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「感情が、見える?」
 エドアルドが言っていることが上手く飲み込めなくて、俺は先程とは反対側に首を傾げる。だってそうだ。普通、感情は目に見えるものではない。感情とはそれを思う本人の頭の中で完結して、態度や表情に出さない限り他人には推し量れないし、目で見えるのは基本的に実体があるものだ。そして感情は実体を持っていない。実験に関すること以外は基本的に疎い俺でも知っている、普遍の摂理且つこの世の理である。多方面に発達した現代魔法をもってしても、人の感情など分からないというのが世の常識だ。
 それなのに『感情が見える』とは。一体どういう事なのか。事象の原理について考える。
「おや、ルクレツィオ君、私の言葉を疑ったりはしないんだね。君は堅実の代名詞とも言うべき研究者の1人だから、こういった現代魔術では説明のつかない突飛なことは信じないかと思ったのに」
「馬鹿なことを。その突飛なことを研究し、解明するのが研究者の真髄というものだ。いくら発展した現代魔術でも決して万能ではない。解明されていないことはこの世に山程あるんだ。それなのに、自分の理解の及ばない何もかもを否定する輩は、三流どころか研究者を名乗ることも許されないと俺は思うね」
 その人にとって理解できないことに価値がないのなら、俺のしている研究なんて世の中の大抵の人間にとって理解の及ばない価値のないものということになるだろう。多数決で負けて真っ先にゴミ箱にポイである。
 ただ、現実は違う。どんなものにも1人でもいいから探究し、研究したいと思う者がいるのなら、その何かは一気に意味を持つ。ただ1人だけでもその何かを求め続ける限り、少なくともその人にとってその何かは、何よりの意味と価値が生まれると俺は思うのだ。
「でも、私が君の気を引きたくて嘘をついたとは思わないのかい?」
「はぁ? どうしてあんたが俺の気を引こうとなんてするんだ? 理由がないだろう」
「ああ、まずそこからか」
 1人納得顔をするエドアルド。こいつ、こういうところあるよな。俺と話している時に1人で勝手になにか納得していること。俺がどうしたと聞いても『きっと君には分からないし、興味がないと思うよ』とはぐらかされる。しつこく聞いてみたりもするが、大抵誤魔化されている最中に俺の興味が他のことに移ってその話題は終了するのだ。普段は研究なんかに夢中になっていて忘れているからいいのだが、思い出すと一気にモヤモヤしてくる。
 今も『何を隠している』と問いただそうと思ったのだが、先程から『感情が見える』という情報の方が気になって集中できない。そちらに意識を持っていかれる。そして俺の頭の中に天秤が現れ、2つの話題をそこに乗せた結果、天秤はあっさり『感情が見える』の方に傾いた。
「……で? その『感情が見える』ってなんなんだ? 詳しく説明しろ」
「あは、やっぱりそっちの方が興味を唆られたか。実に君らしいねぇ。いやなに、感情が見えるなんて言っても、何も特別なことはない、言葉の通りだ。詳しく説明すると、私は人の感情を色として視覚情報とてなって認識できるんだよ。こう、その人の体を取り巻く、もやみたいにね」
 そう言って目の前の俺の体の輪郭を大きくなぞるように空中で手を動かすエドアルド。奴の目に見えているその靄とやらのサイズを表しているのだろう。その手の示す靄の大きさは、人の体より一回り程大きいくらいか。
「まあ、勿体ぶっておいてなんだけど、今言った以上のことは何もないよ。怒ったり悲しんだり、その人の感情がそれぞれに対応した色となって視認できる。絵の具と同じで感情が純粋であればある程澄み切った美しい色が、様々な感情が混じれば濁った汚い色が見える。言ってしまえばそれだけだ」
「いくら俺が世間に疎いとはいえ、聞いたことの無い現象だ。原理は分かっているのか?」
「いや、まったく。どうも先例はあるらしいが、それもうん百年も前の古い文献や言い伝えにチラホラある程度だ。『精霊の加護を受けたから』だとか『先天的に魔力感知に長けていて、それを視覚情報として認識しているから』だとか言われているけれど、詳しいことはさっぱり。大々的に調査する人間もいないし、殆ど素人の憶測程度のことしか情報はないんだよ」
「調査する人間がいない? どうして? そんな面白そうなテーマ、研究したい人間は腐る程いるだろうに」
 俺は今、転送魔法の研究にかかりきりだから食指が動かないが、とても興味深い研究テーマだと思う。普通は見えないものが見える仕組みを暴くなんて、考えるだけでワクワクする。きっと有意義で楽しい研究になるに違いない。
