Firefly・Catching-蛍狩り-

青海汪

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第七話

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第七話 
 
 大嫌い。そうサトルは言い残して歩き去った。
 「!」
 きっと嘘なんかじゃない。心の底から俺を嫌う言葉に、身が捩れるような痛みを感じ呆然と立ち尽くした。心臓が耳元で大きく鳴り響く。サトルの冷めた目が、口が繰り返し
 「大嫌いだ」
 と囁いた気がした。
目の前からすべての景色が消えていく。手足から力が抜け眩暈がする。胸に大きな穴が開いたみたいに、不安定に心が揺れて今にも倒れ込んでしまいそうだった。陽炎の向こうに消えていく小さな背中を見据え、それでも追い駆けなきゃ。と動き出した肩を誰かが掴む。見るとコマリが涙と灰燼でぐちゃぐちゃになった顔で、物言いたげに口を開いていた。
 「……彼女を追えばきっと不幸になるわ」
コマリが言っている意味がわからなかった。でもサトルを追わなかったらきっと後悔する。
「ライはサトルを大好きだった! だから俺も追わなきゃ!」
手を振り払い走り出そうとした俺に短い叱責が飛んできた。
「貴方はどうなの?」
突き刺すような言及に思わず言葉に詰まる。行く手を阻むように立ちはだかると、もう一度俺の顔を覗き込み確かめるように繰り返した。
「貴方は、どう想っているの?」
俺の気持ち? ライとは別にある、俺だけの気持ちは……
恋する気持ちが今までの関係を崩していく。それが持つ力が大きいから。誰かを想うから大人になれる。だけど、本当に。―――本当に、大人に、ならないといけないの?
 わからない。俺にはわからない。ライは、サトルを、好きだった。大人になることを、拒んでいるのは俺だけだった。
 頭が混乱してきた。ライの笑顔、サトルの泣き顔。トウタの作り笑い。四人でいた懐かしい景色が回転して手を伸ばした途端、泡みたいに消えていってしまう。真っ暗闇の中にただ一人置いていかれてしまったような焦燥感。俺の気持ちはどこにあるんだろう。
 虚ろに空を見上げたまま、静かに閉ざされた親父の顔が思い浮かぶ。大好きだったから、俺が生まれた。大好きだったから、新しい子どもが生まれようとしていた。二人がいた。何もない所から俺を作り出した、二人がいたから……。でも俺は望まれていなかった。
赤ん坊と子どもたちの甲高い泣き声が聞こえる。同じく望まれず闇に葬られてきた子どもたち。憎んでいる。作り出した大人たちを、救えなかった俺を。耳を塞いでも声は更に大きくなって辺りに響く。
 未来を語れない子どもたちを残して、俺は大人になんて、なれない――
 『ピリ……』
 ぴたりと泣き声が止んだ。幻聴かもしれない。だけど確かに、ライの呼ぶ声が聞こえたんだ。
 怪訝そうに眉を寄せるコマリ。コマリには聞こえなかったみたい。
 「ライ?」
 橙色に燃える夜空を仰ぐ。暗い夜に敷き詰める星が一斉に瞬いた。屈託のないどこか意地悪ないつもの笑い声がこだまする。星々の間を駆ける風がライの残像を映し出した気がした。
 ―――ずっと空を飛びたがっていたライ。今はそこにいるんだな。
「……わからない…」
 ポツリと、言葉が口を突いて出てきた。
 きっと俺たちはずっとこの先も変われない。変わろうとすら願えない。だからいいんだ。俺はこのまま、俺の所為で亡くなってしまった沢山の子どもたちの為に生きていけばいい。
ライのいない明日なんて、何も意味がない。けれど、それと同じくらいサトルのいない世界が、ひどく味気ないもののような気がした。
「そぅ…」
 コマリは肩の力を抜いて、どこか諦めたように漏らした。
 
 
 「剣が見つかった?」
 自室に招いたトウタはこの後に控えている大臣の葬儀の為に喪服姿だった。黒い衣装に包まれたその顔は気の所為かどこか紅潮していて、抑えているもののそうとう興奮している様子だ。
 「全焼したコマリ様の屋敷より巫女と思しき女性と共に発掘されました」
 驚きのあまり窓辺にかけていた手が震えた。昨夜の一件で父君を亡くされたコマリは、大后の心遣いから今朝より宮中にいた。しかし相当心労が溜まっていたのだろう。こうしてトウタがきても、お付きの侍女たちと共に一歩も部屋から出てこようとしなかった。
 「それで剣とその女性は?」
 「遺体と共に別の場所で保管しております。一刻も早く宮様にご確認頂きたく」
 喜々とした表情を見詰めるうちに激しい頭痛が込み上げてきた。瞬きを繰り返しこめかみを軽く押さえる。足元に落ちたわたしの影は、トウタの背景に広がる巨大な闇に吸い込まれていきそうに見えた。
 火事の原因は放火とされている。怨恨の線で犯人は今も捜索中だった。もしも屋敷に剣の巫女がいると知った上で放火したのなら、対象となる人物は大分搾られていく。わたしが王位に就くことを妬む者か、もしくは巫女に恨みを持つ者。しかし後者に当て嵌まる人物が思い浮かばない。
「敷地内に存在したミズハ寮は、亡きイシベの大臣の下で機能していました。大臣は兼ねてよりウロと、不老不死にご執着だったご様子ですし、北の討伐で見つけた巫女を監禁していたと考えてもおかしくはありませぬ」
 朗々と紡ぐトウタの言葉の意味を吟味し、ふいに浮上した疑問をそのまま口にした。
 「何故その遺体が巫女だと判断したのだ?」
 すると然も嬉しそうに口元を緩めるとトウタは迷わず答えた。
 「巫女の背骨より剣が出てきたのです。これはオオサク島に渡られた際、ヌヒの宮様も認められたことです」
 そう…だ……。わたしはこれで王位を手に入れることができる。何も問題は…ない……。何も問題はないのに、何故、こんなにも不安が横溢としているのだ?
 虚ろに漂わせる視線が窓辺に茂る巨大な木々の影に向けられる。風に吹かれる木々のざわめき。烏の鳴き声。晴れ渡った空が次第に暗く染まっていく。すべては何事もなかったかのように過ぎていくのに、わたしはまだ何もしていない。
 突然電流のような刺激が全身を駆け巡った。
『―――嘘吐いたら、針千本飲ますぅ』
誓いの言葉に重ねる少女の笑い声。激しい頭痛と共にそれは次第に点を結び、輪郭を顕わにしていく。
柔らかな短い黒髪を振る少女の面影。一見して男児と見間違えそうになる後ろ姿を、知っていた。粉雪のように舞い散る桜の下で何度も逢瀬を重ねて、お互いを認め合った唯一の人。誰よりも愛しい彼女を。 
「…宮様?」
遥か遠くでトウタの訝しむ声が聞こえてきた。刹那、霧がかっていた景色に彼の着る喪服が浮かび上がってきた。しばし宙に視線を漂わせ、唐突に思い出した過去を回想するわたしに現実を突きつけるかの如く
「ナルヒトの宮様、トウタ様、葬儀の準備が整いました。どうぞお出で下さいませ」
 と、侍女が戸口の向こうで叫んだ。
 
 喪服姿のコマリは涙こそ見せなかったが、終始棺の傍らで顔を俯かせていた。弔問客から形式的に弔辞を受け取り言葉少なに会話を交わす。神職が経文を唱える間もぼんやりと視線を浮遊させていた。
 屋敷が全焼し瓦礫の山となった敷地にこれだけの人数を収容する場所は到底なく、長年の奉仕や彼女とわたしの関係も考慮され、大君の格別な配慮の元―――大臣の葬儀を宮廷で執り行うこととなった。何よりも大君に見送られ旅立つのだから、故人も喜んでいるだろう。
 「皮膚もただれて顔も判別できないほどですってね…」
 隣に座るクレハが囁いた。本来なら今生の別れとして棺の蓋は埋葬まで閉ざされないのだが、あまりに酷い死に顔だった為にコマリが望んだのだった。
 「これで天涯孤独になってしまいましたのね」
 心から同情する言葉に黙って応える。古参の部下だけに弔問客の数はかなりのものだ。況してやわたしの義父ということもあって、大君の顔色を伺いにくる者も多かった。
 死者を天に迎え入れる経文が始まり、白い面を付けた巫女たちの手で赤々と燃える炎の中に棺が運ばれる。火葬し骨を集め先祖の墓に共に葬られるのだ。参列者たちが一斉に立ち上がり経文を唱える。薄紫色の雲が棚引く空に手を伸ばそうとするように燃え盛る炎を囲い、人々が唱える経文が不気味な迫力を伴って辺りを威圧する。後方に伸びる影が独りでに動いて空に飛んでいきそうだった。
 大君と共に祭壇に座するわたしたちは、澄んだ赤い炎が棺に移り黒い炎を吐き出す様をただ黙って見詰めていた。
 「……あっ」
 クレハの視線の先を追って彼女を見る。炎を見上げていたコマリが、蒼褪めた顔のままゆっくりと仰向きに倒れていった。
 短い悲鳴を背後で聞きながらわたしは祭壇を駆け下り彼女の元へ駆けつけた。
 「コマリ様! お嬢様!」
 取り乱す乳母を押し退け呼吸を確認する。
 ―――息はある。だが脈がひどく不規則だ。
 「誰か! 医師を!」
 混沌とする人々の中から、女人の装いをした――サトル殿が現れた。
 
