夢に楽土 求めたり

青海汪

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第十話 均衡を背負う愚問

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ウリの家についても彼の名前を呼ぶ必要はなかった。いつも二階の部屋で勉強をしていた彼は、今日に限って何故か門前に佇んだままその場から動こうとしない。
 まるで中へ入って母親に怒られることを恐れる子どものようだと思いながら、アタカたちは彼の元へ駆け寄った。
 「なにしてんの?」
 「こんなところにいたら、風邪ひいちゃうよぉ」
 口々に言葉をかけてからウリの様子がいつもと違うことに気づいて戸惑った。身につけている服からして普段と異なる。
豪華できっと一着をつくるだけでマキヒの稼ぎの倍は要する代物だとわかった。そして美しい装いをしていながらウリの表情はまるで氷のように冷たく、虚ろな眼差しはじっと足元へ定着したまま。わずかに開いた唇からは、いつも彼らの訪問を喜ぶどころか呻き声さえ聞こえない。
 「……ウリ?」
 ユサが彼の顔を覗き込む。
 「!」
初めて肩がピクッと反応を示し、ようやっと彼らの姿を捉えたとばかりに三人の顔を見回すとぎこちないながらも表情を緩めた。しかし、それも笑顔とは程遠かった。
 「…なんか、あったのか?」
 数秒遅れてからアタカの言葉が届いたのか、億劫とした動作で彼を見るとかぶりを振ろうとした。が、俯いた途端に大きな瞳から涙が溢れ、途端に彼は泣き出してしまった。
 「えっ、あ、ごめん! えぇーと…イチタァ……俺、なんか言ったかなぁ」
 「アータカがなーかしたぁ」途方に暮れる相方を冗談交じりに避難する。しかし彼もすぐにユサの険しい顔に気圧され真顔へ戻ると「とりあえず、道端で話すのもなんだし…家に入らせてよ」
 「嫌だ!」
 家、と聞いてウリは咄嗟に顔を上げた。それからハッと我に返ると気まずそうにアタカを見詰め
「ごめん…家に、今は帰りたくないんだ」
と涙を流しながら嘆願した。
 顔を見合わせどうするべきか思案するアタカたちに向って、ユサがぽつりと言葉をこぼした。
 「…大聖堂なら寒いけど、人が少ないと思う」
 「それだっ」
 的確なアドバイスに、アタカとイチタは揃って親指を立てた。
 
 
 城を出てからのことをウリはよく覚えていなかった。ただ気がつけば家の前に立ち、それからしばらくぼんやりとしていた気がする。どのくらいの間外にいたのかわからなかったけれど、指先の感覚が既になくなり氷のように冷たくなっていたことから察するに長時間茫然と佇んでいたのだろう。
 アタカたちがユサを連れて家へやってきた時は驚きよりも嬉しさの方が勝った。同時に三人の顔を見た瞬間に、感情の糸が一気に緩んだ。
 ずっと泣きじゃくっていたウリの手をユサがひいて、まるで自分が小さな子どものようだと思いながら、それでも、かじかんでいた指をとかすユサの温かい手や、先陣を切って歩き周囲の好奇の目から彼を守るアタカたちの優しい態度に心地よさを感じその足で大聖堂へ向かった。
 再び中へ足を踏み入れることになるとは思ってもいなかった。父との唯一の思い出の場であるだけに、もう余計な記憶を追加したくない思いもあったのだが、家へ帰ることを拒んだ以上は抗いようのないことだと割り切った。
 アタカは大聖堂へ入るのは初めてだと言い、白で統一された壁や柱、天井画などを見上げひたすら歓声を上げていた。参拝客は少数だがおり、アタカの素直な反応にイチタは田舎者みたいだからやめて欲しいと愚痴った。
 「だって俺、初めてきたんだから田舎者呼ばわりされたって仕方ないじゃん」
 舌を突き出しイチタと口論するアタカ。
 ユサは終始無言だったが、握り締めたままの指には程よく力が込められており、ウリは時間が経つにつれて興奮していた気持ちが落ち着き始めるのを感じた。
 「それよりイチタ。あのおっきな扉ってなに?」
 大聖堂の奥に構えられた、巨大な金と赤い宝石を施してつくられた扉を指差しアタカが質問した。扉の両脇には矛を構えた近衛兵がいるが、彼らの態度こそ人形のようで目の前を虫が飛びまわっていても瞬き一つとしなかった。
 「あー多分、王様の亡骸があるんじゃない」
 あまり興味がないのかちらりと一瞥して答える。
 「イザナム王の墓ってこと?」
 「違うよ。前の王様が玉座で果てたって話は有名でしょー。その王様の亡骸を玉座ごと納めてる場所だよぉ。一応…国宝なんだっけ?」
 泣きやみ二人のやりとりを眺めていたウリに話題を振る。
 赤く腫れた目元を指で隠しながらそっと頷き
「中には玉座の間が再現されているんだよ」
と説明した。
 「へぇ…見てみたいなぁ」
 「だーめっ。上級民でも限られた人しか入れないし、無理やり入ったらあの人たちに串刺しにされちゃうよぉ」
 直立不動の近衛兵を見てにやりと笑う。
 アタカもそれなら仕方ないとばかりに肩を竦めると、落ち着きを取り戻したウリの顔を覗き込み嬉しそうに笑った。
 「どうせだから礼拝堂も見てみようぜ」
 「やけに熱心だねぇ」
 ぼやきながら彼の後に続くイチタ。少ししてからユサも二人の後をついていこうとして、ウリの手を引っ張った。
 「……ウリ?」
 ユサに呼びかけられて初めて自分が夢想に浸っていたことに気づく。
 不安げに眉を寄せるユサと目が合うと、彼女はほっと嘆息を漏らし笑みを浮かべた。見る者の心を癒す温かな笑顔だった。
 「早くこいよー」
礼拝堂の入口から身を乗り出し二人に向って手招きをする。
 隣のイチタが恥ずかしそうに頬を染めて彼を窘めた。
 「大声出さないのっ」
 アタカとイチタがおかしそうに笑う。ユサも穏やかな眼差しでウリを見詰め、ゆっくりと歩き出した。
それは不思議な感覚だった。さっきまで抱えきれないくらいの悲しみと怒りに押し潰されそうになっていたウリなのに、今、笑うことができる。なにも告げていないのに、三人はすべてを受け入れてくれている。雪を溶かす魔法の粉と同じような効果を、友だちは与えてくれるのだと知った。
 
 
 大よその見当はついていたが、やはり礼拝堂のどこを探しても神を象ったものは見当たらなかった。参拝にきた人々はなにもない空間に向って深々と頭を下げたり、もしくはその場に腰を下ろし瞑想に耽っている。神をあくまで別次元の存在だと位置づける以上、それにむやみやたらに形を与えることは別の意味で危険性を伴うのかもしれないとアタカは考えた。
 (そうだよな。もし目に見える形で存在したら、下手すれば王様よりも神の方が偉いって思われがちだし…こうしてたら、みんなが勝手に想像して納得するだけで済むもんな)
 まるで彼の見解を立証するかのようにイチタもユサも、そしてウリまでもがなにもない空間に向って頭を下げる人々に混じって、ただなにをするでもなく立ち呆けていた。
 (だけどここがロッキーヴァス総教会の根城なんだよなぁ…)
 偶然道端で会ったナムと、そしてカヒコと名乗る男の会話から飛び出た『シーウェス』の名前。どうして彼らがシーウェスのことを知っているのか。そして何故、アタカだけではなくイチタの顔も確認して『似ている』と言ったのか。
 (普通に考えたら…俺がシーウェスに似ているってことだと思うけど……)
 アタカと縁のある人物でたまたまイチタがシーウェスに似ていたのか。それとももしくはその逆でアタカが似ていてイチタの方に関連があるのか。寝言でその名を呟いていたと言っていたのはイチタだった。もしかしたら、考えたくもないけれどそれ自体がイチタの狂言だったのでは、と勘繰ってしまう。
 (だけど疑っても仕方ないし…第一、なんでイチタが俺に隠し事をするんだよ)
 自戒の意味を込めて握り拳をつくる。きつく握り締めたので爪が肉に食い込んだ。
 鈍い痛みはそのまま彼にマキヒを思い出させた。彼女が実は嘘を吐いていたかもしれないと思っていることを、まだイチタに伝えていない。根拠のない推理だと自覚しているから口に出しづらいだけではない。もし、事実が明らかになり、本当にマキヒとイチタの間に親子の関係が成り立たなくなった場合を考えると、どうしてもこれだけは白日の下にさらしたくなかった。
 自分が発する言葉が、大切な人たちの笑顔を奪ってしまうのではないかと恐れていた。
 
 
 口には出していなかったが実はユサも大聖堂へくるのはこれが初めてのことだった。きょろきょろと辺りを見回していたアタカにばかりイチタやウリの関心が寄っていたので、ユサは周囲の視線を気にせずそれなりに壁の模様や内部の装飾を眺めることができた。
 礼拝堂は思ったよりも質素なつくりだったが、逆に白一色で統一された空間に各々が描く神の姿を見いだせてそれなりに効果もあるのかもしれないと思った。
 参拝者の多くは三十代以上の大人たちがほとんどで、誰もが一心になにかを祈っている。
 果たして人々が想像する神と言うのはどんな形をしていて、どう彼らに語りかけてくるのだろう。空想を含まらせていると思わず絵に描き起こしたくなった。
 「…ユサ」
 呼びかけられるまで手をつないでいたことも忘れていたウリが、はにかんだような表情を浮かべ彼女を見た。それからアタカとイチタの名を呼び、三人に向って小さな声で
 「ありがとう」
と呟いた。
 本心からあらわれた笑顔と言葉に、ユサだけではなくアタカたちも頬を緩める。同時に安堵の色が三人の顔をよぎった。
 「大切な話をするから…聞いてくれるかな?」
 躊躇うように上目遣いに彼女たちを見やる。
誰も首を横に振ることなどしなかった。
 
