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42.モノローグ2
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(あの人だ)
祐翔は視線だけを動かし、時々朝このコンビニに立ち寄る女の子を見た。
女の子、と言っても仕事をしているようだし、それに社会人で大学生ではなさそうだし、自分より年上なのかもしれないと思っていた。
(あ、けど同じ年くらいに見えるし……学生じゃないだけなのかも)
自分を基準にして物事を考えてはいけないと気づき、自分と同じ年でも働いている人はたくさんいるという現実を思い出した。
ここのバイトを始めてもう三年目だが、彼女は去年の春頃から見かけるようになったのだ。どうやらペットボトルのお茶についているおまけのクマのキャラクターが好きらしい、というのは買い物の傾向で気づいた。
おまけを集めていることに気づいて、
「このクマ、好きなんですね。可愛いですよね」
と声をかけたら、恥ずかしそうに俯いていた。
単純に、可愛い人だな、とは思っていた。
時々声をかけるが、彼女が何か言うことはなかった。
笑ったり頷いたりして、口は言葉の形を作るが、声を聞いたことはなかった。
言葉を紡げないのだ、と気づいたのは……去年の雨の日のことだった。
大学に授業を早く終え、バイトのシフトに入り、大雨が降ってきたので、店長に、
「看板とマット、出しといて」
と指示を受け、従うことにした。
看板、というのは、『床が滑りやすくなっていますのでご注意ください』という立て札のことで、マット、というのは入口にあるウェルカムマットの上にさらにもう一枚滑り止めで置くマットのことだった。初めてその指示を受けた頃は、何のことかがわからなかったが、店長の指示も今ではわかる。店長の言葉は少々足りないのだ。
雨宿りに来る人もいるし、急に降り出した雨のために傘を買いにくる人もいる。
急いで祐翔は準備しようと、バックヤードからそれらを運び出した。
「ゃっ……」
どんっ、という音がした。地響きはなかったが、荷物を持ったまま、その音のほうを向くと、女性が一人既に雨に濡れた床で滑ったのか倒れていた。
看板を放り、祐翔はその女性のもとへ駆けつけた。
「大丈夫ですか!? ……あ」
最近見かける可愛いあの女性だった。
羞恥からか、顔を真っ赤にして、祐翔の声に頷き、立ち上がろうとしたが、また滑って祐翔を押し倒した。
(おっと……)
むにゅりと柔らかな感触が自分の手の上にあった。
倒れ込んだ時に、支えようと伸ばした手を彼女の上半身が押しつぶしてしまったようだ。
「大丈夫ですか……」
(これは……もしや……ラッキースケベというやつ……)
しかも感触がわかるということは、結構なサイズがあるのではと思った。
(駄目だ!)
邪念を振り払い、祐翔は手を使わずに彼女ごと身体を起こした。
「あの……大丈夫ですか?」
その女性の足下に目をやると、黒いパンプスを履いていた。スニーカーであればそんなに滑ることはないのだろうが、パンプスは実は滑りやすいのだ。
彼女は急いで祐翔から離れ、謝った。
『すみません! すみません!』
口はすみません、と動いている。
だが声が聞こえない。
(あれ……?)