 
 穏やかに寝息を立てる彼女から離れ、白髪の老医師は眉間の皺を伸ばし
「心労が溜まっておられたのでしょう」
 と、朗らかに言った。その言葉を聞いてナルヒトの宮はほっと胸を撫で下ろした。
 「薬はそちらの薬師に出して頂くとして…しばらくは安静になさって下さい」
 医師に深々と頭を下げる宮と乳母らしき女性から離れ、早速処方箋に書かれた薬を調合する。さすがに宮廷医師が持参しただけに薬草の種類も品も錚々たる物ばかりだった。
 薬草を切り刻みながら横たわるコマリの顔を盗み見る。
 「今や人気の薬師だとか聞きましたが、さすがに手際がいい」
 人の良さそうな医師に会釈を返し水薬を小瓶に注いだ。淡々と薬をつくって手元をまるで他人のもののような思いで眺めていた。
 医師を見送るついでに別室で待機する大君たちに状態を告げに乳母が部屋を出る。途端、二人きりになり気まずい沈黙が流れた。黙々と薬を調合するふりをして宮の様子を伺う。
 葬儀は一旦中止されたが恐らく火葬まで行った以上、彼女の目覚めを待たずに続けられるであろう。窓の向こうに迫る闇に一滴の朱を滲ませたような火の光がそれを物語っている。
 ふいに同じように黙り込む宮に疑問を覚えた。
 ―――ぼくが昨日屋敷にいたことを知らされているのだろうか?
 端正な横顔はずっとぼくの手元に向けられていたが、突然立ち上がり、暗くなった室内に明かりを灯し始めた。
 「貴方も弔問にきてくれていたのだな」
 「……訃報に驚きました。心中をお察し致します」
 苦渋を滲ませ言葉を紡ぐ。ただ実際は一切の感情を押し殺し、脳裏にこびりついた彼の死に顔までも無視して薬を作り続けた。
 刻んだ葉を潰して汁を取る。そこに………一匙の薬を入れれば、劇薬もできる。今ぼくが作ろうとしているものは、この人の薬となるもの? あんなに憎んだ人間を、今この手で殺せる機会なのに? 
 自然と手が懐にある薬袋に伸びる。彼のいる位置からは死角になって見えないはずだ。
二人を殺して逃げればいい。もし逃げきれなくても例え極刑になっても、目的だけは果たせるじゃないか。直に触れる指先に早鐘を打つ心臓の鼓動が伝わる。長い間抱き続けた願いが果たされようとする今、こめかみに冷や汗が浮かんでいた。
それも背後に立つ彼がいるからだ。宮がぼくの店に訪ねてきた時の違和感。今も本能が告げている。彼は普通の人間とは違うと。同じ空気を吸うだけなのにただならぬ緊張感が増幅していく。
「剣の巫女を救う為に、ミズハ寮に入ったのか?」
「……え?」
驚きのあまり振り向く。ナルヒトの宮は明かりに照らされながらも、深い翳りを宿す瞳でぼくを凝視して続けた。
「十二部族が元より守り続けていたウロ峠と、剣の巫女を奪ったミズハを。一族を滅ぼしたわたしたちを、貴方は何よりも憎んでいるのではないか?」
何かを知っている。但し、それは何者かに吹き込まれた偽りの情報。咄嗟にそれがトウタの思惑だと直感した。
「何を言われるかと思えば…。確かにぼくは身分を隠しミズハ寮に入りました。けれどそれは多くの知識を手に入れて…誰かを助けたかったからです」
「知識を?」
眉間に皺を寄せて問い返す。しかしそれでも心情を一切隠し、飽く迄落ちついたその態度は対峙する相手に圧倒的な不安を与えた。咄嗟に吐いた嘘に慌てて理由を付け加えた。
 「宮廷暮らしの宮様にはご存知ないかもしれませんが、都で暮らす人々の生活はいつの時代も苦労に満ちています。食べるものに困り娘を売る農家や盗人になる子どもたち。歪んだ生活は精神にも影響を及ぼし、両親の虐待に苦しむ……か弱き者を生み出します」
 一呼吸吐き気持ちを落ちつかせる。そして真っ直ぐ彼の瞳を見据え言葉に説得力を与えた。
 「医術にも長けた寮で腕を磨き、そんな貧困に喘ぐ人々を助けたかった。それとも十二部族の生き残りであるぼくを…殺しますか?」
 卑屈な口調にナルヒトの宮は露骨に顔をしかめ黙り込む。しかしすぐに顔を上げると
 「…呼んでいる」
と呟いた。耳を澄ますと夜の静寂に混じってトウタの呼び声が聞こえてきた。
 処方された薬もすべて出来上がった。しばし逡巡したが、立ち上がり手水鉢で手を洗い使用した道具を片づけた。
「どんな風にぼくを見ていらっしゃるか存じませんが、高々大臣の養女という立場を利用し、宮廷に足を踏み入れるだけを夢見ていた、ただの田舎娘でございます」
 「……偶然にも、ミズハが滅びただけだと申すか?」
 返事の代わりにやんわりと笑みを浮かべた。そして彼が次なる質問を口にする前に、素早く部屋を出て呼び声のする方へ向かった。
 暗闇に同化するように静かに佇んでいたトウタは
「埋葬もすべて終わったよ」
 と、ぼくの顔を見るなり開口一番に告げた。
 「コマリ様のご様態は?」
 「乳母がついているよ。単なる疲労らしい」
 然程関心なかったのか小さく頷くと灯りを抱えて踵を返す。彼に歩調を合わせながらしばらく並んで歩いた。
 「……ピリがその後、どうなったか関心はないの?」
 「もう用済みだし、興味ないよ」
 冷めた眼差しで彼を一瞥すると、満足げに頬を緩ませていた。
 
 
 一日中穴を掘り続けて…素手で掘った所為か、指や掌から何度も血が滲んだ。
だけど夜を迎えてようやく人が一人入れる程度の穴が出来上がった。それから俺は、秘密基地に寝かせていたライを背負って下りた。死んだら魂が抜けた分だけ身体が軽くなるんだと、悲しいことを知った。
 そのまま露出した地面に寝かせるのが嫌で、干し草を穴の床に敷いてライを横たわらせた。
 穴の縁からライを見下ろす。これが最後で、白くなったライはもう何も語りかけてくれない。それでも想いは溢れて言葉が自然とこぼれてしまった。
「ライ……」
 語尾の余韻が寂しげに尾を引く。誰もいない。ライを見送る人は、どこにもいない。
 蛙たちの大合唱がそんな静寂を掻き消すかのように始まった。
それでも――戻ってこない。瞼を閉ざせばすぐに思い出せる。いっぱいいっぱい、一緒に色んなことを経験した。俺に世界を教えてくれたのはライだった。脳裏にその笑顔を描き再び目を開くと涙でそんな世界も歪んで見えた。でもライのいない世界はこれからもずっと、こんな風に歪んでいるのかもしれない。
泥まみれの腕で目を擦ったら、土が目に入って余計に涙が出てきた。
 「ごめん。ライ…」
 盛り上がった土を少しずつライにかける。もうライはいないのに俺はまだ生きている。あの時はライがいた。だから子どもたちと一緒にいけなかった。けど今は、知りたい。俺たちを利用した奴らが、一体何を望んでいたのかを確かめたい。そして…
チクッと胸が痛んだ。
 サトルのことを考えると痛くなる。ライがただ好きだったからかもしれない。だけど大嫌いって言われても、気になって仕方がなかった。
 目の前でライが笑った気がした。いつもみたいに、口角を上げて『ばーか』って俺の頭を軽く叩くんだ。でもそれは幻でしかなかった。身体の半分以上に土を被ったライは、ピクリとも動かないでじっとしている。今ならこの穴に飛び込めるかもしれない。ライと一緒に並んでいれば、同じように逝けるかもしれない。
 「………」
 松明がつくる俺の影はちょうどライの身体に覆い被さっていて、ライもそれを望んでいるようにも見えた。一歩足を踏み出せばそこには、永遠にライといれる世界がある。暗い穴底を包む闇から声が聞こえてきそうだった。子どもたちの泣き声。俺を誘う幾万もの白い手。
―――だけど俺は土を握りそっとライの身体にかけた。
償おうと思っても償いきれない罪だから、俺はお前たちの分も生きていかなきゃいけない。辛くても、寂しくても、死にたくなっても。犠牲になった数だけ、俺は生かされている。そんな気がする。
 
 盛り上がった土の上に石を立て、簡単だけどライの墓をつくった。明るくなったら花を摘んで飾ってやろうと思いながら基地に戻ると、誰もいない小屋の真ん中に小さな巾着袋が落ちていたのが目に止まった。
 手に取って中身を確認する。そこには黄ばんだ人の骨の欠片が入っていた。
 ライを下に運ぶときに落としたけど気づかなかったんだ。しばらくもう一度掘り起こして埋めるべきか悩んだけど、窓から覗く星がきらきらと瞬きして『いいんだよ』と言ってくれた気がした。
 紐をもっと長くて丈夫なものに取り替えて首に提げる。ライが持っていたものだから、今度は俺が持ってもきっと許してくれる。そっと布の上から触れてみた。硬い感触を心に刻みながら、大地で眠る子どもたちに向かって
 「……ずっと、傍にいるよ」
と囁いた。
 
 
 穏やかに上下する布団を見詰め、ふっと溜め息を漏らした。窓から見える炎がもう消えかかっている。
 「…もう、終わったようだ」
 長い睫が僅かに震える。月明かりに照らされて寝台に横たわる彼女の顔は、死人のように蒼褪めて見えた。
 「トウタがミズハ寮の跡から巫女と、剣が見つかったと言ってきた。イシベの大臣が監禁していたと推測しているらしい…」
 窓辺を一瞥し視線をコマリに戻すと、潤んだ茶色がかった瞳がわたしを捉えていた。
 「……むかしはもっと、髪の毛が短かった」
 驚愕しわたしを凝視する。断片的に思い出した記憶を辿りながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
 「桜の下で……貴方と出会った。よく笑う、男の子だと思った」
 感極まった様子で小刻みに肩を震わせながら起き上がり、あの時と同じ笑みを浮かべて見せた。
 「思い出して頂けたのですね…」
 かぶりを振り、期待に瞳を濡らす彼女を前に申し訳なくなった。思い出したのはほん僅かな記憶のみ。しかしあの頃はこんなに美しい女性になるとは思わなかったなと、寝台に腰を下ろし彼女の顔をまじまじと眺め思わず口元を緩めた。
 「わたしは……父を憎んでいました」
 真摯な口調に唇を硬く閉ざし徹底して聞き入る体勢になった。
 「母を、自殺にまで追い詰めたあの男を決して許せなかった」
 大きく見開かれた目元から涙がこぼれ落ちる。まるで水晶のように美しく輝く雫に、わたしは心を奪われそうになっていた。
 「跡継ぎとなる男児を生まなかった母を責めて、決して家庭を顧みなかった。そしてナルヒトの宮様との婚約が決まった時……思えばもう既に、宮様が女であることを知っていたのでしょう。あいつは母にこう言ったのです」
 両手をきつく握り締め大臣の声色を真似て叫んだ。
 「『己の仕事をまっとうせぬ怠け者! 何故男児を生まぬ! 大君の為にも、その身が滅びようと男児を生まねばならなかった!』」
 瞬きせず、一点をずっと睨み続ける姿から底知れぬ憎悪を感じる。
 「母は亡くなりました。遺書に、ただ一言…お許しを、と。ご存知でしたか? あの二人の大君の御世には女宮にも、正統な継承権はあったのですよ!」
 小刻みに震える冷え切った彼女の手の甲に触れ優しく握り締めた。コマリは悲しげに眉を寄せ啜り泣いた。
 「……亡きナルヒトの宮様にも一度、お会いしたことがあります…」
 意外な言葉に思わず目を見張る。目の水分を拭い去りながら頷き、こちらの胸中を察した様子で続けた。
 「不思議な方でした。既に死期が近いことも、ご自分の代わりに北から子どもが連れてこられることもすべて見抜いていらっしゃったのです」
 「そんな…予知の力でもあったのか……?」
 すると初めて笑顔を見せながら彼女は語った。
「子どもには皆、不思議な力が備わっているからだ。と仰っておりました」
懐かしそうに輝かせた瞳を、睫毛を伏せて隠すとその眼差しにも翳りが宿った。
「だけどそれは成長と共に失われていく力で、それが嫌だから、きっと早くに天に召されるのだと。……大人になりたくない。子どものままでいたい」
そしてわたしを正面から見据え
「世界を憎む限り、大人にはなれないと、後に貴方も同じ言葉を語られました」
彼女は静かに言い放った。
 「ナルヒトの宮とわたしが?」
 「えぇ。二度目に離宮に忍び込んだ時には、既に宮様は亡くなり…貴方がいました。空を駆けた、少年が…」
 わたしの手を両手で持ち上げコマリはそっと胸に当てた。
 「二人のナルヒトの宮様は、わたしにお約束して下さいました。この世界を変えてくれると。誰もが確立した権利を抱ける時代にしてみせると」
 「……権利?」
 「生きる者に与えられた権利を主張する、時代。もはや強者に於ける支配社会は、崩れるべきだと」
 脳裏にあどけなさの残る童女だった頃の彼女が蘇る。恐れを知らないその純粋な瞳でわたしを捉え
 「大君なんて…いらないよね?」
と問いかけてきた。
 憎んでいた。世界を束縛する大君を。だからわたしは、その言葉に大きく頷き
 「ぼくが世界を変えてやる」
 と約束した。世界を変える。ただ一人の手に委ねられたこの国の未来を、何よりも幸せに満ちたものにしたくて。
 『たかが三千万の子どもの命で大君をお守り通せるのなら、なんら悲しむこともない』
どこからか、亡くなったはずの大臣の声が聞こえてくる。
『むしろ研究に携われ名誉だと喜ぶべきだ』
 喜々としたあの顔に、目の前に座る彼女の面影が重なる。
 「……王位に就き、わたしをこの苦しみからお助け下さい」
 涙に濡れたその瞳があまりに悲しげに曇っていたので、わたしは唇を噛み締め彼女を抱き締めた。改革には必ず犠牲がついてくる。そしてわたしは、あの時の大臣と同じことをしようとしている。
 しかし――わたし自身もかつてはそれを望んでいた。己の自由と引き換えに、一族を断絶しようと決めていた。
 『やっと会えた……の…子……』
 北の地で引渡しを拒む部族長たちを武力で脅し、幾人もの血を流してわたしを手に入れた、喜びに歪む大后の笑顔を見上げ
 ―――世界を滅ぼすのは、ぼくだ。
 と確信していた。
 
