俺の神様になってくれ

我利我利亡者

文字の大きさ
上 下
1 / 2

前編 受け視点

しおりを挟む
 神様なんて居ない。祝詞しゅくしを紡げば五月蝿いと殴られ、祈りは合わせた手とロザリオごと踏み潰された。あれ程乞い願ったのに、俺に救いを差し伸べる神様の手が顕現した事はこれまで一度としてない。だから俺はあなたに祈る。こんな惨めな俺を救ってくれた、たった一人のあなたに。あなたは正しく、俺の神様だった。





 幼い頃の俺に名前はなく、自分というものが確立されたのはかなり大きくなってからだ。教会本部の薄暗い地下牢に居た小汚く痩せこけた俺の足から、あの人が鉄枷を外した瞬間に人生が始まり、ヒースという名前を与えた瞬間に魂が吹き込まれた。
 悪魔の子、罰当たり、悪魔付き。呼ばれ方は沢山あったが、要は俺は要らない子供だったのだ。貴族の母の腹から生まれながらも、父にも母にも似ない色の目と髪の赤ん坊だったせいで、不義の子と思われたのである。怒り狂った父は母と共に俺を悪魔と不貞した女と、その女に悪魔が産ませた子供として教会に捨てた。母は産まれたばかりの俺の隣で、人生を悲観して自死したらしい。腹を痛めて産んだ我が子の行く末よりも、貴族の女としての誇りを優先させたのだ。それから俺は名前すら付けられぬまま、悪魔の子供として教会関係者に贖罪の為のという言い訳の元虐待を受けながら育った。
 この世に産まれた罪を償え、お前が殺した母に詫びろ、生きているという事はまだ神は貴様を許されておられないのだ。鞭を振り上げながらが譫言みたいにそう繰り返す。痩せて骨の浮いた体を抱え、ズル剥けで血の滲む肌を摩り、涙を流してそれでも俺は祈り続けた。神様、お願いです。天の高みにあなたが本当に御座すのなら、どうか俺を許してください、この地獄を終わらせてください、早く殺してください。毎日毎日そればかり祈り続けた。
 転機が訪れたのは突然だ。いつもと変わらず虐げられ続けていたある日、いつも通りに食事を抜かれ、いつも通り空きっ腹の内臓の痛みと鞭や拳等で傷つけられた体で床に横たわり、霞む思考で俺は救いを待っていた。すると、遠くで地下牢に続く地上の扉を開き、長い階段を降りてくる足音がするではないか。不思議な事にその足音は、いつも聞いている俺や他のの世話を任されているの重たく愚鈍なものではない。軽快に階段を降りる足音は集団のもので、規則的な金属音が混じっていて、カツカツと硬質なブーツの音を立てていた。
 やがてその足音の集団は地下牢が連なっている通路まで来ると、三々五々バラけてドヤドヤと動き回り始める。閉じていた瞼をなんとか開けると、眩しい灯りが遠くに見えた。判然としない意識でボーッと見続けるうちにその明かりの内の一つが近づいてきて、俺の入れられている房の前まで来る。暗闇に慣れた目にはそれが眩しくて顔を顰め瞼を下ろすと、少し間を置いて灯りが弱くなる。目を閉じている間にガチャガチャと鍵を弄る音と、鉄扉が軋みながら開く音がした。恐る恐るもう一度目を開けると、薄明かりの下に甲冑姿の少年とも青年ともつかない年齢の男の姿がしゃがみこんでいて、優しくこちらを見下ろしている。そして俺に手を差し出し、静かな声音でこう言うのだ。
「もう大丈夫だよ」
 それが、俺の救いの始まりだった。
 地下牢から俺を救い出してくれた彼は、スタンリーという名前らしい。スタンリーに毛布にくるまれ牢から連れ出され託された先で、手当を受けている最中に聞いた。スタンリー、と小さく呟き、口の中で転がす。時折俺のように虐待されて傷ついた人を連れて帰ってくる度、スタンリーは俺の様子も見てくれた。起きていて平気か? 休んでいいんだぞ。痛いところがあったら直ぐに言うんだよ。彼に一言話しかけられる度、俺は夢見心地で頷くのだった。
 スタンリーは若輩ながらも地下牢に……引いては教会に踏み込んできた鎧姿の集団のリーダー格らしい。彼等は自らの事を『革命軍』と呼んでいた。旧態依然としていて利権を貪り悪習ばかりを強制する教会を、打ち倒す為に立ち上がったんだとか。どうも教会は寄付金と言う名目で金をせびったり、神の与えた試練だと宣って信徒を虐待したり、他にも神の権威を笠に着て色々やりたい放題だったらしい。それを見るに見兼ねて立ち上がったのが、スタンリー達だ。彼等は先ず総本山である俺の閉じ込められていた教会本部を襲撃し、地方の支部に波及させる形で次々に革命を起こして奪われた財産や囚われていた人々を解放していった。
 俺をあの地獄から救い出し、それだけに満足せず大勢の人々を助け出したスタンリーは、紛うことなき神様だ。どれだけ信じて祈っても、教会の壁に鎮座する石像の神は救ってなどくれなかった。俺を救い出したのは血の通った生身の肉体を持った、スタンリーだけ。ならば俺は彼に祈ろう。スタンリーこそが俺の神様だ。
 スタンリー達が教会相手に戦う為に地方を回るのに、俺もついて行った。教会に理不尽に虐げられていた人々が助け出されてから自らも武器をとって仲間に加わるのは珍しくなかったが、俺のように長く虐待を受けていた人間にできる事は少ない。体の傷が癒えておらず、他人を助けるよりも先に自分の方が助けを必要としている状態だったからだ。それでもスタンリーは彼について行きたいという俺を邪険に扱う事なく、助かるよ有難うと言って保護施設から連れ出してくれ、包帯の処理や武器の手入れ、薬草の準備など負担の少ない仕事まで与えてくれた。そうして少しでも彼の役に立てるという事実が、どれ程俺を有頂天にさせた事か。例え猫の手程にも役に立たなくても、スタンリーはいつも働き者だと俺を褒めてくれた。
 スタンリーと共に不正を働いている教会を打ち倒していく内に、気がついたことがある。スタンリーが教会を糾弾する一番の目的だ。スタンリーを観察しているとその隣には、彼と同じ歳頃の美しい女性がしょっちゅう現れた。二人はいつも親密そうに話し合い、笑顔を零し、見つめあっている。なんでも彼女は聖なる魔力をその身に宿した聖女なのだという。スタンリーと同じ僻地にある田舎の村出身の平民で、身分を理由に教会からは聖女を騙る魔女だと言われて命を狙われているのだとか。そう、なんという事はない。スタンリーは虐げられた人々の為ではなく、幼馴染の少女を救う為に武器を取り、教会に立ち向かったのだ。
 傍から見て、スタンリーは明らかに聖女に恋心を抱いていた。結局俺の神様は、愛する女の為に権力に立ち向かった、ただの青年に過ぎないのだ。それでもよかった。理由がどうであれ、俺がスタンリーに救われた事に変わりはない。誰もが相手は強大だからとか必要悪だからとか、そんな言い訳ばかりして立ち向かわなかった脅威と、彼は堂々と戦う道を選んだ。それだけで十分俺はスタンリーを誇りに思うし、彼を信奉する気持ちは揺るがない。それに、スタンリーは聖女以外の人間には興味がないのか彼女さえ関わらなければ公明正大で気のいい青年で、周囲も全て承知の上で彼を慕っていた。
 スタンリー達革命軍の教会を相手にした戦いは数年に及んだ。その過程で教会からの政治への口出しに辟易していた王家も革命軍の仲間に加わったり、王家から派遣されてきた王太子がその気さくな性格からスタンリーと聖女と親しくなって仲良し三人組になったり、革命軍がどんどん大所帯になっていったり、色々あった。いつの間にか俺の体の傷も癒え、食事をシッカリ摂れるようになって体も成長し、僅かな後遺症と小柄な体以外はもう以前の名残など微塵もない。スタンリーに憧れるあまり喋り方を真似るようになって、俺の言動が以前と比べ少しがらっぱちになったのもこの頃からだ。
 スタンリーは聖女と王太子と特別仲が良く、三人はいつも一緒に居た。正しく三人だけの世界。他人が割り込む余地もない。三人とお近付きになろうと纏わりつく人間は後を絶たなかったが、誰も四人目のメンバーにはなれなかった。
 それでも彼等への干渉を止めない人間が一人だけ居る。俺だ。より正確に言うと、スタンリー……俺の神様に、俺はずっと纏わりついていた。と言っても話に割り込んだりする訳ではなく、俺がするのはただスタンリーの側に居て彼をジッと見詰めたり、小間使いのように用事を言い付かったりするだけ。それ以上は何も望まない。俺は盲信する神様の役に少しでもたちたかったのだ。そんな俺をひっつき虫だの片思いだの揶揄う奴等も大勢居たが、全く気にならない。スタンリーさえ俺を拒絶せずにいてくれれば、それだけで十分だったから。スタンリーはコマネズミみたいに彼の周りで忙しく働く俺に文句を言うでもなく、好きにするといいと放っておいてくれた。きっとあまり興味がなかったんだろう。
 そして、神様が俺を地下牢から連れ出してくれてから数年後。今日は記念すべき日だ。数週間前、とうとう悪事を働いていた教会側の人間を残党も含めて一掃できた。その偉業を称え、スタンリー達革命軍が国を救った英雄として王国から叙勲されるのだ。とうとう俺達の頑張りが報われ、多くの人に認められたのである。いつもは仲良し三人組の関わる事以外は特に興味がなさそうなスタンリーも、こればかりは少し嬉しそうにしていた。
 そして、大きく変わろうとしている事がもう一つ。スタンリーと聖女の間柄だ。傍から見ても二人はかなりいい雰囲気で、スタンリーは愛する聖女の為に沢山努力して多くの功績を上げてきた。名実共に英雄となる今日、スタンリーは聖女に告白するつもりだ。様子を見ていればそれくらい簡単に察せられる。平民出身とはいえ聖なる魔力を使いこなす聖女と、平民階級のただの革命軍のリーダーでは釣り合わないが、叙勲を受けた英雄なら話は別だ。聖女と国の英雄、このビッグカップルの誕生に国民からもきっと祝福が止まないだろう。……そう、思っていたのに。
「今ここに教会の悪を暴き国を救った英雄王太子ローレンスと、彼を支え偉業を成し遂げる手助けをした聖女タビサの、結婚を宣言する!」
 国王からの高らかな宣言。鳴り止まない万雷の拍手。巻き起こる祝福の歓声。辺りは歓喜に満ち満ちている。周囲の注目が仲睦まじく寄り添う王太子と聖女の二人に集まる中、そんな二人を呆然と立ち竦み眺める事しかできないスタンリーを、俺は彼の斜め後ろから呆気に取られて見ていた。
「王太子殿下、おめでとうございます!」
「聖女様ー! お幸せにー!」
 人々が口々に二人を言祝ぐ。そんな彼等に王太子と聖女は幸せ一杯の笑顔で手を振り返しながら、ゆっくりとスタンリーの元へと歩いてきた。ショックで指先一本動かす事すらできずにいるスタンリーは、それを見ている事しかできない。やがて彼の前に立った二人は残酷なまでに幸福そうな笑顔のまま、こんな事を言うのだ。
「スタンリー、これまで色々と有難う。君には深く感謝するよ」
「スタンリー、ごめんなさい。でも、のあなたなら、勿論祝福してくれるわよね?」
 好き勝手な事を言い終わった二人はそれぞれ相手に視線を向けて見つめ合い、キスをした。国の英雄である王太子と、美しく慈愛に溢れた聖女。地鳴りのような歓声が上がる。その瞬間スタンリーが自分のズボンのポケットを上から掴み、何かが潰れる音がした。俺は知っている。そこには授賞式が終わったらスタンリーが聖女に渡そうと思っていた、指輪の入った小箱がある事を。以前聖女が好きだと言っていた、サファイアの飾られた美しい指輪。スタンリーは一生懸命になって選んでいた。サファイアの宝石言葉は『慈愛』『成功』そして『誠実』。なんという皮肉か。気がつくと俺は、スタンリーの手を取って走り出し、その場を逃げ出していた。しかし、俺達が居なくなっても何も変わらない。背後では相変わらず王太子と聖女にお祝いの言葉が止む事なく掛けられ続けていた。
