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第六幕 拝啓、十年後の約束の時計台
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第六幕 拝啓、十年後の約束の時計台
父さんの大きな身体が収まる小さな壺を眺めるぼくに、シンの母さんが声をかけてきた。
「キアくん。これ、ズボンに入っちょったさー」
そう言って渡してくれたのはボロボロになったエアメール。後で読もうと思って忘れていたぼく宛ての手紙だった。
先にポストマンが封を開けていたから、そこから手紙を出そうとしてその動作を止めた。周りにはまだ役所の人たちが沢山いて、とても静かに手紙を読んでいいような雰囲気ではなかった。不法入国疑い扱いのぼくら親子をどう対処したらいいのかとか…ちょっと面倒な国際法にもひっかかりそうな話題なだけに、ぼくは子どもという身分を笠に着て大人に丸投げしていた。
「ちょっと出かけてくるよ」
父さんの骨壺に向かって声をひそめて呟くと、ぼくは手紙を持って外に出た。
行き先は特に決めていない。けれど道を歩けば誰かに会って、そしてお悔やみを言われて発破をかけられる。それを何十回か繰り返して、もういい加減人気のない所に行きたくなってその足は時計台に向かった。
のっぺらは時計台の部品が揃えばすぐに直せると言っていたけれど、案外届くまで時間がかかる。この頃では学校のみんなが、空き時間を使って展望台の清掃活動に乗り出している。花壇なんかも作られて、初めてここにきた時の廃れた雰囲気は完全に拭い去られていた。
ぼくは白いペンキを塗り直して貰って綺麗になった時計台の壁に凭れ掛かり、持ってきた手紙を広げた。
風が絶えず吹き続け燦々と注ぐ日差しの熱気を和らげてくれる。木々がざわめき、遠くでかもめの鳴き声が響く。そしてぼくの耳元で父さんの笑い声が聞こえた気がした。
ポストマンは英語で書かれていたと言っていたけど、どうもフランス語のようだ。一応父さんに習ったけれど、フランスに行く機会がなかったので翻訳するのに少し時間がかかった。何度も何度もその文面を読み返して、その度に上がっていく体温と早まる鼓動にぼくは冷静さを失った。
『愛しいキア。すべての準備は整いました。会いに行きます。貴方の母 フルール』
ドキンドキンと心臓が早鐘を打ち、胸が痛いくらいだ。
「キーアー!」
風に揺れる白いスカーフを棚引かせて、リクは必死の形相で手を振りながら走ってきた。
「今、みんな探しちょるさー! キアのお母ちゃんが、港に…っ!」
肩で呼吸をするリクの紅潮した顔を見た瞬間、ぼくは躊躇いなく彼女を強く抱き締めていた。
ぼくの腕の中でリクは全身を硬直させたけど、抵抗せずにじっとしていた。
「…夢、じゃない」
リクの温かな手触りとその微かな甘い香りを、定番のほっぺを抓って痛みを確かめるって言う事実確認の代わりにしてぼくは驚愕したまま呟いた。
「な、な…なんっ?」
テンパるリクの様子に自然と笑みを浮かべると、彼女の手を取りぼくは一目散に港に向かって走り出した。
港には既に人だかりができていた。まるでぼくらがこの島に漂着した、あの日のような光景にデジャヴを覚える。
「蔵屋敷くん!」
「キアくんさーきよったさぁ」
ぼくたちに気づくとみんなは率先して道を開けてくれた。まるでモーゼの気分を味わいながら、ぼくは人だかりの中にシンを見つけその手をついでに引っ張った。
「キア! どこさ行っちょったさ! おみゃーの母ちゃが…」
「知ってるっ」
興奮しているのかうるさく騒ぐシンを黙らせると、ぼくは片手に親友を。そしてもう片手に恋人を連れて、船の前に佇む女性の元に進み出た。
「…Kia…」
遺伝子の神秘を感じさせるくらい、その女性はぼくにそっくりだった。すらりとした身体に明るい茶色の髪。同色の瞳から大粒の涙を絶えずこぼしながら、彼女は傍らに佇む男性と共にぼくを出迎えた。
「―――Mom?」
