Firefly・Catching-蛍狩り-

青海汪

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第二話

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珍しく朝から雨続きの所為か、連日薬を買い求めに来る客の足もまばらだった。屋根に降りつける雨粒が奏でる音に耳を澄ましながら、明日持っていくエグリの大臣の薬を調合していた。
何種類かの草を煮込み煮汁を壷に入れて封をする。明後日には中身が沈殿して神経痛に効く薬ができる。そして湯がいた草は天日干しにし、粉末状にすると血の流れをよくする効果がある。
 ―――これらすべて、代々教え継がれてきたものなのに。今やそれを知る者はいない。
ふと誰かの気配を感じ振り返った。しかしそこに人影さえなく、少しばかり開けている窓から雨音が忍び込んでいるだけだった。
 雨は嫌いだ。少量の雨は恵みをもたらす。けれど自然の均衡が崩れれば、一丸となりぼくらを飲み込もうとする。巨大な力を前に無力さを鎮痛し、渦巻く断末魔が轟々という濁流の音に掻き消され沢山の光が沈んでいった。見捨てられた神々の嘆き。飽く迄、ぼくらを追い詰めたいが為。それさえも―――罪だというのか?
 雨音に混じって戸を叩く音がはっきりと聞こえた。
 「お薬ください」
 戸を開けると、眉の上で切り揃えた前髪のまだあどけない女の子が肩を濡らし立っていた。
 「お母さんの咳がひどいの」
 ぼくの顔を見るなりそう叫んだ。
 「お金がないから、お母さんが薬だけもらってきてって」
 いそいそと首から提げていた巾着の中身を取り出し差し出した。小銭ばかりで到底足りない。
 「待っていて、薬を調合するから」
 中へ招き布を手渡すと女の子は笑顔を浮かべ礼を述べた。久しぶりに見る打算のない自然な笑顔に、つい頬を緩ませ薬棚から乾燥させた草を取り出した。
 「咳はいつから? 熱はない?」
 「昨日の前の日から咳が出て、倒れ込んじゃったの。お顔が赤くなるくらい熱があるの」
 よく見ると痩せ細った身体つきにボロ布のような衣服を巻きつけ、焦点の定かではない目を不安げに曇らせている。
 「食事は?」
 ぼくの質問にしばらく視線を彷徨わせ指折りに数えると
 「昨日の前の前に食べたよ」
乾燥した唇を広げ不揃いな歯を覗かせた。歯の形もバラバラで歯肉も痩せ血色が悪い。別にそれ自体が珍しいことではない。例え大君のお膝元である都であろうと貧しい者はいつまでも貧困から抜け出せない。
薬はすぐに調合できたがそれとは別に丸薬を用意した。
 「この丸い薬はみんなで食べてね。栄養剤だから。それからこっちの粉薬は朝と寝る前に一匙ずつ飲みなさい。あとは水分をよく摂って安静にして」
 例え一時の情けをかけたとしても誰がその後の彼女たちを支えてくれるというのだろう。でもこの子にはまだ死相は見えない。だから生き延びるきっかけを、そう。ただ気まぐれということにして恩恵を与えてやるだけのことだ。
薬と一緒に小さな巾着袋を取り出してそれらを風呂敷に包んだ。
 「中にあるものを使って滋養のある物を食べさなさい」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
風呂敷を大切そうに抱えると女の子は飛び出していった。つられて戸口から身を乗り出し雨の中を駆けていく小さな背中を見送ろうとしたその時、薄い雨の膜の向こうに佇む人影に気がついた。
「ピリ…どうしたんだよ、こんなに濡れて…」
慌ててずぶ濡れになった彼に駆け寄り話しかける。身体は陶器のように冷え顔色は蒼褪め小刻みに震えていた。
「……ライに…会えない…」
掠れた声でそう呟くと雨とは違う水で頬を濡らし膝から崩れ落ちた。
「ピリ!」
慌てて肩を担ぐとぼくは急いで店の中へ連れ込んだ。
部屋の中を暖め着替えさせると、ようやく落ち着きを取り戻したらしく囲炉裏の傍で膝を抱え小さくなった。
「……きみと会う時はどうも雨の日が多い気がするよ」
冷えた肩に半纏を掛けてやるがぴくりとも動かない。
「ライと…喧嘩でも?」
やはりライの名前にだけ反応を示すと再び大きな瞳から水を滴らせた。初めて会った時はライと離れ離れになってしまって泣いて。そして今回もライ絡みの問題を抱えてやってきた。駆け込み寺じゃないんだぞ、とぼやきながら温かいお茶を差し出した。
「ありがとう…」
小さな声で礼を述べお茶を啜るピリ。ぼくは何となしにそんな彼の様子を眺めていた。
近くで見て初めて気づいたが、ピリはとても長い睫毛を持っていた。そして涙を含んだ目元は光の加減で海の深い青よりも空の色に近く見えた。何度も瞬きを繰り返し頬を濡らしていく。それは幼い子どものようでもあり、世の中に残る純粋をすべて集めてできた結晶のような美しさを放って床に弾け散っていく。
「ライ……が…死んじゃう…」
嗚咽混じりに吐き出すと初めてぼくを見た。
「ミズハの奴らはまだいたんだ! 大君の下で今も…俺たちを捜している! 戻ってこないとライは死んじゃうって! 最初の骨と血だけじゃもう足りないって……もっと生きていけないんだ…」
「…でもそうならどうして、ライに相談しないの?」
頭を掻き毟り激しくかぶりを振ると「ライは―――」と叫び、言葉に詰まったのか黙り込んだ。そして眼玉がこぼれ落ちそうなくらい瞳を見開き怯えた様子で耳を抑えると
「声が聞こえるよ…まだ、赤子の声が聞こえるんだ…ねぇ、どうして? 俺がライを独り占めするから、怒ってるの?」
肩が震えている。以前二人が揃ってミズハ寮の説明をしていた時も、途中でピリはこんな風に異常な怯えを見せた。そして同じように赤子の泣き声が聞こえると幻聴を訴えた。まさか彼が薬物を常用しているとは考えにくい。もしかしてあの全身の傷跡と関係しているのかもしれない。
