片手の花と道化師

青海汪

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もくじ 第一話寂しがり屋の王様とお子様

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もくじ
第一幕 寂しがり屋の王様とお子様
第二幕 涙を涸らしたピエロたち
第三幕 孤島に住む幸せな人々
第四幕 クラウンの条件
第五幕 千の鶴と旅立つかもめ
第六幕 拝啓、十年後の約束の時計台
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第一幕 寂しがり屋の王様とお子様
 
 もしもこの世から常識とかを重んじる存在が消えたとしたら。ぼくはきっと子どもみたいに自由奔放な王様の、一番のお気に入りくらいにはなれたんじゃないかと思う。
 どうしてそんな微妙なポジションを選んでしまうのかわからない。だけどこれが俗に言う十一歳なりの処世術だと思っていた。目立ち過ぎず、出しゃばり過ぎず。だってただでさえぼくと、ろくでもない父親の生き様は周囲の目を引いてしまうとわかっていたから。
 
 どんどん潜っていくと小魚の数が減って、もう少し食べ応えのある大きい魚が姿を現し始めた。海の中は父さんの目の色によく似ている。ただ青いと言うだけにはもったいないくらいに、色々な色が混じり合って水面から注ぐ光が微妙なグラデーションを作りとても綺麗だ。あまり潜り過ぎると耳の奥が痛くなるので適当なあたりで回転し、頭上に浮かぶボードへ向かって戻っていく。腰につけた袋にはありったけのワカメと、食べられるかわからない貝が数種類。それと何とか銛で仕留めた小魚が五匹と、ちょっと大きい魚が一匹。長い漂流生活はぼくを王様のお気に入りから、立派な素潜り名人に転職させた訳だ。
 ボードからぽつりと垂らした釣り糸にはもう餌がなくなっている。ぼくが潜る前に新しく付け替えた筈だから、早くも餌だけ盗られたらしい。その癖まだ気づいていないとは。
 「父さん!」
 勢いよく海面に顔を出しながらゴーグルを外す。ボードの上で金髪に碧眼の、ぼくと似ても似つかない顔をした父さんは
 「Oh! キア! 魚が逃げるじゃないかぁ」
心臓が飛び出さないよう口を押えて驚いた。
 「餌を盗られてるのに、魚が寄ってくる訳がないし」
 縁に手をかけて一気に身体を持ち上げボードに乗り込み毒づく。どうやら今日もぼくの捕ってきた魚が晩御飯になりそうだ。
 「ふぅむ…今時の魚たちはなかなかやるな」
釣り針を確認し何故かにやにや笑いながらぼくにタオルを渡してきた。取り敢えず顔だけ拭ってからそれを返す。一応確認してみたけど、やっぱり予想を裏切らず父さんの隣に置いてあったバケツは空っぽだった。もしこれでぼくの方も収穫がなかったら…って事を真剣に考えていないんだろうな。これでもぼくと言う子どもまでいる五十手前の親父なのに、へらへら笑うとまるっきり十代のガキの顔をする。
 「最近キアは銛の使い方がうまくなったな」
 「一月も海の上を漂流していたら、嫌でもうまくなるし」
シャツとズボンを穿きながら刺々しく言い返す。シャツもジーンズ地のズボンも、本来の色やら質感なんて思い出せないぐらいに擦り切れて大小様々な穴まで空いている。まぁこれしか着るものもないし、父さんもぼくと似たりよったりの格好をだから特に不満はないけど。何より海上では見せる相手もいない。
 「ぼくもむかしはよくそうして、頑張って魚を追い回していたなぁ。あれは十…」
 「いい加減にそろそろ陸地に漂着してくれない? 生の魚ばっかりじゃ飽きちゃう」
どうでもいい回想に入りそうになったのでピシャリ現実を突きつけてやった。
 「そういえばぼくらは、どこらへんにいるんだろうな」
きょろきょろと周りを見渡し考え込む父さん。四方は相変わらず海しかなくて、どこを見たって陸なんて見当たらなかった。
 「地図買ったでしょ。どこやったんだよ」
 「どこやったかな」
 「はあぁ!? 信じられない。あれ程失くすなって言ったのに!」
 慌てて父さんのリュックサックを開けて中身を漁る。絶対に失くさない男同士の約束だとまで言ったから父さんに預けたのに。
 「…安心しなさい。第一、コンパスも一昨日の嵐で失くしてしまったからどっちにしろ八方塞がりだよ」
 危機感とかそういったものを一切感じないとぼけた笑顔で、とんでもない爆弾発言を投下していく。
 「有り得ないって! どうしてそんなドジばっかりするんだよ! コンパスがないのに…じゃあどうして東はこっちだとか言って進んでたんだよ。今度は日本に行くって言ったからぼくも頑張って漕いだのに!」
 「ほぉお。キア。日本へは初めて行くから期待していたんだな。大丈夫、父さんはちゃーんとお前の日本名を考えているんだぞ」
 「この状況をわかって言ってる? 名前なんてどうだっていいんだよっ」
 「お前はクラヤシキキア。漢字ではこうだ」
と言って父さんはゴミ袋から、鼻をかんだナプキンを取り出し木炭の破片で『蔵屋敷 樹晶』と書いた。
 「ちなみにぼくの名前は服部。ちょっとニンジャーっぽくてかっこいいだろ」
 『服部』と書かれた名前を見て、目の前に立つ西洋人面の父さんと交互に見比べる。
 「こんな難しい漢字を使って…また怪しまれたらどうするんだよ。不法滞在だし、ぼくは国籍だってないのに」
 だけど父さんはへらへら笑ってぼくの悪口も聞こえない様子だ。へらへら、へらへら…父さんはいつも笑っている。まるっきり常識とかに囚われない父さんは、子どもだけの世界があったらきっと幸せになれるのではないかと思う。言い換えればこの現実社会ではまっとうに生きていけない、ろくでもなしって事だけどさ。
 「キア。『困難の中に機会がある』偉大なる先人も言っているよ」
 父さんの好きな偉人の格言シリーズだ。でも実際のぼくらの人生なんて、常識を悉く打破し挙句の果て犯罪にも抵触するものでしょ、と言葉を飲み込む。どんなに発破をかけても結局は困難しか見出せないまま、波風任せに海面を彷徨った。
 
 
 「だーしたぁ? リク。りぃーくってよぉ」
 海岸沿いのコンクリート道をリクと一緒に歩いたシンは、いつの間にか彼女のチャームポイントでもある首に巻いた大きな白いリボンが視界から消えていた事に気づいた。
 振り向くとシンと同じ年のリクは、数メートル程後ろで立ち止まったまま海の方を見詰めていた。
 「なんよさー。またおがねぇもん見たさ?」
 「違うさーもん」
おかっぱ頭を振ってシンを睨んだ。リクは島の人間にしては珍しく色が白い。幼い頃から一緒に海や山を駆け回って遊んだシンは全身を隈なく小麦色に焼いていると言うのに、リクはどんなに日に当たっても赤くなる事はあっても真珠のような色を保っていた。
そんな白珊瑚のような顔に収まる黒目がちの瞳を見開くと、リクは真剣な表情で紡いだ。
「風の精がうちに教えてくれたんさー」
 「だーがらぁ、何をさー?」
 じれったくなって彼女の元まで歩み寄ると、リクはすっと腕を上げて海の彼方を指差した。
 「だーれか、くるさ」
 「だーれがさぁ。なぁんも見えねえさ」
晴れ渡り雲一つない空と海を見回しシンは首を振った。彼は視力のよさが何よりも自慢だった。
 「くる」
 「こねって」
 「シンには見えねぇ場所からさくるって言うちょるんさ!」
 頑なに言い張るとリクは舌を突き出し歩きだした。しかしその方向は彼女の家とは逆だったので、シンは慌てて彼女の後を追った。
 
