。彼が暗殺されたと噂する者たちの中では、その首謀者がウリだと唱えていることも耳に入っていた。
戦いが無事に終着し予言通りにオボマ国を滅ぼすことができたとしても、残された三国間の関係は以前よりも脆く壊れやすくなってしまうだろう。しかしそんな状況でのアマテル王の娘となったユサとウリの婚約は、一方的に南国を刺激することにもつながりかねない。
(きっと……この戦いが終わったとしても数年後には南国との間に亀裂が走り、また戦うことになる)
玉座の上から指示を出すだけで駒のように人間が、兵士となって戦場の殺戮に投じて死んでいく。それを実際に目で確かめることもなく、必要なら更に兵を投じて命を散らせていくのだろう。
一言の命令で人を殺すこともできる。例えそれが無意味な戯言だったとしても。
(虚しさを…感じないのかな…)
王と言う肩書が見ず知らずの兵士たちを動かす。顔も知らない民衆を支配する。そして、王族であるが故に恋を、失う人がいる。
小さな掌を広げて考えてみた。
自分が、本当に望む未来について。
泣きじゃくるユサを侍女のミツリに任せウリは部屋を出た。まだ消化しなければいけない仕事が山のように溜まっていて、彼女が落ち着くまでの間も傍にいることが許されなかったのだ。
廊下を歩く間にもウリの元へ大臣たちが集まった。左右両脇を固め様々な書類を突き出し、王としての意見や署名。新しい法案に戦の進行状況。西国の焼け跡には誰もいなかったなど―――息を継ぐ暇もなく報告と意見を求めてくる。
みんなが一斉に喋るので言葉が混在しただの雑音にしか聞こえない。それでも提示された書類に目を通し、必要ならそこに署名をして不要なものは破り捨てて。少しでも隙を見せれば彼を蹴落とそうとする者もいる。見極めなければいけない。一時も気が抜けない。
忙しくて、目が回りそうだった。
「現時点での戦死者を名簿に直しました」
廊下の曲がり角でいきなり書類を渡された。何故かその瞬間、ウリの周囲を囲っていた大臣たちが同時に口をつぐんだので突然静寂が訪れた。
「国衛総隊隊長クラミチが、死にました」
名簿をめくろうとしたウリの手がぴたりと止まる。心臓を鷲掴みにされたような恐怖と共に、背筋に冷たい汗が噴き出す。
「遺体の回収はできていません」
胸から無理やり掴み取られた心臓が耳元で鳴り響いているような気がする。けれど鼓動に掻き消されることなく、その言葉は真っ直ぐにウリの耳へ届いた。
「……わかり、ました」
消え入りそうな声で呟き、ウリはかつての父―――モロトミの前から逃げ出すように歩き去った。
イチタがショウキを連れて家に訪れたのは、偶然にもケフの戦いが執着し凱旋帰国を果たした連合軍が都の門をくぐったその日だった。
思った通りにショウキは猫を被って、出された茶菓子にも口をつけずに大人しくしていたが、すっかり家にもマキヒにも馴染んだクロエが彼女の手元から菓子を盗み取ろうとすると目敏くその手を叩いた。
「いった!」
悲鳴を上げるクロエにお茶を淹れ直していたマキヒが当惑の色を浮かべる。
「どうしたの、一体」
「クロちゃんってば大丈夫?」
見えないことをいいことにとびっきり優しい声を出して労る。実際には舌を突き出してクロエと睨んでいたのだが、マキヒはすっかり騙されてしまったようだ。
「大人しくしてないと晩御飯抜きにするよ」
「うぅ……」
以前より少し肉がつき始めたクロエにはご飯を抜くことが一番のお仕置きになる。理不尽だとばかりに顔を歪めていたが、相手が一枚も二枚も上手だと察すると肩を落として諦めた。
「それで…結婚はいつ頃って考えているの?」
穏やかな表情を崩さずに若い二人に問いかける。
クラミチの訃報はジュアンを通して聞かされたけれど、マキヒは子どもたちの前で一度も涙を見せなかった。
「できれば今月中に。結婚をしたら、この国を出ていこうと思っているんだ」
「そぅ」
淹れ直したお茶を啜りながら相槌を打つ。
「ロードリゲス大陸に渡って商売を始めるつもり。向こうで砂漠が広がっているって聞いたからひと勝負賭けてみたいものがあるんだ」
テーブルの下でそっと手を握り合うイチタとショウキを見て、アタカもこれから二人が向う未来に希望を馳せ嬉しくなった。