 スタンリーが教会を糾弾したのは、あくまでも聖女の為だ。その他の事……腐敗し切った旧体制を討ち倒したのも、俺のような虐げられていた人々を助けたのも、全部そのおまけ。全ては平民階級出身の聖女をよく思わない勢力を滅ぼす過程の寄り道だ。それでも、スタンリーが俺達の救世主である事に変わりはない。
 それなのに、中にはスタンリーの人助けは彼の私利私欲の元行われた行為がたまたまいいように働いただけだと言う者が居る。そして彼等は決まってこう続けるのだ。『それと比べて王太子殿下とその御相手である聖女様のなんと無私無欲な事か。彼等はスタンリーと違って、真に我等の事を思って教会に立ち向かってくれた。彼等こそ英雄に相応しい』と。
 全く馬鹿馬鹿しい。王太子は自らが将来治める国を乱す相手を排除する為、聖女は自分から聖女という特権を奪おうとする相手を排除する為、それぞれ自分の利益を見据えて行動していたじゃないか。それに、奴等はスタンリーから功績を取り上げ自分の手柄にして、まるで自分達の結婚に正当性があるみたいに振舞っている。実際は平民出身の聖女を娶る事で国民の支持を得たい王太子と、名実共に国で一番高貴な女性になりたい聖女の、お互いの利害が一致しただけなのに。あいつ等はスタンリーの事を利用するだけしておいて、不要になったら邪魔なゴミみたいに捨てた。あんな奴等のどこが無私無欲の英雄だ。我欲塗れで清廉潔白とは程遠い。
「おはようスタンリー。昨日はよく眠れたか?」
「……」
「朝ごはんできてるぜ。瑞々しいサラダに、バターたっぷりのトースト、トロトロのスクランブルエッグ、厚切りのハム、デザートにはあなたの好きな林檎もある。今日こそは少しだけでもいいから、食べてみないか?」
「……」
「なあ、スタ」
「五月蝿い!」
 スタンリーの喉が裂けんばかりの大声に、ビリビリと鼓膜が揺れる。彼は俺を怒鳴りつけた後また毛布を被ってふて寝してしまった。きっとこれ以上話しかけたら拳が飛んでくるだろう。昨日彼に殴られてまだ痛む肩を無意識に擦りながら、俺はスタンリーの寝室を出た。戻ってきたリビングには彼の為だけに用意した、できたての朝食の山がある。置いておいても仕方がないので、それ等を処理する為に俺は黙って席に着いた。
 王太子と聖女の結婚が発表されてから、スタンリーは引き籠もり切りの毎日だ。彼はすっかりおかしくなってしまった。日がな一日ボーッとしたり、かと思えば泣き叫んだり、暴れ回ったり。悲しい事に、もう正気とは思えない。かつて皆から慕われ、平等に愛情を返していた穏やかな彼は、もうどこにもいなかった。無理もない。親友の王太子と、愛した相手の聖女二人に酷いやり方で裏切られたんだから。
 事情を知ってる昔の仲間達も『気持ちは分かるがもう諦めろ』だの『お前は選ばれなかったんだから仕方がない』だの勝手な事を慰めだと嘯いて口にしやがる。後の半分は比較的憤ってくれていたが、それも世間の祝福ムードと平和になった国の内情、周囲に当たり散らすスタンリーの有様に流されるようにして勢いをなくしていった。一人、二人と櫛の歯が欠けるようにしてスタンリーの周りから人が消えていき、それと反比例するようにしてスタンリーの陰口を叩く者が増えていく。今やすっかりスタンリーは過去の栄光をなくし、皆の鼻つまみ者。いつしか彼に話しかけるのは、献身的に支え傍を離れない俺だけになった。
「スタンリー、お願いだから昼飯は食べてくれ。もう何日も水しか口にしてないじゃないか。このままじゃ体が持たないぞ」
 部屋の入口から顔を覗かせ話しかけるが、返事はない。今は虚脱状態らしい彼は、こちらに背を向けベッドに横たわり壁を眺めてジッとしている。このままだと遠からずスタンリーは栄養失調で体を壊すか酷ければ餓死してしまう。本人はそれがお望みなのかもしれないが、俺はそんなのとてもじゃないが受け入れられない。これが自分の醜いエゴだと理解しているが、それでも俺はスタンリーに生きていて欲しい。どんなに落ちぶれても、彼は変わらず俺の神様なのだから。
 しかたない。何か今のスタンリーでも食べたくなるような、美味しいものを調達してこよう。俺は出かける準備をして二人の家を後にする。みすぼらし過ぎて英雄のスタンリーには全く相応しくない家だ。だが、彼の栄誉は粗方あの二人に取り上げられてしまったし、口止めがわりに与えられた大きく立派な屋敷はあの二人の影が纏わりついて離れないせいか、スタンリーは酷く嫌がりとうとう火をつけてしまったのだ。幸いそれは小火で済んだが、そんな場所に住み続けられよう筈もない。今住んでいるのは俺が少ない有り金をはたいて買った、住む人の少ない荒れた地区にある小さな家だ。ここなら多少暴れても誰にも迷惑をかけないし、スタンリーを五月蝿がって嫌な目で見てくる近所の人間も居ない。ただ、買い出しに行くのに少し歩くのだけが難点だった。
「スタンリー、少し買い物に行ってくる。何か欲しいものはあるか?」
「……」
「今直ぐは無理でも、思い付いたら教えてくれ。何だって買ってくるから」
 返事はなく返ってくるのが酷い暴力だけでも、俺はスタンリーに話しかけ続ける。暴力なら幼いころに散々受けて今更何をされても平気なくらい慣れていたし、スタンリーが失ってしまった平穏を、俺が普通に話しかける事で少しでも維持してやりたかったのだ。もっとも、スタンリーはそんな俺を心底煩わしく思っているようだったが。結局これも俺の自己満足だ。
 その日は市場でとても大ぶりで甘そうな無花果を三個も手に入れられた。その分値段が高く家を買った事でほぼ有り金を使い果たし、スタンリーの面倒を見ながら続けている内職の稼ぎしかない俺には手痛い出費だったが、構わない。また仕事を増やせばいいし、それで足りなければ俺の食事を抜けばいいだけだ。飲まず食わずには慣れているしこれでスタンリーが元気になってくれるなら、俺はいくらだって頑張れる。
「スタンリー、ただいま! 見てくれ、この大きな無花果。あんまりにも美味しそうだから、三個も買っちまった。夕食にはまだ早いが、今直ぐ食べるか?」
 返事はない。いつもの事だ。悲しい気持ちになりながらも動じる事なく、買ってきたものを仕舞い始める。と、そこで俺はえも言われぬ違和感を覚えた。何だ? 確かな言語化はできないが、何かがおかしい。違和感に駆り立てられるがまま、狭いリビングを見渡す。その目が戸棚に止まった。
 戸棚が開いている。鍵をかけておいたのに。あそこの中には料理に使うナイフを始めとした凶器になりそうなものを隠しておいてあった。スタンリーがよからぬ事を思いついてしまった場合のを考え、厳重に管理しておいたのだ。昼食を作るのにナイフを使った後、確かに閉めておいた筈なのに、何故開いている? 戸棚は鍵は力ずくで開けられたのか、金具がひしゃげてしまっていた。スタンリー、まさか……! 俺は買い物袋を放り出し、慌ててスタンリーの部屋に駆け込んだ。
「スタンリー!」
 スタンリーの部屋の扉を開けると、その先には恐ろしい光景があった。窓から差し込む明るい日光。逆光になった暗い人影。スタンリーだ。その姿を見た俺は息を飲む。ベッドに腰かけたスタンリーが、手に持ったナイフで今正に自らの頸動脈を撫切りにしようとしていたのである。考える間もなく、俺はスタンリーのナイフを持った手に飛びかかった。
「スタンリー! そんなの駄目だ! ナイフを離せ!」
「っ、五月蝿い、放っておけよ! ヒース、俺に構うな!」
「放って置けるわけないだろ! ナイフを離せって!」
「もう死にたいんだ! 生きていたくない! こんな惨めな人生、早く終わらせた方がいいんだ!」
 ナイフを取り合ってスタンリーと俺は揉み合う。弱り切った今のスタンリーと俺では力が互角だ。しかし、俺は昔の虐待の影響で手の握力が僅かに弱い。必死になってスタンリーのナイフを持つ手に組み付いたが、ふとした瞬間にその手が緩んでしまった。
「離せよ! 離せ、っ!」
 スタンリーの手が大きく動き、その手に握られたナイフが大きく動く。切っ先が俺の顔に食込み、勢いよくスパッと切れて傷跡を残す。目尻から額の真ん中、生え際辺りまでがカッと熱くなり、気がついた時には視界の半分が赤く染っていた。
「ヒ、ヒース……。違っ、そんなつもりじゃ……」
 傷口から溢れ出す血に目を奪われ、動きを止めるスタンリー。俺はその隙を見逃さなかった。青褪めたスタンリーに飛びかかり、血塗れのナイフを取り上げ部屋の隅に放り投げる。そして呆然とするスタンリーを力強く抱き締めた。
「スタンリー。ああ、スタンリー……。よかった。間に合った。無事だよな? 痛い所は? どこも怪我してないか?」
「ヒース、そんな事より、お前、血が」
「俺の事なんでどうだっていいんだよ。こんなの顔が少し切れただけだ。そのうち治る」
「でも、ヒース」
「スタンリー、ごめん。ごめんな。あなたに生きる理由を与えられなくてごめん。死にたいと思わせてごめん。あなたは俺を救ってくれたのに、俺はあなたを救えてない。でも、もう少しだけでいいんだ。もう少しだけ、生きてみてくれないか? あなたが生きたいと思えるように、俺も頑張るからさ。それでも駄目ならその時は、俺が責任を持って一番苦痛の少ない方法であなたの人生を終わらせる。だからお願いだ。生きてくれよ、スタンリー」
「……どうして、そこまで俺を……」
「あなたは俺を救ってくれた。言ってしまえば理由なんてそれだけだ。でも、俺にはそれだけで十分だった。暗い地下からあなたが出してくれたあの瞬間、俺には分かったんだ。ああ、この人は神様なんだ。この命を救ってもらったからには、神様に全てを捧げる事が俺の生きる道なんだ、って」
 力なく俺の傷を見つめるスタンリーに、俺は優しく微笑みかける。いつの日か彼が俺にそうしてくれたように。ボタボタと傷口から溢れる血がスタンリーの不健康な青白い肌を汚す。頬を伝う熱いぬめりが、涙なのか血なのか分からない。俺はただ、スタンリーの頭を胸に抱き締めた。そうするとスタンリーの弱々しく浅い息遣いが近くに聴こえる。俺達はそうして暫く、二人で寄り添いあっていた。あの時の俺にできたのは、それだけだったから。
 そして俺が怪我をして以来、スタンリーは変わった。話しかけるとたまに返事が返ってくるし、そうでなくとも必ず頷いたり瞬きをしたりと、反応はしてくれる。食事を一緒に摂ってくれるようにもなった。量は少ないが、俺の作った料理をしっかり食べてくれるのだ。相変わらず恐慌状態に陥って暴れる事はあったし、虚脱状態になって力なく横たわる事もなくならなかったが、それでもその回数や時間はだんだんと減っていった。仮にそんな状態になっても俺が根気よく世話を焼いて話しかければ、次第に落ち着いて安らいだ表情を見せてくれる。数ヶ月もする頃には、未だ気力に乏しいながらもスタンリーの状態は大分回復していた。
「ヒース、今日の晩飯何にする?」
「うーん、久しぶりに魚なんでどうだろう? そろそろニジマスが遡上してくる頃だし、市場に出てるかも」
「ああ、それはいい。でもどうせなら自分達で釣ってみないか? その方が安上がりだし余ったら売って稼ぎになる」
「いい考えだ。そうと決まれば早速釣竿取ってくるよ」
 喜ばしい事に、最近ではかなりスタンリーとの会話が成り立つようになっている。彼の表情から憂いはなくならないが、それでも多少は微笑んでくれるようにもなった。一番酷かった時を思えばかなり回復したと言っていい。このままいつかスタンリーが、王太子や聖女の事を忘れるとまでは言わずとも、過去にできたなら。俺はそう願わずにいられない。でも、この様子を見るにその時は案外近いかもしれないな。……そんな俺の淡い希望を打ち砕くように、あいつが俺達の倹しい家を訪れた。