「自分は大丈夫ですけど、お客様が……」
彼女は仕事帰りなのか、タイトスカートに白いブラウス、そして薄いパーカーを羽織っていた。
「だい、じょうぶ、ですか?」
立ち上がった彼女を見下ろすと、真っ赤になって、何度も頭を下げていた。
よく見ると、彼女は濡れていて、パーカーも湿っているのがわかった。自転車でここを通ることは知っていたし、濡れながら帰っていたのだろうけれど、雨足が強くなったために一度避難をすることにした……おそらくはこのような流れだろう。
「あ、ちょっと待っててくださいね」
祐翔はバックヤードの自分のロッカーからタオルと傘を持ってくると、彼女に差し出した。
「あの、よかったらこれ、使ってください」
彼女は祐翔を見て、首を振った。
そしてポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、
《お借りできません》
と書いて見せた。
(え……? もしかして)
足下にある彼女のバッグを見ると、何かキーホルダーがかけられている。てっきりクマのキャラクターのものかと思っていたが、よく見ると「ヘルプマーク」というものだった。大学でもそのキーホルダーの周知に協賛する活動をしているサークルがあるのを思い出した。
(話せない……のかも……)
「いや、大丈夫。自分、傘はもう一本ありますんで。タオルもあります。あ、それはちゃんと洗濯した分なんで」
強引に彼女に押しつけると、
「じゃ、業務に戻りますんで」
と、立て札を置いて、マットを敷き、レジに戻った。
彼女はお辞儀をしたあと、チョコレートを一つ買って店を出ていったのだった。
その翌日にどうやら彼女が来たようだが、シフトに入っていなかったので、バイト仲間からのメッセージで自分を訪ねてきたことを知った。
その翌日にバイトに行くと、彼女は祐翔に、借りた傘と、洗濯済のタオルとおしゃれなお菓子を可愛い袋に入れて返して来てくれた。可愛い袋にタオルを入れて返すなんて、やっぱ可愛い女の子だなと思ったが、帰って開けてみるとお菓子が入っていたのには驚いた。
この人は気遣いをする人なんだ、と知った。きっと職場でも周りにそうしているのだろうと察した。
(社会人だし、そういうことができる……大人だよな)
春に別れた彼女にはそういうのはなかったな、と思わず比べてしまった。
彼女は、朝に来ることもあれば夕方にコンビニに買い物に来ることもあった。朝はあまりシフトには入らないのだが、早朝から学校に行くまでに入ることもたまにはある。
時々声をかけて、一方的に話すこともあった。
名前は──倉橋真緒。
住んでいる所はわからないが、通勤途中に寄っているのは確かだと思った。
時々、ネットショッピングの代金を支払いに来るので、名前を見て覚えてしまった。その他の個人情報は一切わからない。
気がつけば……彼女のことを気にかけるようになっていた。
ほのかな恋心に気づいてから長い時間が経過し、いつか、打ち明けたい、そう思っていたのに。
いつもは見かけない日曜日に、彼女が店に来たので、思い切って、連絡先の交換を申し出たというのに。
「これも一緒に会計」
彼女の後ろから年上であろう男が来て、商品を置いて、真緒が買ったお茶二本と一緒に会計をするように示唆してきたのだ。
その商品を見た後、思わず男をまじまじと見返してしまい、そのあとすぐに商品をスキャンした。
「会計は俺がするから、いいよ」
彼は笑いもせず、真緒に言った。
「袋はお持ちですか」
「そのままでいいです」
ペットボトルはそのままだが、その商品は紙袋に入れるようにと指導をうけているものだったので、茶色い紙袋に入れて、そこに置いた。
「……円です」
男は電子マネーで支払いをし、
「どうも」
とそれを手にして、ペットボトルは彼女に持たせた。
『何買ったんですか?』
手話で話しかけていた。
『ゴム』
男も手話で答えていた。
「もう今日の分は足りないだろうから」
コンドームを購入した男は、あの女の子の恋人だ、それはすぐにわかったことだった。