手首から覗く傷跡を見詰め思案を巡らせた。彼がライを連れて家出をした理由。今も寮が彼らを追い求めるその真意。禁術を開発し不滅の兵をつくり出そうとする大君。そしてどうして、この世界で生まれ育った彼が飛行術を会得したのだろうか。
未知の力を持つ子どもと―――全身の傷。そこから導き出せる答えは
「……きみは望まれて生まれてきたんじゃないの?」
ピリの驚愕した表情を見て、ぼくは自分の質問に的を射た感触を得た。
「口にした方が少しは気が楽になるかもしれない」
 
サトルの優しい口調にふと心を締めつけていた縄が緩んだ気がした。強要する訳でもなく、ただ俺が率先して紡ぐのを待ってくれている心遣いが固く閉ざしていた口を開かせた。
「ずっと……閉じ込められていた…。暗くて、いつも突然そこから引きずり落とされて…気がついたら…身体が浮いていたから……。みんなが怖がって…俺……」
折角借りた服がもう涙で濡れている。けどサトルは何も言わずに黙って耳を傾けていた。
「ずっと寮の一室に閉じ込められて。誰もこない…ずっとずっと…一人ぼっちで……ライだけが…生きてた…」
自分の言葉に触発され当時の記憶が蘇る。部屋を連れ出され何が何だかわからないのに髪の毛を抜いたり血を採ったり、色々な実験に駆り出されてその合間を縫って毎日言葉を教え込まれ続けた。そしてある程度人との会話ができるようになると、あいつらは俺に様々な要求をしてくるようになった。
「骨と…血がいっぱいあって……穴の中にいっぱい詰め込まれてた……。俺の子どもが……知らないのに。俺、何も知らないのに! いつの間にかいっぱいいて、大きくなる前に死んじゃうんだ! ライだけが生きてくれた。ライしかいなかった! ライがいないと…俺、一人になっちゃうんだ!」
突然喉が引きつるような恐怖に襲われた。白い腕が全身を叩いて回る。長く伸びた爪が肉を引き裂くその痛みに、言葉を知らなかった俺は泣き叫んだ。
「叩かないで!」
血走る目が追い駆けてくる。逃げ場所はどこだ? どこに安全がある? 怖い、怖い!
「ピリ?」
サトルの叫び声が聞こえる。でもすぐにその後を追うように母親の、怒鳴り声が頭の中で花火のように響いた。
『お前なんて、人間じゃないのに!』
全身を貫く痛み。哀れそうに俺を見詰める、青い瞳。あいつはいつも黙っていた。悲しげに俺を見ていた。俺をつくった、父親と呼ばれた男は。
「やめて! 嫌わないで…もう俺を……叩かないで…」
涙に歪んで二人の顔が見える。憎しみに満ちた瞳と、悲しみに沈んだ瞳が俺を見詰める。どちらも冷たくて、俺を拒絶していて。足元からゆっくりと泥沼に沈んでいくように俺は絶望の中に引きずり込まれる。
「ピリ!」
漆黒の沼の中にいた俺を突然温かい感触が包んだ。
「大丈夫…大丈夫だよ」
耳元で囁く優しい声。ライとは全然違う。サトルが俺を抱き締めてくれているんだ。瞼を開け行き場を失った両手が宙を彷徨った。
そして戸口に立つライを見つけ叫んだ。
「ライ!」
「なぁにやってんだよぉ……」
ライは力なく呟いた。何故か複雑な面持ちで近づくと俺の手を引きサトルから離した。
「心配したんだぞ! 昨日から帰ってこないで!」
怒りに満ちたその顔は母親とまったく違う。ただそれだけのことなのに新たに涙を誘った。
「ライィ…」
ついに耐え切れずライの身体に飛びつく。バランスを崩し倒れたライは、土間に座り込み苦笑いをした。
改めて三人で囲炉裏の周りを囲うとおもむろにライが切り出した。
「で、一体何してたんだよ。お前が帰ってこないから、俺、一晩中探し回ったんだぞ。しかも今朝っぱらから葬式に出くわすし、本気で心配したんだからな」
「葬式に…?」
「お前が死んだかと思ったんだよ!」
眉を寄せ怒鳴るライの顔を見て込み上げてくる嬉しさを我慢できなかった。と、お茶を配るサトルの手が微妙に震え水面に波紋を浮かべていた。
「どうかした?」
普段から白い顔を余計に青くしサトルはかぶりを振った。それでも二人で見詰めていると、諦めたようにふっと溜息を漏らし話してくれた。
「昨日、宮様たちがオオサク島へ渡るからトウタに連れられてぼくも同乗したんだ。その船長が昨夜遅くに亡くなったって聞いていたんだよ。顔見知りの人だから、つい動揺して」
「そうだったんだ…悪いな、そんなことも知らないで」
「いいや、気にしないで。人の生き死には誰にもわからないものだから」
大人びた口調でそう呟くと俺に話しを促がすよう目で訴えてきた。
サトルがいるから大丈夫かもしれない。もし俺もライも我を失いそうになってもサトルが助けてくれる。そんな心許ない安堵感に急かされ、固く閉ざしていた口火を切った。
「…ミズハの奴らに会ったんだ」
予想通り、ライは目を開いたまま身体を硬直させた。
「それでまだ研究は行われているって。大君の支援を受けて、どこかで続いていて俺とライに戻ってこいっていった」
一語一句を確かめながらできるだけゆっくりと紡いだ。俺にできることはあいつから聞かされた事実を包み隠さず伝えることだ。
「このままだと…ライは、死んじゃう。最初の骨と血の肉の量じゃ成長に追いつけなくて、死んじゃう…」
言葉の意味を噛み締めるようにライは黙り込んだまま俯いた。
同時に重苦しい沈黙が流れる。雨音が手伝って更にそれは暗く感じられた。激しく地面に打ちつける音が小さな部屋にこだまする。湿った空気がやけに胸を圧迫してきてうまく呼吸ができなかった。もしかしたらこのまま窒息しちゃうかもしれないと思ったその時、サトルの澄んだ声が静寂を切り裂いた。
「寮は大君の管轄にあるのなら…むしろどうしてきみたちは家出をしたの?」