「もう住むところも手配している。だから…母さんも、一緒にきて欲しい」
返事はない。
湯気の立つお茶を美味しそうに飲みながらマキヒは黙っていた。
「あ、あの、イチタなら絶対に成功しますよ! それに私もいるし、どうせならみんなで…クロちゃんも一緒に向こうに移って暮らしたいって私も思ってるんです!」
数日前に同じことをイチタから打ち明けられた。
一緒にハナナキ国で商売を興して欲しいと頼まれた。
けれどアタカは首を縦に振らなかった。まだ彼が滞在できるよう装置は直されていない。加えて血液検査の結果も、備品や装備が不十分と言うこともあってなかなか出されなかった。
つまり今も、無事に生きていることが奇蹟に等しいのだ。
(それに俺…ユサの幸せ、見届けてないしな……)
本当はまだ絵をもらっていないと言う理由もあった。けれどあれから一行にユサからの連絡がない。その気になれば侍女を通じて絵を取りにいくことだって可能だろう。
未だに彼女が行動に出ないと言うことは、そこには彼女なりの思いがあるのだと受け止めた。
だからアタカはずっとこの家にとどまり続けるつもりだった。彼女から絵を受け取り、そして幸せだと笑ってくれる瞬間まで、同じ時代で生きていたい。
「……あんたたちみたいな…子どもがいて…私は、本当に幸せだわ」
カップをテーブルに戻し、マキヒはようやく閉ざしていた口を開いた。
「本当を言うとね、ここに残るには思い出が多すぎるんだよ。逃げ出したい…けれど、私が忘れてしまったら、誰があの人のことを思い出してくれるんだろうって考えていたの」
『あの人』と言うのがクラミチを指しているのだとすぐにわかった。
マキヒはテーブルにつけられた古傷を懐かしむように指で確かめながら、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
「誰も知り合いのいないこの国に乳飲み子のあんたとユサ様を抱えてやってきて…到底三人で暮らして生きていけないって思った。本当なら、シグノ様に託されたユサ様を私が育てるべきだったんだけどねぇ……どうしても、あんたを手放せなかったんだよ」
盲いた青い瞳が見えないはずの息子を捉える。そしてその隣にいるショウキと交互に見やると、初めて涙ぐみながら笑いかけた。
「それがこうして…ユサ様の友だちのお嬢さんと結婚するなんて……本当に、あの世でシグノ様が巡り合わせてくれたんだろうね。ずっと…ずっと後悔していたんだけど、でも、あんたも、そしてユサ様も立派に育ってくれて、もう心に残ることはないんだよ」
「じゃあ……」
「これからの人生を、私は、クラミチを思い出して過ごしていきたいの」
目尻の涙を拭い静かに断言した。
「あの人が座った椅子が…あの人が使ったお皿やベッドがこの家にはある。私は一度も顔を見たことはなかったけどね、でも…こうして耳を澄ませると今でもクラミチの笑い声が聞こえてくるんだよ」
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穏やかな、それでいてなにかを貫いたような気高さを感じさせる微笑みに、イチタもショウキも反論する術を失ったようだ。
黙り込む彼らに優しく諭すように
「さぁ、村長にも結婚の報告をしてきなさいな。ご祝儀もたんまりせびって、商売の足しにしなさいな」
と促した。
「遠く離れても、私たちは家族だからね」
それはアタカやクロエにも対して向けられた想いだった。
しばらく考え込むように黙っていたが、手をつないだまま立ち上がり「わかったよぉ」とぼやいて家を出ていくイチタとショウキの後ろ姿を見送った。アタカは、クロエを膝に置いてその頭を撫ぜるマキヒの横顔を見詰めた。
不思議と、その横顔は美しく神秘的に輝いて見えた。
「アタカ…あんたも、いつか自分の国に戻るんだろう?」
突然話題を振られたので意味もわからず聞き返した。
「え、え? なにが?」
「なにって…」
吹き出しながら応える。
「あんたが遠い国からきた住人だってことはイチタから聞いているよ。詳しくは教えてくれなかったけど、あんた…ヤヌギ族たちの仲間なんだってね。大したもんだよ」
「……ふわぁぁ」
大きな欠伸をして膝の上でクロエが眠たげに瞼をこする。
