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第五幕 千の鶴と旅立つかもめ
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第五幕 千の鶴と旅立つかもめ
「蔵屋敷くんは…今日も…あそこさね?」
遠慮がちにシンの席にやってきたクラスメイトたちは、何とも聞き辛そうにそう尋ねた。
あの日以来、キアは一度も教室にこなかった。毎日彼は図書室にこもり、まるで何かに憑りつかれたかのように本を読み漁っていた。下校時間になればシンたちと共に帰るものの、会話らしい会話はない。彼はずっと歩きながら借りてきた本を読み続け、その鬼気迫る迫力にシンもリクもむやみに声をかけられなくなった。
「…必死に…探しちょるんさ。父ちゃを助ける方法をさ」
以前キアが言っていた言葉を思い出し、シンは絞り出すようにして答えた。
「『人間が想像できる事は必ず実現できる』って言うちょったさもん」
付け足すようにしてリクが呟くと、周囲でそれとなくこちらのやりとりを聞いていた他のクラスメイトたちも集まった。
「リクちゃん、あの噂…ホンマなんさね?」
それまで誰もが改めて口にするのを躊躇っていた質問を、最年少のタクマが純粋な疑問と憐みの気持ちを混ぜて尋ねた。
シンの母が島民に挨拶の品と共に送った手紙には、キアの父の病状ついて書かれていた。大人たちの反応は様々で、中にはそれを性質の悪い冗談だと受け止めた人もいた。
シンは自分の返答次第では、キアたち親子が迫害される恐れもあるのではと思い言葉に迷った。
「……ホンマさもん」
長い沈黙が流れ、チャイムが鳴り室伏先生が慌てて教室に入ってきたその時。黙り込むシンの隣で、リクが顔を真っ赤にして涙を堪え答えた。
「う、うち…が、もっと力があれば精霊に…回復魔法さ教えてもらえるかもしれんけんどさー…うちは…な、何もできんさぁー」
溢れる想いが止まらずに、リクは大声をあげて泣き出した。彼女の悲痛な叫びを聞きながらシンもまた、無力な身の上を恥じるかのように歯を食いしばった。
「…っいた」
ページをめくる時に指を切ったその鋭い痛みでぼくの集中力も一旦途切れた。気がつけば両脇にはエベレストの如く本の山ができあがっていた。それなのにこれだけの量を探しても、何一つ手がかりは見つからない。父さんを救う手立てはこの世にはない。諦めろと、まるで無言でぼくを諭すかのように聳える本の山々。あれから父さんは毎日シンの母さんと病院に通っている。そして帰ってくると、院内で見かけた面白い光景とかを楽しげに語り一切疲れた素振りも見せやしない。
本当に。あの日聞いた出来事がすべて、嘘なんじゃないかと今でも思ってしまうくらい。それぐらい『父さん』と『死』という二つの単語は不釣り合い過ぎた。みんなを驚かせる為に用意した、無駄に大がかりな嘘だったとしても。今ならまだ、笑って喜んで許せるのに…
「蔵屋敷くん」
声をかけられ顔を上げると、そこには校長が立っていた。いつからいたのか気づかなかったけど、ぼくに話しかけるタイミングを待っていたようだった。
「少し痩せましたね」
と言って校長はぼくの目の前に腰かけた。
「中原中也が気に入っているようですね」
時々、どうしても気持ちがついていかず行き詰ってばかりの状況が苦しくて辛くなった時。ぼくはガス抜きがてら、ずっと借りている彼の詩集を読んでいた。
「…ぼくはサーカスを見た事がないんです」
何度も読み返した詩の文字を指先でなぞりながら、ぼくは答えた。
「だけど漠然と明るくて華やかな…イメージだった。けれどこの詩にはそんなものが一片もないんです」
冒頭から語られる暗く重い雰囲気。安っぽい場末のサーカスで披露される空中ブランコを、まるで鰯のように口を半開きにして見入る痩せた観客たち。
命懸けの空中芸は、独特の擬音による表現で揺れる不安定で希薄な存在へと成り下がる。
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん…
気がつけばぼくの手元に、いくつもの涙がこぼれテーブルに染みを作っていた。
「…ぼく…の所為なのかな…って…」
大衆の娯楽の為に作られたサーカス。華やかで沢山のライトに照らされた夢のようなその空間も、よく見ればこの詩のように見たくもない現実の汚さが隠されているのかもしれない。今までぼくが、ずっと父さんの事を一番理解しているつもりでいたのに。実際は身体の異変にも気づかずに、もっと働けだとか他にも色々とひどい悪態を吐いていたのと同じように。見たいものしか見ずに、聞きたい事しか聞かずにきた我が身が今更ながらに悔しくて仕方がない。
「ずっと…夢中で努力すれば、もしかしたら今より幸せになれるんじゃないかって思っていたんだ。でも、実際には父さんは死ぬって…努力しても、どうしようもできない…っ」
自分の涙で咽込みながらぼくは、現実の理不尽さについて言葉の続く限り口汚く罵った。
「…中原中也は幼い頃神童と言われていましたが、弟が幼くして亡くなったのをきっかけに文学に目覚めたと言われています」
息が続かなくなり暴言を止め、呼吸を整えるぼくに向かって校長は語りかけた。
「彼の人生は決して平坦ではなく、文学仲間から苛めの標的にされ、結婚後は息子を早くに亡くし彼自身も夭折しています」
校長は小さく息を吐くと穏やかな眼差しをぼくに向けてきた。
「けれどきっと数々の不幸がなければ、こうして名の残る作品は生まれなかったと思います。…何よりも彼は、どんな辛い事が起きても最後まで己の人生を生き抜いた。わたしは何よりも尊い実績だと思います」
最後の一言だけ、ちくりとぼくの胸に小さく刺さるように響いた。それはぼく自身も自覚できていなかったくらい小さく芽生えていた、無意識にも父さんの後を追うという無意味な自死の可能性を指摘し否定してみせた。
「生きている限り可能性があります。周囲がどう解釈しようときみの人生です。お父上を助けたいと思うのなら、その日がくるまで死に物狂いになりなさい。走り切ったその先でしか見えない景色が必ずあります」
厳しささえ感じるその言葉に、ぼくはしばし唖然として校長を凝視した。もうどんな治療も効果がないと言われているのだから、色々な慰め方はあったとしても最終的には諦めるしかないんだって、何重にもオブラートに包んで諭すのが大人の使い古された常套手段の対応だと決め込んでいた。
でも違う。父さんが死ぬその時まで、醜く最後まで悪足掻きを続けろと言っている。
「やれる事をすべてやり遂げたら、後は…誰でもいいから縋りなさい。子どもが夢を見られるよう支えるのが、大人です」
そして校長はそっとぼくの手を握ると、そこに小さな飴玉を乗せて席を立った。
「………」
消耗しきった身体に優しい甘さが広がる。
父さんの衝撃のカミングアウトからずっと、ほとんど食べ物を受け付けられなくなっていた。何を食べても砂を噛むような味しかしなかったのに、舌先で飴を転がしそれを甘いと感じながらぼくはまた溢れてきた涙を拭った。そしてふと近くに広げたまま置いていた本に一文が目に留まった。
『時計が止まると同時に、それまで一秒の狂いもなく刻まれていた時が急速に逆回りを始めたのだった』
時計が止まり…時間が戻る…?
妙に心がざわめく感覚を覚え、その本を手に取る。表紙の裏をめくり図書の貸し出しカードに書かれた名前を確認した。
もう二十年以上前だと言うのに、この学校の生徒たちは本当に本を読まないのか。それとも読み切れない程ここが、書物で溢れているのか。けれど今までずっと疑問に抱いていた事が今やっと一つに繋がった。
『如月篤志』
貸し出しカードの一番最後に書かれた彼の名前。大切な人たちを失ったポストマンが、時を止めた時計台とどう関わっているのか。
本を閉ざすとぼくは、授業が始まり静まり返る校舎を一人後にした。
郵便局には事務員を務める小母さんが退屈そうに座っている他、誰の姿もなかった。同じ建物の上にある彼の部屋のチャイムを押してみるけれど、そちらも反応はない。平日の日中だから配達に行っているのだろう。
風が強くなってきた。マンションの廊下から身を乗り出すと、すぐ裏の如月時計店が目に入った。のっぺらが外に繋いでいた山羊を小屋に戻している。
一瞬、学校にも行かずにこんな所を出歩いている点について追及されるかと思ったけど、今更父さんが死ぬ以上に恐ろしいものなどないと気づきぼくはのっぺらの元に向かった。
「…ほぉ…最近のガキィは真昼間から家出しよるんさーな。ほぉーエライご身分さー」
ニコニコと、笑顔の見本のような薄っぺらい微笑みを浮かべ辛辣な言葉を発するのっぺらぼう。けれど山羊たちを小屋に戻す間、丁寧に一頭ずつ声をかけている所を見ていたぼくはそれまでの彼の印象を少し改めた。だってこんなに大切に育てている山羊の貴重な肉を、わざわざ滋養が豊富だからと言って父さんに分けてくれたのだから。
「…父さんの病気の事、知ってますよね?」
「……」
のっぺらは一瞬動きを止めぼくを凝視した。返事なんて聞くまでもないけど、話題の切り出し方としては正解だったみたいだ。
「もう、何も打つ手がなくて。正直、不本意だけど神様とかに頼るしかないかなって思っています。それで思い出したんです。むかしあの時計台が建っている山が、むかしは守り神が宿るとされていたって話を」
シンたちはぼくにあの時計台を神聖なものだと言っていたけど、実際はその土地が謂れのある存在なんだ。
「何でもいいから…頼りたい。父さんを助けたい。ぼくは神様を信じた事なんて一度もないけど、でも、今はなりふり構っている余裕もないんです」
湿った風が対峙するぼくらの間を吹き抜けていった。今朝の晴天は分厚い雲に隠れ、今にも雨が降りそうな天気になっていた。
「…そがぁ話をだーしてワシにするさ」
のっぺらは山羊の小屋に鍵をかけながら、冷たく切り捨てるようにして応えた。
「島にきて日も浅いようなぼくが、時計台に願掛けするぐらいだから。だからきっと同じく家族を亡くした人なら縋るんじゃないかって思ったんです。例えば…奥さんとお子さんを同時に亡くしたポストマンとか」
