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 俺の目に光が戻り、伸ばした手を振り払われたあの日以来、主人は変わってしまった。
 話しかけても返ってくるのは空返事ばかりだし、診察の時に触診で触れてくるのも最低限。前は夜になると2人で温かい飲み物を持って居間に集まり眠るまでの間話をしたり、主人が世話をしている外の薬草畑に連れていってもらって水やりの手伝いをしていたりしていたというのに、それも『忙しいから』とか、『今は別に必要ない』とか、断られるようになった。主人は昼間も2人で過ごす時間を嫌うように、暇さえあれば1人で屋敷の側にある薬草畑に出ずっぱりだ。
 主人の治療の甲斐あって俺の目はどんどんと回復していったが、それと反比例するかのように主人の態度は益々ぎこちなくなり、主人と俺が接する時間は減っていく。
 俺、何かやらかしてしまったんだろうか?
 そう思って主人の態度がおかしくなったあの日のことを思い返してみても、悲しいことに特に思い当たるフシがない。
 手を振り払われたのは態度がおかしくなってからだし、主人が手袋をしていることを指摘してからなんだか雲行きがおかしくなったような気もするが、だからといってそれがどうだというのだろう。別にその事を揶揄したわけでも、非難したわけでもない。いくら頭を捻ってみても、何故主人が手袋をしていることを指摘したことが今の居心地の悪い状態につながっているのかサッパリだ。
 無い頭を絞って考えてみても無駄だ、こうなったら主人に直接聞いてしまおう。そう思って主人に『最近少し様子が変わったように感じるのですが、どうかいたしましたか? 私の言動が何か気に触ったのなら謝ります』というようなこと言ってみても、主人からは『いいから、お前は治療に専念して大人しくしていろ』といったようなことを言われるばかり。あまりしつこく聞いて主人の機嫌を今以上に損ねるのも嫌なのでそれ以上深くは追求できなかった。
 日々良くなる目の状態も喜ばしいはずが、主人との仲がぎこちないまま容赦なく彼と別れるタイムリミットが迫ってきて、急かされているようで、素直に喜べない始末。これといった打開策も思いつかないまま、時間だけが無為に過ぎていくばかり。
 そうしてしばらくたった頃。俺の目はだいぶ回復してきていて、最近では光だけでなく、僅かに周りの色までもが感知できるまでになっていた。
 主人とのことが心配で俺の心には暗雲が立ち込めていたが、だからといってこのことが少しも嬉しくない訳ではない。
 日を追うごとに光と色を取り戻していく視界は、主人との別れを予期させることとは別に、確かに俺の気持ちを上向かせてくれていた。
 このところ毎日の魔法治療は、以前の薬物治療や手術よりも俺の体にあっていたらしく、今のところ深刻な副作用はみられない。辛いはずの治療は、むしろ少なくなった主人との貴重な触れ合いとして楽しみになっているほどだ。
 自分でもどうしてここまで必死になって主人との繋がりを失いたくないと思っているのかは分からない。今まで係わってきた人柄から察するに、主人は俺との関係が悪かろうが治療の手は抜かないだろうということは分かっていたし、治療が終わるまでこの屋敷を追い出されることはないだろうというのも確かだ。
 逆に仲良くなってからも食事が豪華になったり、部屋のグレードが上がったりと待遇が改善したこともなかった(今でも十分すぎるくらいだけれど)。
 きっと、元々人との親密さで態度を変えるようなことをしない、芯の通った人なのだろう。
 自分の処遇がどうでもいいのなら、尚更主人との仲に固執する理由はない。一体俺はどうしたいのだろう?