 
 渡り廊下を歩いている間に、人影のなかった宮廷内にざわめきつつあった。埋葬が終わり人々も墓地から戻ってきたのだろう。向こうから歩いてくるヌヒの宮と黒髪の女性を見かけるなりトウタは
 「少し待っていて、挨拶をしてくるから」
 と言って駆けだしていった。置いてきぼりを食らったぼくは、遠くから三人が親しげに談笑する様を観察した。どうやら黒髪の女性はヌヒの宮の母親らしく、しきりにトウタに語りかけていた。
 宮廷で三本指に入る権力者、エグリの大臣の息子であるだけに子のゆく末を案じて積極的に関わろうとしているのかもしれない。いざという時にすぐに鞍替えできるよう、ヌヒの宮とも関係を持つ彼。手段を選ばず必ず目的を果たそうとするあの目つきに、これから先も慣れないだろう。
 「お待たせ」
 心の読めない笑顔はいつも不安を煽ぐ。そんなぼくの胸中を察したのか意味深な眼差しを浮かべた。
「近日中に戴冠式がおこなわれるはずだよ」
それがどちらの宮の即位を指し示しているのかわからなかった。が、同時に一刻の猶予もないのだと、改めて思い知らされた。
 
 
 日中の都はやっぱり人が大勢いて賑わっていた。夏らしい気温の中、汗だくになりながら行き交う人々から逃げるように歩く。誰かの視界に入るのが怖くて、布を頭から被って終始俯きながら足を速めた。
 一人で都にくるのはやっぱり怖かった。知らない奴ばっかりで、全身を縮ませても必ず向こうからくる人間と触れ合い、ぶつかり、その度に心臓が大きく飛び跳ねた。中には毛むくじゃらの大男の腕に当たって大声で怒鳴られたりもした。
 けれど見慣れた景色がでてくると、少しずつ別種類の緊張が燻ってきた。高い塀の向こうに立つ黒焦げた家屋の残骸がまだ新しい。青い空を背景に聳えるその姿はあの夜の出来事を生々しく思い出させた。
腕に抱いた重みも、飛び散る火の熱さも…
感傷に浸り涙腺が刺激されそうになったので、慌てて門を探して塀を回った。崩れかかった門に集まる人に思わず怖気づく。よく見てみるとみんな、俺と同じように破れた着物を纏っていた。列をつくり門兵から袋をもらって中へ入っていく。何があるのか気になって意を決し、列の最後尾に並ぶと前に立つ男たちの話が聞こえた。
「世の中不景気だとかいっとるけど、やっぱり金がある所にはあるんじゃな」
「そらそうだ。なんせナルヒトの宮と婚約しているんだからな」
「人気取りだろうけど、こうして俺らに仕事を恵んでくれるんだ。悪い人じゃないぜ」
「じゃけど放火だって聞いたぜ。屋敷も全焼だ。大臣になりゃあ、それだけ恨みも多いな」
「ここだけの話、十二部族の生き残りがやったって聞いたぜ。イシベの大臣は、ほれ、北の討伐で活躍してたろ」
「おぉ怖い。治安兵も躍起になって犯人探しとるだろなぁ」
声を潜める二人の背中を見上げ、なんだか気分が悪くなった。十二部族の生き残りが犯人だと言われているなら、もしかしたら治安兵はサトルを疑うかもしれない。でも本当の正体を言えばきっと政に利用される。剣を持たない剣の巫女。よくわからないけど、剣がなければ……巫女は苦しまずにいれるかもしれない。身分を証し立てるものがなければ、サトルはただのサトルとして一生を過ごせる気がする。
どうしてトウタがサトルを十二部族出身だと嘘を吐いたのかわからないけど、今傍にいるのはトウタだから。不安だけど、サトルを守って欲しいと願った。
「おい、チビ。お前の番だよ」
いつの間にか列が進み、門兵がしかめっ面で小さな袋を俺に突き出して待っていた。
「え?」
困惑する俺に袋を握らすと、後ろに並んでいた男たちに向かって叫んだ。
「今日はここまでだ。また明日集まれ」
大声で不満を漏らす民衆の声を塞ぐように門扉を閉める。そして小銭の入った袋を持って立ち尽くしていた俺を見下ろし門兵が屋敷の奥を指差した。
「お前は向こうを片づけろ」
よくわからなかったけど、取りあえず指示に従って焼け跡を片づける。あんなに綺麗に整備されていた庭も燃え尽き、敷地内はとても寂しくなっていた。黒い木材が山積みになった敷地に、先ほどまで俺の前に並んでいた人々が黙々と焼け焦げた残骸などを取り除いていた。
「あんた、ちょっとこっち手伝ってよ!」
甲高い声に呼ばれ振り向く。黒い木片が一人歩きしているように見えたけど、よく見たらそこからか細い腕が覗いてこちらに向かって手招きしていた。悲痛な悲鳴に後押しされ駆けつける。今にも倒れそうになりながら、小柄な女の子が自分の背丈よりも遥かに大きい木片を抱えて待っていた。
慌てて端を持ち上げると肩を大きく上下させ、隅に設けられた廃棄場所に向かって歩き出した。
「あんたさぁ、男なんだからもっと手伝いなさいよ」
キンキン声で叫ぶ背中を見詰めながら、同じ女の子なのにサトルとはまったく違う態度に驚いた。返答に困り黙っていると、頭の上で縛った髪の毛を振りながら
 「ただでさえ、今日は宮様たちがこられるんだから!」
 「…宮って、ナルヒト…が?」
 呟くなり、木材を放り投げ振り向くと勢いよく頬を叩かれた。
 「あんたねぇ! 宮様を呼び捨てにするんじゃないわよ!」
一気に捲し立て興奮冷めやらぬ様子で詰め寄ると
 「もうすぐでご婚約者を連れてここにこられるのよ! 私たちが間近で宮様を見れる、滅多とない機会なんだか……」
 急に語尾が凄んでいく。小さな顔に不似合いな二重の目を大きく見開き、詰め寄ると突然声を和らげ
 「…あんたって結構可愛い顔してるんじゃない…」
 なんとなくその変貌振りが怖くて、つい眉をしかめて
 「……気持ち悪い」
 と呟いてしまった。
 「し、失礼ね! 私のどこが気持ち悪いのよ」
 「おい、そこ! 真面目にやれ!」
 鞭を持つ監視の兵に怒られると、首を竦めて俺に向かって舌を突き出した。
 「あんたの所為だからね!」
 再び木材を持ち上げ再び歩き出しながら、小さな背中を見詰め頭を傾げた。
 「…俺の、所為……?」
 
 太陽が真上に昇り、作業は一時停止して握り飯と水が配られた。炭で黒くなった手を洗い、握り飯を食べているとさっきの女の子を見かけた。誰かを探すように周囲を見回していたけど、俺に気づくと笑顔を浮かべ駆け寄ってきた。
「あんたさぁ、名前なんていうの? 髪の毛の色とかも変わってるよねぇ」
 傍らに座るなり好奇心を剥き出しにした顔で問いかけてきた。
 「……ピリ…レイス」
「ピリ? やっぱり変わってるわぁ! 私はエナ。可愛い名前でしょ? 自分でつけたのよ。生まれてすぐに親が死んじゃってさぁ、他に呼んでくれる人間なんていなかったけど名前が欲しくなっさぁ」
 「親…いないの?」
 「私の親はいないけど、見守ってくれる人はいるわ」
エナは握り飯を旨そうに頬張りながら続けた。
 「大君よ」
「大君……?」
 予想しなかった言葉に驚いた。
 「こうして日雇いでも私たちに労働の機会を与えてくれて、誰よりも感謝している。だから私は、一生大君に忠誠を尽くすんだ。次の大君にどちらの宮がなろうとそれは変わらない。争いのない毎日を送れるのは大君のお蔭だから」
 エナの屈託ない笑顔に初めて複雑な思いを抱いた。サトルは未来を変えようとしている。ナルヒトとコマリが一緒になれば、サトルが言うような恐ろしい結末を迎えるかもしれない。だけど、サトルの望む未来がいいことなのかわからない。大君がいたから、俺たちは生まれた。ミズハがいなければ生まれるはずのなかった、ライ。
 ライが息を引き取ったあの場所は、今、知らない男たちが寝そべっている。過去は変えられないから未来を目指す。それは多分、間違いない。でも……サトルは今もきっと、ずっと一人で泣いているんだと思う。
 「急にどうして黙り込むよ?」
 口の周りに米粒をつけて小首を傾げる。なんとなく雰囲気がライに似ている気がした。だから最初からあまり怖いと感じなかったのかもしれない。
 「ねぇ、あんたはもう生涯の連れを決めたの? 私もそろそろ決めようとか思ってるんだけどさ、なんなら選んでやってもいいわよ」
 「生涯の連れ?」
 疑問符を浮かべ問い返すと、眉間に深い皺を刻み俺の耳元で叫んだ。
 「好きな奴はいるのかって聞いてんの!」
 好き、という語彙に思わず身構えた。そんな俺の反応に素早く気づき
 「どうしたの? そんなに硬くなることないでしょ」
 と豪快に笑い飛ばした。
 「第一あんたみたいな職なしと一緒になったって、女の方が困るわよ」
 「……生活、水準が?」
 「そうそう。そりゃあ高い方がいいわ」
 「気持ちがなくても?」
 「う~ん…」
しばらく腕を組んで悩むと、かぶりを振り真剣な表情で断言した。
 「いや、やっぱり気持ちがなけりゃあ幸せにはなれないわね」
 相手に振り向いてもらえなければ、不幸だってことなんだろう。俺はその主張を聞きながらふと、母親のことを思い出していた。父親の関心を得ようと形振り構わずに必死になっていた母親。別にあの女が不幸だろうと幸せだろうと、俺にはどうでもいいことだったけれど。でも、エナの言うことが正しいなら、あの母親はきっと幸せではなかったのだと気づいた。
 ふいに門扉の方が騒がしくなる。なんだろうと思って振り向くと、誰かを囲って人垣ができていた。
 「本当の幸せってさ誰かと一緒に生きることだから」
 軽く肩を叩き微笑む。その笑顔にライの面影が重なって見えた。
 「だからあの方々も最高に幸せなんだと思うよ」
 多くの付人に護衛され、満面の笑みを浮かべるナルヒトとコマリの姿が集まる人々の隙間から見えた。内側から輝いているような幸せ。そこだけがまるで金色の光に包まれているように眩しかった。
 ―――ナルヒトは、コマリが大好きで…コマリもナルヒトを大好きなんだ。
 お互いを最高の人間と認め合う二人の姿。共有する想いに自然と頬を綻ばせるその様子は、見る者にも幸せを分け与えた。温かい感情が充足し思わず口元が緩む。復讐で得る幸せよりも、あの二人のような笑顔をあげたい。もっと嫌われたっていい。誰よりも幸せになって欲しい。でもそれは、もう、間に合わないのかな…?
 
