夢に楽土 求めたり

青海汪

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第十一話 棘にひそむ褒賞

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それまで食卓の上をいききしていた楽しい話題を無視してなくぶつけた話題に、どういう風の吹き回しだとぼやきながらも、マキヒは十五年前に起きた東国でのできごとを話してくれた。
 「アマテル王にシグノ様と言う妹姫がいらっしゃったのは知ってるわね。まだイズサハル様がアマテル王に即位する前だったから、一部ではシグノ様を王位に立たせようとする動きがあったの。次第にその動きは活発化していき正統な継承権を持つイズサハル様派と、シグノ様派の二手にわかれて一触即発状態にまでなったのよ」
 「そんなに…シグノに力があったの?」
 アタカは言葉を選びながら尋ねマキヒの返答に全神経を集中させた。もしかしたら彼女が語ろうとしない過去について、なにか手掛かりを得られるかもしれないと思ったからだ。
 「そぅねぇ……そうだったかもしれないわね。私もそう長いこと東にいた訳じゃないから」
 手探りでパンを掴むマキヒの横で、彼女が落としそうになっていた器をどけてやり
「マキヒは若い頃、語り部の真似ごとをしていたんだろ。ちょうどその頃に起きたできごとだったのか」
とクラミチが口を挟む。
 逆算すれば当時イチタを身ごもっていたはずなのだが、誰もその点について追及しようとしない。当のイチタにしても、黙々と手を動かし目の前の料理を消化していくことに目標を定めている様子でアタカたちの会話に関心を示さなかった。
 「そうだねぇ。あの頃は色々とあったわ…」
 「あっあのさ!」
 遠い目をして若き日を回想しようとするマキヒにストップをかけ、アタカは元の話題に戻した。
 「どうしてシグノが投獄されたんだよっ。まさか妹が目障りだからってだけなら…」
 ゆっくりと首を振って否定してから
「シグノ様は王に命じられたご結婚を一蹴し、愛するお方との間に御子をもうけられたのよ。王族の血を汚した罰として今も牢につながれていると聞いたわ」
 「えっ今も…?」
 テーブルから身を乗り出して驚く。既に亡き者にされているとアタカは思い込んでいた。
 「あくまでシグノ様は王族のお方。そう易々と死刑にできないし、今も根強く残る彼女の人気を考えると幽閉し続けた方が体面を保てるのよ」
 「それにあの国は少し変わっているからなぁ」
食事の締めにお茶を啜りながらクラミチがぼやく。
「四国の中で一番、東のアマテル王って存在を神聖化しているんだ。ロギヌシ教会の信者たちが常に国民を監視している状態だし、もし国家を愚弄することを言おうものなら…即刻教会の連中に殺されるってくらいだ」
 「…教会が人を殺していいのか?」
例え教えは違っても教会や神を崇める人々が平然と人を殺すものなのかと疑問を抱く。
 しかしクラミチは神妙な面持ちでアタカを視界に捉えおもむろに肯定した。
 「東の人々にとって、王というのはこの世の絶対者なんだ。むしろ暗殺者たちは自らを名誉ある聖職者と自負しているくらいにな」
 クラミチの茶色い瞳に映る自分の顔が落ち着かなげに瞬きを繰り返す。いつだったか、何故イザナム王は神の力を笠に民を支配しないのだろうと疑問に思ったが、巨大な力を駆使するには、それ相応のリスクを権力者も覚悟しなければいけないのだと悟った。
 ただ神の力ではないものの予言に頼って支配を続ける今の王は、方法こそ違えども大して東の国と変わらないような気もした。神の名を叫び民衆を治めるようにして、イザナム王は予言の力を説いてこの国を治めているのだから。
 「ふあぁぁ…お腹いっぱいになっちゃった」
 綺麗に皿の上のものをたいらげたイチタは苦しげに下腹部を押さえ、大きな伸びをしてアタカを見た。
 「そんなに難しい話が好きならウリを呼んで話してみたらぁ?」
 「…ウリ坊とも仲がいいのか」
 無邪気に相好を崩すクラミチを見て一抹の気まずさを抱きながら頷く。本人がいない場では楽しい思い出ばかり話題に出るけれども、今彼が置かれている状況を思うと素直に笑えない自分がいた。
 「ごちそうさま」空になった皿をまとめ流し台へ持っていく。イチタも皿を持ってきたので一緒に洗おうとしたら
 「いいよ。ウリ坊ちゃんと遊ぶんだろ? 後は私がやっておくからいっておいで」
 恋人と一緒にゆっくり語らう時間が欲しいのだろう。いつもより優しく感じる口調に甘え、二人は目配せをすると
 「それじゃあーごゆっくりぃ」
踊るようにドアまで移動してイチタが冷やかす。
 その後からアタカも半開きになったドアの隙間からニタニタ顔を覗かせて付け加えた。
 「なんなら明日の朝食も食べていっていいんだぜぇ」
 「こらっ!」
 マキヒの喝が飛んできたので慌てて逃げ出した。先に雪が積もる丘を降りにかかっていたイチタは、アタカの顔を見て馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
 
 
 広げた教科書の上に視線を漂わせていたウリは、突然降って湧いた疑問の重要さに気づき息を飲んだ。
 これまで目の前にある事実しか認めず、そこへ至るまでの経緯について一切考えたことがなかった。しかし原因となる過去がなければこの現実は決して事実ではなかったはずだ。
 「……どうして…気づかなかったんだろう…」
 己の盲点を呪って呻き声を上げる。
 母ジュアンは、前イザナム王の最期を看取った唯一の人間。亡くなるまでの七日間を共に過ごした人だと言うのに何故、今も健在でいるのだろうか。
 残酷だが冷静に考えてみればみるほどそれはおかしな事実に映る。そもそも王には母以外にも何人かの側室がいたはずだが、当時のことを知る人々の口から話題に出ることはない。むしろその存在さえも黙殺しているような節がある。
 いつだったか家庭教師の一人が漏らした言葉に意味深なものがあった。権力を誇示するにはその権力者の死後も、人々が恐れ崇めるだけの影響力と事実が必要だと言っていた。
 (もし仮に側室たちが全員、王の後を追って死んだとするなら……いや、きっと殺されたにしても同じだ。生前に知り得た王族や国家の秘密も永遠に闇に葬り去ることもできるし、遠巻きに事実を知る臣下たちも恐怖心から忠誠を高めるだろう)
 また何故、現イザナム王であるカミヨが正妻どころか側室も持とうとしなかったのか。その疑問に対しても結論が出た。
 (例え何人もの側室を召し抱えたところで御子が生まれないとわかっている以上、無駄に命を殺めることにつながるからかもしれない…)
 寂しそうな目をしていたカミヨを思い、いつか自分も彼と同じ道を辿るのだろうかと恐怖した。もしカミヨが本気で誰かを愛したとしたら。けれど子どもができない以上、王の亡き後にあるのは強制的な死のみ。
 王の威信を守る為に己の大切な人を殺さなければいけないという矛盾。国家を守るべきはずが、いつの間にか国家の食い物にされていると考えずにはいられなかった。
 (それなのに…お母様は何故今も生きていらっしゃるんだろう……)
 世にも稀な亡くなり方をした先代イザナム王の最期を見届けたとあれば、きっと誰もが彼女の死を望むに違いない。もしくは七日間、玉座の間で交わされた会話のすべてを聞き出そうと拷問にかけることだって厭わないだろう。
 ましてやジュアンに於いてはその後、外交官であるモロトミの妻へ収まっている。本来なら王の側室が臣下の元へ嫁ぐなど許されるものなのだろうか。
 彷徨っていた視線が一点に集中する。教科書の一文に書かれた『贖罪』と言う文字に注意を惹かれた。
 (贖罪……)
 何度もその言葉を反芻してから首を振って否定する。
 まさかそんなはずがない。本能的に防衛反応が働いて、無意識に口元が引きつり醜く顔を歪ませて笑うのがわかった。
 (まさか…前の王様が、お母様に対する贖罪の意味を込めて特別に計らったんだとしたら、それは……お母様とお父様が、愛し合っていたことになるもの)
 若い恋人たちの間を引き裂いてしまった詫びとでも言うのだろうか。息子の幼馴染であった四人への後悔の念が起こさせた奇行だと結果づければ納得できるだろうか。
 (そんなはずがない。だって………そうだとしたら、ぼくは…)
 自らが生まれてしまったことで王の贖罪も叶わずに終わったとしたら、と考えてウリは息を止めた。もうこれ以上傷つくことはないと思ってはいても、幼い彼の心は変わらず新たな傷を増やしていく。
 「……」
 考えるのをやめて教科書を閉じた。使い古し薄くなってしまった表紙に手を置き、そっと瞼を閉じる。やがて心の痛みは肉体へ移動し、無意識に左手首を掻き毟っていた。
 瘡蓋を剥がし流血が机に伝っても掻き毟る手は止まらない。次第に感極まった想いに負けて溢れる涙で頬を濡らした。
 神託から逃れられない。例え海外へ渡り隠れるように暮らしても、ウリはいずれ王にならねばいけない。
友も家族も恋人さえも犠牲にして受け継がれてきた玉座を守る為に。玉座の上で果てた王の最後の子どもとして生まれたウリは、父王や兄王と同じく棘の道へ進まなければいけないのだろうか。
 「ウーリーイィ」
 窓の向こうから聞こえてくる明るい声。
 椅子から立ち上がり窓辺に寄り添い、門の前でこちらに向って必死に手を振る二人を捉え無言で手を上げて応えた。
 覚悟をしなければいけない。
 いつか先人たちと同じように、最も大切な人たちを犠牲にしなければいけなくなるその日を思い―――
 「今いくよ」
 ウリは笑顔を浮かべて部屋を後にした。
 
