Firefly・Catching-蛍狩り-

青海汪

文字の大きさ
上 下
10 / 12

終章

しおりを挟む

 
 「…宮様……」
 暗闇の向こうに誰かが立っている。何故こんなに辺りが暗いのか訝しんでから、わたし自身が瞼を閉じていたのだと思い出した。重たい瞼を持ち上げ朦朧とする意識のまま、線をなぞるように二人分の輪郭を捉える。目が慣れてくると、それが白髭をたくわえた老医師とコマリのものだとわかってきた。
 長い時間横になっていた所為で身体のあちらこちらが痛んだ。けれど今までのように身体が重たく押しつけられるような感覚はない。それは、遂にこの身体から解き放たれる時が近づいていることを示しているのだろう。
 「……随分むかしの…夢を見ていた」
 はっと顔を上げると、傍らにいた医師と控えていた侍女たちを下がらせ人払いを行った。そして完全に人気がなくなるのを待って再びわたしを見詰めた。
 この顔は何かを我慢している時によく見せた類のものだ。そう思い、痩せ細った手を差し伸ばしてみた。すると、大粒の涙を流しわたしの手を取り座り込んだ。
 肌の温もりを感じるこの世界が現実なのだと、まだ夢現な自分に言い聞かせる。あれから時は流れわたしは王位に就かず彼女との婚約も解消し、ヌヒの宮にその座を明け渡した。大后も北で負った傷が元で身体の自由を失ったわたしを大君にするよりは、と納得してくれた。
 しかしまだ年若かった彼を大君に祭り上げるのを不安に思う民の声も多く、彼の腹心の友であるトウタがクレハの支持を得て相談役に抜擢された。そして今や大君に取って代わる権力者となっていた。
 時折見舞いにくる彼の目はいつもわたしを見下していた。その手にわたしたちの命が握られているのだと言わんばかりの、威圧的な眼差し。事実、彼になら誰にも疑われずにわたしたちを暗殺する手立てはいくつもあっただろう。けれどわたしを生かし続ける訳はきっと、無意識にサトルの行方を気にかけていたからに違いない。
けれどわたしたちは固く口を閉ざしてきた。北で起きたことも、知り得た真実も何もかも―――
 「長い……夢だった……。サトルや…ピリたちも夢に出て……今までの人生を一気に回想していた…。わたしたちが出会った…あの宴も、共に剣の巫女を探してきた日々も…すべて…昨日の出来事のように、鮮明で……」
 柔らかい髪に息を吹きかけながらそっと頭を撫ぜる。彼女が顔を上げると、眠る前に枕元に置いていた特別に設えた書を取り寄せた。
「この書に…貴方の知る限りの事実を、すべて書き記してくれ」
 ビクッと肩を震わせると彼女は泣き腫らした赤い顔でわたしを凝視した。
 「わたしたちの恋が…何も結ばずに終えること程、辛く悲しいものはない……」
 唇を噛み締め涙を堪えると、彼女は何も言わずに書を受け取り胸に抱いた。そして毅然と立ち上がると、ふっと笑みを浮かべ
 「かつて峠の乙女が、巫女を待ち続けたように……私たちの恋は、死で終わりを迎える訳ではありませぬ」
 そっと表紙を指でなぞると涙を拭い
 「これは私がお預かり致します。この空白をすべて埋めた時、宮様は私から再び受け取って下さらなければなりませんのよ」
 気丈な振る舞いについ苦笑が漏れる。枕に深く頭を預けたその時、ふいに頭の奥深くでわたしを呼ぶ幾万もの声を聞いた気がした。長い間偽りの名を被ってきたわたしを、本当の名で呼んでくれる、幾万の、仲間たち……
 「……貴方との恋は、未来永劫…終わらずに続いていくのだな…」
 「えぇ、そうです。宮様は一足先に行かれるだけで、そこで、私を…」
涙で濁らせ慌てて口元を塞ぐ。けれど涙は気丈な振る舞いを演じる彼女の意思とは関係なく、湧き立つように溢れ出た。
 「…私を……待っていて、下さいね……」
 やっとの思いで言葉を繋げると、目を真っ赤にしながら笑顔を作った。その顔をしっかと目に焼きつけわたしも笑みを浮かべた。ふいに脳裏に子どもだった頃の彼女の楽しげな声がこだました。
 桜が舞い散る幻想的な景色の中で、幼かった彼女が野生の馬のように自由に駆け回っている。わたしに向ける眼差しはいたずらっ子のような含みを宿し、活き活きと輝いていた。
 「……いつまでも、待っている…」
 「待つだけならお得意でしょう? なにせ、あの剣の巫女の子孫ですものね」
 揶揄する明るい口調。けれど瞳は笑っていなかった。
 「笑っていてくれ……」
悲しげに伏せられる顔に指を這わせる。指先に触れた頬の温かさを感じ突然、強烈な眠気に襲われた。身体が軽くなっていく。心と身体を結んでいた鎖がゆっくりと解けてゆき、わたしは、初めて兄者たちの後を追って羽ばたいたあの瞬間を思い出した。
大地に縛りつけられていた身体が風を蹴る。足元に続く景色を眺め、世界の広さを知った。今、同じ風が全身を優しく包んでいく。青く晴れた頭上から、わたしを誘う人々の声を聞いた。
 今ならきっと、空を飛べる。
懐かしいこの世界に背を向け、わたしは……力強く大地を蹴り上げた。
 