 
 現場指揮監督から進行具合の説明を受けていると、傍らにいたコマリが片腹を突いてきた。
 「宮様、あそこに」
 彼女の指差す方を見る。するとピリが見知らぬ少女と共に握り飯を食べていた。久し振りに見かけた彼は、気の所為か少し痩せて背も伸びたようだった。目つきが以前よりしっかりした印象を受ける。
 「あの者が何か?」
 わたしの視線を追ってピリを一瞥し、指揮官が問い掛けてきた。
 「呼んできてくれぬか」
 「畏まりました」
 反り上がった腹を抱え、一礼すると短い足を懸命に前後させ駆けていった。
 「彼の友人もここで亡くなったのだな?」
 「はい。父が刃で手にかけました…」
 指揮官に呼ばれ不安げに表情を曇らせ向かってくる彼は、どんな想いでここへやってきたのだろう。笑顔を浮かべ迎えても彼の顔から翳りは消えなかった。せめてもの方法として指揮官に席を外させたが態度に変化はない。
 「友人に不幸があったと聞いた。心からお悔やみ申し上げる」
 「今はどうして暮らしているのです?」
 ささやかな心遣いからの質問だったがそれさえ答えずピリは黙り込んでいた。子どもらしい膨らみある輪郭から、いつのまにか顎が尖り端正な面立ちへと変わりつつある。少年から大人になろうとしている彼の俯く顔を眺めるうちに、ふいにエグリの大臣の養女となったサトル殿とまだ交流はあるのか気にかかった。思えば初めて彼を見た夜も彼女の前で飛んでいただけに、気心知れた友だったに違いない。
 「…トウタとサトル殿が祝言を挙げると聞いたが、貴方は出席するのか?」
 するとそれまで糠に釘を打つような手応えしかえしか示さなかったピリが、全身を震わせすぐに反応し驚愕した面持ちで口を開いた。
 「どうして……?」
 思いも寄らぬ返答に、ついコマリと顔を見合わせる。
 「……宮様が、剣の巫女を見つけになられたのですよ。それで王位継承はナルヒトの宮様に決まりそうなので、これを機会にエグリの大臣も引退を、と…」
そして言い難そうに
「知らなかったのですか?」
と問うた。しかしこの言葉はきっと彼の耳に届かなかっただろう。目を見開き放心する様子に、改めて疑問を抱いた。
 ピリは巫女の正体を知っていると明言していた。ならば巫女が既に亡くなっていることも。否、違う。秘められた悲しみはもっと別の所にある。大切な何かを奪われた子どものような絶望。輝きが失われ虚ろにどこかを捉える瞳は、何を見ているのだろう。
 「……巫女が…見つかった…?」
 断片的にこぼれ落ちた言葉が重大な意味を伴って聞こえた。彼が知る巫女と、遺体となって見つかった巫女は、もしや。別人……?
 あまりに大胆な仮説に思わずかぶりを振って否定しようとした。だがそれでも頭にこびりついたトウタの不穏な笑顔が忘れられない。大臣の地下牢に安置された女性の焼死体と剣を、まるで宝物のように眺めたトウタ。笑顔を貼り合わせた顔に不似合いな、冷静な口調。
 『これで宮様の即位は確定です』
 あの冷めた口調に身の毛が総立った。
 「!」
 鈍い衝撃が胴体に伝わる。見ると瞼が隠れるくらい目を開いたピリが、わたしにしがみついていた。
 「サトルは?」
必死の形相に驚きわたしはコマリを見た。彼女もピリの動揺具合に戸惑いをあらわにしていた。
 「サトルはどうなるの? ねぇ、剣はどこにあったの! 教えて!」
 あまりに必死に懇願する様子に返答に窮する。
 「誰が見つけたんだよ! どうして…どうして、見つけたりするんだよぉ……!」
 叫び声は次第に慟哭へ変わっていった。泣き崩れる彼をどうすればいいのかわからず、周囲の注目を一身に浴びながらコマリと顔を見合わせた。
 
 これまでにない厳重警備が敷かれた宮廷内には、ただならぬ緊張感が漂っていた。完全に人払いされ野ネズミ一匹とて侵入できない大広間に、秘密裏に招集された血縁の貴族たちと腹心の大臣たちが立ち並び大君の言葉を待っている。
献上したクサヒルメの剣を長い時間を掛けて仔細に観察する大君の隣で、大后は、早くも期待に目を輝かせていた。玉座の前に片膝を付きながら、わたしもこの今までに経験したことのない緊迫した静寂に耐えた。
 「剣の巫女はそなたが見つけた時既に、焼死体となっていたと申すか」
 ようやく発せられた言葉に、神妙に頷く。
「亡きイシベの大臣の屋敷より発見致しました。ただいくら腕に自信のある者に任せても、鞘より刃が抜けませぬ」
 「……それでは…本物かどうかさえわからないのではないですか?」
 卑屈にコマリが呟く。しかしすぐに大后が諌めるように
 「いいえ、本物でしょう」
と断言した。
「これまで何人も剣を鞘より抜いた者はおりませんでした。唯一人、剣の巫女を除いて…」
そして今だ大君が眺める剣を一瞥し
「なによりもこの剣の造りは、書記に残る外見と一寸と違わぬ物。大君、これこそナルヒトの宮が巫女を見つけたと言う証拠でありましょう」
同意を求められ、しばし沈黙していた大君も口火を切った。
「……死人に真実を語る口はない。もし巫女が存命する状態で見つけたなら、そなたはどのように対処した?」
射抜くような視線を正面から受け止め、できるだけ冷静を装い淡々と言葉を紡いだ。
 「我らの脅威となりえる巫女は遅からず抹消すべき存在でした。例えこのような形で巫女を見つけなかったとしても、わたしは…」
 それまで俯いていたヌヒの宮が急に顔を上げた。
 「わたしは、巫女を切り捨てたでしょう」
 語尾が周囲に静かに響く。その波紋の中で蠢く人々の思惑を思い、己の発する言葉が今まで以上に大きな影響を及ぼすことを考えた。
 大臣たちの間で走ったざわめきが完全に納まるのを待って
 「戴冠式と婚儀は次の吉日に行う」
 頬を上気させたコマリが喜びに満ちた笑顔でわたしを見た。その様子を横目で一瞥し、足元に伸びる影を見詰めた。
 「恐れながら大君にお願いしたき儀がございます」
 唐突にヌヒが立ち上がりわたしの横に並んだ。意表を衝いた行動に一同も興味津々といった感じで彼を注目する。
 「ナルヒトの宮様が即位される前に、一つ確認したきことがございます。その願いが叶えられましたなら、これより一生を新大君に捧げる覚悟でございます」
 「申してみよ」
「――北の地に…かつて十二部族が生活を営んでいたかの地で、大君と大后もご同行の上確かめたいのです」
 その時、言いようのない緊迫感がわたしと大君、そして大后の間を走った。
 「……よかろう。ならば明朝より北へ向かう」
 意を決したような大君の言葉がとてつもなく不吉に聞こえた。
 