「あんたにも…ちゃんと故郷があるんだ」
「だけど、俺を待ってくれる人なんていない」
エディックは死にグリフもきっと二度と戻ってはこれない。唯一の父親であるフサノリも、仲間を元の時代に戻す為にこの時代にとどまることを選択した。
「それに俺、できるだけマキヒと一緒に暮らしたいんだ! イチタが出てっても俺とクロがいればなんとか食べていけると思う。あいつほどがめつくはないけど、お金だって貯めていつか大きな家を建てようぜ。里帰りしたあいつらが泊まれるぐらいのを!」
理想の家を思い描きアタカは身振り手振りを交えて説明した。
マキヒは膝の上で穏やかな寝息を立てるクロを撫ぜながら、静かに微笑んでいた。
「待っているよ。あんたが生まれてきた時に喜んでくれた人たちがたくさん、故郷では帰りを待っている。あんたはね……たくさんの人に望まれて、生まれてきたんだよ」
開け放しにしていた窓から温かな風が入り込む。風で揺れた窓際の洗濯物の方へ顔を向けそっと目を細める。
(……幸せ…なんだ…)
なにげない風景に溶け込んだマキヒの微笑みが、とても綺麗だった。大切な人が遠い戦場で死んでしまったと言うのに、それでも誰を憎むこともなく、一言も悲しみを洩らさないその強い精神が侵しがたいほど気高く美しい。
憎んでいないのだろうか? 恋人を死に追いやった敵兵を。同じ隊に属しながら無事に帰還し、みなに祝福されている仲間たちを。戦争を興した国を。
「…どうして……生きるの?」
気がつけば質問が口を衝いて出ていた。
シルパであった頃はなにもわからなかった。どうしてこんな世界の為にグリフは死んでいっったのだろうと、世界を憎んだ。どうして。好きなのに、一緒になれないんだろうと逃げてきたこの時代までも憎んだ。
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恥じらいを隠したくてわざと口を尖らせ反論する。本当はマキヒの言葉に深く共感していたのだが。
「そんなのっわかる訳がないじゃないか。むしろ…生きていることに意味はないと思うよ」
「ど、どうしてだよ!」
またもや耳を疑う返答に当惑して問い返した。
「あんたも私も…単に、死にたくないから生きているだけなんじゃないの? 生まれいつか、死ぬ。それだけは私たちにもわかる決まりごとで、そこにただ意味を持たせたいが為に色々と小難しく考えてしまうんじゃないのかしらね?」
涎を垂らすクロエを愛しげに抱きかかえながら静かに呟いた。
「私は…死にたくない。生きている自分が好きで、生きて、あんたちを見ていたいから死ねないんだよ」
窓から注ぐ光がマキヒとクロエの横顔を聖母子像のように照らし出す。
穏やかな風。温かな光。優しい母親のような人。そのすべての要因が醸し出す充足する想いが、きっと幸せだと言うのだろうと思った。
アタカは両手を広げてぎゅっと力強く握り締めた。
「俺も……いつか後悔したことを後悔しないで済むかな」
彼の独り言にマキヒは
「努力次第よ」
と答えた。
兵士たちの凱旋を祝う国民たちの声がウリの部屋にまで聞き届いた。三国の中でも先陣を任された北国の兵士たちだが、ヤヌギ族が開発した兵器は大いに役に立ったらしく当初の予想よりも多くの兵たちが無事に帰還した。
けれどこの薄暗い部屋では、外の喜びとは一切切り離された雰囲気に押し潰されていた。
最後までクラミチと共に戦地に赴き剣を振るったと言う若い兵士がウリの前で敬礼を保ったまま、歯を食い縛って涙を流し当時の状況を詳しく報告した。
「じ、自分も総隊長も機械には疎く、ヤヌギ族の新兵器の使用は別班に任せて行動しておりました! R-P34の威力は…素晴らしく確実に敵兵に光弾のようなものが的中し、標的は一瞬にして粉末になり消えていきました。しかし先に斥候に出ていた分隊との合流地点で敵兵の襲激に遭い―――総隊長は自ら囮になって我々を…うっ」
机の上で組んでいた指を組み換え嘆息を漏らす。
「わかりました。では以上を報告書にまとめ提出して下さい」
事務的にそう言うと兵士は再び敬礼をして部屋を退室していった。
それと入れ替わりに扉がノックされ、フサノリが入ってきた。その手には丸めた羊皮紙握られている。