言い淀む俺に代わってライが返事をした。
「俺たちは不死なんて望んでない。その為に犠牲になるのなんてまっぴらだ」
「……同じ仲間が殺されるのを、もう見たくないから逃げたの?」
真冬の凍えた風を連想させるサトルの声に初めて恐怖を覚えた。しかしライは勇敢にも勇み構えると抗議した。
「自分勝手な大人に、俺たちの命を弄ばれたくなんてない! ピリなんて、おかしくなった母親に生まれた時からずっと虐待されてきたんだぜ? 必死に逃げようとしていつの間にか飛ぶことを覚えたピリを見て……今度は実験に使おうなんて許さない!」
肩を怒らせるライに対しどこまでも冷静なサトルはしばし黙すると再び顔を上げ、俺たちを見比べた。
「……なら、憎むべきは大君でもあるんじゃないの?」
その時のサトルは冷たくて一切の感情を殺した顔をしていた。表情を失った瞳は、霞がかって曇り硝子みたいだ。ライも同じことを思ったみたいだったけど、その顔に一瞬だけ浮かんだ後悔を俺は見逃さなかった。
「ここまで関わった以上ぼくに提案がある。もしライが寮に戻りたくないのなら、ぼくができる限り治療を試みてみよう。勿論、それを受諾するかどうかは二人で決めてくれ」
「…できるのか?」
「わからない。でも、わからないということは無限の可能性を秘めているに等しい」
力強く言い切るサトルの言葉に黙り込むライの肩を叩き、俺も懇願した。
「…ライ、俺はライにもっと生きて欲しい。だからサトルに頼ってよ」
「きみの身体に使われた薬や効能を調べていけば、手がかりが見つかる筈だ」
ライは黙ってサトルを見詰めた。するとサトルはライの手をとりそれまでの冷やかなとも言える態度を一変させて微笑んだ。優しいけど、どこか心許ない何かを感じさせる笑顔だった。
「ぼくを、信じて」
サトルに見詰められ、しばらくしてからライは不貞腐れた様子でぼやいた。
「実験台にだけはならないからな」
 
 足元に落ちた紙を拾う手があったが、わたしはそれを止める気にもなれなかった。まさかあの扇を調べた結果が、ここまでの衝撃を伴って返ってくるとは恐らく誰も予想できなかっただろう。
 「信じられません」
 冷静さを演じていたがその声はやはり震えていた。その隣で、握り締めた紙面の皺を再び伸ばしコマリが呟いた。
 「けれどかの寮が調べたのです。間違えようがありませんわ」
 「お言葉ですが、コマリ様は…まさかこのような結論を信じられるのですか?」
普段の大人らしい雰囲気は息を潜めこの時ばかりはトウタも恐怖を顕にして叫んだ。
 「ウロ峠が今もこの世に存在するだなんて―――」
 語尾が両脇に聳え立つ書架の間をすり抜け天井あたりでこだました。昨日持ち帰った扇の一部を研究寮に預け、そこに付着する当時の花粉などを調べさせてみた所恐るべき答えが返ってきたのだ。扇に残る微量の土から検出された成分は、この世に存在しないまったく種の異なるもの。更に追い討ちを駆けるかの如く寮は独自の見解を述べてきたのだ。まさにわたしが異分子と見なした上の言葉だろう。兼ねてより密かに研究されてきたウロ峠の土壌である可能性が非常に高いと、専門家たちは口を揃えた。
 しかし伝説上の存在でしかなかったウロ峠が、遥かむかしに同じ地に存在していたと強く語りかけてくる数々の言葉に、僅かばかりだがそれまで胸に秘めていた説を後押しされる快感を覚えた。
 「宮様はどうお思いですの?」
 薄紅色の化粧を引いた目を見開き、コマリが尋ねてくる。
 「わたしは……」
 ふいに脳裏に晴れ渡った空を羽ばたく白い鳥の残像が浮かんですぐに消えた。その意味を捉えようとしながら言葉を繕う。
 「太古よりウロの峠はこの地上にあったと思う。現にそれまで有力な証拠はいくつも挙がっていた。が、それらはいつの時代も我ら大君の手によって隠蔽されてきた。想像上の意見だが、わたしは大君の祖は一度滅びた地上で己に都合のよい歴史をつくり出したのではないだろうか」
 「……それでは大君や大君を神聖視する民衆を愚弄のと同じです。そのような思想をお持ちなのに、ナルヒトの宮様は何故大君の座を求めるのですか?」
 鋭敏な言葉の裏に密やかな怯えを感じた。しばし彼を見詰め、ふと視線をその背中の向こうにある固く閉ざされた戸に向けて指差した。
 「あの戸の向こうに大君のみが閲覧を許された書物がある。わたしは……例え今の世を崩す答えがあろうといつかは誰かが知るものなら―――わたしは知りたい」
 「一族の崩壊を望まれているのですか?」
 「言葉を慎しみなさい! 宮様はそのような方ではありません!」
 咄嗟にコマリの叱責が飛んだ。頬を蒸気させ、まるで自分のことのように怒りをあらわにする姿に愛しさを噛み締める。しかし彼女に頼るだけではなく、トウタを納得させるべくずっと胸の奥に秘めていた言葉を聞かせようと決めた。
 「わたしは大君の子ではない」
驚愕する二つの瞳が恐怖に負け視線を漂わせる。それでも唇を噛み締め、必死に平穏を保とうとする彼を見詰め続けた。
 「大后である母君は、若い頃に罹られた病気が原因で男児が生めぬ身体になられた。しかし神託で決められた婚儀を拒めず大君の元に嫁がれた。そして最初に生まれた女御子を、男宮だと偽り育てたが…不慮の事故で亡くなられた。そこで、亡きナルヒトの宮の代わりとしてわたしを引き取られたのだ」
各自がそれぞれの思案に暮れ自然と周囲の薄暗さに混じった沈黙が流れ出した。トウタがその優れた頭脳で何を思い、考えているのか無表情な顔からは到底推察できない。二人の返答を待つわたしの傍らで、蝋燭の炎が大きく揺らめき一瞬だけ消えそうになった。
 「それでも大君は、正式に宮様を後継者候補としてお認めになりました。私の勝手な想像ですが大君は…穏やかに流れる川に、波紋が生まれるのを望まれているのではないでしょうか?」