「スタンリー?」
 甘い響き、柔らかい声音。忘れもしない、忘れたくても忘れられない、あいつの声。俺はバッと勢いよく玄関の方を向く。スタンリーの反応は確認しない……いいや、怖くて確認できなかった。玄関の扉を形ばかりは遠慮がちに開けてこちらを覗き込んでいたのは他でもない。あの日スタンリーから全てを奪い、地獄に叩き落した、あの女……聖女その人だった。
「タビサ、どうしてここに……」
「スタンリー、会いたかったわ!」
 顔色をなくしたスタンリーなど見えていないかのように、聖女は彼に抱きつく。スタンリーは青い顔でされるがままだ。どうしてそんな事ができる。自分の為に沢山努力を重ねてくれた人を簡単に切り捨てて、その人が弱っている時は見舞いは愚か励ましの手紙一通書かずにいて、それなのに今更、会いたかった? ふざけているのか? スタンリーは最近ようやく笑ってくれるようになったのに、夜に魘される事も、突然泣き出してしまう事も減ったのに、それなのに。あんたはまた全てをぶち壊すのか。
「スタンリー、取り敢えず座らない? あなたに話したい事が沢山あるの!」
 そう言って聖女は軽やかにスタンリーの腕を引っ張る。されるがままの彼を、俺はただ見ている事しかできなかった。この家に椅子は二脚しかない。スタンリーと俺の二人しか住人が居らず、尋ねてくる客も今まで居なかったのだから当然だ。聖女はスタンリーを椅子に座らせ、あろう事かもう一脚をその隣に動かし自分はそこに座った。俺の事など見えていないのかと思ったが、そこで彼女はさも当然のようにお茶をお願い、と笑顔で俺に命令してサッサとスタンリーに向かって話をし始める。王宮の庭園が見頃で綺麗だとか、この間の夜会で着たドレス姿をあなたにもみせたかったとか、そんな事を好き勝手喋り始めた聖女に、俺は慌てて口を挟んだ。
「聖女様。我が家になんの御用ですか?」
「あら、そんなのあなたに関係ある? それにここはスタンリーの家でしょう。あなたはいいから早くお茶を用意して頂戴」
「お言葉ですが聖女様。ここはスタンリー家です。住人としてお客様の御用は俺にも聞く権利があります」
「あら、そうなの。でも私はあなたに話を聞かれたくないわ。ねえ、いつになったらお茶を淹れてくれるの? 私、喉が渇いてるんだけど」
 聖女の横暴に俺は空いた口が塞がらない。なんなんだこの態度。まるで自分がこの世で一番に優先されるべきとでも言いたげではないか。スタンリー越しにずっと近くに居た俺の事をどうやら覚えてないのも、使用人かなにかとしかみなしていないのも、まだ許せる。でも、スタンリーにあれだけ酷い事を沢山しておいて、何もなかったかのように近づき更に傷を抉ろうとするなんて、どこまで身勝手な女なんだ。
「ねえ、スタンリー。あの人お茶の用意もできないの? ずっと立ち尽くしてるだけじゃない。どうせならもっと働き者を住まわせたらどうなの?」
「……タビサ、何の用で来たんだ」
 俺を悪者にしてスタンリーに甘えてかかる聖女だったが、意外な事に彼が返した態度は辛辣だった。硬い表情と態度を返したのである。スタンリーは聖女に、それこそ裏切られて廃人になる程ベタ惚れだったから、てっきり甘えられたらコロッと許してしまうかと思っていたのに。まあ、スタンリーだって人間だ。ましてや今も回復の途中なのだから、流石に何もなかったかのようには振る舞えないのかもしれない。しかし、そんな俺の推測は聖女が次にとった行動で揺らいでしまう。
「実は……あなたに相談があって来たの」
 一瞬スタンリーの硬質な態度に鼻白んだ様子を見せた聖女だったが、直ぐにまた元の甘えた態度に戻った。スタンリーの腕に自らの腕を絡ませ撓垂れ掛かる聖女。スタンリーは振り払わない。聖女は既婚者なのにとか、今更何をという気持ちが沸き起こったが、何よりスタンリーが聖女を拒絶しない事にショックを受けてしまって、それ所ではなかった。
「聞いてくれる、スタンリー? ローレンスが酷いのよ」
 そこから始まる、聖女のお涙頂戴自己憐憫物語。曰く、貧民街で炊き出しをしたいのに予算がないと許して貰えないだとか、市井で民と触れ合いたいのに警護の問題があると行かせて貰えないだとか、他にも沢山。それ等を全て要約すると、私は自分の思う持て囃される為の完璧ないい人アピールをしたいのに、周囲が現実的な問題点を上げて止めてくる。私は誰からも崇められるべき聖女なのに。どう、酷いでしょう? とまあそんな所か。
 聞いた限りじゃ聖女のやりたい事は止められても無理ない事や、非現実的で実現の難しい事ばかり。しかもやりたい事の無茶な点を修正した代替案を出されても、色々文句をつけて却下しているようだ。こんなのじゃ駄目、もっと派手に行きたい、華々しさが足りない、といった感じで。要は聖女はいい加減国民の聖女に対する熱も納まってきたので、ここらで一発梃子入れをして人気を再熱させたいのだろう。この女は、永遠にチヤホヤされ続けていたいのだ。なんとまあ欲深い事か。昔は深く関わっていなかったから分からなかったのか、それとも革命に成功し人が変わってしまったのか……何にせよ今の彼女の為人はかなり醜い。
 聖女の勝手な話は更に続く。あれをやりたい、これをやりたいと自己責任の範囲で我儘を言っているだけならまだ可愛かった。しかし、王太子と結婚して調子に乗った聖女は政治にも口を出すようになったらしい。聖女とはいえ元を正せばただの田舎娘だ。勿論そんな女にまつりごとなど分かろう筈もない。見当違いな理想論を並べ立て、間違いを質されるとこれくらいもできないなんて努力が足りない、やりたくない言い訳をせず誠意を見せろと喚く聖女。この醜い姿に流石の王太子も愛想が尽きたらしい。とうとう先日、夫婦の寝室に帰ってこなくなったそうだ。
 そしてここからが聖女にとっての本題である。あまりに好き勝手振る舞う聖女に、周囲のお偉方はこう考えた。聖なる力を宿した聖女でも、生まれも育ちも平民ならば国母としての資質には疑問符を付けざるを得ない。革命で荒れた国を磐石に纏め上げる為に王太子との結婚を許したが、このままでは今度は聖女のせいで国が荒れるだろう。流石に離婚してはあれだけ祝福してきた国民に示しがつかないが、それなら聖女はそのままに第二妃を迎えそちらに子を産ませればいいまでの話。次代の王族が産まれれば、国民の関心もきっとそちらに向くだろう。
 そうと決まれば話が早い。早速王太子の第二妃の選定が行われ、一人の貴族の娘に内定したそうだ。その娘は聖女と違って高貴な生まれで教養があり、慎ましく淑やかで正しく国母に相応しい器なのだという。当然この計画が露見した時、聖女は怒り狂った。私という妻を差し置いて、二番目の妃を迎えるとは何事か、この国の国母になるのはこの私だけなのだ、と。しかし聖女と言えども王宮ではなんの後ろ盾も力もないただの田舎娘だ。彼女の抵抗はあえなく封殺され、王太子は世間には秘密裏に未来の第二妃と婚約をした。頃合いを見て世間へ公表、結婚をするのだという。
 聖女の怒りを他所に仲睦まじい様子の王太子と第二妃候補。聖女が怒り狂って暴れ、二人の仲を壊そうと画策し動き回れば回る程、その醜い有り様に王太子の心は離れていく。今や聖女は名ばかりの王太子妃だ。馬鹿な事をしないように閉じ込められた王宮内で蔑ろにされ、国民からの支持を失わない為だけに存在する飼い殺しの妃。これからゆっくりと、聖女の存在は周囲に無視され薄まり消えていくだろう。そんな事聖女には到底看過できない。だから。
「私をこの国から連れ出して欲しいの。王太子妃の私に逃げられれば、あいつ等の面子は丸潰れよ。私の聖なる力があれば他所の国でも十分恵まれた生活ができる筈だわ。こんな風に皆から無視されて生きるなんて嫌。だって私は、なんですもの!」
 目に浮かんだ涙を態とらしいくらいに哀れっぽい動作で拭う聖女。俺はその計算高い様子を見て、全身に鳥肌が立った。何を巫山戯た事を。自分に都合が悪くなったら夫も国も何もかも捨てるとは。しかも聖女を、王太子妃を国外に逃がすなんて命懸けの反逆行為を、かつて自分が切り捨てた相手にこうも軽々しく頼むなんて。あれだけスタンリーを馬鹿にしておいて、踏み躙っておいて、蔑ろにしておいて、その上でこの女はまだ強請るのか。私の為に命まで投げ出せと、どの口で言う。どれだけスタンリーをコケにすれば気が済むんだ。固めた拳が、ギチリと嫌な音を立てた。
「ねえ、スタンリー。優しいあなたなら私のお願い、聞いてくれるわよね?」
 縋り着いた手で、聖女がスタンリーを揺さぶる。スタンリーの顔色は真っ青だ。ただただ困惑して、手足はガタガタと震えている。それ程までに動揺しているのに、スタンリーは聖女に手を離せとも、もう俺を振り回してくれるなとも言わない。彼が聖女にされた仕打ちを思えば抵抗できないのは仕方のない事だったが、それでも俺はそれがまるでスタンリーが聖女に気持ちをまだ残している事の証左のように思えて深く絶望した。
「……タビサ、俺は」
「ごめんスタンリー。俺、やっぱり外に出てる」
 それ以上聞いていられなくて、駆け出すようにして俺は部屋を飛び出す。スタンリーがまた聖女に関わり、ボロボロにされてしまうのを俺が止めなくては。頭ではそう思うのに、心が彼の言葉の続きを聞くのを拒否した。俺の神様は優しいから、愛してるから、きっと聖女を許す。そういう性格だと分かってるんだ。だって彼がどれだけ優しいか、聖女を愛しているか、俺は一番近くで見てきたんだから。スタンリーは俺の心にも体にも、とても簡単に消えない傷を残したのに、俺は彼に痕一つ残せず、錨にもなれない。その事が堪らなく悲しかった。その後、家で何があったかは知らない。ただ一つ確かなのは、これが悪夢の始まりに過ぎなかったという事だけだ。
 それから……王宮を抜け出した聖女がちょくちょく俺達の家を訪ねて来るようになった。邪険にされて閉じ込められているんじゃなかったのかと思ったが、今王宮は新しく迎える第二妃の為の準備でてんてこ舞いで、お飾りの王太子妃である聖女の事は何でも適当に済まされているらしい。表向き部屋から出さえしなければほぼ放置なんだとか。またそれを自分が蔑ろにされている証拠だと聖女自信が声高に主張していた。
 スタンリーは彼女を家から追い出す事も、纏わりつくのを止める事もしない。ただ、聖女が来る度に黙って家を出ていく俺を、責めるかのような絶望を孕んだ目で見つめてくる。どうしてあなたがそんな目をするんだ。聖女が嫌ならそう態度に示せばいいだけの話じゃないか。まだ聖女に気持ちを残していて強く出れないから、俺に追い払ってもらおうとでも? 全く、馬鹿馬鹿しい。そうすべきだとは思いつつも、俺はどうしてもスタンリーと聖女を引き離す事ができなかった。そんな日々がどれだけ続いた事だろう。ある日、決定的な事が起きた。
 俺はいつも聖女が来たら野良仕事や釣りの道具等、暇を潰せるものを持って家を出る。その日もそうだった。少し遠くの沢まで足を伸ばして竿を垂らし、スタンリーと聖女の事をモンモンと考えるうちにあっという間に時間は過ぎて、気がつくとバケツ一杯溢れる程の川魚を釣り上げていた。適当に魚の処理をして、釣果を持ってとぼとぼ家へ帰る。今日は遅くなってしまった。流石にもう聖女は居ないだろう。まだ怖くてナイフを握らせられないスタンリーの代わりに、帰ったら直ぐに夕飯を作らないと。
 自宅に付くと立て付けの悪い玄関扉を苦労して開ける。騙し騙し使ってきたけど、そろそろ観念して修理しなくちゃな。今度大工道具を出すか。そんな事を考えつつ扉を閉めた、その時。