 
 「明日、北へ…?」
 屋敷に帰るなりトウタはぼくの部屋にやってきて、したり顔で宮廷でのことを話してきた。
 「…サトルもくる?」
 手酌で酒を注ぎながら意味深に問いかける。
 もしかしたら、彼もぼくの本来の目的を知っているかもしれない。ならばこれは一種の賭けだ。
 「コマリ様がきみと話がしたいって言ってたよ」
 最後に会った、あの夜の泣き顔を思い浮かべた。わかりやすい嘘にそっと微笑みをつくって頷く。もはや失敗は許されない。
「……ぼくも、これからの為に上流階級の方々の礼儀作法を教わりたかった所なんだ」
「そう」
嬉しそうに頬を緩めるとトウタは酒を手元に置きぼくを眺めた。
「手始めに一人称をぼくからわたしに、変えたらどうかな?」
まるで女装したぼくを鑑賞するかのような眼差しに戸惑いを覚える。
「もう男を演じる必要もないだろ?」
 「長い間使っているからもう身についちゃったんだよ」
 ほんのりと赤みがかってきた顔を寄せ、そっと手を伸ばしてきた。大きな手が頬に触れもみ上げを優しく撫ぜる。
 「少し伸ばしてみたら? 髪を結い上げた方がきっとよく似合うよ」
 やんわりと手から離れるとぼくは笑顔でかぶりを振って拒んだ。
 「長いと手入れが面倒だろ?」
 悉く要求を拒むと、つまらなそうにそっぽを向いた。
拗ねているのか? 意外な反応につい目を見張る。初めて駆け引きやしがらみから解かれた彼の正体を垣間見た気がした。しかし次の瞬間には普段の冷めた雰囲気を取り戻していた。
 「……今日、再三ピリの所に使いを出した。だけど塒には誰もいなかった」
 心臓を鷲掴みにされたような衝撃。しばし呼吸も忘れトウタの顔を見詰めていた。離れた距離が縮まり、いつの間にか目の前にきた顔を見上げ沸き立つ嫌悪感を覚える。握り締めた拳が震えその震動が全身に伝わっていた。
 涙が薄い膜を作り彼の顔をぼやかした。口端に貼りついた笑顔を見た瞬間、嫌な予感が頭を過ぎる。
 「ライを失ったピリが、今も生きているとは思えない」
まさに考えていたことを言い当てられ、どうしても否定できないでいる自分がいた。
 そっと肩を抱き寄せられたが、激しく動揺して拒めなかった。意外にも広い胸板に顔をうずめ、下唇を噛み締め涙を堪えた。信じたくない。だけど、どうして彼が今も生きていると言える? あれだけライに依存して、ライに一生を捧げていたようなピリが、生きている訳がない。
 ぼくはライだけではなく、ピリも……殺したんだ。
 「ふっ」
吸い込んだ空気が喉元で痞えた。途端呼吸が乱れ、我慢していた涙が堰を切って流れ出た。同時にトウタがゆっくりと背を叩き始めた。そのリズムに乗って呼吸も少しずつ穏やかになってきた。
 闇夜の静寂を掻き消すように鈴虫たちの合唱が始まった。
トウタの手の動きが止まり、薄絹の上から背筋を軽く押さえる。
 「きみの目的は、ぼくの目的でもある」
 耳鳴りがする耳を軽く押さえトウタの顔を仰いだ。
 「……これまで大君直系の子孫のみが王位継承権を持っていた。だけど表立って知られていないが、もし、その子孫の血筋が断絶した時。時期大君を神託で選ぶことができる。その条件として大君の祖、ウツベノヒコ神の血を継ぐ者が選ばれる」
 何を…言おうとしている……?
 「大君一族を滅ぼし、きみが王位に立つことだって可能だ」
 全身の血の気が引いた。心臓が脈打つ音が大きく聞こえる。
 「………そう」
トウタは人の皮を被った化け物のような笑顔を向けてきた。
「オオサク島にあった家系図だけど、処分したつもりが忘れていてさ」
邪気のない笑顔が胸を衝く。心の底から憎しみを、悲しみを叫びたいのに言葉が出てこない。
 ―――助けてと、誰かが呟いた。ずっと、長い間閉じ込めていた少女だった頃のぼくが、泣いている。感情なんていらない。情があればそれを盾に攻める者がいるから。だから薬を飲み続け、自分の性別さえも偽り続けた。男でも女でもない中途半端な自分。それでも恋をした。束縛されない自由を享受した彼に憧れ、いつの間にか想いは大きくなっていた。
 「サトルの狙いが大君一族の滅亡なら、悪い話ではない。そうだろ?」
 峠には戻れない。そこで待っている荒れ果てた地と、死の選択が怖い。だけどこの世界で生きる意味がわからない。ただ一つの希望は、既に消えてしまっていたのだから。
 もうどこにも、彼はいない。
 「……」
涙の乾いた目で彼を見る。この男は、間違いなくぼくを王位に立たせるだろう。かつて辺境の地へ追いやられた罪人の子孫が玉座に就き、大君たちが行ってきたことをすべて明らかにする。これ以上の復讐はきっとない。
 みんなはそれで…満足してくれる? ぼくらが受けてきた理不尽な一生に対する恨みを、これで晴らすことができる? そしてただ一人逃げ出したぼくを……許して、くれる?
「思えばまだちゃんと結婚を申し込んでいなかったしね」
急速に体温を失っていく手を握り締め、トウタは甘く囁いた。
 もう、誰にも、心を許さない。多くの犠牲の上に聳え立つ玉座を踏み砕き、王冠を高く放り投げてやろう。あいつらが守ってきたものは呆気なく崩れ落ち、大君一族はぼくの手で終焉を迎える。神の子を信じた者たちと共に、滅びればいい。苦しみ、この世の地獄を生き抜けばいい。
 ―――この世界に、彼はいないのだから。
 「……」
 返事の代わりに小さく頷く。途端背中を支える手に力が込められた。
瞼を閉ざすと暗闇の中に世界の最期が映し出された。
 
 
 手元に置かれた蝋燭だけじゃこの部屋のすべてを照らし出せない。物の価値なんてよくわかんない俺だったけど、広い部屋に置かれた装飾品はきっと高価なんだろうなぁと思った。
取りとめのない考えことをしながら視線を漂わせる。綺麗な絵柄が入った天井に俺の影が分身して各方向に伸びていた。ここで待っていてと言われずっと長椅子に座って大人しくしていたけど、ナルヒトもコマリもなかなか戻ってこなかった。巨大な宮廷内にはいっぱい人間がいるはずなのに、窓の外と同じ夜の静寂で満ちている。人の気配さえない心細さに不安を覚え、そっと床を蹴って飛び上がった。
 一回り大きな影が俺について動く。天井が高いから空を飛ぶように自由に浮遊できた。
 天井画を背に一回転する。と、ふいに視線を向けた色彩の中から一際鮮やかな朱色が飛び込んできた。
 「!」
 両手をつきそこに描かれた絵を眺める。でも絵が大き過ぎて視界に入りきらなかったから、少し離れてもう一度見上げた。
 「……鳥?」
 いくつもの枠に分かれて描かれた中でも、赤い色をふんだんに使った派手な絵には民族衣装みたいな物を着た沢山の人が集まり、光る球体から出てきた白い鳥を捕まえようとしている様子が描かれていた。集団から少し離れて小さな子どもがいる。でも顔が何故か黒く塗り潰されて、服装から辛うじて男の子だと判断できる程度だ。
 どうしてこんな絵が描かれているんだろう。俺の知る限りの神話に、白い鳥が出てくる所はなかったと思う。
 「どうかされたか?」
 突然声をかけられ、驚きのあまり天井で頭を打ってしまった。そんな俺を見上げ綺麗に髪の毛も結い上げたコマリが、くすくすと忍び笑いを漏らした。頭に飾った牡丹の花がより雰囲気を華やかにしている。
俺の足元まで歩み寄り正装姿のナルヒトが優しい口調で謝ってきた。
 「随分待たせてしまって申し訳ない」
他意のない真摯な態度に警戒心が緩む。
俺がゆっくりと降りてくるのを見届けると、コマリはナルヒトに挨拶を始めた。
 「では宮様、わたしは明日の用意をして参ります」
コマリを見詰める目が言葉以上にナルヒトの気持ちを伝えていた。そしてナルヒトを見るコマリも、同じだった。好きだって言っていないのに、きっとその想いは通じ合っている。何かを崩していくはずの感情なのに、この二人からはそんな悲しみは一切感じられない。それどころか……
 俺もそんな二人を見ていて心が沸き立つような喜びを共感していた。
 「貴方を招いたのは他でもない」
 部屋に浮かぶ影が二人だけになった途端、ナルヒトは真面目な面持ちで口を開いた。再び長椅子に座るよう勧められたけど、慣れない豪華な椅子よりも俺は床から少し浮いたまま話を聞くことにした。
 「剣の巫女の正体を、教えて欲しい」
 単刀直入な要望に面食らう。
 「わたしが見つけた巫女はトウタが全焼したミズハ寮から発見した遺体だった」
 一呼吸吐きしばらく黙り込むとナルヒトは悩みながらも話し続けた。
 「サトル殿が偶然にもあの夜、あの場所にいた。エグリの大臣の養女であり、トウタの婚約者でもある彼女が何故いたのだろう。巫女を救い出そうとしたのかもしれない。もしくは…トウタと共謀し、ミズハ寮で開発された不死の薬を盗もうとしていたのかもしれぬ」
 かぶりを振り憂鬱な眼差しを向けた。
 「誰を信じればいいのかわからない…」
「…でも、コマリがいる」
 コマリの名に反応しナルヒトはその暗澹とした瞳に一縷の光を覗かせた。椅子の肘掛に頬をつくと、僅かに開いた唇の端から
 「彼女の為に……」
と漏らした。柔らかい絨毯に足を着けナルヒトに近づく。身長の差があったから椅子に座っている状態でようやく視線が同じくらいになる。こんなに近い距離で話をするなんて初めてだ、そう思った時。ふいにナルヒトから懐かしい匂いがした。俺がよく知っている匂い。懐かしくて、思い出そうとすると胸が締めつけられるみたいに痛んだ。
黙り込む俺を怪訝そうに見る優しげな瞳。匂いの記憶を辿りながら、あの時庭園で口にした質問をもう一度繰り返した。
「巫女を見つけて、どうするの?」
 俺を正面から見つめそのまま決して目を逸らさず、ナルヒトは静かに断言した。
「自由を、与えたい」
そしてナルヒトは続けた。
 「我々の所為ですべてを失った巫女に、罪を償いたい。それが大君になる者の使命だ」
 足の隅々から沸き立つ力に身体を解き放ち再び宙に飛び上がる。嬉しくて三回転した。
 「俺、ナルヒトが大君になるなら教える」
 飛び上がったまま顔を近づけ肩に手を置いた。何かに摑まっていないとまた回転したくなりそうだったから。
 「サトルが、剣の巫女なんだ」
 黒い部分の多い目を開いて驚きを顕わにした。
 「………殺そうと…して…る」
 急にサトルがこの二人を殺そうとしていることを思い出し言葉が震えた。二人が結ばれる未来を恐れて。あんなに幸せそうにしていたのに。見ていて嬉しくなったのに。それなのに殺すの? どうしても変わらない未来なのか? また罪を重ねてそれを苦に生きていく。嫌な方へ進んで行こうとするサトル。止めなきゃいけない。今ならまだ間に合う。きっと、きっと間に合う。
 驚いたままの顔を見詰め返し
 「サトルが殺そうとしているのは、ナルヒトとコマリ」
 と告げた。
 
 
 驚いたことに、彼女がわたしたちを殺そうとしていると聞いても心のどこかで納得している自分がいた。元々十二部族のサトル殿が大君一族を憎んでいると知っていたからかもしれない。
 彼女が捜し求めていた剣の巫女。
失われし剣を携えた乙女が、高く積み上げられた屍の上に新たな地を築く。その時、屍を生む者が剣の鞘となる―――
あの予言はわたしたちの最後を伝えている。ならばサトル殿が我らを滅ぼし、新たな世界を切り拓くというのか? 新たな剣の鞘。それは我ら大君一族。
「北へ…」
こぼれ落ちた言葉がどこか心細く聞こえた。
「明日、北へ向かう。大君と大后も同行し、ヌヒの宮があることを確かめる為に随行するのだ」
今宵集められた大臣たちも共に出立する予定だ。無論、そこにはトウタとエグリの大臣も含まれている。
「恐らくトウタと共にサトル殿もくるだろう。わたしが即位する前に、わたしたちの命を狙うはずだ」
「サトルを止めなきゃいけない」
迷いのない真っ直ぐな視線を受け止め、そこに秘められた感情を読み取ろうとした。
「これ以上、罪を重ねちゃ駄目だ。一番辛いのはサトルだから」
以前対峙した時はどこか心許ない表情をしていた彼は今、誰かの為に、その身を張って生きようとしている。目を伏せ自問する。わたしは、彼との約束も、コマリの願いも叶えようとしている。だからきっと、後悔はしないだろう。
「俺も北に行く」
快活に言い放つ声の主は遥か頭上を旋回していた。
「置いて行っても絶対について行く!」
全身に力を込め大声で叫ぶ、珍しく強固な意見に彼女への想いを垣間見た気がして自然と頬が緩んだ。自由に駆け回る彼と、彼の影を目で追いながら――その背後にある天井画へ注意を向けた。
光る球身体から飛び出した白い鳥。そして鳥を捕まえようとする大勢の人。
わたしの視線に気づき振り向くと、顔を塗り潰された男の子を見詰め
「……ナルヒトに、似てる」
まさに胸中にあった想いをを言い当てられ驚いた。今まで大して関心を持たなかったが、よくよく考えればこの部屋は亡きナルヒトの宮の為に造られた物。内装もすべて亡き宮の趣に従っていた。絵柄の右隣に眩い光に包まれた都の様子が描かれている。そして左隣には男女が手を取り合う姿が。足元に集まる人々の格好を見ると、それが決して祝福に満ちた構図でないとわかった。
まるで二人の仲を引き裂こうと、虫のように群がっている。
動悸が早まり額に脂汗が浮かぶ。三つの絵が伝えようとする事柄を到底真実だと思いたくなかった。だが、どうして今、コマリの言葉が反芻されるのだろう。
 『不思議な方でした。既に死期が近いことも、ご自分の代わりに北から子どもが連れてこられることもすべて見抜いていらっしゃったのです』
 わたしの一生もすべて見通していた。白い鳥を捕まえようとする大人たち。北で見つけられた記憶を失くした幼い子ども。いずれその子どもがある女性と結ばれ、世界は変貌を遂げる……
 それはあの絵のように光に満ちているものなのか? 果たして光は幸せを意味するのだろうか。
 わたしを見下ろす空色の瞳が、一瞬翳りを宿した気がした。
 