 それから今度はウリに連れられて礼拝堂から出ると、一般の人間には使用を許されていない小さな資料室へ移動した。入口を守っていた小太りの男にウリが身分と姓を明かすと、分厚い本をめくりその名前を確認し部屋の利用時間を尋ねた。
 「一時間くらい使いたいのですが…」
 おそらく今日はそう大して使用者もいないのだろう。男は快く頷いたが、後ろに控えているユサたちを見て怪訝そうに眉を寄せた。
 「あ、ぼくの友だちです。その…国の歴史について勉強をしたいからと言って」
 「基本的にここには貴重な史書も置いてあるし、下等平民の利用は許可できないんですよ」
 顎の肉を揺らしながら言うとウリは更に頭を下げて頼んだ。
 「お願いします。もし、なにか問題があればぼくがすべて責任を取ります」
 「仕方ないですねぇ…。こう言うことには、特にお父様の方がうるさいでしょうからわたしが言ったことは内緒にして下さいよ」
渋々彼らの使用を認めると鍵を渡し
「内側からも鍵をかけられます。本はくれぐれも大切に扱って下さいね」
と念押しするように唸った。
 「ありがとうございます」
 嬉しそうに顔を輝かせるとウリは鍵を受け取り部屋の扉を開けた。
 そこはユサの家を五倍にしたぐらいの広さだったが、四面の壁をすべて巨大な本棚が覆っていたので聳え立つ圧迫感から実際より狭く感じた。だがウリからしたらやはり窮屈な感じがするのだろう。申し訳なさそうに頭を掻いて
 「ちょっと息苦しいかなぁ」
と呟いた。
 「いやー別に大丈夫だけど、ここってなに?」
本棚を見上げ感嘆するアタカ。
イチタも見事な背表紙の数々にきっと値打ちものに違いないと察し、涎を垂らしそうな顔で眺めていた。
 「宗教統一が行われる前の各宗派が持っていた史実をまとめた部屋だよ。と言ってもほんの一部で、ほとんどが城に収められているんだ」
 そんなものがこの国に存在することすら知らなかったユサは、改めて室内を見回して驚いた。背表紙に書かれているタイトルだけを見てもどんな内容なのかわからなかったが、挿絵ぐらいなら楽しめそうだと思った。
 「よかったら座って」
 ちょうど部屋の中心に据えられたテーブルと椅子を指差す。イチタが真っ先に座って、アタカ、ウリ、そしてユサと言う順番で腰を下ろした。
 「改めるとなんだか照れちゃうね」
 緊張した雰囲気を打ち消すかのように相好を崩す。つられてアタカたちもいつもの調子を取り戻したが、ウリが紡いだ言葉はその場を一瞬にして凍らせるだけの威力を伴っていた。
 「ぼくは、いずれイザナム王にならなくちゃいけない運命らしいんだ」
 
 
 言葉を選ぶよりも、ウリは素直に溢れた想いを伝えることにした。
 留学の話が白紙に戻されたことから始まり、つい先刻まで城でイザナム王と面談をしたこと。そこで偶然知ってしまった両親と王の関係や、自分が生まれたことでその輪は完全に断ち切られてしまったこと。特に侍女たちの噂話を耳にした時のことは、感情的にならないようできるだけ声を抑えて伝えた。
 だが、彼が一方的に感じたカミヨの孤独だけは、何故か憚られて言えなかった。
 すべて話し終えると沈黙が訪れた。
 それぞれが思案に暮れる様子を見詰め、ウリはこんなにも自分の為に心から悩んでくれる友人の存在に感謝した。それこそ言葉には言い表せないぐらいの想いが胸を熱くさせたが、唇を噛みしめ表情から消した。
両親から友を奪ってしまった自分が、こうして友だちに囲まれて笑ってもいいのだろうかと不安が蠢く。
 「ウリが…イザナム王になるのか?」
 ようやく考えがまとまったのか、それとも未だ模索をしている最中なのかアタカは頭に手をやって質問をしてきた。
 「王様にこれからも…御子が生まれなければ必然的に戸籍箱の秘密は明かされる。けれど、王は確信されていたご様子だった」
 用意していた答えだったが、口にすると妙に現実味が出て自分の首を自分で絞めているような気分になった。
 「それって…やっぱりヤヌギ族の予言ってことぉ?」
 面談に同行した赤毛の男を思い出し頷く。
 「直接話はしなかったけれど、教皇って言うより…ちょっと雰囲気が兵士みたいな感じだったよ」
 「あ、そう言えばアタカ。あれぇ、ほら、ナムからもらったじゃん」
 イチタに肘を突かれてアタカも「あぁ」と思い出す。懐からおもむろに袋を取り出すと、中から乳白色の小さな玉を取り出しウリへ渡した。
 「舐めてみろよ。七回も味が変わるんだ」
 「味が…?」
驚いて掌に置いた玉を凝視する。そんな不思議な食べものがあるだなんて、いくら見聞の広いウリでも初めて見た。
 恐る恐る口に含んで舐めてみる。ただの砂糖菓子とは違ってなにか特別な味がした。
 「ナムとカヒコって言うヤヌギ族の奴らと会って、それをもらったんだ。どうしてアマテル王の妹の子を捜すのかって聞いたんだけど…」
 後を継いでイチタが口を挟む。
「もっちろん秘密だって断られちゃった」
 当たり前ともとれる反応だと思ったが、イチタはなおも言葉を紡いだ。
 「実はねアタカって記憶がないって言ってたでしょぉ? それがこの前夢でシーウェスって人の名前を繰り返していたんだぁ。そのシーウェスをヤヌギ族の人たちが知っているような素振りを見せたんだよねぇ」
 「えっ!」
勢い立ってつい口から玉を吹き出しそうになったのを咄嗟に止めて、改めてアタカを凝視した。同時に舌先で玉の味も変わった。
 「!」
 驚愕するウリを見詰め返しアタカも口を開いた。
 「嫌ならいいんだ。だけど…もし、ヤヌギ族と会うことがあったら……」
 「ううん」慌てて首を横に振り承諾した。
「きっとまた、あぁして王様の前に上がることになると思う。だからその時、教皇にもそれとなく切り出してみるよ」
 ウリの申し出にアタカだけではなくイチタもほっと胸を撫で下ろした。
 「……あ…」
 突然傍らに座っていたユサが席を立ち、向いにある本棚から一冊の本を抜いた。そして本を抱えたままテーブルへ戻ると三人の注目が集まる中でおもむろに表紙をめくった。
 「これ木の図鑑」
 嬉しそうにページをめくるユサを見て思わず場の空気が和む。
 頬杖をついてユサと一緒に本を覗きこむと「本当に木が好きだねぇ」と呟いた。「もしかしてルダスタルジャって人に関係あるのー?」
 「!」
 イチタの言葉に目を見開けるとぎゅっと下唇を噛みしめ
 「ルダは関係ない…」
呻いた。
 陰鬱な表情で俯くユサを見詰めウリは、ルダスタルジャという人について考えた。聞いたこともないけれど、様子から察するにアタカも知っているようだ。いつの間にか自分だけ知らない秘密を三人が共有していることに対し軽い焦りを覚える。けれどユサはそのことに対して触れてほしくないとばかりに本に集中していた。
 誰かに聞いてみたいけれどそれができない歯痒さ。どうして同じくらい親しくしているのに、ユサは二人にだけ打ち明けたのだろうか。
 図鑑を眺めながらウリは、初めて感じる胸を締め付ける感情に対しどう抵抗すればいいのか必死に考えていた。
 
 
 結局長々と資料室で時間を過ごしてしまい、大聖堂を出る頃には既に日が山並にかかっていた。けれど管理をしていた小太りの男も彼らが出てくるまで、人が入っていたことすら忘れていたらしくウリの顔を見ると寝ぼけた顔をこすって飛び起きた。
 ずっと寒さの増した寒空の下を歩みながら、いつもの調子でアタカとイチタが先を歩きユサとウリが後からついてきた。
両腕をさすりながら
「やっぱ寒いなぁ」
ぼやく。
「う~ん、さっさと帰ってご飯食べないとねぇ」
いつもの調子で返すイチタを確かめ、後ろで談笑をする二人を一瞥してからアタカは声をひそめて尋ねた。
「ルダスタルジャってショウキから聞いたの?」
「うん。まぁ…ねぇ」
珍しく歯切れが悪い。真っ直ぐ道の先を見詰めたまま更に言葉を紡いだ。
「興奮して言ったからどこまで本当かわかんないけど……あの子なりに色々と考えているみたいだよ。なんだか必死過ぎて痛々しいくらいだった」
淡々と語る横顔はどこか大人びて、アタカの知らないなにかを見据えているかのようだった。
そんなイチタを見て、アタカはなんの疑問もなく
(本気で好きなんだ…)
と納得した。
誰かを想う人の瞳は強い意志を宿していると思った。どんなに離れていても、その目には相手が映っているかのように、いつも、考えてしまうものなのだろうか。
 どうしてイチタがショウキを好きになったのわからなかったけれど、よくよく思い起こしてみれば初めて会った時から気にかけていたのかもしれない。
ペジュが浮気をして、後朝の文を届けると言う口実を設け彼なりにショウキとの接点をつくっていたのか。
 「………」
 歩きながら頭の後ろで腕を抱えた。
 (俺も…イチタが好きになった奴だし、あんまり嫌ってたら悪いよなぁ)
 できることならイチタとショウキが親しくなることで、ユサとの関係も改善されたらいいのにと思った。今のままでは自分になにもできない。手を貸すことはできても、所詮はその先にいけるのは当人たちだけだと知っていた。
 それから重い足取りで家へ向かうウリに三人で精一杯励まし見送ってから、アタカたちも帰路へついた。
 