「…………」
ありがとうございました、も言えず、祐翔は口を噤んだ。
(なんだ……彼氏いたんだ……)
勝手にいないと思っていた。
自分にもチャンスがあると、勝手に思っていた。
本当に勝手だ。
あんなに可愛い子に男がいないわけがない。
健常者じゃないから、という気持ちがどこかにあった。
それは自分の最低な考えだと気づかされた。
(正直……普通の男だった……。でも自然に手話使ってたな……)
鈍器で頭を殴られたような衝撃、とはこういうことを言うのだろうか。
「おい、山尾、大丈夫か?」
「え? あ、ごめん」
もう一人のバイトが声をかけてきた。
彼は同じ大学の松永だ。
バイトを通じて仲良くなった友達でもある。
「さっきの女の子……山尾の……」
「……うん」
「やべ、男のほう、こっち見てた」
外の駐車場にいる男と松永の目が合ったらしい。
「助手席のドア開けてあげてる。……なんか、大人なんですけど……」
松永は感心していた。
「はは……ゴム買ってたしな」
「ああ、うん、みたいだな」
「大人だわ。あんな可愛い子でも、やっぱゴム使うようなことするんだな」
「そりゃ、まあ、恋人同士なら、なあ」
「俺、なんか牽制された? めっちゃ睨まれたし」
落ち込んでしまったが、彼女の恋人に睨まれたことは正直ショックだった。別にあんたの彼女を奪おうなんて思ってないのに、と。
「あんな可愛い彼女なら、そうなるんじゃないの?」
松永は、知らんけど、と付け足した。
あの二人は、ちゃんとコンドームをつけて避妊してセックスをしているのか、とそれについては感心した。当然のことではあるのだが。
(あの子も……あの人とやってるのか……。あんな可愛い子が、どんな顔して喘ぐのかな……。そもそも声が出ないのに、どんなふうに喘ぐのかな……)
脳内で他人の情事のことを考え始め、慌てて打ち消した。
「あんな可愛い子なら……もっとイケメンとかだったら納得いくんだけどなあ」
「あー……普通の男だったな」
「だろ?」
「それなら別に山尾でも良くね? 山尾も俺も普通だろ?」
「うん、まあ」
落ち込んでいたはずなのに、二人とも彼女の相手の男を貶めることばかり言ってしまっていることに気づいていなかった。
「いらっしゃいませ」
レジに来た客の対応のために、会話は途切れた。
客が続くとしばらく続くのはなぜだろう、不思議だ。
一段落し、祐翔と松永はまた駄弁りだした。
「例えばさあ……ほら、あの人。あれくらいイケメンならなあ、納得できる」
カゴに缶コーヒーをいくつも入れている若い男性を視線で追った。二十代半ばから後半くらいに見えるその男性は、スラックスに、上は作業服を来ている。胸元から白いカッターシャツとネクタイが見えた。
(日曜日なのに仕事かな)
明らかに仕事のような格好だ。
電話が鳴ったようで、端に寄り、スマホを取り出した。
「青葉建設古川です。どうも、お世話になります。えっ僕ですか? 今現場近くのコンビニですよ。……ええ、はい、買い物をしたらすぐ向かう予定です。……え? 日曜ですけど、それはお互い様ですよ。トラブルで現場作業が遅れましたしね、工期迫ってるのに無理を言ってるのはこちらですから。僕は担当ですから、土曜も日曜も関係ないですよ。……はい、そうですね。ええ、ええ、わかりました。すぐにそちらに向かいますからね」
その人は控えめに話してはいたが、祐翔たちにも声が聞こえてきた。
(建設会社の現場監督? 営業さんかなあ。あー、じゃああの大量のコーヒーって差し入れなんだろうな)
電話を終えたらしい男性はレジに来ると、
「袋もお願いします」
「承知しました」
間近で見ると、爽やかなイケメン男性で、かなり綺麗な顔立ちだった。
(かっこええ……)
「……円になります」
金額を言うと、男性は先程のとは違う別のスマホを取り出し、電子決済をした。
(わー、スマートだ)
こういう人が、あの子の相手ならわかるんだけどな、と祐翔は思った。
「またお越しくださいませ」
颯爽とその客は出て行った。
