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 あれから、何をどうやって大公夫人と別れたのか覚えていない。気がついた時には僕は既に自宅の玄関にボーッと立っていた。大公夫人と話していたのは午前中なのに、室内は暗く窓からは月光が差し込んでいる。いつの間にか時間が経ってもう夜なのだ。自分はどれ程こうしていたのだろうか。大きく溜息をつき、服装を緩めつつ歩き出す。
 最初はただ、結婚する事で他人と結び付きを得て、幼い頃から抱えている孤独を紛らわせたいだけだった。その考えが顕著に現れたのが最初の婚約相手だ。家族に愛されなかったという同じ傷を抱える者同士、馴れ合うようにして成り立っていたあの関係は、今にして思えば親愛の情はあってもそれは決して愛情とは言い難いものだったと思う。それでも、何もなければ僕達はあのまま馴れ合って結婚して、子供を授かり、実情について深く考える事もなく自分は幸せだと思って老いて死んで行ったに違いない。
 しかし。僕の男性不妊が判明して彼女が離れていき、それまで以上に孤独を深めた僕の前にダグラスが現れた事で、全てが変わった。無意識の内だろうが孤独を癒せれば相手は誰でも良くて世の中みんなそんなもんだろうと思っていた僕と、他の誰でもなく僕でなきゃ駄目なんだと真摯に想いを伝えてきたダグラス。そんなあいつを前にしたら僕の中で同じような気持ちが育つのなんて直ぐで、あっという間に僕はダグラスに恋をしていた。
 僕が結婚相手に求めたのが家族になって一緒に居てくれるだけでよかったように、元婚約者は結婚して子供をもうけてくれる相手ならそれでよく、上司の紹介してくれた女達性は僕の肩書きが、ミーハーな人達は僕のお金や名声が目当てで、祖父母は相手の家からぶんどったトロフィーとしての僕が欲しかった。とどのつまり、僕自身を見ている人は一人も居なかったと思う。でも、ダグラスは違う。僕の優しさが好きだと言って、僕に擦り寄る女性を形振り構わず蹴散らす程執着してくれて、能力的にまだ子供が授かれなかったくらい前から僕だけでいいからと欲してくれていた。ダグラスは、僕が僕でありさえすれば、どんな付加価値も要らないと言ってくれたのだ。
 ……でも、ダグラスのそんな深い愛情でさえ、シンシア王女との間に燃え上がったの前に儚く消えてしまった。こんなにも愛してるのに、あんなにも愛してくれたのに……。もう、ダグラスの思いはこちらに向いていない。あんなにも熱烈に求めてくれた相手ですら心変わりをするのなら、愛って結局なんなんだろう? 結婚したって離婚する夫婦が居るように、結局は僕も誰かと結婚しても孤独に人生を終えるのではないだろうか? ……なんにせよ、もうダグラス以上に誰かを好きになれる気がしない。今更そんな事自覚しても、遅いっていうのに。ダグラスの愛はもう別の人のものだ。
 しかし、ダグラスと交際前提の友達付き合いをして、たった一つだけ得られたものがある。あれ程確かに思えたダグラスの気持ちですらこんなにも簡単に霧散するのなら、結婚しようが子供をもうけようが愛情なんて得られずに結局僕の孤独は埋まらないまま、孤独感に苛まれ続けるのだろうという事実だ。どうせ、これから先誰にどれだけ誠実な言葉を貰っても僕はそれを心から信じられない。愛を誓われたって、必ず疑ってしまう。それならいっそ、一生一人で生きようじゃないか。
 幸い手に職あるし、実績や肩書きだってそこそこだ。きっと一人でも生きていけるだろう。あ、でも、流石にダグラスの幸せな結婚生活を近くで見続けるのは辛いから、この国は出ようかな。僕の経歴なら、どこの国でだって歓迎してもらえるだろう。大丈夫。僕の物覚えのいいこの頭脳でも、十年、二十年経てば、この恋の事は忘れてくれる筈だ。……忘れられてると、いいんだけど……。