 
 都近くに位置するチノリコ村は比較的に降雪量の少ない地域に分類される。しかしそれでも寒さは雪の多い村と大差なく、長い冬ごもりの為に毎年多くの薪が用意されていた。
 植林を趣味とする傍らでこうして生活の上で仕方なくとは言え、一年で自分が買える木々の数を遥かに凌駕する量の薪を消費していることに矛盾を覚えながら、ユサは囲炉裏に小枝をくべた。
 「………」
 重苦しい沈黙に抑えられ呼吸すらままならない。向かい合って火に当たるショウキの視線は、先ほどからずっと窓の向こうへ集中しているのにユサは常に監視されているような居心地の悪さを感じていた。
 冬ごもりの間ショウキは生花を売ることをしない。どの家の男たちもそう頻繁に外へ出られないこともあり、女房の厳しい監督を掻い潜ってまで彼女の元へ通う客はほとんどいなかった。
 だけどユサは、このままショウキは花を売る仕事をやめるのではないかと思っていた。その原因がイチタにあることもわかっている。こうやって薪の節約だと理由をつけて連日彼女の家に上がり込んでいるのも、いつ訪れるかわからない彼の登場を待っているからだと推察していた。
 (きっとショウキは本気だ…)
 一度火がつけば全力投球で立ち向かうショウキの性格をよく知るユサは、できることなら彼女の恋路を応援したい気持ちでいっぱいだった。だが相手がイチタと言う点で不安も多い。根本的に共通点の多い二人だが、彼の気持ちはわからない上に下手をすればいいカモ扱いされてしまうのではないかと恐れた。
 さすがに友だちを疑うのは気が引けるものの、一途なショウキならば彼の気を惹こうとしてとんでもないこともやりかねない。あまり度が過ぎなければいいけれど…と密かに溜息を吐いた。
 同じタイミングでショウキも嘆息する。きっと今日もイチタはこないと見越し洩らしたのだろう。
 かつてルダスタルジャに恋をしていた頃のように、愛しい相手を想う彼女の横顔はどこか大人びて綺麗だ。傍からすれば心配になってしまうくらい必死で、必死過ぎてその姿は時に痛々しく映ってしまう。
 守銭奴のイチタに少しでもいいから彼女の想いが届いたなら…辛い過去を乗り越える足台となるかもしれない。ルダスタルジャの死を機に離れてしまったショウキとの距離も、これを契機に取り戻せたらいいのに、と願う。
 (恋が人を変えるなら…ショウキがもっと、幸せになれたらいい)
 もうショウキは十分苦しんだ。贖罪と言う観点から見れば、彼女の罪は既に償われたと判断していいのではないか。同時にショウキが救われることはユサが抱く罪悪感の解放にもつながった。
 ショウキがユサを罵って間接的に自らを痛めつけていたように、ユサは彼女を通じて自分に罪悪感を与えていた。お互いが幸せになれなければ一生不幸のまま。幼い頃に約束したあの言葉通り、きっとショウキも無意識に共有してきた想いを認識していたに違いない。
 (恋って……なんだろう)
 火の粉が飛ぶのを眺めながらふと考えた。
 ショウキがルダスタルジャに片想いをしていた時も、ユサはただの傍観者だった。彼女に連れられて応援に向かうことはあっても率先して動くことはなかったし、なによりどういったことをすれば片想いをしている人間が喜ぶのかさえよくわからずにいた。
 傍にいろと言われた時は傍にいて、二人っきりにさせてと言われたらその指示に従い離れる。むかしから口数の少ない性格だったのでショウキがルダスタルジャと喋る時も、大抵が聞き役に徹していた。
 恋をするショウキをずっと見守ってきたユサは、その感情が底知れない行動力の資源になることは知っていた。ただあくまで客観的に観察した『恋』についての知識しかない。
 いつか自分も彼女のようになりふり構わず相手の為に、相手の関心を一身に集めようと必死になるのだろうか。善悪の判断もわからず常識と言う枠に囚われず、ただ純粋に相手の為に生きたいと思うようになるのだろうか。
 「……」
 一瞬、誰かの面影が脳裏をよぎったような気がしたが、すぐには思い出せなかった。
 思い描ける数少ない知人たちの顔を確かめている間にショウキの表情が変わる。
 頬が赤みを帯び瞳が潤んだ。ゆっくりと華が開くように笑う彼女に見惚れたユサの前で、ショウキは立ち上がりいつの間にか開け放たれていた戸口へ駆け寄った。
 「イチタァ!」
 戸を開けたアタカを突き飛ばし傍らにいるイチタの胴体に飛びつく。その衝撃で隣にいたウリもよろけたが、当のショウキはまったく意に介した様子もない。
 キラキラと輝く瞳を愛するイチタに向けると、これまでの猫を被った態度ではなくありがままの彼女の笑顔で叫んだ。
 「ずっと待ってたんだから!」
 肩を竦めて両隣に立つ二人に苦笑いを向けるイチタ。
 アタカは不機嫌そうに頬を膨らませショウキを睨んだけれど、ウリは穏やかな眼差しで彼女を見守っていた。
 「……」
 不思議な感触にくすぐられる。何故か三人が登場した途端、ユサは胸が高鳴るのを感じた。
 
 
 突然ショウキが飛びついてきたことにも驚いたが、それよりもショウキとユサが同じ空間に一緒にいたという事実に興味を惹かれた。
 今もイチタから離れようとしないショウキを一瞥しイチタに講釈を求める。アタカの視線に含まれたものを感じ取り、イチタは鷹揚に頷くとショウキの肩を持って離した。
 「ユサの家にいればぼくに会えると思ってたの?」
 彼の見解に間違いはないだろうがやけに自信満々な口調だ。アタカはそこまで強気に出られるイチタをある種の尊敬を込めて見た。
 「だ、だって! イチタってば住んでる村の名前も教えてくれなかったじゃない。私がどれだけ会いたいと思っても、絶対に会えないもの」
 (そりゃあそうだろ…)
と涙目になって叫ぶショウキを見て思う。全身でイチタが好きだって訴えかけてくる彼女の態度には、可愛いとか思う以前にストーカーにならないかと不安にさせるものがあった。
 特に日頃からペジュとマメリの日常をよく知るイチタのことだから、恋云々に関しては結構用心深いに違いない。
 「まぁまぁ。でもさぁショウキがユサと仲良くなってくれるなら、ぼくらも一緒に会いやすくなるよね」
 彼の心中を知らない者が見たら、きっとそれは無邪気な天使のような笑顔と捉えられたに違いない。その証拠にショウキは顔を歪めて提案を否定しようとしたが、イチタの顔を見た途端に表情を変えた。
 「だけど…でも……」
言い淀みながら囲炉裏の脇に座ったままのユサを見やる。
 彼女の方もこちらのなりゆきを見守っていたらしく、ショウキと目が合っても大して動じた様子はなかった。
 アタカの方を一瞥したが彼女の視線はすぐにアタカからショウキ、そしてウリへ移動して頬を緩め笑顔を見せた。
 イチタを挟んで並ぶウリがそれに応えるように微笑むのがわかる。
 やはりユサはウリにだけ笑顔を見せる。さっきから顔を合わせているアタカには、きっと隣にいるショウキが作用しているのだろうがいつもより無愛想な態度だったのに。
 「とりあえずさぁ、ここに突っ立ったままじゃかなり寒いから上がらせてよ」
 ショウキの肩を抱いたままイチタが提案する。
 「どうぞどうぞ!」
まるで自分の家のように三人を招きいれ、ぴったりと寄り添うようにイチタの隣に腰を下ろした。
 「お前の家じゃねーし…」毒づきながらアタカも靴を脱いで上がると、ウリと一緒に座った。
 「いつの間にか親しくなっていたんだね」
 白湯をふるまうユサからコップを受け取りウリが口を開く。その言葉を聞くまで、アタカはウリだけルダスタルジャについて知識を持ち合わせていないことを忘れていた。
 だけどウリは除け者にされていた不快感など微塵にも匂わせない笑顔と、柔和な物腰でショウキとイチタの間にも入っていった。時々短く発言するユサの言葉も聞き逃さず、意味を咀嚼して三人に伝え、間接的ながらもユサとショウキの会話が成り立った。
 「ところであれからショウキの元に例のナムって言う使者はきた?」
 ほどよく体が温まった頃を見計らってイチタから切り出した。どうやら前回ショウキに会った時に、もし仮に彼女が王族の子どもだとしたら絶対に身分の違いから結ばれないと説得していたらしくショウキはナムの名前を聞くなり血相を変えて首を振った。
 「きてないよ! 全然見かけないもの! ねっ…」
反射的に同意を求めようとユサの方を見てふっと口をつぐむ。
 白湯を啜っていたユサはぼんやりと俯くショウキの方を見詰めていた。
 その様子にアタカはやはり二人は友だちだったのだと思った。あれだけお互いに嫌い合っていても、ちょっとした動作や言動に過去を匂わせる瞬間がある。
ルダスタルジャの死が二人の間を引き裂いたとしたら、もしユサが彼の死に大きく関与していたのだとしたら…勝手な憶測を進めてアタカは首を振った。どんなことがあってもユサに人を殺せる訳がない。彼女から真実を聞くまでは余計な詮索をしたくなかった。
「…ショウキさんは、どうして王族に憧れるの?」
唐突に投げかけられたウリの質問は、その場の空気を一変させるだけの重みを伴って響いた。
事情を知るアタカやイチタ、そしてユサは咄嗟にお互いに目配せを交わし心情を確認し合う。どうして彼がそんなことを口にするのかわからず、いつもの笑顔が不思議と無機質に感じられた。
 