「……」
黙り込むその反応が答えだと知り、ぼくらはお互いに見つめ合ったまま対峙した。
「ここでの暮らしを嫌ちょった癖にさ、田舎暮らしがしたいさー言うおっかしな嫁さ連れて帰りよってさ」
突然のっぺらは、それまでの無機質な笑顔を崩し呟いた。そして風に飛ばされて転がるバケツを拾いぼくに背を向けた。
「…じゃあ、やっぱり時計台が止まったのに修理しなかったのはワザとだったんですね」
丸められた小さな背中に問いかける。長い沈黙でもう返事を聞かなくてもわかった。
「倅を…説得できよったら、部品さ発注かけてやるさー」
手にしたバケツを納屋に持って行く後ろ姿を見送り、ぼくはポツポツと降り出した空を仰いだ。
―――これはぼくの勝手な推理だ。いや、ただの妄想と言い直した方がいいかもしれない。何の根拠もないけれど、でも、きっとそうなんだろうと勝手に確信しているのだから。
両親の離婚の際に、母親と共に島を出ようとした幼いポストマンを島民たちは小学校の廃校危機を理由に無理やり引き留めた。きっとのっぺらはそれをずっと負い目に思っていたんだろう。嫁と子どもを失ったポストマンは、時計台の針を止めた。時を止めたら幸せだったあの頃に戻れるのではって思って。でものっぺらは時計台の故障の原因にすぐ気づいた筈だ。だからきっと、彼は罪滅ぼしのつもりで時計台をそのまま放置していたのかもしれない。
本格的に降り出した雨はまるでスコールだった。ひどい雨脚で数メートル先も見えない。
だいぶむかし、父さんとこんな風にスコールに煽られた時があった。二人してびしょびしょに濡れて軒先を借りていたら、店主が店の中に招き入れてくれた。その日の宿と温かいご飯をご馳走になったあの思い出が、ふと脳裏に蘇り懐かしさに心が切なくなった。
―――世界中を旅して、色々な人に出会って。時に見知らぬ誰かの優しさに甘えて、繋がって…。まるでぼくの人生は足場のないブランコのようだ。ゆやーんゆよーんと揺られながら、必死の芸も傍から見れば娯楽に変わる。それでもぼくは、父さんと最後の旅でこんな辺鄙な島にやってきてしまった。
まるで時の経過から切り取られてしまったかのような、そんな独自の時間の流れを持つ優しくて様々な傷を抱く人たちの島へ。
「…最近の子どもはこんな時間から家出するんだ。へぇ、いいご身分だよねぇー」
木の下で雨宿りをしていたポストマンは、ぼくの気づくとヘラヘラ笑って手招きをした。
「…ついさっき、貴方のお父さんに同じ事を言われましたよ。さすがは親子ですね」
「……っ」
会ったら何て切り出そうかと色々考えていたけど、ポストマンの何かムカつく顔を見た途端ごく自然にそんな風に毒づいていた。彼もムッとしたように眉を寄せ、気まずそうに視線を遠くに向ける。
ここからちょうど、小高い山の上に聳えるあの白い時計台が見える。
「ウィリアム・フォークナーの言葉を履き違えてるなって思ったんです」
「は?」
訝しげに眉を顰めるポストマンを一瞥しぼくは薀蓄を語り出した。
「『時計が止まる時、時間は生き返る』というのは、時と言う概念を目に見える物にした時計の登場によって次第に時計自身に振り回されるようになった現代に対する警鐘の意味だったんです。だから…っ、時計が止まったからって時が巻き戻る訳でもない、ですよ」
そこまで言ってから急に居たたまれなくなり、ぼくは逃げ出したくなってしまった。だって妄想という一切の根拠づけもない状態でしたり顔で大人相手に説く…って、傍から見たら相当痛過ぎる。
「……そがぁ…意味か」
降り続ける雨音に掻き消されてしまいそうなくらい小さな声で、ポストマンは訛りを隠さずにそう漏らした。
堪らなく切なげに時計台を見詰めるその横顔が、ひどく悲しそうで。彼がどんなに必死な想いで時を止めたいと思ったのだろう。
「…ぼくの父さんを治したいんです。でも方法なんてなくて、神頼みしかないなって」
ずぶ濡れの貧相な中年男改めポストマンの姿は、傍から見てもひどく惨めだった。そしてそう遠くない未来に、ただ一人の肉親を亡くすぼくがそこに重なって見えた。
腐った目―――そんな表現がぴったりの悲しい瞳。いつまでも後悔し続ける贖罪の日々。ぼくにはそれが、耐えられるのだろうか? 大の大人が、何年も経った今も苦しんでいると言うのに。
「あの時計台を止めたのは、貴方だったんですね?」
「……澄子が…」
スンッと鼻を鳴らしポストマンは途切れ途切れに語り出した。
「十年後も、二十年後もこの島で…あの時計台の鐘の音を聞きながら暮らそうって言ってたんさ。そん時は親父にガキさ見てもらちょって、二人で出かけよう言うちょったさ」
「ぼくも…せめて、ぼくが成人するまでは父さんは生きているものだって思ってました。あんなんだけど身体だけは丈夫だって…」
「プロポーズもあの時計台でしたんさ。映画みたいに、鐘が鳴る中…かもめが羽ばたいて澄子が頷くんさ」
「普通そんな病気がわかったら、無謀な漂流生活なんてやめる筈ですよね。そうやって無茶ばっかりして、子どもじゃないんだから」
「子どもは女の子じゃったさー。澄子の腹の中で死んじまってさ…」
「せめてもう少し早くに病気がわかっていれば、もしかしたら助かったかもしれないのにって思うと…」
「だーして…」
と呟きポストマンは時計台を睨んだ。
「どうして…」
と口にしてぼくは空を見上げた。
「俺・ぼくたちだったんだっ!!」
その声は綺麗に重なり合い、続けて腹の底から罵り叫んだ。
「死神ももっと長生きしていい加減お迎えがきてもよさそうな老人相手にすればいいだろっ! まだまだこれからの、一番働き盛りの人間を簡単に病気にしやがって!」
「こがぁ島にこんかったらよかったんさ! なーにが嵐さ! なーにが流産さっ! 俺の子どもと澄子を返せーって話ジャンっ!!」
ぼくらはスコールの雨音で音声がシャットアウトされているのをいい事に、好き勝手に思いつく限りの罵倒を続けた。理不尽な運命相手に。思い通りにならない神様を相手に。ぼくらを残して逝った、そして逝ってしまう大切な家族に向かって―――
大人でも子どもでも、辛い時は泣くし悲しい時は声を上げて誰かを口汚く罵りたくなる。悲しみを秘めて笑いを誘うピエロなんて、誰もがなれる筈がない。だから同じ悲しみを抱くぼくらは肩を寄せ合って泣いた。
「……もうえぇさねぇ…」
どのくらいの時間泣いていたのかわからない。だけど気がつけばぼくらの周りを囲うようにして、シンやリクそしてポリスマンと室伏先生の姿があった。
ポリスマンは涙ぐんだ目元を隠しもせずに続けた。
「篤志も坊も、一人で背負い込み過ぎさっ。誰にも遠慮なんぞせんと、一等幸せにならんといかんさ。それが残されたモンの仕事さ!」
「大丈夫さー! うちらがキアを守っちゃるけぇキアはずっとここにおったらいいさ!」
「リクの言う通りさね! 俺ら友だちさ! 困っちょる時が一番の活躍時さ!」
それぞれに涙を浮かべながら啖呵を切る。その姿があまりに勇ましくて、かっこよくて。冷え切っていた身体に少しずつ熱が戻るのがわかった。
「二人とも身体が冷え切ってはるなぁ」
先生が鞄からバスタオルを取り出しぼくとポストマンの肩にかけてくれた。太陽をいっぱい浴びた柔らかくて温かなぬくもりにまた涙が溢れそうになったけど、リクの手前慌ててそれを隠した。
「どうして…また、捜索願でも出されてましたか?」
大して捻りのないジョークだったけどみんなは笑ってくれた。
「キアを迎えに行ったらおらんさもん。折角、特別授業始まっちょるんにさ」
「特別授業?」
初めて聞く名前に鸚鵡返しで尋ねた。するとみんなは意味深に笑いながら顔を見合わせた。どうやらここでは教えてくれないつもりらしい。
「のぅ、坊」
声をかけられて振り返ると、ポリスマンはポストマンの肩にぐるりと腕を回しながら尋ねてきた。
「篤志にウィリアム・フォークナーの意味教えてやったさー?」
ポリスマンに若干羽交い絞めにされるポストマン。その表情はどこか吹っ切れたかのように晴れやかで、ひどく落ち着いて見えた。
「…もちろんです」
親指を突き出して応えると、二人は目を細めて笑ってくれた。
「さて…学校に帰ってなんや、温いもんでも頂きましょう」
室伏先生の優しい提案に反対する者は誰もいなかった。帰るまでの間に雨は小降りとなっていき次第にやんでいった。
「…精霊の橋渡しじゃ」
リクの呟きに反応してみんなが空を見上げる。そこには青く澄み渡った空に浮かぶ雲と雲を繋ぐようにして七色の虹が架かっていた。
久しぶりにとても美しいものを見た気がして、ぼくらはしばらくそうして並んで空を仰いでいた。それからの足取りは不思議ととても軽かった。自然とリクと手を繋いでいたけれどまるでそれが当たり前のような気がして、しばらくそのままにしていた。
学校に戻るとぼくはシンの体操着を借りて着替えた。ポストマンは校長から作業着を借りたみたいで、よれよれの制服がボロボロのポロシャツに変わっていた。
保健室は雨漏りがすごいから、という事で職員室に一旦通されると先生がホットミルクを用意して配ってくれた。温かいコップを両手で包み込むようにして持つと、熱がじんわりと伝わってきて硬くなっていた身体が少しずつほぐれていく。
「篤志、お前はそれ飲んだら仕事さー戻れ。配達の途中さね」
同じく勤務時間内である筈のポリスマンが、何故か我が物顔で椅子に座りポストマンの尻を叩く。
「あーそうだった」
またすっかり訛りを隠して喋るポストマン。ゴクゴクと勢いよくカップの中身を飲み干すと、濡れた制服のポケットから湿ってよれよれになったエアメールを取り出した。
「これ、キアくんに届いてたよ。中身全部英語だったけど」
「な、だからなんだって勝手に手紙を読むんですかっ! 職務違反ですよ!」
一体誰がぼく宛てに手紙を送るのだろうか。疑問しかなかったけれど、先にポストマンの行いを諌めた。
「よしっ、お前を逮捕するさー! ってこれ、一度はやってみたいんさね」
「おっ、なんか警察っぽいジャン」
笑いながらポストマンの手首を掴むポリスマン。なんだかいきなり二人の仲が急速解凍して、妙に仲良くやりとりする様子が微笑ましい…と思っていたけど、室伏先生はそうでもないみたい。まるでイチャイチャするカップルを妬むかのような悲壮な表情でハンカチを噛んでいる。