 
 どうやらぼくらが漂着した島は、幸運にも日本国の領土に属した所だったらしい。だけどこんな漁師たちが集まる見晴らしのいい港に着いたら目立ってしまう。これまでの経験上、島国の住人は結構冷たい反応をするか徹底した差別を遭うかのどちらかだ。要するにロクな対応を受けない。もっと人のいない所に到着したかったけれど、まぁ今さら。
 ぼろっちぃ筏みたいな船に乗った外国人とぼくを見ようと、さっきから絶えずに人が集まってきている。父さんはそれを歓迎されているものと受け取ったらしく、上機嫌でオールを漕ぎながら
 「どうだい、誇らしい気分だね。まるで凱旋帰国を果たしたペリーの黒船だ」
 ペリーが日本に凱旋帰国した話なんて聞いたこともない。いつものほら吹きとして流す反面、初めてやってきた日本に対しぼくは少しばかり緊張していた。日本語は父さんに教えてもらっているから漢字の読み書きぐらいならできる。ただこんな変人だから、本当に通じる日本語なのかが不安でもある。以前アメリカに渡った時も頗る下品な言葉を使っていたらしく、最初は親切に接してくれていたおばさんが形相を変えて『豚箱にぶちこんでやるっ』と叫んだ時はびっくりしたものだ。
 「『おーい! 元気、です、かぁ!』」
 日本語で挨拶をしながら立ち上がり両手を振る。まるっきり警戒心のない態度だ。二メートル近くある巨体の父さんが立ち上がり、手を振るだけで貧相な船はすぐにバランスを崩した。
 「ち、ちょっと! 危ないからやめて! 座ってよ」
 港に人だかりができてその中から黒い制服に身を包んだ男が現れて、ぼくらに向って警棒を振ってきた。
 「キア! 見ろ! あれがこの国の愛と正義を守るスーパーヒーローのポリスマンだぞ」
 妙にはしゃぎだす父親を無理やり座らせようとして立ち上がった瞬間、筏と形容したって間違いのないぼくらの船は呆気なく転覆してしまった。
 再び海の中に投げ出されたぼくの身体を無数の水泡が包む。キラキラ…キラキラ…キラキラと、透明でシャボン玉のように儚い泡。鼻に海水が入って堰込み同時に沢山の泡を吐き出した。
ぼくはこれでまた、この国の人たちからも追い出されるだろうと密かに嘆いた。
 
 
 リクを追ってシンは島で唯一港まで駆けつけた。普段はこんな天気のいい日は漁を終えた漁師たちが、仕事に使った網を片づけ次の漁の準備をのんびりする時間帯にも関わらず、何故か二人が辿り着いた時には島民のほとんどがここに集まっていた。
 「なーんの騒ぎさ?」
 呆然と呟くリクはシンの手を引き小柄な体格を活かし、人垣のわずかな隙間を縫って進んだ。
 「誰かきちょるさ。うちの言った通りさー」
 「そらぁー、一日におっかし事さ何十回と言うちょれば、一回ぐらいは当たるさ」
 口を尖らせて抗議してからその目は見慣れた皺くちゃな顔を捉えた。
 「じーちゃ!」
 シンの祖父であり漁師を引退した猪五郎が、港に訪れた不思議な来訪者の元へ歩み寄っていた。傍らにはいつもシンたち子どもを相手に賭博をしては暇を潰す巡査の成宮航ノ進が、珍しく職務を思い出したのか警棒を片手に仁王立ちをしている。
シンは改めて皆が見詰める視線の先に立つ、何故か全身ずぶ濡れのやけに身長差のある二人組を見詰めた。
 「なーんよのぉ、外人さんさー?」
 シンの独り言にリクは目を輝かせて両手を叩いた。
 「髪が金色しっちょるさ! たまげたさ!」
 日本人の観光客でさえ滅多にこないような僻地の島に、彼のような金髪碧眼の人種がくる事自体が島民たちにとって青天の霹靂だった。彼らが固唾を飲んで進行を見守る中。健康的に日に焼けた顔を皺くちゃにし、突如外国人と猪五郎が笑い出しお互いの手を握り締め合った。
 「だーしたぁんさぁ? いっきなり手を繋いださー」
 「シンのじいちゃんさ、そっちの気でもあるさね?」
 悪びれる様子もなく恐ろしい想像を働かせるリクに再び抗議しようとしたところで、またもや観衆にどよめきが走った。
 「!」
 世紀の瞬間を見逃したかと思い二人は咄嗟に視線を戻した。なんと今度は成宮巡査が先程からじっと動かず、事の成り行きを見守っていた少年を抱き締めていた。
 「あっれまー…だーから巡査は奥さんがおらんさ。それもそーゆう理由さー」
 「……」
 シンも少し複雑な心境になり思わず成宮巡査に抱き締められ、必死に抵抗を繰り返す少年を見詰めた。あの少年もどうやら異国の血が入っているようで温かな光を受けて、茶色い髪の毛は小麦色に見えた。顔は巡査の肩が邪魔をしてよく見えないが、背格好からして彼らと同じ年頃に間違いないようだ。
 
 
 迂闊だった。本当に迂闊だった…
 この変態親父は長年の放浪生活から培った最大の武器を持っているんだった。それはどんな相手とでも打ち解ける事のできる、天性の適応力と人懐っこい性格だ。
 お陰で不法滞在をしていてもぼくらは親切な人たちの助けがあって何とか生きながらえたし、戸籍どころか国籍さえないぼくが曲がりなりにもある程度の常識を持ってここまで育ったのも、やっぱりあの親父に騙された馬鹿な人たちがいたからだ。
 「いーやぁ! おみゃーあ、よーきたさ!」
 叫ぶなり制服姿の若い男はぼくを抱き締めた。パリッと糊がきいた制服からは洗剤のいい匂いが漂ってきて今さらながら、何日間も身体を洗っていない自分に嫌気が差した。
 「ハッハッハー! いやぁ、まさか研究授業の一環で船を出してここまで辿り着くとは思いませんでしたよ」
 流暢な日本語を操り、島の元漁師だとか言ったいかつい形相のじいさん相手に大笑いをする。どうやらいつもの常套手段。お偉い大学の教授が研究の為に船を出して、そのまま息子と漂流してしまったと言うネタを使ったらしい。数年前にどっかの国でそんな事件があり、それを真に受けた父さんが内容を気に入ってちょくちょく用いるようになった嘘だ。当人からしたら進む道さえ違っていたら、そうなっていた可能性もあるから嘘とは言えない。と、尤もらしく言い訳をほざいているけれど、やっぱり嘘に違いない。
常識に囚われない父さん。いつから始めたのかわからない漂流の旅をしていて、嘘だか本当だかわからない事ばかりをほざいている。こんな人だから、やっぱり…子どもだけの国があったらきっと王様ぐらいにはなれたんじゃないのかな。
 「とりあえずさーワシんとこさこいっ。おみゃぁとは話が合うさぁー! やっぱよぉ、ビールと枝豆がなけりゃー話にならんさぁ!」
 「そりゃぁいい話だ」
ビールと言う単語に反応しようやくぼくから離れると、ポリスマンも周囲を囲う島民を見回した。彼の視線を追ってぼくも目を向けると、港を囲う人々の群れの最前列に日に焼けた男の子とおかっぱ頭の首に白い大きなリボンを巻いた女の子が並んで立っていた。
きっとぼくと同じ年頃の子どもだろう。いくら見回しても他に子どもがいない。もしかして、と思うけど。本当にこの島にはこれだけの人数しか住んでいないのだろうか。
「おっ、猪五郎さんよぉ、おみゃーの孫がおるさー」
「あん?」
父さんと固い握手を交わしていた猪五郎と呼ばれる元漁師のじいさんが眉根を寄せて振り返る。視力が落ちているのか、しばらく二人を見詰めた後に「あぁ」と漏らし手招きをした。
「シン! リィクゥもちょうどえぇー友だちができたさー」
大人たちはいつもそうだ。年の近い子どもが現れたら初対面だろうがお構いなしに「お友だち」扱いをする。右も左もわからないような洟垂れ小僧の頃ならそれでもよかった。だけどぼくらはもう自分で仲間を見分ける事ができる。
ぼくは日によく焼けた真っ黒な顔をした男の子と対照的に色白肌の女の子を見詰めた。縮れ頭とサラサラストレートヘアーの二人は、その似ても似つかない容姿からほぼ兄妹ではないと察した。一人っ子かもしれない。
一人っ子というのはとても助かる。ぼくみたいな得体の知れない奴がきても、一時的に兄弟ができたような錯覚から割と色々と世話を焼いてくれる。使わなくなった服だとかおもちゃだとか、自分に弟がいたとしたらと妄想を膨らませてリアルごっこ遊びが始まる。
ぼくは最上級の笑顔を浮かべ二人を出迎えた。
 