 
 ショウキは下唇に指を当てて天井を見詰めるとやや声のトーンを上げて答えた。
 「え~だって……王様の子どもなんてなりたくてもなれないものだし、絶対に幸せになれるって保障があるもん。イチタの大好きなお金だって使い放題よ」
嬉しそうに目を細めてイチタに笑いかける。
 無邪気で素直なショウキの対応に、ユサは嬉しさと苦しみを同時に覚え複雑な気分に浸った。彼女がこんな風にあけすけなく笑うのはもう随分と久しぶりだ。
 「それに私たちが死んだって誰も覚えてくれないけど、王様だったら何代先まで伝えられるわ。それってすごいもの」
 「!」
 王は死なないと言ったのはユサだった。ただの人間が一人死んだところで歴史は変わらないけれど、巨大な権力を司る者の死は後の世にも影響を与えるに違いない。と、隣で眠たげに欠伸をしていたショウキに話したことがある。
 当時孤児院にいた二人の周りでは王族の子が孤児に紛れているという噂が流行していた。みんなが王族探しをして遊んでいる間、ユサはどういった人物が王に相応しいかを考えていた。その頃のことをショウキも思い出し話しているのだと思うと、苦しみと半々に胸を閉めていた嬉しさが大きく膨れ上がる。
 「………そぅ」
 が、ウリの冷ややかな返答を耳にした途端ぎゅっと心臓を鷲掴みにされるような恐怖に変わった。
 表情は穏やかだったけれど、いつもと違うウリ。同じ印象を抱いたのだろう。イチタとアタカも不安げにウリを見ていた。
 どうしたのだろうと彼の顔を覗き込む。黒目がちの瞳が思案に暮れたまま静止していたが、横から覗きこむ彼女の視線に気づくとふっと相好を崩した。
 あまりに自然に笑いかけられたのでユサもつられて口元を緩ませる。ウリの笑顔はどんな時もユサを優しい気持ちにさせた。だけど、この時の笑顔だけは違った。
 優しさ以外のなにかを含む眼差しに戸惑いながらも、ユサは笑顔を崩さないよう努力した。
 
 
 ウリはユサが彼に向って微笑み返そうとした瞬間、アタカが顔を背けたのを見逃さなかった。
 恐らく本人は気づいていないだろうが、いつからかアタカは彼女がウリに笑いかけると必ずと言っていいほど目を逸らす癖があった。当初はただの偶然だと思い気にもかけていなかったけれど、今ならなんとなく彼の気持ちがわかる。
 (認めたくなければ目を逸らす。それは簡単な逃避方法)
 以前までの自分が最も得意としていた分野なので、逸らした後の気持ちもよくわかる。自己嫌悪と妙な罪悪感。同時に何故こんなことをしてしまったのか自問自答し、その先にある答えを見つけたくないが為に疑問のまま意識の下へ閉じ込めてしまうのだ。
 (気づいてしまえば簡単なんだね…)
 最早この世に自分が生まれてきたことを喜ぶ人はいないのだと悟った時から、ウリの中でなにかが変わった。それまでは否定することで家族の輪を取り持とうとしてきた玉座と言う存在。自分は父と母の子である以上、生涯縁のないものだったはずがいつの間にか抗うことのできない運命に導かれつつあるのだと知った。
 先ほどからずっと彼を見守っている三人の友人に向って安心させようと言葉を紡ぐ。
 「ぼくもそう思う。誰かの記憶にずっと残ることができるなんてすごいよね」
 もちろん、本心からではない。だけど絶対に騙せるだけの自信がある。
今のウリにあるのは国王になる以外に、自分の存在を正当化させる術はないと言う縋る思いだけだった。
 誰も認めてくれない。けれど王となれば、きっとこうして友だちと無邪気に語らうこともできなくなるだろう。そうなる前に自分にはなにができるだろうか。必死に考えた結果出た答えがこのかけがえのない時を無駄にはせず、学べる限りのことを学び治世に役立てることだった。
 できるだけ多く国民たちの暮らしをこの目で確かめよう。机に座っていては聞こえない彼らの本音に触れよう。
同時に強く意識することでもう、これまでのように素直に笑えないと思った。なにげない友との語らいから町へ出かけるに至るすべての行動が王になる為の試練に変わった。
 だけど何故かそう決意した途端に、ユサがいつものように向けてくれる笑顔に対し深い罪悪感と正体の知れない熱い想いを認識せざるを得なくなった。
 
 
 ウリの態度が変わったと、アタカは漠然に感じ取っていた。表立ってそれを示唆するようなことはなにもない。彼の態度から微塵にも変化を見つけ出せなかった。
 しかし根拠のない不安はいつだって的中してしまう。アタカとイチタがユサとショウキの関係の改善に一役買おうと相談をしている間に、ウリにもなんらかの試練が訪れていたのは確かだ。
 ただ今のアタカにはそれを言及することができなかった。
 気の所為かもしれないと言い聞かせてから、いや、そんなはず…と否定する。同じことを数回繰り返してからほっと溜息を洩らす。
目の前ではイチタとショウキが楽しげにお喋りをしている。内容は大したことのない世間話なのに、あんなに夢中になれることへ敬意を抱きながら二人の表情を仔細に観察した。
 (……同じ…顔…かな。ちょっと近いかもしんない)
 イチタがショウキに向ける眼差しとショウキがイチタに返す笑顔。似通った雰囲気が先ほどからウリの、ユサへ投げかける視線や言動に感じられた。
 二人ほど大袈裟なものではないものの、水面に波立つ波紋のように静かにそれでいて広く体内に染み込むようにウリはユサに温かな思いを注ぐ。同じ空間にいてそれはとても心地のよい感情だった。一緒にいるだけで心が安らぐ。常に守られているような安心感。だけど決して押しつけたものではなく、いつも彼女を自由に羽ばたかせる。
 ユサは気づいているのだろうか。それとも、ウリはいつもこんな風にユサを見詰めていたのだろうか。
 (もしかして…最初から? だからあいつには、笑うのか?)
 警戒心の強いユサを出会った当初から、あそこまで心を開かせた理由はこの温かな感情に起因していたのかもしれない。
 「……どうか、したの?」
 ユサの問いかけに一度逡巡してから、アタカは首を振った。
 心のどこかでこれからなにかが大きく変わろうとしている気配を感じつつも、今しばらく心地の良い甘美な雰囲気に飲まれ、幸せに酔いしれていたかった。満たされた想いが手足の先まで沁み渡り喜びが溢れ出る。
 だから今はまだ、なにも変わって欲しくない。
 心の底から幸福感に包まれている訳ではないのだと気づいていても、アタカは敢えて素知らぬふりをした。ウリがユサを見詰めるたびに、またユサがウリに笑いかけるたびに感じる胸の痛みについて、今はまだ…なにも考えたくないとかぶりを振った。
 
 
 子どもたちが家を出てからマキヒは、クラミチと共に洗いものを済ませるとテーブルに向かい合って座った。目には見えないものの向かい合う恋人が注ぐ、優しく慈愛に満ちた眼差しは感じることができる。
 「お願いがあるの」
 そう切り出し、マキヒは用意していた木箱を取り出した。クラミチも箱を見てあぁと呟いた。
 「そうだな。またこの季節がきたんだったな」
 鷹揚に頷き箱を手に取るクラミチ。耳元で箱を軽く動かし中で響く音を確かめた。
 「大したものは入れてないよ。いつもと同じ…干し肉と野菜。それと、本当に少しだけどお金を入れているの」
苦笑をしながら言うとクラミチも笑った。
 「いつだったかきみの話にあった足長おじさんみたいだな」
 「本当に…。冬ごもりの間は私もこの目だしチノリコ村までいけないから」
申し訳なげにテーブルの上で指を弄ぶ。そんな彼女の手に自らの手を重ねるとクラミチは
 「こんなことぐらいでいちいち謝らないでくれ。俺は、きみの目になるって言っただろ? どういった理由できみが、あの少女の生活を支えているのか今は言えなくても、いつかきっと明かしてくれる」
 焦点の合わないマキヒの瞳を見詰めなお言葉を紡いだ。
 「急がなくていいんだ。俺たちにはまだまだ時間がある。きみが…いつか、東の国で見た本当のことを話してくれるまで、いつまでも待てるさ」
 「クラミチ……」
 恋人の温かい言葉に、マキヒは思わず緩んだ口元からこぼれそうになった『ありがとう』と言う言葉を寸でのところで堪え微笑んだ。
 その夜、クラミチはアタカが引き留めるのも聞かず、夕食を共にすると木箱を布で包み恋人の家を後にした。
彼の後ろ姿を見送ってからアタカは寝床の支度をするマキヒに問いかけた。
 「あんな荷物持ってなかったけど、なにか渡したの?」
 彼の鋭い観察眼に内心冷や冷やしながら毅然と応じる。
 「一人暮らしだからね。干し肉とか野菜を持っていかせたんだよ」
 「ふぅん……」
 「それより今日はウリ坊ちゃんとどこで遊んできたんだい?」
 「チノリコ村で、友だちの家でずっと喋ってた。その後帰りながら他の村に手紙を届けてきたんだ」
 「チノリコ村へ? そう…」
平静を装って答えると新しく仕立て直した二人分の布団を持ってきてベッドにかけた。
 「あんたたちは友だちが多くていいねぇ。ウリ坊ちゃんも都から出ること自体珍しかったんじゃないかい?」
 「そうみたい。でも今度はぼくらの村へきたいって言ってたよぉ。きたってなんの面白みもないのにねぇ」
 あいかわらず一言多いイチタの言葉に苦笑を洩らす。が、そんな彼女の胸を一抹の不安が過った。
 「もしかして……坊ちゃんは、今のうちに私たちの暮らしぶりを見ておこうと思われているのかもねぇ」
 それがどんな意味を持っているか息子二人も重々承知していた。互いに目配せを交わすと、申し合わせたようにアタカが疑問を呈した。
 「ウリが王様になる覚悟をしたってこと? でもそんなことになったって、俺たちいつでも遊べるのにな…」
 強く言い切りたいところだったろうが彼の口調は後半から、弱々しいものになっていた。
 同意を求めるようにマキヒを仰ぐアタカとイチタ。彼らの視線を痛いほど感じながらも、マキヒは首を縦に振ることができなかった。
 「王様になったら……俺たち、どうなるのかな」
 誰も口にできなかった不安を言葉に換えるアタカ。しかし沈黙が重く圧しかかるばかりで、結局答えはどこからも聞こえてこなかった。
 