 
 家の扉をそっと押し開けながら、ウリは足音を消して中へ滑り込んだ。居間の灯りはともっており中から人の気配が伝わった。
 一人ではない。戸に耳を押し当て中の会話を伺った。
 「こんなに早く帰るなんて珍しいわね」
 母の声だ。続いて無感情に声を抑揚したモロトミの声が響いた。
 「用事があったからだ。それより…あいつはまだ帰らないのか?」
 やはり今朝のことでなにか言いつけられるのだろう。そう思うと全身が一気に強張った。
 「……友だちと遊んでいるのかもしれないわ」
 「友だち?」
不器用にそう呟くと声は少し驚いたものへ変わった。
「友だちなんていたのか」
 少し沈黙が流れる。もしかしたらジュアンが無言で頷いたのかもしれない。向かい合って卑屈な笑いを浮かべるモロトミが容易に想像できた。
 「もう一度……あの子の名前から説明しなきゃ、思い出せないんじゃないかしらね」
 扉越しに重苦しい沈黙を感じ、ウリは喉が締めつけられているように苦しくなった。
 「カミヨが…」
掠れた声に上乗せするように再び紡ぐ。
「カミヨがウリを、次の王位継承者に考えているらしい」
 「…嫌よ」
すぐさまジュアンは否定した。
「そんなこと絶対にさせないで。あの子は王になってはだめよ!」
 「俺もそのつもりだ。だが今のカミヨには、フサノリがいる」
 「また…偉大な予言に従うの?」
 辛辣な言葉にモロトミも言い返せなかった。これまでになく長い無言の時を経て彼が次に発した言葉は
 「帰るよ。お前がそんな様子なら話もできない」
 感情のこもらない冷たい声。中で動く気配がしたのでウリは扉から離れた。
 扉が開きモロトミがあらわれたが、その視界にウリを捉えたものの表情はなにも変わらない。
 「帰っていたのか」
 「……はい」
 「王に返事をしたのか?」
 「いいえ。突然の…お話でしたから」
俯いて答える。
 「そうか」
振り向きジュアンを一瞥すると
「事実が明らかになるまで妙な気は起こすな。それと留学の件は延期だ」
 返事をしないウリに「わかったな?」と念押しをする。
 「あ、ごめんなさい…わかりました……」
 焦点の合わない両の瞳を宙に漂わせて、無気力にそう答える彼から目を逸らしモロトミは玄関へ直進した。
 「あなたの家は二つもあるのね」
 いつの間にか扉の脇まで移動していたジュアンが皮肉めいた笑みを浮かべて見送った。
 「…羨ましいこと」
 背中を向けモロトミは、無言で出ていってしまった。
 
 
 村へ戻ったユサはそれとなく隣のショウキの様子を伺った。物音は聞こえないが前のように胸騒ぎもない。きっと大丈夫だろうと高を括り家の戸を開けて、ユサは息を飲んだ。
 「遅いっ」
 唇を尖らせ囲炉裏に当たっていたショウキが睨んできた。
 「え、どう…どうして?」
事情がわからず戸惑うユサの前に佇むと
 「彼について知ってることを全部教えなさいよ。それくらい、あんたでも役に立つでしょ」
 咄嗟に彼と言われてイチタのことだと解したが、知っていることはほとんどない。住んでいる村の名前とアタカと一緒に暮らしているくらいだ。ショウキが何故彼について知りたがっているのかもわからない以上、提供する情報にも限られてしまう。
 しかしそれよりもこうして面と向かって話をしていることが久しぶりで、感情がうまく機能しなかった。本来なら喜ばしいことなのに、長年培っていった鉄面皮が邪魔をしてちゃんとそれをあらわせない。辛うじて閉じかけていた唇をこじ開け
 「私…」
なにも知らない、と紡ぎかけて寸で思いとどまった。
「ショウキは、イチタが、好きなの?」
 妙な沈黙が流れた。お互いに視線を絡めたまま腹を探っているような静寂を経て、ショウキは重たく閉ざしていた口を開いた。
 「ルダを忘れた訳じゃないわ。今度こそ幸せになってやるから…。絶対に、あんたに邪魔させない! 私は、あんたがいなきゃ幸せになれたんだから!」
 髪を振り乱し壁へ駆け寄ると板を無理やり剥がし、中から隠していた木箱を取り出した。
 「どうしてあんただけは今も変わらないでいるの? 私が、私が一番辛い目に遭ったんでしょ? それなのに、どうして、今もこれが送られてるのよ」
 箱を両手で持ち上げるとショウキは勢いをつけて床に叩き落とした。
 木が割れて中に入れていた干し肉や野菜が散乱する。それらを踏み躙り涙で潤んだ瞳に激しい憎悪を宿し蔑視してきた。
 「ルダが死んだのはあんたの所為でしょ―――!」
 必死の叫びを受けユサは静かに瞼を閉ざした。これ以上なにを言っても無駄だとわかっている。興奮したショウキはなにをしでかすかわからない。自分を突き飛ばして家を出ていくまで、ユサはずっと目を瞑っておこうと決めた。
 「なんとか言いなさいよ! 私に謝りなさいって! あんたの所為で私が不幸になったんでしょ!」
 じっと唇を噛んだまま首を横に振る。
 「馬鹿! 二人が死んだのもあんたは自分の所為だって言ったくせに!」
 涙を流して罵倒するショウキの姿を瞼の裏に描きながら、ユサはただずっと首を振り続けた。
 
 
 「ルダスタルジャって人と付き合っていたんだけど、ユサが二人の仲を裂いたって言っていたんだ」
 端に積まれた雪を夕焼けの橙色が染める道を歩きながら、イチタは淡々とした口調で語り出した。
 「その結果ルダスタルジャは自殺して、ショウキは彼女を憎んでいる的なことを言ってたんだけど結構矛盾しているところもあるし…半分くらいは違うんじゃないかなぁって思う」
 肩を並べて歩くアタカを見やり
「一緒にいる間になにか聞いた?」
と尋ねた。
 「……ショウキが片想いをしていたって。でもルダは妹としてしか見てくれなくて、あいつが一方的に想ってたって感じのこと言ってた。でも…ルダが死んだのは自分の所為だって」
 「ふぅん…」
頭の後ろで腕を組み茜色の空を見上げ嘆息する。
「じゃあどういう事情なのかはわからないけど、ルダの自殺にユサが関わっていたってことになるのかなぁ」
 「だけど」
イチタの横顔の輪郭が光に縁取られるのを眺め言葉を繕う。
 「だけどあいつが直接手を下したとか…そんな訳ないと思うぜ。絶対そんな度胸もないって」
 「確かに直接…ってことはないと思うけど、ぼくらが知ってるユサと当時のユサって違ったかもしれないでしょ」
 「そうだけど……」
言い淀みながら言葉を選び黙り込む。
 「でも、あいつがそんなひどいことするような奴には見えない」
 アタカの言葉にイチタはただ沈黙した。その表情から肯定であることはわかったが、彼から返事を紡ぐことはしなかった。
 「もしも俺たちが喧嘩したら」
 村に立つ櫓が確認できる程近づいてからアタカから口火を切った。
 「絶対マキヒとか…ウリとかが、俺たちを仲直りさせようとすると思う」
 「だろうねぇ」
ほっと嘆息を吐き笑いかけると
 「余計なお世話かもしれないけど、ぼくとショウキが親しくなっていけば必然的にユサとも顔を合わせる機会が多くなるよねぇ」
 「うん」
勢い込んで頷く。
嬉しそうに相好を崩すアタカを一瞥し、イチタはそっとアタカの手を握り締めた。
 「アータカ。別に悩むことはないけど、きっとぼくらは喧嘩したりしないよ」
 「最後には俺が折れるもん」
 「ぼくの可愛さを前にするとみんなそうなっちゃうんだよね」
肩を竦めてフフフッと笑うイチタ。
 つられてアタカも吹き出した。
笑い出すイチタを追ってアタカも走り出す。二人分の影法師と追い駆けっこを繰り返しながら、丘の上で二人を待つマキヒの元へ全力で疾走していった。
 