 
 「つまりあんたはライがサトルを好きだったから、それを擬似的に真似してるんじゃない」
持ってきた握り飯の包みを開きながら、エナは呆れた口調で呟いた。ナルヒトたちを追って都を出た時、大君たちの見送りにきていたエナに摑まり、どういう訳か旅に同行することになってしまったのだ。なんだか都合よく言い包められ、いつの間にかサトルとライのことまで喋らされていた。
木陰で塩味の握り飯を頬張り、あまりに辛いので水筒の中身を一気に飲み干した。歩き続けるから塩分は必要と毎日辛い物ばかり食べさせられた。確かに炎天下を黙々と歩いているだけなのに、日が暮れる頃には衣から搾れるくらいの汗が出た。北に近づいているはずなのに気温は一向に変わらない。それが何を意味するのかわからなかったけど、正身体の知れない不安だけは蓄積されていった。
 「俺、ライの真似してないよ」
 空になった水筒を持って目の前を流れる小川に入る。めだかくらいの小さな魚が群れを成して足の間を泳いでいった。色とりどりの小石が宝石みたいに輝いている。明るい日差しを反射した川面はとても眩しくて、つい目を細めて空を仰いだ。
 「だーかーら! あんたの言う好きって気持ちは飽く迄、恋になり得てないのよ。きっと肉親に持つ感情と同じだわ。サトルって子に母親の面影でも重ねてるんじゃない」
 母親というところに反応しエナの方を見た。大きな楠の陰に隠れてどこにいるのかよくわからない。光の世界に立つのは俺だけのようにも見えて。不安と一緒に何故か必死に否定したくなって大声で叫んだ。
 「サトルは母親じゃないぞ!」
 「んなことわかってるわよ!」
 陰の中から返事が飛んでくる。
 「たださ、その大臣の息子と婚約しているなら…少なからずもサトルはそいつが好きなのよ。じゃなきゃ結婚なんて絶対に無理。幸せになれっこないわ」
 着物の裾を持ち上げ木の形に区切られた黒い影の中から、眩しげに顔をしかめたエナが現れた。そして俺の手から水筒を奪い取り、容器ごと沈め中身をいっぱいにすると喉を鳴らして旨そうに飲んだ。
 口の周りの水分を豪快に拭うと俺を睨みつけてきた。
 「第一にあんたは誰の為に何をしたいのかを考えなさいよ。聞いている限りそのサトルって子は、一人でも生きていけるしきっと他人を必要としない感じよ。頭も切れるし才能もある。しかも今は玉の輿だって乗れる状態だし」
 俺は大袈裟な身振りを加え熱弁をふるうエナをただ黙って見た。俺は今までライをずっと必要として生きていた。だけどその間もサトルは誰かを必要としたことはなかったんだと思うと、ふいに悲しい気持ちになった。だけど確かにライはサトルが好きで、その時、ライはサトルをとても必要としていた。どうかそれを疎ましく思わないで欲しい。
 サトルを見詰めていたあの緑の瞳が、今もどこかで活き活きと輝いている気がして――胸が苦しくなった。ライが好きで、サトルが好きで。でも、あの頃のライを思い出すとどうしても落ち着かない。俺を見ていなかったから? ライの愛情を奪われたように思えて?
 わからない。わからない。…わからない。
 勢いよくエナが川面を蹴り上げ、水飛沫が飛び上がりそれが目の前をキラキラ光りながら辺りに降り注いだ。その様子をどこか楽しむように眺めながら
 「考えるのよ。あんたのしたいことを」
 振り向きざまの笑顔に、いつも探している懐かしい面影が重なって見えた気がした。
 
 
大君の御幸。それは当代稀にない大行事だった。歴代の大君のほとんどが都から一歩も出ることなく生涯を終えていたことを考えれば、あの幼い宮の目的が大儀なものに感じられる。
 四人乗りの馬車にぼくは一人揺られながら窓の外で平伏す民衆を眺めた。本来なら同乗するはずだったトウタは、ヌヒの宮の話し相手に呼ばれ後方から続く比べるまでもなく豪奢な馬車に乗っている。エグリの大臣は持病の腰痛と、大君が都を離れている間の警備を理由に北への同行を断っていた。実際の所は嫉妬深いヒロマ様に脅され否応なく話を見送ったのだ。
 青々とした稲の上に延々と続く行列の影が映る。風が吹く度に凪ぎ緑の海を見ているような錯覚を覚え、久し振りに穏やかな気持ちを取り戻した。トウタがいる間ひとときも心落ち着く気分になんてなれなかったから。
 道が険しくなるに連れ森林が多くなってくる。人家が僅かに存在する他に灯りはなく、次第に傾いてく太陽が愛しく思えた。木々のざわめきに耳を澄ませ瞼を閉ざす。空を羽ばたく鳥たちの鳴き声が遥か彼方から聞こえ、そこに重ねるように誰かを呼ぶ声がこだました。
 誰かがぼくを呼んでいる。懐かしい土の匂い。摘みかけだった薬草から目を逸らし、声に反応して勢いよく顔を上げた。
 「サトルー」
 点在する緑の上を駆けてくる従姉たちの姿に向かって手を振った。黒い黒髪を揺らし、笑い声を響かせながらぼくの元へ集まると急にそこだけ華やいだ気がした。
 「決まったの!」
 草籠を抱えていたぼくを囲うと、頬を紅潮させた年上の従姉たちは口々に囃し立てた。
 「私たちの番が遂にきたの! 明後日、三番目の風が吹いた時にお宮入りするの」
 ある程度の年齢に達した子どもたちが、大地の依代となる為に儀式を受けることを『宮入り』呼んでいた。それはこの地に於いて重大な意味を持ち、宮入りを通じて神に近づくのだと教えられ続けた。
「誰よりも綺麗に装うのよ。私は赤い衣を縫って! サトルは? 貴方は何色にするの?」
 「サトルは白い色が映えるわ。私たちよりも瞳の色が濃いもの」
 「えぇー! 青の方がいいわ!」
 喜々と振舞うみんなだがその瞳はどれも翳りを宿していた。誰もが知っている。宮入りとは死を意味するもの。未来にこの峠を残す為に自らが犠牲となるのだ。年長者によって選ばれた乙女と少年を残し、ぼくらはこの峠に必要なものと引き換えに死んでいく。そうして少しずつ峠は緑を取り戻してきた。
 「……誰が残るの?」
 ぼくの問いかけに一斉に姉たちの表情が硬くなる。互いに視線を漂わせ、青い眼球だけが太陽の光を受け悲しげな色を発した。そして重い沈黙を振り払おうとしたわざとらしいまでに明るい声で
 「ナカクよ」
 と呟いた。
 今年生まれたばかりの幼い妹。輝くばかりの笑顔を年寄りたちは手放しに可愛がっていた。
 無意識に唇を噛み締めていたぼくの手を握り、従姉たちは優しく微笑んだ。
 「大丈夫よサトル。私たちは姿を変えて生き続ける。この地にあるすべてがそうして存在し続けたように、私たちは永遠の命を手に入れるのよ」
 大人たちがぼくらを諭すときに用いる科白をそのまま引用した聞き飽きた言い訳。だけどそんな優しい姉たちから視線を逸らし、ぼくは母の胸に抱かれ畑にいる父の元へ向かうナカクを見詰めていた。
小麦色に焼けた額の汗を拭いナカクを見詰め、幸せを噛み締めるように笑う父と母。同じ赤土の錆びた大地に立つのに、そこだけはまるで天からも地からも祝福されているように煌々と輝いている。
沸き立つ憎しみに全身が火照った。ぼくらは枯れ果てる運命なのに、己の生をまっとうする者がそこにいる。どうしてと、自問を繰り返すうちに憎悪が心を食い荒らし増幅していった。強制される訳ではない。だけどそれは当たり前のように受け継がれてきた伝統の一つ。この広くも狭い世界で暮らしていく為にも、ぼくらは仕来りを守らなければならない。助け合って生きてきたから、最後まで、自らの一生さえもみんなの為に、捧げなければならない。
それでも。
―――どうして、ナカクなの?
 涙腺が熱くなり激しい感情が込み上げてきた。記憶の中で蘇った懐かしい故郷。耳元で直に姉者たちの声を聞いた気がした。怖かったのはみんな同じ。だけど我慢できなかったぼくだけが生き残っていた。
 生に対する執着。いつかライに語りかけた言葉がこだまする。己の死から目を逸らし逃げ続けた臆病者。彼が犠牲となった子どもたちの声に苦しめられていたように、ぼくを責めてくれた方が救われる。
 死人に口なし。後悔はすべて生きている者たちの間でしか通じない。だからこれ以上に恐れることはない。この身がどうなろうともう構わない。悲しみを越える憎しみがぼくを生かしているから。そしてすべてを終えた時、生きる意味を失うだろう。
 窓から吹きつける風を正面から受け止め、待ち構える未来に思いを馳せながら。ぼくは夕日に染められた小さな町を眺めた。
 