「今のは言葉が正確じゃなかったね。『調査する人間がいない』と言うより『調査させてもらえる人間がいない』んだ。さっきも言ったろう? 『国家機密』だって。私のこの目には価値がある。正確に人の心を読み解く必要のある政治の場では、特にね。相手に悟られず心の有り様を知れるだけで、政治的交渉も、人心掌握も、思いのまま。態度や表情なんて曖昧で不確かないくらでも偽れるものじゃない、直接心を覗き見できるなんて、私の目は正に夢のようなさ。ただし、いい道具というものは誰しもが欲しがるもの。それがこの世に1つしかない程強力なものならば、特にね。身の安全の確保の為にも、狡い覗き見がバレて非難されない為にも、私のこの目の事は秘密にしなくてはならないのさ」
 ふむ、成程。人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、秘密というのはそれを共有する人間が増えれば増えるだけ、その分流出するリスクが高くなる。それくらいなら俺にも分かることだ。兄さんも家業で人を使う時は、秘密の扱いには十分気をつけていると言っていたからな。
 俺みたいな世間のはみだし者ならまだしも、普通研究というものは1人ではなく、大勢のチームでやるものだ。それだけでなくどこかの施設を使って研究するだろうし、そうすればそこに出入りする人間にも秘密を知られるリスクが上がる。エドアルドの目の研究チームを作れば、たちどころに秘密は秘密ではなくなるだろう。
「そうか……。大体は理解した。それにしても惜しいな。とても知的好奇心が唆られるテーマなのに、誰も研究できないなんて」
「相変わらずルクレツィオ君は研究のことしか頭にないね。皆君みたいだったら良かったのに。そうしたら私もこの目のことを隠さずにすむんだけれどね。人間っていうのは欲深い生き物だ。他人を蹴落としたり優位に立ったりする為に、誰も持っていない特別なものを欲しがる。それこそ、私の目みたいなものをね。国に保護されるまでの私の人生は散々だった。私の目の力を手に入れようとした権力者達から追われて一所に止まれなかったし、悪魔に魅入られた恐ろしい力を持つ子供だと言われて命を狙われ、両親は私を庇って死んでしまった。国に保護されてやっと落ち着けると思っても、他人から私に向けられる感情のあの醜さといったら! 私を自分の手駒にしようとしてできなかった時の怒りの赤、理解できないものに対する恐怖の黒、特別な力を持った私への嫉妬の紫、人が私に向ける感情は様々で、そのどれもが疎ましい」
 そう言ってエドアルドは、物憂げに頬杖をつく。そして奴にしか見えないその『感情の色』を探るかのように、俺の体を視線でなぞった。下から上に見ていって、最後に俺の目を見て視線を合わせ、少し笑う。その理由がやっぱり俺には分からなかった。
「私は時々この目の秘密に耐えられなくなりそうになる時がある。この目の秘密の為に、多くの人間が傷つき、死んでいった。見たくないものばかり見えて、何もかも信じられなくなる。いっそこの秘密がなくなればいいのにと思い、両目を潰そうかと思うこともしばしばだ。勿論、そんな事しないけれどね。今や私の目はこの国の政治の一部として組み込まれ、万民の命運を握るものとなった。その重責を今更放棄することは許されない」
 エドアルドが僅かに目を細め、遠くを見るような仕草をする。そうして直ぐに視線を落とし、口を手で覆った。そのせいでエドアルドの表情はもう見えない。だから、その言葉を口にした時、奴がどんな顔をしているのか俺には分からなかった。
「……けれど、最近はそんな思いにも迷いが生じるようになってきていた。私がこの目で守らなければならない人間達の心さえも、私の目は見透かしてしまう。そしてその心はあまりにも醜い。『こんな奴等の為に、私はこの孤独や苦しみに耐え続けなければならないのか』。何度も何度もそんな虚しく暗い気持ちにさせられた」
 そう言ったエドアルドの声の響きは、鈍い俺にも分かる程苦しげで、とても弱々しい。口を覆った手も、少し震えているように見える。こういった時、普通なら慰めの言葉を吐くべきなのだろうか? 人間関係を疎かにしてき過ぎたせいで分からない。どうしたものか。
 自分は『人として』どうすべきなのか。それを考えて頭を働かせているうちにも、エドアルドの手の震えは大きくなり、全身に伝播していく。今やエドアルドは深く俯き、全身を小刻みに振るえさせていた。泣いているのか? まずいなぁ。よくわからんがエドアルドを泣かせたなんて兄さんに知れたら、心配でまた卒倒させてしまうかもしれない。どうにかしなくては。
 取り敢えず水でも持ってこようか? 興奮した時は水を飲むと落ち着くと聞いたことがあるような……ないような。駄目だ。研究に関すること以外は知識があやふや過ぎる。そうだ、何が欲しいかエドアルドに直接聞けばいい。それが一番手っ取り早いし確実だ。意を決して、エドアルドに声をかける。