 
 その後、コマリは屋敷を修復し一握りの侍女たちと共に、ひっそりと余生を過ごし他界された。ナルヒトの宮との破談後、数人からの求婚を受けたらしいがそれらを断わり、ただひたすら地方の援助と孤児院の設立や無料の炊き出し等に力を注いでいた。故に彼女はいつの間にか多くの民の関心を買い、大臣たちからも人望を集めていた。もし生前にナルヒトの宮との間に御子をなしていたら誰もが次期大君にと望んでいたことだろう。
大君の葬儀の後、無事に大君に即位したヌヒの宮は、実によくぼくの手駒として動いてくれた。禁書の内容をすべて知り恐怖に恐れ戦いたものの、彼自身が豪語した『大君支配の永続』を目標に必死に玉座に降臨し続けた。そして年老いて前大君のように醜い顔を晒し死んで逝ったヌヒの大君の最期を見届け、子宝に恵まれなかった彼に代わり、不滅の若さと知識を武器に大君の血筋の姫宮と婚姻し玉座に立った。
 ミズハ寮で開発された薬はぼくの身体を類まれなる健康体にし、多少の傷も僅かな期間ですぐに治った。老いは確実にやってきたものの、その速度は他の者たちと比べ遥かに遅く、人間にとっての十年をぼくの身体は一年かけて生きていた。そうして、本来の年齢が百歳を越えながらも、見た目はまだ若々しい少年の面影を十分に宿したこの時点で、既に大君一族は謎の疾患によって、後継者がすべて亡くなるという異常の事態に置かれた。
 かつてむかし、裏道にあった小さな店から持ってきた薬が、こんなところで役立つとは思わなかった。
そして、ぼくはすべてを手に入れたのだ。
 人々はぼくを不死の神と崇め、ウツベノヒコ神の生まれ変わりと祭り上げた。生まれてくる子どもはすべて殺し、妻の張りをなくした肌に老いを見つければ即座に殺した。誰も必要ない。ぼくは、神だから。
 貢物の金銀財宝が毎日のように担ぎ込まれてくるうちに、次第に宮中では手狭くなり、居住地を広げる為に都の大工事を始めた。そして宝玉で飾られた高く聳え立つ神殿に新たな玉座をもうけ、地に伏せる多くの愚民どもに尊きこの声を聞かせてやった。
 かつての大君の威光はどこへ消えた? ただの神の子孫も今や地を這う虫と同じ。ぼくは神なんだ。誰もぼくに逆らえない。どんな謀反を立てようと、誰もぼくを殺せない。
 「トウタの大御神! 万歳!」
 波寄せる大歓声。ただ手を上げるだけでそれは何倍にも膨れ上がった。どんな戦でも民衆はぼくの為に戦った。何百人もの兵士が戦場へ注ぎ込まれても、名誉の死として褒め称えられた。誰もがぼくを崇め、絶対的な支配者の下にあることを喜び感謝した。それも、あの男があの書を持ってくるまでは。
 それは五番目の大陸を制する異国との大戦を控えたある日のことだった。
「大御神」
 玉座に座るぼくに向かって、ハルカネの大臣の孫にあたるイグナは声を張り上げた。彼の祖母はかつて北の地で、サトルに毒殺されたはずだったが奇跡的に一命を取り留めたものの全身が麻痺し日常を介護なしでは過ごせず死んで逝った。
 確か祖母は亡きコマリのお気に入りの侍女だったが…
 「わたしは恐れ多くも大御神に予言を致しましょう」
 もったいぶった口調に苛立ちを感じながらも、堂々とした態度を崩さずに彼が脇に抱えている書を注視していた。
 「大御神の支配はきっと、この戦を最後に滅びると」
 「…愚かな。神を信じぬ者の戯言か?」
 「歴史を正し、わたしは真実を貫くまでです」
 強い意志を宿した真っ直ぐな瞳。かつてむかし、ぼくはその瞳を何度も見てきた。己がどれだけ恵まれているかを知らず、正義を貫こうとした偽善者だ。
 抱えていた書を開き高く掲げると
 「これは亡きコマリ様が残された真実の書! ここにすべての事実が書かれている! 我々が信じてきた歴史は嘘で塗り固められ、ハシヒトの大君が北の地で亡くなられた裏にはあの者の野望があったからだ!」
 控えていた大臣たちの間に動揺が走る。
 「わたしの頭がいかれているかどうか、かつての宮中の地下にある禁書をすべて紐解けばわかるはずだ! きっと貴方は真実を恐れるあまり、それらを処分せずにいたでしょうから」
 激昂して立ち上がると大声で命じた。
 「この男をひっとらえろ! 打ち首だ!」
 数人の衛兵たちがイグナを拘束する。しかし彼はまったく抵抗せずに叫んだ。
 「わたしは祖母を信じている! 故人の名誉を汚すのは本意ではないが、ナルヒトの宮様は大君の御子ではなかったのだ! 我々は騙されている!」
 「黙れ! 早くそいつを黙らせろ!」
 しかし衛兵たちまでもが顔を見合わせ、恐ろしげな顔でイグナを見下ろした。誰もがあの男が決して嘘を吐かないことを知っていたからだ。そして書が本当にコマリのものだとするなら、イグナの言い分を否定することは彼女を否定することになる。今だ根強く残るコマリを支持する民衆を思い、誰もが尻込みしていた。
 「畜生!」
 思い通りに動かない衛兵に腹を立て、腰に下げていた剣を掲げ玉座から飛び降りる。切っ先が描く鋭い閃光と共に驚愕した顔のまま、イグナの頭部だけが宙を飛ぶ。首を失いよろめき、血を噴き上げる彼の身体に再び刃を突き刺し、赤く染まった大理石の床を睨んだ。
 「…い…いやあぁぁ!」
 年若い侍女の叫びが皮切りとなって周囲から悲鳴が上がる。血の雨を浴びながら床に転がった頭を、高く蹴り上げた。
 