 
 まだ頭の一部が覚醒しきれず、欠伸を噛み殺していたカミヨの前に差し出された文を一瞥し机の前に立つモロトミを見上げた。今日は早朝から確認するべき事柄が多く、朝食もこの部屋でとった。なにより現時点で安全が確認されているのはこの部屋以外にない。
フサノリの付き人でヤヌギ族の一人であるカマスが前夜から室内を点検したとは言え、出される食事はすべて毒が混入されており目の前で何度も毒見役が死んでいく。血や嘔吐を床に撒き散らす死体を見ては食欲もなくなっていく。それに伴って仕事の量は増えてゆき、カミヨは周囲の目を気にして虚勢を張ってはってはいるものの肉体的にも精神的にも大きな打撃を受けていた。
 「オボマ国からの返事か」
 思ったより早く帰ってきたなと思いながら呟く。
 「はい」
眼鏡のずれを直しながら頷く。そして口端を上げると
「ご存じかもしれませぬが、先日即位されたチトノアキフトノミコトに関する不審な噂を耳にしました」
 文を紐解き紙面を広げながら相槌を打ち促す。素知らぬふりをしているも、彼女の名前が出た途端カミヨの心は平静を失っていた。場違いにもときめいてしまう自身に叱咤しできるだけ普段の表情を装う。
 「ツクヨミ王に即位されてから各属国や支配国に手を回し、秘薬を捜していると聞きました。そして…不老不死の謎を手に入れたと」
 ついに臣下たちの間にもその噂が蔓延し始めたかと密かに嘆息する。
手紙から顔を上げモロトミを捉えると
「他国に目立った動きがあるのか?」
 「現在のところはオボマ国に注意が必要かと思われます」
 「南国の動きは?」
 紙面に連ねられた言葉を反芻しながら問う。するとモロトミはやや声をひそめて
 「未確認情報ではありますが、スサノオ王が極秘にナラヴァスⅡ世と対談に及んだと聞きます」
 「そうか…」
頷いてから文を元へ戻すカミヨ。すべて預言の通りに進行しているのだと納得した。
 無言のままモロトミもオボマ国からの返事に興味を示した。それに応える形で彼の顔を正面から見上げ
「我ら四国との和平は結ぶことになった。しかしいくつか条件を出してきている。領地の確保やこれまでよりも交易の内容を充実させる等言い出しているが……予言によるとオボマは必ず我らを裏切る」
 モロトミは喉を鳴らし唾を飲み込んだ。それから落ち着きを取り戻そうと眼鏡に手をやると
 「では全面戦争は免れないと…?」
 「いや。滅びるのは」
と言いかけてから言葉を選ぶように黙り込んだ。しばらく沈黙した後にふっと微笑を洩らすと机の下で足を組み換え、椅子に深く腰をかけ
 「あれだけヤヌギ族の予言を否定していたお前も、さすがに認めざるを得ないようになったのか」
 「偶然の確率で的中するとは思えません。確かに彼らの予言は王が耳を貸すに足るだけの、信憑性を持っております。しかし、それが彼らを信じるかどうかの判断材料にはなりません」
 「変わらず頭が固いな。クラなどもう態度を変えているじゃないか」
 以前は彼と同様にヤヌギ族たちを非難する側に回っていたクラミチだったが、次第に予言を認めるようになり他の臣下たちと同じく、今や政治になくてはならなくなった彼らを擁護する動きさえ見せ始めている。
 眼鏡を直してから嘆息し、諦めと卑屈な笑みを混ぜた眼差しをカミヨへ向けてきた。
 「単細胞に見えてクラミチは常に王のことを考えております。ヤヌギ族を前面に信頼している訳ではないが、彼らを認めなければ王の立場をも非難することへつながりかねないと」
 彼の言葉を継ぎ頷く。
「あいつなりに考えていると言いたいんだろ? それくらいわかってる。クラミチらしい……優しさだ」
 思わずこぼれたカミヨの本音に、モロトミは一瞬虚を衝かれたような表情を浮かべた。そしてゆっくりと柔和な笑みをたたえ微笑む。
 久しぶりに彼に見せる本当の笑顔だった。
「……」
カミヨはひとときだが王位へ就く前の彼らに戻ったのではないかと錯覚した。
幼い頃から大人びた見解を持つモロトミはいつも四人のまとめ役だった。やんちゃなクラミチとカミヨは彼を困らせ、時にジュアンを泣かせては遊んでいた。モロトミはあまり感情を表に出さない人柄だったが、どんな小さなことでも悩みがあればすべて聞いてくれた。そしてあらゆる知識を活用して、その場にふさわしい助言を与えてくれた人だった。
時と共に成長を遂げ身長が伸び天へ近づいた分、頭上で飛び交っていた大人たちの虚言の悲しさを知った。しかし同じ層の空気を吸い続けるにつれ彼らもまた、先人たちに倣うことを覚えた。
『身分』などと言った単語一つで別れることのできる仲だとは思わなかった。かつては自分たちにできないことなどない。生まれた場所こそ違えども死する時は一緒と誓った間柄だったのにと懐かしむ。
沈黙するモロトミの顔を見て彼も同じように回顧をしているのだと察した。
「……優しさが邪魔をして、あいつは、クラは軍人に向かないと言っていたな」
「そんなこともありました」
苦笑をしながら相槌を打つ。
「お前は外交官になって世界中を見て回りたいと言いジュアンは、あいつも意外とちゃっかりして、いずれ大金持ちへ嫁ぎ玉の輿へ乗ると吹聴して…」
悲しい響きを伴って語尾は手元へ落ちていく。黙り込み再び重たい空気が流れるのみ。むかし彼らが描いた夢はすべて叶ったと言うのに、残酷な現実の前に喜びは泡沫の余韻も残さず消えていく。
「クラが賞品にジュアンからキスをもらえると言い出して、わたしたち三人で勝負をしたことがあったな。それを知ったジュアンがモロを殴り気絶させて、なかなか目を醒まさないから心配したものだ」
必死に記憶を手繰り寄せ、当時の思い出に浸ろうとカミヨは言葉を紡いだ。既にモロトミの瞳から、過去を懐かしむ色など消え失せていると気づきながら、それでも共有する過去を話題にして広げることで、失われてしまったものを取り戻せるのではと無理を知りながら願った。
一方的に喋ってからカミヨは閉口した。口に出せる限りを語り尽くし、一人で話し続ける限界に気づいたのだ。
「ハァ………」
小さく長い溜息を洩らし机の上で組んでいた指を開く。いつの間にか掌は薄らと汗ばんでいた。
モロトミは仕事へ戻りたそうな素振りを見せていたがカミヨが溜息を吐いたので、もうしばしここへとどまる決意をしたようだ。
「無理やり、付き合わせて悪かったな」
彼の心中を察し自嘲気味に呟いてから、ふっと肩を落とす。
「お前の部屋の前を通るとよくクラの声が聞こえる…」
 
 
 モロトミは目の前で項垂れるカミヨを見て内心、激しく動揺していた。これまで幼い頃の仲など忘れ、王と臣下として接してきた二人だっただけにカミヨから唐突にむかし話を始めること自体訝しい。
 オボマ国からの返事を届け、以前より注目を集めている西国について詳しく話し合うつもりできたのだが、既にその件についてカミヨは教皇フサノリより予言をもらい指針を見出しているようだ。ならば用件はすべて済ませたつもりだったのだが、真摯な眼差しを向けてくるカミヨから目を逸らせられず直立したまま耳を傾けた。
 「モロトミ。わたしは、王である前に一人の人間だ」
いつの間にか足元のあたりを彷徨っていた視線が一気にカミへ引き寄せられる。心を読まれたかと思い、心臓が早鐘を打つのがわかった。
 「見捨てるべき国があり、身捨てるべき王がいる。だけどこんな気持ちは初めてだ…」
 思わず我が耳を疑う。これが王の言う言葉だろうかと、自問した。それこそ今更どんな言葉で繕っても戻ることもできないところまで、彼らは自分で決めた道を歩んできたのだから。
 「どうしたらいいのかわからない…」
続いて飛び出すだろう言葉を推察し、あらゆる感情に揉まれ理性を一瞬失った。まさかあの宴で出会ったチトノアキフトにでも想いを寄せているとでも言うのだろうか。彼を王とする為に犠牲を払ってきたはずが、恋慕の情に負けて志を半ばに挫けていいはずがない。
しかしカミヨは彼の予想通りに紡いだ。
「彼女は滅びる運命にあるのにわたしは…わたしは、ツクヨミ王を―――」
「イザナム王!」
 気がつけばカミヨの言葉に被せるよう叫んでいた。何故この時、彼の名前でもなく王の名を口にしたのか、咄嗟に自分でも意図することがわからなかった。
 怯えるようにモロトミを見上げるカミヨ。即位するまで四つ年下の彼はよくこんな表情をして、彼らの後をついて回っていた。構って欲しい、遊んで欲しいと甲高い声で叫びながら。
 「……失礼を致しました」
 冷静さを取り戻し謝罪する。深く頭を下げながらモロトミはあの時と同じことを思った。
 ―――王は決して、万能の神ではないのだと。
 (わかりきったことだ…。一人の人間に理想ばかりを求めても叶うはずがない)
 静かに深呼吸を繰り返してから再びカミヨを見やる。
 「相手がツクヨミ王である以上、これは外交問題になります。現在の状況を見ても迂闊に西国に手を出すのは賢明な判断とは言えますまい」
 上辺だけで感情のこもらない語彙を操りながら虚しさを覚える。こんなこと、伝えるまでもなく知っている。わかりきった愚問だ。そもそも王である者に自由な恋愛など許される訳がないのだから。
 「アマテル王の……シグノがいい例だな」
 口を歪め卑屈に漏らすと、カミヨはもうわかったとばかりに手を振って彼を追い立てた。
 「…フサノリを呼べ」
 扉を開けるモロトミの背中に向って絞り出した声で、そう命じるとカミヨは両手で顔を覆い沈黙した。
 その姿を見てかつての幼馴染に、あの頃と同じように己の知識だけを苗床にした一方的な助言を気楽に呈することも叶わないと自信に言い聞かせながらモロトミは扉を閉めた。
結局は孤独な王が最終的に縋ることのできる相手は、未来を見据える教皇フサノリの他にいないのだと卑屈に思いながら。
 
 
 雪が降り続ける窓の外を苦々しげに睨み、暖炉の前で寝そべっていたアタカは目の前に広げていた本を閉ざした。隣でイチタが近日中に配る約束をしている手紙を村ごとに分別している。
 二人と共に暖炉にあたっていたマキヒは、それとなくアタカの様子に気づいたのだろう。繕い物をしていた手を休め彼に話しかけた。
 「どうしたんだい? さっきから落ち着かないね」
 「退屈してるんだよぉ。あれからずっと雪が続いてどこにもいけないからさぁ」
外出できない間にたまった手紙の束を見てイチタも嘆息を漏らす。
「だけどそろそろ配らないと間に合わないなぁ」
 「…ウリがどうなったのか気になるだろ」
 「ウリ坊ちゃんがどうかしたの?」
 「母さんがいつだったか言ってたことが的中したんだよ。ウリが王様の元へ呼ばれて、いつか即位することになるって断言されたんだってぇ」
 光を宿さないイチタと同じ青い瞳が一瞬涙で潤んだように見えた。
「……そぅだったのかい」
 ぽつりと呟くと、深々と溜息を吐いた。
 「マキヒも知ってたんだ?」
 「いいや…それとなく、感じてはいたけどねぇ。だけどイチタもアタカも、そのことを他に口外するんじゃないよ。きっとまだ極秘だろうから」
 「わかってるって」
口を尖らせて答える。
「それよりさ、ウリの両親とクラと王様が幼馴染だったって本当?」
 「さぁ…」
頬に手を当てて首を傾げる。
 「私もむかしからこの国に住んでいた訳じゃないから。だけどそんなことは聞いたことあるよ。よく城内で隠れて遊んだりしたってね」
 「じゃあそれでウリのお母さんって前の王様に見染められたんだねぇ」
 まるで彼女の身の上を羨ましがるようなイチタの口調に、マキヒは眉を寄せたが諫言は挟まなかった。
 「マキヒはクラともウリの母ちゃんとも仲いいだろ? ウリが本当に王様の子どもなのかわからないの?」
 「……ウリ坊ちゃんはジュアン様とモロトミ様のお子だよ」
 「でもそんな訳ないから」
と紡ぎかけてアタカは思わず黙り込んだ。
 マキヒは声を頼りにアタカの方をただ無言で見詰めていた。それから首を振って手元へ視線を戻し、俯いた口からぽつりと
「聞ける訳がないだろ…」
と漏らした。
「アタカ、イチタ。あんたたちは誰がなんと言おうとも私の子どもなんだよ。血のつながりがすべてじゃないんだ」
 二人を交互に見るとイチタから先に口火を切った。
 「も~わかりきったこと言って。意外と耄碌?」
 単に照れているのだとアタカもマキヒも了解した。ふふっと同時に吹き出すと、イチタは赤く染めた頬を膨らませて立ち上がった。
 「もぅ、家の前の雪搔きしてこようっと」
 「よしっ俺も手伝う」
 「駄賃は出ないよ」
 「誰もイチタに期待してないって」
 彼なりの照れ隠しに笑い出したいのを堪えながら、アタカはマキヒの見守る暖炉から離れ外へ出ていった。
 