ガタンッ

 物音に顔を上げてそちらを見る。飯が欲しくて部屋からスタンリーが出てきたと思ったが、違った。そこに居たのは、肌蹴た服から覗く白い肌が艶かしい聖女。顔を真っ赤にして、半裸の状態でスタンリーの部屋から出てきたのだ。
「……あら、あなた帰ってきたの? もうそんな時間? 嫌だわ、二人して夢中になっちゃった」
 余裕タップリに火照った顔を手で仰ぎ、身嗜みを整えながら聖女が言う。俺は何も喋れないし、動けない。ただただ目にしている光景が信じられず、同時に信じたくなかった。ああ、愚かなヒース。お前が意気地なしなばっかりに、スタンリーはとうとう聖女と一線を超えてしまったよ。そんな風に嘲笑う声が、頭の中をこだましていた。そして固まっている俺の近くに聖女はゆっくりと近付いてくると、ニンマリと下卑た笑みを浮かべこういうのだ。
「私達の為に態々家を出てくれて有難う。お陰でタップリわ」
 それだけ言い置くと聖女は軽やかな風のように家を出ていった。後に残されたのはバケツを片手に立ち尽くす俺だけ。バケツがズシリと重たいのは、何も釣果が大漁だったからだけではない気がした。
「ヒース?」
 呼ばれた名前に反応してそちらを向けば、心配そうにこちらを見るスタンリーの姿が。彼は俺の表情を見て心配そうに少し顔を顰め、こちらに歩み寄ってきた。恐る恐る壊れ物でも扱うみたいに、俺の頬に手を伸ばしてくる。
「ヒース、酷い顔色だ。具合が悪いのか?」
 彼の掌が近づく。固くなった指先が眉尻を掠める。かつてナイフを持った彼と揉み合ってできた傷にスタンリーの指が触れようとした、その時。少し乱れた彼の襟元から、見えてしまった。クッキリとついた、真っ赤なキスマークが。