「なんかかっこよかった」
「俺もそう思った」
松永が頷いた。
「あの子にはあの彼氏がいいんだろうね。だから付き合ってるんだろうし」
手話を使っていたし、彼女と意志疎通をはかっているのは間違いない。手話を彼女と出会ってから使うようになったのか、その前からなのか、彼女に近づきたくて覚えたのか……それはわからないし、どうでもいいことだ。
普通の男、と自分達が思っているだけで、彼女にとっては最高の男性なのだろう。彼女を見る目がとても優しかった……自分のことは鋭い目で見ていたのに。彼女もまたその普通の男を見上げる目がきらきらしているように見えた。
(俺だって、あの子と話したくて覚えたし。超不純だし)
「もう、どうでもよくなった。俺も俺に相応しい彼女を見つける」
「お、切り替え早いな」
「きっと見つかる」
「よし、じゃあ、今度飲もう。部屋でだけど」
「うん、店飲みは今の俺らには無理」
まずはバイトだ、と二人は顔を見合わせた。
祐翔は視線だけを動かし、時々朝このコンビニに立ち寄る女の子を見た。
女の子、と言っても仕事をしているようだし、それに社会人で大学生ではなさそうだし、自分より年上なのかもしれないと思っていた。
(あ、けど同じ年くらいに見えるし……学生じゃないだけなのかも)
自分を基準にして物事を考えてはいけないと気づき、自分と同じ年でも働いている人はたくさんいるという現実を思い出した。
ここのバイトを始めてもう三年目だが、彼女は去年の春頃から見かけるようになったのだ。どうやらペットボトルのお茶についているおまけのクマのキャラクターが好きらしい、というのは買い物の傾向で気づいた。
おまけを集めていることに気づいて、
「このクマ、好きなんですね。可愛いですよね」
と声をかけたら、恥ずかしそうに俯いていた。
単純に、可愛い人だな、とは思っていた。
時々声をかけるが、彼女が何か言うことはなかった。
笑ったり頷いたりして、口は言葉の形を作るが、声を聞いたことはなかった。
言葉を紡げないのだ、と気づいたのは……去年の雨の日のことだった。
大学に授業を早く終え、バイトのシフトに入り、大雨が降ってきたので、店長に、
「看板とマット、出しといて」
と指示を受け、従うことにした。
看板、というのは、『床が滑りやすくなっていますのでご注意ください』という立て札のことで、マット、というのは入口にあるウェルカムマットの上にさらにもう一枚滑り止めで置くマットのことだった。初めてその指示を受けた頃は、何のことかがわからなかったが、店長の指示も今ではわかる。店長の言葉は少々足りないのだ。
雨宿りに来る人もいるし、急に降り出した雨のために傘を買いにくる人もいる。
急いで祐翔は準備しようと、バックヤードからそれらを運び出した。
「ゃっ……」
どんっ、という音がした。地響きはなかったが、荷物を持ったまま、その音のほうを向くと、女性が一人既に雨に濡れた床で滑ったのか倒れていた。
看板を放り、祐翔はその女性のもとへ駆けつけた。
「大丈夫ですか!? ……あ」
最近見かける可愛いあの女性だった。
羞恥からか、顔を真っ赤にして、祐翔の声に頷き、立ち上がろうとしたが、また滑って祐翔を押し倒した。
(おっと……)
むにゅりと柔らかな感触が自分の手の上にあった。
倒れ込んだ時に、支えようと伸ばした手を彼女の上半身が押しつぶしてしまったようだ。
「大丈夫ですか……」
(これは……もしや……ラッキースケベというやつ……)
しかも感触がわかるということは、結構なサイズがあるのではと思った。
(駄目だ!)
邪念を振り払い、祐翔は手を使わずに彼女ごと身体を起こした。
「あの……大丈夫ですか?」
その女性の足下に目をやると、黒いパンプスを履いていた。スニーカーであればそんなに滑ることはないのだろうが、パンプスは実は滑りやすいのだ。
彼女は急いで祐翔から離れ、謝った。
『すみません! すみません!』
口はすみません、と動いている。
だが声が聞こえない。
(あれ……?)