「……はぁ」
妙な三角関係に発展しそうな様子を見せつけられ、ぼくは無意識にも溜息を漏らしてしまった。雨の中ポストマンと一緒になって大声で叫んだ所為か、何だか身体が軽くなったような気がする。でもこれで時計台はのっぺらが修理してくれるだろうし、ぼくはあの山に願掛けをしたって事になるだろう。
取りあえず送り主の名前が濡れて読めないので、手紙を読もうとしたその時。教室に戻っていたシンとリクが職員室に顔を出した。
「キア、そろそろ教室さ行くさー!」
『蔵屋敷家の為に何ができるのか』
急遽授業の内容を変えて行われたクラス会の議題が、黒板に書かれたそれだった。司会進行役は室伏先生が務め、自由且つ活発な討論が推奨された。
「蔵屋敷くんには気の毒さ思うけんど…でも正直、私らには関係ないさ」
初球からストレートな意見が飛び出し、それをシンが勇んで迎え撃った。
「こがぁ困っちょるんに、何か手助けできたらいいと思わんのさ!」
すぐさま他の生徒から手が挙がった。
「私のお父さんだってさー行方不明になっちょるけど…っそん時、国崎くんはなんもしてくれんかったさ!」
これまで表立って話題に出す事も憚られていた、五年前の漁船行方不明事件についての言及に教室内は思わずどよめきが走った。
「国崎くんはあの頃、学校さーこんかったけど私だって部屋に閉じ籠っちょったさ! ココちゃんなんさ、お父さんが戻らんからってお母さんの実家に引っ越しよったさ!」
「そ…そがぁ、城島が引っ越ししよった事は関係ないさ!」
ナミエの迫力に押され、シンは混乱する頭で言葉に詰まりながら応えた。しかし彼の発言にナミエは顔を歪ませ泣き出した。途端に教室内の空気は険悪なものとなった。泣きじゃくるナミエに、それを宥めつつシンに軽蔑の眼差しを送る生徒たち。場を仕切っていた筈の室伏も、下手にどちらかの肩を持つ訳にもいかずオロオロと戸惑うばかり。
配慮が足りない発言を今になって後悔したが、シンは大混乱してしまい目の前が真っ暗になった。ただ友人を助けたいから力を貸して欲しいと素直に伝えればよかったのだと、今更ながら思いつき激しい自己嫌悪に駆られ頭を抱えた。
「…まだ二年あるさもん」
重く淀み始めていたその場に、リクの落ち着いた声が響いた。
「お父ちゃんたちが死んどるって認定されるんに、あと二年あるさー。じゃけぇ、うちとシンはずっと時計台に願掛けしちょるんさ」
「と、時計台?」
「嵐の日に止まりよったあの時計台さ! 元々神聖なもんさー聞いた事あるんさもん。時計台が直ればお父ちゃんたちもきっと戻るさー。これはうちとシンが、ずっと二人で地道にお金さ貯めよっていつか修理するって決めちょったんさ」
「…リク…」
椅子から立ち上がり周囲をぐるりと見回すと、リクは大きな身振りをつけて力説した。決して漁船が戻らなくなり、同じ学校に通う子どもたちから父親を奪う結果となってしまったあの事件を忘れてはいないと。いつも心に気にかけてきたのだと、リクは必死の思いでそれを言葉に変えて伝えようとした。
「隠しちょったんは、これはうちらのお父ちゃんが指揮執っとたけぇ…その尻拭いはうちらがするんさ、当然思っちょったから…。キアはうちらの手伝いをしてくれちょったんさ」
「そうさー!」
シンも机を両手で叩き立ち上がると、声を大にして叫んだ。
「俺らの父ちゃがここにおったら、拳骨しよってこう言うさ! 『友だちの為に無茶苦茶に頑張りよれ』ってさー」
同じ船に乗り支え合ってきた仲間家族の繋がりの強さを思い出し、教室内は一時静まり返った。
「…俺…俺も、何か手伝うさー」
最年少のタクマが発したその言葉に釣られ、それまでシンと対立していた他の生徒たちも口ぐちに協力を申し出た。
「安師岐島で骨さー埋める覚悟の人に、みっともない所見せられんさね」
「じゃぁ、アレを作りよったらどうさー?」
「アレ? アレって、アレ?」
「あー! いいさー、ソレっ!」
「アレってソレって何さー?」
一部の女子たちを中心に話が急に進み始めたので、シンは慌てて突っ込んだ。
すると彼女たちはそれぞれの机からあるものを大量に取り出した。
「―――Thousand paper cranes?」
教室に連れてこられた先に待っていた色とりどりの折り紙で折られた鶴たちに、ぼくは思わず最初の衝撃を英語で叫んでしまった。
「千羽鶴さ!」
リクがニコニコと笑いながら教えてくれた。
「いや…知ってるんだけど、びっくりして…っ。初めて見た…」
実際に鶴だけでそこまで驚きはしなかったと思う。それ以上にぼくは、それまでどことなくお互いに距離を置いていたように見えたシンとリクの二人が、他のクラスメイトたちと協力して一つのものを作り上げようとしている光景に衝撃を受けてしまったんだ。
「まだ千羽折れとらんさー」
「蔵屋敷くんもボッとらしちょらんと、こっちで手伝ってーさ!」
ほとんど話した事もない女子たちがぼくの手を取って折り紙を渡してきた。
「え? え…どういう事なの、これ?」
事態がよく飲み込めず、室伏先生の方を見ると先生はにっこり笑って教えてくれた。
「日本では鶴は瑞鳥とされて縁起モンやねんえ。それを沢山揃えはったら、ええ事が起きる言われとるんよ。そやしお見舞いの時とか使われるねん。早く回復しますようにって願掛けしてるねんえ」
「それって…つまり…」
口にしてから急に目頭が熱くなり、ぼくはぐっと涙を堪えた。
「大丈夫さー。みんなで折れば千羽なんてアッと言う間さもん」
「そじゃぁ。蔵屋敷くんも手伝ってーさー」
机を寄せ合いみんなが折り紙を折って鶴を作っていく。ぼくも教えてもらいながら慣れない作業を繰り返し、一羽一羽を丁寧に折っていった。
ぼくらの教室の黒板には『特別授業 蔵屋敷家に千羽鶴を贈ろう』と書かれていて、なんでだかわからないけど。嬉しくて、何度も涙が溢れそうになった。
その日国崎家では朝早くから金槌を叩く音が響いていた。一旦朝食を挟んで中断されていた作業は昼食前にようやく終わりを見せた。
「じいちゃっ、これさー使えるさ」
庭先に広げていた様々な工具を片づける猪五郎に向かって、シンは心底尊敬する眼差しを向けて叫んだ。
「あらぁ、あのボロがよぉ綺麗になりよったーさー」
「…ここまで直せるなんて…」
「いやぁ、脱帽…ですね」
口々にその仕上がりを褒める視線の先には、シンの母が勤める病院で廃棄される予定だった車椅子があった。細かな部品が欠損し到底使い物にならない状態だったのだが、それを聞きつけた猪五郎が修理をするからと言って貰い下げたのだ。
あれからキアの父の病状は目に見えて進行していた。最近では眩暈と手足の痺れに加えて両足がパンパンに浮腫んでしまい、一人で歩行ができない程に深刻化していた。内蔵の機能が低下し体外に排出されなかった水分が溜まっているのだとシンの母親は説明してくれた。非常に皮膚が脆弱な状態となっている為、少しの刺激でも感染や出血の恐れがある。これまで履いていたジーンズも下半身の浮腫みに伴いサイズオーバーとなってしまったので、ゴムの伸びたスウェットを履いている。
通院から主治医の往診に切り替わり、在宅での治療になったのをきっかけに外出の頻度が極端に減ってしまったのだ。それを解決する方法としてこの車椅子が登場した。
「じいちゃ、俺も乗っていいさ?」
普段見る機会もほとんどない車椅子に、シンは目を輝かせて尋ねた。が、猪五郎は首を横に振りその願いを即座に取り下げた。
「おみゃーにはいらんさー。服部さー乗せよれ」
「いやぁ、申し訳ない」
シンの母に介助されながら軒先から庭に降りて、キアの父はゆっくりと車椅子に座った。
「父さん、座り心地はどう?」
背中にクッションを挟むとキアは気遣うように声をかけた。
「これは…高級車に劣らぬ最高の心地だね」
キアの父の言葉に一同は小さく笑い、シンの母が家から帽子を持ってきた。
「次の点滴まで時間さーあるし、今のうちにちょっと散歩さー行ってくるさ」
「あ…いいんですか?」
「ええさー。シン、アンタは計算ドリル終わらさんと遊びに行ったらいかんさ」
釘を刺されたシンは一瞬不貞腐れた表情を浮かべ食い下がった。衝撃の告白から数日が経つが、未だにキアが父親と二人きりで話をしていない事にシンもそれとなく気づいていた。今回は二人で外出をするいい口実になるだろう。
「じゃぁ、行ってきます」
夏を目前に控えた清々しい太陽の日差しが注ぐ中、キアたち親子は手を振って車椅子を押し歩き出した。
その後ろ姿を見送り、シンは傍らに立つ母親に声をかけた。
「…キアの父ちゃ……元気さーなるさ…?」
疑問符で括っておきながらもシンは、肯定の返事を待っていた。例え僅かな期待でもあるのなら、それに縋りたいと。縋ってそれを元にキアを励ましてやれたらと願った。しかし看護師としてキャリアを積んできた彼の母親は、楽観的希望を述べる事はせずに黙って彼の肩を優しく叩くのみだった。
改めて二人きりになると、やはり話題に困ってしまった。折角みんながお膳立てしてくれたのに申し訳ない。
ぼくは車椅子を押しながら父さんの後頭部を眺め、必死に会話の糸口を探した。それにしても舗装されていない道路ばかりだから車椅子を押すのも結構力がいる。けれどぼくが今、全力で父さんの重みを支えているのだと思うと感慨深いものもあった。
「もうすぐ夏だね」
「そうだね…」
短い会話がただちに終わってしまう。けれど不思議と気まずさはなかった。
カラっと乾いた空気に混じる磯の匂い。ぼくらは海辺に面した道路へ出た。この島はガソリンスタンドがないから車なんかも通らない。船を使って運ばれてきた車がたまに走るのを見かける程度だから、広い道を堂々と車椅子を押して歩く事にした。
「あら、お散歩?」
道の向こうから全身紫尽くしのリクのお母さんが手を振ってやってきた。
「これ、よかったら食べて」
と言って手作りの紫芋チップスをくれた。
相変わらず紫色でまとめられているけど、とても優しい人だと思う。それから思い出したかのようにぼくにビニール袋を手渡した。
「こっちも頑張って作ったのよ。使ってね」
と言って片目を瞑るとフェロモンを撒き散らしながら去っていった。心なしかとてもいい匂いがする…