それ以上、ぼくらの間にやりとりはいらなかった。お互いを求め合う言葉に背中を押され、ぼくと母さんは弾けるように飛び出すと強く抱き締め合った。十一年間離れ離れになったぼくら母子は、この瞬間。ようやく再び出会う事ができたのだった。
感動の親子の再会が無事に終わると、ぼくらは場所を国崎家に変えて腰を据えて話し合った。
母さんに同行したこの初老の男性はアレンディスと名乗った。アペリティフサーカス団の団長を務めていたけれど、ようやく後継者を育て終えて今は引退した身の上らしい。女性一人旅危険だからと言って今回の渡日についてきたらしい。
「アレンディスは私の先輩で、ずっとアペリティフで働いていたのよ」
そして母さんもかつてはサーカスの花形、ブランコ乗りだったと聞いてぼくは驚きを隠せなかった。
「フィリックスとも少し面識があるよ。ただ彼女からよく話を聞いていてね。会った回数以上に親しみを持っているという感じだよ」
久しぶりに耳にする父さんの本名。ここでは服部なんて名乗っていたけれど本当はきちんと「フィリックス・ハーメル」という名前を持っているんだ。
母さんはぼくに出会えた喜びと、父さんの死のショックからかずっと涙を流している。
ぼくの手を固く握りしめたまま、目元にハンカチを当てるその仕草も本当に綺麗でつい見惚れてしまいそうだった。実際にぼく以外にこの場にいる男性陣―――シンにポリスマンと猪五郎爺さんの三人は完全に母さんに見た目に心を奪われている感じだ。対する女性陣はリクと室伏先生の目つきがなんだか怖いので、取りあえずそちらを見ないようにしておいた。
母さんがそんな調子だったから説明はアレンディスがしてくれた。彼もフランス語と英語しか喋れないからぼくが再度、この場に集まる面々の為に通訳をしなければいけないんだけど。
「幼い頃、偶然サーカスで知り合った二人は友情を深め合ったんだよ。巡業で離れてしまった間、フィリックスは奥方とご両親を亡くされたりと色々と辛い事があったようだけど…フルールも…」
言い淀むアレンディスを見てようやく母さんが涙を拭うのをやめた。
「私は夫から激しい暴力を受けていたわ。生まれたばかりの赤ちゃんにも、危害を加えようとして…」
ぼくは通訳するのも忘れ母さんの整った顔をただひたすら見詰めた。一体何を言おうとしているんだろう。ぼくに異父兄弟がいるって話なのか。それに父さんの奥さんが亡くなっているって…?
「再び会えたフィリックスに幼い貴方を託し、私は必死に夫から逃れようとしたわ」
大きな瞳から再び真珠のような涙が零れ落ちる。アレンディスが慰めるように母さんの肩を優しく叩いていた。
「彼女はずっときみたちの行方を捜していた。同時に離婚へ向けて動きながら。そうしてぼくらは各国を巡りきみたちを探していたところに、突然フィリックスからメールが届いたんだよ。自分たちは今日本の小さな島にいると。自分の寿命は多分それ程長くないから、キアを迎え入れる準備をして可能な限り早くきて欲しいと」
「……なんだよ…それ…」
リクたちの前で涙なんて流したくなかったけれど、一度緩んだ涙腺はすぐに戻ってくれないみたいだ。
正直、父さんと本当に血が繋がらないとかそんなのはどうでもいい。それぐらいぼくらは疑いようもなく家族だったから。だけど事実を知る父さんはきっと、心のどこかで引け目を感じていたんじゃないだろうか。能天気で悩みなんて無用な人だったけど、実はとても繊細な心を持っていたから。
もう一度父さんに会えるのなら、ぼくは声を大にしてこう言ってやるのに。
「ぼくは…父さんの子ども、だよ…っ。誰が何と言おうと、ぼくは…っ」
母さんが優しく抱き締めてくれた。何度も何度もぼくの髪を撫でながら「えぇ、本当に…」と囁いて。
父さんが隠し続けた悲しみはきっと、ぼくの為に嘘を吐き続けた事にある。ぼくを守る為に、ぼくを育てる為に。父さんは優しい嘘を最後まで吐き通した。それがどんなに孤独な戦いだったのか、今のぼくには想像しても余りある。