 
 すっかり打ち解けた様子の猪五郎に呼ばれ、シンよりもリクの方が飛び上がり目を輝かせて駈け出した。
 「あ」
 置いてきぼりを食らいそうになりシンも慌てて後を追う。この二人が動き出した事で、それまで遠巻きに経過を眺めていた島民たちも危険性はないと判断したのかガヤガヤと騒ぎだしこの異端の訪問者たちを囲った。
 「こっちのクルクルパーの頭さ孫のシンさ。んで、こっちの白いもん巻いてんのがリクさ」
 改めて紹介され、シンは恐らく生まれて初めて見る「外国人」の顔を物珍しげに観察した。
 猪五郎も歳の割には背中もシャンと伸びがっしりとした体躯を誇っていた。それに先程少年を抱き締めていた警察官の成宮も百八十センチとなかなかの長身だった。しかしそんな成宮さえも小さく見えるような大柄な身体つき。そして真新しい金属鍋のような輝かしい金髪に、水溜りに映った空のような色の瞳をした彫りの深い顔立ち。先程から流暢な日本語で話しかけてくれているのだが、緊張のあまりシンの耳にはまったく入ってこなかった。
 「これでも実は日本国籍を持っていまして、ハーフなんですよー。某、蔵屋敷服部と申すーです。ハッハー」
 「……!!」
 そんなシンとは対象的にリクは生まれて初めて接する外国人に感極まり、両手を胸の前で組み大きな瞳をキラキラ輝かせ何やらブツブツと呟いていた。
 「たーまげたさぁ。こがぁーどえらぁ人がおるんさのー。こりゃ人間の形をした妖精さ」
 「のぉ、なーにを驚いた顔しちょるんさー。二人とも。このちびっこいの、おみゃーらと同じ歳じゃゆーとるさー?」
 さっきから気まずそうに立っている小柄な少年の背中を軽く叩き、警察官の成宮はニタニタ笑った。
 
 
 どうもこのポリスマンはペドの傾向でもあるのだろうか。最初の抱擁から始まり、終始ぼくの身体のどこかに常に手を触れてくる。安全神話のある日本でさえ、こんな変態が治安を守るとはこの世も末だと小さく溜息を漏らした。
 だいたいこんな田舎。人口密度が高過ぎる。横の繋がりが強ければ強い程、お節介で人の過去に首を突っ込みたがる有難迷惑な連中が多いのはこれまでの経験から嫌と言う程わかっている筈だ。数日滞在して、必要な食糧とか燃料を貰ってさっさと離れるのが一番だ。
 どうせあと何日かの付き合い。そう割り切った上でとっておきの笑顔を浮かべた。せいぜい最近の子どもの間で流行ってるゲームでも教えてもらえれば、次の漂流先で話のネタになるだろう。
 「初めまして、蔵屋敷キアです。日本は初めてなんだ。宜しくね」
 そしてぼくと父さんはこのよく日に焼けた少年の祖父猪五郎の勧めで彼の実家に身を寄せた。
予想通りその夜は国崎一家だけではなく、島民を巻き込んでのドンチャン騒ぎとなった。だが、ぼくとシンは子どもという事を理由に早々に布団に突っ込まれてしまった。
 何カ月ぶりかの暖かい布団の魅力は絶大だ。隣で横になっていたシンがなんだかんだと話しかけてきてくれたけど睡魔に飲まれたぼくは一気に眠り込んだ。明日この少年が機嫌を損ねていたとしても、まぁあと数日だけだ。なんとでもなるだろう。
 つい昨日まで波に揺られて眠る生活をしていたからだと思うけど、ぼくは長いロープに括りつけられたサーカスのブランコ乗りの夢を見た。ロープの先にある筈の天井の梁が見えないぐらい高くて簡素な木製のブランコが吊り下げられている。ぼくは相方の登場をずっと待ってブランコを揺らしていた。
 ゆあーん ゆよーん ゆあーん 
 ロープが軋む音が何もない空中世界に広がりやがて重力に負けて下へ落ちていく。ぼくはずっとブランコを揺らし、待っていた。
 深過ぎて見えない足下に広がる暗闇。その闇の向こうに沢山の観客たちが待っているのだろう。耳を澄ませば彼らの吐く息が聞こえてきそうだった。
 ゆあーん ゆよーん ゆあーん
 さて。一体誰がブランコを漕ぐことしかできないぼくを迎えにきてくれると言うのだろう。ぼくは苦笑しながら、それでもブランコを漕いで音を生み出した。じゃないと自分自身もこの闇に飲み込まれてしまいそうで。誰もきてくれないという現実を受け入れるだけの心の準備はまだできていない。
 悲しみが溢れ出す。涙を描いたピエロの装いがひどく惨めになって、ぼくはこの漆黒の帳に紛れて密かに涙した。
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 
 
 隣で規則正しく聞こえてくる寝息を確かめ、シンはそっと布団から起き上がり溜息を漏らした。島には彼と同じ年の男の子が一人もいない。今年やっと一年生のタクマが入学してきたくらいだ。きっとキアも明日から学校へ通うだろう。そうしたら一緒に遊ぶか考えるだけでワクワクしてしまいすっかり興奮して眠れなくなってしまったのだ。
 「…楽しみさー」
 呟きそっと静かに眠るキアの顔を盗み見る。今まで外国人というものをテレビでしか見た事がなかった彼にとって、蔵屋敷親子の登場は衝撃的だった。父親の服部は見るからに外国人といった外見だったが、息子のキアはまだ少し親しみのある顔立ちをしている。きっと他の学校でもカッコいい奴の分類に入っていただろう。そんなキアが友だちになるのかと思うだけで、更に気分が高揚していくのがわかった。 
 「……あ」
 口に出してから慌てて塞いだ。彼の長い睫毛の間から一滴の涙が頬を伝い流れていくのを見た途端に、居たたまれない想いに襲われる。シンはこの島しか知らないが、きっとキアのような都会っ子はこんな何もないど田舎を毛嫌いしてしまうかもしれない。父親の調査旅行中に漂流して辿り着いたと言っていたし、落ち着けばすぐにでも帰ってしまうのだろうか。そう思うと先程まで膨らんでいた気持ちが急激に萎んでいった。
 気にしても仕方がない。家には母親が二人の帰りを待っているのかもしれないのだから、と自身を慰め立ち上がる。尿意を覚えたがトイレに行くのが面倒だったので、庭に面した窓を開けて用を足した。
 夏も目前に控えたこの季節。本州では梅雨前線がどうのこうのとお天気キャスターが騒いでいるが、安師岐島では毎日が晴天続きで、夜には満天の星空に気持ちのいい虫たちの鳴き声。パンツとズボンを直すとシンは裸足のまま庭に出た。
 「じーちゃ!」
 祖父の猪五郎が楠の下で煙草を吸いながら立っていた。
 「シン、気ぃつけろ。そこらへんにワシがションベン蒔いたさー」
 猪五郎もシンに気づくとシンの足下を見て声をかけた。そして二人で並んで星空を見上げながら尋ねてきた。
「おみゃーも眠れんのかー?」
 「ワクワクしちょってー眠れんさー」
 シンは子どもがこんな夜中に起きているという事が妙に背徳感をそそられ、再び萎んでいた気持ちが膨らんでくる気がした。
 「…じーちゃは?」
 尋ねてから聞くまでもない質問だったと気付いた。猪五郎はいつもこうして夜中まで起きて、彼の息子。つまりシンの父親の帰りを待っているのだ。
 「…今日も帰ってごねー気じゃ、あの馬鹿息子はよー」
 唾を吐き捨て煙草を消すと、猪五郎は大きくて皺だらけの手でシンの頭を一回撫でると踵を返し家の中へ戻っていった。
 猪五郎が部屋に戻ると家の灯りが消えた。だがよく見ると母の部屋だけ薄ら明るい。豆電球がついたままになっているのだ。この家の主が迷わずに帰ってこられるようにと、国崎家の灯りは五年前から消える事はなかった。
 