「何を貰ったんだい?」
ついつい頭がボーとしそうになっていたぼくは慌てて袋の中を確認した。
「あ…っ」
それは大量の折り紙で折られた鶴だった。そしてやっぱり紫色ですべて統一されている。
「鶴って言ってね…」
嬉しくなって先生から聞いた説明を父さんにしてやりながら、ぼくらは再び紫芋チップスを食べながら歩いた。ちょうどいい甘さと軽い食感が楽しくて、珍しく食が細くなってきた父さんも進んで食べてくれた。
「色の濃い野菜は栄養豊富だってむかし教えてくれたね」
「そうなんだよ。実はぼくも幼い頃はひどい偏食でね…。野菜が嫌いなら、せめて高栄養なものだけでも食べなさいって言われてたのさ。ナスやケールばかり食べさせられていたんだよ。しかも拒めば食事抜きというひどい罰則付きでね」
当時を思い出してか父さんはウェッと顔をしかめて舌を出した。そのリアクションが面白くてぼくは、口の中に入れていた紫芋チップスを吹き飛ばしそうになってしまった。
「身長は父親譲りだけど、顔は母方のお祖父ちゃんに似ているって言われていたね。でもむかしの写真なんて、戦争ですべて焼けてしまってなくてね。似ていると言われる度に当時の皺くちゃ顔を思い出して複雑な気持ちになったものだよ」
父さんが語る子ども時代の思い出。今まで何度も聞いてきたと思っていたけれど、ぼくの知らない話は泉のように出てくる。
どうしてぼくは、今まで父さんの話を最後までちゃんと聞いてあげなかったんだろう。こうして過ごす時が悠久だと信じて疑わなかった、あの頃のただただ幸せだった自分を殴ってやりたい。
「キア…きみは、恋をしているかい?」
自販機でジュースを買ってくると、父さんは乾いた唇をそれで癒すなり唐突に尋ねてきた。
「ぶっ!」
思いがけない質問につい飲みかけのジュースを盛大に吹き出し、慌てて口元を拭った。
「や、藪から棒に何だよっ」
そうでなくとも、年頃の息子との会話なのだ。そういう繊細な話題は特に丁寧にオブラートに包んで提供して欲しい。第一今までそんな話、した事もないのでなんて反応していいのかわからず困ってしまった。
だって正直、可愛いなとか思う子は何度もいたしもっと親しくなりたいとやきもきした経験だって実は一度ではない。けれど今までそれが恋に発展させる訳にはいかなくて。ぼくはいつも無意識に自分からそういった色恋沙汰を切り離して考えていた。
「…気になる子はいる、けど」
言葉を選び悩みながら答える。すると父さんは嬉し気に微笑んだ。
「そうか…」
父さんも緊張していたのだろうか。全身から力を抜いて車いすの背もたれに深く身体を預ける。そんな父さんの姿にぼくは―――きっと父さんもこんな話をするのはずっと未来の事だと思っていたんだと気づいた。反抗期が終わって、それなりに落ち着きを得た年頃になって。ぼくがいずれパートナーを父さんに紹介する日を、もしかしたらずっと夢見ていたのだろう。
でも、そんな日を迎えられない。いつかその腕に抱く筈だった沢山の孫たちを想像する事さえ叶わない。
何だって…父さんが…っ
病気は決して人を選んでくれない。わかっているけれど、それでも思わずにはいられない。悔しくて憎らしくて。この身が引き裂かれるくらい悲しかった。
「…母さんと離れて暮らして、宛てのない漂流生活がきみに大きな不安を与えていたとわかっていたよ」
「!」
完全に予想外の答えにぼくは思わず息を止めてしまった。だって今まで父さんはぼくの都合なんて一切考えずに、いつだって行き先は風任せの父さんの気分任せ。そうして流れ流れていく人生に、自分自身の責任さえ持てるかわからないのに。誰かに恋をしてしまえばぼくは、これ以上にない重荷に感じてきっと苦しくなってしまうとわかっていた。
だからいつも憧れはそこで立ち止まったまま。決して恋になってはいけない。笑った顔がとてつもなく可愛くて、良く言えば個性的過ぎる発想の持ち主で。でも芯は誰よりもしっかりとあるぶれない強さを持つ彼女に―――いつしか惹かれている自分に気づいていたけど、今のぼくには恋をする権利さえないとブレーキをかけていた。
車椅子を押す手に力を込めて、ぼくはできるだけ気持ちを押し殺して応えた。
「正直言って…ぼくには、誰かを幸せにはできない。お金もないし将来性もない。ぼくが逆の立場なら絶対に選ばない相手だよね。だって…選ばれる自信が、悲しいくらい何もないんだ…っ」
一瞬、手元に落ちた雫を見て雨が降り出したのかと錯覚した。けれど違う。これはぼくの必死に抑圧した心の叫びが、透明な液体になって溢れた結果だった。
「『本物の愛の物語には、結末なんてない』リチャード・バックの言葉だよ、キア」
父さんは穏やかな声で話しかけてきた。
「愛は時に過酷な試練を与える。けれどそこには必ず喜びがある。だからどうか…最初から自分には縁のない物だと切り捨てず、心の声に耳を傾けてごらん。真実の愛を知った時、きっときみは幸せになれる」
父さんにとって最大の心残りが、ぼくが愛を知らないという事なのだろうか。だとしたらすぐにでもそれを理解して、そして父さんを安心させてあげたい。だけどそんな簡単に、長年自分自身にかけ続けた呪いなんて解ける筈もない。
グルグル…と色々な感情が胸の奥で渦巻く。鎖で抑制された恋心を解き放てと叫ぶ自分と、本当に自分本位の感情のままに行動していいのか。それは結局彼女を不幸にするのではないかと囁く自分がいる。結局今のぼくにはまだ、父さんの言う幸せを理解して掴む事はできない気がした。
「…母さんは…どんな人だったの?」
これまで聞くに聞けなかった母さんの話。でも今なら父さんは、何も隠さずに伝えてくれる気がした。
「とても勤勉で…本が好きな少女だった。ぼくより一回り年下で、いつも一人で静かに本を読んでいたよ」
母さんとぼくの共通点をいきなり見つけて、それが何とも嬉しくて頬が熱くなった。同時にどうしようもなく、母さんに会いたくなった。今まで一度もそんな風に何かを思う事なんてなかったけれど。きっとただ一人の身内の父さんが弱っている今、誰かに思いっきり甘えて泣き出したい気分になっているんだと思った。
けれどそんな気持ちを綺麗に隠し通すと、ぼくらはエメラルドグリーンの海を眺めながら更に歩いた。
しばらくして今度は、ポストマンが自転車を鳴らしながらやってきた。
「ちょーどいい所にいた!」
制服の皺は以前のままだけど、食生活の方が改善されているのかちょっと顔色がいい。
「はい! これね!」
と言って唐突に渡された紙袋。
「え、ちょっと、これ何なんですか?」
「山羊肉と折り紙の鶴と、あとは国崎家近隣に配達予定の手紙。じゃ、宜しくジャン!」
最後のは明らかに職務違反な気がしたけれど、父さんが口を大きく開けて笑い出すからぼくも釣られてしまった。それに山羊肉があるって言う事はつまり、あの親子の関係も少しは修復できたのだろう。なんだかそれだけでぼくの胸はいっぱいになってしまった。
学校で千羽鶴を作っている事が知れ渡っているのか、それからぼくらは島民に遭遇する度に大量に折られた鶴をプレゼントされた。
あっという間に父さんの膝の上も、車椅子のハンドルも様々な貰い物でいっぱいになってしまった。
「そろそろ…帰ろうか」
もうすぐ点滴の時間だと思い、きた道を引き返すと父さんは折り紙の鶴を一つ手に取り眺め始めた。
「鳥を見るといつも思い出すよ。以前キアにも読ませたけど…ぼくとキアの母さんを繋いだのが『かもめのジョナサン』という本だった」
確か日本にくる前に父さんに勧められて読んだ記憶がある。飛行術を極めたかもめの話だった。
「そして…家族を失ったぼくに、再び希望を与えてくれたのがその作者の言葉だった」
父さんはゆっくりと車椅子に座ったまま振り返ると、今までずっと見上げばかりだったその顔を優しく歪ませて。あの頃とは逆に、今度はぼくを見上げて微笑んだ。
「幼いきみの手を引いて育てたつもりが…いつの間にかこうしてきみに背中を押されて生きてきた」
細くなってしまったその首に両腕を回し、ぼくは父さんに抱きついた。薄い胸板に骨ばった肩。どんなに普段通りに振る舞っていたとしても、病魔は確実に父さんの命を縮めている。
時計台が直るまで、部品が届くまで、まだ時間が必要だ。どうか神様、お願いです。ぼくに、父さんと生きる明日を見せて下さい。
それが叶わないなら、神様。お願いです。
「生まれ変わってもぼくの父さんでいて…っ。そしてもう一度、こうして旅に出よう」
必死に縋って、しがみついて。誰にも奪われたくない。この小さな手で守りたいと願う大切な人。
「願ってもない…最高の、申し出だよ」
ぼくら父子の二人旅は、極東の小さな辺境の島で終わりを迎えようとしている。長い間笑顔を貼りつけ続けた父さんは、ようやくその仮面を外し目元に涙を浮かべ頷いた。
島民たちから送られた鶴を足して、千羽鶴が完成した。父さんはそれを枕元に置いていつも眺めていた。一羽一羽にみんなの想いが込められているんだね、と言ってまるで初めてのクリスマスプレゼントに興奮する子どものような笑顔を浮かべて喜んでいた。
それから数日後の事だった。島にまたスコールのような大雨が降り出した。父さんの呼吸が浅くなり意識が朦朧としていた。猪五郎爺さんはすぐに主治医を呼びに船を出してくれて、シンの母さんは点滴を追加したりと可能な限り手当をしてくれた。けれどそれ以上できる事がなくなったと悟り、ぼくに父さんの手を握ってあげてと促した。
「………っ」
覚悟をしていた。けれど自分で思う程それは、辛過ぎる現実だった。
「父さん…聞こえる…?」
薄らと開いた虚ろな瞳が宙を見詰めている。さっきまで苦しげに肩で呼吸をしていたけれど、今度は口を大きく開けて必死に空気を吸い込もうとしていた。
「ぼくはこれからもずっと夢を見るよ…。だがら…っう、生まれ変わっても、い…っ一緒に旅を…っうぅ」
それ以上はもう言葉にならなかった。父さんの格言。ぼくが夢を見る為に必要な責任は全部父さんに任せたらいい。だから先に逝ってしまうその世界で、ぼくを待っていて下さい―――
泣き伏せるぼくの手を、最後の力を振り絞って父さんは握り締めてくれた。