「先にお耳に入れておきたいことがございます」
すぐに予言について、だとわかった。
「現在南国の軍下によって拘束されているオボマ国王ナラヴァスⅡ世が、本日夕刻までの間に亡くなります」
「…自害に見せかけた暗殺? 確か南国のオクヒマ王に唆されて始まった戦いだったね。余計なことを吐かれる前に手をかけた可能性の方が高い」
一瞬驚いた様子で黙ったが、すぐに口元に笑みを浮かべると
「仰る通りでございます」
と微笑んだ。
「それから…カミヨ様の供養塔として候補に挙げられていました土地の整備がつきました。以前は森だった場所ですが森林伐採により荒れ地になっていたところですが、何者かが植林を行っていたらしく草木が点在しています。そこの鉱夫たちの宿舎を潰して王を供養する巨大な白い塔を建てることで老議院と大后妃殿下の了解が得られました」
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と呟いてから、きっとそこがユサたちと共に植林をしたあの場所に違いないと確信した。
「わかりました。では早速着工するように指示を出して。前王の遺言に添えるよう、このイディアム城に劣らぬ美しい塔を建てるようにと」
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「忠告……?」
「大臣たちのあらぬ噂は国民の間でも囁かれております。元より西国を見捨てたこの戦に多くの国民が反対し、それを押し切る形でカミヨ様は兵を出しました。我らが新兵器を使い多くの兵が無事に生き延びたとしても、戦死者数は類を見ないものです。それだけ戦が大規模であったことは否めませんが、戦前に赴き最も活躍をしたはずが三国同盟によって手に入る報奨は三分の一。不満は残るでしょう。戦を起こした当事者であるカミヨ様も亡くなり―――暗殺とも言われておりますが、民の心は揺れ動いております。わたくしが占う未来によると、その動揺は後に大きな災いを招きます」
未来からきた彼の言う言葉は恐らく真実だろう。
「フサノリ教皇の忠告は心にとどめておく。けれどぼくがモロトミ外交官の下で暮らしてきたことも、カミヨ様の死がはっきり解明できていないこともすべて事実。育ちを恥じる必要もないけれど、民が求めているのは過去ではなく、これから起こる未来について。宣誓の通り、国家と国民の為に心血を注いで尽くすつもりだ」
長い溜息を洩らし手元に置かれた国書に目をやる。予てより約束していた東国との友好条約の証文だ。これに彼の署名と判を捺しピジルク、フサノリ、元老院が署名を連ねれば条約は結ばれる。そしてユサとの婚約も発表されることになっている。
期日はもう迫っている。しかしユサに心を決めてもらうまで待つつもりでいた。彼女が絵を、アタカに渡すその日まで―――
「あなたは本当に無欲なのですね…」
口に手を当て失笑しながらフサノリは紡いだ。
「我々と言う無敵の武器を手に入れながらどうしてその力を使おうとしないのです? わたしにお任せ頂けたらすべてをよき方向へと運んでいるものを…」
「それは…とても魅力的なお話だけど、でもあなたの力に頼ってばかりではいつか自分の力を過信してしまう。けれど、頼りにしています。正直……あなたたちヤヌギ族は、目的が別にあるのだとしても、本当にぼくを支えてくれようとしている気がするから」
本当に自分は無力なのだとウリは日に日に実感していた。力があるのは王と言う肩書だけ。それさえ手に入れてしまえば、この国は誰でも自由に操ることができる。彼自身の力ではない。
だからこそ自分を見失ってはいけないと叱咤した。玉座に座り国を眺めていると錯覚しても、本当は自分も同じただの人間であるのだと言い聞かせてきた。
納得いかないのか立ち去る気配のないフサノリから目を逸らし、ウリは再び書類に没頭した。
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※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
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