大人の恋愛の始め方

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【第3部】祐策編

1.可愛いひと

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 宮城祐策みやぎゆうさくは神崎会長のコネで建築会社に就職した。
 何の資格も学もなく、体力しかないといった自分に、会長が就職口を見つけてきてくれた先だ。恐らく会長の知り合いか経営者仲間のつてだと思われる。
 就職して三年、ヤクザから足を洗って三年ということだ。つまりあと二年ほどで、縛りがなくなる。
 もう年齢は二十七才になってしまった。
 その間、特定の彼女がいたことはない。
 女関係といえば、仲間のトモという男がとても女にモテる男で、おまけのように祐策を誘ってきた女と寝るくらいだ。だがトモは今は気に入った女が出来たようで、遊ぶには遊ぶが、積極的にそういうことは絶ってしまい、今ではおこぼれもない。祐策は口下手で、同居人同士だとわいわいできるが、親しくない間柄だと難しい。ましてや女性とはどう接したらいいかがわからない。
 トモが「女はどうせ裏切るから、寝るだけの相手でいい」と言っていた。しかしそんなトモも一人の女に入れ込んでからは変わってしまった。一体どうすればいいのかと思ってしまう祐策だ。

 ただ……そんな祐策は職場の事務員が少し気になっていた。
 自分より先に入社しているのは間違いない。同じ年齢だという噂はきいていた。
 雪野ゆきの真穂子まほこ
 皆が「ゆきのちゃん」と言うので、てっきり下の名前が「ゆきの」なのかと思っていた。
 特別美人というわけでも、反対に不細工というわけでもなく、一般的な可愛らしさで、おそらくどこにでもいそうな女性だ。ただとびきり明るく、女性社員の少ない職場ではみんなに優しいアイドルのような存在だ。おっさんたちのセクハラにもびくともしない。
 一言でいえば「可愛い」。
 おっさんからしてみれば、娘や妹のようなポジションなのだろう。
 祐策も「可愛い女性」と思いつつも、自分の過去のこともあり、積極的に会話をすることはなかった。仕事で怒鳴られたりもするが、ひたすら耐えている。世間は甘くないぞ、と会長がしきりに言っていたことを痛感する。
 凹みそうなそんな時でも真穂子は優しいし、なんだかんだ同僚達はオンオフを切り替えてくる。自分にはとてもそうできない、と思っていたが、割り切っていくことができるようになっていた。

「宮城さん、ボタン取れてますね」
「え?」
 祐策の作業服の右袖のボタンが無くなっていた。
「ほんとだ。まあ、なんとかする」
「これから現場ですよね」
「手袋するし、隠れるからいいよ」
「五分時間があれば縫いますよ」
「え」
 祐策はボタンくらい、と思っていた。
 縫うこともなく放置しようと考えていた。裁縫道具なんて持っていないし、どうしようもない。しかし真穂子は引き出しからソーイングセットを取り出し、祐策に作業服を脱ぐように指示し、それを受け取るとすぐに縫ってくれた。
「雪野ちゃん、俺のも」
 一緒に現場にいくおっさんが言う。
「嫌ですよ。奥さんに縫ってもらえばいいじゃないですか」
「えー女房がやってくれるわけないじゃん」
「松月堂のどら焼きで手を打ちましょうか」
「やった。……って、松月堂のどら焼きって個数限定で並んでも買えないやつじゃん」
「じゃあ、ボタン付けは自分でするか、奥様にお願いしてくださいね」
 はいできましたよ、と真穂子は作業服を祐策に着せてくれた。
「ありがとう」
「どうしたしまして」
 少し照れくさい。
「行ってらっしゃい」
「い、行ってきます……」
 真穂子の言葉がいつも以上に嬉しく感じた。行ってらっしゃい、なんて言葉を言われたことがない祐策はどぎまぎしてしまう。
 真穂子は長い黒髪をひとつに束ねて、地味なピアスをしている。清楚な女性だと祐策は思っている。自分には縁のないタイプの女性だと思う。これまで特定の女性がいたことはほぼないが、あまり素行のよくないタイプの女性ばかりだった。
 時折交わす真穂子との世間話、そして平等に、しかしおっさんどもよりは親切にしてくれる彼女にの笑顔には癒された。きっと特別な感情はなくても、祐策には充分だった。


 松月堂のどら焼き、がどんなものなのか気になり、調べて並んで買うことにした。
 同居人の一人、市川和宏に尋ねると「ものすごく人気なので早く並んだほうがいいですよ」と言われ正直焦った。日曜に和宏が並ぶのを手伝ってくれて、いくつか買うことができた。同居人四人分と、真穂子の分二つを購入する。祐策は自分のはいらないよと和宏に言った。購入には一人三個までの個数制限があったので、それで落ち着いたのだった。
 邸宅に戻ると、皆と食べることにした。
 和宏が、
「俺と半分こしましょうよ」
 と半分に切って分けてくれた。
「いいよ、せっかくカズが並んでくれたんだから」
「だからですよ。美味しいものは一緒に食べましょうよ」
 和宏の優しさが嬉しく感じた。
 誰かと分けるということは考えていなかった。自分が食べなければ数が足りる、そう思っていた。
(勉強になった)

 翌日、祐策は真穂子にどら焼きを購入して持って行った。
 職場のおっさんたちにバレないようにこそりと渡した。
「えっ!?」
 真穂子はとても喜んでくれた。
「ボタン一つでこんな報酬いただいちゃって……」
「いや、でも、俺とても助かったし」
「高くついちゃいましたね」
「……全然」
 祐策はおずおずと言う。
「ボタン、あと百個くらい縫い付けても足りないですよ」
「じゃ、じゃあ、またつけてもらうかもしれないってことで……」
「いいですよ」
 にこにこと笑う真穂子の笑顔に、祐策はどぎまぎして目を逸らしたのだった。


 喜んでもらえましたか、と和宏に言われ、祐策は頷いた。
「めちゃくちゃ喜んでくれて、せっかくカズが半分くれたのに、今日、一つずつ一緒に食べたんだ。ごめんな」
「謝る必要なんてないですよ。一つずつ、ってその人は分けてくれたんですね」
「うん。なんかカズみたいなこと言われた」
「俺ですか?」
「美味しいものは共有したらもっと美味しいでしょ、って言うんだよな」
「素敵な方ですね」
「……俺もそう思う」
 二人で食べたことを咎めることも羨むこともなく、彼は喜んでくれた。
 和宏はとてもいい男だ。
「祐策さんは好きなんですよね、その人のこと」
「……ちがっ……」
「隠さなくてもいいと思いますよ」
 バレている、祐策は口を噤んだ。
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