 
 少しだけ開いていた扉を引き、奥の椅子に座っている母の後ろ姿を認めるとウリは小さな声で呼びかけた。
 「お母様…」
 返事はない。むしろ彼の声にも気づいた様子もなかった。
 ジュアンは背中を見せたままぴくりとも動かず、自室の机に膝をつき窓の外で降る雪を眺めている。
この数日の間、ずっとあぁして夫モロトミの帰りを待っていた。あの玄関先の別れ以来、ジュアンは着替えを持って城へ向かうこともしなくなった。ただ気がつけば溜息を洩らして窓の外を見詰める毎日。
扉にかけていたウリの指に力がこもる。幼馴染だった二人の心がこれ程まで擦れ違ってしまった原因を考えると、胸が打ちつけられるように苦しくなった。
「……」
お母様、そう呼びかけて言葉を飲む。
代わりに寂しげな後ろ姿に向って心の中で語りかけた。
果たして自分は、本当に生まれても…よかったのでしょうか? と。
答えの聞けない質問は深く彼の心の奥底まで突き刺さり、それまで自らを支えてきたわずかな希望を打ち砕いていった。
 
 
 小降りになっていたが連日続いた所為で雪は一メートル近く積もっていた。村人が交替で雪掻きをして道を確保している為、外出にはさほど困らなかったが寒さと雪道の危険が人々を外へ出ることへ億劫にさせた。
 久しぶりに雪の冷たさに触れたアタカは大きく伸びをした。
 雪掻き用の鍬を持ってきたイチタも周囲の雪の量を眺め
「このくらいならすぐ終わっちゃうね。その後手紙を届けにいこうか」
 「なぁ、いつも俺たちがウリの家にいくから今度は逆にウリを連れてこようか?」
 「いいね。母さんも喜ぶと思うけど……」
 「けど?」
問いかけながら早速雪を掻き分け始めるイチタの後ろ姿を見る。
 「シーウェスって人がアタカと関係のある人だったら、それってアタカ自身もヤヌギ族に関わりがあることになるのかな。それとも、シーウェスって言うのは…ヤヌギ族が捜しているアマテル王の妹の子かもしれないのかなぁって……思った」
 「そんな訳ないだろ。第一、えーと…シグノって奴だっけ? シグノの産んだ子どもは女だって」
 「女だって言い張っているのはショウキだけ。実際はどうなのかもわからないでしょ」
 二の句まで否定されて言葉に詰まる。同時にイチタの気持ちは痛いほどよくわかるだけに、まるで見えない手で首を絞められているような感覚を覚えた。
 「アタカにだって本当の両親がいるかもしれないよね。もし…身元がはっきりしたら、どうするつもりなの?」
 「でも、イチタだって…もしかしたらマキヒの子どもじゃないかもしれないって。それにあいつらも俺だけじゃなくてイチタの顔も観察してたし…」
しどろもどろになりながら必死に反抗する。今ここで認めてしまっては、本心では自分も思っていたことを真っ向から否定できるだけの材料を失ってしまう。
 「それに俺……」
一端口を閉ざして耳を澄ませる。気の所為か遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえてきた。
 再び言葉を紡ごうと口を開けるも、今度はもっとはっきり彼の声が響いた。
 「おーい…アータカー! イッチター」
 久しぶりに聞くクラミチの声にアタカだけではなくイチタも振り返った。
 
 
 大聖堂の資料室にこもっていたナムは、突然ノックもなく扉が開いたので眉間に深い皺を寄せて訪問者を睨んだ。
 テーブルの上は分厚い本で山積みにされ視界が遮られているけれど、長身なのでカヒコの明るい橙色の髪は本の向こうから確認できた。
 「ナッム。昼飯持ってきてやったよ」
 語尾を上げながらカヒコは、テーブルの上を完全に占拠していた本を一気に床に叩き落とすと嬉しそうにナムに笑いかけた。
 「だあぁぁぁ! 馬鹿! なにやってんの!」
予想通りの行動に金切り声を上げながら、慌てて床下に散らばる本を掻き集めた。
 「馬鹿とはなんだよっ。どーせどれも数年先までしか残らないんだしいーじゃん」
 「だから高価なんだっていくら言ったらわかんの! 今の時代しかない貴重な資料なのっ。また同じこと繰り返したら、今度こそフサノリ様に言いつけて出入り禁止にするかんね!」
 「えーそれはないてっ! そうしたら誰がハザンとナムに昼飯届けるんだよ!」
 「うっさいなぁ」
傷んでしまった本の表紙を撫ぜながら椅子に座り、重箱を広げるカヒコを睨みつける。
 「いっちゃあ悪いけどね、あんたがどうして一人で任務につけにないかって言うとその適当さと馬鹿さが不安なの。私だって十七って頃にはもう立派に研究員の一員だったわ」
 「ハハハハハハハハ~本当にねぇ。ぼくは十歳から研究に携わっていたけど」
 扉を開ける音もしなかったのにいつの間にか、地下にいるはずのハザンがカヒコの傍らに立っていた。
 「わっ! び、びっくりした!」
椅子からお尻を五センチほど飛び跳ねて驚くカヒコの横で重箱を覗き込み
 「アハハハ…やっぱり~カヒコってば一途な子だね~」
 「な、なんだよ! これは俺とナムの分だからな!」 
 「なんの話? たっく…ハザンまで出てきたら余計進まなくなるじゃない……」
 床に落ちていた本を集め隅に移動すると、顔にかかっていた前髪をよけて二人の間に割って入った。
 おそらくカヒコが詰めてきたであろう重箱には卵焼き、唐揚げ、梅干し入りのおにぎりとレバニラ炒め等、彼女の大好物で埋め尽くされていた。
 「わぁ! これおいしそう♪」
 語尾に音符をつけて跳ね上げると早速箸を手に取り弁当を食べ始めた。
 「アハハハ~いじらしいね~。全部ナムの為にカヒコがつくってあげたんだね~」
 「ばっそ、そんな訳ないだろ! 最近腹が出てるからカロールコントロールを兼ねて」
 「カロリーコントロール」
おにぎりを頬張りながら訂正する。
 「本当~? じゃあぼ~くも~」
ちゃっかり椅子に座りおかずに手を伸ばすハザン。
 二人で一緒に食べるつもりでいたカヒコは完全に目論見が外れたので悔しげに箸を噛んだ。
 「あれ、ハザンは食べたんじゃないの?」
 「アハハハハ~意外と体力を使うからね~たくさん食べないともたないんだよ~」
 「ふぅん。細い割によく食べるよね。それよか開発はどう? 進んでる?」
 「う~ん~。まぁ張り子の虎でもいいってことらしいしね~。戦争までには間に合うと思うよ~」
 「それよりさ、ナム! シーウェスのこと、ちゃんと聞いてくれよ」
 ドンッとテーブルを叩き発言する。この手の話題になるといつもナムに適当に聞き流されてきていたのだ。
 「絶対にあいつはシーウェスだ! いくら雰囲気とか変わったって言ってもあいつを見間違えるはずない」
 「間違えるはずないって…あんた、シーウェスを嫌ってたじゃん。ねぇハザン?」
 「アハハハハ…ある種の嫉妬だと思うけどね~」
 「嫉妬?」
訝しみ同じ単語を繰り返す。
「なーんであんたが嫉妬するかな。そんな対象になる方がどうかしてるし」
 「違うっ! 別に俺はあいつに…ってそんなことはどうでもいいんだって。要は、あのガキは絶対にシーウェスだって! ずっと行方不明になっていたけど、生きてたんだって」
 「でもなぁ……いまいち決定力に欠けるんだよね。フサノリ様も忙しいしあんま適当なことは言いたくないからさ。第一これからだよ。重大な事件が起こるのって」
 「わかってるけど…でも、もしあいつがシーウェスだったら……」
 「まぁ気持ちはわかるけど」
海老の天ぷらを摘まみながら黙々と食すハザンを見やる。二人の会話を聞いていたはずだがこれと言った反応はない。彼の意見を聞いてみたいと思ったが沈黙する彼から開口する様子もなかった。
 「やっと『流れ』ができたんだから。これをつくる為にどれだけ犠牲を出したかも、あんただって…」
 「……王様に世継ぎができない体だって嘘を吐いたりとかな」
 「カヒコ!」
 しかし諫言を無視してカヒコは不貞腐れた調子で続けた。
 「はっきり言ってやればいいんだよ。世継ぎができないんじゃなくて、できる前に王様は亡くなる。そんでもって今は命を狙われてるけど東国のアマテル王だって―――」
 「それ以上言うなら、相当のリスクを覚悟しているってことだ」
 箸を置き、ハザンは静かに言い放った。いつもの糸で書いたような細い眼には真剣さが宿り、決して彼が冗談で口にした言葉ではないとわかった。
 圧倒的な雰囲気に気圧され黙り込むカヒコとナムを一瞥し、ふっと顔を緩めると
「アハハハハハハハハハハハハハハ~な~んてねぇ」
一瞬にして硬化していた場の空気を茶化した。
 改めて気を取り直しふっと溜息を吐くと
 「ハザンの言うことも一理あるけど、そんだけカヒコがしつこく言うなら一端接触してみるわよ。だけどね、今はシーウェスのことよりも大切な時期なの。このチャンスを逃したら私たちがこの国へやってきた意味もなくなるぐらい」
 「わかってるって。俺だって…いつか、ちゃんと故郷に戻りたいし」
 「お~やおや。戻ってプロポーズでもするつもり~かな~?」
 「ち、違う! 誰がこんなザルに…!」
 「あんたね…いっくらおいしいおにぎりがあるからって、それ以上馬鹿にするんならそれこそ、覚悟してもらうよ」
肩を怒らせ拳を鳴らすナムを見てカヒコの顔から血の気が引いた。
「だいたい、気になるならねっターゲットについて調べてみるとか動きなさいよ! マキヒって女性についてまだデーターもないんだし、とっとと重いケツ上げていけっつーの」
「マ~キ~ヒ~かぁ」
デザートのさくらんぼをくわえながら、ハザンがあいかわらずの態度で合いの手を入れた。
「彼女について調べると結構面白いかもね~」
「どういうこと?」
「んふふふふふふふふふ…カマスが最近まで東にスパイにいってたでしょ~? そこで得た情報の中にマキヒによ~く似た容姿の侍女がね~、投獄されたシグノに仕えていたってお話があったんだよ~」
「……どういうこと? フサノリ様はなんて言っているの?」
「ま~だ誰にも指示を出していていないってことは~……事実を確認し忘れてる可能性が高いかもね~教皇もお疲れだし~ハハハハハ」
「お疲れって…俺よりも頭いいのに、そんなことあり?」
「あんたと比べたら全人類、頭いいわ」
素早く突っ込み身を乗り出してハザンの顔を覗き込んだ。
「もしかして、意外にもカロル指導者が有能ってこと?」
「でも今はカマスが二重スパイして情報を引き出してるんだろ。なら安心じゃん」
「それがね~…あ~んし~んって訳じゃないんだよね~。ちょっと王様がね~精神的に脆くなり始めてるみたいでね~王様につきっきりで、部屋に仕掛けれられている爆弾とかの除去はぜんぶカマスがやってるみたいだけど~なんせねぇ。彼女ってしつこいらしくてハハハハハ」
「笑ってられる内容じゃないと思うけど。まぁ、つまりカマスが取ってもすぐにまたカロル指導者がつけてくるからイタチごっこみたいになってるって訳だ。意外とこうなったら彼女の死期も早められるかもよ」
 「でもカロル指導者以外のスペイっているんだろ。そいつらを先にって聞いてたけどどうなんの?」
 「正しくはスパイね。さぁ、とにかく今、私に与えられている任務はここにある重要な資料をコピーして保存しなきゃいけないんだから。食べ終わったらさっさと出てってよ」
 重箱をテーブルからどかせナムは足元に積んでおいた本を開けた。そして栞を挟んでいたページを広げると半透明な薄い布のようなものを取り出した。
 「それもエディック博士の発明品だろ」
 重箱を片づけながらカヒコが自慢げに注釈する。
 「そうよ。ほんっとこれって重宝するわ」
 鷹揚に頷きながら布の端を持って皺を伸ばすと、そのまま本の上に重ねて隅にあるボタンを押した。すると半透明だった布の上に本に刻まれていた文章が鈍く発光し浮き上がると、そのまま水に溶けるようにして消えていった。
 「こうやってけば直に本を持っていかなくても何億って文章を記憶できるんだもん」
 にやにやと笑いながら横目でカヒコを捉え
 「貴重な資料なんだから、汚すんじゃないわよっ」
 と注意した。
 