 
 カミヨが眠りについた後、カマスを枕元に置き見張りに命じると教皇フサノリは真っ先に自室へ戻った。部屋の扉は開いており中には既に召集をかけていた三人のヤヌギ族たちの姿があった。
 彼が椅子に深く腰を下ろし落ち着くのを待ってハザンが進み出る。
 「新兵器開発について報告致します」いつもの目尻を垂らし絶えず気の抜けるような笑いを発する彼とは違い、完全に仕事モードのスイッチを入れている。ハキハキとした口調で現在の進行状況を説明し予定通りに完成する見通しだと告げた。
 続いてナムとカヒコが一歩前へ出てウリの護衛について現状を伝えた。
 一通りの説明を受け頷くと、本題へ入ろうとしたフサノリに向ってカヒコが発言した。
 「実はシーウェスらしい奴を発見したんです。外装の印象はまったく変わってしまっていますけど、あれは絶対にシーウェスだと思います」
 意気込む彼の隣でナムが冷ややかに「外装じゃなくて外見」と訂正を入れる。
 「ふむ…」
一応吟味をしてから直立不動のハザンに声をかける。
「お前はこの確率をどの程度だと思う?」
 「実際に確認をした訳ではありませんが、例えシーウェスが万に一つの確率で同じこの世界に存在したとしても、最早彼を我々の計画に加えることは不毛だと思います」
 「だ、だけど! だけどあいつは…」
反論しようとするカヒコの言葉に重ねるようにしてハザンは紡いだ。
 「確率に直すのなら百八十万分の一。例え最高性能の装置を彼自身が持っていたと言え、それに対するリスクはまだ改善されていません。移動の際に消滅したと考えても不自然ではありません」
 「わたしもハザンの意見に賛成だ」
 短く断言し話題を切り捨てると、胸元で揺れるルビーの首飾りを持ち上げた。有事の際にはカマスが無線ピアス型携帯機を使って連絡を取ろうとしてくるだろう。しかし電波を受信すると淡く輝きメッセージを表示するルビーは、冷たい石の感触のみ彼に伝えている。
 「我々の予定通りにカロル指導者は一端、東へ戻っている。性格は別にしておき暗殺術に於いて彼女程有能な者はいないが、その彼女が立て続けに失敗をしている。東に戻ればカマスの正体も割れるがそこでアマテル王と対談の隙ができる」
 ひんやりとしたルビーを指先で撫ぜてから裏返した。
 「今夜中に残る東国のスパイをすべて狩り、その死体をアマテル王の元へ送る」
 大きなルビーの裏に秘められたスケルトンタイプの時計の中で、絶えず動き続ける秒針を見詰める。
 「我らに残された時間は…わずかだ。一秒も無駄にはできない」
 真剣なフサノリの顔に視線を集中させ、三人は神妙に頷いた。
 彼らを順に見まわしてから机の引出しから長方形の箱を取り出す。慎重にそれを机の上に置くとそっと蓋を開いた。
 白い布に包まれた真っ黒い物体を手に持つとフサノリはそれぞれに授けた。彼らも両手でそれを受け取ると、続いて配られた黒い鉄の粒を装填した。
 「銃殺と言うのは少々アナログだが……我らの力を見せつけるには最も効率がいい。なにせこの時代には存在しない武器だからな」
 自らも銃を手にするとフサノリは静かに口元を緩めた。それは神の名の下に人々に命の重みを説く教皇とは程遠い、暗殺者の微笑みだった。
 「殺すのだ。城内にひそむすべての東国のスパイを殺し、できるだけ惨殺にその肉体を引き裂け」
 すぅと息を吸い黄金色の瞳を輝かせる。
 「これは我らが初めて王へ送る嘆願書になるのだからな」
 と呟いた。
 
 
 数日の間雪が降り続けた。深々と降り続ける雪が窓を塞ぎ、屋根まで飲み込むまで積もってもアタカとイチタは外へ出ることは叶わず、時々湿った薪を室内で乾燥させる為に雪を掘ってつくったトンネルを通る程度だった。
 物心が着いた時から北で暮らしているイチタは大して不満も漏らしたりしなかったが、記憶をなくしこうしてマキヒに拾われてから一年と半年が経つアタカは、ただただ毎日が退屈で仕方がなかった。
 「まぁあんたは慣れてないからねぇ。北の民は雪が降っている間、ずっと木を彫ってみたりするんだけどあんたもやってみるかい?」
 薪と彫刻刀の一式を持ってマキヒが問うたがアタカは首を振った。
 「俺、そんなに手先も器用じゃないしいーよ。どうせ手を切るのがオチだし」
 「じゃあぼくがやってみよぉっと」
横から身を乗り出したイチタが彫刻刀を受け取る。薪を手にするなり早速彫り出したので、アタカはさすが北の民族だと感心した。
 「あ~暇だなぁ。雪が降ってなかったら都にいってたのに」
以前交わした、ビィシリ村へ連れてくる約束を思い出し嘆息する。「イチタが、クラからもらった雪を溶かす魔法の粉を全部うっちまうから悪いんだぞ。少しくらい残しとけば俺も使えたのに」
 「お蔭で結構高値で取引できたよねぇ。それで晩御飯にかなり御馳走食べれて、一番喜んでたのって誰だったかなぁ」
 痛いところを衝かれ黙り込む。確かにその日の夕食はこれまでにないくらい豪華だった。
 「だけど、だけど! イチタだってつまんないだろ! その……例えばショウキと会えなくって」
 「ん~寂しいけどさぁ……そのぶん時間を有効に使えるって言うかぁ。彼女と会えない間に稼ぐことはできるから、特に不満じゃないよぉ」
 「おや、あんた好きな子でもできたのかい?」
 特に照れる様子もなくイチタも認めた。
「うん。結構可愛い子だよぉ。まぁ、そのうち紹介するね」
 「そっかぁ…あんたもそんな年になったんだねぇ。私も年をとる訳だわ」
 感慨深げに嘆息を吐くマキヒ。その視線がこちらへ向き、話題ついでにアタカも詮索されると見越し話を逸らした。
 「そーだ。マキヒ、雪がやむまでなんか話してよ。そしたら俺、ウリを迎いにいって戻る時に同じ話を聞かせてやれるし」
 「なんだい突然……」
と言ってからマキヒは少し間を置いて考えた。
 「そうだねぇ。それならこんな話はどうかしらね」
 マキヒは語り部の真似ごとをして各地を回った頃に聞いた、むかし話を始めた。それはアタカもイチタも聞いたことがない物語で、時々異国の言葉が混じりその度に話を中断して意味を聞かなければいけなかった。
 遥かむかし、この地上に国を定める境界線がなかった頃の話だった。大地にあるのは草と木々ばかりで、暮らす人々は過酷な風土に耐えて必死に生きていた。けれど環境は更に悪化していき何日も食事をとれない日々が続くようになった。そこで人々は二手にわかれ一方は出稼ぎに出て、残る一方は彼らが不在の間を守ることにした。
 出稼ぎに出た人々は何年も何十年も経っても帰ってこなかった。それでも留守を任された人々は、荒れていく環境の中で必死に生き残ろうとした。しかし生き抜く為に、柔らかかった肌は荒れて皮が硬くなり、美しい瞳は照りつける日差しに負けぬよう窪んでゆき、足は獣のように変わり次第に人間とは程遠い容姿へ変貌していった。
 しかし人の心を失わず、残された人々はただひたすら約束を守る為に仲間が帰る日を待った。
 そんな彼らの元にやっと戻ってきた出稼ぎに出た人々は、変わり果ててしまったかつての同胞たちを見て驚き、そして彼らを迫害した。中身は同じ人間に違いないのに上辺だけを見てすべてを判断してしまったのだ。後に出稼ぎに出た人々を穢れた者たちと呼び、醜く変わってしまった人々を見た目の通りに醜き者たちと呼んで蔑むようになった。彼らは守り続けた村からも追い出され、荒地にあるわずかな土地に身を寄せ合い暮らすようになった。
 「これが国境の始まりだと言われているんだよ」
 「訓示みたいな話だったな。なぁ、イチタ」
 話を聞きながらずっと手を休めずに動かしていたイチタに振る。視線は手元の木彫に注いだまま相槌を打った。
 「聞いたことない話だったよねぇ。要は人を外見だけで判断するんじゃないぞぉって感じのことが言いたかった訳だしぃ」
 「あ、でもさ初めて国境ができたってことは王様とかもその頃に初めてできたってことかな? 王様じゃなくても支配者として君臨する輩が絶対に出てきてるよな」
 「そうかもねぇ」
と言ってから完成した木彫に息を吹きかけ、細かい木屑を飛ばした。
 「やっとできた。いい具合に雪もやんでるし、アタカ出発したらぁ?」
 イチタの手元に収まる鳥を象った置物を眺めていたアタカはギョッと目を見張った。
 「え! イチタはいかないのかよ」
 「だってアタカがウリを連れて戻ってくるんでしょお? それなのにどうしてぼくまでいくの? 労力の無駄だしぃ」
 確かに彼の言い分には筋が通っている。反論したいけどうまく言い負かされそうな気がしたので、アタカは憮然と構えて舌を突き出した。
 「べっつについてこなくていいんだぜ。俺一人でいって、なんかうまいもん食って帰ってきてやる」
 「いってらっしゃ~い。あ、ついでにその鳥の置物も売ってこれそうなら売ってきてね。最低でも三十ワルペはもらわなくちゃ割に合わないからぁ」
 手をひらひら振るイチタを恨めしげに睨みアタカは防寒具をまとうと家を後にした。高く積もった雪を掘ってつくられた道を歩き、初めて一人でハスキの都へ向かった。
 