 いくら一生懸命話しかけてもおざなりな言葉しか返ってこない時、あからさまに俺に触れようとしないあの温かい手に気がついてしまった時、入室と同時に避けるように入れ替わりで部屋を出ていかれた時、ふと胸を過るもの。
 胸を締め付けられるような、苦しくなるようなこの感情。
 何故だろうか。その感情には、気がついてはいけないような気がした。
「もうだいぶ良くなってきたな。この分だとそう遠くないうちに全快するだろう」
「ありがとうございます。それもこれも全てご主人のお陰です」
 主人の献身的な治療の甲斐あってか、俺の目はもうだいぶ見えるようになってきていて、最近では普通に明るいところでものの色や形を判別するだけでなく、薄ぼんやりとだが暗闇の中でも行動ができるくらいの視界を確保できるまでになっている。なんと喜ばしいことか。だが、そんな大事なことが頭の隅で霞んでしまうほど、俺には主人のことばかりが気になってしまう。
 ああ、今日もあの手は必要最低限しか俺に触れてくれなかった。もう以前のようにさりげなく髪を撫でたり、労わるように指の腹で目元に触れてもらえることはないのだろうか。
「そうそう、今日からまた薬を使い始めるからな」
「えっ、薬って、またあの気持ちが悪くなるやつですか……?」
「安心しろ。目の周りの傷に塗るただの塗布薬だ。それで具合が悪くなることはまずないだろう。ただ、薬を染み込ませたガーゼを目に当てて上から包帯を巻くから、暫くの間また以前のような暗闇生活に逆戻りだ。不満だとは思うが、それもこれも良くなるためだ。我慢しろよ」
「不満だなんて、そんな。こうして多少なりとも視力が戻ってきただけでも以前と比べたら夢の様なことなんですから、ほんの少しの我慢なんて屁でもありませんよ」
 そう言って大人しく頭に包帯を巻かれ、取り戻したばかりの視界が塞がっていくのを受け入れる。再び世界が暗闇に包まれた時、不安は感じなかった。視界の塞がれた生活には慣れていたし、主人への信頼感もあったからだ。
 だからこそ、次いで主人が言った言葉にとても衝撃を受けた。
「……あー、言い難いことなんだが」
「はい?」
「目が治ったら、すぐにこの屋敷を出ていって欲しいんだ」
「っ!」
 なんという事だ。ついに、この時が来てしまったか。あまりのことに、思わず息が詰まる。
 俺は慌てて焦りに縺れる舌を叱咤し、なんとか言葉を紡ぎ出した。
「そうですね……思えば私はあなたにお世話になりっぱなしで、ご迷惑をかけてばかりなのに、なにもお返しできずにいました。元々ご主人は静かな生活をお望みだったのに、私は五月蝿く話してばかりでしたし、お嫌になってしまうのも無理ないことでしょうね」
「いや、別に、そういうことでは……」
「フフッ、気を使って頂かなくても結構ですよ。全て自分で思った事実なんですから」
 そうなんだよ。自分で言ってて悲しくなってくるが、今言ったのは何もかも本当のことなんだ。
 俺はある日突然現れた無駄飯食らいのイレギュラー、主人の静かで快適な生活の邪魔者でしかない。
 今でこそ学術的興味と1度治療を始めた責任感からかこの屋敷に置いてもらえているが、それもこの目の治療が済めば全部おしまいなのだ。
 そういえば、俺は主人の出自や詳しい生業、名前ですら知らない。改めて考えてみれば、思ったよりも主人と俺との繋がりは希薄で危ういものだった。
 もうこの際、今の患者と医者という関係に終わりが来てしまうのは仕方がない。そこは清く認めよう。
 だが、このまま主人との関わりを断ってしまうのは、あまりにも惜しい。
 今や俺はそれ程までに主人を慕っていたし、もっと深く主人と分かり合いたいとも思っていた。なにより、この目に光を取り戻してくれた、多大なる恩義にも報いたい。
 2人きりで過ごし言葉を交わす日々の中で、俺の自惚れでなければ主人の方も多少なりとも俺に好感を持つようになってくれているだろう、という思いもあった。
 だから、続けた言葉もある程度の勝算があって口にしたのだ。
「ご主人……目の治療が終わっても、また訪ねてきてもいいですか? 今度は、客人としてではなく、あなたの友人として」
 俺の顔に包帯を巻きつけていた手が、ピタリと止まる。
 俺はその手の上に自分の手を添えてしまいたくなるのを、ぐっと堪えた。
 自分の真剣な気持ちを少しでも分かってもらいたくて、ガーゼと包帯で隠れて見えないはずの目を真っ直ぐ主人がいるであろう場所に向ける。
 これは賭けだ。