誰もいない舞台の上で、一人道化を演じ通した父さん。その姿を想うと涙は尽きず声が嗄れるまで泣き続けた。
それから大人たちはぼくと父さんについて話し合いを始め、ぼくとシンとリクは再び時計台に逃げ出した。
「大丈夫さー?」
泣き過ぎて瞼がパンパンに腫れ上がり、鼻水も止まらないぼくを気遣いシンが声をかけてくれた。
「うん…なんか、色々腑に落ちてスッキリした気分だよ」
「そりゃーよかったさー…。してぇ、キアはだーなるんさなー」
それはぼく自身も気になる疑問だった。
「…多分、母さんと一緒に帰ると思うよ。聞いたらぼく、一応フランス国籍を持っているらしいし…向こうで生活基盤を作っていくのかな」
あれだけ焦がれていた現実的な進路が決まっても、以前のように心躍る気分にはなれない。だってもうすぐ、ぼくらの間には別れが迫っていると知っているから。
「フランス…フランスさー」
多分シンは何か気の利いた事でも言いたかったんだろうけど、フランスに関する予備知識がなさ過ぎて連呼するだけに終わったみたいだ。
「どんな所だろうね…」
展望台から美しい海を眺めぼくは呟いた。
「でも、どんな所でもこの海で繋がっているから」
「キアが言うとなんよーのぉ、説得力あるさー。のぅ、リク?」
シンに話題を振られリクはそれまでずっと俯いていた顔をようやく上げてぼくを見た。
黒目がちの大きな瞳に涙を蓄えて。真っ直ぐな眼差しを向けてくる。その瞬間、驚く程簡単に、ぼくは心からリクが大好きだって思った。抑え続けた恋心が、重い鎖から解き放たれる。
まるで全身の血液が逆流して心臓に集まってくるみたいだ。胸が早鐘を打って、息を吸うのも苦しくなる。けれどそれは確かに甘美な愛しさを伴っていて。世界中に向かって、いや。父さんが飛び立ったどこかに向けて大声で叫びたくなった。
「…手紙…書くさーっ」
彼女の両手を取り、ぼくはシンを見た。
「シン、証人になってよ。―――リク、ぼくが大人になったら…いや、具体的に決めよう。十年後の今日と同じこの日に、この場所できみにプロポーズをする」
「…っ!」
突然の告白にリクは全身を震わせ赤面し、シンはようやく言ったか、と成り行きを楽しむ野次馬の顔をしてニヤついた。
「リクが断れないぐらい、いい男になって帰ってくるから…待っていて」
繋いだリクの両手が小刻みに震えている。答えを聞くまでの時間がまるで永遠に続くかのように思えたその時。リクは真っ赤な顔を微かに動かし、頷いてくれた。
「―――っしゃあぁぁぁ!」
喜びのあまりガッツポーズを決めると、シンまでぼくに飛びついて祝ってくれた。
夜明けを迎えたばかりの薄暗い朝だった。海面から沸き立つ霧にまるで紛れるかのようにして、ぼくと母さんたちを乗せた船は静かに出発した。
港には大勢の人々が見送りに駆けつけてくれていた。学校のみんなが横断幕を作って別れを惜しんでくれている。山羊を連れたのっぺらと並ぶポストマン。涙を拭う室伏先生の肩を抱くポリスマン。餞別にあの詩集を贈ってくれた校長先生。シンとリクの母さんたちに猪五郎爺さん。一人ひとりとの思い出を語れば終わりが見えないくらい、様々な出会いがあった。
先頭に立ちいつまでも手を振り続けてくれたシンとリクの姿を目に焼き付けながら、ぼくらは安師岐島を去った。
「……とても美しい島なのね」
甲板に佇み少しずつ小さくなっていく島と、岬から聳え立つ白い時計台の姿を見詰めながら母さんは心からそう呟いた。
「……あの時計台は、かつては神の宿る場所だったらしいよ」
潮風に吹かれながら神妙な気持ちでそう応える。その時母さんはとても素敵な笑顔で、まさに名前に相応しい花のような表情でこう言ったんだ。
「あら、じゃあ…きっと信じる者には奇跡を起こしてくれるわね」
母さんから時計台に再び視線を向けた時。ぼくの耳に確かに時計台の巨大な鐘が鳴る音が聞こえた。そしてぼくはまるで神の啓示を受けたかのように視線を海の先に戻した。
白い霧で掻き消されそうになりながらも、島に向けて真っ直ぐ走る船を見つけたんだ。