 ビィシリ村は北の国でも降雪量の多い地域に分類される。家を出たばかりの頃は両脇にそびえたつ雪の壁も屋根までの高さがあったが、村を抜け歩いているうちに壁の高さもアタカの身長と変わらないくらいまで下がった。
 この調子でいけば都へ着く頃には雪の量もだいぶ減っているだろう。厚着をしている為普段より遅い歩みを疎みながらも、アタカは久しぶりの外出に心が躍った。できることならウリを連れてくるついでにユサと、きっとイチタが喜ぶからショウキも誘ってみたかったが都に近いチノリコ村に住む彼女たちはそれほど雪道に慣れていると思えない。ウリはまだ男だから体力もあるだろうし、なによりもこの前から少し気になる雰囲気を醸し出していたことについて聞いてみたいことがあった。
 マキヒが言ったようにウリが国王になる覚悟を決めたのだとしたら、せっかく築いてきた彼らの友情はどうなってしまうのかを確かめたい。決して変わることはないのだと、彼の口からどうしても聞いておきたかった。
 「そうだって。あいつみたいな奴…そうそういないって」
 彼との出会いから回想して独り言を漏らす。最初会った時から、あの上級民らしからぬ態度に驚かされた。そんな彼がこの国を治める王になったら、まずなにが変わるだろうか。
 もしかしたら身分制度が廃止になるかもしれない、とアタカは思った。ウリはいつも身分制度の無意味さを説いていたし、そうすればマキヒとクラミチはこれまでよりも人目を憚らずに一緒にいれるようになるだろう。また彼はショウキが売春によって生計を立てていたことを知っている。それは、そうしなければ生きていけない経済的弱者がいることを、実際に目で見て確かめているということだ。
 (……もしかしたら…意外と平和になるかもな)
 現在のイザナム王に対し特別大きな不満がある訳でもないが、なんとなくアタカはウリの方がよりよい政治をするのではないかと考えた。
 だがウリ自身はどうなのだろうか。あれだけ両親を慕っていた彼が、本当に心から王になりたいと思ったとは考えにくい。権力よりも肉親の愛情を欲していたウリ。幸せそうに見えて、本当は誰よりも寂しがっていた。
 「だけど………あいつには…俺たちもいるし」
 と呟いてから急にマキヒの話を思い出した。
 見えるものだけを信じた穢れた者たちに自身を重ね、もしかしたらこうして彼が幸せか否かを見極めようとすること自体も、ある種の偏見を伴っているのではないかと混乱した。
 「だって、あいつは両親もいるし、もし王様になったとしてもいい王様になれるだろうし…ユサだってあいつには笑うし……」
 どんどん具体例を挙げて自分自身をも納得させようと躍起になる。しかし、ふと虚しさを覚えてやめた。
 どれだけ傍から見た感想を述べてみたところで、実際のところ彼が幸せなのかどうかは本人にしか判断できないのだ。いくら恵まれた環境に身を置いていようと、絶対に心から笑えるとは限らないのだから。
 「だけど……」
 と呟いてからアタカは痛む胸を押さえた。
 (だけど、あいつは、もしウリが貧乏な下級平民の子どもだったとしても、あいつの前でなら笑う気がする)
 何故ここまでユサの笑顔に拘るのか自分でもわからなかった。ただそれだけ彼女に心を開かせるウリが、羨ましいのだというのは言葉に変えるまでもなく理解している。
 やがて雪の少ない都へ辿り着いたアタカは身にまとっていた布を脱ぎ、小さく折りたたんで脇に抱えると通い慣れたウリの家へ向かった。
 「ああぁぁぁぁぁ!」
 いつもの癖で大聖堂前を通ったところで背後から男の声が聞こえた。
 聞いたことのある声だったので思わず足を止め振り返る。見ると以前ナムと一緒にあらわれた橙色の髪をした、背の高い男がアタカの顔を指差して口をOの字に開けていた。
 「お前だ!」
そう叫びアタカの元へ駆け寄ると有無も言わさず彼の手首を掴み、無理やり引っ張り出した。
 「なっ、なにすんだよ!」
怒ってアタカは手を振り解こうと暴れた。元々体力や腕力には自信がある方だ。村の子どもたちの中でも彼に叶う者はいないはずなのに、どうしてか男の手を解くことができなかった。
 「お前だろ。お前! えっと、俺はカヒコ。で、お前はシーウェスなんだな! やっと見つけたぞぉ。待ってろよ! おっしゃあぁ」
 途中から独り言に変わったカヒコの言葉を聞いて驚愕する。
 「シーウェスって……誰?」ずるずると彼に引っ張られながらアタカは虚脱した面持ちで問うた。
 「え? シーウェスはシーウェスだって。オタマジャクシが蛙だって言うのと同じだろっ」
 まったく訳のわからない論理を聞かされ疑問符を浮かべる。手を振り解いて逃げることは断念したものの、正体の知れないカヒコの大きな背中を訝しみながら睨んだ。
 「俺、あんたのことなんも知らねーよ。それに俺の今の名前はアタカだし、人違いだろ」
白々しくも否定するがカヒコは指を振って笑ってきた。
 「馬鹿だなぁ。俺はお前のことを知ってる。お前が本当にシーウェスだったら……俺たちを救ってくれるかもしれないんだぞ。それってすげーし、もしうまく故郷に戻れたら俺…今度こそナムにちゃんと……その…」
 またもや途中から独白になってしまったものの、彼が謎の人物『シーウェス』をよく知っているに違いないと確信した。しかし先ほどから彼が率先して歩いている道は、このまま進めばかの有名なイディアム城へつながっている。まさか、と思う反面でもしかして、と期待が膨らむ。
 ナムと共に行動をしていたのだから、少し変人ではあるがカヒコもヤヌギ族だろう。こんな機会でもなければイディアム城内へ入るなんて一生涯叶わなかっただろうと場違いにも喜びが勝ってしまった。
 再びヤヌギ族が接近してきた方が王族の子どもである可能性が高いと言ったことも忘れ、帰ったらイチタに自慢して悔しがらせてやろうと考えながらアタカはカヒコへ率いられ城門をくぐった。
 
 大聖堂と同じく城内は白一色で統一されていた。だが中の装飾は比べ物にならないくらい高価で、磨き抜かれた床はその上に立つことさえ躊躇わせるものがあった。
 貧しい身なりをしたアタカを城に仕える兵士や侍女たちは物珍しそうに眺めていたが、彼を連れたカヒコの所為か誰もがアタカの近くを通る時は無関心を装っていた。門をくぐる時もカヒコの顔を見ただけで兵たちはアタカについて一言も触れず通してくれた。それだけヤヌギ族たちが勢力を奮っていると言うことなのだろうが、城へ入りようやく冷静さを取り戻したアタカは警戒心をあらわにカヒコの動向を観察し始めた。
 「あれ、どこいったんだろなぁ」
当のカヒコは呑気な口調で廊下に並ぶ扉のいくつかを手当たり次第に開け、中を覗いては閉めていった。
 「フサノリ様に会わせたいんだけど……最小的にお前がシーウェスかどうかってハンリョを下せるのもフサノリ様だけだしさ」
 「最小的? 最終的じゃなくて? あとハンリョじゃなくって判断、だろ」
意味不明の文体に疑問を抱き問い返す。
 「な、なんだよ。急にナムみたいなこと言いだすなよ」
 明らかに間違いを指摘され狼狽をしながら、カヒコはこの場を誤魔化すように走り出した。
 「あっちにいるかもなぁ」
 「ちょ、ちょっと待てよ! 俺を置いてく気か?」
 「すーぐ戻るって! 短縮時間だよ」
 廊下の向こうへ消えていく橙色の頭を見送り溜息交じりに
 「短時間……の間違い、だろなぁ」
とぼやいた。
 
 
 部屋でこれまで集めてきた資料の整理をしていたナムは、同じく資料整理に手を焼いているハザンに話しかけた。
 「あーねぇ、フサノリ様がカマスを連れてアマテル王との対談の為に国を出てるってちゃんとカヒコに伝えた?」
 「アハハハハハッハ、ナムが伝えていないならぼくはなんにも言ってないよ~」
 「げっ、嘘っ!」
 「アハハハハハハ…まーぁ、ぼくの見解だとカヒコが単独で教皇に会わなければいけない程の用件を持つとは思えないけどね~」
 「まっ確かにそうだわ。それよりどこほっつき歩いてるのかな。さっさとこの資料の山をまとめておきたいって言うのに」
 「う~ん……」
と唸ってからハザンは初めて笑顔に翳りを見せた。
 「さ~すがにこれはちょっと大量過ぎると思うけどな~」
 「え? そう?」
 きょとんと瞬きをして床を埋め尽くす文字通り、資料の山を見渡す。これでも最低限のものを揃えたつもりだったが、それでも貴重な文献や過去の書状など天井に届く量が彼女の手元に集められていた。
 「こういう時はね、焼酎をお湯で割って飲みながらやると効率が上がるもんよ」
 涎を垂らすナムを一瞥しハザンは苦笑いを浮かべた。
 