 
今朝までの晴天は日没と同時に消え去り、今宵はひどい吹雪に見舞われていた。あばら家の天井が不気味な音を立てて震えている。
 昨日植えた花が、雪の重みに耐え切れないのではないかと心配する彼は、食事が終わってもずっと窓から離れなかった。そんな彼の後ろ姿を見詰めながら、洗い物を終えて寝床の準備に取りかかる。囲炉裏の炎が小さくなり始めた頃、ようやく振り向いた。
 「……やっぱり、俺、明日種を掘り起こしてくるよ」
 眉を八の字に曲げ不安げに呟いた。
 「折角サトルが作った花でも、こんな雪が続いたら咲けないかもしれない」
 ぼくが品種改良を重ねこの土地に合うよう養成した植物だったが、中にはやはり気候に負けて一夜にして枯れてしまう種類もあった。
「そうだね。でも……きっと明日にはまた、夏の盛り並みの暑さが戻るよ」
 布団を敷き終え枕を出そうとするぼくに代わって、押入れから二人分の枕を持ってくると並べて置いて見せた。頬を高潮させるぼくに向かって、他意のない笑顔を向けるピリ。
 「寒いから一緒に寝よう」
 その無邪気な態度に余計な想像は無用だ。そうだとは重々承知していながらも、勝手に顔が赤くなってしまう。終いにはそんなぼくを面白そうに眺める彼が、時折憎たらしく感じてしまうのだった。
 早速布団に潜り込み、ぼくがくるのを待つ彼を複雑な想いで見詰める。長い共同生活なのに今でもなかなか一緒に眠ることに慣れていないのだ。
 