 
 人気のない城内を素早く駆けていく人影があった。廊下を渡り、辺りに誰もいないことを確認してから音も立てずに部屋へ忍び込む。長年城に仕える侍女の一人になりすましたカロルだったが、連日仕掛けているカミヨ暗殺はことごとく失敗に終わっている。幼い頃からロギヌシ教会からあらゆる技術を教育され、国内では随一の腕を誇る暗殺者でもある彼女の失態の連続は持前の自尊心をズタズタに傷つけていた。
伝書鳩を使って母国のアマテル王と連絡をとってはいるものの、敬愛する王からの返事は回を重ねるごとに辛辣なものとなっていった。それがより彼女を焦らせた。
 先日届いた手紙には別に行動をしているスパイから、早くも教皇フサノリが持つ未来を占う際に使われる四書の写本が届いたことが触れられ対する彼女の行動を戒めていた。
 「どうしてっ」
 カミヨの寝室に侵入したカロルは甲高い声を出して呻いた。
 「どうしてどうしてどうして! いつもヤヌギ族は私の仕掛ける毒を見破るのですっ。こんなにアマテル王は私を信頼して下さり、私もわた、私、私も王を敬愛…愛……愛しているのにいぃ!」
 地団太踏みながらカミヨの天蓋付きベッドへ歩み寄る。昨日は枕と寝巻に毒入り針を仕込んだのだが、またもやヤヌギ族阻止されてしまった。針に少しでも触れたなら先端に塗った毒が皮膚から浸透し、意識を破壊し一生動けない体にするだけの威力があった。その他にも毒以外の暗殺をいくつか試みたものの、どれをやっても直前でヤヌギ族に邪魔をさせられてしまう。
 「ひどいわ。ひどい、ひどひどひどい。あんな…無骨な男よりも私の方が王を愛、愛…そうよ、愛しているのにぃ」
 カマスを同国のスパイだと思い込むカロルは腹立だしげに歯軋りを鳴らすと、今度こそはと部屋に毒を仕掛け始めた。
 扉を開けた途端に死角から刃物が首をめがけて飛んでくるように、カミヨの身長と位置を計算して斧を仕掛け、ベッドの下に火薬を敷き詰め時間が経過すると燭台の蝋燭を利用して点火し爆発するようにし、寝巻きには一定の温度にさらされると毒ガスを放出させる液を染み込ませた。これで寝ている間に上昇した体温によって発生したガスを吸い、寝たまま殺すことができる。
 思いつく限りの暗殺方法を施した後にほっと溜息を洩らす。母国では教会が市民の生活を完全に監視している為、王に謀反をなす者や嫌疑のかかった者を対象にした暗殺行為は日常茶飯事に行われている。
 唯一仕掛けのない椅子に腰を下ろすと、ここ数日間抱いていた疑問を改めて反芻した。
 先日訪れた外交官長フサノリの子どもが極秘に一国の王であるカミヨと面談を行った。侍女に化けて侵入していたカロルは、ウリを王の私室まで案内する役を与えられ彼の様子を仔細に観察できたが妙にひっかかるものを感じていた。
 単に女の直感と一言で済ましてしまうにはことが大きすぎる。だからと言って、確信を持てた訳ではない。できることなら別行動を決め込んでいるカマスに相談をしてみたかったが、彼女から彼に接近する機会がなかった。同じ城内で顔を合わせても相手はヤヌギ族の一員として教皇の後についている。
 なにより国王暗殺という彼よりも重大な任務を背負っているのに、今だにそれを果たせていない。国内最大の暗殺者と自負しているだけに悔しさは計り知れない。
 「くやぁ…悔しいくやくやくやくやあぁぁぁ…しいぃ! どうしてあんな男に負けなければいけないのです! 私は、私こそアマテ……あぁ、イズサハル様…にふさわしい存在なのに……いぃぃ! 悔しいぃ!」
 裾がちぎれるぐらい歯で引っ張ってからふと我に返る。
 「もしかして気の所為では…ない?」
自問自答してから再び声に出してみる。
「だっておかしいわ。前イザナム王が崩御してからちょうど十三年。その王の最期を見届けたとされる最後の側室は……噂によると死を免れ生きていると。もし、もしもその側室がどこかで生きていたとしたら、その子どもは十三歳」
 音に出すことでより疑惑の輪郭がはっきりあらわれた。対談の間、壁越しに盗聴していたものの聞き取れた台詞は片鱗ばかり。しかしその中でも特に彼女の関心をひいたのは王の一言だった。
 「『運命から逃れられると思うな』……ね」
 この言葉に秘められた、王の真意を想像し深々と溜息を吐く。
 「敬愛するイズサハル様はイザナム王が死ねば、国の支配形態が完全に麻痺するだろうと思っていらっしゃった。でもこれだけ私が失敗を繰り返すのも、ヤヌギ族の予言があるから。……そうよっ! きっと王はそれを確かめる為に私に命じられ、命じ、めい…命じられたんだわっ。ほっほっほ……王の真意がわかった以上、私、わた、わたし、私もしっかりしなければ!」
 「その件については既に報告した」
 背後から響く落ち着いた声を聞いた途端、カロルは椅子から飛び上がった。
 「なっななんあななな…! なんですか! あなたは!」
 振り返り窓際に佇む、顔面に大小様々な切り傷を残す無骨な面立ちのカマスを睨みつける。驚いた拍子に乱れてしまった髪を撫でつけ、威厳を取り戻そうと吃りながら叫ぶ。
 「だいたいそ、そこには爆破物が仕掛けているのです! そ、そそそそ即刻離れなさい」
 窓枠にはめられている爆弾を一瞥し無言で命令に従う。
 腕を組んだまま憮然とカロルを見詰めると
 「既にアマテル王には、我らのスパイ行動もヤヌギ族には筒抜けであると報告をしている」
 「あーあなたって人は! 王の意図をすることも考えずげ、げげ下賤だわ! 王は私による的確な情報を欲していらっしゃったと言うのにいぃ」
 再び悔しげに地団太を踏むカロル。
「だいたい、だいだいだいだいたいたいなんなんですかっ。あの王を狙うよりもヤヌギ族を抹殺した方が早いです。それにあののの子どもは何者かあなたは知っているんでしょうね!」
 「前王の最後の子どもである可能性がある。これも既にアマテル王に報告をし、詳しく調べている最中だ」
 「王族…?」
顔をひきつらせて問う。同時に自分の勘が的を射ていたのだと確信した。
 「イザナム王は生まれながらに子どもをつくれない体だ。つまりあの子どもが王位継承者になる可能性がある」
 「な、なんですって! それじゃあイズサハル様は、私にカミヨの暗殺を命じそしてあなたにはもっと重要なことを、わた、わた、わたわたし私に内緒で調べていたと言うんですか!」
 「…重要度の問題はない。任務の変更が言い渡された訳でもない。俺はヤヌギ族について調べ、その必要上から子どもの出生を調べることになった」
 それらしい意見に僻みつつも頷く。それから逡巡してから言葉を紡いだ。
 「この国は最早ヤヌギ族の予言なしに生きていけないのですか? 我が国の支配下に置く為にも王を暗殺し武力行使に実行することが一番と言われていました。それも北が新兵器開発に夢中になっているこの冬の間に王が倒れれば…」
 「偉大なるアマテル王の見解に違いはない。ただ、それはヤヌギ族がこの国に存在しなければ…の話である」
反論しようとするカロルを制し更に続けた。
 「妹君のシグノ様が投獄され二人の御子が処分されたことは知っているな?」
 「あ、あた、当たり前です! 男女の双子の御子ですよっ」
キンキン声で言い返す。
 「子どもは生きている。ヤヌギ族はその子どもを見つけ、監視下に置いている」
 「ど、どっどどいどういうことですか! つまり、それは……偉大なる王家の血筋が、でも、シグノ様は反逆者として…いえ。でも、それでもあ、あああぁぁ愛するイズサハル様と同じ血を継いでいらっしゃるのに…それが、それ、それそそそそれがっ! カミヨの手中に収められているということですか……!」
 「その通りだ」
 どこまでも態度を崩さないカマスがゆっくりと首を上下に動かすのを見届けて、カロルは痩せ細った頬に手を当てると掠れた悲鳴を上げながらその場に崩れ落ちた。
 「なーんてことでしょう! これは、こ、ここここ国家の危機であるのですよ…!」
大粒の汗と涙をこぼし、小枝のような指で頭を掻き毟ると
「あぁぁ…どう、どうイズサハル様にお伝えすれば…」
と喚いた。
 形振り構わず取り乱すカロルをしばらく冷静に観察して、ヒステリーの度合いが収まってから歩み寄りカマスはそっと腰を屈めた。背の高い彼女の耳元にはちょっと顔を寄せれば十分だった。
 「ただしシグノ様の御子を保護していることを、まだカミヨは知らずにいる」
 「待ちなさい! それは……どういうことですかっ。ヤヌギ族は何者かが王の命を狙っていると知っているはず。これだけ私が、このっこのこの、私の暗殺を阻止して、きっと東国のスパイだと気づいているかもしれないのでしょう! それなのに、シグノ様の御子の存在をまだカミヨに告げていないと? 彼らの狙いは一体なんなのですかっ」
 カマスの胸のあたりを指差し大きな瞳を更に飛び出させて問うた。
 その顔から蜻蛉を連想しながら、ふっと口元を綻ばせるとカマスはいつもの穏やかな調子で開口した。
 「教皇フサノリの狙いは…偉大なるアマテル王との取引だ」
 