 
 すぐに戻ると言ったカヒコだったが、半ば予想はしていた通りにいくら待っても帰ってくる気配さえ見せずにいた。その間アタカは時折廊下を通る侍女の好奇な視線に晒され、居た堪れなくなって人気のない場所を求めて移動をしていた。
 初めて入る城内はどこへいっても静かであまり人がいるように感じられなかった。だがしばらく滞在しているとすぐに、どこからか澄まし顔の侍女がやってくるので気まずくなる。一方的に連れてこられた身の上、いつ誰に正体を問いただされてもきっとちゃんと説明したって勝手に侵入した悪ガキと見なされるに違いない。
 (あいつが放っていくから悪いんだぜ…)
 内心カヒコに対し毒づきながら静けさを求めて彷徨う。外と比べていくらかは温かいものの、白い壁に落ちる青い影や静まり返った静寂がそう感じさせるのだろうか。城の中は身が引き締まるような冷たい雰囲気に覆われていた。
 まるで心臓が高鳴る音も響き渡ってしまいそうな静けさに、全身の神経が過敏に研ぎ澄まされるのを感じながらアタカは廊下の先にあった大きな扉の前に佇んだ。
 銀色の扉には美しい装飾が施されており寒色を中心とした宝玉に彩られた月の絵がある。指が触れただけで頑丈な造りだとわかった。きっと鍵がかかっていると思ったのに、不思議なことにそれはなんの抵抗もなく開き彼に新しい道を示した。
(…俺が……シグノの息子なのか? あいつが、ヤヌギ族が接近してきたってことは、俺が王族の子どもである可能性があるってことになるのかなぁ)
 白一色で統一されていた城内とはまた一風変わった銀世界の廊下に足を踏み入れながら、アタカはカヒコの目的を考えた。
 (フサノリが決めるって言ってたけど、それって確か教皇の名前だよな。教皇…未来を読むヤヌギ族の族長……。そいつが俺を見て本当に王族の子かどうかを確かめるってことになるなら…俺、どうなるんだろう)
 東国との駆け引きに利用されるか、もしくは殺される可能性もあるかもしれない。今、自分の命運は他でもない。ヤヌギ族たちによって握られているのだと思うと、身の毛が総立つ恐怖を覚えた。
 (……俺、逃げないと)
 銀を主体とした装飾で縁取られた廊下を歩みながら、アタカはどこか逃げ道になるものはないかと辺りを見回した。ここはここへ辿り着くまで階段の上り下りを繰り返したので、今自分が何階にいるのか見当もつかないが、窓さえあれば外の様子を確認して逃げれるのではと思った。
 しかし廊下には何故か窓がなかった。代わりに豪華な銀の額縁が、まるで窓枠になり代ったようにして等間隔に飾られている。
 額に収められている絵はどれも肖像画だった。延々と廊下の端まで続いているようで、先ほどから見るに圧倒的に女性をモデルにしたものが多かった。また男性の絵に於いては必ず誰もが頂に王冠を載せ、威厳に満ちた態度で絵に収まっている。
 その中の一枚を前にしてふと足を止める。
 明るい金色の髪をした年若き国王の肖像画を視界に捉えた途端、意識の下で眠っていたなにかが反応を示した。
 「……俺…こいつの顔……どこかで…」
 咄嗟に記憶を総動員させてみたものの、思い出せるのはマキヒに拾われた時からの記憶のみ。そこにはこんな麗しい装いをした王の姿などまったくなかった。
 (だけど、俺、こいつ知ってる。直接会ったんじゃないと思うけど…でも、どこかで)
 唇を噛み締めてなんとか思い出そうと躍起になるものの、努力は悉く空回りしていき後に残るのは妙な焦燥感と疲労だけだった。
 「なんだってんだよぉ…こいつ、何者だ……?」
 額の汗を拭いながら呟く。
 背後から伸びてきた影がアタカを飲み込むと低い女の声が彼の質問に答えた。
 「ジブジル王。彼は孤児だったけれど多くの民の心を掴んだ英雄でもあったが為に、こうして月の間の肖像の回廊へ痕跡が残されているのです」
 「!」
 驚きのあまり口から心臓が飛び出そうな程飛び跳ねた。
 慌てて振り返り背後に立つ女性を見上げると、しどろもどろになりながら説明をした。
 「あの、俺、アタカ…。えっとカヒコに無理やり連れてこられて、あいつが遅いから…」
 「カヒコ……そう、ヤヌギ族の者ね」
 肖像画の男のように美しい金髪を結い上げた四十代くらいの女性は、上品に描かれた皺を刻み怯えるアタカに微笑んだ。
 年は重ねているものの柔らかい物腰と美しい笑顔にアタカの警戒心も揺らぐ。身につけているものはどれも高価そうなものばかりだったが、城に仕える女中たちもそれなりに綺麗な格好をしていた。もしかしたら大臣かなにかかもしれないな、と思いアタカは彼女に助けを求めた。
 「あの、俺帰りたいんだ。これ以上俺がここにいても意味はないし、方法だけでも教えてくれたら自分で帰るから」
 「えぇいいわ。ただし対価を頂くわよ」
優しく微笑んでから彼女は腰を屈め同じ目線まで下がった。
 「私の名はピジルク・エリス。ちょうど暇を持て余していたのだから…この廊下を渡り終えるまで私の話相手をなさい。廊下の端に外へつながる通路があるからちょうどいいわね」
 一方的に押し付けられているような感じもしたが、城内ではどんな下っ端でもアタカより位は高い。渋々頷くとピジルクは嬉しそうに頷いた。
 「さぁ久しぶりだわ。なにをお喋りしましょうか」
歩き出しながらピジルクは両手を重ねて囁いた。
 彼女の横顔を見上げながら先ほどの肖像画に描かれた男性を思い出し問いかける。
 「あのジブジル王って、もしかして戸籍箱制度をつくった孤児だった王様なのか?」
 「えぇそうよ。実際には即位する前に追放になされたけれど、私が命じて彼の肖像画に冠を描かせたの」
 「へぇ…あんな顔してたんだ」
 頷きながらさらりと口にした『命じて』と言う言葉がやけにひっかかった。
 「どうしてそんなことをしたの?」
 「彼ほど民に愛された王はいなかったからよ。後にも何代もの王が即位し、この国を治めていったけれどきっと誰もジブジル王を越えられなかったでしょうね。御覧なさい」
と言ってピジルクは壁にかけられている肖像画の数々を指差した。
 「ここに描かれている王はどれも満足げな顔をしているわね。けれど女たちは…側室だった彼女たちはどれも死んだ魚の目をしている。せいぜい大后妃殿下くらいかしら、笑い出しそうな顔をしているのは」
自嘲気味に呟くピジルクの言葉を聞きながら一枚一枚を丁寧に観察してみた。確かに男たちは輝ける王冠を手に入れた満足感からだろうか。どれも自信に満ちて己の未来を過信した顔をしている。それとは対照的に側室の女性たちはみな、どこを見ているのかわからない虚ろな眼差しを鑑賞者に向けていた。誰もが美しい顔立ちをしているのに、既に死んでいるような生気のなさだ。
「王が亡くなれば側室たちも死ななければいけないのよ。また側室が子をもうけても死を受け入れなければいけない。つまり彼女たちは王の元へ嫁いだ時から死を待つだけの毎日だったのね」
燃えるような赤い髪に漆黒の瞳を宿した国王の前で立ち止まるアタカの背後で、ピジルクが淡々とした口調で説明を加えた。
「王位継承者の母となれば権力を手に入れようと余計なことを考える。だから側室は男女問わず子をもうけ次第殺される。その子どもは大后妃殿下の元に引き取られ、王となる為の勉強をさせられるわ」
「……今の王様は?」
首を捻って彼女を視界に捉え質問をする。
「今の王様も側室の子どもだったの?」
忌憚のない意見にピジルクは素直に頷いた。
「大后妃殿下は子をもうけられない体だった。その為、前イザナム王は若い側室を多く集めて子をつくろうとしたわ」
そして赤毛の王の隣に描かれる彼女と同じ顔をした大后妃殿下の肖像画を見詰めた。
アタカは隅に飾られるウリの母親の絵に注意がいっており、ピジルクが若き頃の自分の肖像を眺めていることに気づかなかった。
「名ばかりの家族であっても王家は一丸となって棘の道を歩まなければいけない」
額縁を指でそっとなぞりながら溜息交じりに漏らす。
「その先にある玉座を守り、次の世代へ受けつがせる為にも」
静まり返った回廊にアタカの独り言が響いた。
「……王様って幸せなのかな」
思いもかけなかった言葉にピジルクは虚を衝かれアタカを見た。それから彼と、彼が見詰めていたジュアンの肖像画を交互に見詰め突然顔を歪ませて吹き出した。
「さすがはヤヌギ族が絡む子どもだけあるわね。おかしなことを言うわ」
腹を抱えて笑いだすピジルクをやや心外だとばかりに睨みつけ、腰に手を当てて言い張った。
「別に変なことじゃないだろ。だってみんなつまんねー顔してるし、第一、好きになった奴が結局殺されるんじゃ、誰も好きになれねーじゃん。それに……なんだかそうしてまで王を縛りつけるって…」
口に当てていた手を外し歪めた唇を開くと、それまでの笑顔を掻き消した冷たい眼差しを見せた。
「えぇそうよ。王は誰も愛さない」
骨の髄まで染み込むような冷たい言葉を聞いた途端、全身が鳥肌立った。
「王は何者も愛さない。それが王だから。愛すれば脆く弱くなるわ。だから私はカミヨにもそう教え諭した。この世にあるすべてのものを敵だと思い、自分以外のすべてを憎まなければ王の職務はまっとうできないと。彼を育てた私も、あの子を産んだが故に殺された母親も、みんなあなたを憎んでいるのよと教えたのもその為」
大后妃殿下の肖像画の前に立ちピジルクは妖艶な笑みをたたえてアタカを見た。
「アタカ…よくお聞きなさい。イザナム王カミヨを育てた私が言うのです。決して間違いなどではない」
女性にしては低い声が静かな威厳を伴って耳へ届く。息も飲めないくらいの迫力に、アタカは混沌とする頭を必死に抑え彼女がこれから発する言葉を一語一句聞き逃さないよう全神経を尖らせた。
「この世に君臨する王とはただの幻。必死に守り抜いたところで残るものはなにもない虚しさだけ。力による支配には限界があるのよ」
 整った形のよい唇を湿らせ大后妃殿下ピジルクは厳かに断言した。
 「いずれ、民が王を見捨てる時代がくるわ」
 