 コマリの見解は、わたしがそうであって欲しいと望む答えでもあった。
 「無礼を承知で申します。どうして自ら足元をすくうような真似をされるのです? 例えどんな歴史があろうと、大君は常に神聖な存在でなければならない。そう最初に望んだのが大君であり、今も信じる民がある限り」
 どこかで聞き覚えのあるその言葉につい俯いていた顔を勢いよく上げた。どこで聞いたのだろう? 自問自答し、記憶の底まで潜り考え込む。二人の怪訝そうな顔が次第におぼろげになり、誰かの面影が重なって見えた。
 ―――白骨化した遺体に生える豊満な黒髪は、不思議にもまるで生きている少女と変わらない艶と美しさを保っていた。我々はその少女の亡骸の傍らから決して離れなかった鳥の遺骨と共に、美しい木棺に納め地中深くに埋め墓標を立て崇めてきた。そうして語り継がれた言葉を心深くに刻み、己の運命を受け入れようとしてきた。
 「枯れない花はこの世にない」
 しかし望む者がある限り大君と言う花は枯れない。人々の願う力がこの世の理さえ凌駕させるだけの力を孕むことがある。
 「力に……脅威を抱いている。力にものを言わせ手に入れた権力は、所詮真実を前にすればすぐに崩れる。わたしを候補に挙げることで無意識にそれを望んでいるのかもしれない」
 「……大きな改革です。宮様がなさることは国の未来を大きく左右しましょう。失敗すればぼくたちはすべてを失います」
 もはや恐怖を貫く強い意志を宿した真摯な面持ちで、朗々と言葉を続けた。
 「大君の御子ではない方が王位を継承するだけではなく…光輝たる伝統をも覆そうとしています」
 「随分恐れていますのね。島で宮様に誓ったではないですか」
 居丈高な態度のコマリを一瞥しゆっくりとトウタはかぶりを振った。そして先ほどとは打って変わった、ひどく冷めた口調で答えた。
「忠誠に他意はございませぬ。ぼくはナルヒトの宮様を信じております」
 足元に伸びる影を見下ろし、同じ闇に身を置く二人の行く末を案じた。己の出生に翳りを感じ大君の座を希求することへの後ろめたさのあまり、膨らんだ疑問から目を逸らし続けていた。それがこの手に忠誠と信頼を誓う二人の運命を握っている。
 「ナルヒトの宮様、一つお聞きしたいのですが」
 わたしたちの視線が一つに繋がるのを待って彼は口を開いた。
「亡き宮の代わりに育てられる以前、貴方様はどこにいらっしゃったのですか?」
いずれ追及を受けるとは思っていたが、実際にその時となると自分で想像していた以上に動揺を覚えるものだと知った。
「…大后に引き取られたのは」
一言噛み締める度に苦渋が広がっていく。
「わたしが六歳の時だった。しかしそれ以前の記憶は、ない」
言いようのない虚無感が空っぽになった身体に浸透していく。淡々とした己の声に呼応し、それは心身を蝕んでいった。
「だから余計に都合がよかったのだろう」
自嘲的に呟くと彼は申し訳なさそうに俯いた。
「扇の持ち主であった剣の巫女は、島を追われた後ウロ峠に渡ったという見解ですわ」
 明快な声でそれまでの暗澹たる雰囲気を吹き飛ばそうとする、コマリの心遣いに無理に頬を緩ませた。
 「もし剣がウロにあるのだとすれば、ぼくたちはまずその入り口を探さねばなりません」
 彼女の機転を察しトウタもすぐに話題に乗じて柔和な態度をとった。
 「しかし…剣の巫女は今もウロにいるのだろうか? 姫巫女の予言によるなら、剣の巫女は…剣を携え我ら一族を滅ぼそうとしている。ならば今もこの世にいるのではないか?」
 そしてあの時、姫巫女はこうも言った。
『大君の血を継ぎ、剣の巫女の母を持つ、汚れた罪人の子孫が今も剣を持っているのです』
 信じるのならば。その巫女は大君の血を分け持つ者。
「……発端であるかつての剣の巫女は何故人を殺めたのでしょう」
ふいにコマリが呟いた。
「聞けば神楽師として将来を有望されていたはずの少年が、どうしてすべての資格を失うと知りつつその手を血に染めたのでしょうか。宮様、私はずっと疑問に思っていました。どうして現在の剣の巫女は、大君一族を滅ぼそうとしているのですか? そこには……何かがあるのではないでしょうか」
 意味を反芻し納得する。姫巫女が剣の巫女に対し憎悪していたのは、剣を奪い巫女たちの名を辱めたからだと思っていた。しかしそこまで憎まれながらもどうして、人を殺める必要があったのか。
 「六百年前…丁度、史上初の二人の大君が即位した頃ですね」
 二人の宮が権威を求め争ったその時代に一体どんな陰謀が暗躍していたのだろう。そして血の繋がりのないわたしを後継者争いに押し出した大君。追放された剣の巫女が、一族を終焉に導こうとしている。
 再びコマリの顔を見やる。明るく振舞っていたが、内に秘められた恐怖の所為か顔色はとても青かった。
 
「サトルの家族ってどんなだ?」
床の上に横たわっていたライは枕の位置を変えながら問いかけてきた。
 「大家族だよ」
上着を脱がせ筋肉を解している最中だったので、答えるついでに額の汗を拭って手を休めた。
 「ぼくが生まれる頃にはもう…何人も上がいた。姉や兄が次々に子どもを生んで……村全体が家族だった」
 「騒がしかっただろ」
 燃え上がる囲炉裏の傍らで健やかに眠るピリを見詰めしみじみと呟くライ。ぼくも捲し上げた袖を戻し胡坐を掻いた。
 「あいつ一人で毎日がうるさいくらい騒がしくてさ。夜もなかなか寝れないし、ろくに家事もしねぇだろ? いいことないよな」
 「でも……彼がきみを必要としているように、きみも、ピリに依存しているんだろ?」
 はっとした表情を浮かべたが、すぐにライは目を細め苦笑を漏らした。
 「サトルって鋭いんだな…」