「自分は大丈夫ですけど、お客様が……」
彼女は仕事帰りなのか、タイトスカートに白いブラウス、そして薄いパーカーを羽織っていた。
「だい、じょうぶ、ですか?」
立ち上がった彼女を見下ろすと、真っ赤になって、何度も頭を下げていた。
よく見ると、彼女は濡れていて、パーカーも湿っているのがわかった。自転車でここを通ることは知っていたし、濡れながら帰っていたのだろうけれど、雨足が強くなったために一度避難をすることにした……おそらくはこのような流れだろう。
「あ、ちょっと待っててくださいね」
祐翔はバックヤードの自分のロッカーからタオルと傘を持ってくると、彼女に差し出した。
「あの、よかったらこれ、使ってください」
彼女は祐翔を見て、首を振った。
そしてポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、
《お借りできません》
と書いて見せた。
(え……? もしかして)
足下にある彼女のバッグを見ると、何かキーホルダーがかけられている。てっきりクマのキャラクターのものかと思っていたが、よく見ると「ヘルプマーク」というものだった。大学でもそのキーホルダーの周知に協賛する活動をしているサークルがあるのを思い出した。
(話せない……のかも……)
「いや、大丈夫。自分、傘はもう一本ありますんで。タオルもあります。あ、それはちゃんと洗濯した分なんで」
強引に彼女に押しつけると、
「じゃ、業務に戻りますんで」
と、立て札を置いて、マットを敷き、レジに戻った。
彼女はお辞儀をしたあと、チョコレートを一つ買って店を出ていったのだった。
その翌日にどうやら彼女が来たようだが、シフトに入っていなかったので、バイト仲間からのメッセージで自分を訪ねてきたことを知った。
その翌日にバイトに行くと、彼女は祐翔に、借りた傘と、洗濯済のタオルとおしゃれなお菓子を可愛い袋に入れて返して来てくれた。可愛い袋にタオルを入れて返すなんて、やっぱ可愛い女の子だなと思ったが、帰って開けてみるとお菓子が入っていたのには驚いた。
この人は気遣いをする人なんだ、と知った。きっと職場でも周りにそうしているのだろうと察した。
(社会人だし、そういうことができる……大人だよな)
春に別れた彼女にはそういうのはなかったな、と思わず比べてしまった。
彼女は、朝に来ることもあれば夕方にコンビニに買い物に来ることもあった。朝はあまりシフトには入らないのだが、早朝から学校に行くまでに入ることもたまにはある。
時々声をかけて、一方的に話すこともあった。
名前は──倉橋真緒。
住んでいる所はわからないが、通勤途中に寄っているのは確かだと思った。
時々、ネットショッピングの代金を支払いに来るので、名前を見て覚えてしまった。その他の個人情報は一切わからない。
気がつけば……彼女のことを気にかけるようになっていた。
ほのかな恋心に気づいてから長い時間が経過し、いつか、打ち明けたい、そう思っていたのに。
いつもは見かけない日曜日に、彼女が店に来たので、思い切って、連絡先の交換を申し出たというのに。
「これも一緒に会計」
彼女の後ろから年上であろう男が来て、商品を置いて、真緒が買ったお茶二本と一緒に会計をするように示唆してきたのだ。
その商品を見た後、思わず男をまじまじと見返してしまい、そのあとすぐに商品をスキャンした。
「会計は俺がするから、いいよ」
彼は笑いもせず、真緒に言った。
「袋はお持ちですか」
「そのままでいいです」
ペットボトルはそのままだが、その商品は紙袋に入れるようにと指導をうけているものだったので、茶色い紙袋に入れて、そこに置いた。
「……円です」
男は電子マネーで支払いをし、
「どうも」
とそれを手にして、ペットボトルは彼女に持たせた。
『何買ったんですか?』
手話で話しかけていた。
『ゴム』
男も手話で答えていた。
「もう今日の分は足りないだろうから」
コンドームを購入した男は、あの女の子の恋人だ、それはすぐにわかったことだった。
「…………」
ありがとうございました、も言えず、祐翔は口を噤んだ。
(なんだ……彼氏いたんだ……)
勝手にいないと思っていた。
自分にもチャンスがあると、勝手に思っていた。
本当に勝手だ。
あんなに可愛い子に男がいないわけがない。
健常者じゃないから、という気持ちがどこかにあった。
それは自分の最低な考えだと気づかされた。
(正直……普通の男だった……。でも自然に手話使ってたな……)