 
突然の恋人の訪問にマキヒは喜ぶより訝しんだ。出迎えたまま玄関先に立たせ彼を尋問し始めたのでアタカもイチタも、入口をクラミチに塞がれ中へ入れなくなってしまった。
 「どうしたのよ。宴が終わってもしばらく忙しいって言ってた人が…! さてはなにか問題でも起こしたんじゃないの?」
 「おいおい…そんな決めつけるなよな。ちょっと休みを取れたから遊びにきただけだろ」
 「どうも怪しいわねぇ。なにか後ろめたいことでもあるんじゃない?」
 「ちょ、それはどういう意味だって。俺はマキヒ……その…」
背後に控えるアタカたちを気にする素振りを見せたが盲目のマキヒにはその様子は見えない。不自然に言い淀む恋人に詰め寄り
「俺は? なぁによっ」
と睨みつけた。
「だ~からぁ…くうぅ」
もはや背水の陣と覚悟を決めたのか、大きく息を吸い込むと
「俺はマキヒ一筋だあぁぁ!」
と叫んだ。
 「……まぁ」
 頬を赤らめるマキヒをクラミチの後ろから眺め、イチタは突っ立っている彼のお尻を蹴った。
 「はーやく入ってよぉ。寒いでしょ」
 「あっ、ごめんごめん」
マキヒ以上に顔を赤くしてクラミチも温かい室内へ入る。
 今度は打って変わって嬉しそうに彼をもてなすマキヒを見て、アタカも相好を崩した。それからマキヒはクラミチの為に少し早い昼食をつくり始めた。
 祭り以来なのでそうとう久しいはずだ。台所に立つ後ろ姿もどこかうきうきしている。
 「イチタ手伝っておくれ。アタカは薪を持ってきて」
 イチタと一緒に肩を竦めるとそれぞれ命じられた仕事へ向かおうとした。するとクラミチも立ち上がりアタカの後を追って「俺も手伝おう」と言ってくれた。
 「ついでに教会がくれた雪解けの粉を撒いておくよ。面白いほどすぐ雪が溶けてくんだ」
 「わあ! 撒くくらいなら頂戴よぉ」
 「こら、イチタっ」
 すぐに息子を諌めるマキヒに向ってクラミチは笑いながら頷いた。
 「俺の家の周りは近所の連中が撒いてもういらないし、少し辺りに撒いて残しておこう」
 「やったあぁ」
こ踊りするイチタを尻目に捉えながらアタカと共に外へ出た。
 先ほど雪掻きをしたのだが、吹雪いてきているのですぐに元に戻ってしまいそうだ。
肩をさするアタカの目の前でポケットから袋を取り出したクラミチは、おもむろに中から白い小さな丸い粒を出して玄関先に撒いた。
 「ヤヌギ族がくれたんだろ?」
 「そうだ。見てろよ、アタカ」
と言ってクラミチはアタカの肩を支え屈みこんだ。
 両肩に圧し掛かる程よい重量を感じながら、アタカは目の前に撒かれた雪と同化してしまった粉を見詰めた。すると次第に煙のようなものを発し、瞬く間に粉を撒いた部分だけ雪が完全に溶けてしまった。
 「すっげぇ!」
 思わず歓声を上げるアタカの頭を撫ぜ彼に袋を手渡した。
 「これでまた金儲けできるんだろ? イチタの貯金も貯まってく一方だな」
 笑いながら薪を取りに向かうクラミチの背中を追ってアタカも駆け出した。
 薪の周りにも粉を振りかけ雪を溶かす。クラミチがあまり湿っていない奥の薪を抜き取り両肩に持つ。アタカにも何本か渡してくれた。
 「クラってどうやってマキヒと知り合ったの?」
 「えっ、と、突然だな…」
恥ずかしそうに鼻をこすりながら目を泳がす。
「むかし…モロトミの家で偶然会ったんだ。その、えっと、俺の一目惚れだったんだけどな」
 「なんだ、意外とクラってもの好きなんだな」
 「こら、どういう意味だ」
じろりとアタカを睨むもすぐに吹き出し、彼の頭を優しく撫ぜてくれた。
 「マキヒはすごい人だよ。俺なんて足元にも及ばないくらい強くて、逞しい人だ。盲目の女が一人で息子を育てているんだもんな」
 「あっ、そっちの意味で一目惚れしたんだ」
 イチタには悪いが客観的に見ても、マキヒが一目でクラミチを惚れさせる程の美貌を持っているとは思えない。疑問が氷解していくのを感じながら頷くと、クラミチは額に皺を寄せて苦笑いを浮かべていた。
 「お前って素直だなぁ」
 「褒めてないだろ、その言い回しじゃ」
唇を尖らせて抗議をする。どうせ自分はイチタやウリと違って大人しくすることもできないのだから、とむくれているとクラミチは笑いながら再びアタカの頭を軽く叩いた。
 (なんか…クラって……)
 触れられた部分がほんのり温かく感じる。緩んだ気持ちが羽根でくすぐられるように心地よい。アタカには数本の薪を持たせ自分は両肩で大量に抱え、踵を返そうとするクラミチの逞しい背中に向って呼びかけた。
 「ね、クラ…」
 振り向くその顔に笑顔があることを確かめ言葉を紡ぐ。
 「俺、マキヒは本当はさ、目が見えていたんじゃないかって思うんだ」
 少し目を大きく開けて驚いて見せる彼を見上げ、青い皿を取り扱った時の彼女の反応とアタカの推理を披露した。その間クラミチは薪を抱えたままじっと、真剣に彼の話を聞いてくれた。
 「誰も村にくるまでのマキヒを知らないんだ。だから、こんな言い方したくないけど、でももしマキヒに隠したい過去とかあって、それに目のことも関係していたら…」
 「それは…イチタも知ってるのか?」
 「イチタ?」
まさか、と呟きながら首を振る。
 するとクラミチは嘆息を吐きながら片頬を上げた。
「お前らしいけど…だけどな、誰だって過去はあるもんだろ。例えマキヒがむかし目が見えていたとしても、その過去があるから俺たちが好きなマキヒがいるんだ。そう思えば、大概のことはどうでもよくなるぞ」
 「でも、それでもイチタくらい……本当の息子だろ。話せないってことはそうとうだと思う」
 それだけにずっと秘密を抱えていることへ罪悪感を覚える。イチタも知らないマキヒの過去。もし素直に問いかけたなら、彼女は偽らずにアタカへ答えをくれるだろうか。聞くのは簡単だ。だけど知ってしまうことで失うものはどれだけあるのだろう。
 想像するだけで怖い。今まで必死に築き上げてきたすべてが、たった一言で失われてしまうかもしれないのだ。同じ不安を感じてもらいたくて、アタカは敢えてクラミチを選んで打ち明けた。帰ってくる答えはきっと、他人である自分と同じ気持ちをあらわしたものだろうと期待して。
 「なに言ってるんだよ。お前もマキヒの息子だろ?」
 飾り気のない言葉は真っ直ぐアタカの心へ届いた。
 「今はまだ話せないかもしれないけど、いつか打ち明けてくれるさ。なんせ俺も知らないからなぁ…彼女が北へくるまでのことを」
 「北にくるまではどこにいたの?」
 「確か……東にいたって聞いたなぁ」
とぼやきながら、クラミチは歩きだした。
その後を追うアタカ。雪が鼻先にくっつき大きなくしゃみをした。
鼻を啜りながら
「なんで東に? アマテル王の国だろ?」
つられてクラミチも鼻をむずむず擦りながらぼやいた。
「それこそ…俺の方が聞きたいよ。人の生まれなんてどうだっていいだろ。今、俺たちの前でマキヒが幸せでいてくれるなら、俺はそれで大いに満足できるんだ」
自信満々に言い切ると、塞がっている両手の代わりに足でドアを開けた。中から溢れ出る温かい空気に圧されクラミチも大きなくしゃみをした。
 「イチタ! 塩とシナモンを間違えて入れてたらちゃんと教えてよね」
 「だってぇ匂いでわかるもんでしょ」
 「まったく。鼻が詰まってるのよ!」
 肩を揃えて調理台に立つ二人の姿は完全に親子そのものだ。
 「……」
二人が築く世界に加わることに躊躇い覚え、無意識に後退しようとしていたアタカの肩をクラミチが大きな胸で止めた。
 見上げる彼の眼差しを正面から受け優しく笑いかけると
 「おぉい。薪はどこに置いたらいいかな?」
 クラミチの呼びかけに振り向く二人の表情を見てアタカは思わず安堵した。
 なんてことはない。家族はいつでも似てしまうものだ。イチタもマキヒも、アタカも、そしてクラミチでさえも、同じようにくしゃみをした後の赤い鼻を擦って顔を見合わせた。
 薪を暖炉の脇に置いてからアタカはイチタに明るく話しかけた。
 「昼飯食ったら、ウリを連れて遊びにいこうぜ」
 「もちろん。手紙を届ける方を優先にして、だけどね」
 