 いつもの口角を上げた笑いではない。どこか冷めた笑いだった。
「俺は…ピリみたいに飛べない。寮の奴らが必要とする大きな理由が欠けていた。だけど死人返りで初めて成功したからって言うお情けだけで、生き長らえている…」
唇を噛み締めライは唸るように続けた。
 「ピリが俺の存在理由なんだ。あいつの子どもだから、俺は寮で生きていけた。だからあいつが家出するって聞いたとき、ついていこうって決めた。ピリのいない世界に、俺は必要とされていないから」
 そこで彼は口を閉ざした。同時に焚き火が弾ける音が響く。外から聞こえてくる雨音が己の孤独を吐露するライを、余計に悲しげに演出させていた。
 「……生きている理由なんて、誰もわからないよ」
 ぼくが発した言葉に反応しライは縋るような瞳を向けてきた。
 「ただ生まれた時から死ぬまでの時間が決められていて、そこに意味を求めたいが為に誰かや何かに頼るだけだ。歴代の大君たちも不死を得ることなくこの世を去った。でもそれは不死を求める行為に意味があったのかもしれない」
 薬汁に湿らせた布を背中に貼りつける。ライは黙ったまましばらく言葉を選んでいた。
「俺は…怖くなんてない」
 「相当の覚悟がなければ、死は…やはり恐ろしいものだよ」
 別の薬汁を湿らせ新たに布を貼付する。少し刺激があったらしく、肩をぴくりと動かせた。
 「ある日突然、身体の正常な機能が止まるんだ。死は…誰にも予測できない」
 己の為に姫巫女とオオサク島の一族、そして何も罪のない船長を手にかけてきた。彼の背中に触れるこの手は誰よりも汚れているのに、この手で何人もの命を救ってきたという自負が勝手にも贖罪となっていた。一人殺してもぼくは次の瞬間に、百人の人間を救っている。そうして罪の意識を無理やり脳裏から掻き消していた。
 「俺、多分ピリの為には死ねない。誰よりも自分が大切だから」
ライは枕に深く顔を沈めそこからくぐもった声で呻いた。青年に向かって成長を続ける背中は、そんな彼に襲いかかろうとするすべての試練を拒絶しているようにも見えた。
 「でもピリは俺の為になら死ねる。そうわかっているから、俺はずっと生きていけるんだ」
 自分勝手な願い。彼もわかっているだろう。しかしそう願わなければならない気持ちも共感できた。誰だって自分の身が一番可愛い。己が納得する答えを求めて、いつまでも彷徨っていたいのだ。例え遠くまで歩いてきても、振り返ればこちらを見守ってくれる存在が欲しい。
 「きみの価値は誰が決めるものなんだろう」
思わず漏らした言葉に過敏に反応する。彼が期待することを告げるつもりはないが、喉元まで上った科白をそのまま吐き出した。
 「飛ぶだけがきみの価値になる訳じゃない。生まれ方が例え人と違えど、今日まできみが生きていたその事実が、何よりも重い意味を持つのじゃないかな」
 彼は何も言わず俯いた。ただその背中には、先ほどまで見えていた複雑な感情が少し消えているような気がした。
「あれぇ…ライ、まだ終わらないのぉ?」
寝ぼけ眼で呟くピリから、ライは涙を隠そうと顔をそむけた。
 
 都にあるサトルの店に出入りするのは人目が気になったので、毎晩店じまいをした後に俺たちの秘密基地までサトルがきてくれた。だからライが治療を受けている間、俺は相手にしてもらえない退屈な時間を一人で潰すのが日課となった。
 窓から漏れる仄かな灯りを見詰めながら木の周りを飛び回る。時々上がる二人の談笑を聞き、あの雨の日以来ライはサトルを気に入ったんじゃないかと思った。俺もサトルはいい奴だと思うし好きだけど、初めてライが俺以外の人間を認めたことになんだが気持ちが落ち着かなかった。
 「ピリ、終わったから入っておいでよ」
 逆光で黒い人影に見えるサトルが戸口から手招きをしてくれた。そこにある優しい笑顔を見つけ、やっぱりサトルはいい奴だと再確認する。
 「これからたまに骨が痛むことがあるかもしれない。その時に飲む薬を渡すから、なくさないで」
 部屋の奥で欠伸をするライを見て大きく頷いた。こうしてサトルは時々俺に任務を与えてくれて、ライの治療に関わるよう気遣ってくれているんだ。
 「晩飯食ってくだろ?」
 頬を緩ませ相槌を打つサトル。それを見てライは昨日俺が獲った鳥を使って、鍋にご飯の残りと入れ雑炊を作ってくれた。てきぱきと段取りよく晩飯を作り始めるの傍らで、俺とサトルは山菜を刻んでお浸しを用意する。
夜の静寂に混じって誰かがここを目指して歩いてくる気配がした。
 「誰かきた…」
 俺の呟きにライだけではなくサトルまでもが緊張した面持ちを浮かべた。最悪の事態を頭の片隅で覚悟しながらそっと戸に近づき外の様子を伺う。墨で塗りたくったような暗闇があるものすべてを綺麗に隠して何も見えなかった。
 徐々に高まる緊張感に息苦しさを覚える。心臓が頭で鳴っているみたいにうるさい。血液が逆流してどんどん身体が火照っていく。その脳裏にあの泣き黒子の男を思い描きながら、もはや木の下まで近づいてきた人物の動向を待った。
 ギシッ
 古い梯子に足をかける音が響く。刹那、我を忘れ暗い夜の世界へ飛び出した。
 「誰だ!」
 外気の湿った空気を全身で感じ、急降下していく身体を持ち上げた。濃厚な漆黒の中に見覚えのある輪郭を捉える。
 「トウタ!」
 「ピリ…?」
 見開かれた二つの目玉を見詰め驚いた。
 「お前、灯りも持たないで何しにきたんだよ~」
 頭上から降り注ぐライの叫び声に苦笑いを向ける。
 「途中で油がなくなったから捨てたんだ。あれ、サトルもいるの?」
 すぐに逆光の中にサトルの姿を見つけるトウタ。そんなトウタにサトルも軽く会釈を返した。そして再び俺の顔を見ると
「上がってもいいかな?」
と笑いかけた。