 
 亡きイシベ大臣の別荘にわたしたちは宿泊することとなっていた。今やコマリの所有地となった、賑やかな町から隔離されたようなひっそりとした雰囲気はオオサク島の屋敷を彷彿とさせた。
 大臣が北の討伐に向かう際使用したのが最後、主君の部屋に置かれた唯一使い古された脇息が物悲しく見えたが、凛とした静寂の中に故人の面影を感じた。大君と大后に広い客室を明け渡しその隣室に付き人たちを控えさせると、後はわたしとコマリ、ヌヒの宮とクレハだけになった。他の大臣たちは各々が宿を取り、花の少ない庭園に武装した兵士たちが所狭しと見張っている。
 こうして見るとなんと宮中は広々としていたのだろうと、改めて実感させられた。例を見ない大君の御幸だが、本来なら大君はあの宮中で生まれ育ち死ぬまで束縛される運命だった。そう考えれば未だに足を踏み入れたことのない部屋が幾つもあるような広い宮中でも、一生を過ごすには狭いのかもしれない。
 「落ち着いた佇まいですね」
 庭を眺めていたわたしにヌヒの宮が声をかける。隣に立つコマリへの世辞だろう。
軽く低頭し礼を述べるコマリを一瞥し
 「クレハはまだ酔っているのか?」
 長時間馬車に揺られすっかり酔ってしまったクレハは、屋敷に着くなり床に伏せてしまっていた。彼女もまた、滅多に外へ出歩くことがない為緊張していたのかもしれない。
 「はい。薬を飲んでお休みになっています」
 「…サトル殿が調剤した薬か?」
 不安が込み上げるのを我慢し素知らぬ顔で質問した。すると相好を崩し笑顔を作ると
 「はい。ぼくも気分が優れなかったのですが、かの薬師のお蔭ですぐに治りました。母宮様も大分よくなられたそうです」
 と答えた。
 「最近では…噂を聞きつけた大臣たちまでもが薬を所望していると聞きました」
 ぎこちなくコマリが言い添える。
 「トウタも素晴らしい奥方を迎えるのですね」
 確かに彼女の薬師としての腕前や容姿は周囲でも評判が高く、それは夫になるトウタの評価にも少なからず影響を与えていた。しかしこの旅に同行しているサトル殿から笑顔は一向に見られなかった。邪推かもしれない。だがピリの想い人であろう彼女が、トウタを愛しているとは思えない。むしろあの二人こそ互いに惹かれ合っているのではないだろうか。
 「宮様? どうかされましたの?」
 肩から流れ落ちるコマリの黒髪を見詰め、力なく笑顔を作った。どんな事情があろうとサトル殿はトウタと結婚する。そしてわたしも、彼女と共に未来を築いていくのだ。それがわたしたちで決めた未来なのだから。
 「町の様子を見に行こうかと思うのだが」
 「ならば私もご一緒致しますわ。ここは貝で有名ですのよ」
 意気揚々のコマリを見上げ慌ててヌヒの宮が口を挟んできた。
 「ですがこれより、ミチベの大臣が挨拶にこられる予定ですよ」
「宮様は己の目で下々の暮らしぶりを確かめたいのですね。実際に体験せねばわからぬことも多いでしょう」
 一瞬ヌヒの宮が頬を膨らませたように見えたが、敢えて言及は避けておいた。意地悪く目を輝かせるコマリの肩を叩き、相槌を打つと
 「わたしの代わりに貴方が出迎えておくれ。美しい女人の方が、大臣も喜ばれよう」
 「宮様のお望みならば喜んで。ヌヒの宮様、恐れ入りますが私が名代を務めさせて頂きますわ」
 不貞腐れた様子で頷くとヌヒの宮は踵を返し屋敷の奥へと戻って行ってしまった。その後ろ姿を見送り、共犯者の笑みを浮かべると
 「では愛しい宮様、いってらっしゃいまし」
 と芝居がかった口調で囁いた。
 
 然程大きくはない町だったが旅人や買い物客で賑わっていた。地方になるとわたしの顔も知られておらず、二、三人のお供を連れた貴族とでも思われているようであった。従者が馬を出すと言い張ったが、長い旅路を考え徒歩で待ち合わせ場所である門所に向かった。流通する物資や人を管理する為に各町村の出入り口に門所と呼ばれる管理施設を設けていた。そこを抜けるにはそれぞれの領地を治める大臣以上の地位に立つ者の証文が必要なので、恐らく彼も門所で足止めを食らっているに違いない。
 「だーかーら! 私たちは怪しい者じゃないってば!」
 塀で囲まれた門の向こうから甲高い少女の声が聞こえる。何事かと首を傾げていると詰め所から年配の男が駆け寄って敬礼した。
 「ナルヒトの宮様! お目にかかれて光栄にございます!」
 挨拶を適当に流してざわつく門を一瞥する。
 「事前に通達したはずだが、栗色の髪のピリと名乗る少年はもう着いただろうか?」
 すると程よく皺の入った顔を引きつらせ言い辛そうに開口した。
 「それが……同行の少女が今、門の向こうで騒いでおりまして。私共はご命令通り少年のみ通そうとしたのですが、エナと名乗る少女も一緒でなければ通らないと断固として言い張るので」
 「エナ?」
 初めて聞く名前に再び首を傾げる。
 「その少女の目的とは?」
 「はぁ…それが、一目でいいから宮様方にお会いしたいと」
 益々意味がわからなくなった。何故彼がそんな少女を連れてきたのだろう。男も心底困ったように睫を俯かせると、わたしの命令を待つように黙り込んだ。
 「いー加減! 入れてってば!」
 金切り声で叫ぶ少女の形相を想像し短い溜め息を漏らした。そして恐る恐る顔を上げる男に向かって
 「わかった。その者の身はわたしが責任を持とう。中に入れてくれ」
 「畏まりました」
 一礼して門の脇に立つ男たちの元へ駆けて行くとゆっくりと巨大な門が押し開かれた。山並みが続く景色が目の前に広がり、その下でピリと門兵に掴み掛かる小柄な少女が驚いたようにわたしを見た。
 「ナルヒト!」
 いつものように呼び捨てでわたしの名を叫び、駆け出そうとするピリの頭を少女が咄嗟に殴りつける。
 「呼び捨てにするんじゃないの!」
そして門兵から飛び離れ、(恐らく乱闘で)乱れた髪を撫ぜつけ恥らうようにわたしの元へ歩み寄ると両膝をついて頭を下げた。
 「お慕いしておりました。この度はご婚約おめでとうございます」
 庶民にわたしたちの婚約が伝わったのはつい最近だったことを思い出し、頷いた。そしてピリの口からこの少女の説明を聞こうと視線を向けた。
 わたしの意志を素早く察したらしく唇を突き出し
 「エナが勝手についてきたんだ」
 その不貞腐れた顔がどこかヌヒと似ていてつい苦笑する。そして恭しく頭を垂れる少女を見詰め、そういえば屋敷の焼け跡で見た顔だと思い出した。あの時もなにか言いたげにわたしたちを見ていたが、ただそれだけを伝えに遥々ここまできたのか。見上げた根性だと感心した。
それからわたしは兵たちの詰め所を借り改めて二人と向き合うことにした。
 「まさか徒歩でやってくるとは思ってもなかった」
 返事の代わりにピリは不機嫌そうにエナを睨んだ。きっと彼女が飛ぶことを拒んだのか、飛ぶ力を暴露していないのだろう。終始わたしに向けられている彼女の視線が気になったのでとりあえず声をかけた。
 「ところで貴方はこれよりどうされるつもりか?」
 「宮様に心配して頂けて…私は幸せです」
 両手を組み感極まった様子で叫んだ。そして涙を流しながら
 「私は大君に一生を捧げて生きるつもりでした。だからこうして御子である宮様にお会いでき、もう願うことはありません」
 「ご両親は?」
 「知りません。私はハシヒトの大君がお造り下さいました孤児院で拾われましたから」
 淡々とした口調に胸が痛む。つまり本当に私たちに会う為だけにここまでやってきたのだろう。しかしこんな年若い子どもを放っておく訳にもいかない。悩み抜いた上、ふいに思いついた言葉をそのまま口にしてみた。
 「ならばコマリの元で働くがよい」
 大きな瞳をこれでもか、とばかりに見開け驚くエナ。
 「知っての通りあの火災で多くの侍従が亡くなり、怪我を理由に里へ戻った者もいる。貴方に異存がなければ、彼女の話し相手になって欲しいのだが」
 「そんな! 勿身体ないお言葉でございます!」
 あまりに大袈裟に両手を振るので、差し出がましい申し出だったかと思い直した。確かに素性の知れぬ者を傍に置くことに関し浅慮が過ぎたかもしれない。慣れない宮廷暮らしを思うと不便でも自由のある今の生活の方がいいだろう。
 「そうか。そんなに嫌ならば」
 「いえ! 喜んでお仕え致します!」
 提案を取り下げようとしたわたしに対し、エナは間髪入れず叫んだ。
 
 
 エナは侍従と一緒に出て行ってしまった。最後まで浮き足立って俺に目もくれないで。なんだかあれだけうるさいと思っていたのに、いなくなった途端物足らなくなった。常に傍らに誰かがいたから隣がとても広く見える。
 馬の尻尾みたいな髪の毛が揺らし歩くエナを見送る。嬉しそうに足取りも軽やかでそのまま飛び立っていきそうだ。ライに似ている気がしたけど、全然違う。男と女の違いなのかもしれないけど、ライの代わりになれる人間なんてもう、どこにもいないんだ。ライが今でも一番好きで、だけど同じように一番好きなサトルはライになれない。
 「賑やかな道中であっただろう」
 爽やかな笑顔を見上げきっとナルヒトにとってもコマリは、誰にもなれない大切な人なんだと思った。
 「だって、あれがエナだぞ」
 一人の人間にある価値がとてつもなく大切なもので、最高の人間にはそれを上回るものがある。思わず笑みがこぼれた。
 「そうか…」
頬を上気させる俺とは対照的に、冷ややかに唇の端を緩め頷くと
 「宿の一室取っておいた。町の外れにあるが、くれぐれも誰かに姿を見られぬよう気をつけて欲しい」
 懐から宿の鍵を取り出して俺の前に差し出した。
 「エナ殿にも口止めしておこう。わかっていると思うが、大君が同行する故に周囲はいつも以上に過敏になっている。もし貴方が我々を追ってきたと知れたなら、下手をすれば打ち首となるだろう」
 ナルヒトの言いたいことはよくわかったけど、俺は一目でもいいから早くサトルに会いたかった。サトルの復讐を止める為にやってきたのに、こうしている間もサトルは自分を責めて、周りを責めて苦しんでいる気がする。
 「わたしもそう度々自由に外を出歩ける身ではないので、エナ殿を使いに出すとしよう。それとこれを持っていってくれ」
 四つ折にした紙を取り出すと紙面を広げて手渡してきた。
 それは直筆で書かれたナルヒトの証文だった。門所を通る理由が文使いの為と記されている。再びナルヒトに視線を向けると、確認するように相槌を打ち
 「北の地までまだかかる。長旅の所為で体調を壊す者も出てきている中、サトル殿の腕が重宝されている」
 話の方向がサトルに向けられたのでつい背筋を正した。重い口調のナルヒトにこの話題は決して楽しいものではないとわかったけど、そんな思いとは裏腹に心臓が早まって気持ちが浮き立った。
 「薬は時として毒にもなる。このまま皆が彼女の処方する薬に依存するようになれば、下手をすれば……その命さえ彼女の手に委ねられることになるだろう」
 あまりな物言いについ俺はカッとなった。
「サトルは、関係ない奴を殺したりしない!」
 「わたしはコマリの屋敷を焼失させ、ミズハを滅ぼしたのも彼女だと思っている」
 毅然とした態度に言葉を失い黙り込む。一度は同じことを考えただけに反論しようにもできない。確信した迫力を伴う言動が悔しくて、歯を食い縛って唸るように呟いた。
 「……サトルだけを悪者にするな」
 ハッとしたようにナルヒトが目を見開く。
 「悪い奴なんて沢山いるのに、都合でそれが悪いのかそうでないのか決めているなら、サトルだけを悪く言うなんておかしいだろ!」
 ナルヒトは俺から視線を逸らし俯いた。何故かその顔はとても悲しげに見えた。
 「……確かに、人の数だけ正義があるのなら、その分悪もあるのだな」
 まるで自らに言い聞かせるようにぼやくと、冷めた眼差しで宙を見詰めた。その視線がなにを捉えようとしているのかわからず黙り込むうちに俺たちの間に自然と沈黙が流れた。
 正義と悪の違いがよくわからない俺にはなにも言えない。だけどナルヒトはいつも誰を悪だと思って生きてきたのか気になった。
人の数だけ正義と悪があるなら俺の『悪』って…誰だ?
 