 
 翌朝。シンの母親に起こされたぼくは、驚愕の事実を突きつけられた。
 「今日から安師岐学校に編入すんさー。昨日の宴会で校長先生がきちょって服部さんと盛り上がっちょったさー」
 枕元に置かれたピカピカの黒いランドセルと、ニヤニヤニタニタ笑うシンの姿。
 起きたばかりだったけれど、咄嗟にぼくは頭の中で電卓をフル活用し乏しい全財産を計算にかけた。日本の物価がわからないけど絶対に残る大枚はたいて父さんは、宴会に現れた怪しい男から買い取ったに違いない。という事は、つまり。本当にもう全財産すっぽり持ってかれたという訳だ。脳内の電卓に0という数字が延々と並んでいく。でも、とかもしかして、とか希望的観測なんて一切を排除したぼくらの置かれている現状を簡潔に表すとしたら。
それはつまり―――The 無一文!
「よかったさー。服部さんが昨日さわざわざ買い揃えてくれたんよさー。これでピカピカの一年生じゃねぇ」
 「のぅキア、今日から同級生じゃのぉー」
 ぽんっとぼくの肩を叩きさも嬉しげに笑いかけてくるシン。こうして最悪の出足を切った島での生活は、光り輝くランドセルを背負い始まっていくのであった。
 
安師岐島唯一の小学校に転入初日。この国の人間は壊れかけのものまで大切に使う習性があると知った。
 「いやぁ、よくきてくれましたね」
 ツルっと禿げた頭で校舎の弱々しい電灯の明かりを強く反射させながら、高良秀治校長はそう言ってぼくを出迎えてくれた。行きしなに仕入れていたシンの情報によると、元々本州に住んでいたらしく喋り方がおかしいそうだ。と言ってもぼくが習った日本語(これが標準とされるものだとしたらだが)に一番近い喋り方だとは思うけど。
 しかし校長と言えば学校のトップなのだから、せめてもっといい服を着ていてもいいんじゃないかと思う。どう言う訳かこの禿げ校長は髪型に服装を合わせる傾向でもあるらしく、肘や襟が草臥れて布が所々剥げたシャツとズボンを穿いている。だからパッと見た感じだいぶダサい。って言うか父さんよりも浮浪者っぽい。
 そしてトップがそうだからなのか。この学校、ぼくがこれまで見てきたどの校舎よりも汚い。不潔。ボロい。風が吹いたら倒れそう。アジアの極貧の国でさえ、こんな建っている事が奇蹟に近いような建物なんて使わず、青空教室という手法をとっているというのに。
 さっきから電灯が点滅していて今にも切れそうだ。それにクーラーという存在すら知らなそうなこの校舎。窓を全開にしているからだけじゃない。この風通しの最高レベルの良さは絶対に壁に穴が開いているからだ。不自然に壁に貼られた校長の直筆のサインみたいなもので誤魔化しているけど、ぼくは騙されない。
 「見ての通り島民の数がとても少なく、当然子どもの数も限られています。だからこの学校は一クラスしかありません。その貴重なクラスを担当して下さっているのが室伏楓先生です。外国風に言ったらメープル先生になるのかな」
 笑ってやるべき所だったのだろうか。よくわからない禿げ校長の駄洒落はさて置き、ぼくは紹介された眼鏡をした女性を見上げた。
 女性にしては背が高い。これまたシンの情報だが、彼女もまた本州の出身だそうだけどちょっと喋り方が変らしい。見た感じはそばかすがあるものの綺麗な顔をした優しそうだ。
 「初めまして、蔵屋敷キアです」
 にっこりと大人受けする笑顔で対応する。どういう訳か知らないけど、意外とぼくの笑顔は大人の女性受けがいいみたいだ。よく「カワイー」って騒がれるけど、男が可愛いってどうなんだろう。まっ、第一印象は大事だ。さっさと父さんに金を稼がせてこの島を出るまでは平和にやり過ごさなければ。
 「え、あ…っあの、初めまして。あ、あたしなんかが担当で申し訳ないわぁ。堪忍え」
 ぼくと目が合うなり顔を赤らめ、いきなりペコペコと頭を下げ始める担任。確かに喋り方も少し他と違う。でも柔らかい口調が彼女の雰囲気に似合っていてちょっと好感度が上がった。
 「室伏先生は本州の京都出身です。京都には様々な国宝がありましてね。よかったらまた聞いてみたらいいでしょう」
 「はい! 室伏先生、宜しくお願いします」
 見た目とは裏腹に意外と知識が詰まっている頭の持ち主と、校長について印象をまとめるとお辞儀が好きな日本人に倣ってぼくはもう一度頭を下げた。
 
 
 シンが教室に入るともうほとんどの生徒たちが昨日島に漂流した不思議な親子について盛り上がっている状態にあった。全校生徒数僅か十六名という僻地の学校だけに、情報が回るのは驚く程早い。
 「国崎くんがきたさー!」
 全校生徒数の約九割が女子という事もあるのだろう。クラスの女子たちはシンの姿を見つけるなり歓声を上げて集まった。
 「昨日きちょった子、シンんとこ泊まったろー? どがぁ子じゃったぁさ?」
 「リクに聞いちょったけんど、いまいちようわからんさー」
 名指しで非難をされリクは不満げに頬を膨らましそっぽを向いた。そして次々と質問を投げかけてくる女子たちに混じって、最年少の男子児童タクマがシンに尋ねた。
 「友だちになっちょくれるかのぅー?」
 期待に満ちたタクマの瞳が眩しくてシンは瞬きをし、そして大きく頷いて見せた。
 「当たり前さー。ちょっと大人しいけんどえぇ奴さ」
 シンの言葉にタクマは白い歯を見せて二カッと笑った。
「顔は? 芸能人じゃと誰に似ちょる?」
 「彼女おるんかのぅ!」
 女子たちの集中砲弾にシンが思わず耳を塞ぐ。後少しすれば担任に連れられてくると言うのに、彼女たちの期待と興味は光速で膨らんでいくようだ。
 「シン、うちら日直じゃけぇ迎え行くさー」
 リクの助け舟に有難く同乗しシンはクラスメイトたちの輪から抜け出した。
 「えらい期待しちょるなー」
 まだしばらく耳に女子たちのキンキン声が残っているシンは無意識の声を大きくしてぼやいた。
 「一生にあるかどうかのビッグイベントじゃー言うちょったさもん」
 転入よりも明らかに転校していく児童の数の方が多い安師岐島では、確かに一大イベントだった。加えて外国人の男子とくれば、普段テレビ越しにしか対面できない芸能人がやってきた並みに女子たちのテンションも上がるのだろう。しかしその割には同じ女子のリクはやけに冷静な態度だったので、シンは若干怪訝な表情を浮かべた。
 「リクは興味ないんさー?」
 「ちがーよ。うちは男の子じゃけぇキャーキャー言うんが嫌なんさ。昨日見たけんど、あの子は特別に精霊が呼んでこの島まで辿り着いたんさー。じゃけぇ、アイドルみたいに騒ぐんはちがーよ」
 相変わらずのリク独特の世界観満載の返答にシンは僅かに苦笑した。そんなリクもわかりづらいがとても嬉しそうな顔をしていたのでこの件については納得する事にした。
 二人は職員室の前の辿り着くと中の様子を覗き込んだ。
 