 以前こそ主人からの好意を感じとっていたが、だからといって最近はめっきり2人の仲は冷え切っていたし、人嫌いだと言う彼が、偶の客人としてでも俺を歓迎してくれるかどうかは分からない。
 それでも、俺はこの勝負に賭けてみたかった。今のまま何もせず、おめおめと主人との関係が切れてしまうがままに任せるのは嫌だ。少しでも可能性があるのなら、そこに可能性を見いだしてみたかった。
 俺の問いかけに、主人は答えない。
 自然と俺も口を開くのははばかられ、研究室の中を外から漏れてくる葉擦れの音だけが支配する。
「……お前はただの研究対象だ。それ以上でも、以下でもない。研究の協力には感謝するが、治療が終わったらもう用はない。二度とここには来るな」
 暫くの沈黙の後、そう冷たく言い放たれた。
 同時に、止まっていた主人の手の動きも再開し、包帯の最後の一巻きと固定を手早く施して離れていく。僅かに頬を掠めた医療用手袋越しの体温が、今はとても虚しい。
 思えばいつもそうだった。主人と触れ合うのはいつもこの手袋越しだ。主人に直接触れさせてもらえたことは、偶発的に髪の毛に触れてしまったあの時を除いてしまえば、1度もない。
「お前の目の治療は順調だ。このままいけば、あと10日もしないうちに殆ど以前と同じように見えるようになるだろう。今のうちに荷物を纏めていつでも出ていけるように準備しておけ」
 ガチャガチャと診察器具を片付ける音がする。どうやら今日の診察はもう終わりらしい。自分で仕掛けた賭けに負け、この屋敷を出ていき主人と別れるまでのタイムリミットを切られ、呆然とする俺に、主人は更に無慈悲な一言を付け加える。
「お前にこの軟膏を渡しておく。明日からはこの部屋には来ずに、自分でこれを患部に塗れ。その軟膏には私の魔法を込めてあるから、それだけで治療は十分なはずだ」
「えっ、ちょっと待ってください! それじゃあ、もうご主人は私を診てくださらないのですか!?」
「もう私が手を施す段階は終わった。あとは魔法で促進されたお前の体の治癒力に期待するしかない。魔法を送り込むだけならさっき言った軟膏で事足りる。私の細かい調節が必要な重要な時期は過ぎたんだ。それに、私もこれからの季節、薬草の収穫や世話、屋敷の管理に毎日の生活を維持する為に忙しくなる。今までセーブしていた仕事や他の研究も再開したい。いつまでもお前にばかりかかずらっている訳にもいかないんだ」
 そんな、それじゃあ唯一の心の拠り所だった診察という触れ合いもなくなるのか。
 ただでさえ最近は邪険にされ始めているようで、診察だけが主人との確かな触れ合いだったのに、それすら無くなるとは!
 これはどうしたことか。なんとか以前のような良好な関係を取り戻そうという俺の意に反して、主人との距離はどんどんと遠ざかっていくばかりだ。視界だけでなく、心まで暗闇に取り残された気分になってくる。
「さてと、今日の診察は終わったし、伝えるべきことも伝えた。さっき言った軟膏はこれだ。目が見えないからって、なくしたり落としたりしたら承知しないからな。さあ、さっさと与えた部屋にもどれ」
 そうして主人は愕然とする俺を気にした風もなく、押し付けるようにして俺の手に大きく重たい軟膏の瓶を握らせ、早く診察室から出て行けと言わんばかりに肩を押す。
「ああ、そうだ。くれぐれも目の包帯は外すなよ。その軟膏は光に弱いんだ。ちょっとの光ですぐさま感光してしまう。新しく薬を塗布して包帯をつけかえる時は、よくよく用心してなるだけ光の射さない暗闇の中でしろ。そうだな、夜中にカーテンを引いてからするのがいい。分かったな。いいか、ちゃんと私の言うことを守れよ。本当にちょっとの光でもだめだからな。感光すると、その薬は毒に変わる。目に入ったら失明間違いなしだ。せっかく見えるようになった目がまた潰れても、今度は治してやらないからな」
「ちょ、ごしゅ、じ……」
 口にした言葉を最後まで言い終えるのを待たずに、にべもなく部屋の外に押し出され、背後で素っ気なくバタンと扉が閉じられる。
 おまけに中からガチャンと鍵をかけられる音までした。重たく響いたそれが、まるで俺を全力で拒絶しているかのようで、底なしに惨めな気持ちにさせてくる。
 ……どうやら俺ってば、とことん主人に嫌われちまったみたいだな。
 あー、なんだか涙が出そうだ。
 俺は1人寂しく廊下に立ち、ガックリと項垂れた。
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