 
 滞在期間は思っていたより短かった。一泊して朝起きると、もう荷造りを済ませて朝食を並べたテーブルにグリフが座っていた。
 「はよーございまッス」
「もう帰るんだ…」
 おはようと言われる習慣がなかったのでつい湧いて出た言葉で返してしまった。
 苦笑を浮かべるとグリフは、缶詰のビーフと冷凍野菜でつくったサンドウィッチをぼくに差し出しながら答えた。
 「有給は一日しかとれないッス。ただでさえ人で不足ッスから」
 そっか…とだけ言ったけど、口を動かさなかったので彼の耳まで届いたかはわからない。昨日はあれから寝れなかった。クローンたちの話を聞いて、無様にもショックを隠しきれなかったぼくは結局グリフと顔も会わさず寝た。せっかく友だちがきてくれているのに、それはないだろうと思ったけれども、でも、生きているぼくらの方が否定されて大量生産されるクローンに未来を託されているだなんて聞いて、平然としていられる程ぼくは強くない。
 なんとなく気まずい空気に圧されながら立ったまま沈黙の多い食事を取る。
 グリフも昨日のことが尾を引いているのか、何度もこちらを気遣うような視線を向けてきたけどぼくはすべて無視した。だって彼が悪いんじゃない。聞いたことに答えてくれただけだったけど、それは、ぼくの持つ常識とか一般的な感覚とか一切を否定するだけの威力を持った現実だったと言うことだけだ。
 食欲がない。
 一人では到底つくれないような魅力的な朝食なのに、ぼくはそのほとんどを残した。
 グリフはなにも言わずそれらを真空パックで保存して冷蔵庫へしまってくれた。もしかしてぼくが残すことも見越して、少なめにつくっていたのかもしれない。
 洗いものを済ませると手持無沙汰ない様子で部屋の中に佇んでいた。けれど窓際に座っていたぼくに目を向け、前歯のない口を開けて笑うと小さな荷物を背負った。
 「俺、またくるッス。なにか持ってきて欲しいものとかあるッスか?」
 逡巡してから首を振る。
 「今度はそう、すぐにこれないかもしれないッス。けど、手紙書きまッス!」
 「手紙? アナログだね」
母の腕時計を一瞥して笑う。うまく笑えなかったので卑屈に顔を歪めたように見えたかもしれない。
 「…最後に形に残るのは、そう言ったアナログなものだけだって誰かが言ってたッス」俯き加減にそう囁くと、また笑った。
 ぼくと違って下手な表現だけど本当に、明るい太陽みたいな笑い方だった。
 「またッス」
握手を求められた。
 なんだか意外だったけど、拒む訳にもいかず気恥ずかしさを隠しながら手を差し出す。グリフは強い力を込めて握り返してきた。
 「また、絶対に」
 緑色の瞳が一瞬光ったように見えた。単に水分が反射して見えただけかもしれないので、敢えて突っ込みはやめておいた。むしろ、気づいたことさえもばれないように素知らぬ振りをする。
 なんだか……こんな別れ方しかできないことが寂しいと思った。
 
 グリフが去った後に残るのはとても虚しい思いと、後悔と、一人で抗うことのできない沈黙だった。もっとなにか喋ればよかった。もっと一緒にいればよかった。もっと、ご飯を食べればよかった。
 思い出せばすべてが悔しいことばかり。今更過ぎるけど、グリフがいないから余計に自分の欠点が目について情けなくなる。寂しくなる。別れて数分しか経っていないのに、もう傍にグリフがいないことが悲しい。
 「………悲しい…」
 言葉に出してみたところでなにも変わらない。だけど、少しだけ気持ちが楽になった気がした。
 …………。
 こんなに静かな塔に暮らしていたんだ。風が建物の隙間から入ってきて悲鳴のような音を奏でる。
 チッチッチッチッチッ…
 自然と流れる沈黙に重ねるように腕時計の秒針が響く。壁の隅に座って膝を抱えていると、時計は耳元にくるので余計に音が耳に障った。
 チッチッチ
 唐突に音が止まる。同時に昨日から螺子を巻き忘れていたことを思い出し、舌打ちしてしまった。これだからアナログは面倒なんだ。ちょっとぼくが生活のリズムを変えただけで、巻き忘れただけで止まってしまう。
 億劫とした動作で膝の間に埋めていた顔を上げ、目の位置まで近づけた時計を見詰める。
 銀色の竜頭を爪先で摘まみ右側に巻こうとしてふと思いついた。
 特にこれと言った考えに従ったつもりでもないけど、せっかくきてくれた友だちを喜ばせることもできなかった。戻れるはずがないけれど、できることならもう少し…笑ってあげたかった。
 どうせ時間になんて縛られない人生だ。気持の上だけでも過去へ戻ってやり直してみたい。
 ぼくはいつも右回りにする竜頭を引っ張って回し秒針を過去へ戻した。それから再び螺子を回して時計をスタートさせる。
 チッチッ…
 聞き慣れた音が響くと同時に急に体が軽くなったように思えた。
 頭の奥で誰かが叫んでいる。その声に触発されて激しい眩暈が起こった。頭の中が、目の前が、今、ぼくが、いる、この世界が―――ぐるぐる……回って…
 
 
 赤毛の男が壁に影を落としながら足早にその道を歩いていた。一定の歩調は乱れることなく、短い足音を響かせて直進していく。途中に何度か壁が開き中から、男よりも年下の青年たちがあらわれ彼に低頭していったが男は一度も足を止めようとしなかった。
廊下に棚引く影を追いかけているのに、大きく広い背中はどんどん離れていく。短い足を必死に交互させて走るものの、距離は遠のいていくばかりだった。
 何故彼の後を追いかけるのかわからない。ただ今自分にはそれ以外になすべきことはないのだと、深層心理に植え付けられているような感じがした。
 「フサノリ!」
 女性の、だけど少し低い声が響く。壁が消えて中から黒髪の女が出てきた。白衣をまとっていて化粧っ気のない顔をしている。胸のプレートにはぼくでも読めるローマ字で
 『MIZUHA』と大きく書かれていた。
 フサノリと呼ばれた赤毛の男も足を止めて彼女から歩み寄ってくるのを待つ。その間にぼくは慌てて距離を縮めにかかった。
 「一体どこへいくつもり? まだ実験の途中よ」
 咎めるような口調で言い詰める。そして後から駆けてくるぼくを一瞥し声をひそめた。
 「第三支部へ連れていくつもりなら…」
 「エディック。吉報だ。抗体ができたかもしれない。確かめにいく」
 「本当に?」
眼鏡の奥の黒色の瞳が大きく開く。そして初めて口元を綻ばせると、花が開くように美しく笑った。
 ぼくはなんとなく、綺麗だなと思った。
 「あふ…」
 欠伸が出る。やっとフサノリと呼ばれた男の足元まで辿り着いた途端、急に巨大な安堵感に触れた気がして眠気が襲ってきた。意識がぼんやりと宙を漂う。足の裏から感触が消えて、全身を羽根に覆われたような心地よさが包み込む。
 頬に温かな感触が伝わって、はっと気づいて重たくなっていた瞼を持ち上げた。自分が置かれている状況を確かめる。
 「この子は世界を救うかもしれないのね」
 いつの間にか黒髪の女性の顔が間近にあった。彼女の腕に抱かれしばらく夢現を彷徨い、ぼくは内側から溢れ出る幸福感に酔いしれるようにして眠りについた。
 
 
 
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