パシンッ

 気がつくと、俺はスタンリーの手を振り払っていた。何が起きたのか分からない、と言った様子でスタンリーが目を見開く。彼の手を叩いた手が、ビリビリと痛んだ。
「なんだよ、結局くっつくのかよ。必死になってあなたを立ち直らせた俺が馬鹿みたいだ」
「ヒース? 何を言って」
「俺がどれだけあなたを満たそうと努力しても無駄だったんだな。どれだけ酷く扱われても、最後あなたが選ぶのはあの女なんだ。あなたを生かすも殺すも、あの女次第なんて。……全く馬鹿らしい」
 見返りが欲しくて彼に尽くしたんじゃない。ただあなたの傍に居られるだけで幸せだった。それでも、あなたの一番辛い時を支えたのは俺なのに、あの女に全部いい所取りされるなんてあんまりじゃないか。あなたが聖女を選んだ事で、あなたがあの女から受けた仕打ちを怒り、つけられた傷を癒し、奪われたものを補おうとした過去を、他でもないあなた自身に全部否定された。二人で過ごしたかけがえのない穏やかな時間すら嘘にして、それでもあなたは聖女を選ぶのか。
 なんだか酷く泣きたい気分だ。でも、目はカラカラに乾いていて涙一粒どころか潤む予感すら感じさせない。その事が俺のスタンリーに対する落胆の深さを表しているようだ。勝手に期待されて、かと思ったら落胆されて、スタンリーからしたら堪ったもんじゃないだろう。でも、現実を前に何もかもが嫌になったこの時の俺には、そんな事考えられもしなかった。こんな事になってまでもスタンリーを神様だと思い続ける気持ちは薄れなかったのだから、尚更。落胆も動揺も、全て一入だった。
「……魚釣ってきたから、今日はこれが夕飯な。沢山あるから少し干物にして、残りは明日売ろう」
「あ、ああ。そうか、分かった」
「夕飯つくるから、そこどいて」
 スタンリーの横を擦り抜け、台所へと向かう。背中に視線を感じたが、俺は一切振り返らなかった。
 その日からスタンリーとはまともに向き合えてない。視線はあまり合わないし、一緒に居る時間も減って酷い有様だ。スタンリーは何とか俺と会話をしようと努力してくれるのだが、俺の方がなんだかその気になれなくて会話を長続きさせる努力をできないでいる。相変わらず聖女はスタンリーの元を訪ねてくるが、もうどうでもいい。ただ、俺が家を出るより先にスタンリーの方が彼女を連れて家を出るようになった。家の方が人目の心配がなくていいだろうに、どこに出かけているのだろう? まあ、俺が気にしても仕方がないか。案外聖女が金を出して、どこかの連れ込み宿で宜しくやってるのかもしれないし。俺は家に居れた方がやれる事が多いので、正直助かる。そんな生活が、季節一つ分続いた。
 俺とスタンリーの関係はギクシャクしているが、それは俺が彼に幻滅したからではない。彼は俺の神様だ。何があろうとも、俺は彼の支えであり続ける。……そう思っていたのに。聖女に捨てられ、仲間に裏切られ、どんどん落ちぶれていく彼の傍に俺は居続けた。少しづつでも彼が前を向いてくれるようになって、また前のように笑ってくれるようになって、どれ程嬉しかった事か。
 でも、結局彼が選んだのは聖女だ。スタンリーは俺の全てなのに、俺は彼の全てどころか生きる意味にもなれなかった。死にたがる彼に力ずくで言う事をきかせこの世に引き止めただけ。どれだけ俺が努力してスタンリーとの関係を積み上げても、聖女が彼の目を意味深に見つめるだけで、全ては無に帰してしまう。結局俺がした事ってなんだったんだろうか。全部無駄な事だったのかもしれない。なんだか何もかもが虚しくなって、手足は自由なのにまた鉄枷を嵌められて地下牢に閉じ込められている気分だ。
「お前がヒースか」
 その日は珍しくスタンリーは一人でどこかに出かけていて、家には俺一人だけだった。俺は朝から家の前で扉の立て付けを直そうと悪戦苦闘していたのだが……。そこで、久しぶりにスタンリー以外に名前を呼ばれた。この家に客人が来るなんて、聖女以来だ。何事かと思って声のした方を向く。そこには近衛兵の制服を着た男が、数名立っていた。
「そうだが……。何の用だ」
 王族を守る兵がこんな場所で俺に何の用だというのだろう。訝りながらも返事をする。すると先頭に立っていた近衛兵が後ろを振り返りそこに居た仲間と小声でなにか話し始める。声をかけておいて無視するようなその態度に、ほんの少し苛立った。何の用だと再度尋ねようとした、その時。背後で土を踏む音がした。瞬時に振り返るが、それより早く振り向きかけた俺の側頭部に硬い何かが振り下ろされる。ゴキン、と大きな音が立ち、グワンと意識が遠のいた。最後に感じたのは、荒れた地面。事故でスタンリーに切られてから薄くなった皮膚が破けて血が出ているのを感じながら、俺の意識は途切れた。
 バシャンッ、と冷水を浴びせられ、それが気管に少し入って激しく咳き込む。それで目が覚めた。手足が動かない。縛られているようだ。また開いた傷口や、殴られた頭がズキズキ痛む。目を開けると、今にも雨の振り出しそうな曇天と、木の床のようなものが目に入る。どうやらここは王宮の前の広場のようだ。そして俺は、そこに後付けで立てられた木製の高台の上に居るらしい。ゴホゴホと苦しむ俺の前に、誰かが立った。視線を上向けると、そこに立っていたのは。
「罪人の癖に、いつまで優雅に眠っているつもり?」
 そう言うと重苦しい雰囲気には似合わない程、煌びやかに着飾った聖女はスッと目を細めて俺を見下す。王太子にも、スタンリーにも向けた事のない冷たい視線。利用価値のないゴミを見る目。と同じ目だ。かつての地獄を思い出し、俺は少しだけ体温が下がったような気がした。
「……罪人とは、何のことでしょう」
「惚けても無駄よ。あなたの罪はもう既に全て白日の元に晒されているわ」
「ですから、何の事かと」
「はぁー……物分りが悪いわね。仕方がないわ。あなた、説明しておやりなさい」
 聖女が隣にいた役人らしき男に説明を引き継ぐ。偉そうに後ろに下がった聖女に変わって、その男が俺の前にやってきた。男は懐から紙を取り出すと、オホンと大袈裟に咳払いをしてから、朗々と響く大声でそこに書かれているらしい文章を読み上げる。
「罪人、ヒース。お前には恐れ多くも聖女であり、同時に王太子妃でもあらせられるタビサ・フォン・デルジーナ様を脅迫した。その罪によってお前は、今日この場で裁きを受けるのだ」
 男の声に呼応するように、いつの間にか俺の居る木の高台を囲むようにして広場に集まっていた人々がワーワー声を上げた。視線を向ければ男も女も揃って、お優しく美しい聖女様を脅すなんて、と誰しもが怒りを顕に顔を真っ赤にして拳を振り上げている。視界の端に、この光景を満足気にウットリと眺める聖女の顔が見えた。
「はあ? なんだそれ。事実無根もいいところだ」
「ああ、ヒース。あなたはどこまで罪深いのかしら! この期に及んでまだシラを切り通すつもりなの!?」
「シラを切るも何も、真実俺は聖女様を脅した事なんて有りませんので」
「そんな嘘をついても無駄です。ここにあなたが私を脅した、証拠があります!」
 聖女がそう言うと予め決められていたかのようなタイミングで役人風の男が盆に乗せた何かを持ってくる。聖女はそれを高々と掲げ、広場に集まった観衆に見せた。聖女が何か手に持っている事すら前の列にいる数十人しか見えていないだろうに、それでも人々は証拠だ証拠だと興奮気味に叫ぶ。聖女が手にした証拠とやら、それはどうやら何か書き付けられた紙束のようだった。
「覚えていないというのなら思い出させてやりましょう! ヒース、あなたはこのように手紙を使って私を脅迫し、ローレンス王太子殿下を裏切って病気で伏せっていた勇者スタンリーのものになれ、と要求しましたね!? 病気のスタンリーがこのまま死んでしまうだろうからその前に憧れの相手との思い出を作ってあげよう、というあなたの忠誠心からの行動かもしれませんが、それは絶対に間違っています! 私にはローレンス殿下という神の名の元に永遠を誓った夫が居るのです! 例えどんな事情があろうとも、彼を裏切ったりは致しません!」
 ここで余韻を作る為にタップリと間を置く聖女。それにまんまと乗って観衆がまたもワーワー騒ぐ。聖女は周囲からの関心の雨を気持ちよさそうに享受していた。そして騒ぎがある程度収まると、今度は悲しげに頭を振りながらこういうのである。
「病に苦しむかつての盟友スタンリーと、杜撰な計画を立ててまでも彼に尽くそうとするあなたを哀れと思って、何度かお忍びで見舞いに行ったのがよくありませんでした! ただ見舞いに行っただけなのに、ああ何と言う事でしょう! まさか夫のローレンスに不貞を疑われてしまうなんて!」
 どこからか取り出したハンカチを目元に当てて俯く聖女。その目元はちっとも濡れていない。けれど、そんなのどうだっていいのだろう。だって聖女が泣いているかなんて、広場に集まった観衆にはどんなに目を凝らしたって全く分からないんだから。聖女はただ、をすればいいだけだ。
 成程、段々分かってきたぞ。要は聖女はこうして自分の、引いては立場の地固めをしているのだ。これだけ盛大に聖女が私には王太子殿下だけ、と大衆の前でアピールしたからには、王太子の方が彼女を差し置いて二人目の妃を迎え、子を設けるなんて事は到底許されない空気になる。そうなれば第二妃を迎える計画はご破算。名実共に聖女の王太子妃としての地位は磐石となる。彼女の狙いはそれなのだろう。
 しかし、それにしたって何故俺なんだ? どうせ嘘をつくのなら聖女と関わりの薄い俺ではなく、スタンリーが彼女に迫ったとでも言えばいいものを。無理に俺を悪者に仕立てようとするから、俺がスタンリーの為に彼女を脅したなんていささか無理矢理な筋立てになってしまっている。第一この筋書きには一つ大きな欠点がある。それは。
「お言葉ですが聖女様。私は無教養で読むのは兎も角、字を書く事は殆どできません。その様な手紙を書く事は能力的に不可能です」
 結構な年齢まで全く教育を施されないまま地下牢で生きてきた俺は、識字能力が低い。少なくとも読むのができないと色々困るだろうからとそちらを優先して仕込まれたので買い物や読書をする程度の力はあるが、書く方はてんで駄目だ。精々自分とスタンリーの名前くらいしか書けない。自力で文章を考え書くなんて以ての外。聖女の手に持っている様な手紙を書くなんて、夢のまた夢である。
「また嘘を重ねたわね、ヒース! いい加減自分が卑しい嘘つきの脅迫者だって、認めたらどうなの!?」
「いえ、ですから俺は」
「字が書けないなんてそんな嘘、信じる人はここにはいないわ。だってあなたは十分読み書きができるって証言してくれた人が居るんですもの!」
 俺は反論しようと口を開くが、その前に聖女がまた後ろに下がる。すると先程のように役人風の男が前に出てきて、ゼンマイ仕掛けのおもちゃが同じ動きを繰り返すが如く朗々と高らかに手に持った書類を読み上げる。
「宣誓書! 私はここに罪人ヒースが十分な識字能力を有しているという事を証明する! ……スタンリー・フォーネル!」
 は? 待ってくれ。スタンリー? スタンリーが、俺に識字能力があると証明したのか? 驚いて聖女の方を見る。ここに来て初めて表情を崩し取り乱し始めた俺に、彼女はご満悦な笑みを浮かべていた。
「う、嘘だ! スタンリーが……あの人がそんな事証明する筈がない! きっとその宣誓書は偽物だ!」
「おやまあ、信じた主人に見捨てられて辛いの!? でも残念! 彼は真実と正義の道を選んだのよ!」
「本当に彼が俺の罪を追求するなら、ここに現れて直に宣誓する筈だ! 宣誓書なんて回りくどい手段とる必要が無い!」
「彼はね、自分の為にあなたが罪に手を染めた事が辛いのよ! 自分のせいで、と自らを責めてしまって、病気の事もあってあまりにも辛そうだったから私の方から休んでいるように言ってあげたの! ヒース、あなたが馬鹿な間違いさえ犯さなければ、彼はここまで苦しまずに済んだのに!」
 愚かで非道な俺に対する非難の声が上がる。心優しく思いやり深い聖女に対する賞賛の声もだ。けど、俺は信じないぞ。スタンリーが俺を見捨てる筈がない。彼は俺を地獄から救ってくれた神様なんだ。きっと今は聖女に囚われているかなにかしてここに現れる事ができないだけ。宣誓書も無理矢理書かされたか、完全なる偽物かのどっちかだ。必死になって自分に言い聞かせる。だって俺にはスタンリーだけだから。信じれるのも、頼れるのも、縋れるのも、全部彼だけ。だから、必死になって祈った。スタンリー。お願い、助けて、またあの時みたいにこの地獄から俺を連れ出してよ、って。それなのに。
 聖女を睨みつける俺に、彼女は完璧なまでの美しい笑みを携えたまま、近付いてくる。そして周囲に聞こえるように大声で喋っていた今までとは違い、俺にしか聞こえないような小さく落ち着いた声で、こう言うのだ。
「いい加減負けを認めたらどう? あなたは彼に選ばれなかったのよ」
 その瞬間の衝撃は、体に雷が落ちたかのように思えた。呆然と見上げる俺を、聖女は勝者の笑みで悠然と見下ろす。その表情が語るのは、自分こそが選ばれし者だという余裕で……。選ばれなかった? 俺が? それはつまり、スタンリーは俺より彼女を優先させたって事か? それって……。
 その瞬間、俺は全てを理解した。ああ、そうか。聖女が態々スタンリーではなく俺を悪者に仕立て上げた理由。俺は彼女に、スタンリーに、。最初は聖女もスタンリーを悪者にしようとしたのかもしれない。けれど、それが途中でどうしてだかスタンリーに露見した。それか、ひょっとすると全てを察したスタンリー自ら言い出したのかもしれない。何にせよスタンリーは、聖女の計画を止めるでもなく、自ら進み出て犠牲になるでもなく、代わりに多少無理筋でもを差し出し計画を実行する道を選んだのだ。そして、俺が選ばれた。
 そうだ、思えばずっと前に、スタンリーは彼女を選んでいたじゃないか。聖女と話している時スタンリーが彼女に向けていた愛の籠った視線。聖女の為だけに魂をすり減らして廃人になったスタンリー。そこまで追い詰められたのに、スタンリーは結局聖女を選びその結果として服を乱し彼の部屋から出てきた聖女と彼の首元に残ったキスマーク。その全てが、俺を静かに絶望させた。ストンと表情を抜け落とし、大人しくなった俺に聖女は満足気な笑みを浮かべる。そして大袈裟に頭を横に振って、こういうのだ。
「哀れで愚かなヒース! あなたはとうとう最後まで自らの罪を認めなかったわね! でも、もうこの茶番劇も終わりにしましょう! あなたが罪を認めようが、認めなかろうが、犯した過ちは償わなければならないのよ!」
 聖女が手を振り上げる。横合いから木の台を持った男が現れその台を俺の前に起き、乱暴な手つきで俺の首をそこに押し付けた。髪を掴まれ痛かったが、それもどこか遠く感じ俺は抵抗はせずされるがままだ。男が俺の体を動かしている間にまた別の大柄で黒装束の男がノシノシと歩いてきた。その肩には大きな斧が担がれている。役人風の男が、高らかに宣言した。
「罪人ヒース! 王家の一員でもある聖女タビサ・フォン・デルジーナ様を脅し、王太子殿下との夫婦仲に不和を齎した罪はとても重い! その罪、命を持って償うがいい!」
 鼓膜が破れそうな程の大きな歓声が上がる。広場に集まった観衆の熱気で大地が割れそうな勢いだ。何十対、何百対の憎しみの籠った視線が、俺に注がれる。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
 この場に集まる全員が、一人残らず俺の死を望んでいた。望まれず産まれてきてしまったこの命、まさか死ぬ事はあべこべにこれ程望まれるとは。人生とは分からないものだ。でも、の人生の終わりは、これが似合いのものなのかもしれない。死刑執行人の重たい足音が近づく。死を目前にして思うのは、こうなってまでも盲信する事を止められない大切な彼、スタンリーだ。
 俺の全てを救ってくれたあなたも、結局は神様ではなく自分の幸せを追求するただの一人の人間だった。だってあなたはその為自分の幸せの為に、俺を見捨てたんだから。でも……それでいいと思う。それがあなたの選んだ道ならば、俺は黙って従うのみだ。あなたが幸せであってくれさえすれば、俺はもう他に望みなんてありはしない。
 スタンリー、どうか息災で。あなたの幸福な未来を切に願う。あなたは確かに、俺の神様だった。





