 
 数日振りにやってきたアタカの隣に珍しくイチタの姿がなかった。
 いつもより厚着をして外へ出るとアタカはどこか疲れた様子で、言葉少なく彼の村へ案内すると言ってきた。
 「わぁ…! 本当に? すごい楽しみだな」
 無邪気に喜んでみるもののアタカの反応がいつもと違うことが気になった。しかしさり気なく様子を伺ってみても
「村の雪がすごくてさ…」
と短く返されるばかりだった。
 「どれくらい違うんだろ? 余っていたから雪を溶かす粉をもらってきたよ」
きっとイチタが欲しがるだろうと思い持ってきた粉を見せるが、アタカの反応は予想よりも芳しいものではなかった。
 自分から言葉を紡がなければ自然と重たい沈黙が流れてしまう。ウリは思いつく話題を取り上げ、できるだけ話を広げようと躍起になった。
 「ぼくずっと都に住んでいたから、地方での冬ごもりの実態ってよく知らないんだ。だからすごく勉強になるよ。本で読んだのとやっぱりちが―――」
 「なぁウリ。どうしてそんなに一生懸命になるんだよ」
彼の言葉を遮るようにアタカは少し苛ついた口調で発言した。
 「どうせ王様になったって、きっと理想とは違うって思って挫折する。むしろなんで王様が一人でなんでもかんでも背負わないといけないんだよ。そんなの……間違ってる。もっと違う形で国を納めればいいんだ。王様だけがそんなに、たくさん責任を抱えなくたってこの国はもっとよくなれる! 王様なんていらない」
 途中からアタカがなにを言っているのか、ウリに理解できなくなっていた。意味を持たない言葉の片鱗だけが耳を通じて脳へ語りかけてくるのに、断片的に心へ届いた彼の本音が激しい痛みを伴って反響した。
 「『王様なんていらない』…って?」
 「そうだよ! 第一、本当にそこまでして守らないといけないのか? 俺、さっき偶然大后妃殿下に会ったんだ。大后も俺と同じ気持ちだった!」
 「嘘だ!」
 大后妃殿下の名を聞いた瞬間、ウリの中で抑えていたなにかが破裂した。
 「どうしてアタカが大后に会うことができるの? どうして王族が同じ王族を批判しなくちゃいけないの? アタカは勘違いしてるよ」
 「な、俺のどこが勘違いだよ!」
 「守られているから言えるんだ!」
頭が真っ白になるくらい大声で叫んでから、ウリは涙をこぼした。
 「守られているから…いつも平和でいることに慣れているから否定できるんだ。王様がこの世からいなくなればいいって言う方がどうかしているよ」
 「おかしいのはウリだ! なんだってそんなに頭が固いんだよ! 俺はただ…別に王権制度じゃなくたって国は治められる可能性を言っているだけで」
 「やめて!」
語尾に被せるようにして叫んだ。
 そして激しく頭を掻き毟った。指先が肉に食い込み血が滲むのがわかる。だけどやめられない。
 何故、友だちは彼の志を否定しようとするのだろう。
 もうこの志に頼らなければ、どこにも自分が生きていることを正当化する理由がなくなると言うのに。
 どれだけ言葉を使って言い繕ってもきっとアタカにはわかってもらえない、という絶望があった。誰よりも認めて欲しかった友だちなのに、何故、彼はこうも拒むのか。
 「ウリ…」
 弱々しげにウリの肩を掴むアタカ。その感触でウリはようやく頭を掻き毟る手を止めた。
 「…もう、ぼくにはこれしかないんだよ」
 虚しさが溢れ出る。脱力してその場に座り込むと、膝の上に血のついた両手を広げてみた。
 「お願い、だから…否定しないで。ぼくは……王様に……ならなくちゃいけないんだ…」
 ぽつぽつとこぼれた単語をつなげ意味を解したアタカは、ウリの手を取って血を拭いながら苦悶の表情を浮かべていた。
 きつく結ばれた一文字の口元は、今にも反論の言葉が飛び出しそうにしていたけれどアタカは無言でウリを立たせただ一言
 「…ごめん」
 と漏らし、踵を返して去っていった。
 その後ろ姿はとても寂しそうで、だけど余計な同情や中途半端な同意などを望んでいない意志の強さを感じさせた。
 呼び止めたかったけれどウリは寸でのところで言葉を飲み込んだ。自分の発言はきっと彼を傷つけたに違いない。だけど、ウリにもまた、言語撤回するつもりなどなかった。
 「…わかって……欲しいだけなんだよ…?」
 まるで言い訳をするように遠ざかっていく彼の背中に向って呟いた。
 
 
 チャイムの音で目を覚ました。
 あぁ……なんだろう。すごく頭が重たい。今何時だろ? 床で眠っていたらしく節々がひどく傷んだ。
 「いたたたた…」
腰を支えながらとりあえず立ち上がり部屋の外へ出る。
見ると塔の入口に人影があった。また火葬希望者かな、と思い階段を下りるとそれは人ではなく郵便配達ロボットであることがわかった。
 ロボットが差し出す手紙を受け取ってサインを書いてやる。その間に交わされる会話はもちろんない。まるでもう一人自分がいるみたいだと感想を持ちながら、再び台所へ戻って送り主の名前を見た。
 『グリフ・グリフォード』
 …グリフってこんな名前だったんだ。と思ってからもう一つの違和感に気づく。
 寝惚けていた頭を叩き起こし思い出せる限りの直前までの記憶を回想する。そうだ、確かにぼくはグリフを見送ってから、ここでぼんやりしていたところまで覚えているのにそれ以降の記憶がまったくない。
 別れ際に言った彼の言葉が思い起こされる。約束通りに手紙を書いてくれたんだ。
 あれからぼくは気を失っていたのか? 彼からの手紙が届くまで、ぼくは一体なにをしていたんだろう。数時間ではない。何日間、ぼくはどこで、なにを、どうしていたんだっけ…
 考えようとしても脳の奥が痺れていてうまく機能しない。しかたなく椅子に縮こまるように腰をかけると封を切った。こうやって手紙をもらうのも久しぶりで、なんだか懐かしく感じられる。
 
 
 『シルパへ
 元気ッスか? あれからちゃんと生きてまッスか~? 人間、食う寝る、エロ本読むが基本ッスよ』
 
 
 文体にまで口癖が出ているってどうなんだろう。つい口元を緩ませながら、ちょっと飛ばして手紙を眺めた。
意外にも綺麗に揃えられた筆跡から浮かび上がる『戦争』と言う単語を捉え、ぼくは目を疑った。
 
 
 『俺は正直言って、シルパに嫌われることが怖かったッス。だから今、世界がどんな状況にあるかなんて到底説明できなくって、取りあえずクローンの話だけはしてみよと思ったけど結局シルパを傷つけたッスね。
 俺が話した戦闘用クローンの話、覚えてるッスよね? 戦闘用に特別開発されたクローン“シン”たちは、この度、正式に現場に駆り出されることになったッス。つまり…どう言うことかわかりまッスよね。俺たちを見捨てたユエに住むディップたちと戦争が始まったッス。奴らは俺たちの星を、故郷を奪おうとしているッス。先に俺たちを見捨てて植民星に逃げたくせに、懐古趣味なんて流行らせて今更むかしの英雄の名前を掘り出してイザナム王万歳! とか言ってる奴らが俺たちの星に宣戦布告してきたッス。
 実は既に前からこうなることは予想されていたッス。その為にクローン開発が進んでいたのかもしれないって俺は思っているッス。
 俺、自分が本当にグリフ・グリフォードなんだって思った瞬間にシルパがいてくれたことがすごく嬉しかったッス。だって、俺、本当は試験管で大量生産されたシンの一人で、個人名なんてなかったんッスよ。グリフって名前も自分でつけたけど、誰も呼んでくれなかった。シンに求められるのは感情じゃなく、強い戦闘能力だけであとは製造番号で呼べば済むッス。
 シンの俺がなんでシルパの元へきたかって思ってるッスよね? あれは単なる俺の僻みだったッス。生来の方法で生まれてきた人間の方が今は本当に減ってるッス。それなのに政府から仕事を与えられて、同じ人間を焼き殺しているなんてどんな変態だろうって思って潜り込んだッス。
 だけど驚いたッス。俺よりもシルパの方が到底クローンっぽくって、無感情で、無機質で……本当にこの人は人間なのかなって俺、ずっと悩んでたッス。笑っちゃいまッスよね。だってシルパは今、街で生きている人間たちよりもずっとずっとたくさんのことを考えて、感じることのできる人間だって気づいたのが、クローンの俺だったんッスから。
 シルパ。俺、シルパの友だちでいていいッスよね? もう今更取り消しだって言ったって俺、もう地球にいないッスから遅いッスよ(笑)? 
じゃあ俺もういくッス。最前線で戦うことが決まってるんッスよ。これって名誉なんッスから別に不安がらないでいいッスよ。俺は死なないッス。絶対に勝って、絶対にまた、シルパにお手製のサンドウィッチを食わせるまでは死なないッス。ゲームをやって、今度はもっとたくさん泊って、もっと俺を、人間らしく振る舞わせて下さいッス。
 次、会った時、俺の名前をフルネームで呼んでやって下さいッス。俺の名前は…
グリフ・グリフォード。立場はシルパの友だちッス。これから俺たちの故郷を守りにいってくるッス!!』
 
 
 あぁ…つまり、グリフは……死ぬんだ。
 長い手紙を読み終わったぼくはただ、そう納得した。戦争へいくってことはほとんど直結してイコール死につながる。だけどグリフの場合はシンとして生まれたから、そういう運命だったのかな。
 仕方のないことだと自分自身に呟いてから、何故手紙を持つ手がこんなに震えているのか考えた。今更後悔していたことを更に後悔して、悔やんでいるのかな。もっと笑ってやればよかったとか、もっとちゃんと話せばよかったとか……どれも今となってはすべて過去で、どんなに頑張ってもやり直しなんてきかない。
 なのにどうしてこんなに悔しい思いでいっぱいになるんだろう。目が痛い。熱い水が溢れ出て止まらない。
 「うっ……」
このしょっぱい塩水をむかし、涙と言っていたことを思い出すまでぼくは台所の隅に座ったまま泣き続けた。
 それからどれだけ泣いていたのかわからない。時々大きな声を出した気もする。意識が途中で途切れたりしたけど、前みたいに何日間もの記憶がなくなるということはなかった。
 泣き腫らした顔を洗うと今日も一人火葬希望者がきた。ちょっと前にも同じ顔をした人間がきたけれど、もう驚いたりしない。事務手続きを済ませて死体を焼却炉に入れ、火力を最大にする。あとはタイマーを計って時間になれば合図を送り、焼却炉の下で待つ遺族に粉々になった骨を渡すだけだ。
 単調な毎日が再び繰り返される。特に心を動かされることもなく、特になにが変わるでもなく、日が昇り沈んでいくようにぼくの一日も終わっていく。
 ふと思い出しぼくは服の裾をめくった。すっかり忘れていた手巻き時計は針を休めてぴくりとも動かない。だからアナログは面倒なんだとぼやいて螺子を巻こうとした。
その時、頭の奥で激しい痛みが湧いた。
 「―――――――!」
 激痛にもがき重心を失った体が宙を彷徨って床に叩きつけられる。しばらく手足が痙攣し、ぼくは頭痛が去るのを待って目を閉じた。
 