 
 本来都でも有数の美しさを誇る町並みは、一面の焼け野原へと化していた。大地にいくつもの窪みができている。そこから噴き上げる炎が家屋を飲み、風が更に火の勢いを煽り逃げ惑う人々を襲う。空を巨大な鳥の影が覆い、不吉な音を轟かせ細長い種子のような爆弾を次々と落としていった。同時に各地で爆発が起こりその度に新たな炎が生まれた。
 玉座に立っていたぼくは神殿が爆撃を受け敵兵が侵入したと聞き、すべてを投げ出して逃げてきた。けれど今、茜色に染まる空を見上げ初めて絶望を味わった。なんたる軍力。なんたる力。この国の全勢力を注いだとしても決して大国には勝てない。
 敵の狙いはこのぼくだ。逃げなくてはいけない。捕まったとしても、ぼくには永遠に拷問にかけられ苦むだけの未来が待っている。
そんなの、嫌だ。怖い。嫌だ。誰か、誰か―――
 走るうちに足裏の感触が変わり転倒してしまった。顔面に当たる柔らかい肉の感触に気づき不吉な予感にすぐに顔を上げる。
 「!」
 赤く染まった肉塊が道の至る所に放置されている。そして鼻を貫く異臭。思わず胃の中を吐き出した。
 「はぁはぁはぁ…」
 肩を上下させ荒々しく呼吸を繰り返す。煌びやかな衣裳が走るのに邪魔で、鬱陶しくて仕方がない。派手な装飾は足を重くし動く度に手足にまとわりついた。
 ―――逃げなくちゃ!
 陽炎が昇る向こう側に大勢の兵士の姿を見つけ再び駆け出す。逃げるんだ。逃げなくちゃ! 逃げなくちゃ!
 行く手が炎に阻まれていたので、倒壊した家屋の角を曲がろうとしたその瞬間。己の目を疑った。赤く照らされた空の下で、彼女があの日となんら変わらず立っていた。伏目がちの長い睫の下で輝く、海の色を映した深い深すぎる青い瞳。艶やかな黒髪を短く切り揃え、穏やかな眼差しで、口元には笑みさえ浮かべて立っている。
 これは夢か? 幻か? 苦しいけれどかすかな喜びを感じながら
 「サト…」
 その名を口ずさもうとした刹那、目の前の幻想は消え一人の幼い少女へ変わった。
 「……おー…みかみ、さま…?」
 たどたどしい口調でぼくを呼ぶ。澄んだ眼差しが助けを求めるような必死さを宿し、大量の涙を流した。
 「ひっく…うっ……うわあぁぁ…あーあぁぁぁ…」
 幼い少女に彼女の面影を求め途方に暮れる。
 「な、泣くな…大丈夫だ。大丈夫だから…」
 なんとか泣き止ませようとその身体を抱き上げた瞬間、急に体重が半分に激減した。それはまるで何倍もの遅さで時間が流れているかのように、目の前の出来事がひどくゆっくりと見えた。眉間から剣の切っ先が覗き、一気に股下にまで駆けていく。抱き上げようとした身体は二つに分かれ、腕から滑るようにして消えていった。
剣を構えた異国の兵がぼくを見詰め、不敵な笑みを浮かべている。咄嗟にそれが敵兵でと認識すると、腹の底から湧き出た悲鳴を残し脇目も振らず逃げ出した。
 足がもつれ転がった死体に躓き大きく転倒する。顔面に当たった血まみれの身体を確認した途端、胃がひっくり返り何度も中身を吐き出した。
 頭が混乱する。恐怖、憎悪、悲しみ…負の感情が入り混じった思いが激しくのた打ち回る。
突然ぼくの身を覆う巨大な影に気づき顔を上げた。空を羽ばたく巨大な鳥が今までにない大きさの爆弾を投下する。それが地面に接触すると同時に眩い光を放った。すべてを消し去る巨大な爆風に、身体ごと吹き飛ばされた―――
 