色とりどりの鶴たちは、その翼に父さんの魂を乗せて静かに飛び立った。遠い未来でぼくも必ず行く、その先へ…
「蔵屋敷くんは…今日も…あそこさね?」
遠慮がちにシンの席にやってきたクラスメイトたちは、何とも聞き辛そうにそう尋ねた。
あの日以来、キアは一度も教室にこなかった。毎日彼は図書室にこもり、まるで何かに憑りつかれたかのように本を読み漁っていた。下校時間になればシンたちと共に帰るものの、会話らしい会話はない。彼はずっと歩きながら借りてきた本を読み続け、その鬼気迫る迫力にシンもリクもむやみに声をかけられなくなった。
「…必死に…探しちょるんさ。父ちゃを助ける方法をさ」
以前キアが言っていた言葉を思い出し、シンは絞り出すようにして答えた。
「『人間が想像できる事は必ず実現できる』って言うちょったさもん」
付け足すようにしてリクが呟くと、周囲でそれとなくこちらのやりとりを聞いていた他のクラスメイトたちも集まった。
「リクちゃん、あの噂…ホンマなんさね?」
それまで誰もが改めて口にするのを躊躇っていた質問を、最年少のタクマが純粋な疑問と憐みの気持ちを混ぜて尋ねた。
シンの母が島民に挨拶の品と共に送った手紙には、キアの父の病状ついて書かれていた。大人たちの反応は様々で、中にはそれを性質の悪い冗談だと受け止めた人もいた。
シンは自分の返答次第では、キアたち親子が迫害される恐れもあるのではと思い言葉に迷った。
「……ホンマさもん」
長い沈黙が流れ、チャイムが鳴り室伏先生が慌てて教室に入ってきたその時。黙り込むシンの隣で、リクが顔を真っ赤にして涙を堪え答えた。
「う、うち…が、もっと力があれば精霊に…回復魔法さ教えてもらえるかもしれんけんどさー…うちは…な、何もできんさぁー」
溢れる想いが止まらずに、リクは大声をあげて泣き出した。彼女の悲痛な叫びを聞きながらシンもまた、無力な身の上を恥じるかのように歯を食いしばった。
「…っいた」
ページをめくる時に指を切ったその鋭い痛みでぼくの集中力も一旦途切れた。気がつけば両脇にはエベレストの如く本の山ができあがっていた。それなのにこれだけの量を探しても、何一つ手がかりは見つからない。父さんを救う手立てはこの世にはない。諦めろと、まるで無言でぼくを諭すかのように聳える本の山々。あれから父さんは毎日シンの母さんと病院に通っている。そして帰ってくると、院内で見かけた面白い光景とかを楽しげに語り一切疲れた素振りも見せやしない。
本当に。あの日聞いた出来事がすべて、嘘なんじゃないかと今でも思ってしまうくらい。それぐらい『父さん』と『死』という二つの単語は不釣り合い過ぎた。みんなを驚かせる為に用意した、無駄に大がかりな嘘だったとしても。今ならまだ、笑って喜んで許せるのに…
「蔵屋敷くん」
声をかけられ顔を上げると、そこには校長が立っていた。いつからいたのか気づかなかったけど、ぼくに話しかけるタイミングを待っていたようだった。
「少し痩せましたね」
と言って校長はぼくの目の前に腰かけた。
「中原中也が気に入っているようですね」
時々、どうしても気持ちがついていかず行き詰ってばかりの状況が苦しくて辛くなった時。ぼくはガス抜きがてら、ずっと借りている彼の詩集を読んでいた。
「…ぼくはサーカスを見た事がないんです」
何度も読み返した詩の文字を指先でなぞりながら、ぼくは答えた。
「だけど漠然と明るくて華やかな…イメージだった。けれどこの詩にはそんなものが一片もないんです」
冒頭から語られる暗く重い雰囲気。安っぽい場末のサーカスで披露される空中ブランコを、まるで鰯のように口を半開きにして見入る痩せた観客たち。
命懸けの空中芸は、独特の擬音による表現で揺れる不安定で希薄な存在へと成り下がる。
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん…
気がつけばぼくの手元に、いくつもの涙がこぼれテーブルに染みを作っていた。
「…ぼく…の所為なのかな…って…」
大衆の娯楽の為に作られたサーカス。華やかで沢山のライトに照らされた夢のようなその空間も、よく見ればこの詩のように見たくもない現実の汚さが隠されているのかもしれない。今までぼくが、ずっと父さんの事を一番理解しているつもりでいたのに。実際は身体の異変にも気づかずに、もっと働けだとか他にも色々とひどい悪態を吐いていたのと同じように。見たいものしか見ずに、聞きたい事しか聞かずにきた我が身が今更ながらに悔しくて仕方がない。
「ずっと…夢中で努力すれば、もしかしたら今より幸せになれるんじゃないかって思っていたんだ。でも、実際には父さんは死ぬって…努力しても、どうしようもできない…っ」
自分の涙で咽込みながらぼくは、現実の理不尽さについて言葉の続く限り口汚く罵った。
「…中原中也は幼い頃神童と言われていましたが、弟が幼くして亡くなったのをきっかけに文学に目覚めたと言われています」
息が続かなくなり暴言を止め、呼吸を整えるぼくに向かって校長は語りかけた。
「彼の人生は決して平坦ではなく、文学仲間から苛めの標的にされ、結婚後は息子を早くに亡くし彼自身も夭折しています」
校長は小さく息を吐くと穏やかな眼差しをぼくに向けてきた。
「けれどきっと数々の不幸がなければ、こうして名の残る作品は生まれなかったと思います。…何よりも彼は、どんな辛い事が起きても最後まで己の人生を生き抜いた。わたしは何よりも尊い実績だと思います」
最後の一言だけ、ちくりとぼくの胸に小さく刺さるように響いた。それはぼく自身も自覚できていなかったくらい小さく芽生えていた、無意識にも父さんの後を追うという無意味な自死の可能性を指摘し否定してみせた。
「生きている限り可能性があります。周囲がどう解釈しようときみの人生です。お父上を助けたいと思うのなら、その日がくるまで死に物狂いになりなさい。走り切ったその先でしか見えない景色が必ずあります」
厳しささえ感じるその言葉に、ぼくはしばし唖然として校長を凝視した。もうどんな治療も効果がないと言われているのだから、色々な慰め方はあったとしても最終的には諦めるしかないんだって、何重にもオブラートに包んで諭すのが大人の使い古された常套手段の対応だと決め込んでいた。
でも違う。父さんが死ぬその時まで、醜く最後まで悪足掻きを続けろと言っている。
「やれる事をすべてやり遂げたら、後は…誰でもいいから縋りなさい。子どもが夢を見られるよう支えるのが、大人です」
そして校長はそっとぼくの手を握ると、そこに小さな飴玉を乗せて席を立った。
「………」
消耗しきった身体に優しい甘さが広がる。
父さんの衝撃のカミングアウトからずっと、ほとんど食べ物を受け付けられなくなっていた。何を食べても砂を噛むような味しかしなかったのに、舌先で飴を転がしそれを甘いと感じながらぼくはまた溢れてきた涙を拭った。そしてふと近くに広げたまま置いていた本に一文が目に留まった。
『時計が止まると同時に、それまで一秒の狂いもなく刻まれていた時が急速に逆回りを始めたのだった』
時計が止まり…時間が戻る…?
妙に心がざわめく感覚を覚え、その本を手に取る。表紙の裏をめくり図書の貸し出しカードに書かれた名前を確認した。
もう二十年以上前だと言うのに、この学校の生徒たちは本当に本を読まないのか。それとも読み切れない程ここが、書物で溢れているのか。けれど今までずっと疑問に抱いていた事が今やっと一つに繋がった。
『如月篤志』
貸し出しカードの一番最後に書かれた彼の名前。大切な人たちを失ったポストマンが、時を止めた時計台とどう関わっているのか。
本を閉ざすとぼくは、授業が始まり静まり返る校舎を一人後にした。
郵便局には事務員を務める小母さんが退屈そうに座っている他、誰の姿もなかった。同じ建物の上にある彼の部屋のチャイムを押してみるけれど、そちらも反応はない。平日の日中だから配達に行っているのだろう。
風が強くなってきた。マンションの廊下から身を乗り出すと、すぐ裏の如月時計店が目に入った。のっぺらが外に繋いでいた山羊を小屋に戻している。
一瞬、学校にも行かずにこんな所を出歩いている点について追及されるかと思ったけど、今更父さんが死ぬ以上に恐ろしいものなどないと気づきぼくはのっぺらの元に向かった。
「…ほぉ…最近のガキィは真昼間から家出しよるんさーな。ほぉーエライご身分さー」
ニコニコと、笑顔の見本のような薄っぺらい微笑みを浮かべ辛辣な言葉を発するのっぺらぼう。けれど山羊たちを小屋に戻す間、丁寧に一頭ずつ声をかけている所を見ていたぼくはそれまでの彼の印象を少し改めた。だってこんなに大切に育てている山羊の貴重な肉を、わざわざ滋養が豊富だからと言って父さんに分けてくれたのだから。
「…父さんの病気の事、知ってますよね?」
「……」
のっぺらは一瞬動きを止めぼくを凝視した。返事なんて聞くまでもないけど、話題の切り出し方としては正解だったみたいだ。
「もう、何も打つ手がなくて。正直、不本意だけど神様とかに頼るしかないかなって思っています。それで思い出したんです。むかしあの時計台が建っている山が、むかしは守り神が宿るとされていたって話を」
シンたちはぼくにあの時計台を神聖なものだと言っていたけど、実際はその土地が謂れのある存在なんだ。
「何でもいいから…頼りたい。父さんを助けたい。ぼくは神様を信じた事なんて一度もないけど、でも、今はなりふり構っている余裕もないんです」
湿った風が対峙するぼくらの間を吹き抜けていった。今朝の晴天は分厚い雲に隠れ、今にも雨が降りそうな天気になっていた。
「…そがぁ話をだーしてワシにするさ」
のっぺらは山羊の小屋に鍵をかけながら、冷たく切り捨てるようにして応えた。
「島にきて日も浅いようなぼくが、時計台に願掛けするぐらいだから。だからきっと同じく家族を亡くした人なら縋るんじゃないかって思ったんです。例えば…奥さんとお子さんを同時に亡くしたポストマンとか」
「……」
黙り込むその反応が答えだと知り、ぼくらはお互いに見つめ合ったまま対峙した。
「ここでの暮らしを嫌ちょった癖にさ、田舎暮らしがしたいさー言うおっかしな嫁さ連れて帰りよってさ」