 
戸が壊れて開けっぱなしになっている職員室の入り口からシンと女の子が顔を覗かせてきた。確か昨日港で紹介されたリクって女の子だ。今日も頭に大きな白いリボンをつけている。昨日は白いスカーフを首に巻いていたな。この島で流行っているのだろうか。ぼくの視線を感じたのかリクはそっぽを向き、何か聞きとり辛いくらいの声で呟いた。
 「ほ…じゃ。…妖精さ…」
 は? 妖精? そういえば昨日も父さんを見てそんな事を言っていたような気もする。
 対するシンはぼくに向かってニカッて明るい笑顔を見せると、すぐに担任に向かって声をかけた。
 「せーんせい! まぁーだこんのかぁ? みぃんな待っちょるさー」
 「あ、あぁ堪忍え! あたしなんかが担任でホンマ堪忍え。むしろ生きていて…えっと今から行きますさかいに、ちょっと待ってな」
 生徒に対し平謝りをすると慌てて教材やらを用意する担任。あまりに慌てるからきっと…っと思ったら、やっぱりぼくの予想を見事裏切らず机の上に山積みにしていた教科書を倒して雪崩を起こした。
 「はは、先生落ち着いて下さいね」
校長がフォローを入れる間、ミシミシっていう嫌な音がどこからか響いた。そして次の瞬間、教科書の重みに負けて板張りの床が割れ大きな穴を開けた。辺りには濛々と砂埃が舞っている。
「………」
あまりの事に一同が唖然としているのがわかった。辞書とかあったけど、どう見てもあれってぼくの体重よりは軽いか同じぐらいの重みの筈だよな。それがこんな簡単に床をぶち抜くって…
 「あぁぁ! すんません、すんません! あたしなんかがまた校舎を…!」
 「ははは、大丈夫ですよ。まだまだ使えますから」
 いや、絶対この状況で笑うのっておかしいし。って言うか、ここまでボロいならさっさと建て替えなりしないと、耐震基準とか絶対に守られてないし。第一そんな所で子どもを収容して学校なんてしていていいのか? 日本の安全神話崩壊だよっ!
 「だーした、キア?」
 「さ、シン! キアは今精霊と交信しちょるんさ。邪魔しちょったらいかんさ」
 「……いや…ちょっとカルチャーショック受けてるだけだよ」
 作り笑いでごまかすものの衝撃は半端なかった。本気でやばい。何がなんでも日本で大地震が起きる前にこの国を抜け出さなければ相当やばい。久しぶりに真剣に身の危機を覚えた。何よりこんな変人ばかりが集まる島、いつまでもいたら父さん以上の変態になってしまうに違いない。
 