 それから四人で炎を囲いライが作った鳥雑炊を口に運ぶうちに、先ほどの件で笑い声が湧いた。
 「ピリは本当に地獄耳だね。まさかミズハの奴らに間違えられるとは」
 「……だってトウタ、最近全然こなかっただろ…」
 頬を膨らませ抗議してみるもみんなに一笑されただけだった。
 「でもピリがいる限り、そう易々とは連れていかれないよ」
 一足先に箸を置いたサトルが慰めるように言った。その声を聞いて少しだけ心が晴れた気がした。
 「サトル、もう食わないのか?」
 「うん。ご馳走様、とてもおいしかった」
 少食だなぁとぼやくライの横で、トウタが話題を切り替えた。
 「そうだ、今蛍が飛んでいたんだ。食べ終わったらみんなで行ってみようよ」
「いいなぁ! にしても、まだ蛍がいたんだな…。気候が乱れてきているって聞いたけど、今年の夏は雨続きでなかなか暑くならないし…」
 「……なぁ、ライ。蛍ってなんだ?」
 俺の言葉にサトルは驚いたように目を開けた。そこで繕うようにライが短く説明した。
 「ピリはずっと研究所にいたからあまり世界を知らないんだ」
 「じゃぁ言葉も…」
 「そう。だから俺と初めて会った時も言葉足らずだった。これでも目覚しく進化したんだぜ? 自分の名前もわかんない奴だったのに…」
 感慨深げに呟くライを見てなんとなく心が浮き立った。俺の努力を認めてくれているのが嬉しかった。
 「まぁ、今でも変わらず馬鹿だけどな」
 この一言を聞くまでは。
 
 連日の雨が影響して湿った空気が圧迫してくる。無理して食べたから消化不良を起こしているのかもしれない。やはり年頃の男が揃うと食べる物の量も味付けも変わってくる。元々小食なので食べてすぐに胃が膨れてしまった。先を歩く二人を追いながら隣のトウタに気づかれないよう、そっと下腹部を締めつける帯を緩めた。
 「随分と仲良くなったみたいだね」
 「…そう見えるんだ」
 意味深な前置きに少し警戒してから返した。
 「不思議だよ。サトルはどんな子とも仲よくなれるんだね。ライとピリ…対照的な二人なのにさ」
 闇に乗じてこちらを仔細に監視してくるトウタの視線に気づいたが、敢えてそれを無視して歩き進めた。水気を帯びた草花たちが足にまとわりついて歩き辛い。肌を切らないようできるだけ足元にも注意を向けていたが、小走りに駆けていく二人を見失ってしまいそうになり否応なく歩調を速めた。
「そう言うきみこそ、ナルヒトの宮をうまく懐柔したみたいだね。大臣も鼻高々らしいし、周囲も噂している」
 「まぁね。あの方はやはりただのうつけではなかった。むしろ…何気ない顔をして大胆なことをなさる」
 闇の中に小さな緑がかった光が音もなく浮遊している。ピリの歓声がどこからか聞こえてきた。小川に屈む二人の背中に近づきながら警戒心が沸々と蘇ってきた。彼が傍にいる間常に警鐘が鳴り響いている。決して、心を許してはいけない。そう再び念頭に置きぼくは笑顔を咲かせた。
「きっときみは、お父上よりも偉大な大臣になるだろうね」
見え透いたお世辞にトウタは表情を変えず口元を緩ませると
「望みは高い方がいい。宮廷に近づこうとしているサトルだって、同じじゃないかな」
その問いかけに答えるよりも先に、ピリの呼び声がぼくらの間に割って入った。
「サトルー!」
全身に蛍をつけたピリが両手を振る。子どもらしい発想に思わず吹き出した。近くで見ると目が痛くなるようなすごい光景だ。原形がわからないくらいの蛍がピリの顔を覆っている。眩しさに目を細め楽しそうに笑う二人を眺めた。
「蛍は肉食って知らないの?」
「いやぁ~! 食われる! 俺、食われたくないー」
トウタの一声に、ぼくの身長より高く飛び上がると両手足をバタつかせ悲鳴を上げた。一同に大爆笑が沸き起こっても、ピリは必死に全身の蛍を振り落とそうと必死になっていた。
それから各自が美しい夏の風物詩に見惚れ、交わされえる言葉が徐々に少なくなっていく。ライに手伝ってもらって全身の蛍を取ってもらったピリが、珍しくぼくの隣にきた。その後方で楽しげに談笑するライとトウタの姿を見て、どうやら話についていけなくなったのだろうと推測する。
「蛍って綺麗だな」
「そうだね。とても短い命だから、余計に綺麗に感じるよ」
「短いのか?」
「蛍狩りって言葉を知ってる?」
首を傾げる彼を一瞥し、目の前を浮遊する儚い光の軌跡を目で追った。
「寝所に持っていったり籠に入れて、古来より貴族たちの間で風流な遊びとして親しまれてきた」
「でもすぐに死んじゃうんだろ?」
近くを飛ぶ蛍を両手で捕まえそっと手を開いた。掌で一匹の蛍が弱々しく発光していたが、尻を指先で軽く弾くと慌てて飛び上がった。
「――弱い者を狩るのが、人間だから」
視界いっぱいに広がる舞台を見上げ感慨に耽った。小さな光の踊り子たちが軽やかに飛び交う景色に一抹の寂しさを覚える。これだけの数がいても、太陽が昇る頃にはすべて消えているのだから。
「こんな小さな命まで狩ったって何の足しにもならない。けれど狩らずにはいられない」
「サトル……」
顔を覗き込み不安げな目を向けてきた。
「サトルは人間が嫌いなのか?」
偽りを本能で見極める、純粋で真っ直ぐな瞳に言いようのない恐怖を感じ思わず目を逸らす。的を射た質問にどう答えるべきか悩んだ。
「……嫌い…でも、ぼくも人間だ」
苦悶の末、搾り出すように呟く。ぼくの横顔に注ぐ彼の視線を意識し余計に言葉が憚れた。
「……俺、大人なんてなりたくない」
唐突に呟くとピリは軽く跳躍した。ぼくの身長より頭一つ分浮き上がった彼を見上げる。いくつもの蛍光を背景にしたその姿はまるで御伽噺の挿絵に見えた。
「大人は汚くてずるくて大嫌いだ。ずっと今のままでいい。ライがいればそれでいい」