 
 宿から望む景色はとても美しかった。夕日を背景に羽ばたく鳥たちの泣き声、狭い路地から響く子どもたちの笑い声が郷愁を感じさせ、いつの間にかぼくは食い入るように外を眺めていた。
 「失礼致します」
 女将の声と同時に背後の戸が開かれた。
 「遠路遥々お越し頂きまじで、ありがとうございまず。女将のナナキと申じまず」
 語尾に濁音が混じる北方独特の発音で口上を述べた。そして窓辺に佇むぼくを不思議そうに見詰め、黒い瞳を輝かせトウタの所在を尋ねてきた。落ち着いた外見だが意外と好奇心旺盛なところもあるようだ。
 「宮様たちのお加減を伺いに」
 無難な返答に相槌を打ち再び笑顔を作った。
「この部屋からの眺めは最高でございまじょう? 御子息自らここをお選びになったんでず」
 そこに込められた意味を読み取るのは容易かった。しかし彼がぼくの為にそんな心遣いをしていたとは俄かに信じ難い。
 「ここらはだまに異国の人間もくるもんですので、ちょっとした観光地にもなっているんでず」
 「異国の人間が?」
三日月形に整えられた眉を動かし頷くと、窓辺に近付き表通りを行き交う人々に視線を向けた。そしてそのうちの一人を指差し
 「ほら、あぞこにも…」
と呟いた。
 夕日色に染まった眩い金色の髪が周囲から浮き立っている。はっきりとした目鼻立ちを取っても、この国の人間ではないだろう。よくよく見ると然程多くはないが同じように見慣れない人種が目立った。
 「むかしから貿易を通じてこの国にぐる人間が多いんでず。中には結婚して子どもをもうける者もいるんで、町には混血児が溢れていまずのよ」
 「……今でも蔑視する者はいるのに、むかしはもっと中傷されていたでしょう」
「本当にその通りでず。私の友も異国人と結婚したんでずが、両親がひどく怒っで…大きなお腹を抱えて都へ移ったんでず。故郷も捨でて…以来音沙汰ありませんわ」
 寂しげに溜め息を吐き
「つまらないごとを述べて申し訳ありません。どうぞごゆるりとお寛ぎ下さいまじ」
 「待って」
頭を垂れ退室しようとする彼女を思わず呼び止めた。
 訝しげに眉を上げる顔を直視できず目を逸らしながら逡巡した。それでも喉元まで出かかっていた言葉を飲み込めず
 「その…ご友人の名前は……」
 女将も躊躇いを見せたが
 「マニ、でず」
疑いは確信に姿を変えた。間違いなくミズハ寮で見掛けた妊婦と同じ名。同時に激しい自己嫌悪に襲われた。それがどうしたんだ。ぼくにはもう、なにも関係ないのに。
 「あの…もしや、私の邪推かもしれませんが…都にいたならマニをご存知で? 旦那のキールは頭の切れる学者だったんでず。大君の元で働くって言っていたから、もしかして、二人の子どもも――」
 「いえ、人違いでした」
 素早く断言し咄嗟に言い訳を考えた。
 「亡くなった母の友人が混血児でしたので、まさかと思ったんです。だけど彼の場合母親が異国人でしたから」
 「左様で…」
 まだ物問いたげにぼくを見詰めていたが無言でそれを拒否し、彼女が消えるまで窓の向こうを眺めた。
 静かに戸が閉められ沈黙が蘇る。けれど、例えもう、関係のない人間だとしても、頭の中に蘇る笑顔だけは忘れられない。彼が虐待されていた背景には母親が受けた精神的外傷が大きく影響していたのだろう。異邦人との婚姻が周囲から反感を買い、両親とも絶縁した母親がすべてを捨てて都で寮に入り研究に没頭した。異なる環境下で不安に押し潰された妊婦が出産後、子どもを虐待。子どもは恐怖から逃れる為に、飛行術を会得し――その異常行動に母親は子を蔑む。悪循環の始まりに区切りをつけたのが、皮肉にもミズハ寮だった。
 飛行術を利用しようと彼を監禁し……人工的に子孫を作った。母親に対する恐怖は大人への蔑視へ変わり自身の子どもへの執着心を生み出した。
 整理すれば納得できる。初めて出会った時、どうしてぼくに懐いてくれたのか。それは心のどこかで、ぼくに……理想の母親を求めていたからだろう。
 「…大丈夫」
 薄闇にこぼれ落ちた言葉は虚しく消えていった。透明な膜を通して見える一番星が歪んでいた。
 「もう、いないんだ……から」
 自らが吐き出した科白に胸が締め付けられるように痛んだ。虐待された子どもが己の子に依存していたのは、きっとそこに自分の存在意義を見出したから。そしてその子どもを、ライを――奪ったのは考えるまでもない。
 「!」
 頬を熱い涙が伝っていく。咄嗟に口元を覆い嗚咽を噛み殺した。
この世界から人が消えても、その記憶だけは語り継がれている。ぼくが殺した人たちも、死んで逝った皆も、共有した思い出の中で生きていた。むかし、父が言っていた。人は二度死ぬのだと。
 一度目は肉体の消滅。そして二度目は、誰かに忘れられた時。
 「……忘れられた…時………」
 震えを押さえようと肩を抱き竦める。ぼくの身体よりも遥かに巨大な恐怖が心の奥底で疼いていた。誰かの死は、いつもどこかで、連鎖している。それを奪った重みが今、とても苦しく感じられた。
―――ぼくが殺した人間が、今、目の前で笑っている。
 柱に彫られた藤の花が外から注ぐ光を受け立体的に見えた。梅雨明けの爽やかな風を受け海鳥が旋回している。
 「まぁ遠くからおいでになって」
 笑顔を浮かべお盆を運ぶ女中頭は品の良い笑顔を浮かべて出迎えてくれた。潮風で乱れた髪を撫ぜつけて会釈を返す。
 「どうぞこちらへ。姫巫女もお待ちですから」
 愛想よく誘い入り組んだ屋敷の中を案内していく。ぼくの意思に関係なく足はどんどん進む。擦れ違う女中たちは必ず深々と頭を下げ、そのさり気ない所作にも教養の高さを感じさせた。
 目の前で木戸が開きその奥に座する美しい女人を目にした時、ようやくこれはあの日の出来事を再現しているのだと気づいた。
視界にぼくを捉えた途端、巫女の赤く塗られた唇が醜く歪む。だがそれは一瞬のことで、すぐに満面の笑みへと変わっていた。だけど目はちっとも笑っていない。黒い瞳が蔑むようにぼくを睨んでいる。
 背後から女中の気配が消えた。部屋にはぼくと巫女の二人だけ。彼女はしばらく沈黙を楽しむように、その長い黒髪を肩から静かに流し小首を傾げながらぼくを見詰めていた。線の細い顎と白い肌が病的に見えた。
 「剣はどこ?」
 鈴を鳴らすような綺麗な声。答えないぼくに再び
 「クサヒルメの剣は、どこ?」
と質問した。剣と系図を求めて渡島したのに、当の姫巫女さえも知らないのかと落胆した。
 「姫巫女様もご存知ないことを、どうしてぼくが知っていましょうか」
 「罪人の子孫と名乗るならば剣を持っていると考えるのが当たり前でしょう」
 罪人という言葉がひどく歪みを持って聞こえた。そこに含められた絶対的な悪をぼくに投影しているから、彼女の眼差しは冷ややかなのだ。罪を犯した人間。その子孫。ぼく自身の人格も何もかもが関係なく、ぼくは罪深き人間なのだ。少なくとも彼女の中では。ならばそれを利用してやろう。
 「お願いしたき儀がありやってきました。どうぞ一族に伝わる系図から、ぼくらの祖の名を抹消して頂きたいのです。神の血を継ぐ者があのような罪を犯したと知れたなら、大君の名を汚すことにもなりましょう」
 ぼくの提案にしばし思案するようにこめかみに手を当てていたが、黒髪の間から翳りを宿した瞳を向けてきた。
「……その申し出を受ける為にも、クサヒルメを持って改めてきなさい」
飽く迄ぼくが剣を持っていると確信する言動に歯痒さを覚える。説得できないのなら強硬手段しかない。
 膨らみの少ない胸元に隠した薬を、そっと服の上から押さえた。
 ―――帰り際に水を飲む振りをして井戸に毒を盛った。とても簡単で、島から帰った数日は自分が人を殺したことさえも忘れていた。そして系図を奪いに再び宮たちと島へ渡った時、主を失った屋敷を見て思い知った。
 手入れは行き届いていても人の息吹が感じられない。屋敷から生命が抜き出てしまったように、遠目からもそこが無人であることがわかった。落ち葉が舞う音が聞こえる。塀の隙間から吹く風の音は誰かの泣き声に似ていた。
 人がいなくなるとは、こういうことなんだ。世界から人が消えたら、きっと世界はもっと音を実感するだろう。
だけどそんな世界は嫌だ。寂しい。
居た堪れなくなった。列を成して港から屋敷に向かって進んでいく。あの部屋で、死んだ巫女がまだぼくが訪れるのを待っている気がして。長い髪を更に伸ばし、永遠にぼくが剣を持ってくるのを待っている。音のない世界にただ一人住み続け。鮮明に想像されたその光景に身の毛が総立ち恐怖した。
―――怖い。自分がやったことが怖い。この手を汚すのが怖い。今以上の恐怖を味わうのが、怖い。踵を返し列から抜け出して走った。丘の勾配を駆け下りると、眼下に広がる海から潮風が勢いよく吹きつけた。
 「サトル」
 胸を貫く鋭い声に一瞬身体が痙攣する。それはまるで亡霊のように地の底から響いて聞こえた。振り返るのが憚れ立ち止まると、青い瞳の少女たちがあの日と変わらぬ衣裳を着つけ、冷ややかな笑みを浮かべて現れた。
 「おいで」
 ハギ姉が囁いた。背後に並ぶ姉者たちも一斉にぼくに手招きする。忍び笑いが不気味にこだまし思わず耳を押さえた。足元の草が枯れ周囲は峠へと姿を変える。藤の花が散り粉塵を上げて崩れ落ちると、痩せ細ったススキが一面に広がった。地平線までなにもない荒野が続く。
 赤土の匂いが鼻を突く。
 おいで、おいで、おいで…耳を塞いでも姉者たちの誘う声が聞こえてきた。ススキが風に凪ぐ度に声は大きく辺りを包んでいく。
 「嫌だー!」
 ―――しばらく天井を睨みこちらが間違いなく現実なのだと言い聞かせた。目尻を伝う涙を拭い起き上がる。隣に敷かれた布団が昨夜と変わりない姿で放置されていたので、結局ヌヒの宮と話し込んでトウタは帰れなかったのだろうと安堵した。
 起き上がるが身体が気だるく少し熱っぽい。まさか薬師が風邪をひくとは情けない。しかし風邪をひくような原因が思い当たらなかった。
 「失礼致します」
 侍女が手水桶を持って入ってきた。布団の横に桶と布を並べると着替えを差し
 「朝餉が済み次第出立するとの通達でございました」
 と告げた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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