「エドアルド」
「……クッ」
 声をかけると、エドアルドがなにか堪えるような苦しげな声を出した。え、まさかもう手遅れ? おいおい勘弁してくれ。人の慰め方なんて知らないし、泣き出されたらもうお手上げだ。慌ててエドアルドの前にしゃがみこんで顔を覗き込んだ俺は、次の瞬間呆気にとられることになる。
「……クッ、……フフッ、フフフッ、アッハッハッハッ!」
 なんと、エドアルドは俯けていた顔を上げ、グッと仰け反り腹を抱えて大きな声で笑い出したではないか! 可笑しくて可笑しくて堪らないらしく、椅子から転げ落ちそうな勢いで大きく体を揺らしヒーヒーと咽ぶほど笑っている。まさか、苦しげだったのも、俯いていたのも、体が震えていたのも、全部笑いを堪える為だったのか? 俺はエドアルドの行動を少ない人生経験では理解しきれず、笑い転げるエドアルドを馬鹿みたいに口を開けてボーッと眺めている。
「アーッハッハッハッ、ハー。あー、笑った笑った。こんなに笑ったのはあのパーティー以来久しぶりで、お腹が痛いよ」
「……」
「おや、ルクレツィオ君。驚かせてしまったみたいだね、固まってしまっているし、色に出てる。すまないね、ただ、あんまりにも嬉しかったもんだから」
 う、嬉しい? 何が? どうして? 話をする際には主語をきちんとつけろと怒られたことないのか、こいつ。俺はしょっちゅう兄さんに怒られているぞ。
 『何1つ理解できていません』というのが顔にも出ていたんだろう。未だ固まったままの俺を前に、笑いすぎて出た涙を拭いながら、エドアルドが口を開く。
「ルクレツィオ君、君ってば本当に私に……と言うよりは、自分の研究以外に興味が無いんだね。何度もしつこく言った通り、私には人の心が色として見える。私に対して感情を向けられた時なんか、特にね。こういうお涙頂戴の話なんかした後は、誰しもが少なからず哀れみや悲しみの色を見せるって言うのに、君ときたら! 見事なまでの無色透明、どこまでも澄んでいて美しい。辛うじて心配の白は見受けられても、それは私ではなく周囲の研究道具にばかりに向けられてる。つまりは『エドアルドのことはどうでもいいけど、何かあって研究に影響を及ぼされるのは嫌だなぁ』としか考えていないということだ。本当に面白い人間だね、君は。人としては大事なところが欠けているのかもしれないけれど、私にとっては寧ろそれが好ましくて仕方がない。どんなものだろうと人から感情を向けられるのはもうウンザリだし、君みたいな他人に害意を持たずひたすら自分の夢だけを我武者羅に追いかける純粋な人間を見ると、人の為に尽くす今の仕事ももう少し頑張ってみようかな、と思える。ああ、ルクレツィオ君。君はどうかいつまでもそのままでいておくれ。そんな風に無垢な君が私は大好きなんだ」
 そう言って呆然とする俺の顔を両手で掬い上げるエドアルド。俺に向けられた顔は気色満面、とても上機嫌だ。その様子を見て俺は『ああ、これで兄さんに心配をかけずに済む』とか『研究に影響は無さそうだ』と安心した。なんだか馬鹿にされたような気がしないでもないが、研究に支障がなければそれでいい。
「……って、もうこんな時間じゃないか! なんという事だ、時間を無駄に消費してしまった! 早く研究の続きに取り掛からなければ!」
「おや、ルクレツィオ君。もう私の話に興味はなくなってしまったのかい?」
「少なくとも今俺がかかりきりになっている理論の構築のヒントにはならなかった。いつか思い出して役に立つ日が来るかもしれないが、その時はその時。取り敢えず今は、俺は研究についてまた別の道を模索する。この話はここで終わりだ」
「アハッ、潔いいねぇ」
 顔に添えられたエドアルドの手を振り払い、立ち上がる。クルッと振り返り、研究机に駆け寄ってまたアイディア出しの続きを始めた。ペンを取り紙を広げ公式を書き始め、そこから先はあっという間。直ぐにあの美しい公式の飛び交うこの世の真理を垣間見る楽しい旅へとトリップだ。
 結局俺はその後、翌日になって『お願いだから、もういい加減休んでくれ』と、兄さんに泣きつかれるまで現実世界に戻らなかった。当然既にそこにはエドアルドの姿はない。自分の仕事をしに帰ったのだ。我ながら貴人に対してなかなかに酷い扱いだと思う。いつか物理的に首を切られてもおかしくない。
 けれど、エドアルドは先に言った通り俺のそんなすげない態度がいたくお気に入りらしく、それからも足繁く俺の元に通ってきた。俺の予想とは裏腹に、どんどんとエドアルドの存在が俺の日々の中で当たり前になっていく。軈て俺にとってエドアルドが傍に居ることが日常の風景の一部になるまで、そう時間はかからなかった。
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