生暖かい風が頬を撫ぜる。吹きつけた後に何故か不穏な気配が残った。
「きみは…」
大きな目が不思議そうに動きぼくを凝視した。今もまとわりつく疑問が出口を求め蠢く。喉元で痞えた言葉が―――短い溜息に掻き消された。
彼はどうして他を望まないのだろう。ライがいればすべてが終わろうと構わない。しかしそれは同時にライを失えば、自らも消滅する恐怖を感じさせた。何故もそうして一人の人間に執着できるんだ? 危険も何もかもを顧みずただ己の欲望のみ貫こうとする。その歪みのない意思が、羨ましい。
確かな二人の結びつきを目にする度に自分が置かれている孤独を自覚させられ、やり場のない思いに苦しめられてきた。お互いの出生など一切気にしない血の繋がりを越えた深い絆。相手の為になら死も厭わない生き方は何よりも縁遠いものだった。
「サトル……?」
怯えたか細い声で我に返り顔を上げた。光の軌跡の中に浮かび上がる水色の瞳が、何を思いついたのか期待と興奮で輝いていた。
「すっごいむかしに聞いたことがあるんだ。伝説のウロ峠にいけば、ずっと変わらないままいれるんだって。俺、ライとそこに行きたい。けどサトルも一緒に行けたらいいな」
他意のない笑顔に胸が痛む。自分にないものをすべて集めてできたような少年。ぼくは持っていない何か。それがあれば同じようにただ、笑っていられたかもしれない。
「ウロなんて…もうこの世にないよ。それに、もし存在したとしても必ずしもそこに幸せがある訳じゃない。誰も知らないから、そこに理想を重ねているだけだ」
「大君はそうは思っていないみたいだけどね」
振り返ると、トウタとライの二人が近づいてきていた。いつから聞き耳を立てられていたのだろうと、警戒しながらトウタを軽く睨む。しかしそんなことを気にする素振りさえ見せず彼は楽しげに話を続けた。
「継承条件に剣の巫女を見つけ出せって言われたんだ。そして調べていくにつれ面白いことがわかってきた。なんと…さ、罪人となった剣の巫女はウロ峠へ渡ったらしい」
「でもよぉ、そうなら何で巫女を捜さないといけないんだよ。ウロ峠なんて今は伝説上の存在でしかないのに」
ライが納得いかない表情で口を挟んできた。
「巫女が大君一族を滅亡させると予言したんだ」
短く答えると意味深にぼくに笑顔を向けた。背筋が凍えるような恐怖を噛み締め、素知らぬふりを演技する。
「これはぼくの見解だけど、予てよりウロには不老不死の秘密が隠されていると言われてきた。そして不死を調べるミズハ寮…大君は今、切実に不死に拘っているんじゃないかな」
同時に大きく見開かれた色違いの親子の瞳を一瞥し、ぼくは噴き上げる激情を抑えた。
 
赤く錆びた大地が地平線まで続く。辺りを漂う生物の腐敗臭は、生まれたばかりの赤子の命を容赦なく奪っていった。荒野に僅かばかり残る緑地帯に住居は集中し、小さな集落に肩を寄せ合って暮らしていた。
小高い丘の上に立てられた粗末な墓。そこに埋められた少女と鳥の骸を守り、古くからの掟に従い生きてきた。墓に突き刺さった質素な剣をいつも空高くから見下ろし―――
「宮様、いつまでお休みになっていらっしゃるんですか?」
突然それまで身体を包んでいた温かい布団を剥ぎ取られ、ひんやりとした冷気が一挙に襲いかかる。驚いて目を覚ますと布団を両手に抱えるコマリがやんちゃな笑みを浮かべ立っていた。
まだ朦朧とする頭で何故彼女がここにいるのか考える。しかし昨日大君に言われことを思い出すよりも先に答えが返ってきた。
「私たちを大君に紹介して下さる約束の時刻がもう迫っているのですよ」
それでも重たい瞼を擦り大きく伸びをした。今朝からいくつもの会議をかけ持ちし、ようやくできた空き時間でいつの間にか眠っていたようだ。
「随分よくお眠りでしたけど何か夢でも見られていたんですか?」
「……たまに見る、空を飛ぶ夢だ」
几帳の裏に移り手水鉢に張られた湯で顔を洗うと、ようやく目が覚めた。
「空を飛ぶとは…また現実逃避を連想させる夢を見られるのですね」
几帳越しに遠慮のない調子でコマリが呟く。そう言えば大君に彼女を紹介するにあたって、彼女の父イシベの大臣も参内しているはずだ。なかなかわたしから離れようとしないのは、父とあまり顔を会わせたくないからかもしれない。
「逃避を望むような夢の内容ではない」
侍女たちを呼び正装に着替えながら答える。
「荒地を飛ぶ…随分むかしから見続けてきたものだ」
「それは記憶をなくされる前からですの?」
几帳を出た途端コマリの凛とした顔が飛び込んできた。いつになく美しく装った彼女を見詰め、そこに隠れる不安に気づいた。
「貴方がどこの誰であろうと私は宮様の婚約者に変わりありません。けれど、もし…いつか記憶を戻され、私の知らない所へ行かれたりしたら…」
言い淀みわたしを見上げる。聡明な瞳に寂寥感が混じる様に初めて焦りを感じた。出生の秘密を知るのはそれまで大君と大后だけだった。しかし二人とも記憶がないことを懸念するどころか、これは幸いとばかりに生前のナルヒトの宮の性格や思い出を詰め込もうと必死だったのを覚えている。
箸の持ち方から口調の癖に至るまで、すべてを覚えさせ――いつの間にかわたしは、わたしという人格さえも見失っていた。個人の考え方など求められていない。生前のナルヒトと同じように考えなければならない。初めて会う人々が何ら疑わずナルヒトの宮と認める人間にならねばいけない。そう教えられてきたわたしを、彼女は初めて一人の人間として見てくれている。
それが彼女を愛しく思う大きな理由。
「貴方がいる限り、わたしは自分を見失わずにいられるのに、どうして離れられよう」
口を突いて出た本音に彼女は頬を染めて微笑んだ。