突然のっぺらは、それまでの無機質な笑顔を崩し呟いた。そして風に飛ばされて転がるバケツを拾いぼくに背を向けた。
「…じゃあ、やっぱり時計台が止まったのに修理しなかったのはワザとだったんですね」
丸められた小さな背中に問いかける。長い沈黙でもう返事を聞かなくてもわかった。
「倅を…説得できよったら、部品さ発注かけてやるさー」
手にしたバケツを納屋に持って行く後ろ姿を見送り、ぼくはポツポツと降り出した空を仰いだ。
―――これはぼくの勝手な推理だ。いや、ただの妄想と言い直した方がいいかもしれない。何の根拠もないけれど、でも、きっとそうなんだろうと勝手に確信しているのだから。
両親の離婚の際に、母親と共に島を出ようとした幼いポストマンを島民たちは小学校の廃校危機を理由に無理やり引き留めた。きっとのっぺらはそれをずっと負い目に思っていたんだろう。嫁と子どもを失ったポストマンは、時計台の針を止めた。時を止めたら幸せだったあの頃に戻れるのではって思って。でものっぺらは時計台の故障の原因にすぐ気づいた筈だ。だからきっと、彼は罪滅ぼしのつもりで時計台をそのまま放置していたのかもしれない。
本格的に降り出した雨はまるでスコールだった。ひどい雨脚で数メートル先も見えない。
だいぶむかし、父さんとこんな風にスコールに煽られた時があった。二人してびしょびしょに濡れて軒先を借りていたら、店主が店の中に招き入れてくれた。その日の宿と温かいご飯をご馳走になったあの思い出が、ふと脳裏に蘇り懐かしさに心が切なくなった。
―――世界中を旅して、色々な人に出会って。時に見知らぬ誰かの優しさに甘えて、繋がって…。まるでぼくの人生は足場のないブランコのようだ。ゆやーんゆよーんと揺られながら、必死の芸も傍から見れば娯楽に変わる。それでもぼくは、父さんと最後の旅でこんな辺鄙な島にやってきてしまった。
まるで時の経過から切り取られてしまったかのような、そんな独自の時間の流れを持つ優しくて様々な傷を抱く人たちの島へ。
「…最近の子どもはこんな時間から家出するんだ。へぇ、いいご身分だよねぇー」
木の下で雨宿りをしていたポストマンは、ぼくの気づくとヘラヘラ笑って手招きをした。
「…ついさっき、貴方のお父さんに同じ事を言われましたよ。さすがは親子ですね」
「……っ」
会ったら何て切り出そうかと色々考えていたけど、ポストマンの何かムカつく顔を見た途端ごく自然にそんな風に毒づいていた。彼もムッとしたように眉を寄せ、気まずそうに視線を遠くに向ける。
ここからちょうど、小高い山の上に聳えるあの白い時計台が見える。
「ウィリアム・フォークナーの言葉を履き違えてるなって思ったんです」
「は?」
訝しげに眉を顰めるポストマンを一瞥しぼくは薀蓄を語り出した。
「『時計が止まる時、時間は生き返る』というのは、時と言う概念を目に見える物にした時計の登場によって次第に時計自身に振り回されるようになった現代に対する警鐘の意味だったんです。だから…っ、時計が止まったからって時が巻き戻る訳でもない、ですよ」
そこまで言ってから急に居たたまれなくなり、ぼくは逃げ出したくなってしまった。だって妄想という一切の根拠づけもない状態でしたり顔で大人相手に説く…って、傍から見たら相当痛過ぎる。
「……そがぁ…意味か」
降り続ける雨音に掻き消されてしまいそうなくらい小さな声で、ポストマンは訛りを隠さずにそう漏らした。
堪らなく切なげに時計台を見詰めるその横顔が、ひどく悲しそうで。彼がどんなに必死な想いで時を止めたいと思ったのだろう。
「…ぼくの父さんを治したいんです。でも方法なんてなくて、神頼みしかないなって」
ずぶ濡れの貧相な中年男改めポストマンの姿は、傍から見てもひどく惨めだった。そしてそう遠くない未来に、ただ一人の肉親を亡くすぼくがそこに重なって見えた。
腐った目―――そんな表現がぴったりの悲しい瞳。いつまでも後悔し続ける贖罪の日々。ぼくにはそれが、耐えられるのだろうか? 大の大人が、何年も経った今も苦しんでいると言うのに。
「あの時計台を止めたのは、貴方だったんですね?」
「……澄子が…」
スンッと鼻を鳴らしポストマンは途切れ途切れに語り出した。
「十年後も、二十年後もこの島で…あの時計台の鐘の音を聞きながら暮らそうって言ってたんさ。そん時は親父にガキさ見てもらちょって、二人で出かけよう言うちょったさ」
「ぼくも…せめて、ぼくが成人するまでは父さんは生きているものだって思ってました。あんなんだけど身体だけは丈夫だって…」
「プロポーズもあの時計台でしたんさ。映画みたいに、鐘が鳴る中…かもめが羽ばたいて澄子が頷くんさ」
「普通そんな病気がわかったら、無謀な漂流生活なんてやめる筈ですよね。そうやって無茶ばっかりして、子どもじゃないんだから」
「子どもは女の子じゃったさー。澄子の腹の中で死んじまってさ…」
「せめてもう少し早くに病気がわかっていれば、もしかしたら助かったかもしれないのにって思うと…」
「だーして…」
と呟きポストマンは時計台を睨んだ。
「どうして…」
と口にしてぼくは空を見上げた。
「俺・ぼくたちだったんだっ!!」
その声は綺麗に重なり合い、続けて腹の底から罵り叫んだ。
「死神ももっと長生きしていい加減お迎えがきてもよさそうな老人相手にすればいいだろっ! まだまだこれからの、一番働き盛りの人間を簡単に病気にしやがって!」
「こがぁ島にこんかったらよかったんさ! なーにが嵐さ! なーにが流産さっ! 俺の子どもと澄子を返せーって話ジャンっ!!」
ぼくらはスコールの雨音で音声がシャットアウトされているのをいい事に、好き勝手に思いつく限りの罵倒を続けた。理不尽な運命相手に。思い通りにならない神様を相手に。ぼくらを残して逝った、そして逝ってしまう大切な家族に向かって―――
大人でも子どもでも、辛い時は泣くし悲しい時は声を上げて誰かを口汚く罵りたくなる。悲しみを秘めて笑いを誘うピエロなんて、誰もがなれる筈がない。だから同じ悲しみを抱くぼくらは肩を寄せ合って泣いた。
「……もうえぇさねぇ…」
どのくらいの時間泣いていたのかわからない。だけど気がつけばぼくらの周りを囲うようにして、シンやリクそしてポリスマンと室伏先生の姿があった。
ポリスマンは涙ぐんだ目元を隠しもせずに続けた。
「篤志も坊も、一人で背負い込み過ぎさっ。誰にも遠慮なんぞせんと、一等幸せにならんといかんさ。それが残されたモンの仕事さ!」
「大丈夫さー! うちらがキアを守っちゃるけぇキアはずっとここにおったらいいさ!」
「リクの言う通りさね! 俺ら友だちさ! 困っちょる時が一番の活躍時さ!」
それぞれに涙を浮かべながら啖呵を切る。その姿があまりに勇ましくて、かっこよくて。冷え切っていた身体に少しずつ熱が戻るのがわかった。
「二人とも身体が冷え切ってはるなぁ」
先生が鞄からバスタオルを取り出しぼくとポストマンの肩にかけてくれた。太陽をいっぱい浴びた柔らかくて温かなぬくもりにまた涙が溢れそうになったけど、リクの手前慌ててそれを隠した。
「どうして…また、捜索願でも出されてましたか?」
大して捻りのないジョークだったけどみんなは笑ってくれた。
「キアを迎えに行ったらおらんさもん。折角、特別授業始まっちょるんにさ」
「特別授業?」
初めて聞く名前に鸚鵡返しで尋ねた。するとみんなは意味深に笑いながら顔を見合わせた。どうやらここでは教えてくれないつもりらしい。
「のぅ、坊」
声をかけられて振り返ると、ポリスマンはポストマンの肩にぐるりと腕を回しながら尋ねてきた。
「篤志にウィリアム・フォークナーの意味教えてやったさー?」
ポリスマンに若干羽交い絞めにされるポストマン。その表情はどこか吹っ切れたかのように晴れやかで、ひどく落ち着いて見えた。
「…もちろんです」
親指を突き出して応えると、二人は目を細めて笑ってくれた。
「さて…学校に帰ってなんや、温いもんでも頂きましょう」
室伏先生の優しい提案に反対する者は誰もいなかった。帰るまでの間に雨は小降りとなっていき次第にやんでいった。
「…精霊の橋渡しじゃ」
リクの呟きに反応してみんなが空を見上げる。そこには青く澄み渡った空に浮かぶ雲と雲を繋ぐようにして七色の虹が架かっていた。
久しぶりにとても美しいものを見た気がして、ぼくらはしばらくそうして並んで空を仰いでいた。それからの足取りは不思議ととても軽かった。自然とリクと手を繋いでいたけれどまるでそれが当たり前のような気がして、しばらくそのままにしていた。
学校に戻るとぼくはシンの体操着を借りて着替えた。ポストマンは校長から作業着を借りたみたいで、よれよれの制服がボロボロのポロシャツに変わっていた。
保健室は雨漏りがすごいから、という事で職員室に一旦通されると先生がホットミルクを用意して配ってくれた。温かいコップを両手で包み込むようにして持つと、熱がじんわりと伝わってきて硬くなっていた身体が少しずつほぐれていく。
「篤志、お前はそれ飲んだら仕事さー戻れ。配達の途中さね」
同じく勤務時間内である筈のポリスマンが、何故か我が物顔で椅子に座りポストマンの尻を叩く。
「あーそうだった」
またすっかり訛りを隠して喋るポストマン。ゴクゴクと勢いよくカップの中身を飲み干すと、濡れた制服のポケットから湿ってよれよれになったエアメールを取り出した。
「これ、キアくんに届いてたよ。中身全部英語だったけど」
「な、だからなんだって勝手に手紙を読むんですかっ! 職務違反ですよ!」
一体誰がぼく宛てに手紙を送るのだろうか。疑問しかなかったけれど、先にポストマンの行いを諌めた。
「よしっ、お前を逮捕するさー! ってこれ、一度はやってみたいんさね」
「おっ、なんか警察っぽいジャン」
笑いながらポストマンの手首を掴むポリスマン。なんだかいきなり二人の仲が急速解凍して、妙に仲良くやりとりする様子が微笑ましい…と思っていたけど、室伏先生はそうでもないみたい。まるでイチャイチャするカップルを妬むかのような悲壮な表情でハンカチを噛んでいる。
「……はぁ」