そう。擦れ違いざまに見つけたその船体には力強い文字で「第三大漁丸」と描かれていた。何よりも、船首に立つ捩じり鉢巻き姿の男の横顔を見てぼくは確信した。
―――シンたちの父親が乗った船が、島へ帰ってきたのだと。それが奇跡を目の当たりにした初めての瞬間だった。
そして今、ぼくはきみに手紙を書いている。
あの島では相変わらず、時代の流れに取り残され独自の時間軸の中でゆっくりと日々を過ごしているだろうね。
ぼくの書く字を読めば、ぼくがどんな状態にあるのかわかる気がするからと言ってメールよりも手紙を欲しがるきみ。
お店の手伝い傍らにフランス語の勉強をしているって書いてあったけれど、順調に進んでいるかな? 読みやすいフランス語の本を見つけたから同封します。是非勉強だと思って読破して下さい。それとシンから聞いたよ。占いに傾倒しすぎて夜更かしをしているらしいけど、無茶はしないで。睡眠不足は美容の大敵だよ。
そう、これもシンから聞いたけれど、ポリスマンにペド疑惑があったあの頃。実は早く子どもが欲しくて、突然現れた見知らぬ少年(つまりぼく)に未来の自分の息子を重ねて抱きついてしまったって…実は相当懸想していたんだね。その願いも無事叶い、猛くんも健やかに成長しているようで安心した。写真を見たけど、完全に先生似の顔立ちだ。優しそうないい少年になるよ。
ついきみに手紙を書くと、どうでもいい事まで長々と綴ってしまう癖がついている。だから簡潔にぼくの近状を伝えるなら、すべてが最高に順調だよ。何よりも、もうすぐ約束の日が近づいてきている。
さぁ、これまで願い続けた夢が叶う時がきた。あらゆる苦悩を乗り越えて、ぼくも困難が両手に抱える贈り物を受け取ろう。
その時ぼくは片手に、孤独に耐え強く咲き続けた母の花を。そしてもう片手に父の道化師としての勇気を持ち、きみにこの言葉を贈るだろう。
―――リク、きみを愛していると。
父さんの大きな身体が収まる小さな壺を眺めるぼくに、シンの母さんが声をかけてきた。
「キアくん。これ、ズボンに入っちょったさー」
そう言って渡してくれたのはボロボロになったエアメール。後で読もうと思って忘れていたぼく宛ての手紙だった。
先にポストマンが封を開けていたから、そこから手紙を出そうとしてその動作を止めた。周りにはまだ役所の人たちが沢山いて、とても静かに手紙を読んでいいような雰囲気ではなかった。不法入国疑い扱いのぼくら親子をどう対処したらいいのかとか…ちょっと面倒な国際法にもひっかかりそうな話題なだけに、ぼくは子どもという身分を笠に着て大人に丸投げしていた。
「ちょっと出かけてくるよ」
父さんの骨壺に向かって声をひそめて呟くと、ぼくは手紙を持って外に出た。
行き先は特に決めていない。けれど道を歩けば誰かに会って、そしてお悔やみを言われて発破をかけられる。それを何十回か繰り返して、もういい加減人気のない所に行きたくなってその足は時計台に向かった。
のっぺらは時計台の部品が揃えばすぐに直せると言っていたけれど、案外届くまで時間がかかる。この頃では学校のみんなが、空き時間を使って展望台の清掃活動に乗り出している。花壇なんかも作られて、初めてここにきた時の廃れた雰囲気は完全に拭い去られていた。
ぼくは白いペンキを塗り直して貰って綺麗になった時計台の壁に凭れ掛かり、持ってきた手紙を広げた。
風が絶えず吹き続け燦々と注ぐ日差しの熱気を和らげてくれる。木々がざわめき、遠くでかもめの鳴き声が響く。そしてぼくの耳元で父さんの笑い声が聞こえた気がした。
ポストマンは英語で書かれていたと言っていたけど、どうもフランス語のようだ。一応父さんに習ったけれど、フランスに行く機会がなかったので翻訳するのに少し時間がかかった。何度も何度もその文面を読み返して、その度に上がっていく体温と早まる鼓動にぼくは冷静さを失った。
『愛しいキア。すべての準備は整いました。会いに行きます。貴方の母 フルール』
ドキンドキンと心臓が早鐘を打ち、胸が痛いくらいだ。
