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 美しい小鳥の囀り。風に揺れる葉擦れの音。肌に感じる暖かい朝日の温度。
 厚く巻いた包帯のせいで陽光は見られなかったが、それでも視覚以外の五感で十分に分かってしまう。
 また、朝が来た、来てしまった。
 清々しくて気持ちのいい朝のはずなのに、その現実を受け入れたくなくて、俺は深々とため息をつく。
 もう、ため息はここ最近の癖のようなものだ。
 様々な音や感覚で朝目を覚ます度に、主人に避けられていることを知りつつも会えやしないかと昼間屋敷をうろつく度に、夜寝る前に毎日薬を塗って包帯を取り替える度に、そうして一日が移ろっていくのを感じるほど、俺は主人との別れが迫って来ているのを感じてため息をつく。
 ここのところ何をするにも『最後』だの『お別れ』だのを感じて、ため息が止まらなくなってしまっている。もはや病気だ。
 つい数日前から、食事を別々に摂るようになった。一昨日には遠くに気配を感じても逃げられるようになったし、今日はとうとう屋敷の中に主人の気配すらも感じられなくなっている。
 これは子供でも分かることだ。
 俺は明らかに主人に避けられている。
 俺、そんな酷いことしたかなぁ?
 いや、こうしてその『酷いこと』が何なのか自覚できていないところがいけないんだろう。
 主人は優しい人だ。
 暫くひとつ屋根の下で一緒に過ごしていれば、痛いほどにそのことが分かる。
 そうでなければ無償で俺の目を治したりなんてしたりしないし、そもそも最初から面倒事は避けて俺に声をかけずに山中に捨て置いたことだろう。表面的に見れば主人の俺に対する扱いは素っ気ない物に思えるかもしれないし、口だって悪いが、言動の端々に決して悪人ではないのだという彼の人柄が伝わってくる。訳もなく俺を避けるなんて、そんなことをするような人で絶対にはない。
 きっと、十中八九、九分九厘、俺が悪いことをしてしまったのだと思う。
 だが、それがなんなのかが分からない。
 悪いことをしてしまったのなら、謝ってしまえば手っ取り早いのかもしれないが、相手がなんで怒っているのかもわからず自分が許してもらいたいからと適当に謝罪だけするのはあまりにも不誠実だ。
 かといって主人とこのまま気まずい別れ方をするのは、絶対に嫌である。
 だからってどうしていいのか分からなくなって、また俺は大きな大きなため息をつく。
 俺は主人と仲良くしたい。
 普通の友人になって友達付き合いするでもよし、対等な関係になれなくても恩返しするために偶にでも会えるならそれでもよし。だが、主人は俺とは金輪際仲良くどころか、交流すらしたくないらしい。俺に分かる限り、今1番の主人の望みはとっとと俺が屋敷を出ていって、一刻も早く永久に主人との関わりが無くなること。
 相反する俺と主人の望み。
 ああー、人生って本当にままならない。運命の女神様は本当に意地悪だ。あーあ、生きているのが嫌になる。
 ここまで主人と離れたくない、関係を切られたくない、と思うこの感情。自分でもそれが何なのか、薄々その正体に気が付き始めている。激鈍の俺が自分で気がつくなんて、相当なものだ。
 だが、こんな不毛な思い、気が付きたくなかった。
 今までのどこに主人に対してそんな思いを抱く要素があったのか謎だが、こういった感情は理屈ではないし、それだけ俺も人恋しく孤独な状態だったのだろう。まあ、そんな時に分かりにくいながらもこれだけ優しくされて好意を抱くなという方が無理な話なのかもしれん。主人は分かりにくくはあるがあれでなかなか魅力的な人だし。
 ため息をまた1つ。
 やはり大人しくこの屋敷を出て、治していただいた目を供に人生を仕切り直し、主人のことは綺麗さっぱり忘れよう。叶わぬ思いに身を焦がすなんて、性にあわない。心理的距離ならとうにできている。物理的距離もとればいつかはこの思いも風化するはずだ。
 なにより、主人がそれを望んでいる。もしかすると、主人は俺のこの邪な思いを敏感に感じとって、俺と距離を置き始めたのかもしれない。
 だとしたら完全脈なしじゃん、俺。
 ああ、ため息の数ばかりが増えていく。
 さらば、主人。
 さらば、俺の初恋。
 さらば、楽しかった日々よ。
 ここでの出来事は全て美しい思い出の1ページに昇華してしまおう。
 そうして俺が、客観的に自分の気持ちを整理して、区切りをつけようとしていた、その時。
 突如、耳をつんざかんばかりに地を揺るがす轟音と咆哮がして、俺は思わず手元の杖を固くにぎりしめた。
 衝撃で周囲の調度品がカタカタ、カチカチと音をたて、余韻で確かに地面が揺れるのを感じ取る。
 なんだ、これは!? 一体何が起きた!?