 










「ヒース!」
 轟々と地響きのように唸る俺の死を望む大衆の叫び。それが大き過ぎて他の音は一切聞こえない筈なのに、最後に一瞬、神様の声が聞こえた気がした。次の瞬間、ゴスッと大きな音がして俺の首の横に何か大きくて硬いものが落ちる。それがなにか理解する前に、体が力強く誰かに抱き締められた。
「ああ、ヒース、ヒース……! よかった、生きてる……!」
 ガタガタ震えながらそれでも俺の体を掴んで離そうとしない腕。頭の上から降ってくる声。鼻腔に飛び込む俺と同じ洗剤の香り。その全てに間違えようのない既視感があって、でもそんな筈はない。だって彼は、俺じゃなくて聖女の事を。
「何だお前! クソッ、衛兵は何をしている!? この邪魔者を捕らえろ!」
「その必要はない」
 狼狽えた役人風の男の声を、また別の男の声が制する。たったそれだけで役人風の男は、いいやそれだけでなく観衆ですら、声を上げるのを止めた。カツカツとブーツの音が響いて、その声の主が俺の近くにやってくる。
「ほら、これを使って縄を解いてやれ」
「ああ、有難う」
 手首に何かヒヤリとした感触があって、そこを縛っていた荒縄がブチブチと切れた。続いて足の縄も切られ、両手両足が完全に自由になる。カラン、と何か放り出す音がして、震える手が頬に触れた。そのまま顔を上向けさせられ、目の前にあったのは。
「スタンリー……」
「ヒース……! 遅くなってごめん……!」
 今にも泣きそうな表情のスタンリーは、それだけ言うと力強く俺を抱き締める。まるでもう絶対に離しはしない、とでも言いたげに。訳が分からず呆然とする俺だったが、その横でまた別の事が始まろうとしていた。
「さて……、これはどういう事かな。我が妃、タビサ?」
「ど、どうって……その……。そ、そいつが! 私を脅したんです! そのせいで私はあなたに不貞を疑われて」
「ああ、その茶番はもういい」
 チラリ、と横を見る。声の感じからしてまさかと思っていたが、案の定だ。そこには王太子、ローレンスが立っていた。どうやら彼は、俺を挟んで対峙している聖女を糾弾しているようだ。
「なっ、茶番? もういい、ですって……?」
「タビサ、君が我儘を叶えてくれない周囲に意趣返ししようと国外逃亡を企てた事も、その足がかりとしてかつての盟友スタンリーを誘惑した事も、こちらは全て把握済みだ」
「っ、それはっ!」
「いいから黙って聞きなさい。話が進まないから、いちいち口を挟むんじゃない。ここでどれだけ言い訳しようと無駄だ。君の企みは全て把握している。スタンリーが協力してくれたお陰で、揺るぎない証拠だってたんまりだ。君の言動は全て王家の諜報員の手によって私に筒抜けだったんだよ」
「……!」
「君に不誠実な妻は要らないと言ったのは、他人に嘘ばかり付いて利用し、自分のいいように操ろうとする己以外に不誠実な妻は要らないという意味だったんだが……。最後の温情で改心の機会を与えたつもりだったのに、まさか自分のよからぬ企みがバレたんだと早とちりしてこんな騒ぎを起こすとは。全く愚かもここまで極まると本当に度し難いな」
 ヤレヤレ、と頭を降った王太子は大きな溜息を着く。そして彼がサッと片手をあげると、どこからか現れた近衛兵が聖女の両手を掴み、後ろ手に拘束する。
「ちょっ、何するの!? 私は聖女よ! 王太子妃なのよ!? こんな暴挙、許される訳が」
「私が許したからいいんだよ。ほら、その罪人を連れていきなさい」
 キーキーと喚きながら、為す術なく聖女が引っ立てられていく。王太子はそれを黙って眺めていたが、聖女が高台から乱暴に下ろされると王太子は今度は俺とスタンリーの方を見た。
「スタンリー、彼は大丈夫か?」
「大丈夫な訳ない! こんなにも血が出て、顔色も真っ青で……!」
「それなら早く中に入って手当してやるといい。用意はしてあるし、ここの後始末も私が責任をもって引き受けるから」
「分かった。……ヒース、立てるか?」
「あ、ああ……」
 足に力は入らないし膝は笑っていたが、スタンリーが優しく手助けしてくれたお陰で何とか立ち上がる事ができる。スタンリーはヨロヨロと歩く俺の様子を痛ましげな目で見て、ピッタリ隣りに寄り添うようにして導き、高台から下ろしてくれた。途中親切な周囲の衛兵が手を貸してくれようとしたが、スタンリーはそれを思いっ切り睨みつけて威嚇する。結局彼は、自分の手だけで俺を危なげなく近くの裏路地に隠すように停めてあった豪華な馬車へと連れ込んだ。俺とスタンリーが乗り込むと、馬車は静かに走り出す。それを待たずして、スタンリーは俺の傷へと手を伸ばした。
「ヒース。傷、見せて」
 スタンリーは優しい手付きで先ずは一番酷い頭の傷の具合を見ると、自分が痛めつけられたみたいに酷く悲しげな顔をする。まるで、今にも泣き出しそうな顔を。続いて手の傷を、その次は体の、足の、という具合に、順繰りに傷の具合を見ていく。それは馬車が停るまで続いた。
 馬車が停ると、訳が分からず混乱する俺はスタンリーに手を取られて馬車から降りざるを得ない。周囲の景色を確認してギョッとする。ここは装飾の豪華さを見るに明らかに王宮の、それもかなり奥まった区域だ。こんな所に自分のような者が立ち入っていいのか。そんな俺の躊躇は他所に、スタンリーは俺の手を握ったままズンズンと奥へ奥へと進んでいき、内装の個性のなさを見るに客間か何からしい一等豪華な部屋に入ると、その部屋の美しい椅子に俺を座らせようとする。
「ちょ、待ってくれスタンリー。そんな椅子、座ったら汚しちまう」
「はあ? だから座れないとでも? 椅子は座る為にあるものだ。いいから座れ」
 俺の抵抗はあえなくスタンリーに封殺され、半ば無理矢理その豪華な椅子に座らされた。椅子や部屋の豪華さに萎縮する俺にスタンリーは少し機嫌を損ねたようだったが、何も言わずにいつの間にか現れた初老の男に俺に対して向かい合う正面の場所を譲る。どうやら男は医者のようだ。
「ヒースに変な事しやがったら殺すからな」
「ちょ、スタンリー!」
「心得ております」
 スタンリーの物騒な物言いにギョッとするが、医者は澄まし顔を崩さず動じもしない。スタンリーが睨みつけるようにして監視する横で、あっという間に俺の手当を終えた。
「後はゆっくり休んで傷が塞がるのを待つだけですね」
 最後にそう言いおくと、医者はカッチリとしたお辞儀をして手当の手伝いをしていた侍女達と共に部屋を辞する。後に残されたのは俺とスタンリーの二人だけ。それを意識すると途端に緊張が戻ってくる。気まずい沈黙を先に破ったのは、スタンリーだった。
「ヒース。傷の手当も終わったし、ベッドに横になるか?」
「えっ、別にいい。そういう気分じゃない」
「本当に? お前の事だから、汚したくないとか変な遠慮をしてるんじゃ」
「違う、そういうんじゃない」
「でも」
「本当に大丈夫だから! もう放っとけよ!」
 思いの外明確に拒絶の意思が乗った言葉に、自分で驚いてしまう。だって仕方がないだろ。俺を捨てた筈の人が、俺の事をまるで宝物か何かみたいに接してくるんだ。また心を許してそして捨てられる事になったら、今度こそ俺は耐えられない。そりゃ拒絶くらいする。
「……ヒース」
 優しい声音で名前を呼ばれ、ビクリと大きく肩が跳ねた。静かに視線を落とし、黙って俯く。膝の上に乗せた自分の手だけを見ていたいのに、スタンリーがこちらに近づいてくる気配がして、やがて俺の手の上に一回り大きな彼の手が重なった。黙って逃げ出そうとした俺の手を、スタンリーは両手で労るように包み込む。
「……止めろ。優しくすんな」
「どうして?」
「今優しくされたら、俺は俺を見捨てたあなたを許しちまう。そんな事になったら、その先に待ってるのは今以上の地獄だ」
「ヒース、俺はお前を見捨てたりなんかしてないよ。愛する相手を見捨てるもんか」
 愛? 愛だって? その言葉にカッと頭に血が上る。愛する相手だなんて、ご機嫌取りの為でも言って欲しくなかった。だってそれは俺にとって、どれだけ望んでも絶対に手に入らないものなのに。あなたが全身全霊で愛してるって目を聖女に向けるのを遠くからボーッと眺めるだけの人生だった。あなたが幸せならそれでいいと、どうせ俺には縁遠いものだからと、あの時何もかも飲み込んだんだ。俺が苦労して諦めたあなたの愛それを、高々ちょっとのご機嫌取りの為だけに使うなんて。それは酷い侮辱に他ならない。
 そうだよ、神様だなんだって仰々しい言葉で装飾しておいて、その実それは俺が諦める為の言い訳だった。相手が神様ならどれだけ信仰しても返してくるのは平等な愛情だけで、決して血の通った愛なんて貰えない。それが当たり前。あなたは神様なんだから、俺を個別で愛してくれる事なんて決してないんだと、自分に必死で言い聞かせたんだ。期待をしないように、望んでしまわないように、俺は心を殺し続けてた。ずっと、ずっと。それなのに、折角諦めたのに、今更になって寄りにもよって偽物の愛を与えようとするなんて。あなたは残酷にも程がある。
 ふと気がつくと、頬を伝う生ぬるい感触が。怒りに興奮したせいで頭の傷口が開いたかと思ったが、違った。その熱は俺の目から溢れている。それはズルズルと頬を伝い、頤に集まって、ポタポタと俺の手を包むスタンリーの手の甲に落ちる。口をついて出たのは怒りに震えるものではなく、あまりにも弱々しい縋るような言葉だった。
「どうして愛してるだなんて見え透いた嘘をつく。俺がどれだけあなたの事を思っているのか知らないとは言わせない。それを知った上で愛してるだなんて、そんな……」