「キーアー!」
風に揺れる白いスカーフを棚引かせて、リクは必死の形相で手を振りながら走ってきた。
「今、みんな探しちょるさー! キアのお母ちゃんが、港に…っ!」
肩で呼吸をするリクの紅潮した顔を見た瞬間、ぼくは躊躇いなく彼女を強く抱き締めていた。
ぼくの腕の中でリクは全身を硬直させたけど、抵抗せずにじっとしていた。
「…夢、じゃない」
リクの温かな手触りとその微かな甘い香りを、定番のほっぺを抓って痛みを確かめるって言う事実確認の代わりにしてぼくは驚愕したまま呟いた。
「な、な…なんっ?」
テンパるリクの様子に自然と笑みを浮かべると、彼女の手を取りぼくは一目散に港に向かって走り出した。
港には既に人だかりができていた。まるでぼくらがこの島に漂着した、あの日のような光景にデジャヴを覚える。
「蔵屋敷くん!」
「キアくんさーきよったさぁ」
ぼくたちに気づくとみんなは率先して道を開けてくれた。まるでモーゼの気分を味わいながら、ぼくは人だかりの中にシンを見つけその手をついでに引っ張った。
「キア! どこさ行っちょったさ! おみゃーの母ちゃが…」
「知ってるっ」
興奮しているのかうるさく騒ぐシンを黙らせると、ぼくは片手に親友を。そしてもう片手に恋人を連れて、船の前に佇む女性の元に進み出た。
「…Kia…」
遺伝子の神秘を感じさせるくらい、その女性はぼくにそっくりだった。すらりとした身体に明るい茶色の髪。同色の瞳から大粒の涙を絶えずこぼしながら、彼女は傍らに佇む男性と共にぼくを出迎えた。
「―――Mom?」
それ以上、ぼくらの間にやりとりはいらなかった。お互いを求め合う言葉に背中を押され、ぼくと母さんは弾けるように飛び出すと強く抱き締め合った。十一年間離れ離れになったぼくら母子は、この瞬間。ようやく再び出会う事ができたのだった。
感動の親子の再会が無事に終わると、ぼくらは場所を国崎家に変えて腰を据えて話し合った。
母さんに同行したこの初老の男性はアレンディスと名乗った。アペリティフサーカス団の団長を務めていたけれど、ようやく後継者を育て終えて今は引退した身の上らしい。女性一人旅危険だからと言って今回の渡日についてきたらしい。
「アレンディスは私の先輩で、ずっとアペリティフで働いていたのよ」
そして母さんもかつてはサーカスの花形、ブランコ乗りだったと聞いてぼくは驚きを隠せなかった。
「フィリックスとも少し面識があるよ。ただ彼女からよく話を聞いていてね。会った回数以上に親しみを持っているという感じだよ」
久しぶりに耳にする父さんの本名。ここでは服部なんて名乗っていたけれど本当はきちんと「フィリックス・ハーメル」という名前を持っているんだ。
母さんはぼくに出会えた喜びと、父さんの死のショックからかずっと涙を流している。
ぼくの手を固く握りしめたまま、目元にハンカチを当てるその仕草も本当に綺麗でつい見惚れてしまいそうだった。実際にぼく以外にこの場にいる男性陣―――シンにポリスマンと猪五郎爺さんの三人は完全に母さんに見た目に心を奪われている感じだ。対する女性陣はリクと室伏先生の目つきがなんだか怖いので、取りあえずそちらを見ないようにしておいた。
母さんがそんな調子だったから説明はアレンディスがしてくれた。彼もフランス語と英語しか喋れないからぼくが再度、この場に集まる面々の為に通訳をしなければいけないんだけど。
「幼い頃、偶然サーカスで知り合った二人は友情を深め合ったんだよ。巡業で離れてしまった間、フィリックスは奥方とご両親を亡くされたりと色々と辛い事があったようだけど…フルールも…」
言い淀むアレンディスを見てようやく母さんが涙を拭うのをやめた。
「私は夫から激しい暴力を受けていたわ。生まれたばかりの赤ちゃんにも、危害を加えようとして…」
ぼくは通訳するのも忘れ母さんの整った顔をただひたすら見詰めた。一体何を言おうとしているんだろう。ぼくに異父兄弟がいるって話なのか。それに父さんの奥さんが亡くなっているって…?