 
 一つの布団に二人分の掛け布団を乗せて身を寄せ合うと、自然と心から落ち着いてゆったりとした気持ちになれた。それでも吐き出す息は白く、手足はかじかんでいたけど充満した思いが身体の奥に穏やかな灯火を焚いていた。
 しばらく雪が屋根を押し潰そうとする音だけが響いて、とても静かだった。
 「明日、雪を下ろさなくちゃ…」
 独り言のように呟く。
 「俺がやるから、サトルは休みなよ」
 天井を向いていた体勢を変え、身体を横にするとサトルと目が合った。
 「でも…」
 「峠の向こう側の泉におっきな魚がいたんだ。明日捕まえてくるから、それでご馳走を作ろうよ」
 「……うん」
 ようやく頬を緩ませて微笑んだ。と、その時、外の吹雪に混じって小さな……とてもか細い声が聞こえた気がした。
 「……音がする…」
 「何も聞こえないよ」
いつもと変わらない、でもどこか冷たさを宿した声で断言する。顔を覗き込むと一瞬サトルの瞳が悲しげに光った気がした。青い硝子玉のような瞳に吸い込まれそうになる。そこに映り込んだ世界が、あの日洞窟で見た終焉の景色によく似ていた。
 索漠とした大地にたった一人佇むその人影は……
 
 
 どのくらい気を失っていただろう。気がつくと視界いっぱいに広がる空の色は、元の美しい水色を取り戻していた。しかしいつも悠々と流れていた雲がどこにもなかった。不吉なまでに晴れ渡った広大な領域。
 起き上がるのがひどく億劫に感じられたが、なんとか腰を立たせ足に力を入れた。視界の半分を空が占めている。上半分が空。そして下半分は…
 「――――」
 何もない。視界を遮るものは何もない。狭いようで広かった世界が、今、一望できる。
 倒壊した家屋も人々の遺体も、すべてが灰になって白い大地の一部となっていた。足元に転がる骨を持ち上げようと手に取ったが、力も入れていないのにそれは粉々になって消えていった。
 戦いは既に終わっていた。ではぼくは一体どのくらいの間、こうして眠り続けていたんだ? 他に生きている人はいないのか? 不安が恐怖となって叫び出す。
 「誰かー! いないかー!」
 静か過ぎる世界にぼくの声は届かない。こだまさえしない。土の一部になった遺体が嘲るようにぼくを見上げていた。
 まさか、そんな…! 我を失い駆け出した。肩や腰に負っていた傷が今頃になって激しく痛んだ。道のない道を駆け、延々と走り続ける。息が上がって交互に動かす足がもつれても、それでも前に向かって砂を蹴った。
けれど視界に入る景色は何も変わらなかった。二分された天と地。どちらにも行き着くことのできなかったぼく。彼のように空を飛びたかった。けれどこの地上で権力を手に入れたかった。何もないぼくだから、何かを持つ誰かに憧れていたんだ。
 振り返り砂漠に点々と続くぼくの足跡を見る。遠くから風が吹いてその痕跡までも、あっという間に消し去っていった。
 誰もいない世界。ただ一人で生きているぼく。
 傷だらけの両手を広げて凝視した。いつまで薬は効くんだ? ぼくはいつになれば死ねるんだ? 凶器も何もない。だけどきっと、食べなくてもぼくは死ねないだろう。
 「……幸せ…?」
長い間流し方を忘れていた涙が込み上げてくる。この世に、誰もいない。誰もいない。誰もいない。誰もいない…! 何が幸せなのかわからない。権力を手に入れてもずっと誰にも心を許せなかった。一人でいることを望んでいた。そしてその願いが叶った今、ぼくの手元に残るのは……孤独だ。
 『何年経っても……誰より…長く生きても……寂しくなったら、俺を呼んで…』
 彼女とは違う空色の瞳に涙を滲ませて彼はそう言った。最期の最後まで、友だちだと訴えた彼をぼくはこの手で殺してしまった。何よりも大切だったものを、自ら放棄してしまっていた。 
喉元から噴き上げる感情が、救いを求めて飛び出した。
「ピリイィィー!」
 
 
 瞬きと同時に瞳に映る景色は消えた。
 夜の帳のように深く底の見えない眼差しを受け止め、今、サトルはあの世界の最期を見届けたのではないかと思った。けれど穏やかな表情で俺を見詰めるサトルに、例え人間の最期が見えるのだとしても、それを問い質すのはとても残酷なことに思えた。
「でも、声が、聞こえたんだ…」
 耳の張りついた音が忘れられず、確かめるように漏らす。けれどさっきまで耳に届いていたトウタの声は、もう、聞こえない。
 屋根が風に煽られヒステリックに叫び、雪の重みが加わりギシギシと悲鳴を上げていた。
 しばらく天井を見詰め、窓から注ぐ僅かな射光を受けたサトルは静かに
「―――蛍が…地に落ちる音だよ」
 と呟いた。
しおりを挟む

処理中です...