「……ヒースは俺の愛の言葉が、嘘だと思うのか?」
「当たり前だ。だって、あなたが愛してるのはあの聖女様なんだろ?」
「それは違う」
 切り捨てる勢いでキッパリと断じられギョッとする。ドキマギしている間に涙で濡れた顎にスタンリーが指を添わせ、優しく正面を向かせた。かち合った彼の瞳は、静かに凪いでいて真っ直ぐ俺だけを見ている。その真剣な目を見ていると、なんだかほんとうに彼は聖女ではなくこの俺を愛してくれているんじゃないかと、無謀な期待を持ってしまいそうになる。
「一つずつ誤解を解いていこうか。さて、ヒースはどうして俺が聖女を愛してると思ってるんだ?」
「だって……。あなたが聖女に思いを寄せているのは、俺達が出会うずっと前から周知の事実じゃないか」
「確かに、一時はあの女に恋をしていた時もあった。だがそれは若気の至りで、ほんの一時の事。今は違う」
「でも、聖女が家に来てあなたに纏わりついた時、あなたは腕を振り解かなかった。それに俺は見たんだ。あなたの部屋から出てくる、半裸の聖女を。聖女はあなたと楽しんだと言って、その直後に見たあなたの首元には、キ、キスマークが」
「腕を振り解かなかったのは、前にヒースが人助けをする俺の優しさに救われたって言ってたから、聖女を助ければお前に優しい人なんだって印象づけられて、アピールになると思ったからで……。そうでなけりゃあんな身勝手な女、相手になんかしたくない。半裸の聖女が俺の部屋から出てきたのは、あいつが俺を誘惑しようとしたからだ。勿論拒絶したけどな。誠実なヒースを好きになり始めてる矢先にあんな身勝手な女に誘惑されたくらいで気持ちを戻すなんて、ある訳ない。あいつ、俺と楽しんだなんて大嘘ついたのか? 実際は俺に拒絶されて顔を真っ赤にして怒り狂い、猿みたいにキーキー喚いてたのに? まったく、恥知らずめ。俺が今好きなのはヒースだけだと言ったから、邪魔でもしようとしたのかもしれないな。キスマークはあいつが誘惑してくる時に無理矢理付けてきたんだ。でも、俺は指一本自分から進んであいつには触れていない。この命にかけて誓う」
「それなら、聖女が言っていたあなたが俺の罪の証拠となる宣誓書を書いたってのも」
「勿論出鱈目だ」
 絶望と悲しみの根源となっていた根拠をアッサリ否定された。言葉だけで信用し切るのはまだ早いのかもしれないが、そんな事を言ったら最初に信じたスタンリーが俺を見捨てて裏切ったという聖女の言葉だって、確かな物証は一つもない。唯一証拠らしい証拠と言えばスタンリーが書いたという俺の罪を裏付ける宣誓書だが、出所は聖女だし字を読むのもやっとで人の筆致の違いも分からない俺では、ジックリ見てもそれが本当にスタンリーが書いたものか分からないだろう。しかもそんな怪しげな宣誓書を俺が信じてしまった根拠となるスタンリーの裏切りの積み重ねは、全て俺の勘違いと聖女の嘘なのだという。次々明らかになる新事実に俺は目を回し、スタンリーは俺の混乱を不用意に深めないようにか、ゆっくりと言葉を続けた。
「聖女が俺達の前に現れた時。俺はまず驚きで固まって、次はお前に対していい格好をする為だけに聖女をしっかり拒絶せず、場合によっては彼女を助けようと思ったが、結局あの女は利己的な理由で俺を利用しようとしていただけだった。だから俺は、あの女に昔の好で情けをかけるのはしない事にしたんだ。とっくの昔に俺の気持ちはヒースに向いていたしお前との楽しい穏やかな生活を壊されたくなかったから、途中からだが昔の伝手を頼ってローレンスに連絡を取って聖女が良からぬ計画を企てている証拠を集めるのに協力した。ほら、聖女が家に来た時、俺は外に出るようにしていたろう? あれは王家の諜報員の前で聖女の振る舞いを見せる為に、外に連れ出してたんだ。今日だって聖女が怪しい動きをしているからローレンスと今後の対策を練ろうと話し合っていて、駆けつけるのが遅れた。本当に、間に合ってよかった……」
「じゃあ、本当に俺を……」
「親友だと思っていた男と心から愛した女性に裏切られ、俺の世界は一度壊れた。悲しみで頭がおかしくなるあまり自棄になって無茶苦茶に振る舞う俺を、誰もが見捨てた。でも、ヒース。お前だけが変わらず俺の側に居て、変わらず俺を慕い、思い続けてくれた。今なら分かる。それがどれだけ難しく、有り難い事なのか。あまつさえお前は死のうとして暴れる俺を自分が大怪我をしてまでも止めて、消えない傷を残した俺を責めるどころか怪我はないかと心配までしただろ。傷口から血を流しながらも微笑み続けるお前に優しく抱き締められた時、俺は思ったんだ。もう俺の事を利用するだけ利用して使い捨てた薄情な奴等の為に悲しんで、時間を無駄にするのは止めにしよう。これからは真に俺の事を思って痛々しいまでの献身をしてくれる、かけがえのない人の為に時間を使おう、って」
 スタンリーの手が俺の顔に触れる。指先があの日ナイフでできた傷口をなぞった。俺はこちらに向けられているスタンリーの瞳から視線を逸らせない。その瞳にはかつて俺が焦がれ続けた、愛しくて堪らないという熱が灯っていて……。
「ヒース、愛してる。俺はお前だけを、誰よりも、何よりも愛してる」
 祈るように囁いて、スタンリーは俺の唇にキスをした。労るような、包み込むような、とても優しいキスだ。驚いて目を見開けば自分の目尻からポロリと大粒の涙が零れるのを感じる。それきりもう、涙は流れなかった。
「あ、愛してる? 俺なんかを、スタンリーが?」
「俺は心からお前を求めているのに、なんかなんて言うなよ。なあ、ヒース。お願いだ、俺を選んでくれないか? ずっとお前には迷惑かけ通しでいい所がないのは分かってるけど、俺はお前を思う気持ちだけなら誰にも負けないつもりだ」
「そんな、迷惑なんてかけられた事なんかない!」
「それなら勿論、俺の気持ちを受け取ってくれるよな?」
 キラキラと期待に輝く目をして俺に迫るスタンリー。しまった、嵌められた、と思った時にはもう遅い。しかし、目を輝かせ、俺の言質を取るような真似をしても、俺に触れる手は縋るように震えている。確信に溢れた態度も、騙し討ちのような手段も、きっとスタンリーにとっては俺が彼を選ぶか分からず自信のなさの裏返しなのだろう。俺が彼に愛想を尽かし、拒絶する未来を心底恐れているのだ。……そんな事、到底ありはしないのに。
「……こんな俺でいいのなら好きにするといい。どうせ俺は、とっくの昔にあなたのものだ」
「っ、ああ、ヒース!」
 スタンリーが飛びつくようにして俺を抱き締める。俺の方からも控えめに……しかし確かに彼の体に手を回し、抱き締め返した。彼の表情が見たくて顔を上げれば向こうも同じ気持ちだったようで、バチリと視線が噛み合う。そのまま互いの視線に導かれるようにして、二人の唇が重なった。先程とは違う、互いに求め合う深いキスが始まる。
「ん、ふ……」
 スタンリーの大きな手が優しく俺の背中を這い回り、その手はだんだんと上に移動していって後頭部に辿り着いた。髪の中に差し込んだ指で頭の形を確かめながら、角度を変え深さを変え、彼は俺の唇を味わう。俺の方は彼の広い背中をまさぐり、キッチリベルトの中に仕舞われたシャツの裾を出すように、スタンリーが着込んでいる服をもどかしく引っ張った。ハア、と吐息を漏らせば、至近距離で覗き込んだ彼の瞳に熱が灯る。
「したい?」
「けど、ヒースは怪我をしてる」
「したいかって聞いてる」
「そりゃあ……したい、けど……」
「ふふ、俺もだよ」
 俺は気まずそうに目を逸らしたスタンリーに微笑みかけ、彼のシャツの裾をベルトから引き抜いた。剥き出しになった肌に指先を沿わせれば、スタンリーは面白いくらいに反応して体を震わせる。チラリと視線を横に……ベッドのある方に向けた。さっきはベッドに寝たくないと駄々を捏ねたのに、含む意味合いが変われば考えも変わるものだ。静かに席を立ってスタンリーの手を取り彼を導くようにしてベッドに向かう。スタンリーは余程俺の怪我が気になるのか少し躊躇っていたが、目顔で誘えば素直に足を踏み出す。
 俺はベッドに腰を下ろし、スタンリーの手を引いて彼が俺に覆い被さる形にさせた。俺を見下ろすスタンリーの喉仏がゴクリと上下する。欲望と思いやりの狭間でグラグラと心が揺れているのが手に取るように伝わってきた。俺の事を気遣ってくれているのは嬉しいが、お互いまだ若い男なんだ。変に我慢されても二人共辛いだけ。だから俺は、スタンリーの首に腕をかけて腰を持ち上げ彼の股間に擦り付け挑発した。それにスタンリーは低く唸って目を細める。
「こら、ヒース!」
「なあ、スタンリー。俺の怪我が気になるなら、とびきり優しく抱いてくれればいい。頭をちょっと殴られて手足を縛られただけだし、そこまで影響はないさ。だから、お願い」
「でも」
「スタンリー、お願い」
「……痛かったら言えよ。我慢だけはしないでくれ」
 してやったり、とうとうスタンリーが折れた! 俺は喜び勇んでスタンリーの服のボタンに手をかける。気持ちが通じあって喜びに昂った体を、早く密接に重ねたかった。スタンリーは微苦笑を浮かべたが拒絶はせず、優しい手付きで俺の服を脱がしにかかる。
 気持ちは焦るのにスタンリーの手は丁寧且つゆっくりだもんだから、まるで焦らされてるみたいだ。変に急かしても逆効果なので黙って受け入れるが、もどかしくて仕方がない。期待感で高鳴る心臓を持て余しながら、俺はとっくの昔に肌蹴てしまっているスタンリーの胸元をベタベタ触る。スタンリーが俺の服を全て取り除いた頃には、お互いに興奮し切って荒い息を零していた。スタンリーの手が俺の股間に伸びる。