 頭を振って、煩雑になった思考を追い払う。着ていたコートをハンガーにかけ、小さめのダイニングテーブルに指先を乗せた。もう夕食の時間だ。今日は何を食べよう。何も食べる気がしないから、いっそ食事は抜いてしまおうか? ボンヤリそこまで考えて、ふと視界の端に写ったものに目を向ける。それは今朝出勤前に取り出しておいたダグラスの心変わりを僕に知らせてくれる、誰かさんからの封筒だった。
 結局、これは誰がどんな意図で僕に宛てたものだったんだろう。まあ、これのお陰である程度覚悟ができていて大公夫人の話から受ける衝撃が和らいだのだけれど、それでもイマイチ感謝する気にはなれないな。そもそも、ダグラスが他の相手と結婚を考えている事は封筒からの情報では確定的には分からなくて、完全に寝耳に水でこうして酷いショックを受けてしまってるわけだし、あまり役には立っていないのかもしれない。まあ、どうせ以前僕の体の事を勝手に広めたのと同じような、親切心溢れる誰かさんの優しい心遣いなんだろう。何の気なしに封筒を取り上げ、手持ち無沙汰にその縁を指先でソッとなぞる。その時。

 コンコン

 玄関扉のノック音に顔をそちらへ向けた。こんな時間に誰だろう。郵便だろうか? いや、でもこんな時間に来るのはおかしいかな? まあいい。今は兎に角何事でも考えるのが面倒だ。サッサと出てこの目で直接確かめるに限る。そう思って、僕は玄関に足を向け、そのまま玄関扉を開いたのだが……。
「あ、トーリ君。久しぶり」
「……」
 これはちょっと、予想していなかったかな。きっとゲンナリした表情を隠しきれていないだろうが、今ばかりは許して欲しい。だって本当に心の底からゲンナリしてるんだから。扉を開けた先、どこかホッとしたような笑顔でそこに立っていたのは、ここの所とんとご無沙汰だった筈のダグラスその人だった。
「……何の用だ?」
「いや、えっと。急に来てごめんね? ちょっと久しぶりに君の顔を見ときたくて」
 白々しい。こちらを伺うようなその笑顔を見ただけで、他に用があるのがバレバレだ。てっきり本命と上手くいって結婚もできそうだから、二番手で友達止まりの僕にはもう用もないし下手にトラブらないよう会おうとしないと思っていたのに、なんだというのだろう。ここに来たという事は、直接僕に会わなきゃいけない用があるという事だ。どうして? ダグラスにとって僕は、交際申し込みを断ってしまった事で今一番会いたくない気まずい相手の筈なのに。
「顔ならもう見たよな。これで十分だろ? 悪いけど、夕飯がまだなんだ。用が済んだなら帰ってくれ」
「うーん、実は少し話したい事もあるんだよね。このまま外で立ち話もなんだし、中に入れてくれないかな?」
 はぁ? 話? お前は僕の話聞こうともしなかったのに、いいご身分です事。一瞬突っぱねて扉を閉めようかとも思ったが、ダグラスは口元に柔和な笑みを浮かべながらもやけに真剣な目をしている。断っても食い下がってきそうだ。今は変に押し問答するのも面倒で、パッと適当に話だけ聞いて追い出すか、と無言で中に招き入れた。まったく、手間かけさせやがって。
「直ぐ帰るだろ? 茶は期待するなよな」
「うん、大丈夫。お気遣いありがとう」
「……それで、話ってなんだ?」
「あー、……その。身内から聞いた話なんだけどね。トーリ君、今日うちの母親に会った?」
 おや。どうやらダグラスは一方的に母親に見張られている訳ではないらしい。ダグラスの方もしっかりとアンテナを張って母親の行動を監視しているようだ。家族ですら見張っていなきゃいけないなんて、貴人というのは気が抜けないな。それに、この言い草だと大公夫人はダグラスの回し者ではなかったようだ。さて。何にせよ、招待は内密にと言われていたが、もうこれは僕が大公夫人と会っていた事は事実としてダグラスにバレている。変に隠し立てしても悪足掻きにしかならないだろう。ここは素直に認めるか。