 轟音の聞こえてきた方向は……偶に主人が俺を連れて行っていてくれていた、薬草畑の方! 屋敷の中に主人の気配はない。こういう時は、十中八九あの薬草畑に居る筈だ。
 なんだ、音の方向からして、主人の身になにか起こったのか?
 なんにせよ、これはただ事ではない!
 いてもたってもいられず、杖を手に駆けつけようとするが、この屋敷に滞在している時間は長かったものの、その間一切直接この目で屋敷内を見なかったし、遠慮からあまり彷徨うろつくこともなかったので、なにも見えない体で1から外へと出る道を探らねばならず、歩みは遅々として進んでくれない。
 そうこうしている間にも、また先程のような咆哮が同じ方角から聞こえてきて、俺をさらに焦らせる。
 なおも急いで先に進もうとする俺は、僅かに遠くから流れてきた魔力で、最悪の事態を知った。
「この魔力……魔物か!」
 特徴的なこの魔力、間違いない。兵士時代何度か討伐に駆り出されたので、覚えがある。先程の咆哮は魔物がいきり立って発したのだろう。だとしたら非常にまずい。興奮した魔物は何をするかわからないからだ。未だどこにも姿を現さず、気配もなく、屋敷外にいることは確実な主人の存在も心配である。状況は全く把握できていないが、明らかに良くない何かが起っているのは確かだ。一刻も早く現場に駆けつけねば。
 くそっ、せっかく目が見えるようになったと思ったのに、こんな肝心な時に役に立たないなんて!  悔しさに歯噛みしながら、目を覆う包帯に触れる。主人には薬が感光すると失明に繋がる毒になるから、絶対に外すなと言われていた。
 今は陽の光が眩しい真昼。包帯を外せば薬が感光すること間違いなしだ。たっぷりガーゼに塗り込んで目に当てた薬は、魔法の力を使って直接患部に浸透させていることもあり、目に入らないように拭ったり取り除いたりすることは不可能だろう。
 今、この包帯を取り払えば、一時は視界を取り戻すことになるかもしれないが、その後俺は間違いなく失明する。もう2度と、光を見ることはできないかもしれない。俺はまた、1人あの真っ暗闇に取り残されてしまうのだ。
 しかし、迷いは一瞬だった。
 包帯に指をかけ、包帯に皮膚が擦れて痛むのも構わず素早く解いて取り除く。
 今更目が見えなくなったからといって、それがなんだというのだ。どうせ主人に見えるようにしていただいたものなのだから、主人のために役立てるのが筋というものであろう。元々光など2度と拝めないと言われていたのを、一時的にでも回復させて幸せな夢を見させてもらったのだから、それだけで十分じゃないか。
 最後に目を覆っていたガーゼを退け残った軟膏を拭うと、視界は鮮やかだった。
 明らかに最後に包帯に覆われて見えなくなった時よりも回復している。だいぶ遠くまで細かく見えるし、色彩感覚や遠近感も問題なし。視界になにか影がチラつくこともない。
 状況確認を手早く済ませ、手に持っていた杖を握り直し、廊下を素早く駆け抜ける。屋敷の廊下を右に曲がり、左に曲がり、途中で壁にかけてあった飾り物のよく手入れされた剣をとり、外へと飛び出した。
 咆哮と魔力の発生源と思わしき方向に、丁度薬草畑に続くものらしい小道をみつけたので、そこに走り込む。息を切らせて舗装もされていない、荒れた山道を駆けて行く。無我夢中でがむしゃらに足を動かし続けていると、突然目の前の木立が開け、視界が広がる。
 そこでまず目に飛び込んできたのは、魔物の巨体。角や目が複数あり、6本足で見上げる程もある熊のような体。その爪に赤黒く光る液体が付着しているのを見て、目を見開く。
 次いで目に入ったのは、その足元に転がる暗い青色のローブと、それに滲む血。
「ご主人!」
 全身にカッと血が駆け巡り、長い療養生活で弱ったはずの体に力が湧いた。
 足元に転がる『それ』に食らいつこうと、魔物が頭を下げた隙を見逃さず、素早く近づいて手に持っていた剣を真っ直ぐ赤い眼に突き刺す。