妙な三角関係に発展しそうな様子を見せつけられ、ぼくは無意識にも溜息を漏らしてしまった。雨の中ポストマンと一緒になって大声で叫んだ所為か、何だか身体が軽くなったような気がする。でもこれで時計台はのっぺらが修理してくれるだろうし、ぼくはあの山に願掛けをしたって事になるだろう。
取りあえず送り主の名前が濡れて読めないので、手紙を読もうとしたその時。教室に戻っていたシンとリクが職員室に顔を出した。
「キア、そろそろ教室さ行くさー!」
『蔵屋敷家の為に何ができるのか』
急遽授業の内容を変えて行われたクラス会の議題が、黒板に書かれたそれだった。司会進行役は室伏先生が務め、自由且つ活発な討論が推奨された。
「蔵屋敷くんには気の毒さ思うけんど…でも正直、私らには関係ないさ」
初球からストレートな意見が飛び出し、それをシンが勇んで迎え撃った。
「こがぁ困っちょるんに、何か手助けできたらいいと思わんのさ!」
すぐさま他の生徒から手が挙がった。
「私のお父さんだってさー行方不明になっちょるけど…っそん時、国崎くんはなんもしてくれんかったさ!」
これまで表立って話題に出す事も憚られていた、五年前の漁船行方不明事件についての言及に教室内は思わずどよめきが走った。
「国崎くんはあの頃、学校さーこんかったけど私だって部屋に閉じ籠っちょったさ! ココちゃんなんさ、お父さんが戻らんからってお母さんの実家に引っ越しよったさ!」
「そ…そがぁ、城島が引っ越ししよった事は関係ないさ!」
ナミエの迫力に押され、シンは混乱する頭で言葉に詰まりながら応えた。しかし彼の発言にナミエは顔を歪ませ泣き出した。途端に教室内の空気は険悪なものとなった。泣きじゃくるナミエに、それを宥めつつシンに軽蔑の眼差しを送る生徒たち。場を仕切っていた筈の室伏も、下手にどちらかの肩を持つ訳にもいかずオロオロと戸惑うばかり。
配慮が足りない発言を今になって後悔したが、シンは大混乱してしまい目の前が真っ暗になった。ただ友人を助けたいから力を貸して欲しいと素直に伝えればよかったのだと、今更ながら思いつき激しい自己嫌悪に駆られ頭を抱えた。
「…まだ二年あるさもん」
重く淀み始めていたその場に、リクの落ち着いた声が響いた。
「お父ちゃんたちが死んどるって認定されるんに、あと二年あるさー。じゃけぇ、うちとシンはずっと時計台に願掛けしちょるんさ」
「と、時計台?」
「嵐の日に止まりよったあの時計台さ! 元々神聖なもんさー聞いた事あるんさもん。時計台が直ればお父ちゃんたちもきっと戻るさー。これはうちとシンが、ずっと二人で地道にお金さ貯めよっていつか修理するって決めちょったんさ」
「…リク…」
椅子から立ち上がり周囲をぐるりと見回すと、リクは大きな身振りをつけて力説した。決して漁船が戻らなくなり、同じ学校に通う子どもたちから父親を奪う結果となってしまったあの事件を忘れてはいないと。いつも心に気にかけてきたのだと、リクは必死の思いでそれを言葉に変えて伝えようとした。
「隠しちょったんは、これはうちらのお父ちゃんが指揮執っとたけぇ…その尻拭いはうちらがするんさ、当然思っちょったから…。キアはうちらの手伝いをしてくれちょったんさ」
「そうさー!」
シンも机を両手で叩き立ち上がると、声を大にして叫んだ。
「俺らの父ちゃがここにおったら、拳骨しよってこう言うさ! 『友だちの為に無茶苦茶に頑張りよれ』ってさー」
同じ船に乗り支え合ってきた仲間家族の繋がりの強さを思い出し、教室内は一時静まり返った。
「…俺…俺も、何か手伝うさー」
最年少のタクマが発したその言葉に釣られ、それまでシンと対立していた他の生徒たちも口ぐちに協力を申し出た。
「安師岐島で骨さー埋める覚悟の人に、みっともない所見せられんさね」
「じゃぁ、アレを作りよったらどうさー?」
「アレ? アレって、アレ?」
「あー! いいさー、ソレっ!」
「アレってソレって何さー?」
一部の女子たちを中心に話が急に進み始めたので、シンは慌てて突っ込んだ。
すると彼女たちはそれぞれの机からあるものを大量に取り出した。
「―――Thousand paper cranes?」
教室に連れてこられた先に待っていた色とりどりの折り紙で折られた鶴たちに、ぼくは思わず最初の衝撃を英語で叫んでしまった。
「千羽鶴さ!」
リクがニコニコと笑いながら教えてくれた。
「いや…知ってるんだけど、びっくりして…っ。初めて見た…」
実際に鶴だけでそこまで驚きはしなかったと思う。それ以上にぼくは、それまでどことなくお互いに距離を置いていたように見えたシンとリクの二人が、他のクラスメイトたちと協力して一つのものを作り上げようとしている光景に衝撃を受けてしまったんだ。
「まだ千羽折れとらんさー」
「蔵屋敷くんもボッとらしちょらんと、こっちで手伝ってーさ!」
ほとんど話した事もない女子たちがぼくの手を取って折り紙を渡してきた。
「え? え…どういう事なの、これ?」
事態がよく飲み込めず、室伏先生の方を見ると先生はにっこり笑って教えてくれた。
「日本では鶴は瑞鳥とされて縁起モンやねんえ。それを沢山揃えはったら、ええ事が起きる言われとるんよ。そやしお見舞いの時とか使われるねん。早く回復しますようにって願掛けしてるねんえ」
「それって…つまり…」
口にしてから急に目頭が熱くなり、ぼくはぐっと涙を堪えた。
「大丈夫さー。みんなで折れば千羽なんてアッと言う間さもん」
「そじゃぁ。蔵屋敷くんも手伝ってーさー」
机を寄せ合いみんなが折り紙を折って鶴を作っていく。ぼくも教えてもらいながら慣れない作業を繰り返し、一羽一羽を丁寧に折っていった。
ぼくらの教室の黒板には『特別授業 蔵屋敷家に千羽鶴を贈ろう』と書かれていて、なんでだかわからないけど。嬉しくて、何度も涙が溢れそうになった。
その日国崎家では朝早くから金槌を叩く音が響いていた。一旦朝食を挟んで中断されていた作業は昼食前にようやく終わりを見せた。
「じいちゃっ、これさー使えるさ」
庭先に広げていた様々な工具を片づける猪五郎に向かって、シンは心底尊敬する眼差しを向けて叫んだ。
「あらぁ、あのボロがよぉ綺麗になりよったーさー」
「…ここまで直せるなんて…」
「いやぁ、脱帽…ですね」
口々にその仕上がりを褒める視線の先には、シンの母が勤める病院で廃棄される予定だった車椅子があった。細かな部品が欠損し到底使い物にならない状態だったのだが、それを聞きつけた猪五郎が修理をするからと言って貰い下げたのだ。
あれからキアの父の病状は目に見えて進行していた。最近では眩暈と手足の痺れに加えて両足がパンパンに浮腫んでしまい、一人で歩行ができない程に深刻化していた。内蔵の機能が低下し体外に排出されなかった水分が溜まっているのだとシンの母親は説明してくれた。非常に皮膚が脆弱な状態となっている為、少しの刺激でも感染や出血の恐れがある。これまで履いていたジーンズも下半身の浮腫みに伴いサイズオーバーとなってしまったので、ゴムの伸びたスウェットを履いている。
通院から主治医の往診に切り替わり、在宅での治療になったのをきっかけに外出の頻度が極端に減ってしまったのだ。それを解決する方法としてこの車椅子が登場した。
「じいちゃ、俺も乗っていいさ?」
普段見る機会もほとんどない車椅子に、シンは目を輝かせて尋ねた。が、猪五郎は首を横に振りその願いを即座に取り下げた。
「おみゃーにはいらんさー。服部さー乗せよれ」
「いやぁ、申し訳ない」
シンの母に介助されながら軒先から庭に降りて、キアの父はゆっくりと車椅子に座った。
「父さん、座り心地はどう?」
背中にクッションを挟むとキアは気遣うように声をかけた。
「これは…高級車に劣らぬ最高の心地だね」
キアの父の言葉に一同は小さく笑い、シンの母が家から帽子を持ってきた。
「次の点滴まで時間さーあるし、今のうちにちょっと散歩さー行ってくるさ」
「あ…いいんですか?」
「ええさー。シン、アンタは計算ドリル終わらさんと遊びに行ったらいかんさ」
釘を刺されたシンは一瞬不貞腐れた表情を浮かべ食い下がった。衝撃の告白から数日が経つが、未だにキアが父親と二人きりで話をしていない事にシンもそれとなく気づいていた。今回は二人で外出をするいい口実になるだろう。
「じゃぁ、行ってきます」
夏を目前に控えた清々しい太陽の日差しが注ぐ中、キアたち親子は手を振って車椅子を押し歩き出した。
その後ろ姿を見送り、シンは傍らに立つ母親に声をかけた。
「…キアの父ちゃ……元気さーなるさ…?」
疑問符で括っておきながらもシンは、肯定の返事を待っていた。例え僅かな期待でもあるのなら、それに縋りたいと。縋ってそれを元にキアを励ましてやれたらと願った。しかし看護師としてキャリアを積んできた彼の母親は、楽観的希望を述べる事はせずに黙って彼の肩を優しく叩くのみだった。
改めて二人きりになると、やはり話題に困ってしまった。折角みんながお膳立てしてくれたのに申し訳ない。
ぼくは車椅子を押しながら父さんの後頭部を眺め、必死に会話の糸口を探した。それにしても舗装されていない道路ばかりだから車椅子を押すのも結構力がいる。けれどぼくが今、全力で父さんの重みを支えているのだと思うと感慨深いものもあった。
「もうすぐ夏だね」
「そうだね…」
短い会話がただちに終わってしまう。けれど不思議と気まずさはなかった。
カラっと乾いた空気に混じる磯の匂い。ぼくらは海辺に面した道路へ出た。この島はガソリンスタンドがないから車なんかも通らない。船を使って運ばれてきた車がたまに走るのを見かける程度だから、広い道を堂々と車椅子を押して歩く事にした。
「あら、お散歩?」
道の向こうから全身紫尽くしのリクのお母さんが手を振ってやってきた。
「これ、よかったら食べて」
と言って手作りの紫芋チップスをくれた。
相変わらず紫色でまとめられているけど、とても優しい人だと思う。それから思い出したかのようにぼくにビニール袋を手渡した。
「こっちも頑張って作ったのよ。使ってね」
と言って片目を瞑るとフェロモンを撒き散らしながら去っていった。心なしかとてもいい匂いがする…
「何を貰ったんだい?」
ついつい頭がボーとしそうになっていたぼくは慌てて袋の中を確認した。
「あ…っ」
それは大量の折り紙で折られた鶴だった。そしてやっぱり紫色ですべて統一されている。