「再び会えたフィリックスに幼い貴方を託し、私は必死に夫から逃れようとしたわ」
大きな瞳から再び真珠のような涙が零れ落ちる。アレンディスが慰めるように母さんの肩を優しく叩いていた。
「彼女はずっときみたちの行方を捜していた。同時に離婚へ向けて動きながら。そうしてぼくらは各国を巡りきみたちを探していたところに、突然フィリックスからメールが届いたんだよ。自分たちは今日本の小さな島にいると。自分の寿命は多分それ程長くないから、キアを迎え入れる準備をして可能な限り早くきて欲しいと」
「……なんだよ…それ…」
リクたちの前で涙なんて流したくなかったけれど、一度緩んだ涙腺はすぐに戻ってくれないみたいだ。
正直、父さんと本当に血が繋がらないとかそんなのはどうでもいい。それぐらいぼくらは疑いようもなく家族だったから。だけど事実を知る父さんはきっと、心のどこかで引け目を感じていたんじゃないだろうか。能天気で悩みなんて無用な人だったけど、実はとても繊細な心を持っていたから。
もう一度父さんに会えるのなら、ぼくは声を大にしてこう言ってやるのに。
「ぼくは…父さんの子ども、だよ…っ。誰が何と言おうと、ぼくは…っ」
母さんが優しく抱き締めてくれた。何度も何度もぼくの髪を撫でながら「えぇ、本当に…」と囁いて。
父さんが隠し続けた悲しみはきっと、ぼくの為に嘘を吐き続けた事にある。ぼくを守る為に、ぼくを育てる為に。父さんは優しい嘘を最後まで吐き通した。それがどんなに孤独な戦いだったのか、今のぼくには想像しても余りある。
誰もいない舞台の上で、一人道化を演じ通した父さん。その姿を想うと涙は尽きず声が嗄れるまで泣き続けた。
それから大人たちはぼくと父さんについて話し合いを始め、ぼくとシンとリクは再び時計台に逃げ出した。
「大丈夫さー?」
泣き過ぎて瞼がパンパンに腫れ上がり、鼻水も止まらないぼくを気遣いシンが声をかけてくれた。
「うん…なんか、色々腑に落ちてスッキリした気分だよ」
「そりゃーよかったさー…。してぇ、キアはだーなるんさなー」
それはぼく自身も気になる疑問だった。
「…多分、母さんと一緒に帰ると思うよ。聞いたらぼく、一応フランス国籍を持っているらしいし…向こうで生活基盤を作っていくのかな」
あれだけ焦がれていた現実的な進路が決まっても、以前のように心躍る気分にはなれない。だってもうすぐ、ぼくらの間には別れが迫っていると知っているから。
「フランス…フランスさー」
多分シンは何か気の利いた事でも言いたかったんだろうけど、フランスに関する予備知識がなさ過ぎて連呼するだけに終わったみたいだ。
「どんな所だろうね…」
展望台から美しい海を眺めぼくは呟いた。
「でも、どんな所でもこの海で繋がっているから」
「キアが言うとなんよーのぉ、説得力あるさー。のぅ、リク?」
シンに話題を振られリクはそれまでずっと俯いていた顔をようやく上げてぼくを見た。
黒目がちの大きな瞳に涙を蓄えて。真っ直ぐな眼差しを向けてくる。その瞬間、驚く程簡単に、ぼくは心からリクが大好きだって思った。抑え続けた恋心が、重い鎖から解き放たれる。
まるで全身の血液が逆流して心臓に集まってくるみたいだ。胸が早鐘を打って、息を吸うのも苦しくなる。けれどそれは確かに甘美な愛しさを伴っていて。世界中に向かって、いや。父さんが飛び立ったどこかに向けて大声で叫びたくなった。
「…手紙…書くさーっ」
彼女の両手を取り、ぼくはシンを見た。
「シン、証人になってよ。―――リク、ぼくが大人になったら…いや、具体的に決めよう。十年後の今日と同じこの日に、この場所できみにプロポーズをする」
「…っ!」
突然の告白にリクは全身を震わせ赤面し、シンはようやく言ったか、と成り行きを楽しむ野次馬の顔をしてニヤついた。
「リクが断れないぐらい、いい男になって帰ってくるから…待っていて」
繋いだリクの両手が小刻みに震えている。答えを聞くまでの時間がまるで永遠に続くかのように思えたその時。リクは真っ赤な顔を微かに動かし、頷いてくれた。
「―――っしゃあぁぁぁ!」
喜びのあまりガッツポーズを決めると、シンまでぼくに飛びついて祝ってくれた。