「ギャッ!」
 魔物が突然の痛みに思わず天を仰いだ瞬間に剣から手を離し、今度は杖で下から思いっきり顎を突いた。さすがに木の杖でどうこうできる相手ではないが、仰け反った所に下から杖が折れるほどの力が加わり、然しもの魔物の巨体もよろめき、バランスを崩す。魔物が尻餅をついて呻き声を上げている間に、急いで倒れた主人の体を担ぎあげ、引き摺るようにしながら必死になって来た道を引き返した。
 気が遠くなるほど長く感じた道をどうにかこうにか出せる限りの速さで進んで、転がり込むように屋敷に入り、扉を閉めて閂をかける。すぐさま目を閉じて魔物の魔力を探ってみるが、こちらに近づいてくる気配はない。大人しく森へと帰っていくようだ。
 一先ずホッと一息吐いた俺は、そこで自分の手を濡らす赤黒い液体の存在に気が付き、今度はサァッと血の気が引いた。
 そうだ、主人は!
 大柄な主人を担いで屋敷に逃げ込むのに夢中で、彼の怪我に対する気遣いなんてできなかった。あの魔物はかなり気性が荒い種類で、遭遇したらまず命はないと言われている。今回逃げ切れたのは本当に運が良かったからだ。出会い頭に腕の一薙ぎで頭を消し飛ばされるという話もよく聞く。そんな魔物と対峙して、先程から呻き声ひとつあげない主人は、一体どれほどの怪我をしてしまったのか。その事を考えただけで、全身に震えが走った。
「ご主人! 御無事ですか!?」
 先程俺が放り出した通りに近くの床に転がったままピクリとも動かないローブに包まれた塊に駆け寄り、状態を確認する。
 ああ、矢張り血が出ているじゃないか。床に血溜まりを作るほどではないが、少くない量の血の染みが、服やローブに滲んでいるし、魔物の鋭い爪でやられたのか背中側の服は裂け、ピンクの肉が見えている。なんと痛々しい。
「ご主人、ご主人!」
 怪我に響かないよう、そっと揺するが反応はない。
 おいおい、まさか死んでんじゃないだろうな。
 冗談にもならないぞクソッタレ!
 今のところは大丈夫だが、いつまた俺の目が見えなくなるかもわからない現状、なるだけ早く現状確認を済ませてしまいたい。手には手首まで覆う厚手の園芸用手袋をしていてそのままだと脈が取れそうになかったため、その手袋を外す手間も惜しんで大人しく頚動脈で脈をとろうと主人の頭の方に顔を向けた、その時。
「ご主人、脈を取るので体を……!」
 言葉が途中で途切れる。信じられないものを見て、俺は二の句が継げなくなった。
 別に、魔物にやられて主人の頭が消し飛んでたとか、そういうことじゃない。
 いや、頭はあるんだよ。
 目が2つ、鼻は1つ、口も1つで、耳だって2つ、全部ある。
 何も欠けてない。
 問題は、ってこと。
「んっ……ここは……。なんなんだ、一体。私は、確か魔物に襲われて……それで……」
 俺が呆然としていると、その間に主人が目を覚ました。
 どうやら脳震盪かなんかで気絶していただけだったらしい。
 それは良かったのだが、悲しいことに今はそれどころではないのだ。
 まだ頭がボーッとしている様子の主人は体の傷を痛がりながら体を起こし、未だ現状をよく理解できていなさそうな表情で俺の顔を見つめ、サーッと顔を青ざめさせたように
 何故断言できないのかって? 答えは簡単だ。
 それは主人の顔色は黒い毛皮におおわれて
 毛皮と言っても主人がそれで態々顔を隠しているわけじゃない。毛皮は主人の自前。
 全身の毛を逆立たせ、美しい琥珀色の目を見開き、真っ赤な口をあんぐりと開け、絶望的な表情でこちらを見つめる主人、その人は。
 透き通るようなアンバーの瞳と、豊かで夜闇のように真っ黒い素晴らしい毛並みを持つ、美しいオオカミの獣人だった。
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