痛みがなくなった後、ようやく意識を取り戻したが全身が痺れてうまく動かせない。もしかしたらまた気を失っていたのかもしれない。気がつくと窓の外は明るく染まっていて、前よりも前髪が伸びていたような気がした。
 ゆっくりと起き上がりしばらく頭痛が再び襲来しないか警戒するようにじっと動かずにいた。だけど今度は大丈夫なようだ。
 ちょっと眠っていただけかもしれない。記憶はちゃんとあるし、時計はまた動いている。だけどなんだかすっごく体が重たく感じられた。ちょっとした動作なのにすぐに息が切れた。
 五分くらいかけて立ち上がりまた五分くらいかけて冷蔵庫まで移動すると、賞味期限ぎりぎりのミネラルウォーターを取り出し喉の渇きを潤した。
 空腹に冷たい水を飲んだものだから急にお腹が減ってきた。だけど入っているのは缶詰と野菜、あと果物ばかりだ。
 料理なんて面倒でとりあえず缶詰は嫌だから冷凍していたバナナと林檎を取り出し、同じ冷蔵庫内にある解凍室へ入れて一端扉を閉める。ふとガスコンロの前にグリフがエプロンをして立っている姿が思い出されたけれど、彼が笑いながら振り向くと同時に残像は消えていった。
 「……」
 コンロから目を逸らし窓辺を見た。
今日は妙に空が青い気がする。窓から注ぐ光がいつもよりずっと透き通って見えた。鬱陶しい前髪をピンでとめてもう一口ミネラルウォーターを飲む。そろそろ解凍できたかなと思った時、ドアの向こうでベルを鳴らす音が響いた。
 まさかまた手紙が送られてきた訳ではないだろう。今度も死体かと思いながら外へ出て塔の入口に佇む一人の小柄な少年を見下ろした。多分ぼくと大して年も変わらないだろう。彼も同じく栄養失調の所為か白髪だった。
 「火葬許可書と死亡通知書は?」
 階段を下りて向き合ったまま数秒が経ったけど、少年は背中に小さな荷物を背負ったまま無言だった。大抵はみんな無言か泣きながら必要書類を提出してくれるんだけど、痺れを切らして自分から急かした。
 「妹です。生まれたばかりで小さいです」
 ご愁傷様とでも言って欲しいのだろうか。馬鹿馬鹿しいので聞き流して繰り返した。
 「火葬許可書と死亡通知書を出して」
 「焼いてあげて下さい。妹は天国にいきたがっていたから、煙になって空へ昇れる」
 相手も負けじと言い張るとようやくポケットから四つ折りにした書類を出してくれた。
 確かに写真を見る限り生まれて数か月ってくらいだ。別に珍しくもないけど、念の為死因の記入欄へ目を落とそうとしてから驚いた。
 少年が背負っていたリュックを下ろし中から風呂敷とタオルでくるまれた、小さな赤ん坊の死体を取り出したからだ。死体なんて見慣れているぼくが驚いたのはその外見だ。
 人間じゃない。
 ―――そう、久しぶりに思った。
 赤ん坊のはずが皮膚は黒く変色し大小様々な吹き出物ができている。小さな指は大人の手の倍も腫れあがり、筋肉が不気味に拡張して皮を突き破っている。体にはたくさんの膿が溜まって虫が湧いていた。
 正直言って見るのも気持ち悪い。ところどころの皮膚が透けて臓器が薄ら透けて見えるなんて人間じゃない。これは、ウィルスにおかされた人間だった者の哀れな末路だ。
 「焼いてあげて下さい。お願いします」
 淡々とした口調で嘆願する少年。今ではウィルスに罹った患者もしくはその死体の勝手な移動は禁止されているはずなのに、法の目をかいくぐってここまできたと言うのだろうか。
 もしかしたら自分だって感染しているかもしれないのに、まったく怖くないのか?
 「………」
 澄み切った緑の瞳がグリフを思い出させる。なにかを悟りきったような超越した瞳。ぼくが抱く嫌悪とか、そういったものとはまったく無縁のような強い眼差しだった。
 「……わかった」
 本当は法律違反だったけどぼくと彼が黙っていれば絶対にばれやしない。それに、もしかしたらこの子どもの死体を媒介にぼくも、感染できるかもしれない。
 心の底から死にたいと願っているのか違うのか、本当のところ自分でもわからなくなっていた。だけどもうこれ以上生きていたって特別なにかが変わるようには思えない。
 グリフがいなくなってから、ぼくはなんとなく世界に対する未練を失ったようだ。
だってぼくにとっても彼は数少ない『ぼくの名前』を呼んでくれる人だったから。
 
 死体が焼けるまでの間、ぼくは台所に戻ってバナナと林檎を食べることにした。最高火力で焼いているからあと五分から十分くらいで終わるだろう。対象が小さいから要する時間も短縮できる。
 死体を連れてきた少年は焼却炉の下に積まれた粉骨を見て、自分はここで待つと言った。合図をしたら頭上から骨を落とすから受け取るよう伝え、特に話すこともなくぼくも部屋へ戻った。
 解凍したばかりの林檎はまだ少し冷たくて齧るたびに歯にしみる。まずくもないけど、おいしくもない。食べてしまえば同じようなものだと思って騙し騙し食べていく。空腹が満たされたら十分だ。
 ……不思議だと思った。別に死んでもいいやと思っていながら、こうやって生命維持活動を行っている。これが本能なのだろうけど、とても不思議でならなかった。
何故、人は死にたくないのに戦争なんて起こすんだ? 答えなんて出る訳がないけど疑問は溢れた。
 生きるってどういう意味なんだろう。グリフは手紙で自分はクローンだからぼくらと違うと言っていたけど、でもなにが違うのかわからない。同じ細胞を持っているだけで、ちょっとシンだから戦闘能力って言うのが高いくらいであとはなんにも変らないじゃないか。
 齧りかけの林檎を見詰め問いかける。
 「生きるって…なに?」
 もし傍にグリフがいたら、彼ならなんと答えただろう。聞いてみたいことがまだたくさんあったと気づいたけれど、直後に激しい後悔に見舞われる。
 戻れないって知っているのに、いつの間にか彼と共に過ごした短いけど最高に楽しかった日々を思い出している。取り戻せないものだと知りながらも、ぼくは、過去へ戻りたいと切に願っていた。
 「!」
 三階からタイマーの音が響いている。もう時間が経っていたらしい。
 林檎を床に置くと、ぼくは少し慌てて仕事部屋へ戻った。
 
 骨なんて一握り程度しか残っていなかったけれど、少年はそれを大切に壺に詰めて死者の塔を後にしていった。
 彼は妹の骨をどうするつもりなんだろう。もしかしたら骨にだってウィルスが侵食しているかもしれないのに、それを土に埋めでもしたら大変なことになる。だけどそうなる可能性を知りながらもぼくは火葬を許可した。
 今までずっと考えもしなかったことだけど、遺族はただ単に死体を焼くことだけを望んできていた訳ではないのだとわかった。自分たちが苦労して運んできた死体が、こんな小さな粉の骨に変わるのを見て、初めて故人の死を受け入れるのだ。
 少年は塔を出る間際に振り返り深々とぼくに向って頭を下げていった。きっと、彼も軽くなった妹の骨を抱き、死を認めたんだろう。
 故郷を守ると言って戦地へ向かったグリフがいた。一人息子のぼくを育ててくれた母さんがいた。同じ顔をしているけれど、それぞれに与えられた人生をまっとうした多くのクローンたちがいた。
 みんなが生きたという証が死をもって完成するのかもしれない。火葬は、遺族が過去との決別の為に行う儀式なのだろうか?
 「……」
 難しいことばかり考えているとまたあの頭痛が襲ってきそうで、怖くなってやめた。だけど手元の時計の螺子だけはちゃんと回しておいた。
 ガラスの中で大小の歯車が回っていく。もしかしたらこんな小さな時計の中に、誰かの一生分の時が秘められているのではと他愛のない想像に耽る。だとしたら今のぼくなら、真っ先に数日前へ戻ってグリフへやり残していたことをぜんぶしてあげていただろう。
 骨を掻き集めている間に少しだけ思い出したことがあった。それはぼくがこの時計の螺子を逆に回した後に見た短い夢だった。赤毛の男の後ろを追って長い廊下を走っていると、どこからか母さんが出てきて二人で嬉しそうに笑っていた。その後母さんはぼくを抱き上げ、最高の笑顔を見せてくれた。
 「……所詮、夢だけどね」
 自嘲気味に呟きなんとなく壁に凭れかかった。開けっ放しの扉から入ってくる眩しい夕陽の光を浴びて妙に感傷に浸たる。だって、あれは夢でないとおかしいからだ。
 ぼくと母さんはほとんど顔を合わせない生活をしていた。ずっと引き込もっていたぼくに、母さんは母さんで仕事が忙しく全然構ってくれなかったから。それに赤毛の男、フサノリとか呼ばれていた奴だって……ぼくの知らない人物だ。
 だけど、どうしてその間の記憶がないんだろう。思い出そうとすると頭の芯が激しく痛む。
 なにがあったのかさっぱりわからないや。
 膝を抱え腕の間に顔を埋めて深い溜息を洩らした。溜息を吐くと続いて欠伸が出てきた。全身が気だるくて眠たくなった気がする。
 普段考えることなんてほとんどしないから脳味噌が慣れていないんだ、きっと。顎が外れるくらい大きな欠伸をしてから、面倒だなぁと思いながら立ち上がる。取りあえず五階まで上がらないとベッドはない。
 別に二階の台所で寝てもいいかなぁとぼやきながら階段を上ろうとしたところで、扉が大きく開け放たれた。
 「シルパ……!」
 荒々しい呼吸の下から苦しげにぼくの名前を呼ぶ。
 咄嗟に振り返ったけれど、出口をふさぐ屈強な姿は逆光で顔を確認できなかった。
 眩しさに顔をしかめ目を細めるぼくに、男は肩を上下させて名乗った。
 「俺だ…! お前の叔父の―――カマスだ」
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