「んっ、ふ……」
「ヒース、大丈夫か? 痛くない?」
「だ、大丈夫だから……、もっと……」
 痛くないように気遣ってくれるのは有難いが、擽るみたいな弱さで捏ねくり回されちゃたまらない。気持ちいいけど後一歩が足りなくて、腰を浮かせてモジモジさせる。スタンリーは俺にお強請りをされても躊躇っている様子だったが、やるせなさに涙すら浮かべて悶える俺を見て覚悟を決めたようだ。恐る恐る俺に触れる指先に込める力を強める。乳首を摘まれそこからビリッと痺れるような快感が生まれ、俺は大きく喘いでスタンリーの背中にしがみついた。
 スタンリーの耳元で喘ぎながら悶えていると、俺が本気で感じているのを理解してだんだん勝手が分かってきたのか、彼の手付きが熱っぽくなっていく。カクカクと揺れる腰がスタンリーのものと触れ、ゴリッと音を立てた。彼も興奮してるのだ。その事が嬉しくて、俺をより大胆にさせる。
「スタンリー、なんか後ろ濡らせるものないか?」
「ん……」
 スタンリーがベッドサイドをゴソゴソと弄って、とろみのある液体の入った小瓶を見つけ出す。流石王宮の客室。用意がいい。俺はスタンリーの背中に回していた腕を戻し、受けとったそれを手の上にぶちまけまぶして、裸にされている自分の下半身へと手を伸ばした。
「ふ、ぅ」
「俺がやろうか?」
「だ、い丈夫……。自分で、できる……」
「こんな時くらい甘えてくれよ」
 自分で後ろを解しているが、スタンリーに気持ちよくしてもらった直後なのでいまいち体の動きが覚束ない。それを察したスタンリーが残っていた小瓶の中身を俺の後ろに振りかけて、俺の手の上に自分の手をソッと重ねた。自分の指を突っ込んでいる上から更に、スタンリーがゆっくりと自分の指も差し込んだ。太さと圧迫感が増して、俺は喉を反らせた。
「くぅ……!」
「感じてる顔、滅茶苦茶興奮する。もっと見せて?」
 俺の顔にキスの雨を降らせながら、スタンリーは器用に指を動かし俺の体を弄ぶ。俺の指を導くようにして、スタンリーは俺の中を蹂躙した。頬に感じる彼の息が荒い。善がって動かした足にスタンリーの固くなったペニスが当たる。彼も俺も、もう限界が近かった。
「も、いれてぇ……!」
「ん……分かった」
 スタンリーが俺の指ごと後ろから引き抜いて一旦体を離し、乱雑に自分の衣服を寛げるとそのまま俺に覆い被さってくる。ガチガチに固くなったペニスの先端を狙いを定めて俺のアナルにくっつけ、少し先端を潜らせ一度息を整えてから……。
「ふー……。いれるぞ」
「ん……あっ」
 ゆっくりとスタンリーが俺の中に入って来る。凄まじい熱と質量が、俺の内側を慎重に拓いていった。彼は腰を小刻みに揺らしながらペニスを進めていき、俺と自分の境目を馴染ませながら俺の様子を具に観察しているようだった。性感帯を刺激され俺が甘い吐息を漏らし中を締め付ける度、上から悩ましげな低い唸りが降ってくる。俺はそれに酷く煽られ興奮した。
 そして、どれ程時間をかけただろう。気の遠くなるような長い時間をかけて、スタンリーの長大なペニスが俺の中に全て収まった。ハアハアと浅い息を繰り返す俺に彼は気遣わしげな表情を見せたが、俺が無言のまま目顔で続きを促すと唇に微笑みを乗せて抽挿を開始してくれる。後ろだけでも十分気持ちが良かったけれど、初めてなのを考慮してかスタンリーは俺の前にも手を伸ばす。指を搦めチュコチュコと音を立てて擦り、先端を虐め、その気持ちよさに俺は腰が抜けそうだ。
 揺さぶられる度、性感帯を抉られる度、奥を突かれる度、バチバチと快感が体内で弾けて足先に力が篭もり息が上がった。内腿が痙攣して、その震えが波及するかのようにスタンリーのペニスを食い締めた腸壁がキュウキュウと締め付けている。どこもかしこも感じ過ぎて意識が飛びそうだ。体を跳ねさせるだけでは逃しきれない快感が、だんだんと振り積もっていく。
「は、あっ、スタ、ンリィ……! 気持ち、ぃ、あっ、うっ!」
「はぁ……。俺も、気持ちいいよ。最高の気分だ」
「あっ、も、駄目、ぇ、あっ、あっ、んぅ──!」
「う、くっ──!」
 果てる瞬間、スタンリーの腕に縋りついて爪痕を残す程強く掴む。凄まじい性的快感が体内を駆け巡り、爪先が丸まって太腿がビリビリ痺れる程大きく痙攣して、俺のペニスからは滴る程に白濁が迸った。それと同時に締め付けた俺の体内で、スタンリーも限界を迎えたようだ。大きく膨張させた彼のペニスがブルリと震えたかと思ったら、低く呻いた後腹の奥に大量の熱がぶちまけられる。トプトプと断続的に注がれる恍惚感に浸りながら力を抜いたからだを重ね合い、俺達はシーツの海に沈みこんだ。
 スタンリーが無言で俺のこめかみにキスを落とす。それに応えて俺からも彼の唇にキスを贈った。なんだか酷く満たされている様だ。
「ヒース、どこか痛いところは?」
「ないよ。むしろ凄く気持ちよかったし、満たされた」
 鼻先を擦り合わせて甘えれば、スタンリーはクスクスと笑ってくれる。それに嬉しくなって下唇に噛み付くと、お返しに口を開けて噛み付くようにしてキスをされた。そうして暫く、密やかに忍び笑いをしながら戯れ合う。お互いに満足した頃に二人で互いの方を見て向かい合う形で横たわり、足を搦め腰を抱き締められながら落ち着く。俺がスタンリーの胸に寄り添って甘えれば、彼はかつてナイフでついた俺の傷を指先で確かめる様にソッと撫でた。
「気になる?」
「……正直な。これは俺の罪の証だから」
「違う、これはあなたから貰った誓いの証だ。あの日誓っただろ。あなたが生きたいと思えるように俺が頑張るんだと、それが無理なら責任をもって俺があなたを殺すんだと、あの日そう誓ったでしょう? この傷がある限り、何度でも思い出せる」
「それなら俺は今一度この傷に誓う。俺は生涯お前を守り通しもう誰にも傷つけさせない事、お前を幸せでいさせる事、そして愛し続ける事を、この傷に誓う」
 そう言ってスタンリーが俺の傷跡に恭しくキスを落とす。唇を離した後、彼は少し泣きそうな顔で俺の目を見てからソッと抱き締めてきた。万感の思いで俺も抱擁を返す。いつか彼も気がついてくれるといい。この傷は決して取り返しのつかない過ちの跡ではなく、紛う事なき祝福なんだと。だってこの傷がついたからこそ、あの日スタンリーは悲しみの暗闇から出てきて俺の事を見てくれたんだ。あの日初めてスタンリーがを見てくれた。その事を想えば、こんな傷くらい安いものだ。いつかスタンリーが、この傷さえも纏めて愛しいと思える日が来ればいい。図々しくも、俺はそう願った。
 あなたはもう俺の神様ではないけれど、それでいい。俺の人生にもう神様は要らないから。ただ、愛しい人が居てくれれば、それだけでいい。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?

名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。 そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________ ※ ・非王道気味 ・固定カプ予定は無い ・悲しい過去🐜 ・話の流れが遅い ・作者が話の進行悩み過ぎてる

ヤクザと捨て子

幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子 ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。 ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。

就職するところがない俺は男用のアダルトグッズの会社に就職しました

柊香
BL
倒産で職を失った俺はアダルトグッズ開発会社に就職!? しかも男用!? 好条件だから仕方なく入った会社だが慣れるとだんだん良くなってきて… 二作目です!

スライムパンツとスライムスーツで、イチャイチャしよう!

ミクリ21
BL
とある変態の話。

弟の可愛さに気づくまで

Sara
BL
弟に夜這いされて戸惑いながらも何だかんだ受け入れていくお兄ちゃん❤︎が描きたくて…

目が覚めたら囲まれてました

るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。 燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。 そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。 チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。 不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で! 独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。

運動会に盛り上がってしまった父兄

ミクリ21
BL
運動会で盛り上がってしまった男達の話。

美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない

すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。 実の親子による禁断の関係です。

処理中です...