既に親族たちは宮中に入っているらしく至る所に彼らの側近を見掛けた。中には幼少より顔馴染みだった者もいたので、会釈を振り撒きながら朱色の円柱の間をすり抜け回廊を歩むうちに、次第に大きくなる人々の談笑に近づいていった。
 大君と大后の周りを親族や腹心の臣下たちが囲う光景を見て、己が目指す存在に複雑な思いを抱いた。わたしの理想はどこか違うように思えてならない。一段高い壇上から様々な宝玉で飾られた椅子に座り、身内から距離を保つ姿はどこにも心の寄せ所を持たない孤独を感じさせる。
 「兄宮様、遅いですわ」
 クレハが唇を突き出し叫んだ。その傍らにはヌヒの宮と、産着を身につけた赤子を抱える貴婦人が立っていた。恐らく彼女がヌヒの婚約者殿なのだろう。
 自然と集まる視線を意識し口元を緩め久し振りに会う親族たちに挨拶をした。
 「ご無沙汰しております」
 大君直系の子孫は貴族として扱われている。しかし時代の流れと共に権力や財産を失った一族は、自ら家臣に下るか庶民と変わらぬ生活を強いられる。つまりここに集う者たちはあらゆる手段を使って生き残った、勝ち組なのだ。そしてそれを自負するからこそ、いつも鼻先が天井に向いているのかもしれない。
 「お美しい方ね」
 「イシベの大臣の御息女とは、粋な神託だ」
 口々に囃し立てる周囲に適当に愛想笑いを撒き、コマリを連れ大君の前に出た。
 「大君、彼女がわたしの婚約者コマリ殿にございます」
 コマリが恭しく頭を垂れる。その可憐な所作を眺めていた大后は溜息混じりに呟いた。
 「早くにお母上を亡くされたと聞きましたが、女人らしくたおやかに育たれたのですね」
 「ヌヒの宮もこちらへ」
 貴婦人に抱かれた赤子も伴って四人が並んだ。
 「王位を継承するにあたって伴侶を選ぶのは、今後の人生を大きく左右させよう。そなたたち二人は神託によって選ばれた相手を、共に生きるに相応しい女人と認めるか?」
 隣り合う彼女の温かい手の甲が僅かに触れた。
 「彼女以外に、わたしの伴侶はございませぬ」
一瞬の間を置いて、わたしの声は大きく響いた。だが喜びと恥じらいの入り混じった紅潮したコマリの顔を一瞥し自分の言葉に自信を持った。
 「ぼくもまだ幼い相手ではございますが、これより続く人生を長く歩み進めていきたく思います」
 負けじとヌヒも声を張り上げ宣言した。大后と視線を交わし相槌を打つと
「ならば両者を正式に婚約者と認めよう。従って両大臣はそなたたちの血族となる。我が与えた課題に於いて、手を取り合い助け合うがよい」
 まるでわたしとイシベの大臣の関係を見越した上で、釘を刺された気がして居心地が悪かった。恐らく大臣も同じ思いをしているのだろう。大君との謁見が済み集まった親族で結納と宴が催されたが、その間も彼はわたしと目を合わそうとしなかった。大君への忠義が固ければ固い程、わたしという存在が疎ましいのだ。神聖な血を一切汲まないわたしが、王位を求めるのは歴代大君たちへ対する冒涜だと信じて疑わない彼の思想を知っている。娘が憎むわたしの婚約者となったのだから、大臣の心中も穏やかではないのも当たり前だ。
だがいかに大臣がヌヒの宮を支持しようと、わたしは彼女と王位を手に入れる。そして歪められた歴史を正し―――真実を明らかにすることで、自分の存在意義を見つけられるかもしれないと信じている。
 食事がある程度片づいてきた頃、箸を置いたヌヒが大君に向かって言葉をかけた。
 「大君、予てよりお願い申し上げていた剣狩りの件は」
 初めて耳にする新たな政策に一同は驚きを隠せなかった。動揺する一同の疑問をクレハが紡いだ。
 「いつの間にそのようなことを申していたのです? 私には何も言わずに」
 「申し訳ありませぬ。しかし王位継承に関わることですので、母宮様に頼るのではなく自分自身の力で、できる限りのことを致したいと思いました」
 子の親離れを痛感する複雑な面持ちのクレハを一瞥し、大君は静かに開口した。
 「前々より考慮に入れていたが、よかろう。明日よりそなたの願い通り全国に剣狩りを命ずる」
 「失礼ながら、ヌヒの宮にお伺いしたい。その剣狩りというのは…剣の巫女が持つクサヒルメの剣を探す為だろうか?」
 「はい」
恐れを知らない瞳が射抜くようにわたしを捉える。
 「オオサク島で調べました。クサヒルメの剣は想像より質素な物らしく、黒革の鞘に収まった剣と書には記されておりました。柄は動物の骨でできた物とありましたが、墓を掘り起こし調べさせた所、歴代の巫女たちの骨が一部欠けておりました。それも決まって背骨だけ」
 不穏な空気が重く圧しかかる。各々に想像を膨らませ背筋を凍らせているのだろう。その不安な思いを総括するかのように、ヌヒの宮は静かに言い放った。
 「想像の話ではございますが、ぼくは剣の柄は巫女たちの骨より成り立っていると考えます。故に全国に法令を出し、一切の剣を調べるのが巫女に繋がる道かと存じます」
 着々と歩んでいく彼を見詰め、わたしは今できる最善の方法に思案を巡らせた。
宴が終わり次々に帰って行く親族たちと一緒に、別れを惜しみながらコマリとイシベの大臣を見送った。久し振りの酒に少し酔いが回ったのかもしれない。火照った身体を冷まそうと庭園に足を踏み入れた途端、薄闇の中にぼんやりと浮かぶ見慣れたはずの景色にどこか俗世から切り離された雰囲気を見出し―――素面なら到底考えも及ばない―――宮中の外へ一人で抜け出そうと思い立った。
 月も高く昇り、幼い頃に見つけた抜け道を使えば誰にも見咎められないだろう。運良く大君に謁見する為に衣は黒の正装だった。周囲を見回し他に気配がないことを確認すると音もなく低木に隠れた穴を通り、宮中の外へ抜け出した。
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