 「蔵屋敷樹晶くんです。みんなも既に知ってはるとは思うけど、お父様の研究の一環でこの島に漂流されはったんよ。仲良くしてな」
 全校生徒数十六名の小さな木造の教室。その中に廃材から作ったのか、形も大きさも高さも不揃いなテーブルを並べて学年も体格もバラバラな子どもたちが座っている。
 誰も彼もが好奇心をあらわにし目を最大に見開きながらぼくを見詰めていた。この集団に加入する最初の「儀式」。何度経験したって慣れないし居心地が悪い。
「キアくんと同い年の子は、国崎くんと井伊田さんの二人やねん」
 ぼくの背中を軽く押すと室伏先生はシンの隣を指した。すぐ近くにリクも座っている。
 「こっちじゃー」
 シンが手招きするのでぼく自分の席に向かった。
 「のぅ、どーじゃ?」
 早速授業が始まった。学年ごとに習う内容は違うので、まずは黒板にそれぞれの学年の学力に合わせた課題が書かれる。教科書を持っていないぼくはシンとテーブルをくっつけて無駄話を始めた。
 「ここまでボロい校舎は初めてだよ。室伏先生ってあぁやって、校舎を破壊するの?」
 「先生は破壊じゃのーて、精霊の神聖な儀式しちょるんさ」
 と、右隣に座っていたリクが教科書を開きながら口を挟んできた。っていうか…さっきから何回も聞いている「精霊」ってなんだよ。
 「リクはちぃと頭おかしいんさー。母ちゃんも趣味で占いしちょるし」
 「シン、滅多な事言わんでえぇさ。うちはホンモンの霊能力者さもん」
 白い顔を赤く火照らせて真剣な顔で反論するリク。黙っていたら黒髪も綺麗だしジャパニーズドールみたいでなかなか可愛いのに。それともシャーマンでも気取っているクレイジーガールなのだろうか。
 「趣味って…」
 親子揃って変態って事か。二人にはわからないようそっと溜息を吐くと、ぼくは久しぶりの「学校」での授業をそれなりに堪能した。それから授業の合間にある数分の休み時間にはクラスメイトたちに囲まれ質疑応答を繰り返しすっかり疲れた頃にようやく昼休みになった。昼ご飯は持ち込みらしく、ぼくもシンのお母さんが用意してくれたお弁当を持って校庭へと繰り出した。教室で食べてもよかったし誘われたけど、最年少の男子児童が当然のように女子たちと一緒にご飯を食べているのを見てさすがに気が引けて逃げてきた。
「こっちじゃー!」
シンとリクが樹の下でぼくを手招きしながら待っていた。なんだかこういったシチュエーションって慣れてないから、こうお尻がムズムズするようなこしょばい感覚。でも決してそれは嫌な類のものではない。
 「キアはずーと船で旅しちょったんさ?」
 「ずーと巡礼しちょったんさ?」
 定番の質問なのにどうもリクは発想が人とは違うようだ。シンが言う「頭がおかしい」ってのもあながちズレた意見ではないと思う。
 「巡礼なんてしてないし船ばっかりじゃないよ。て言うかさ、あの船も偶然持ち主行方不明でいわくつきって事でタダ同然の値段で手に入れた中古品だったし」
 シンのお母さんが作ってくれたお弁当を頂きながら、ぼくはほっと溜息を吐いた。大抵が昨日の晩御飯の残り物だったけど、こうして誰かがぼくの為に作ってくれたものって言うのはそれだけで、特別な調味料になってしまうんだ。米粒一つ、残さないように食べ終えるとぼくは目の前の長閑な景色を眺めた。
小さなグランドでは同じ年頃の子どもたちがボールを追っかけて遊んでいる。空は青くて潮気を含んだ空気は爽やかで。更に美味しいものを食べていると、昨日までの生活が本当に嘘みたいで急に自分が老けたような錯覚を覚える。どうせあと数日の付き合い。そっと心の中で呟くもこの居心地のよい感覚は何とも忘れ難かった。
 「のぅ、キア。今日の放課後面白い所さ連れていっちゃるさー」
 口の周りに米粒をつけまくったシンが突然顔を近づけてきて囁いた。それを聞きつけリクが目を輝かせ反応した。
 「聖域に行くさ?」
 「聖域?」
 どこの国に行ってもオカルト要素満載の怪しげな場所はあるものだ。大体がデマだったりするのだが、中には本当に足を踏み入れたのを後悔するような所もある。まぁ、父さんが喜んで探索してはトラブルに巻き込まれるパターンばかりだったけど。取り敢えずそんな面倒臭い事に関わるのはまっぴらだ。
 「悪いけどぼくは」
 新参者があまり出しゃばり過ぎて嫌われてしまわないように、心からの演技で断ろうとしたぼくの言葉を遮り
 「のぅ? キアを連れて行くっちゅうのはよぉ、なかなかのアイデアさー?」
 「賛成さー。うちらで島を案内しちゃるといいさ」
 ノリノリの二人が手を叩き、完全にぼくの意見など除外してどこそこの店を回るだとか誰それの家に行くだとか。勝手に放課後の予定をびっしり組んでいった。最後に自由帳に書かれた予定表を突きつけられ我が目を疑う。郵便局や役所と言った公共施設から始まりずらりと個人名が書き連ねられている。これじゃあただの観光と言うよりも島民一人一人への挨拶回りじゃないか。
 「ちいこい島じゃけど回る所は多いんさ。なぁーに、うちは男手も足らんしさー母ちゃがいつまでもいちょくれさー言うちょるしずっとおったらいいさ」
 シンの言う事が本当なら絶対に父さんは真に受けて、ずっと滞在するつもりでいるに違いない。って言うかこいつの家に父親はいないのだろうか。漁で長い間不在にしている自宅にこんな素性の知れない親子が住みついてしまって、また刃傷沙汰になったらどうしよう。思い出したくもないけどこういうパターンは割と多かった。最近になってようやくぼくの方が危険を察して逃げるスキルが上がってきたから事なきを得てきたけども、父さんの学習能力の低さは相変わらずもう救いようがないんだ。
 「…こんな事言いたくないけどさぁ」
 呑気なこいつらを見ていたら独りあれこれ策を練ることが馬鹿らしくなり、ぼくは溜息交じりに素直な心情を吐露した。
 「シンの家にずっといる訳にもいかないだろ。きみの親父さんが帰ってきた時に鉢合わせになって修羅場とか、お互いに困るし」
 「あーそらぁ問題ないさー」
 笑顔で応えるシンを見て、うっかり父親もシンにそっくりな阿呆だという先入観を持ってしまった。
 「俺の父ちゃはもぅ五年くらい海から帰っちょらんさー」
 その瞬間、鉛を飲み込んだような気持ちの悪さ。同時に自分に対する嫌悪感。これまでもずっと他人との距離の取り方には細心の注意を払ってきたつもりだった。近づき過ぎず離れ過ぎずに関わって時がくればおさらば。変に家庭の事や過去なんて聞いて厄介ごとに巻き込まれたら最後。ぼくらが去るまでその人は笑いかけてくれなくなるんだ。
 「母ちゃが看護師で働いちょるしさー。じいちゃも引退さしちょるけどさー、まぁだ魚は獲れちょるし食いっぱぐれる事はねーさ」
 勝手に自己嫌悪に陥っているぼくなんてまったく関心ないとばかりに、シンは先程と変わらない笑顔を向けてくる。それどころか傍らのリクまで笑いながら話に加わってきた。
 「うちもお父ちゃんが帰ってこらんさ。うちら二人とも片親みたいなもんさーな」
 とカミングアウトしてきた。それにしてもこの島は大人の蒸発率が高いのだろうか。恥じるでもなく堂々としている二人を見ていると、ぼくが考えていたよりも深刻な問題ではなかったのかもしれない。
 「そういやぁ、キアの母ちゃさだーした?」
 話の流れから遠からず聞かれるとは思っていた。だからぼくも慎重に言葉を選んで答えた。本当は無職の父親とあてもない放蕩旅を続けていて、実の母親なんて誰なのかまったくわからない。ほら吹きの父親が語る過去はどれが真実なのかも定かではない。
 「母さんはずっとむかしに離婚して、顔も知らないんだ。頼りない父親だから愛想を尽かして出て行ったんだと思うよ」
 だからだろうか。ぼくは人よりもきちんとしたものを望む傾向がある。国籍は勿論きちんと両親が揃っていて、教育を受けて社会の歯車になれる人材になる事をいつの頃からか漠然と夢見るようになっていた。だけど実際にはそんな夢を実現できる筈がない。憧れてしまう分、理想と現実の差に自分の限界をいつも思い知るんだ。
 「蔵屋敷くん」
 いつの間にかぼくらの元に近づいてきていた室伏先生が優しい声でぼくの名前を呼んだ。
 「あ、はい」
 呼び慣れない偽名に少し戸惑う。食べ終わっていた弁当を片づけ先生の元へ向かうと、やはりおっとりとした柔らかい笑顔を向けて話しかけてきてくれた。
 「あんなぁ、もしよかったら今からすこぉしでえぇさかい時間もろうてもえぇ?」
 振り向くとシンもリクも手を振って頷いてくれていた。二人の返事を見て答えると、ぼくらは人気のない校舎裏へ向かった。
そこは花壇がいくつも広がっていて、菜園もしているのかよく手入れされて緑が溢れていた。花に埋もれそうになって置かれているベンチに並んで腰を下すと、室伏先生は眼鏡の位置を直し照れたように笑った。
 「ホンマは、応接室がどこの学校もあるもんやねんけど。ここはちょい古い校舎やさかい、このベンチが応接室代わりなんえ」
 学校自体ほとんど通った事がないぼくは、ただそうなんですかぁ、と少しばかり感心した声で返答をするしかなかった。
 ちらりと見た花壇の隅には生徒たちの名前が書かれた札が刺さっていた。もしかしたら生徒たちがこうして家庭菜園や草花の手入れを行っているのかもしれない。とすると、それも授業の一環として行われているのだろうか。
 「休み時間に勘忍え? 初めての学校で疲れてはらへん? 勉強は午前の分を見る限りそぅ遅れてはらへんそうやけども」
 「あぁ…これでも一応空いた時間に父親が教えてくれるんで、最低限の計算と読み書きはできますよ。だけどそれ以外は全然できませんけど」
 シンに教えてもらった一週間の学習時間割り当て表を見ると「社会」だとか「理科」「美術」「家庭科」なんて今までほとんど触れ合う機会のなかった教科が沢山あって驚いた。それこそぼくが関わる事もないような余計な知識を得る為の時間と言うものに、どれだけ潤沢な時間が宛がわれているのだろう。
視界に映る花壇から伸びているハイビスカスみたいな花が風に揺られて気持ちよさそうに手を振っていた。植物を育てる事で光合成や食物連鎖についてでも学ばせるつもりなのだろうか。高水準の教育を誇る日本と言う国は、一体どういった大人に育てたいのか、純粋に興味を抱いた。
 「ねぇ、先生。あんなに沢山の教科を一週間もかけて習うみたいだけど、そんなに必要ですか? 美術とか確か音楽っていうのもありましたよね。でもそれって、普段の生活にそれ程必要ですか?」
 しばらく黙り込む先生を見て、ぼくはもしかしておかしな日本語を使ってしまっただろうかと焦った。だってそれくらい先生は眉間にすっごい皺を寄せて、仰々しいくらい真剣に考え込んでいたから。
 「…そうやねぇ。ホンマ、その通りやねぇ」
 ポツリと呟くように答えると先生は元の笑顔を浮かべぼくを見た。
 「確かに時間単位で区切って義務教育の九年間を使ってまで覚えなアカン事なんか、あたしでもたまに疑問に思うてまうわぁ」
 クスクスという笑い声につられぼくも自然と頬を緩める。何て言うか、この先生は笑うと花が開いたように相手の心を優しくほぐす力を持っているようだ。
 「せやけどな、知識だけを詰め込むんが勉強やないんえ。あたしら教師は、みんなに生き抜く力を培って欲しくて。一見して余計な事やと思いはるかもしれへんもんまで教えなあかんねん」
 「……生き抜くって…例えば、銛で魚を獲る方法とか水のない場所で水分を捕獲する方法とか…」
 例えを出しながらぼくは自己嫌悪を覚えていた。普通に幸せに暮している人にこんな余計な事知らなくたって困らないんだった。この国の連中が非日常と思うような日常を送っているぼくたち自身がとても異常なんだ。でも父さんはいつも言っていた。ぼくらに一番必要なのはどんな状況でも生き抜く力だと。
 「うん、うん。そやな。そういったサバイバル知識はホンマに重要やしなぁ」
 その態度から心の底から同意し相槌を打ってくれるのがわかり、ほんのりと頬が熱くなる。立派な教育を受けている筈の人にまさか肯定されるとは思っていなくて素直に嬉しいと感じた。
 「それとな、学校にくるんは勉強だけの為やあらしませんえ? もう蔵屋敷くんはわかってはるんやろうけど…生き抜く力ゆうんは、仲間を」
 「Getっちゅう事さー?」
 突然。それも室伏先生の耳元にベンチの後ろから身を乗り出してきた昨日のポリスマンが囁きかけたものだから、先生は全身を真っ赤に染め言葉にならない悲鳴を出しながら飛び上がった。
 「な、な、な、なりなり…」
 ガタガタ小刻みに震え突然現れたポリスマンを見詰めるも、どういう訳か呂律が回らず口もきけない状態になっていた。ぼくはというと、ペドの疑いがある奴の登場に今度は素直に嫌悪感をあらわにした。
 「うん、うん。成宮航ノ進さー。楓ちゃんさ、ちょっと驚き過ぎさのう」
 けらけら笑うポリスマン。慣れた口調からもしかしたらこの二人にとって、こういう掛け合いは日常なのかもしれない。
 「な、な、な、なんで」
 「なん? 校長先生さー用事さあってきただけさー」
 真っ赤な先生の顔に一瞬残念そうな色が混じる。さっきから先生の視線はポリスマンに釘付けで、完全にぼくの事なんて失念している風だった。
 「のぅ? 坊は島には慣れたさね」
 「えぇ…まぁ」
 ペドの気がありそうな変態ポリスマンの何に惹かれるのかわからないが、ぼくは曖昧に頷いて答えた。賢そうな鋭い瞳が細められぼくを見据える。まるでこっちの胸中などお見通しだとばかりの顔をするものだから、ぼくは少しばかり気まずく感じた。
 そんなぼくの頭を突然ぽんっと叩きそのまま髪の毛がくしゃくしゃになるまで撫でると
 「楓ちゃんは抜けちょるが、えぇ話もするさー? 座学ばっかりじゃ学べん事も多いさ、しっかり坊の仲間を捕まえて離さんようしちょれ」
 ペド野郎にお説教をされるのはあまり気分はよくなかったし、きっと普段のぼくなら完全に聞き流していただろう。だけど今は言葉の一つ一つが鼓膜を通して身体の奥まで浸透してくる。先生の言葉もポリスマンの言葉も、どれも正しくて多分。今のぼくに不足している大切な意味が込められていた。
 「……わかりました」
 ポリスマンとその隣で赤面し立ったまま気絶しているかのような状態の先生を見上げぼくはしっかりと頷いた。
 