「鶴って言ってね…」
嬉しくなって先生から聞いた説明を父さんにしてやりながら、ぼくらは再び紫芋チップスを食べながら歩いた。ちょうどいい甘さと軽い食感が楽しくて、珍しく食が細くなってきた父さんも進んで食べてくれた。
「色の濃い野菜は栄養豊富だってむかし教えてくれたね」
「そうなんだよ。実はぼくも幼い頃はひどい偏食でね…。野菜が嫌いなら、せめて高栄養なものだけでも食べなさいって言われてたのさ。ナスやケールばかり食べさせられていたんだよ。しかも拒めば食事抜きというひどい罰則付きでね」
当時を思い出してか父さんはウェッと顔をしかめて舌を出した。そのリアクションが面白くてぼくは、口の中に入れていた紫芋チップスを吹き飛ばしそうになってしまった。
「身長は父親譲りだけど、顔は母方のお祖父ちゃんに似ているって言われていたね。でもむかしの写真なんて、戦争ですべて焼けてしまってなくてね。似ていると言われる度に当時の皺くちゃ顔を思い出して複雑な気持ちになったものだよ」
父さんが語る子ども時代の思い出。今まで何度も聞いてきたと思っていたけれど、ぼくの知らない話は泉のように出てくる。
どうしてぼくは、今まで父さんの話を最後までちゃんと聞いてあげなかったんだろう。こうして過ごす時が悠久だと信じて疑わなかった、あの頃のただただ幸せだった自分を殴ってやりたい。
「キア…きみは、恋をしているかい?」
自販機でジュースを買ってくると、父さんは乾いた唇をそれで癒すなり唐突に尋ねてきた。
「ぶっ!」
思いがけない質問につい飲みかけのジュースを盛大に吹き出し、慌てて口元を拭った。
「や、藪から棒に何だよっ」
そうでなくとも、年頃の息子との会話なのだ。そういう繊細な話題は特に丁寧にオブラートに包んで提供して欲しい。第一今までそんな話、した事もないのでなんて反応していいのかわからず困ってしまった。
だって正直、可愛いなとか思う子は何度もいたしもっと親しくなりたいとやきもきした経験だって実は一度ではない。けれど今までそれが恋に発展させる訳にはいかなくて。ぼくはいつも無意識に自分からそういった色恋沙汰を切り離して考えていた。
「…気になる子はいる、けど」
言葉を選び悩みながら答える。すると父さんは嬉し気に微笑んだ。
「そうか…」
父さんも緊張していたのだろうか。全身から力を抜いて車いすの背もたれに深く身体を預ける。そんな父さんの姿にぼくは―――きっと父さんもこんな話をするのはずっと未来の事だと思っていたんだと気づいた。反抗期が終わって、それなりに落ち着きを得た年頃になって。ぼくがいずれパートナーを父さんに紹介する日を、もしかしたらずっと夢見ていたのだろう。
でも、そんな日を迎えられない。いつかその腕に抱く筈だった沢山の孫たちを想像する事さえ叶わない。
何だって…父さんが…っ
病気は決して人を選んでくれない。わかっているけれど、それでも思わずにはいられない。悔しくて憎らしくて。この身が引き裂かれるくらい悲しかった。
「…母さんと離れて暮らして、宛てのない漂流生活がきみに大きな不安を与えていたとわかっていたよ」
「!」
完全に予想外の答えにぼくは思わず息を止めてしまった。だって今まで父さんはぼくの都合なんて一切考えずに、いつだって行き先は風任せの父さんの気分任せ。そうして流れ流れていく人生に、自分自身の責任さえ持てるかわからないのに。誰かに恋をしてしまえばぼくは、これ以上にない重荷に感じてきっと苦しくなってしまうとわかっていた。
だからいつも憧れはそこで立ち止まったまま。決して恋になってはいけない。笑った顔がとてつもなく可愛くて、良く言えば個性的過ぎる発想の持ち主で。でも芯は誰よりもしっかりとあるぶれない強さを持つ彼女に―――いつしか惹かれている自分に気づいていたけど、今のぼくには恋をする権利さえないとブレーキをかけていた。
車椅子を押す手に力を込めて、ぼくはできるだけ気持ちを押し殺して応えた。
「正直言って…ぼくには、誰かを幸せにはできない。お金もないし将来性もない。ぼくが逆の立場なら絶対に選ばない相手だよね。だって…選ばれる自信が、悲しいくらい何もないんだ…っ」
一瞬、手元に落ちた雫を見て雨が降り出したのかと錯覚した。けれど違う。これはぼくの必死に抑圧した心の叫びが、透明な液体になって溢れた結果だった。
「『本物の愛の物語には、結末なんてない』リチャード・バックの言葉だよ、キア」
父さんは穏やかな声で話しかけてきた。
「愛は時に過酷な試練を与える。けれどそこには必ず喜びがある。だからどうか…最初から自分には縁のない物だと切り捨てず、心の声に耳を傾けてごらん。真実の愛を知った時、きっときみは幸せになれる」
父さんにとって最大の心残りが、ぼくが愛を知らないという事なのだろうか。だとしたらすぐにでもそれを理解して、そして父さんを安心させてあげたい。だけどそんな簡単に、長年自分自身にかけ続けた呪いなんて解ける筈もない。
グルグル…と色々な感情が胸の奥で渦巻く。鎖で抑制された恋心を解き放てと叫ぶ自分と、本当に自分本位の感情のままに行動していいのか。それは結局彼女を不幸にするのではないかと囁く自分がいる。結局今のぼくにはまだ、父さんの言う幸せを理解して掴む事はできない気がした。
「…母さんは…どんな人だったの?」
これまで聞くに聞けなかった母さんの話。でも今なら父さんは、何も隠さずに伝えてくれる気がした。
「とても勤勉で…本が好きな少女だった。ぼくより一回り年下で、いつも一人で静かに本を読んでいたよ」
母さんとぼくの共通点をいきなり見つけて、それが何とも嬉しくて頬が熱くなった。同時にどうしようもなく、母さんに会いたくなった。今まで一度もそんな風に何かを思う事なんてなかったけれど。きっとただ一人の身内の父さんが弱っている今、誰かに思いっきり甘えて泣き出したい気分になっているんだと思った。
けれどそんな気持ちを綺麗に隠し通すと、ぼくらはエメラルドグリーンの海を眺めながら更に歩いた。
しばらくして今度は、ポストマンが自転車を鳴らしながらやってきた。
「ちょーどいい所にいた!」
制服の皺は以前のままだけど、食生活の方が改善されているのかちょっと顔色がいい。
「はい! これね!」
と言って唐突に渡された紙袋。
「え、ちょっと、これ何なんですか?」
「山羊肉と折り紙の鶴と、あとは国崎家近隣に配達予定の手紙。じゃ、宜しくジャン!」
最後のは明らかに職務違反な気がしたけれど、父さんが口を大きく開けて笑い出すからぼくも釣られてしまった。それに山羊肉があるって言う事はつまり、あの親子の関係も少しは修復できたのだろう。なんだかそれだけでぼくの胸はいっぱいになってしまった。
学校で千羽鶴を作っている事が知れ渡っているのか、それからぼくらは島民に遭遇する度に大量に折られた鶴をプレゼントされた。
あっという間に父さんの膝の上も、車椅子のハンドルも様々な貰い物でいっぱいになってしまった。
「そろそろ…帰ろうか」
もうすぐ点滴の時間だと思い、きた道を引き返すと父さんは折り紙の鶴を一つ手に取り眺め始めた。
「鳥を見るといつも思い出すよ。以前キアにも読ませたけど…ぼくとキアの母さんを繋いだのが『かもめのジョナサン』という本だった」
確か日本にくる前に父さんに勧められて読んだ記憶がある。飛行術を極めたかもめの話だった。
「そして…家族を失ったぼくに、再び希望を与えてくれたのがその作者の言葉だった」
父さんはゆっくりと車椅子に座ったまま振り返ると、今までずっと見上げばかりだったその顔を優しく歪ませて。あの頃とは逆に、今度はぼくを見上げて微笑んだ。
「幼いきみの手を引いて育てたつもりが…いつの間にかこうしてきみに背中を押されて生きてきた」
細くなってしまったその首に両腕を回し、ぼくは父さんに抱きついた。薄い胸板に骨ばった肩。どんなに普段通りに振る舞っていたとしても、病魔は確実に父さんの命を縮めている。
時計台が直るまで、部品が届くまで、まだ時間が必要だ。どうか神様、お願いです。ぼくに、父さんと生きる明日を見せて下さい。
それが叶わないなら、神様。お願いです。
「生まれ変わってもぼくの父さんでいて…っ。そしてもう一度、こうして旅に出よう」
必死に縋って、しがみついて。誰にも奪われたくない。この小さな手で守りたいと願う大切な人。
「願ってもない…最高の、申し出だよ」
ぼくら父子の二人旅は、極東の小さな辺境の島で終わりを迎えようとしている。長い間笑顔を貼りつけ続けた父さんは、ようやくその仮面を外し目元に涙を浮かべ頷いた。
島民たちから送られた鶴を足して、千羽鶴が完成した。父さんはそれを枕元に置いていつも眺めていた。一羽一羽にみんなの想いが込められているんだね、と言ってまるで初めてのクリスマスプレゼントに興奮する子どものような笑顔を浮かべて喜んでいた。
それから数日後の事だった。島にまたスコールのような大雨が降り出した。父さんの呼吸が浅くなり意識が朦朧としていた。猪五郎爺さんはすぐに主治医を呼びに船を出してくれて、シンの母さんは点滴を追加したりと可能な限り手当をしてくれた。けれどそれ以上できる事がなくなったと悟り、ぼくに父さんの手を握ってあげてと促した。
「………っ」
覚悟をしていた。けれど自分で思う程それは、辛過ぎる現実だった。
「父さん…聞こえる…?」
薄らと開いた虚ろな瞳が宙を見詰めている。さっきまで苦しげに肩で呼吸をしていたけれど、今度は口を大きく開けて必死に空気を吸い込もうとしていた。
「ぼくはこれからもずっと夢を見るよ…。だがら…っう、生まれ変わっても、い…っ一緒に旅を…っうぅ」
それ以上はもう言葉にならなかった。父さんの格言。ぼくが夢を見る為に必要な責任は全部父さんに任せたらいい。だから先に逝ってしまうその世界で、ぼくを待っていて下さい―――
泣き伏せるぼくの手を、最後の力を振り絞って父さんは握り締めてくれた。
色とりどりの鶴たちは、その翼に父さんの魂を乗せて静かに飛び立った。遠い未来でぼくも必ず行く、その先へ…
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