夜明けを迎えたばかりの薄暗い朝だった。海面から沸き立つ霧にまるで紛れるかのようにして、ぼくと母さんたちを乗せた船は静かに出発した。
港には大勢の人々が見送りに駆けつけてくれていた。学校のみんなが横断幕を作って別れを惜しんでくれている。山羊を連れたのっぺらと並ぶポストマン。涙を拭う室伏先生の肩を抱くポリスマン。餞別にあの詩集を贈ってくれた校長先生。シンとリクの母さんたちに猪五郎爺さん。一人ひとりとの思い出を語れば終わりが見えないくらい、様々な出会いがあった。
先頭に立ちいつまでも手を振り続けてくれたシンとリクの姿を目に焼き付けながら、ぼくらは安師岐島を去った。
「……とても美しい島なのね」
甲板に佇み少しずつ小さくなっていく島と、岬から聳え立つ白い時計台の姿を見詰めながら母さんは心からそう呟いた。
「……あの時計台は、かつては神の宿る場所だったらしいよ」
潮風に吹かれながら神妙な気持ちでそう応える。その時母さんはとても素敵な笑顔で、まさに名前に相応しい花のような表情でこう言ったんだ。
「あら、じゃあ…きっと信じる者には奇跡を起こしてくれるわね」
母さんから時計台に再び視線を向けた時。ぼくの耳に確かに時計台の巨大な鐘が鳴る音が聞こえた。そしてぼくはまるで神の啓示を受けたかのように視線を海の先に戻した。
白い霧で掻き消されそうになりながらも、島に向けて真っ直ぐ走る船を見つけたんだ。
そう。擦れ違いざまに見つけたその船体には力強い文字で「第三大漁丸」と描かれていた。何よりも、船首に立つ捩じり鉢巻き姿の男の横顔を見てぼくは確信した。
―――シンたちの父親が乗った船が、島へ帰ってきたのだと。それが奇跡を目の当たりにした初めての瞬間だった。
そして今、ぼくはきみに手紙を書いている。
あの島では相変わらず、時代の流れに取り残され独自の時間軸の中でゆっくりと日々を過ごしているだろうね。
ぼくの書く字を読めば、ぼくがどんな状態にあるのかわかる気がするからと言ってメールよりも手紙を欲しがるきみ。
お店の手伝い傍らにフランス語の勉強をしているって書いてあったけれど、順調に進んでいるかな? 読みやすいフランス語の本を見つけたから同封します。是非勉強だと思って読破して下さい。それとシンから聞いたよ。占いに傾倒しすぎて夜更かしをしているらしいけど、無茶はしないで。睡眠不足は美容の大敵だよ。
そう、これもシンから聞いたけれど、ポリスマンにペド疑惑があったあの頃。実は早く子どもが欲しくて、突然現れた見知らぬ少年(つまりぼく)に未来の自分の息子を重ねて抱きついてしまったって…実は相当懸想していたんだね。その願いも無事叶い、猛くんも健やかに成長しているようで安心した。写真を見たけど、完全に先生似の顔立ちだ。優しそうないい少年になるよ。
ついきみに手紙を書くと、どうでもいい事まで長々と綴ってしまう癖がついている。だから簡潔にぼくの近状を伝えるなら、すべてが最高に順調だよ。何よりも、もうすぐ約束の日が近づいてきている。
さぁ、これまで願い続けた夢が叶う時がきた。あらゆる苦悩を乗り越えて、ぼくも困難が両手に抱える贈り物を受け取ろう。
その時ぼくは片手に、孤独に耐え強く咲き続けた母の花を。そしてもう片手に父の道化師としての勇気を持ち、きみにこの言葉を贈るだろう。
―――リク、きみを愛していると。
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同時期に親友の彼女からの紹介により出会った女性とも良好な関係を築いていくのだが……まさかの事態に。
男は難しい選択を迫られる事になる。
物のように命を扱った男に待ち受けていた運命とは?
タイトル以上にほのぼの作品だと思っています。
ジャンルは青春×恋愛×ファンタジーです。
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お読み頂きありがとうございます!
ストックの無い状態から始めますので、一話あたり約千文字くらいでの連載にしようと思っています。
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ゆあーんゆよーん
っという表現は私も大好きです(^○^)