 校庭には昼食を終えた児童たちがいくつもの輪を作ってボールや縄跳びをして遊んでいる。その光景を眺めながらシンたちは、律儀にキアを待ち続けた。室伏先生に連れて行かれたキアはどういう訳か走ってシンたちの元に戻ってきた。まるで一分一秒でも早く何かを伝えたくて、一生懸命走ってきたかのように。
 「二人に、聞いて欲しい事があるんだ」
 空になった弁当箱を片づけていたシンとリクはそれぞれに手を止め、真剣な表情のキアを見詰めた。
 「ぼくの父さんはどっかの大学の教授なんかじゃないんだ」
 確か昨日の説明では外国の大学教授で研究調査の為に船を出し、そのまま漂流して辿り着いたと聞いていた。キアは更に言葉を繋げて説明した。
 「本当は定職にも就かないでふらふらしている浮浪者で、ぼくは自分のルーツもわからないし国籍もないんだ。だからぼくらは不法滞在者で、いつもこんな風に色々な国を転々としてきたんだ。だから、その…正直警察とかに捕まる可能性もあってそうしたらみんなに迷惑もかけるし」
 徐々に言葉尻がすぼんでいくと共にキアの表情も暗く沈んでいった。
 正直言うとシンは勉強が苦手だった。リクも同じくらいの成績で順位も下から数えた方が早い。そんな二人の頭上には疑問符と共に『不法滞在者?』『浮浪者?』『捕まる?』『何ゃぁそらぁ、美味しいんさ?』という理解できない単語が浮かんでいた。
 「…そがぁー苦労しちょったんさぁ。精霊じゃのうてキアは神様に等しいんさーのぅ」
 「え?」
 予想の斜め上をいくリクの答えにキアは面食らった顔をした。それを見てシンも面倒な事を考えるのをやめ屈託ない笑顔を浮かべた。
 「要はリクは俺らと同じ年じゃのに苦労しちょるん言いたかったんやさー。そりゃあ、そがに奇天烈な生活しちょったらホンマの事も言いちょうないさー?」
 ケラケラと日に焼けた顔をくしゃくしゃにして笑う。リクも釣られて笑い出し最後にはキアも緊張の糸がほぐれて吹き出した。
 お腹を抱えて笑いながらシンは気づいた。今まで何となくキアは外国人だから、とかよそ者だからと無意識に引いていた線があった。でもこうして笑う姿は同じで何一つ変わりないのだと。そして先程から転校生のキアを仲間に誘いたくてチラチラとこちらを見ていたクラスメイトたちの姿に気づき、足下に転がってきたボールを持ち上げた。
 「俺ら、難しい事はわからんけぇ。取り敢えずドッジボールするさー」
 シンが投げたボールをしっかり胸の位置で受け取り、キアは島にきて初めて見るような笑顔で頷き返した。
 