「ああ、会ったよ。お前のお母さん、明るくて面白い人だな。それが何か?」
「えっと……母上から何か余計な事、聞いてないかと思って……」
「余計な事?」
 さて。ここで言うところの『余計な事』とは? ダグラスなりに僕にちゃんと恋人にはなれませんって伝えようと思ってて、それを大公夫人からフライングで聞かされてないか危惧してんの? うーん。でも、そんなの伝えるまでもなく僕の交際申し込みを遮った時点で分かる事だしな。改めて他人の口からハッキリと断定される形でフラれて、怒った僕が『ダグラスに弄ばれた!』って世間に暴露するとでも思った? 僕はそんな事する性格じゃないし、第一『友達から交際に発展してくれなかった!』ってリークしてどうすんの。恋人未満であくまでも友人なのに、二股は成立しない。法的にも倫理的にもなんの問題もないじゃん。
 そんな事の為に中に入ったのかよ。それなら玄関先で『例の件、やっぱ無理だから』っていう程度で済ませろよな。これでも僕だってそれなりにダメージ受けてるんだ。マゾでもないのにダグラスと顔を合わせてああ、やっぱり好きだ、なんて再確認して傷を深めたくない。
「余計な事も何も、世間話しかしてないけど。なんか気になるの?」
「うーん……」
 ここまで来てまだ言い淀むか。どんだけ言い難いことなんだよ。外では話しにくくて、更には二人切りの空間でも言い辛く、僕達の関係に関する事。なんだろうか。しかも、よく考えたらフェードアウトせずにまた会いに来たって事は、こいつもしかして僕達の関係を切りたくないのか? この期に及んで? なんて奴だ。そりゃあ友達としてダグラスとは気があったけど、だからって普通交際申し込もうとしてきた奴と、自分はもう直ぐ結婚するってのに関係継続しようと思うか? 絶対新妻には知らせられない関係じゃん。……あ、若しかして。
 と、そこまで考えて僕はある事を思いつく。一つだけ、辻褄の合う理由が浮かんできた。外では話せなくて、言い辛くて、僕達の関係に関する事で、更には僕との関係を切らしたくないと思っている理由。というか、これしか思いつかない。あくまでも仮定だけど……。それは『ダグラスが今後愛人として僕と付き合っていきたいと思っている』という理由だ。信じたくないが、これなら全ての謎が解けてしまう。
 確かに僕達、結構いい感じだった。二人で居る時居心地がいいし、それを失うのは惜しい。更に言えば僕とは恋仲になっても男同士で現行法では結婚ができない。それなら、結婚相手とは別にキープしとく相手くらいでもかなりの高待遇と言っていい。……でも、だからって、愛人なんて。親にもちゃんと愛された事のない僕には、そんな日陰者のポジションが最適って事? 何それ、笑える。勿論、悪い意味で。
「話はそれで終わりか? さっきも言ったけど、夕食がまだなんだ。準備もしてないし、用がないならもう帰って欲しいんだけど」
「いや、何と言うか、あー……」
 ここに来てダグラスが僕に愛人契約を持ちかけようとしているのではないかと思うと、無性にイライラする。確かに僕は愛して欲しいと言ったけど、そんな形で愛してもらいたかったんじゃない。そんな愛情、貰うくらいなら野良犬の餌にしてやる。ダグラスは何か言うでもなくしかし帰ろうとするでもなく、立ったままいつまでもモダモダとしていた。その煮え切らない態度に苛立ちがピークに達した僕は、思わずその言葉を口にしてしまう。
「お前も忙しいんだろ? こんな所で油打ってる場合かよ。早く帰って未来の嫁さんの相手でもしてやれよ」
「……は?」
 ダグラスが弾かれたように俯きがちだった顔を上げ、まん丸に見開いた目で僕を見る。何だよ、バレてないとでも思ってたの? それとも、僕の口からアッサリ言われて驚いただけ? まあ、今更なんでもいいけど。
「待って。未来の嫁さんって、何? 嫁さんって言ったし、今の言い草からして君の事ではないよね?」