鈍器で頭を殴られたような衝撃、とはこういうことを言うのだろうか。
「おい、山尾、大丈夫か?」
「え? あ、ごめん」
もう一人のバイトが声をかけてきた。
彼は同じ大学の松永だ。
バイトを通じて仲良くなった友達でもある。
「さっきの女の子……山尾の……」
「……うん」
「やべ、男のほう、こっち見てた」
外の駐車場にいる男と松永の目が合ったらしい。
「助手席のドア開けてあげてる。……なんか、大人なんですけど……」
松永は感心していた。
「はは……ゴム買ってたしな」
「ああ、うん、みたいだな」
「大人だわ。あんな可愛い子でも、やっぱゴム使うようなことするんだな」
「そりゃ、まあ、恋人同士なら、なあ」
「俺、なんか牽制された? めっちゃ睨まれたし」
落ち込んでしまったが、彼女の恋人に睨まれたことは正直ショックだった。別にあんたの彼女を奪おうなんて思ってないのに、と。
「あんな可愛い彼女なら、そうなるんじゃないの?」
松永は、知らんけど、と付け足した。
あの二人は、ちゃんとコンドームをつけて避妊してセックスをしているのか、とそれについては感心した。当然のことではあるのだが。
(あの子も……あの人とやってるのか……。あんな可愛い子が、どんな顔して喘ぐのかな……。そもそも声が出ないのに、どんなふうに喘ぐのかな……)
脳内で他人の情事のことを考え始め、慌てて打ち消した。
「あんな可愛い子なら……もっとイケメンとかだったら納得いくんだけどなあ」
「あー……普通の男だったな」
「だろ?」
「それなら別に山尾でも良くね? 山尾も俺も普通だろ?」
「うん、まあ」
落ち込んでいたはずなのに、二人とも彼女の相手の男を貶めることばかり言ってしまっていることに気づいていなかった。
「いらっしゃいませ」
レジに来た客の対応のために、会話は途切れた。
客が続くとしばらく続くのはなぜだろう、不思議だ。
一段落し、祐翔と松永はまた駄弁りだした。
「例えばさあ……ほら、あの人。あれくらいイケメンならなあ、納得できる」
カゴに缶コーヒーをいくつも入れている若い男性を視線で追った。二十代半ばから後半くらいに見えるその男性は、スラックスに、上は作業服を来ている。胸元から白いカッターシャツとネクタイが見えた。
(日曜日なのに仕事かな)
明らかに仕事のような格好だ。
電話が鳴ったようで、端に寄り、スマホを取り出した。
「青葉建設古川です。どうも、お世話になります。えっ僕ですか? 今現場近くのコンビニですよ。……ええ、はい、買い物をしたらすぐ向かう予定です。……え? 日曜ですけど、それはお互い様ですよ。トラブルで現場作業が遅れましたしね、工期迫ってるのに無理を言ってるのはこちらですから。僕は担当ですから、土曜も日曜も関係ないですよ。……はい、そうですね。ええ、ええ、わかりました。すぐにそちらに向かいますからね」
その人は控えめに話してはいたが、祐翔たちにも声が聞こえてきた。
(建設会社の現場監督? 営業さんかなあ。あー、じゃああの大量のコーヒーって差し入れなんだろうな)
電話を終えたらしい男性はレジに来ると、
「袋もお願いします」
「承知しました」
間近で見ると、爽やかなイケメン男性で、かなり綺麗な顔立ちだった。
(かっこええ……)
「……円になります」
金額を言うと、男性は先程のとは違う別のスマホを取り出し、電子決済をした。
(わー、スマートだ)
こういう人が、あの子の相手ならわかるんだけどな、と祐翔は思った。
「またお越しくださいませ」
颯爽とその客は出て行った。
「なんかかっこよかった」
「俺もそう思った」
松永が頷いた。
「あの子にはあの彼氏がいいんだろうね。だから付き合ってるんだろうし」
手話を使っていたし、彼女と意志疎通をはかっているのは間違いない。手話を彼女と出会ってから使うようになったのか、その前からなのか、彼女に近づきたくて覚えたのか……それはわからないし、どうでもいいことだ。
普通の男、と自分達が思っているだけで、彼女にとっては最高の男性なのだろう。彼女を見る目がとても優しかった……自分のことは鋭い目で見ていたのに。彼女もまたその普通の男を見上げる目がきらきらしているように見えた。
(俺だって、あの子と話したくて覚えたし。超不純だし)
「もう、どうでもよくなった。俺も俺に相応しい彼女を見つける」
「お、切り替え早いな」
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