 昼休みのドッジボールでだいぶ体力を消耗してしまったらしく、ぼくはあろうことか転入初日にも関わらず午後からの授業の途中を居眠りしてしまった。シンがうまく教科書を使ってぼくを隠してくれ、また前の席の女子の体格のお蔭もあって最後までばれなかったからいいけど。でもこんな風に人前で気が抜けてしまうなんてこれまでの短い人生の中でもほとんどなかったんだ。
帰り道ぼくは何度も学校での出来事を思い出しては口元を緩まないように必死に堪えた。それに授業やみんなでやったドッジボールも楽しかったけど、今は放課後の寄り道という学生ならではの特別な体験を味わっている最中だ。とは言ってもシンとリクに案内された先は島の中心に聳え立つ山の頂上。目測でも大した標高ではないし子どもの脚でも片道三十分もかからないようなちっぽけな山だ。むしろこれを山と言い張る方がどうかしているのかもしれない、と密かに毒づいていたりもしたけど。
 「のぅ、この山はむかーぁしからあるんさ。言わば島の守り神のようなもんじゃってじいちゃが言うちょったさー」
 「うちのお母ちゃんも、この山は特別じゃって言っちょったさ」
 何が特別なのかよくわからない。だって綺麗に整備された山道には電灯が点在していてご丁寧に自動販売機とゴミ箱がセットで設置されている。所々に標識が立てられ山頂までの距離と可愛らしい動物のイラストが添えられ、登山者たちに向かってエールを送っていた。神聖な守り神の宿る山というよりもちょっとした観光を兼ねたハイキングコースだ。途中で山道もいつの間にかコンクリートで補強された階段に変わっていた。
 「何か御利益でもあるの?」
 それでも一応の礼儀として尋ねてみるとシンもリクもハタッと動きを止め、焦った様子で顔を見合わせた。
 「む、むかしは観光客がきちょってお金を落とちょったー聞いたさー」
 「お、おう。俺も他に見るもんがないちゅーんで、ここまでわざわざ脚を運ぶ連中がおるんさー聞いちょったさ」
 「……つまり、貴重な島の観光地の一つだったんだね。まぁ、確かにこんな辺鄙な島にくる変態って父さんぐらいだもん。どうにかして商業を成り立たせる為にも何か一つは目玉となるものが欲しいよね」 
 「おぅ! キアはよーわかっちょるのぉ!」
 調子づいたシンがバンバンとぼくの背中を叩く。痛かったけど素直なリアクションについ口元が和んだ。
 「で、頂上には何があるの? それが秘密基地って訳?」
 「秘密基地じゃのーて聖域さー!」
 唇を尖らせてリクが反論したところでぼくらは階段を上りきっていた。軽く汗をかいた身体に潮風を含んだ風が優しく吹きつけて心地よい。振り返り辿ってきた道を確認すると、そこからは素晴らしい景色が一望できた。
 視界いっぱいに広がる海と空。そして所々に目立つ島の青々とした木々の色。白い波がいくつも港に寄せては消えていく。水色の絵の具をいっぱいに出して塗りたくったような、気持ちの良い空が心地よさそうに羊みたいな雲を抱いている。
潮気を含んだ風がぼくらの頬だの髪の毛だのを撫でつけ弄ぶ。つい昨日までは海上から眺めていたというのに、まるで別世界の絶景を前にしているような錯覚を覚えてしまった。
 確かにこれは観光地の一つとして推しても恥じない素晴らしく眺望のきく場所だった。こういう景色を日本語で何て言うんだったかな。
父さんが教えてくれた…えっと…
 「山紫水明…か」
 思わずぼくの口から零れた言葉にシンとリクは巨大な疑問符を浮かべて首を傾げた。
 「さん? しすい? ん?」
 「日本人ならそれくらいの日本語ぐらい知っていてよね。綺麗な景色って意味だよ。…まぁ、予想はしていたけど人気はまったくないね」
 腰に手を当てて周囲を見渡し一人ぼやく。日本僻地の絶景観光ツアーでもやらない限り、この島にくるメリットといものが何一つないのだから仕方あるまいが。
 「キア、こっちさー」
 シンに腕を引かれ広場の奥へ進む。普段から大して訪れる人もいないからか、あたりにはどこからか風に飛ばされてきたようなゴミが散乱していて雑草も大いに繁殖している。
チラッと見えたゴミ箱の中の週刊誌の日付は、恐ろしい事に今から十年も前のものだった。 
 「ここが聖なる時計台さー」
 リクの声に釣られ顔を上げるとそこには巨大な時計台が聳え立っていた。元々は白かったんだろうが所々の塗装が剥がれ、蔦が運びって妙な迫力がある。てっぺんに大きな文字盤とくすんだ鐘が見え。灯台としての機能も果たしていたであろう時計台は、きっと最盛期にはその大きく澄んだ音色で町に時を告げていたのだろう。
 「のぅ? 面白かろー?」
 「…面白いか面白くないかで言うなら、はっきり言って何も面白くないけど。壊れたただの時計台だろ?」
 満面の笑みで問いかけてくるシンに直球で返す。辺鄙で刺激のないど田舎とは言え、こんな壊れたものにどう快楽を見出せと言うのだ。崩壊寸前の校舎に時計台。この島の人々は壊れかけ、その責務を全うしようとする物をとことん崇める傾向にでもあるのか。
 「そうさー。壊れちょるけー俺らが直すんさー」
 時計台に触れ見上げるシンたちの顔は本気だった。だからぼくは舌先まで出かけていた余計な一言を飲み込んだ。
 「この時計は戦後になってから建てられたんさー。漁師たちが無事に帰ってこれるよう、灯台と島に時間を告げる為に造られたぁ、じいちゃが言うちょったさ」
 「五年前の嵐ん夜に、うちらのお父ちゃんさー漁に行って帰ってこんくなってから突然この時計台も壊れたんさ」
 針が止まったままの時計を見上げリクは続けた。
 「きっと、時計に宿る神さんが時計台を大切にしんから怒っちょるんさ。じゃし父ちゃんたちもまだ帰ってこれん。役所に聞いたけど灯台の機能は残っちょるしー時計の部位だけが壊れちょるんさ。資金が足りんけぇしばらくは直せん言うんさー」
 「あと二年しかないんさ」
 シンが時計台からぼくに視線を移すと悔しそうに顔を歪めた。
 「行方不明になってから七年経ったら、父ちゃたちは死んどるっちゅう扱いになるんさ。そがぁなる前に、時計台を直して帰ってきてもらわんと困るんさー」
 「うちも幽霊のお父ちゃんじゃ困るさー」
 まるでぼくが頼みの綱とでも言うような万感の思いを込めた二人の態度に、一体どうすればいいのかわからなくなった。そんな瞳で見詰められた所で、ぼくに何ができるって言うんだろう。
 「だ、だけど…資金って言っても、知っての通りぼくはあのアホの父さんが全財産をはたいてランドセル買っちゃったしどうしようもできないよ」
 手持ちの財産はゼロ。小学生三人集まった所で一体何ができるだろう。そもそも市の予算が足りないって言うのを、子どもたちが解決できる訳もないんだ。なんだってこんな風に否定的な意はいつでも浮かぶのに、こういう時にどうしたらいいのかまったくわからない。いつもそうなんだ。欲しい物は沢山あるけれど、同時にそれを諦める為の言い訳も大量に思いついてしまう。どうせ手に入る筈がないからと、期待して希望を抱いて傷つくのが怖くて。率先して予防線をどんどん張っていく癖がついてしまった。気がつけばぼくはいつも、自分の心を守る理由ばかりを探している。
 「キアの父ちゃはしばらくうちで住み込みで、漁の手伝いしちょればいいさー! 人手が足らんで困っちょるんさ。して、キアは俺らと一緒に資金活動して欲しいんさ!」
 「…資金活動?」
 具体的にイメージがつかず首を傾げると、リクが指を折りながらこれまで二人で行ってきた活動内容を列挙してくれた。 
 「肩叩き三十回で百円、一時間店番で二百円、ゴミ捨て一か月代行で三百円…」
 「……それでいくら貯まったの?」
 小学生ができる活動内容なんてその程度だろう、とは思っていたけれどあまりに地道過ぎて涙が出そうになった。けれどそんなぼくの胸中などまるで察しない様子のリクは、自慢げに腰に手を当てて指を三本立てた。
 「ざっと三万少しさ! 大金さー!」
 「………はぁ」
 我慢しようと思ったけれど大きな溜息が漏れた。二人の真剣な想いは伝わっているけれど、あまりに非効率で成し遂げようとしている目標の高さを見ると早くも疲労感さえ覚えてしまう。
 「まず二人だけで何とかしようと思うからそんな程度しか貯まらないんだよ。せっかく学校っていう暇を弄ばせた学生たちがいるんだから、あいつらにも仕事を振って大々的に活動したらいいじゃない」
 取りあえず思いつくままに提案していき、もっと話し合っていかなきゃいけないと思った。じゃなきゃ時計台を直すだけのお金なんて一生かかっても絶対に稼ぎきれないに決まっている。
 「そうだよ。クラスから毎月少額でもお金を徴収して、募金活動もして宣伝をしていくんだ。じゃないと周りはただお小遣い稼ぎに働いていると勘違いする。署名活動もして融資を募って、それを役所に提出するんだ」
 ラジオとかを使った広告活動もいいかもしれないと思ったところで、ふいにリクが心苦しそうにぼくの名前を呼んだ。
 「…他の子らには…頼めん…」
 「へ? 何で?」
 狭い島だから余計に島民の結束は固いと思っていただけに、リクの反論はかなり予想外だった。すると黙り込むリクの隣で項垂れるように俯いていたシンが呟いた。
 「…俺とリクの父ちゃじゃったんさ。船の指揮を執っとたんさ。あの日も他の父ちゃたちは漁に行くんは反対しちょったけど、それを押し切って船を出して…戻らんくて…」
 ぼくの脳裏にすぐに「贖罪」っていう割と難しい言葉が浮かんだ。ぼくはこういった単語をよく知っている。それは父さんが普段の会話の中で何気なく教えてくれるからだ。逆を言えばぼくの当たり前の日常は、父さんがいなくては始まらない。子どもみたいに自由で時に我儘な人だけど、たった一人の肉親で。そんな人がある日突然、それも友だちの親たちを道連れに行方不明になってしまったとしたら。
 その瞬間、胸の奥に大きな石が詰まったような気分になった。これ以上想像するのが怖くて、慌ててかぶりを振り二人を見詰めた。
 「…具体的にっ、もっと計画を練って話し合おうよ」
 ぼくには想像するのも辛くて、全然シンたちの気持ちなんてわかってあげられない。だけどどうにかして、この二人に笑って欲しいと。その願いだけは本当に本心からのものだ。
 「それに…そう。壊れたものを直すのは人間くらいだよ」
 だって父さんはいつもせっせと何かを直しては大切に使っているから。
 「だから…ぼくは、そういうのって悪くはないと思うんだ」
 そう言ったぼくを見て、シンとリクは顔をくしゃくしゃにして笑った。
 「そじゃな…。諦めたらいかんさな」
 「そじゃ、そじゃ。壊れたままにしちょったらもったいないさもん。精霊に怒られるさ」
 二人の笑顔が咲いた途端にさっきまで苦しかった心が今度は急に軽くなった。こんなのって現金過ぎるのかもしれないけど、相手の表情一つでぼくの心が大きく左右される。そんな友だちという存在が及ぼすその心理効果に、ぼくは素直に驚きそして嬉しくなった。
 「そう言えばキアの父ちゃ、破れた靴下さー履いちょってさー、俺の母ちゃが呆れちょったさ」
 「父さん曰く、使い込んだ分味が出るらしいんだけど…さすがに五本指がすべて見えるくらい破けているんだから捨てたらいいのにとは思っていたよ…」
 「なんよのぉ、キアのお父ちゃんさー物を大切にしよる人なんさねー」
 「まぁ、そう言う事にしておこう」
 単なる貧乏性故だとは思うけど、リクが上手い事まとめてくれたので敢えて乗っておいた。
 「………ぷっ」
けれど三人とも、足の指が五本すべて出てきている靴下を履く父さんを想像してしまい盛大に吹き出してしまった。
 声を上げて大爆笑するぼくたち。生まれて初めてぼくは、父さん以外の人にずっとこんな風に笑っていてくれたらいいのに―――と心から相手の幸福を願った。
 きっとこれが、友だちというやつなのだろう。思っていたよりもこれは…悪くないと思った。
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