「当たり前だろ。僕とお前は男同士だ。心情的にも結婚しないし、この国の法律的にも結婚できない」
「いや、まだ結婚できないのはそうだけど……しないって……。いやいや、今はそれどころじゃなかった。やっぱり母上から余計な事を聞いたね? あの人から何を聞かされたか、全部話してくれる?」
「はぁ? 嫌だよ、何でだよ。いいから帰れって。今はお前と話してる場合じゃないんだってば」
「何を言ってるんだ、今私と君が話す以上に大事な事はないから。私達の将来に関わる事だもの」
「何それ。言うに事欠いて『私達の将来』だぁ? ンなもんねぇよ。欠片もねぇ。いいからほら、帰れよ」
 いつまで経っても出ていく気配のないダグラスに痺れを切らした僕は、その逞しい背中に手を伸ばし、何とかちからずくで部屋から押し出そうとする。しかし、体を鍛えているダグラスに研究職の僕が敵う筈もなく、渾身の力で押しても奴はビクともしない。それどころか、反対に奴の体を押している僕の手を取って引き寄せてくる始末。本当に、ムカつく。
「待って。これはあれだね? この間私が君の話を遮ったのが悪かったんだね? あそこから色々拗れて、そこに母上の突っ走った情報が合わさって、とんでもない事になっていると見た。取り敢えず、落ち着いて話し合おうよ」
「お前さぁ……。僕がなんにも知らないと思ってんのかもしれないけど、違うから。親切な誰かさんが教えてくれてんの。お前の本命は僕じゃなくて別に居るって。上手く隠して後戻りできないタイミングで愛人にでもクラスチェンジさせようとしてたのかもしれないけど、そういうのマジで無理。受け入れらんない。僕を愛人にするのは諦めろ」
「はぁ!? 愛人!? 君を!? 私の大本命はトーリ君なんですけど!? 本当に母上から何聞いたの!?」
「うっせぇな……。まだしらばっくれる気かよ……。なら、これを見てみろや!」
 とうとう我慢の限界に達した僕は、ダグラスの手を振り払って先程手に持っていた封筒を先ずダグラスに投付ける。カード投げの要領でやったので、そこそこ勢いづいたそれはトスッと軽い音を立ててダグラスの逞しい胸板に当たり床に落ちた。ダグラスがそれを拾って中を確かめている間に、僕は本棚の前まで行って蔵書を逆さに振り、そこに挟んで保管しておいた今までに届いた封筒を取り出して取って返し、驚いているダグラスに纏めて投げつける。
「これでもまだシラを切り通すつもりか!? あ!? さぞお上手な言い訳をおきかせ願えるんでしょうねぇ!?」
「これ……」
 ダグラスは手早く封筒の中身を一通ずつ確かめた。その表情は呆然としたものからだんだんと険しいものに変わっていく。最後の一通を見終わった時、ダグラスの表情はすっかり厳しいものに変わっていた。
「……トーリ君。これ、どうやって手に入れたの」
「親切な誰かさんが僕の家のポストに投函してくれたんだよ」
「消印もないし、直接投函したな。この家を知ってるって事か……。取り敢えず、場所を移動しよう。向こうに住所がバレてるのはまずい」
「嫌だ! 誰がお前なんかについて行くか! 行くなら一人で」
「トーリ君」
 いつになく真剣な響きのダグラスの声に、僕はハッと息を飲む。僕の肩を掴み腰を屈めて目線を合わせ僕の目を覗き込んでくるダグラスの瞳は、とても深刻な表情をしていた。それを見ていると、腹の中でのたうっていた怒りがスッと大人しくなり、どうしてだかダグラスの事を信じたいという思いが頭を擡げてくる。僕が大人しくなったのを見たダグラスは、黙って僕の手を引いて家を出た。僕は黙ってそれについて行くしかない。ただ、繋いだ手はいつかと同じように暖かく、それだけが僕にとって今信じられる真実だった。
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